第5話「ラベンダーと紫の風」
その日、中庭は不思議なくらい静かだった。
葉擦れもなく、鳥の声も遠く、空には雲ひとつなかった。
マーシアは東屋の木の椅子に腰かけ、本を開いたまま、しばらくのあいだページをめくることもせずにいた。
今日は姉妹の来訪日ではない。
ユーリとクラリモンドもそれぞれ別の任務で姿を見せず、庭はまるで世界から切り離されたような静けさに包まれていた。
そんな中、ただ一つ、音を立てるものがあった。
草を刈る、しゃり、しゃりという乾いた音。
マーシアはそっと立ち上がり、音のほうへ足を向けた。
*
そこにいたのは、背を丸めた庭師の老人だった。
灰色の作業服に麦藁帽子。手入れの行き届いた鋏を片手に、花壇の根元を丁寧に整えている。
「……こんにちは」
声をかけると、老人は顔を上げた。
皺に刻まれた目元がやさしくほころぶ。
「やあ、これはこれは。公爵さまのお屋敷の――マーシアさん、でしたか」
「はい。覚えていてくださって、うれしいです」
「ええ、まあ。あんたの歩き方は、草も音を立てないくらい静かでしてな。忘れようがない」
マーシアはくすりと笑った。
その笑みは風のようにかすかで、けれど確かにそこにあった。
*
「この辺りの花は、もう今季が終わりでして。何か、植え替えのご希望など?」
そう言われて、マーシアは花壇の縁に目をやった。
今はマリーゴールドが色あせて、少しだけ寂しい空気が漂っている。
「……もし、よければ。ラベンダーと、カモミール……」
「いい香りですな。葉も使えますし、手入れも楽で」
「それと……アメジストセージも、お願いできますか?」
庭師の動きが一瞬止まる。だが、それは驚きではなく、確認するような間だった。
「アメジストセージ。……いい花を選ばれましたな。
あれは紫の穂が揺れて、秋の終わりまで咲きます。切り花にしても日持ちがしますしな」
「少し……おとなしい花が、好きなんです。香りの強すぎない、風に揺れるような」
「ええ、ええ。マーシアさんには、よう似合うと思いますよ。
ラベンダーと合わせて植えておきます。お庭が、ぐっと柔らかくなりますな」
「ありがとうございます」
マーシアは、やわらかく頭を下げた。
*
作業に戻る老人を見送りながら、マーシアはすこし花壇の前に立ち尽くした。
まだ芽の出ていない、空いた土の上。
そこに咲く花の色と香りを、彼女は確かに想像していた。
秋の終わりに紫が咲いて、その傍に小さなカモミールが並んで――
そのとき、自分がまだここにいるだろうか、という問いを、そっと心に沈めた。
風がすこしだけ通り過ぎていく。
マーシアは静かに目を閉じ、その風の香りを胸に刻んだ。