第一話 不死の王と古い友人
寿命が尽きようとしている。魔術の研鑽半ばにして。
その事実を前に、老いたる魔術師は、長年をかけて準備してきた禁術の行使を迷わず選んだ。死霊魔術。中でもその粋たるひとつ。自らをアンデッドへと転化する魔術を。
誰も訪れることのないダンジョンの閉じられた空間に呪文の詠唱が暗く響く。床に描かれているのは複雑で不吉な文様を折り重ねて描かれた魔法陣。詠唱が終わると同時にそれが黒い輝きを放った――
こうして彼はリッチになったのだ。不死の王とも呼ばれるアンデッドの最高峰にである。
人の肉体と生命を捨て、魔力で動く骨の体となった彼の前には、もはや研鑽の時間を有限とする寿命などという概念はない。これからは望むまま無限に魔術を極めていくことができる。
リッチとなったばかりの魔術師はその事実を思うと、尽きせぬ宝を手に入れたかのようにほくそ笑んだ。すでに髑髏と化したその顔に笑みとわかる表情は浮かばなかったが、暗い眼窩の底にちらつく緑の光がひときわ勢いよく燃えて揺らいだ。
それはまさしく不死者にふさわしい禍々しき笑みだった。
* * *
あれから十年の時が過ぎた。
地下深いダンジョンの一室にある魔術師の部屋は何も変わっていない。長きにわたって訪問する者のない隠された場所である。
その闇の空間の真ん中にぽつんと鎮座する何かがある。
机とランプと椅子と骸骨だ。
大きく頑丈な机の上に細々と灯るランプが辺りを頼りなく照らし、雑然とした書類やら文具やらが時折ゆらめく影を落としている。机に寄り添う立派な革張りの椅子には、上質な暗いグレーのローブでその身を覆った骸骨が乗っていた。だらしなく崩れた格好で、口を大きく開けた髑髏が上を向いている。その眼窩は虚ろな闇。
それは単なる白骨死体同然の姿である。
不死を志した魔術師――ルドルフの成れの果てであった。
だが不死の術が切れてしまったわけではない。
数十時間をその姿勢で過ごした後、骸骨はのっそりと動き、そのまま石の床の上に手足を伸ばして倒れた。カラカラと骨がぶつかる軽い音が響く。
「平和だ」
不死者となって割とすぐ、ルドルフは無限の時間を持て余してしまった。何かに駆り立てられるように打ち込んだ魔術の研究も、すべてがあっけなくひと段落してしまった。かといってほかにやることもないので、一日のほとんどの時間を動かぬ屍として過ごしている。
何か新しいことをやるべきではないのか。時々そんなことを思ったりもする。そのたびにあまりに無為に過ごしている己に空っぽの胸が痛んだが「なに、時間はいくらでもあるんだ」と思うと、じんわりとした安心感がその身を包むのであった。
「リッチ最高」
生きていた頃の汲めども尽きぬ渇望が嘘のように凪いでいる。彼は極めて安らいだ日々を送っていた。その姿は完璧な敗北者のようでもあり、また勝利者のようでもあった。
そんなある日。
その部屋の真ん中の何もない虚空に、不意に転移の光が煌めいた。その光の中から三角の帽子をかぶった少年がパッと姿を現し、石畳の床に器用に着地した。
人の気配を感じたルドルフは、椅子に座ったまま顔も動かさずに視線をそちらに向ける。見覚えがない顔だ。子供の知り合いはない。いったい何者であろう……彼はとりあえず一瞬うっすらと輝いた目の光を消し、白骨死体のフリをして様子を見ることにした。
少年はきょろきょろとあたりを見回すと、椅子の上の骸骨に気がつき顔を向けた。
近づいてきた少年が骸骨に向かって呼びかける。
「ルドルフ?」
返事はない。静寂。音もなくランプの明かりがゆらゆらと揺れるばかりだ。
「うーん、この体のデカさはルドルフに間違いないけど……やっぱり普通に死んでたかぁ」
少年はそう言うと、物怖じする様子もなく巨漢の骸骨に近づいて、その顔を間近に見上げてしげしげと眺める。と、その時、骸骨の暗い眼窩に緑の光が灯った。そして静かに口を開いた。
「デダルスか?」
ルドルフは少年の顔に彼の古い友人にして盟友、デダルスの面影を見た。デダルスは彼と同じく老齢の魔術師であって少年であるはずがない。しかし彼はデダルスがどんな魔術を研究していたかを知っていた。ゆえにそう直感したのだ。
おもむろに動き出してしゃべった骸骨に驚く様子もなく、少年はニコッと笑顔で応じた。
「やぁ。久しぶりルドルフ。ずいぶんとスリムになったもんだねえ」
静寂につつまれていた一室がにわかににぎやかになった。ルドルフと呼ばれた骸骨とデダルスと呼ばれた少年が、時に身振り手振りをまじえつつ談笑している。
二人は古くからの戦友であり親友だった。十数年ぶりの再会。最後に別れた時とはお互い変わり果てた姿になっていたが、話し始めれば変わらず気心知れた仲であるとすぐわかった。
「しかし本当にリッチになるとは思い切ったもんだねぇ。君がそこまでやるとは、できるとは、正直僕思ってなかった」
デダルスが半ば感心、半ば呆れるような調子で言った。
