第九十八話 安住の地
みなが見守る中、ディアドロが棒で地面に簡単な地図を描いた。それは死霊国の領域とこの周辺の魔物たちの主だった集落の位置関係を表すもので、彼はそれをもとに今後の方針を説明する。
まず死霊国の西側は南に大きく伸びる半島になっていて、ルドルフらが今いる北東部で大陸とつながっている。瘴気の土地が徐々に半島内部にせり出してきているとはいえ、半島の大部分はまだ魔物の領域である。
ここの獣人集落はその半島の北端に近い場所に位置する。一行はこれから死霊国との境界沿いを南東に進み、ゴブリン、オーク、オーガ、など様々な種族のそれぞれの集落を訪ねる。そしてそれらの集落もヌイの支配下に置き、死霊国との間に侵さず侵されずの態勢を作り上げる。
よどみなく語るディアドロの言葉にルドルフやダドリーにも異見はない。
続けてディアドロは境界が半島東岸にまで達する一点の、少し南側の海岸を棒で指し、そこから海の中を横切って、半島の付け根である死霊国の南岸まで線を引いた。さらに少し内陸まで伸ばしたその線の終点は、死霊国の中心である城塞都市ウルムトにかなり近かった。
「お待ちかねの竜の情報です。行くにはまた船が必要ですがね」
ディアドロはニコニコしながらルドルフの顔をうかがった。ルドルフは竜の居場所が予想よりも厳しい場所だったことにじっと思案する。
実際に行くことを考えると船云々は抜きにしても際どい位置だ。
だがこのままいけばもう竜がいなくともディアドロの目的は達成される。このタイミングでの情報開示はそういうことだろう。仮にルドルフらがここで諦めて帰っても問題はないというわけだ。
「そうだな。引き続き案内を頼む」
ひとまずルドルフはそう答えた。
「前に軽く話していたとは思うが、アタシはこっからしばらく別行動させてもらう」
黙って話を聞いていたアクィラが手を上げて言った。
「あんたらが魔物どもを懐柔している間に、アタシらは少し暇をもらって用事を片付けたい。ちょっと死霊国の領域に入って探し物をしてくる」
加えてここから先にあるオークとオーガの集落に自分は行かない方がいい、と語った。つい先日まで、アクィラは死霊国の将としてゴブリンゾンビたちを率い、攻めてくるオークやオーガを散々に蹴散らし焼いていたのだ。さすがにまだ顔を覚えている者もいるだろうと。
「それはかまいませんが、本当に大丈夫なのですか? リッチキングは自分の領土への侵入者をくまなく感知しているはずですが」
「まあ問題はねえよ。もたもたしてれば討手が来るだろうが、リッチキングの城から末端に情報が伝わるまでには時間差がある。目当ての場所もここからそんなに遠くはないし、探し物をする余裕くらいあるさ」
侵入を悟られたとして、すぐそこにアンデッドが湧くわけではない。情報伝達と兵の移動という物理的制約は、リッチキングと言えど無視することはできないのだ。とはいえ、睡眠も休息も必要としないアンデッドの兵や連絡役は昼夜兼行、人間の数倍の速度で移動してくるため、それを勘案して時間的猶予を測る必要はある。
「それに討手が来たとして、最初に来るのは十中八九使い走りくらいのやつだからな」
それは自身も使い走り扱いされていたアクィラの経験則だった。相手もわからないのに走り回るのは、リッチキングの配下の中でもごく下っ端か、アクィラのような外様の仕事である。
死霊国に関しては一番の事情通のアクィラが二重に大丈夫だと言うので、ディアドロも納得した。ルドルフらは全員アクィラについていくことになる。ディアドロとヌイとはしばし別行動だ。
魔物たちを降すために必要な力比べに関しては、もはやルドルフが同行する必要はない。今後はダドリーがそれを担当することになっている。ルドルフ自身が勝負した感触からするとダドリーもなかなかの実力者だ。それにダークエルフのことだから、いざとなれば何か汚い手だって用意しているはずである。
「では合流はだいたい二週間後に先ほど示した海岸で、ということでどうでしょう。そこからまた船です」
