第三十九話 対峙再び
誰もやってこないダンジョンの奥深く。天井の高い広々とした空間で、金色のくせっ毛の小さな少女がこれからある魔術を使おうとしている。濃い灰色のローブをまとった巨漢の骸骨がそれを見守りアドバイスしていた。
「いいか、まずはすぐそこを目標にするんだ。三歩離れた場所だ」
「はいっ」
セラは少し緊張を見せながら、覚えている呪文を一言一句違えず、細かい発音や抑揚も完璧に唱える。そして詠唱が終わるや否や煌めく光ととも姿を消し、同時に三歩離れた場所に同じ光をともなって移動していた。
「できました!」
セラがうれしそうにルドルフの方を振り向く。少女を見下ろす髑髏の眼窩に、緑の炎がゆらゆらと満足そうに揺らいでいる。
驚くことに年端も行かぬ少女が転移魔術を行使した。今この世に生きている魔術師の中でも、数えるほどしか使い手のいない高難度魔術を、である。
覚えること自体は簡単だった。彼女は魔術を見るだけで覚えられる能力を持っているからである。しかしつい先日覚えた転移魔術は覚えていても今まで使うことはできなかった。行使に必要な魔力の出力が足りなかったからである。
だがこの半月のたゆまぬ修練によって、彼女はその足りなかったものを身に付け、転移魔術を見事ものにした。彼女はもはや一度訪れた場所ならいつでもどこでも瞬時に行くことができる。頭に強くその場所を思い浮かべて呪文を唱えれば、一瞬でそこに移動できるのだ。
憧れの魔術を使えるようになったセラは喜びにあふれ、調子に乗って再び転移魔術を使った。が、目の前から姿を消した後、いつまで経っても戻ってこないのでルドルフが慌てて探し回る羽目になった。幸いすぐに見つかったセラはダンジョン第四層の旧居で魔力切れを起こしてへばっていた。今のところ転移魔術は二回が限度のようだ。
なんとかセラを連れ戻して落ち着いたルドルフは、とにもかくにもひとつ肩の荷が下りたとため息をついた。
これでもう大丈夫である。トロールの群れに延々追い回されようと、ダークエルフに執拗に同行を迫られようと、ルドルフとセラはそろって転移して逃げることができる。もはやこの師弟を捕まえられるものなどいまい。三十六計逃げるに如かずだ。フハハ。
件のダムレイとかいうダークエルフのせいで、せっかくたどり着いたダンジョンの第十二層への引っ越しは不調に終わっていた。アリアナは地上に戻るやすぐに新しい住処を見つける約束をし、その次の日にはもう候補地探しに奔走し始めた。聖剣旅団のための露払い任務が終わったばかりだというのに、彼女のタフさは計り知れない。
アリアナが伝手を探している間、二人は今いる第八層の地脈の部屋を仮の根城としていた。巨大バジリスクがいた場所で、現在は第四層と第十二層への転移門が設置されてある。そこでルドルフは毎日セラの魔術を見ている。
急を要する転移魔術の習得は例外として、目下のところセラは新しい魔術の習得より、手持ちの魔術の熟練度向上を優先し、地道な訓練に明け暮れていた。真に魔術を会得するとは、覚えてそれで終わりというものではないからだ。
いま使える魔術の詠唱を短縮して素早く唱えられるようになること、いま使える魔術の効力や持続時間の調節ができるようになること、それにいま使える魔術の中から状況に応じて最適な魔術を選び取れるようになること。
そうした目標をかかげ、午前中は魔力切れで倒れる寸前まで様々な魔術を使い続ける。そんな地味で辛いはずの訓練を、セラは楽しそうに前のめりにこなしている。左腕の手首に光る練魔の腕輪が与える重い枷のような負荷もなんのそのである。
休むのも鍛錬のうち、と午後はのんびりと、せいぜい座学をするくらいで過ごしているが、放っておくと少女はまた魔術の鍛錬を始めそうな勢いだ。ルドルフはそんな弟子を半ば楽しみの目で、半ば脅威の目で見ていた。
セラが転移魔術を使えるようになったその翌日。
部屋の入り口近くに張り巡らせていた警報の魔術が不意に反応した。音が鳴るわけではないが、それはルドルフにこの部屋に向かってくる者があることを知らせる。
ややもせずして装備を固めた男女五人の冒険者と大剣を背負った一人のエルフの男が姿を現した。冒険者らの顔ぶれを見ればその顔はいつか見た五人。聖剣旅団である。
ルドルフとセラは彼らを出迎えるようにがらんとした部屋の中央に立っている。それはかつての第四層での対峙をわずかに彷彿とさせた。しかし今日の両者の間に緊迫感はない。
「僕はエルフのフローと申します。以後お見知りおきを」
初対面のエルフは丁重に一礼しつつも軽い調子で名乗った。聖剣の神子の担当をしている年若いエルフである。まだ四十年しか生きていないと聞く。
年下のエルフはルドルフも初めてだ。
そんな感慨を抱きつつ、彼はエルフの背にある大剣に視線を走らせた。
聖剣。
いかなるアンデッドをも一撃で滅ぼす恐るべき刃。しかし本来の持ち主の手にないそれは今は力を眠らせている。彼らがルドルフと敵対する意思がないことを示すため、フローが一時的に預かったのだろう。
