第8話「季節の熱と、静かな癒し」
朝食の席に、ニコラウスの姿はなかった。
欠席の知らせは、老家令の口から静かに告げられた。
「今朝より、ニコさまは少々ご体調を崩されておりまして。
季節の変わり目には、よくこうした熱を出されるのです。深刻なものではございません」
それを聞いて、マーシアは少しだけ迷ったあと、小さく口を開いた。
「……お見舞いに伺っても、よろしいでしょうか?」
老家令は一瞬だけ目を細め、すぐに「はい」と頭を下げた。
*
ニコの私室は、思っていたよりも静かだった。
窓のカーテンは半分だけ閉じられ、光もやわらかい。
寝台に横たわったニコは、氷嚢を頭にのせたまま、申し訳なさそうにこちらを見上げた。
「ごめんね、マーシア。……僕、季節が変わる時期に、よく熱を出すんだ。
病気っていうほどじゃないんだけど、体が言うことを聞かなくなるみたいで」
「お邪魔でなければ、お話し相手になります」
そう告げると、ニコは少しだけ目を見開いて、それから、ふっと表情を緩めた。
「ありがとう。……本当に、ありがとう」
*
しばらくのあいだ、雑談のようなことをしていた。
けれど、それが途切れた沈黙のなか、ニコはぽつりと語り出した。
「僕ね、小さいころに両親を亡くしたんだ。……王位継承に関する騒ぎで、暗殺された」
マーシアは何も言わず、ただ頷く。
「そのあとすぐに公爵位を継いで、まわりの大人たちから守られる立場になった。
だから、誰も本当のことを言わない。誰が味方かも分からない。
そうしてるうちに、なんとなく、誰の言葉も心に入ってこなくなったんだ」
窓の外で、風が葉を揺らす音が聞こえた。
「僕ね、愛想はいいほうだし、誰とでも笑って話せる。
でも……ほんとは、ずっと自分から人を遠ざけてる。傷つくのが怖くて。
わかってるんだ。自分で距離をとっておいて、『ひとりだ』なんて思ってるの、変だよね」
マーシアは、少しだけ身体を寄せて言った。
「……でも、今日、お顔を見にきたのは、私です」
ニコは驚いたように瞬きして、それから、少しだけ目を伏せた。
「……来てくれて、うれしい。君がここにいるとね、なんだか、ちゃんと呼吸ができる気がする。
安心できるっていうか、……落ち着くんだ」
「私も、です」
その返事に、ニコがゆっくりと顔を上げる。
マーシアは、やわらかく笑っていた。
「ニコさまのまわりが穏やかなのは、きっと……ご自身が、周囲を気遣っておられるから。
誰かを気遣うには、誰よりも傷ついていないと、できないことです」
「……慰めてくれるの?」
「違います。……わかる気がしたから、お話ししただけです」
静かな空気が、ふたりのあいだに流れる。
ニコは少し目を閉じて、「ありがとう」とだけ呟いた。
そしてそのまま、眠りの中へ落ちていった。
マーシアが席を立とうとしたとき、布の下から伸びた指先が、そっと彼女の手を探った。
眠ったままの手が、彼女の指をゆるく握る。
強くはなかった。ただ、離してほしくないと願うような、子どものような仕草だった。
マーシアはその手を見下ろして、しばらく黙っていた。
そして、そっと腰を戻し、彼の手を握り返さずに、ただ静かに添えたままにした。
(このひとは、こんなふうに、誰にも言わずに……)
なにも言わず、なにも求めず、それでもぬくもりを求めていたことに気づいて。
彼女はただ、手を添えたまま、やわらかくまぶたを閉じた。