異世界に転生した、俺。
願わくば、全く違う人生を歩みたい。
前世の俺が、最後に思ったことはそれだ。
生きるというのは難しいもので、お金を稼がなければ食っていくことすら厳しい。
日々を仕事に追われ、いつからか、趣味に没頭する時間は消えていた。
──人生は自己満足。
俺の信念すら揺らぎ始めた頃、そんなある日からの記憶が途切れている。
きっと死んだのだろう。
俺は文字通り、忙殺されたのだ。
……
現在、俺は屋敷の中庭にいる。
最低限の整備がされた池の水面に映るのは、長い黒髪だ。
生気を失いくすんだ男の顔ではなく、あどけない少女の姿が見えた。
俺の名前はラス・フォート。
小さな騎士の家で、長女として生を受けた。
前世の記憶がある分、これは異世界転生ということだろう。
騎士といっても既に没落していて、特別力を持っているわけではない。
だが、名誉ある身分を承る以上、立派な家で恵まれた生活をさせてもらっている。
異なる世界、異なる性別。
そして、騎士という全く異なった身分。
俺の願いが届いたのだろうか、それとも、どこの誰かが俺を哀れんだのだろうか。
異世界転生というスケールの大きすぎる話に、俺は考えるのを止めていた。
「姉貴! 今日は何を教えてくれるんだ!?」
輝かせた目を俺に向けてくるのは、妹だ。
灰がかった黒髪を短く整え、半袖短パンという元気っ子。
年相応の幼さもあって、男か女か見た目だけでは判断できない。
フォート家に、男は生まれなかった。
俺と妹だけだ。
家の存続にかかわる事なのだが、能天気な両親はそれを気にしない。
ただ、妹は男の口調、男の振る舞いをしている。
きっと子供ながらに家のことを考えた結果だろう。
微笑ましい光景だ。
……まあ、それには俺の責任もあるのだが。
「昨日俺が課したメニューは、ちゃんと済ませたか?」
そう、俺は元男なのだ。
最初は自分を偽ろうと考えたが、それでは前と同じ。
正直に生きようとした結果、妹に悪影響を与えてしまった。
一人称は俺で、口調は淑女のそれではない。
朝から晩まで、一日の全てを鍛錬に費やし、強さだけを求め続ける。
鍛錬には理由があったのだが、この世界の人に言っても無駄だ。
生まれつき意識がはっきりしていた俺は、鍛錬を欠かさなかった。
この世界には、魔力という”全ての源”がある。
物理法則ですら魔力に依存するという、心躍る設定だ。
なにより、俺にはその魔力がみえた。
「もちろん! だから、今日は新技を教えてくれよ」
妹が縋りついてくる。
仕方がない、とっておきを教えよう。
「いいだろう。今日は完璧な移動法を教えてやる」
「やったー! いつも姉貴がやってるやつだよね!?」
俺は中庭の開けた場所に移動し、説明を始めた。
「片足で地面を踏み込み、もう片方の足を前に突き出す。姿勢は低く、体を倒すように地面を滑る動作、これがスライディングだ」
俺は妹の前で実演した。
謎の加速が加えられ、一瞬で移動する。
「そして、スライディングの途中で跳ぶ。それからまた、スライディングをする。その繰り返しだ。コツは止まらないこと。速度が落ちたら跳んで、再度加速するんだぞ」
俺はスライディングをして、止まる直前に少し体を浮き上がらせ、またスライディングをする。
「これがスライディングキャンセル、最強の回避移動技だ」
「かっけー! さすが姉貴だぜ!」
妹は目を輝かせて拳を握った。
そして、俺を真似てぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「うう……難しい……」
「そうだな、跳ぶと言っても、体を起こすようなイメージだ。後、流れる魔力の波を感じれるといい」
とは言ったものの、俺以外の人は、魔力というものを視ることができないようだ。
説明がつかない力の源を人は”魔力”と呼んだだけで、その実態については”謎”で終わっている。
ファンタジーの定番、魔力。
前世の知識から、脳が勝手に補正でもしてくれたのだと受け入れた。
生まれつき何ら不思議に感じなかった俺は、この世界の裏側を知ったような、少し得した気分になった。
妹の微笑ましい挑戦を眺めながら、今までを思い出す。
もちろんスクワットをしながらだ。
この動作にも意味があるのだ。
生まれた時、俺の中にある魔力は小さな粒だった。
どうやって強化しようかと考えた俺は、とりあえず筋トレをした。
定番の修行といえば、魔法などで魔力を使い、少しずつ容量を増やしていくことだろう。
しかし、俺の父親は古いタイプの騎士だったことから、剣のことしか知らなかった。
それでも、彼の保有魔力は一般人より遥かに多い。
そのことから俺は、単純に強くなればいい、という結論に至ったのだ。
繰り返す鍛錬。
