第1章 楓 その伍
「……」
音が、空間のどこかから降ってきた。
人の声のような、だがどこか音程のない無機質な声というより”音”。
「無機質な音が鳴り響いている、、、」
その“音”は、どこからともなく響いていた。
左右の壁から、天井から、地面の裏側から――まるで空間そのものが話しているようだった。
楓は息を潜め、立ち尽くす。
その“音”には、理解を超えた悪意も、狂気もなかった。
しかし明らかに何かを話しかけているようだ
(……何を、言ってるの?)
身体の奥が、冷たく痺れていく。
言葉が“理解”としてではなく、“侵食”として脳に流れ込んでくる感覚。
「…」
その声は、まるで笑っているように聞こえた。
空気が少しだけ温くなった。楓の背中をなぞるように、無形の“存在”が通り抜けていく。
楓はその場に膝をつき、しばらくのあいだ、動けなかった。
心臓の鼓動が、ただひたすらに“生きている”ことだけを告げていた。
(……何が、起きてるの……?)
答えはどこにもなかった。
――ただ、この世界が、もう“元には戻らない”ということだけは、痛いほど理解できた。
しばらくの間、楓は動けなかった。
魂を指先まで凍らせるような“声”の残響と、最後に残った冷酷な殺気が、身体の奥深くに根を張っていた。
息を吸うだけで肺が痛む。
震える膝に力を込め、床に手をつく。
(……立たなきゃ。……ここにいたら……)
殺される。
そう思ったわけじゃない。
この空間そのものが、自分という存在を侵食していく。
そんな確信が、背中を押した。
楓は立ち上がり、駅のホームの奥へと歩き出す。
壁際に設置された、コンクリートの階段。地上へと続くはずの、当たり前の出口。
(きっと、地上に出れば……)
警察がいるかもしれない。自衛隊かもしれない。助けが来てる。まだ誰かが――
(颯真先輩を、あの子を、風澪を、早く……)
希望。
その言葉を、心の奥から絞り出すようにして、楓は階段を駆け上がった。
……だが。
足が、止まった。
「え……?」
そこにあったのは、“終点”だった。
階段の上――その先は、途中でぷつりと切れていた。
切断されたコンクリート。破れた鉄の手すり。むき出しの鉄筋が、空に向かってねじれていた。
そして、そこから見えた光景は――
「………………」
言葉を失うしかなかった。
楓の足元から広がる“風景”は、もはや“東京”ではなかった。
――直径十キロ以上に及ぶ、巨大なクレーター。
それは、ただの爆心地ではない。
**地層ごと削り取られたような、深く抉られた“巨大な穴”**だった。
地上の構造物は何一つ残っておらず、アスファルトもビルも、住宅も、すべて――粉々に“消えていた”。
湿った風が、どこかから流れ込んできていた。
その風の先に、楓は“それ”を見た。
――クレーターの向こう側、崖の上。
そこに、燃え上がったままへし折れた鉄塔が立っていた。
「……東京タワー……?」
その姿は、かつてテレビで見たことのある、あの“赤と白の塔”の変わり果てた姿だった。
崖の縁で傾きながら、まるで東京の死を見届ける墓標のように焼け焦げ、崩れ、なおもそびえていた。
そして、視線を右に向ける。
あるはずの東京スカイツリーが存在しなかった。
痕跡すらない。
(……なくなってる……)
視線を落とすと、クレーターの底の一部に、水が流れ込んでいるのが見えた。
川の水。東京湾の海水。あらゆる“水源”が、崩壊した地表を伝い、底なしのようなクレーターへと吸い込まれていく。
“東京”という地名は、もはやそこには存在しなかった。
楓の頭が、ぐらりと揺れる。
立っていられない。
崩れるようにして階段の壁に背を預け、へたり込む。
「なに、これ……どうして……」
言葉にすれば、壊れてしまいそうで。
だけど、言葉にしなければ、自分がここにいることすら否定されてしまいそうで。
(これは現実? 夢? それとも――)
だが、風は吹いている。冷たく、生々しく。
この光景は――幻想でも悪夢でもない。
楓が今、確かに生きている“現実”だった。
風が強くなっていた。
クレーターの縁に座り込んだまま、楓はずっと、東京の亡骸を見つめていた。
