第九十五話 死者の国
波の穏やかな入り江に入るとディアドロは静かに船を岸に着けた。
ルトを出航して三日目の正午ごろ、一行は死霊国の片隅に上陸した。その日は朝からどんよりと曇っていた。
上陸した場所は近くを山に囲まれながらもわずかに開けた平地で、おそらくここにはかつて漁村か何かがあったのだろう。人の手によると思われる石垣の跡がところどころに残っている。
しかしそのわずかな痕跡を除けば見渡す限りの砂と土。住人がどれほど前に消えたのかすらわからない。すっかり禿げ上がった山の方から流れてくる川にも命の気配はなく、水は暗く澄んでいる。
船の上からも荒涼たる陸地の様子は見えていたが、改めてその景色を目の当たりにして子供たちも静かになる。ルドルフも初めて見る死の光景である。
空気がまとわりつくような密度を持っている。その重さの正体は大地から立ち上る瘴気である。その瘴気の毒が辺りに満ちることで、草木は枯れ、虫や動物も育つことがない。視界を遮るもののない荒れ果てた荒野に、文字通りの死の大地が広がっている。近くにアンデッドの気配はないが、ここが死者の国であることは誰の目にも明らかだった。ただただ静寂である。
「意外と静かだな。もっと至る所にゾンビやらスケルトンやらがあふれているのかと思っていた」
「集めて回る下級のネクロマンサーたちがいるからな。こういう村の跡なんかは特にだが、まあほうきとちりとりで掃いたみたいにきれいなもんさ」
ルドルフが口にした違和感にアクィラが答える。
「もっともわざわざ死にに突撃してくる馬鹿な魔物どものおかげであいつらの仕事も尽きない。賑やかなとこは賑やかだぜ」
死体が長く瘴気に当てられると自然とゾンビやスケルトンなどのアンデッドが生まれるが、そうした低級なアンデッドは初歩的な死霊魔術で簡単に支配下に置くことができる。死霊国ではそうやって人間か魔物かを問わず、死者を無駄なく資源として活用しているのだ。
「ここから海岸沿いに西の方に歩いて、いったん死霊国の勢力圏を抜けます。竜のいるところまで、ずっとリッチキングの領地の中を歩くのはさすがに危険ですのでね。ひとまず近くの獣人の村まで行く予定です。明日には到着できるでしょう」
ディアドロがいつものごとく笑顔で今後の方針を告げる。
ディアドロを先頭に、ルドルフを殿として、一行はかつての道の跡と思われる場所を列をなして歩いていく。海沿いの道を少し登ると岸壁の上に出た。ここから山の中へと入っていき、峠道を越えるらしい。その日は峠道の途中でキャンプを張った。
翌日の昼、すでに山道を下って平らな土地まで来たところで、まださほど朽ちていない木の小屋を見た。周りには同じような廃屋がいくつも残っており、どうやら滅んでからさほど古くない集落跡まで来たらしい。
と、そこで風に乗って何かが激しくぶつかり合う戦いの音が聞こえてきた。なにやら行く手の先で何かと何かが戦っている。
警戒しつつもルドルフたちがそちらへ向かうと、戦っているのは獣の頭をした毛むくじゃらの獣人が三人、対するのは数十のゴブリンと三体のオーガである。ほかに血を流して倒れている獣人が二人ある。ゴブリンたちも多くの屍をさらしていたが、こちらは血を流した様子はない。獣人たちに襲い掛かっているオーガとゴブリンたちも生気のない土気色の肌をしている。いつぞや見たのと同じ、魔物のゾンビである。
熊頭のひときわ大きな体をした獣人は一人で三体のオーガゾンビを相手取っており、太い槍を振り回すたびに巻き添えになったゴブリンゾンビが吹き飛ばされていく。だがほかに健在な犬頭と鹿頭の獣人は、群れなすゴブリンゾンビたちに対して防戦一方で、熊頭も彼らを守るために攻めきれないでいた。
しかもゾンビたちは疲れを知らず、さらにいったん倒れたゴブリンゾンビもまた立ち上がって動き始めている。このままでは残りの獣人たちも危ないだろう。
「すみませんけど、あのゾンビたちを掃除してくれます? 私、荒事は得意ではないので。あ、獣人たちの方はできれば殺さないでくださいね」
ディアドロが軽い調子で言った。
「ふむ。たしか戦闘が必要なら手を貸すという話だったな。了解した」
ルドルフも軽い調子で応じる。バルドが港町で手に入れた無銘の大剣を鞘から抜いた。セラもその後ろに控える。アクィラはやる気なしで見物の構えだ。ラエルもその横で傍観を決め込んでいる。
