第2章 風音
朝の駅前に、風音の姿があった。
制服の上に羽織った薄手のカーディガンが微かに揺れ、艶のある黒髪が陽の光を受けて淡く輝いていた。
肌は透き通るように白く、そして何より――彼女の瞳は、見る者すべてを惹きつけた。
深く澄んだ茶色の瞳。だが、角度によってはその奥にまるで氷のような青い光が反射する。
その光の色は、人間の瞳には存在し得ない冷たさを持っていた。
(……今日は、少し早いわね)
駅のホーム。
すでに通勤通学の人々で混雑しはじめている。
風音は、雑踏の中でも不思議と浮かび上がるように目立っていた。
美しいだけではない。
その佇まいには“なにかを知っている者”の落ち着き”と、”一切の甘さを拒む静けさ”があった。
電車が入ってくると、男たちの視線が一斉に集まる。
けれど、風音は気づかぬふりで改札を抜け、静かに乗り込んだ。
ドアの近くに立ち、カバンから一冊の本を取り出す。
表紙には金色の文字――
それは英語でも、日本語でも、フランス語でもない。
形容しがたい記号のような文字列が連なっていた。
(昨日の続きを……)
目を細めてページをめくる。
その瞬間、風音の瞳がかすかに青く光った。
周囲のざわめきが、また小さくなる。
いつものことだった。
彼女の乗る車両には、毎日同じような顔ぶれの男子学生が集まってくる。
誰もが本を読む彼女に興味を持ち、言葉にできない吸引力に引き寄せられていた。
「……あれ、今日のは……何語?」
「うーん、わからんけど、あの本、たぶん日本で売ってないと思う」
「いや、ていうかマジで見たことないって」
彼女の耳に、そうした会話は届いていた。だが、応じることはない。
風音にとって、彼らの存在は背景でしかなかった。
彼女が読む“それ”は、このあたりのものではなかったからだ。
(……まだ時間はあるはずだったのに)
ページの合間に、風音の指がぴたりと止まる。
気配――空気の振動が、わずかに変わった。
列車が、彼女の学校の最寄り駅に到着する。
風音は静かに立ち上がり、電車を降りる。
その動作一つさえ、まるで舞うように静かで、無駄がない。
ホームを歩きながら、ふと視線を空に向ける。
その瞬間――
見えた。
空の歪み。
灼熱にねじれた光が、遥か彼方から**“落ちてくる”**のが。
音を超えた何かが、脳髄を震わせる。
人々は気づかない。
まだ、“見えて”いない。
けれど、風音の瞳にはそれがはっきりと映っていた。
「――来た」
唇から、かすかにこぼれた言葉。
その表情は、恐れではない。怒りでもない。
ただ、時間が来てしまったことへの、微かな苛立ち。
「……早すぎる」
視線は、駅のコンコースを通り抜け、壁際の非常扉へ。
迷いはなかった。風音は静かに、しかし急ぎ足でそこへ向かう。
手にしたカードキーをかざし、何の標識もない扉を開ける。
その奥には、誰も知らない地下通路があった。
空が焼ける。
背後で、空間が振動し始める。
膨大な熱量と圧力、爆発的なエネルギー。
風音が階段を降り切った瞬間――
駅は、消えた。
爆風と閃光が、世界を無に還す。
だが地下にいた風音だけは、微かな振動と、空気の圧縮を肌で感じながら、静かに目を閉じていた。
(間に合った……けれど)
瞳を開ける。
その青い輝きが、より強く燃えるように、暗闇の中で瞬いていた。
地鳴りのような轟音が、地下通路の奥から過ぎ去っていく。
風音は一瞬、閉じたままのまぶたを押しつけるように強く伏せた。
静寂。
熱気と粉塵だけが通路の空気を震わせていた。
しばらくして、彼女はゆっくりと階段を昇り始めた。
地上に戻るためのルートは、知っていた。
それは決して「偶然知った」のではなく――生まれたときから教えられてきた生きぬく為の知恵だった。
鉄の扉を押し開けた先に広がったのは、地獄のような光景だった。