見慣れた景色はどこにもなく、見えるのはただ、**壊れた世界の“傷跡”**だけだった。
息を吸っても、どこか浅い。
吐き出す言葉は、すべて喉の奥で迷子になる。
……その時だった。
楓のポケットで、音が鳴った。
拾ったスマートフォン――誰のものかわからないその端末が、ポツリと震えていた。
画面に表示されたのは、ひとつの通知。
「メッセージ受信」
差出人の名前は、“母さん”。
胸が跳ねた。
指がかすかに震える。
迷いながらも画面に触れると、表示されたのは――
「千佳?、無事ですか? ずっと連絡が取れません。
どこにいるの? 家は無事じゃないけど……あなたが無事なら、それだけでいいの。
お願い、生きて。戻ってきて。
お母さん、どこにでも行く。会えるなら、何でもする。
声を聞かせて。あなたの、生きてる声を……
どうか、お願いだから」
止まらなかった。
文字が、次から次へと、画面の下から溢れてきた。
震える手で送られた文字たち。
安否を気遣う、どこまでもやさしく、切実な言葉。
何度も「大丈夫?」と書かれ、何度も「会いたい」と重ねられている。
まるで、“涙そのもの”が文字になったようだった。
楓の喉がきゅっと詰まり、胸の奥が熱くなる。
――このスマホの“持ち主”は、もう、いない。
この画面に映る想いは、もう届かない。
でも、それでも。
楓は両手でスマホを包み込んで、深く息を吸った。
(……ごめんなさい)
画面をタップし、メッセージを送信する。
「突然すみません。
あなたのご家族ではありません。
このスマホは、偶然落ちていたのを手に取りました。
ここから脱出するために使わせていただいています。
持ち主の方の安否は……残念ながら、わかりません。
でも、このスマホは、必ずご家族の元にお返しします。
どうか、ご自身を責めないで下さい。
あなたの声は、きっと最後まで届いていたと思います。
本当に、ごめんなさい。
そして……ありがとうございました」
送信ボタンを押した瞬間、楓の目から、ぽろりと涙が落ちた。
このメッセージが本当に“救い”になるのかは、わからない。
けれど、このまま何も返さずにいたら――この“声”が消えてしまう気がして。
楓はもう一度、スマホを胸に抱いた。
(……戻ろう)
風澪。颯真。あの少女。
このクレーターの中心にいる誰かのために。
そして、自分が今ここにいる理由を、少しでも掴むために――
楓は立ち上がった。
空には、雲が広がっていた。
太陽はすでに見えず、クレーターの奥から、静かに霧が立ち上っていた。
瓦礫の階段を下りながら、楓はかすかに握ったスマホの重みを感じていた。
これは、誰かの“愛”の重さだった。
瓦礫を踏みしめるたび、鈍い鉄と焦げたコンクリートの匂いが立ちのぼった。
楓は慎重に、しかし急ぐようにトンネルを戻っていく。
手には、スマホ。
胸には、重さと温もり。
それは、いましがたのあの“母親の声”を受け取った端末。
泣きながら、言葉を送ったその気持ちがまだ、掌に残っていた。
やがて、あの場所――風澪と颯真、そして謎の少女の元にたどり着いた。
「……風澪!」
声をかけると、風澪がすぐにこちらを振り向いた。
その顔には、少しだけ安心したような色が浮かんでいた。
「楓……よかった、無事で……。ねぇ、さっきからこの子……目、覚ましたみたいなの」
風澪の隣で、少女が座っていた。
目は開いている。だが、その視線は焦点が合っていないようで、虚空を見つめていた。
「様子は……どう?」
楓がしゃがみ込み、少女にそっと声をかけた。
だが、返事はない。ただ口が、ぽつりぽつりと何かをつぶやいている。
「時々、なにか……喋ってる。でも、言葉の意味がわからないの。
さっきまでのあの取り乱しようは嘘みたいに落ち着いてるけど……泣いたり叫んだりは、もうしない。ただ、ずっと何かと話してるみたいで……こわくて」
風澪は、不安を隠せずに声を震わせた。
少女はずっと、列車の後部車両の方をじっと見つめていた。
光の届かない黒の奥を、まるで何かを“迎え入れる”ように。
そのときだった。
「……人が、来る」
少女がぽつりと呟いた。
風澪がはっとし、楓も驚いてその視線の先を追った。
その瞬間――
ガゴォン……ッ!
