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第5話「ラベンダーと紫の風」

 その日、中庭は不思議なくらい静かだった。


 葉擦れもなく、鳥の声も遠く、空には雲ひとつなかった。

 マーシアは東屋の木の椅子に腰かけ、本を開いたまま、しばらくのあいだページをめくることもせずにいた。


 今日は姉妹の来訪日ではない。

 ユーリとクラリモンドもそれぞれ別の任務で姿を見せず、庭はまるで世界から切り離されたような静けさに包まれていた。


 そんな中、ただ一つ、音を立てるものがあった。


 草を刈る、しゃり、しゃりという乾いた音。


 マーシアはそっと立ち上がり、音のほうへ足を向けた。



 そこにいたのは、背を丸めた庭師の老人だった。

 灰色の作業服に麦藁帽子。手入れの行き届いた鋏を片手に、花壇の根元を丁寧に整えている。


 「……こんにちは」


 声をかけると、老人は顔を上げた。

 皺に刻まれた目元がやさしくほころぶ。


 「やあ、これはこれは。公爵さまのお屋敷の――マーシアさん、でしたか」


 「はい。覚えていてくださって、うれしいです」


 「ええ、まあ。あんたの歩き方は、草も音を立てないくらい静かでしてな。忘れようがない」


 マーシアはくすりと笑った。

 その笑みは風のようにかすかで、けれど確かにそこにあった。



 「この辺りの花は、もう今季が終わりでして。何か、植え替えのご希望など?」


 そう言われて、マーシアは花壇の縁に目をやった。

 今はマリーゴールドが色あせて、少しだけ寂しい空気が漂っている。


 「……もし、よければ。ラベンダーと、カモミール……」


 「いい香りですな。葉も使えますし、手入れも楽で」


 「それと……アメジストセージも、お願いできますか?」


 庭師の動きが一瞬止まる。だが、それは驚きではなく、確認するような間だった。


 「アメジストセージ。……いい花を選ばれましたな。

 あれは紫の穂が揺れて、秋の終わりまで咲きます。切り花にしても日持ちがしますしな」


 「少し……おとなしい花が、好きなんです。香りの強すぎない、風に揺れるような」


 「ええ、ええ。マーシアさんには、よう似合うと思いますよ。

 ラベンダーと合わせて植えておきます。お庭が、ぐっと柔らかくなりますな」


 「ありがとうございます」


 マーシアは、やわらかく頭を下げた。



 作業に戻る老人を見送りながら、マーシアはすこし花壇の前に立ち尽くした。

 まだ芽の出ていない、空いた土の上。


 そこに咲く花の色と香りを、彼女は確かに想像していた。


 秋の終わりに紫が咲いて、その傍に小さなカモミールが並んで――

 そのとき、自分がまだここにいるだろうか、という問いを、そっと心に沈めた。


 風がすこしだけ通り過ぎていく。

 マーシアは静かに目を閉じ、その風の香りを胸に刻んだ。



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