ディアドロの言葉にルドルフらはうなずく。一週間でアクィラの探し物をして一週間で向かえば余裕で間に合う目算だ。
それで話はまとまったと思いきや、ディアドロの横から控え目な声がした。
「あ、あの~……ヌイはそんなに色々なところに行かなきゃですか?」
「行かなきゃですよ」
ディアドロは穏やかに即答する。
「あ、えっと。でもヌイには獣人さんたちがいればもう十分かな……と、思うんですが……どうですか?」
「ヌイ様……!」
ダドリーが感激している。少し涙まで流していた。
「それにヌイは小さいですから、そんなに遠くまで歩けないです」
「馬に乗っていけばいいですよ。ヌイ」
「ヌイはお馬さん乗れないです」
「私がいっしょに乗ってあげますから大丈夫ですよ」
「二人も乗ってお馬さんは大丈夫ですかね? 重いと思います」
「大丈夫です」
ヌイが何かと出かけられない理由を付けようとするが、ディアドロはニコニコしながらそれを切り捨てる。
「いたっ、あいたた……お腹が痛いです。これじゃしばらく出かけられないかも……」
「ディアドロ殿。ヌイ様はお加減が悪いご様子。無理に急ぐこともないでしょう」
ダドリーはヌイが大根芝居で痛がるのを本気で心配している。
「いやいや、あからさまに子供の嘘ですからね? 悪いですが今はそれに付き合っている暇はないんですよ」
「ヌ、ヌイは、ほ、本当にお腹が痛いんです」
「ディアドロ殿はヌイ様に対して少し無礼ではないのか? 臣下としての自覚が足りないのでは?」
仮病を看破されてうろたえ始めたヌイを見て、ダドリーの矛先がディアドロに向く。ダドリーの臣下としての意識はすっかり高い。ヌイの意向より優先するものなどほかにはない。
どうやらヌイはここに留まろうと懸命に抵抗している。彼女としてはすでに安住の地を見つけたので動きたくないというわけだ。ルドルフがダドリーを降してからというもの、ヌイは獣人たちからちやほやされ通しで、今まさに人生の絶頂を迎えていた。
ディアドロがいつもの無言の笑顔でヌイを見つめる。ヌイは少し怯んだが、なんとかそのまま無言を貫き通す。今日は易々と屈する気はないようだ。
「ちょっといいですか?」
ディアドロはそう言ってヌイの肩を押して少し離れたところに連れて行った。ダドリーもついて行こうとしたが、ディアドロに制される。なにやらヌイに耳打ちするディアドロ。ダドリーは少し落ち着かなそうにそれを見守っている。
しばらくしてヌイは顔を青くして帰ってきた。
「ヌイはお腹痛いの治りました。もっと張れます。が、頑張らせてください」
少し涙目になっている。いったいあのダークエルフに何を言われたのだろうか。
「あ、安住の地はもう少し先でした。ヌイは竜に絶対に会わないといけなかったです。それがヌイの役目なので」
やがて出発の時。セラと別れ別れになるとそこで初めて気づいたヌイは不安げな顔になった。別行動するという話の意味を理解していなかったのだ。
「セラお姉ちゃん、どこか行っちゃうですか? せっかく仲良くなったのに……」
「ヌイちゃん……少し離れるだけだから、大丈夫。またすぐ会えるよ」
セラがそう言って励ましたが、ヌイはぐずって涙目になる。
「いっしょにいて欲しいです。ヌイのお願い、聞いてくれないんですか?」
セラは激しく庇護欲を掻き立てられたと見え、何か言いたげにルドルフの顔を見るが、ルドルフは黙って首を横に振った。
「ご安心を。ヌイ様にはこのダドリーが付いております。何なりとお申し付けください」
「ダドリーさん!」
傍らに控えていたダドリーが頼もしく声をかけると、一転してヌイの顔がぱぁっと明るくなった。そのままセラのことなど忘れたかのようにダドリーにしがみついて額をこすりつける。
「へへ……そうです、ヌイにはダドリーさんがいたんでしたぁ」
置き去りにされた形になったセラは、何か裏切られたような、少し寂しいような、そんな顔をしていた。