暇があれば、腕立てにスクワット、そして腹筋に懸垂。
剣術を父親に教わり、戦闘の知識を身につける。
楽しい。
まるで好きだったゲームのレベル上げをしているかのようだ。
日々大きくなる魔力の粒が、俺にやる気を与えてくれる。
他人から視られることのない魔力は、究極の”自己満足”だ。
「うがー! 姉貴、俺には無理だー!」
妹が地面に転がり、両手足をバタバタとし始めた。
「もう諦めるのか?」
俺はスクワットをしながら聞く。
「いや、いつか追いついてやるからな! 姉貴を超えるのが、俺の夢だ!」
「そうか……期待してるぞ」
妹は良い目をしている。
彼女の頭を優しく撫でてあげ、俺は今日の鍛錬を終えた。
この後、両親に伝えることがあるのだ。
時は進み、今は夕食時。
長い机に四人が座り、仲睦まじく食事を取っている。
俺の右側、上座に座っているのは、父。
黒い髪を乱雑にまとめ、無精ひげを整えようともしていない。
本当に騎士かと疑いたくなるが、こう見えて昔は強かったらしい。
その分権力闘争に全く興味がなかったため、フォート家は辺境に追いやられ、小さな屋敷で細々と暮らすことになっている。
そして、父の右側に座っているのは、母。
灰色の髪に垂れた糸目、おっとりとした雰囲気が安心感を与えてくれる。
平民の出で、父とは幼馴染だという。
もちろん、権力などに微塵も興味がない。
「どう? 今日の夕食、いつもより時間をかけてみたの」
母が家族に問う。
今日のメニューには珍しく魚介類があった。
海から遠いこの場所では、めったに見ることはない。
この屋敷には、使用人という者がおらず、両親が家事の全般をしている。
毎日楽しそうに業務をこなす彼らを、俺は尊敬していた。
「うまい! 流石だ! 一流の料理人を遥かに凌駕しているぞ!」
無駄にデカい声で、父が答える。
小さな部屋によく響く。
「めっちゃおいしい! 俺、感動しました!」
元気な声で、俺の左側に座っていた妹が答えた。
口元をソースで汚し、満面の笑みだ。
「あら、ラスちゃんはあまり気に入らなかったのかしら? お魚さん、苦手だった?」
ナイフとフォークを手に考え事をしていた俺に、母は心配そうな顔を向けてきた。
そろそろ言うか。
家族の団らんを邪魔したくはなかったのだがな……
「いえ、とても美味しいです。ただ、今日は話しておきたいことがありまして……」
俺は姿勢を正して、家族を見る。
「ラス・フォート、十歳をもちまして、この家を離れたく思います」
場に沈黙が流れる。
最初に口を開いたのは、妹だった。
「姉貴! なんでだよ! 俺はまだ姉貴から……」
俺は肩を掴まれ、身を揺らされた。
抵抗しない俺の頭は、右へ左へと動く。
「養成学校へ、行くのだな」
「はい」
父の珍しく真剣な声に、俺はハッキリと答えた。
俺が行きたいのは、騎士養成学校。
というより、学校内の書庫。
そこにある魔導書を読みたいのだ。
この世界で魔法を学ぶには、”門”という異空間の試練で稀に排出される魔導書を読む必要がある。
自力で試練を乗り越えてもいいが、俺は自分の力を過信していない。
残る手段は、高い金を出して買うか、所持している人に読ませてもらうか、だった。
俺は一番現実的な案を選んだ。
幸運にも騎士の家系に生まれたのだ、利用しない手はない。
再び流れた沈黙。
やはり長女として、婿を取って欲しい……
「許可する!」
訳ではないようだ。
父はいつも通りの無駄に大きな声で、宣言した。
「よろしいのですか? 家に帰ることは少なくなると思いますが……」
「うむ、問題ない! ラスは俺を超えた! もう教えることはない!」
そういう話ですか……
しかし、反応は予想通りである。
「あらあら、母さん、明日はもっと頑張っちゃうわ~」
母親の反応も予想通り。
明日は俺の十歳の誕生日。
今日の豪華な夕食は、その前夜祭だったのだろう。
「姉貴! 俺、おれ……もっと強くなるから!」
決意を固めた妹の頭を、俺は撫でてあげる。
この家族は優しい。
そもそも、生まれてすぐ言葉を理解し走り込みまで始めた俺を、何の疑問も持たずに笑顔で見守るような両親だ。
この程度で驚かないことは知っていた。
「ちなみに、入校の手続きは済ませてありますので、ご心配なさらず」
「流石は俺の娘だ! はっはっは!」
「すごいわ~。母さん、そういうの苦手なのよね~」
「姉貴! 俺の分もやってくれよ!」
予め行動している俺に、家族は疑問すら抱かない。
十分すぎる程の愛を、俺は既に受け取っている。
妹には悪いが、先へと進ませてもらおう。
門という名のダンジョン、試練という名のボス戦。
そう、この世界に生まれたからには、どうしても叶えたい夢がある。
元ゲーマーの俺は、トリックショットでラスボスを倒したい──