轟音が、トンネルの奥から響いた。
重機の作業音。
鋼鉄が軋み、瓦礫が崩れる音。
そして――かすかに混じる、人の声。
「そっち! 奥に誰かいるかもしれないぞ!」
「焦るな! 二次崩落に気をつけろ!」
――助けが来た。
心臓が跳ねる。
ついに、ようやく、この地獄の中に“人の世界”が戻ってきた。
「……風澪、聞こえる? 助けに来たよ、きっと!」
「うん……うん!」
風澪が泣きそうな笑顔で頷いた。
少女は再び虚空を見つめながら、何も言わなかったが、その顔からは先ほどまでの怯えが消えていた。
楓は胸を撫で下ろす。
――今は、希望の光の方を見ていたい。
東京が、失われた現実は……今は、伝えないでおこう。
風澪の中に残っている、
「この先に世界がある」という信じる力を、今は壊したくなかった。
「……もう大丈夫、だよね……」
その言葉と同時に、楓の意識がふっと揺れた。
張り詰めていたものが、一気に緩んでいく。
この数時間のあいだ、死体、悲鳴、恐怖、不安……あまりに多くの“非日常”が、楓の心を削っていた。
それでも、踏みとどまっていた。
希望があるなら、動かなきゃいけなかったから。
けれど今――救いの手が伸びてきたこの瞬間、
その“責任”がふっと肩から降りた。
視界が揺れる。足元が遠ざかる。
「あ……」
風澪が気づいたときには、楓の身体はゆっくりと崩れ落ちていた。
「か、楓っ!」
風澪がすぐに駆け寄り、抱きかかえる。
その身体は熱を持っていて、でもちゃんと呼吸していた。
「よかった……生きてる……」
風澪はそう呟いて、涙を一粒だけこぼした。
――その涙が頬を伝う頃、重機のライトがようやく楓たちを照らした。
光が差し込んでくる。
真っ暗だった世界に、ようやく色が戻ってくる。
けれど――楓には、それがどこか遠い出来事のように思えた。
「……かざ……み……」
かすかに動いた唇から、かろうじて名前がこぼれる。
けれど声になっていたかどうか、自分でもわからなかった。
あたたかい腕の中で、楓の意識は徐々に深い霧へと沈んでいく。
世界が滲んで、音が遠のいていく。
頬に風澪の涙の雫が落ちた。
それが冷たくて、でも――とても優しかった。
まるで夢の中にいるような、不思議な心地。
――私は、生きてる。
でも、それがどうしてなのか、思い出せない。
それが不安で、怖くて、でももう何も考えたくなかった。
「……なんで……わたし……」
言葉の最後は声にならず、まぶたは静かに閉じられていった。
救助の声が響いている。
足音が近づく。
誰かが楓の名前を叫んでいる。
けれど、楓の耳にはもう届いていなかった。
最後に浮かんだのは、誰かの笑顔。
その人の名前さえ、思い出せなくなっていく――。
光が闇に溶けていく。
そうして、楓の記憶は、深く、深く、沈んだ。