駅舎があったはずの場所は、今や巨大な噴火口のような焼けただれた空白になっていた。
鉄骨がねじれ、車両が焼け焦げ、空は血のように赤く、地面は裂け、焦げた肉のにおいが風に乗っていた。
――東京が、ひとつ吹き飛んだ。
そんな現実を前にしても、風音の表情は変わらなかった。
「……婆さんの言っていたことは……本当になったのね」
風が髪を揺らす。
彼女は眉ひとつ動かさず、ゆっくりと瞳を閉じた。
(楓……)
心の中に、あの“妹”の姿が浮かぶ。
笑っていた朝。
ちょっとした口げんか。
食卓のコーヒーの香り。
何も変わらない日常。
けれど――それは“変わるべき運命”だった。
「……楓は、確か――二本前の電車に乗ったはず」
視線が、鉄道が続いていたはずの方向へと向けられる。
そこにはもはや線路など存在しない。ただただ、荒れ果てた焦土と、ねじれた金属の残骸が続いているだけ。
「生きていて……!」
風音が踏み出そうとした瞬間――
「……ッ!?」
その場の空気が一変した。
背後に、突然“何か”が立っていた。
「……おまえは……」
声にならない驚愕が、彼女の喉を震わせた。
黒ずんだ羽織に身を包んだ小柄な老人。
背は曲がっているのに、眼光だけは鋭く、見えないものすら見通しているような圧を放っていた。
「監視に来たぞ、風音。約束、忘れたわけではあるまいな?」
声は乾いていたが、怒りにも似た緊張感を含んでいた。
風音はほんの一瞬だけ視線を逸らしたが、すぐに静かに言葉を返す。
「……ふん。楓が“生きていれば”ね。
それとも、おまえにはもう楓の居場所が分かっている、と?」
老人はニヤリと口角を上げ、わずかに首を傾げる。
「――ああ。もちろんだとも」
その言葉に、風音の背筋がわずかに伸びる。
(……やはり“この程度のこと”では、死ぬような子じゃない)
「……で? どこに?」
「すぐ近くだ。……いや、むしろ“そいつ”の方が近い」
「……“奴”?」
風音の瞳が一瞬だけ、青白く光を放った。
だが―― 次の瞬間。
「フッ……じゃあな」
風音の前から、老人の姿が“消えた”。
煙のように。風に解けるように。
もしくは――“存在しなかった”かのように。
「……ったく。あいかわらず強引ね」
そう呟くと、風音は一度深く息を吐いた。
そして――次の瞬間。
地を蹴った。
その動きは、人の域を超えていた。
靴音すら残さず、風音の身体は地表を滑るように疾走する。
線路のあったはずの焦土の上を、足場などおかまいなしに駆ける。
「……いざ……! 参る!!」
その足は、音すら置き去りにする速さだった。
焦土と化した都市の縁を、音もなく駆け抜ける。
破裂したアスファルト、剥がれた鉄筋、崩れたビルの陰――風音の脚はそれら全てを越え、破片を踏むたびに軽く跳ね上がる灰さえも、その脚に触れることはなかった。
地下鉄の入り口――
崩落し、瓦礫に埋もれたはずのその構造の“痕跡”を、風音は正確に見つけ出していた。
「……この先だ。楓……」
吐息とともに小さく名前を呼んだ瞬間だった。
――ぞわり。
空気が一変する。
肺が焼けつくような圧。
皮膚の内側を這いずるような嫌悪感。
“殺気”では収まらない、存在そのものが敵意で構成された気配が、地下から這い上がってきた。
そして、声。
声だけが、脳内に響き渡った。
「――あの小娘といい……この星には……実に面白い奴が溢れているな。
素晴らしい。実に……素晴らしいよ」
ぞくり、と背筋に寒気が走った。
風音は即座に足を止め、目だけを動かして周囲を観察する。
視界に動きは――ない。
「……姿も見せず、声だけとは。趣味が悪いね」
淡々とした口調。だがその声音には一切の隙も恐怖もなかった。
「挨拶は相手の顔を見てする――って教わらなかったかい?」
小さな、しかし確かな挑発。
沈黙の後、声はくすくすと笑いを交えながら答えた。
