第1章 楓 その壱
第1章 楓
目が覚めた瞬間、まず視界に入ってきたのは、天井に浮かぶ柔らかな光の層だった。
それはまるで、幾重にも折り重なった薄いレースが、空気の中をふわふわと漂っているような、そんな幻想的な光景だった。
窓際のレースカーテンが、わずかに風に揺れている。
朝の光がその布を通して屈折し、部屋の空気を白く、優しく、ぼんやりと染めていた。まるで夢と現実の境目を、曖昧にしてくれているような。
アラームの音が耳の奥で鳴っている。
6時30分。いつもの時間。変わらない、繰り返す朝。
でもなぜか、今日はその音が遠く、どこか現実味を欠いていた。
私はゆっくりと上半身を起こし、髪をかきあげながら深く息を吸った。
まだ眠気が身体の奥にこびりついていて、まぶたの裏に残っている夢の残像を引きずっている。けれどその内容は、もう思い出せなかった。
私は森楓。
都立高校に通う二年生。
この家には、母と姉の風音と、私の三人だけが暮らしている。
父の記憶は、正直ほとんどない。家族写真に残っている笑顔が、唯一の証拠のようなものだ。
私がものごころついた頃には、すでにこの家は“母子家庭”として回っていた。
ベッドの縁に座り、まだ冷たい床に足を下ろす。
遠くで、小さな音がした。
陶器がカチリと重なる乾いた音。そのすぐ後に、まな板を打つ包丁の一定のリズム。
それは母の“朝の音”だった。いつもと同じ、規則正しく、無駄のない動作の積み重ね。
ゆっくりと立ち上がる。頭が少しふらつく。
寝癖が髪の後ろで主張しているのを指先で確かめながら、私は階段へと向かった。
階段を下りていくと、明るい光の射すダイニングに、姉の風音の姿があった。
……一瞬、息をのんだ。
朝の光を一身に受けて立つその姿は、まるで雑誌の1ページから抜け出してきたかのようだった。
制服の襟はピシッと整い、黒髪はつややかにまとまり、一切の乱れがない。
横顔は清楚で、涼しげで、少しの隙もない完璧さ。
私と同じ家で育ったとは思えないほど、姉はすべてが整っていた。
見た目も、成績も、性格も、人間関係も。
それが当たり前で、それを誰もが称賛していた。
「おはよう。寝癖、直した?」
姉はトーストに蜂蜜を垂らしながら、こちらをちらりと見た。
私は咄嗟に髪をかきあげる。
「……直した。たぶん」
風音はじっと私の頭を眺めたあと、小さくふっと笑った。
その笑顔には、どこかからかうような、でも優しさのにじむ色があった。
そして、手にしていたトーストを私に差し出す。
「ほら、ぼーっとしてると、今日も“彼”が来ちゃうでしょ?」
その言葉に、私は少しだけ胸の奥がざわめいた。
“彼”――剣道部の副主将、颯真先輩。
私より一つ年上で、背が高くて、笑うと目尻が柔らかく下がる人。
特別な関係じゃない。たぶん、向こうにとってはただの後輩。
でも、どうしてだろう。名前を聞くだけで、胸がきゅっとなる。
「味噌汁、そっちのカップに入れて。風音、お弁当、保冷剤忘れないで」
母の声が、台所の奥から飛んでくる。
今日も変わらず淡々としていて、命令口調でもなく、でも逆らう余地もない。
「わかってるって。昨日も言われたし」
風音はそう答えながらも、素直に保冷剤をカバンに入れていた。
この家の中心にいるのは、母だ。間違いなく。
風音のような完璧主義者でさえ、母の朝のテンポには敵わない。
私はダイニングチェアに腰を下ろし、トーストをかじる。
香ばしいパンの香りが、鼻からゆっくりと抜けていく。
何も変わらない、平凡な朝の光景。
……そのはずだった。
*
東武動物公園駅。
改札を抜けた瞬間、じんわりとした湿気が肌を包む。
夏の朝独特の、重たくも瑞々しい空気。
けれど空はまだ澄んでいて、うっすらと漂う雲が、まるで淡くにじんだ水彩画のように広がっていた。
柱の陰に、彼の姿が見えた。
いつもの場所。いつもの立ち方。
制服のシャツの袖をラフにまくり、腕を組んで立っている。
日差しを片肩に受けながら、じっとこちらを見つめていた。
「おはよう。……今日も、寝坊?」
その声は、相変わらず涼しげだった。
でも、少し笑いを含んだ調子が、胸に小さく突き刺さる。
「寝坊じゃないし」
私はむっとして言い返す。
「じゃあ、いつもそういう顔?」
「失礼な」
眉をひそめながらも、自然と口元が緩むのがわかった。
このやり取りは、もう何度目になるんだろう。
でも、何度繰り返しても――やっぱり少しだけ、うれしかった。
彼と並んで歩きながら、ホームへと向かう。
電光掲示板の数字が点滅を始めた。
「やば」
つい口をついて出た。
発車ベルが鳴り出す。あの、どこかゆるいメロディが背中を追いかけてくる。
のんびりしている場合じゃない。
「……走るよ!」
私は駆け出した。
エスカレーターなんて無視して、階段へと一気に飛び出す――
その瞬間だった。
「……っ!」
足先が何かに引っかかり、バランスを失う。
前のめりに、重力に引っ張られるまま倒れ込んだ。
膝を、肘を、階段に打ちつける。
制服のスカートは汚れ、白いソックスに赤い血がじわじわとにじみ出していく。
ちくり、と針で刺されたような痛みが、神経を鋭く走った。
「大丈夫か!?」
その声が耳に飛び込んできた。
次の瞬間、颯真先輩が信じられない速さで駆け寄ってきた。
顔には焦りと、怒りにも似た緊張感が宿っていた。
「……血、出てる」
彼はしゃがみ込み、ためらうことなく、私の膝に顔を近づけた。
そして――
そっと、自分の唇を傷口に当てた。
何が起こったのかわからなかった。
頭が真っ白になる。
でも、膝に感じたそのぬくもりが、確かに“現実”だった。
「ばい菌、入るとマズいから」
低く、でもやさしい声。
唇が触れた一瞬のぬくもりに、全身が熱くなる。
「……ド、ドラマかよ……」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも情けないほどかすれていた。
顔が、熱い。
心臓が、暴れるように跳ねている。
恥ずかしくて、痛くて、うれしくて、戸惑って――そのすべてがごちゃまぜになって、思考がうまく回らない。
視線を合わせられない。
けれど彼は、何事もなかったように立ち上がり、そして――
微笑んだ。
その笑顔が、あまりにもやさしくて。
それが何より、こたえた。