第9話「朝の花とやわらかな光」
朝の食卓は、ひさしぶりに穏やかな温度に包まれていた。
ニコはもう熱も下がり、薄い上着を羽織っただけの姿で、マーシアの正面に座っていた。
湯気の立つ紅茶と、小さな果物の皿。焼きたてのパンの香ばしい匂いが、窓の向こうの光と一緒に流れ込んでいる。
「……昨日は、ごめんね。僕、ひとことも言えずに倒れてて」
「いいえ。お元気になられて、よかったです」
「マーシアが来てくれたって、あとでコンラートから聞いたんだ。……覚えてないの、惜しいくらいだよ」
彼はいつもの調子でそう言ったが、声の底には、ほんの少しだけ照れの気配が混ざっていた。
「熱が出ると、身体だけじゃなくて、心も弱くなるね」
「……だからこそ、素直な気持ちが出るのかもしれません」
そう言ったマーシアの声に、ニコはきょとんとして、それからふわりと笑った。
「……たぶん、そうかもしれないね」
*
朝食を終えたあと、ふたりで中庭に出た。
澄んだ空気に朝露の香りが混じり、草の葉がほんのりと光を反射していた。
「ねえ、見て」
ニコが指さしたのは、庭の端にある花壇。
そこには――紫の花が、ゆらりと風に揺れて咲いていた。
「……アメジストセージが咲いたんですね」
「うん。庭師さんが、昨日の夕方に“そろそろ咲きますよ”って教えてくれたんだ。
なんだか、君のことを見てるみたいで、嬉しかった」
「……どうしてですか?」
「優しいのに、少しだけ遠くて、風に揺れてて、でもちゃんとそこにある感じ」
マーシアは目を伏せて、小さく笑った。
「私も、この花、好きです」
「マーシアが好きなもの、いっぱいこの庭に増やしていこうよ」
「……そんなことをしたら、この庭、花だらけになります」
「それでいい。君の“好き”で埋まってる庭なんて、きっと素敵だ」
冗談めいた言い方だったけれど、どこか本気に聞こえた。
マーシアは、答えずに小さく頷いた。
*
そのあと、ふたりはしばらく黙ったまま庭を歩いた。
何かを語らなくても、言葉にならないものは、たくさんあった。
咲いたばかりの花を眺めて、空の色を見上げて――
マーシアは、ふと思った。
(……きっと、この人も、自分を置いてきたことがある)
その人がいま、自分の隣にいる。
それだけで、今日は少しだけ、やさしい日だった。