寿命を超越できるとはいえ、人であることをやめるというのは、どこか常軌を逸していなければできることではない。ルドルフがデダルスにリッチになる計画を語った時、デダルスは「君も割と口だけのところあるからな」と半信半疑の態度を隠さなかった。何なら目の前に証拠がある今もまだ、その半信半疑の態度が透けている。
「俺なんかが一廉の魔術師になろうと思ったら、それくらいはしないと追い付かないと考えたのさ」
友人の言葉を聞いたルドルフは少しばつが悪そうに頭をかいた。目には緑の炎がチラチラと控え目に燃えている。
「一廉? いや君は十分に一廉だったじゃないか。六属性の上級魔術を扱うことができて、魔術の応用にだって人並み以上に長けている。加えて希少属性の研究をしていた。それは十分に卓越した魔術師だよ」
「お前に言われてもこそばゆいだけだな。元魔術師ギルド総会長の天才魔術師様よ。俺は凡庸な魔術師に過ぎん。それぞれの属性も半端につまみ食いしただけだし、特に魔力の低さはどうにもならんかった」
「上級魔術まで使えてつまみ食いってこともないだろう。天才の僕と比べたらそりゃ誰でもかすむかもしれないけど、君は卑下しすぎだ。君だって空属性、空間魔術の専門家じゃないか。そこは僕だってかなわない。魔力はたしかにしょぼかったけど、最終的にはリッチになれるほどにまで高められたんだろう? すごいよ」
「いやぁ、リッチになれる魔力云々でいうとちょっとそこはズルをしたというか、低いなりの工夫を見つけたというか。空間魔術もキース先生のあとを追いかけてるところが大きいし……どっちも時間さえあれば誰でもできることにすぎないんだよ」
「いやいやいや、いやいやいやいや。その時間をつぎ込むことがそもそも誰にでもできることじゃないっての」
「そうかぁ?」
「君はどうも、自分が通り過ぎた地点を過少に評価する悪癖があるね」
デダルスが呆れ顔でため息をつくと、ルドルフは打って変わって胸を張った。
「ふふん。しかしリッチになった今となっては誇れることもあるぞ。研究の片手間に九属性魔術師になった」
「へぇ。すごいじゃないか」
九属性魔術師とは一般的な魔術属性すべてを扱うことができるという、魔術師にとってのひとつの到達点である。新たな属性の魔術を習得するには年単位の時間を要するが、不死となって無限の時間を得たルドルフにとって、すでに使える六属性から追加の三属性に手を出すのは造作もないことだった。
「ついでに百の呪文を操る魔術師にもなった」
「ふーん。でもどうせきちんと熟練して使いこなせる魔術は十とか二十でしょ。僕、そういう実をともなわない称号は好きじゃないんだよね」
「さすがにたった十ってことはない。しかし俗な称号に喜ぶ凡俗で悪かったな。まったく。俺が得意になるとけなしよる。友達なら少しは素直に褒めろ」
「悪かったね。でも、さっきから褒めてたじゃん」
ルドルフが気分を害すると、デダルスはそう言って笑った。
「ところで……お前の方こそよく思い切ったもんだな。デダルス。最後に会った時に若返りを考えてるって話は聞いたが、まだかなりのリスクがあるって言ってなかったか? 存在消滅のリスクだとかなんとか」
今度はルドルフがデダルスの方に話を振った。デダルスも魔術の研鑽を続けるためにさらなる寿命を求めていた。彼はその手段としてルドルフとは違ったアプローチを取ったのだ。
「あれからいくつか大きな進展があってねぇ。五割の目が見込めるくらいまで行ったんだ」
少年はうれしそうに答える。
「五割! それでよくやるのぅ」
先ほどデダルスがしたように、ルドルフが感心と呆れを半々にこめて言った。
「そりゃ時間切れが近づけばね。老衰で死ぬかどうかってところまでいったらもう、やるしかないでしょう。まあそれでなんとか賭けには勝ったってかんじかな」
少年は得意げだ。
聞くに、思ったより若くなりすぎて五年くらいは思うように動けなかったらしい。二十歳くらいを目標に使った魔術で行き過ぎて、五歳程度にまで若返ってしまったという。ルドルフは指折りデダルスの年を確認した。たしかに今は十歳くらいの外見をしている。
「どうも調整がシビアでね。まだ完全に術式を把握してないんだ。でもギリギリで助かったよ。下手をして生まれるより前まで戻ってしまわなくてよかった」
「それが存在消滅のリスクか。なんとまあ」
屈託のない笑顔を見せるデダルスにルドルフは再び呆れた。
骸骨と少年。
同様に魔術の研究を続けるための時間を求めた結果、今はそれぞれに対照的な姿をしている。
「でも命を懸けただけあってなかなかいい結果になったと思わない? そんな骸骨になるよりもさ」
「いや、リッチ最高だし。食事も睡眠も必要としないアンデッドの効率の良さをお前は知らんのだ」
お互い姿は変わっても久しぶりに会った気の置けない友人同士。そんな軽口の応酬がしばらく続いた。