重量のある大剣を軽々と肩に担いで走り出したバルドは、瞬く間に接敵してゴブリンゾンビたちを横薙ぎに蹴散らしていく。その間にセラの放ったエナジーショットがオーガのうち二体の頭を吹き飛ばした。師であるルドルフから見ても満点の威力と精度だ。バルドは残りのオーガに素早く迫ると、飛び込みざまに剣を振り下ろして真っ向から唐竹割にした。獲物をすべて取られてはたまらないとでも言わんばかりの強引さだった。
何が起こったのか状況がつかめない獣人たちは、突如として現れた第三者に対しても身を守る体勢を取っている。
一方的な戦いはあっという間に終わった。
ゾンビらがすべて倒れると、獣人たちはルドルフたちに対して改めて武器を構えた。中央が熊頭、その左右を犬頭と鹿頭の獣人が固めて、倒れた仲間の二人を後ろにかばっている。助けられたことより得体のしれない集団が現れたことを警戒していた。
「貴様らは何者だ!」
リーダーらしき熊頭の獣人が噛みつきそうな勢いで誰何する。
するとディアドロがわずかに抵抗するヌイを押し立て前に出て、そして耳打ちした。
「ほら、ヌイ。前に教えたとおりにお話してください。あなたの仕事ですよ」
「あ、はい。あ、えと……あなたたち、魔物さんですか? こ、こんなところで出会ったのも何かの縁かもしれません。せっかくなのでヌイと仲良くしてくれませんか? へへ」
どこまでが教えたとおりの内容だったのかは不明だが、その言葉は獣人たちに好ましい印象を与えたようだ。
不審なよそ者の中からほかの誰でもなく、卑屈な笑みを浮かべた少女が語り掛けてきたことに意外な顔をしながらも、獣人たちの警戒がゆるむ。どうやら敵ではないと認めて会話に応じる姿勢を見せた。
話を聞くに、彼らはもともとこの滅びた集落の住人だったらしい。数年前にゾンビの群れに追い出されて、今はここから少し行った場所にある別の獣人集落の一員となっている。彼らは集落を取り戻すためにしばしばゾンビたちを狩っているのだが、今日はたまたま予想外の大きな群れに行き会って苦戦していたのだとのことだった。
「あーあ、馬鹿だねぇ。そうやって自分たちもゾンビのお仲間になるところだったってわけだ。そうやって死人の国は拡大していくっていうのにさ」
アクィラがうんざりした調子で言う。
「黙れ! ここは我々の生まれ育った土地だ。どうあっても取り返す」
よそ者からあからさまに馬鹿呼ばわりされて熊頭が激高した。
「だいたい集落を取り返すたって、この瘴気をなんとかしなきゃ住めないだろうに。それはどうするつもりなんだよ。それがどうにもならないから取り返せないんだろ?」
「アンデッドたちを駆逐し続ければいずれなんとかなるはずだ」
「ならねえっての」
理屈のわからない熊頭にイラつくアクィラと、素性のわからないよそ者に口出しされて気の立った熊頭が、胸を突き合わせんばかりにしてにらみ合い、険悪なムードになる。
「ヌイ、こういう時は仲裁ですよ。みんな仲良くです」
「あ、あ、仲良く! みなさん、喧嘩はやめて仲良くしましょうぉ」
そんなアクィラと熊頭の間に入ってヌイがあわあわしている。それが功を奏したのか、熊頭は少し頭が冷えたようだ。
「それにあのゾンビの数は自然に集まったものじゃない。お前らがたびたびアンデッドを狩ってるせいで、ここの集落は目を付けられちまったんだよ」
「あんた、いったい……?」
冷静になった熊頭はアクィラが何か事情に通じていると気がついた様子だ。
「あ、こんなところで立ち話もなんですし、あなたたちの住んでいるところに、つ、連れて行ってくれませんか? あ、私なんかが行って迷惑じゃあなかったら、ですが……?」
またしてもディアドロの耳打ちを受けたヌイが熊頭に提案すると、熊頭はハッと何か気がついたような顔になる。
「あ、ああ、そうだ。考えてみればあんたたちは命の恩人。村に招いて礼をしなければ獣人の名折れというものだ」
そう言うと熊頭は顔も体もまったく人間と同じ姿に変化した。ほかの獣人たちもそれに倣う。倒れていた二人も幸い命に別状はなく、他の獣人の手を借りて立ち上がると同じく人間の姿となった。
獣人が獣の姿になるのは戦いの時や力仕事をする時だけで、普段は人間の姿をしている。先ほどから普通に会話していることからわかるように、言語も人間と変わらない。
彼らが暮らす獣人集落へと向かう道すがら、熊頭だった獣人はダドリーと名乗った。人の姿になってもずんぐりとしていて、どこか熊のような風格がある。