第7話「パンケーキと午後の来訪者」
朝の陽射しが中庭に差し込むころ、マーシアは手に提げた小さな籠を大厨房に差し出していた。
中には、先日皆で摘んだブラックベリーが山ほど詰まっている。
さすがに一日では食べきれず、余った分を「お裾分け」にと持ち込んだものだった。
厨房の奥、パティスリー専門のシェフは最初ぎょっとした顔をしたが、
話しているうちに次第に打ち解け――最後には、彼女に粉と卵と牛乳を差し出してくれた。
「これで、何か焼いたらいい。あんたの顔なら、きっと焼き色もうまくつくだろ」
そう言って、レモンの皮のすりおろしまでそっと加えてくれたのが、なんだか少し嬉しかった。
*
公爵家棟の小さなキッチン。
午後になると陽が差し込む東の窓から、焼き上がる甘い香りがこぼれていた。
「……よし、これで六枚目」
マーシアはフライパンを外し、布巾の上にそっと置いた。
焼きたてのパンケーキはふんわりと膨らみ、レモンの香りとバターの熱が混ざり合っている。
お茶の準備も終えたころ、廊下の向こうから聞き慣れた声がした。
「……ここにいるのはわかってるよ。入っていいかい?」
緊張が、部屋の空気を変える。
「……ヴィクトワール殿下ですか?」
「そうだよ、マーシア。こんにちは」
扉を開けて入ってきた王太子は、上等な外套を身にまとい、笑顔を浮かべていた。
だが、その背後では、ワルキューレ二人の視線が鋭く光り、
そっと立ち上がったニコは、わずかにマーシアの前に身を置くように立つ。
「お茶の支度をしていたんです」
マーシアが静かに言う。
「それは光栄だ。……何の香り?」
「パンケーキです。……少し多く作ってしまって」
王子はにこりと笑う。
「それは運がいいな」
*
クリームを添え、ラズベリーを散らした皿が王子の前に置かれる。
焼き立ての香りがふわりと立ちのぼり、王子はスプーンを手に取る。
「……ああ、美味しい。甘さもちょうどいい」
「ありがとうございます」
マーシアは丁寧に頭を下げる。
その後ろで、ユーリの目が細まり、クラリモンドの手がティーポットの取っ手にずっとかかっているのが見えた。
「ブラックベリーか。……君たち、あの奥庭の茂みに行ったのか?」
王子がぽつりと言う。
「行ったよ」
ニコが答える。
「僕が見つけたんだ、子供の頃。でも……まさか、あんな現場に遭遇するとはね」
「ふふっ、あそこは昔から、逢引の名所だよ」
「……それ、僕以外は皆知ってたってこと?」
「知らなかったのは君だけさ、ニコラウス」
王子が楽しげに笑い、ニコはふてくされたように肩をすくめた。
「……もう、あの場所はしばらく行かない」
「でも、美味しいベリーだったよ」
マーシアが静かに言う。
「それは何より」
王子が目を細めて、その声をひときわ静かに聞いていた。
*
その後、短い談笑の時間を挟み、王子はそっと立ち上がった。
「ありがとう。良いお茶の時間だった。……また、来てもいいかい?」
「それは……」
マーシアが何か言いかけたとき、ニコが先に一歩前へ出る。
「公爵さまの許可があれば…」
「そうか。……じゃあ、ニコラウス、よろしく頼んだよ」
王子は振り返らずに部屋を出て行った。
残された空気は、甘い香りと、わずかな緊張をそのままに残していた。