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Sworoid(ソーロイド)  作者: Mick and Randol
3/6

第1章 楓 その参

 耳が詰まったような、深い深い水の底に沈んでいた。

音も、光も、温度さえも失われた世界。

そこでは、自分の身体がどこにあるのかさえわからなかった。

 意識がゆるやかに浮上していく。  

まぶたは鉛のように重く、指先の一本すら動かせない。

ただ、遠くで軋むような金属音と、誰かの息づかいのような気配が、微かな泡のように漂っていた。


 (――ここは……)


 頬に触れるざらついた冷たい床の感触。

肺の奥に染み込んでくる、煤けた焦げ臭い空気。  

ようやく、まぶたがゆっくりと開いた。

けれど、視界には何も映らなかった。


 そこは、闇だった。  


 ただの暗闇ではない。


光そのものが奪われたような、深淵の黒。  

世界の輪郭が、音もなく呑み込まれていた。


 (電車……だった、はず……)


 かすかに蘇る記憶。  

駅の階段、転倒、彼の声、赤黒い空、そして、轟音。  

あの一瞬の衝撃がすべてを押し流し、今、自分はその残骸の中に取り残されている。

 目が次第に慣れてきて、うっすらとした輪郭が現れはじめた。  

傾いた座席、ねじれた天井、砕けた蛍光灯の破片、歪んだ窓枠。  

すべてが、ひしゃげ、折れ、引き裂かれていた。

 列車が、まるで紙細工のように潰れていた。  


前後の連結部は裂け、車体の壁は押し潰され、鉄の軋みと焦げた臭いが空気に染み込んでいる。  

灰色の塵が漂い、空気が重く、湿った鉄の匂いが鼻腔に焼きついた。

 それでも、自分の周囲だけが、まるで何かに守られたかのようにかろうじて形を残していた。

 ふと、傍らに異様なものが目に入った。

 

金属片。滑らかに削られ、歪みひとつない人工的な破片。  

自然に崩壊したとは思えない。


まるで“何か”が意図的に形を変えたかのような違和感があった。


 (……颯真先輩……)


 思考が、一瞬で切り替わる。

 ついさっきまで隣にいたはずの彼の姿が――ない。


 「……颯真……? 颯真先輩……!」


 声を張り上げると、喉の奥がひりついた。  

酸欠と埃で焼けるような痛み。

それでも叫ばずにはいられなかった。


 返事はなかった。  


ただ、闇がその声を静かに吸い込んでいくだけだった。

だが、ほんのかすかに――  耳の奥で、何かが触れた。


 「たす……けて……だれか……!」


 微かに震える、少女の声だった。


 這うようにして、その声のもとへ向かう。  

倒れた荷棚を越え、ガラスの破片を避けながら進むたびに、制服の袖や膝が破れていくのがわかった。  血の匂いが濃くなり、足元には形を失った靴や荷物、人のものと思われる髪の毛が引っかかっていた。


 少女がいた。  

煤にまみれ、顔を歪ませ、声にならない声をもらしていた。  

だが、胸元が微かに上下している――まだ、生きている。


 「しっかりして……! 今、助けるから!」


 だが、彼女の腰から下は、ねじれた鉄のフレームに深く挟まれていた。

 

 座席の骨組みが、まるで生き物のように絡みつき、まるで彼女を呑み込もうとしているようだった。

私はフレームに手をかける。

動かない。  

必死に引っ張る。

だが、指に食い込む金属の冷たさが、絶望だけを伝えてきた。


 「お願い……たすけて……っ」


 その声が、胸を刺す。  

心臓の奥がひどく揺れた。


 (ダメなの? これで終わりなの?)


 身体の芯から、怒りと悲しみが渦巻いてきた。


 (……お願い、動いて……私の身体……!)


