アニミズム
室内の空気が張り詰めていた。
炉の火を背に、アシカビが五百円玉を指先で転がす。金属の縁に炎が映り、面の上で火が踊った。
この時代の技術では作れない――そう確信しながら、私は息を潜めて彼の視線を待った。隣のユキヒコも、肩に力が入っている。どうだ、俺たちを“神の使い”と認めろ、と胸の内で押し込む。
やがてアシカビはコインを布の上に静かに置き、こちらを見た。
「……ふむ。これが神との契りの証、確かに受け取った」
胸の奥に、安堵の熱がさっと広がる。
「して、タカシとやら。お主を遣わした神とは?」
一瞬、時が止まった。部屋の温度がわずかに上がり、妻たちや従者の息づかいが消える。
「――鹿の神。鹿光様です」
沈黙。
次の瞬間、周囲の表情が変わった。驚き――それに、懐かしさ。
ドグリが身を乗り出す。「やっぱり、そうやっちゃが!」
マグリもうなずく。「鹿の神様じゃ……間違いなか」
反応が、私の想像と違う。アシカビは口元に笑みを浮かべた。
「なるほど。お主らの神は“鹿光”であったか」
「!?」と声にならない声がのどで揺れる。
外の山影が赤く染まり、窓の隙間から光が差し込んだ。
「昨夜、山が天を突くように輝いた。あれは――鹿光のお出ましか?」
「ねえ、お父さん。何のこと?」とユキヒコ。
「昨日、実は……鹿光が現れたんだ」
白い閃光、胸の内側に届いた声――昨夜の光景が脳裏を走る。夢じゃなかった。いや、それ以前に、彼らは鹿光を“知っている”。
「アシカビ殿。鹿光様をご存じなのですか?」
アシカビは頷いた。
「俺が子どもの頃から、何度も姿を現されてきた神じゃ。村では社に祀り、代々拝んでいる」
言葉が出ない。鹿光は、この土地の信仰の中枢にいる。
アシカビが立ち上がる。
「ちょうど良い。今宵は祭りだ。そなたらを鹿光の社へ案内しよう」
カヤ姫が微笑んでユキヒコの手を取る。「ユキヒコ、一緒に行こう」
「う、うん」
私は立ち上がった。鼓動が妙に速い。鹿光が神として祀られている――その事実が、足元を軽く浮かせた。
◇
夕暮れ。赤い空に篝火が灯り、山裾の社が薄明の中に浮かび上がる。
「ここが我らの神の杜じゃ」
カヤ姫の声が風に混じる。大きな御神木、石を積んだ祠、供物の煙。森そのものが、息をする神のようだ。
猪の頭蓋骨が置かれた社。「これは山の神。猪の社じゃ」
蛇の絵が描かれた大石。「これは川の神。大蛇が姿を変えたものと言われておる」
灰を供えた祠。「これは火の神。竈火の社じゃ」
「神さまって、こんなにたくさんいるんだ……」ユキヒコが目を丸くする。
カヤ姫が微笑む。「この世のあらゆるものに神は宿る。だから祀るんよ」
私は深く頷いた。アニミズムーー自然のすべてに霊が宿る――この思想は、のちに“八百万の神”と呼ばれるものの源だ。ここでは教科書の語が、目の前の生活として燃えている。
アシカビが振り返り、社の前で立ち止まる。
「そして、これが鹿光の社じゃ」
祠の中、立派な鹿角が掲げられていた。
「……これが、鹿光の角なのですか?」
「そう伝えられておる」
息を呑む。鹿光は伝承の核に置かれている。
「鹿光は、鹿を狩ると怒ります。仲間を奪うなと」
アシカビは苦笑した。「ならば俺は祟られるかもしれんな。鹿を幾度も狩ってきたからな」
「……生きるために、仕方ないことです」
「ふむ……やはり、不思議な男だ」
◇
篝火が強くなり、私とアシカビは一段高い石の上で杯を交わした。
「そなたは奇妙な衣をまとい、見たこともないカネを持つ。さらに“光を放つ術”を使うと聞いた」
後ろでドグリとマグリが、気まずそうに頬を掻く。
「だが威張りもせず、こうして我らと膝を突き合わせている」
アシカビの視線がまっすぐ刺さる。
「そなたは、一体何者だ?」
「……お父さんは、いい人なんだ!」
ユキヒコの言葉に、私は苦笑してその頭を撫でた。冴えないおっさんだよ、本当は。
そのとき、社の奥でざわめき。篝火の影が裂け、重い足音が近づいてくる。
鋭い眼光の男が現れた。黒髪を束ね、腕には刺青。
「オサよ! 勝手によそ者を村に入れるとは、どういう了見だ」
副族長――ナガツ。二人の部下を従えて歩み出る。
アシカビが目を細めた。「ナガツか……」
その背で、カヤ姫がユキヒコの後ろに身を引いた。怯えが走る。
ユキヒコがとっさに前に出て、彼女を庇った。
ナガツの視線が少年を舐め、すぐにアシカビへ戻る。
「この村の長は俺だ。俺が客人として呼んだのだ。何の問題がある」
「問題だらけだ」
ナガツの声が篝火を震わせる。
「聞けば、その者たちは異教の神の使いだとか。そんな者を村に入れることこそが――」
目がギラリと光った。
「アマテラス様への叛意と見なされるのだ!」
その名に、息が止まる。
太陽神、皇祖の神。
この地に、すでに“アマテラス信仰”が根を張り始めている――?
篝火の火が激しく揺れた。
神々は共に在るのか、否か。
この夜、火の粉の向こうに、見えない衝突の火種が確かに灯った。
◇