続いてすぐ横にいたその聖剣の使い手、重厚な板金の鎧を着た青年が前に出て、神妙に頭を下げた。
「事情を知らなかったとはいえ、先日は大変な無礼をした。何よりもまずは謝罪の言葉を受け取って欲しい」
それから打って変わって爽やかな笑みを浮かべ、おもむろに自己紹介する。
「私の名はサイラス。聖剣の神子として従士の皆とともに聖剣旅団という名のパーティを組んで活動している。こちらは神官のエレノア。神殿から派遣された私のサポート役だ。それから魔術師のザイオン、剣士のリズ、盗賊のルイン。彼らとは縁あってすでに顔見知りだと聞いている。これからは同じ神子として彼らともどもよろしく頼む」
エレノアは何か気に食わないような顔でそっぽを向いている。ザイオンはしまらない顔でニカッと笑う。リズはセラを見ながら片手を腰のあたりでひらひらと振る。ルインはエレノアの方を気にしながら小さく頭を下げた。神子の名を背負っている割には気負わない、なかなか自由なパーティのようだ。
セラは馴染みのない人間が大勢来たので緊張して息を飲んでいる。本来ならば挨拶を返すべきなのだが黙っているので、代わりによそゆきの言葉でルドルフが応えた。
「こちらは我がマスターのセラ。私は忠実なる下僕の名もなきリッチ。こちらこそ神子としてお互い仲良くやっていければと考えている」
彼らが来ることはアリアナから聞いていた。このダンジョンの第四層と第八層の間の転移門を使えるようにしてやって欲しいと言われている。聖剣旅団はやっと金策を終えて装備を一新し、ルドルフへの敗北で受けたダメージを回復していた。そして当初の第一目標であった第十層を目指して活動を再開している。
ルドルフは手早く用件を済ませようと、それぞれに転移門の鍵となるクリスタルを出すように言った。
するとフローが「その前に」と別の話を割り込ませてきた。なんでも一度戦った者として、今後の助言が欲しいのだという。
彼らは神託によって課された神子の使命として、最終的には西方の死霊国の王、リッチキングの打倒に挑むことになっている。同じリッチとして聖剣旅団の今の実力をどう思うか聞きたいというのだ。
フローが話しかけたのはセラに向けてであったが、少女はどう答えていいかわからないとばかりにルドルフを見あげる。その視線を受けてルドルフは言った。
「マスターに異存がなければ私はかまわないが」
こくんとうなずくセラ。そのまま伏し目がちとなり、フローとは終始目を合わせようとしない。出会った当初に比べれば少しはしっかりしたかと思われたが、見知らぬ人々に囲まれると相変わらずこの調子だった。
ともあれ、そういうことなら立ち話もなんである。
まあお茶くらいは出してやるか、とルドルフは呪文を唱えて次元収納からテーブルと人数分の椅子を取り出す。フローやサイラスたちからは何もない場所に突然それらが現れたように見える。黙って勧められるまま全員が席に着くと、ルドルフはいつもの無限にお茶の湧くポットから注いだお茶をそれぞれの前に置いた。
しかしサイラスが礼とともにそれに口をつけようとしたところ、きつい口調で割り込むものがあった。
「待ってください!」
血相を変えているのは神官のエレノアである。どっしりとした体を乗り出し、眉間に谷のようなしわを寄せながら言った。
「アンデッドの出したものなぞ口にしてはなりません。聖剣の神子たるあなたがこのような得体の知れないものを」
場の幾人かに緊張が走る。エレノアは堰を切ったように敵意に満ちた言葉をあふれさせた。
「だいたい先ほどからそちらの神子は黙ったままで、リッチしか話をしていないではないですか。ここにこうしているのは本当に神子の意思なのですか? 実はその邪悪なリッチに何かたぶらかされているのでは?」
「エレノア!」
急にヒートアップしたエレノアはまだ先を続けようとしていたが、サイラスが手をあげてそれを制する。
「エレノア、君の言い分は幾度も聞いた。その上で私は腹を決めたと言っただろう? だから私はここに来たのだ。わかってくれるね」
師匠を邪悪呼ばわりされたセラがキッとした目つきになってエレノアに噛みつこうとしていたが、エレノアが痛みに耐えるように口を結んで黙ったのを見て、再び席に腰を落とした。
「うちのエレノアが不快な思いをさせてしまいすまない。ご厚意、ありがたくいただくとしよう」
サイラスは頭を軽く下げたあと、悠々とした態度でお茶を一口含んで喉を鳴らす。「これはおいしい」とにこやかに笑った。
「ふむ、先だって邪悪なるリッチに縋りついて醜態をさらした同じ人物とはとても思えない余裕だ。聖剣の輝きにはその心を覆い隠す力もあるのかな?」
ルドルフはエレノアの態度への報復のように当てこすった。
だがこれは本心からではない。サイラスの反応を見るためだ。
聖騎士や神官のごとき神殿に連なる者ならば、エレノアのようにアンデッドを忌避する反応は極めて自然だ。サイラスの態度の方が不自然で、かえって腹が読めない。
ルドルフは眼窩の緑を細めて、目の前の聖騎士の心中を見定めんとした。