 その瞬間。


 手のひらに、異様な熱が走った。  

金属の冷たさが、まるで体温に溶けていくように変わっていった。


 「……あつっ……!」


 だが、手は離れなかった。  

 いや、離せなかった。

 私の指先が、金属に溶け込んでいた。  

 違う。  

私の中から“何か”が金属に伝わっている――そんな、確かな感覚。

 ギリ……ギリギリ……と、金属が歪んだ。  

柔らかく、ぬるりと。  

少女を囲っていた鉄が、まるで意思を持ったかのように変形し、解かれていく。


 私は、目を見開いてその光景を見つめた。

 数秒後、彼女の身体がふっと軽くなり、私の腕の中に崩れ落ちてきた。


 「よかった……大丈夫、もう大丈夫だから……」


 だが、その安堵は、長くは続かなかった。


 少女の目が虚ろになり、口元がかすかに動いた。  


「……ありがとう……あなた、光ってた……すごく……きれいだった……」


 そのまま、彼女は微笑みながら、ゆっくりとまぶたを閉じた。


 「……ねえ……ダメだよ……!」


揺すっても、呼んでも、返事は返ってこなかった。


少女を抱きかかえながら絶望感で胸をえぐられる。 


腕の中の身体は冷たくなり、重くなっていく。

 「やだ……一人にしないで……」

 嗚咽がこみ上げた。  

少女の命が消えかけている。


目の前で助けられた命と、救えなかった命が重なり合い、心が引き裂かれそうになる。


 車両の奥で、うずくまる人影が見えた。  

少年。制服は血に染まり、左腕は不自然な角度に曲がっていた。


 「だれか……水……」


 別の場所では、女性が一人、柱に寄りかかっていた。


目は虚ろで、唇は乾ききっている。首は腫れ、骨が折れているのは明らかだった。


 彼らは生きている。  

でも、助けられない。  

水も食料もない。  

通路は潰れ、脱出口はどこにも見当たらない。


 スマートフォンの画面には、圏外の文字が冷たく光っていた。


 私は、孤独だった。  

この場所にいる全員が、孤独だった。


 誰かを救えても、救えなくても、その結末は変わらない――このままでは、誰も助からない。

 喉の奥で何かが詰まり、声にならない悲鳴が漏れた。


 (お願い……誰か……誰か来て……今すぐに……!)


 叫んだ。  

それでも返ってくるのは、反響して戻ってくる自分の声だけだった。  

誰かに届いてほしいと願って放った声が、皮肉にも自分自身を突き刺す刃のように跳ね返ってくる。  静寂という名の恐怖の中で、その音すら虚ろに吸い込まれていく。


 楓は少女を抱え、肩を揺らしていた。  

この空間に自分しかいないのだという実感が、ゆっくりと全身を蝕んでいく。

 さっき、少女を助けたときの感触が、記憶の底から浮かび上がる。  

あの金属の変形。  熱。  腕に感じた何か得体の知れないもの。

 あれは、一体何だったのか?  

あの瞬間、自分の中に何かが流れ込んできた。  

それは外から与えられたものではなく、もともと楓の中にあったような気さえした。

 何かの“力”が宿ったのか?  それとも、それは“私の力”なのか?  あるいは、私の中に“いる何か”の、意志……?


 考えれば考えるほど、現実感が薄れていった。  

こんな場所で、こんな状況で、何を信じていいのかわからない。


 気づけば、楓の腕の中には、あの少女がいた。  

先ほど助けた、まだあどけなさの残る少女。

 楓は、そっと少女の肩を抱きしめた。  

その身体は、ひどく冷たかった。  

まるで命そのものが、少しずつ指の隙間から流れ落ちていくように感じた。  

だが、それでも少女の胸はわずかに上下していた。  

震えるような呼吸――それが、かろうじて楓の心を繋ぎ止めていた。


 「……もう少し、楽な体勢にしよう。ここじゃ……」


 そう言いかけて、楓はふと、少女の顔を覗き込んだ。  その瞳は、こちらを向いている。  けれど、焦点が合っていない。まるで、虚空を見つめているようだった。


 (……目が……)