「ああ、そうか……その通り、って言ってるよ。
この星の“人間”の記憶がね。興味深いね、教訓が多い種だ」
その瞬間――
――金属が鳴いた。
周囲の瓦礫がゆっくりと浮き上がり始めた。
ねじれ、ひしゃげ、鉄骨や車両のパネル、手すり、ナット、配線、あらゆる“鉄”が、まるで意志を持つかのように、重力に逆らって宙に集まり出す。
「……!」
風音はわずかに身構える。
その動きに恐れはない。ただ、研ぎ澄まされた反応。
集まった金属は、中心に向かって収束し、熱を帯び始めた。
赤熱する鋼。
音もなく、鉄が“溶けていく”。
そして――
人の形が、出来上がった。
ただの模造ではない。
筋繊維のように編まれた銅線、骨のように硬質な鋼鉄の芯、表面はまだらに焦げたような光沢。
瞳の部分だけが、深い“無”のように黒く、そこに人間らしい表情は一切なかった。
「――この姿で挨拶すべきだったね」
声は、もう頭の中ではなく、目の前の“それ”の口から放たれた。
「……まだ仮の姿なんだ。出来れば名前でも、つけてくれないかい?」
風音は目を細め、冷めた目で鋼の人影を見つめた。
「名前……?
瓦礫のくせに、名前なんて欲しがるんじゃないよ」
その一言に、“それ”は唇の端を持ち上げた――いや、“そう見えるように”金属が動いた。
「おかしいなあ。人間ってのは、何にでも名前をつけるのが好きなはずだよ?
石にも、風にも、星にも、罪にも。
“意味”を与えて安心しようとする種族だろう?」
風音は腕を組み、やれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
「……あいにく、私は“名付け親”には向いていない。
特に――“見るに耐えないもの”にはね」
その瞬間、“それ”の黒い瞳が、ぎらりと光を灯した。
まるで全身が、殺意の方向へ傾いた合図のように。
だが、それと同時に。
――すでに風音の右手には、一振りの刀が握られていた。
「……いつのまに?」
金属の体を持つ異形は、目の前の少女が“何をしたか”を正確に認識できていなかった。
風音は答えない。ただ一歩――音もなく、空気を裂くように踏み出した。
そして、その刹那。
刃が、星光を纏った。
銀に近い蒼白の輝きが刀身を這い、夜空のように深い煌めきが残像を描く。
放たれた一閃は、鋼の肉体すら紙のように両断した。
「――ぎゃ、ァアアアッ!!」
奴の絶叫がこだました。
鉄が裂ける。熱が走る。
“それ”の体に刻まれた傷口からは、赤くも黒くもない、異質な銀の液体が滲み出していた。
「お前は……ッ!」
呻くように吐き出した声に、風音は薄く笑みを浮かべて言う。
「……ある程度の情報はこちらも持ってるんでね。
まだこの星の環境に馴染みきってないんだろう?
だったら――今のうちに八つ裂きにしてやるよ。
再生なんてできないようにな」
次の瞬間には、風音の背に二本目の刃が閃いていた。
両手に一振りずつ、星の光を宿した刃。
その姿はまるで――夜空を切り裂く流星の化身のようだった。
「さあ、覚悟はいいかい――」
しかし、風音の言葉を遮るように、“それ”の姿がぶれる。
切られた部分が蠢き、流動する金属が己を補修しようとしながら、声だけが響いた。
「……せっかくの得た知性だだ。
君とはまた、後でじっくり遊ばせてもらおう」
ぐにゃり、と顔の構造が笑ったように歪む。
「――また会おう、少女よ」
その言葉とともに、姿は空気に溶けるようにして消えていった。
まるで初めからそこに存在しなかったかのように。
沈黙が戻る。
風音は刀を背に戻し、肩を竦めて呟いた。
そして、頭上の空へと目を向けて叫ぶ。
「……もう、戻れないんだな……」
そう言うと、風音は再び走り出した。
焦げたアスファルトも、ねじれた鉄橋も関係ない。
ただ静かに、一直線に――
妹のもとへ向かって、音もなく宙を滑るように。