予言者の目覚め
「……鹿光!」
その名を呼んだ瞬間、あたりの空気が震えた。
闇の中に光が走り、鹿の姿をした神が立っていた。
「しばらく見ていたが――ずいぶん情けないことだな」
低く響く声。
背筋に冷たいものが走る。
「……情けない?」
「しかも貴様、何度も我が同族の鹿を殺そうと狙ったな!」
あの夜の光景が頭に浮かぶ。
矢を放ち、逃げる鹿の群れ。
私は歯を食いしばった。
「生きるために必死なんだ。鹿もクソもあるか!」
鹿光の金色の瞳が細くなる。
「ぬぅ……」
「それより分かっただろう? 私がこの世界でできることなんか、何もないんだよ」
「……何だと?」
「まだ若いユキヒコはなんとかなるだろう。だが、私はもう――」
脳裏に、ドグリとマグリに囲まれて弓を習うユキヒコの笑顔が浮かぶ。
「俺みたいなおっさんが、この時代で一体何の役に立つ?」
しばらく沈黙が流れた。
やがて、鹿光は静かに言った。
「役に立つぞ。むしろ“お主にしかできぬこと”ばかりだ」
「……は?」
「お主は未来を知る“予言者”だ」
「予言者?」
「そうだ。この地では神のように振る舞える。お主の知識は、この時代の者たちにとって奇跡に等しい」
「何言ってんだ。
この時代の日本のことなんて、現代でもまだ分かってないんだぞ!」
私は声を荒げた。
「せいぜい分かっているのは『魏志倭人伝』の断片的な記述くらいだ!」
――魏志倭人伝。三世紀の中国史書『三国志』の一部。倭国の地理や風俗を記した文献。
「あるいは、日本書紀や古事記の神話の中に、この時代の影が残っているとは言われている。
だがどこまでが創作で、どこまでが史実なのかも分からない!」
――『古事記』『日本書紀』。八世紀に編まれた日本最古の歴史書。
神話と史実が混ざりあった、真実と虚構の境界線。
鹿光の瞳がさらに輝きを増す。
「だが今、お主はその“時代”にいる。
ならば、どこまでが創作で、どこまでが事実なのか――確かめられるではないか?」
「……!」
「しかもお主は、既にこの地の言葉を解しておる。
ならば真実を、民から直接聞けば良かろう」
圧倒され、言葉を失った。
(……私が、“予言者”?)
鹿光の声が、胸の奥に響く。
「お主は“未来の知”を持つ者。神の子を導く者だ」
◇
ふと、ある疑念が浮かんだ。
「……待て。言葉が分かるようになったのは、お前のせいか?」
「いかにも」
鹿光は頷いた。
そして、ゆっくりと手を掲げた。
その手の中に――光るスマホが浮かび上がっていた。
「そして、さらなる神力をお主に授けよう」
光が端末の中で蠢く。
鹿光が何かを唱えると、スマホの表面に金の文様が走った。
「これでよし」
光が止み、鹿光はそれを差し出した。
「これに我が神力を込めた。
未来の知を思い出す“鍵”となるはずだ」
「鍵……?」
「お主はこの力で、見えぬものを見よ」
鹿光が再び光をまとった。
まばゆい閃光に目を覆う。
「うわっ……!」
「お主は予言者として、この地の人々と接するだろう。
予言の力で味方を作り、我が“命”を果たせ」
「命……?」
光の中で、鹿光の輪郭がぼやけていく。
「忘れたのか? お主の使命は――」
その声が胸に突き刺さった。
◇
「はっ!」
私は飛び起きた。
車の中。朝の光が差し込んでいる。
隣ではユキヒコが静かに眠っていた。
「……夢、か?」
ぼんやりとした頭で、コンソールからスマホを取り出す。
(神の力……くだらない。そもそも電池なんて――)
だが、画面を見た瞬間、息が止まった。
――バッテリー100%。
「……は?」
◇
その日。
私は車の外に出ていた。
ユキヒコは弓を持ち、矢を放つ練習をしている。
「お父さん、ずっとスマホいじってるね」
「いや、驚かないか? もう数週間経つのに電池が減ってないんだ」
「でも電波もGPSも使えないんでしょ」
「だが、昔ダウンロードした日本地図や電子書籍が――」
「おーい! 迎えに来たっちゃが!」
ドグリの声。
長身の影が森の入り口に立っていた。
その横には、いつものように笑うマグリ。
「ドグリ! マグリ!」
ユキヒコが走っていく。
――彼は夢のことを覚えていなかった。
スマホにも興味を示さない。
(私だけが、現代に取り残されたような気がする)
マグリが笑いながら言った。
「備えは出来ちょっか? けっこう険しい道のりやけね」
「大丈夫。ね、お父さん?」
「ああ」
私たちは四人で森を歩き出した。
◇
――今日、ついに我々は“村”へと迎えられることになった。
彼らヒムカの民とは何者なのか。
数多ある邪馬台国の所在地説のひとつに、宮崎説がある。
もしやこれから向かう場所が邪馬台国の一角という事も…
森の奥で、ふと立ち止まった。
鹿光の声が蘇る。
「この息子を王へと導き、育てるがよい」
私は前を歩く息子の背中を見た。
10歳なのに堂々としている。
そのとき、胸の奥で何かが静かに燃え始めた。