 「あなた、名前は?」


 震える声で尋ねると、少女は唇をかすかに動かした。


 「……風澪……かざみ、って言います……」


 「風澪ちゃん……私は楓。大丈夫、もうすぐ外に……」


 「……無理、だよ……」


 その言葉は、あまりに静かで、あまりに淡々としていた。


 「この車両の中……生きてるのは、もう……あなたしか、いない」


 「……え?」


 楓は言葉を失った。

 

喉の奥が急激に乾き、何か重いものを飲み込んだような感覚だけが残った。


 「どうして……そんなこと……」


 「……私、目が見えないから……」


 その一言に、楓の思考が止まった。


 「生まれた時から、ずっと……普通の“目”では、世界を見たことがない」


 「……じゃあ、どうやって……?」


 「子供の頃、事故にあったの。目は完全に見えなくなった。  ……でも、その日を境に、人や物の“形”を感じるようになったの」


 風澪の声は、どこか遠くを見つめるように静かだった。  なのに、その声音には、不思議な説得力があった。


 「“見える”んじゃない。“感じる”の。空間に走る線のような……光のような……輪郭が、私の中に流れ込んでくるの。  色や形じゃない。人の存在が放つ、軌跡みたいな線」


 それは、あまりに現実離れした言葉だった。  けれど、その瞳に浮かぶ静かな確信が、何よりの証拠に思えた。


 「今も、あなたがとても強く光ってるのがわかる。……眩しいくらいに」


 「……それは……」


 楓は絶句した。


 (私が……光ってる?)  


 「その光……ほかにも、見えた?」


 楓の問いに、風澪はわずかに首を横に振った。


 「この空間で、強く“視える”のは、あなた一人。  あとは、もう……全員の“線”が、途切れてる。みんな助からない」


 その言葉が、鈍器のように楓の胸にのしかかった。  息が止まるような感覚。


 (颯真……)


 「お願い……風澪ちゃん、お願い。お願いだから……颯真先輩を探して。私、どうしても……!」


 必死の声。  それは、かすれた祈りだった。


 風澪は、わずかに沈黙した。  

そして、穏やかに頷いた。


 「……わかった。できるだけ……遠くまで、“線”を視てみる」


 その言葉に、楓は泣き出しそうなほど安堵した。  だが、その安堵は、すぐに焦燥へと変わっていく。


 (どうして、私だけが助かったの?)

 (あのとき、確かに颯真の声が聞こえた気がした……夢だったの? 幻だったの?)


 視界の奥が滲む。喉の奥が熱くなる。

 罪悪感と恐怖が胸の奥で渦を巻き、身体の奥にこびりついて離れない。

 崩れた鉄の迷宮の中。  異常なまでの静寂が支配する中で、楓はただ、風澪という小さな存在の“力”に縋るしかなかった。


 「お願い、颯真先輩を……探して」


 その声は、消え入りそうなほど細かった。


 風澪は、そっとまぶたを伏せた。

 「……うん、少しだけ静かにして。意識を、遠くまで飛ばすの」


 まるで祈るように、彼女は目を閉じる。  

瞳を閉じていても、その顔にはまるで“何か”を見ているような、神秘的な気配が滲んでいた。


 (……本当に、視えているの?)


 疑念はある。  

だが、先ほど“光っている”と言われた時の感覚が、確かに楓の中に残っていた。


 風澪は、ぽつりと呟いた。


 「……この空間は……黒い。焼け焦げた線が、あちこちで途切れてる」


 楓の心臓が跳ねた。


 「でも……一つだけ、揺れてる“線”がある。遠くじゃない。……この車両の前方。潰れた壁の向こう」


 その言葉に、楓の身体が震えた。


 「それって……」


 「わからない。だけど、“完全に途切れてない”。それだけは、確か」


 楓は、反射的に立ち上がった。  心臓が、痛いほど高鳴っていた。


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