共和国 1
六月十五日午前十時、青い制服の共和国軍はザンジャ谷の道を通った。高い崖に挟まれた隘路での戦闘を覚悟していたが、ランカの兵はひとりも見つからなかった。罠かと思い、道を通過した軽騎兵の一隊が偵察したが、小屋や田畠が放棄されていて、人の気配はない。
「敵兵がひとりも見当たらないというのか?」サン=タンドレ将軍はいまは斥候隊長を命じられたボルド少佐にたずねた。
「はい、閣下。家畜も見当たりません」
将軍がいる場所はザンジャの隘路を抜けたすぐ外の古い石垣の上に上がって、森の多いランカ盆地を遠目に眺めることができる。味方が行った放火らしい黒煙はいくつも見えるが、敵兵や旗といったものは見えない。
「伏兵が配置されているのでないか?」
「おそらく」
「モドイ方面への偵察を行え。進軍はそれからだ」
「それでは手ぬるすぎる」
そう言ったのは派遣議員のブロエだった。
「将軍。すぐにもルンビエへ軍を進め、焼き討ちにすべきだ」
「そう急ぐ必要もないでしょう」
「ランカのごとき少数民族相手に慎重な進軍などをすれば、中央からどうとられるか。将軍ならお分かりでしょう?」
サン=タンドレ将軍は微笑んだまま黙った。この馬鹿の首をひねってやりたいと思ったが我慢した。派遣議員には地方軍の監察権限があり、首府の公安委員会にその報告を送ることができる。つまり、ブロエにはサン=タンドレが臆病な指揮をして反革命勢力との戦いに尻ごみをしていると報告することができるのだ。
「閣下」サン=タンドレは自身の忍耐の強さを試すように言った。「もし、今度伏兵に遭遇されれば、その矢が射抜くのは腕ではありませんよ」
「革命のために命を捧げる覚悟はできている」
そのとき、かなりの近い位置で銃声がした。
「な、なんだ! 何事だ!」
ブロエはサン=タンドレをせっついて、調査のために伝令を何人か派遣させた。
ボルド少佐が戻ってきて報告した。
「兵士のひとりが銃を暴発させただけで敵と遭遇したわけではありませんでした」
「その兵士を銃殺せよ!」
「しかし、議員閣下、銃の暴発はときどき起こりうる事故でして――」
「銃殺せよとわたしが言っているのだ! このように銃を暴発させ陣容に動揺をもたらそうとするのは反革命以外の何物でもない! 銃殺だ! それとも少佐、お前も同罪になりたいか!」
ボルド少佐は将軍のほうを見た。渋い顔でうなずき、銃を暴発させた兵士は銃殺された。この戦役で出た最初の死者である。
「将軍、すぐに全軍を前進させるのだ。兵士諸君、勇気だ。前進こそ革命である!」
行軍する兵士にそう叫ぶと、ブロエはさっさと後ろに下がって、石垣の陰に隠れた。
すると六人の歩兵大佐と砲兵隊長の少佐が伝令を送ってきて、ブロエの無事を確かめに来た。ブロエはまた何か調子のいいことをいい、伝令たちはもっと調子のいいメッセージを見せる。
ブロエの権力が膨大なのをいいことにそこに取り入り将軍になろうとする部下が大勢いた。大佐たちはテーブルクロスとワインとクリスタルグラスを持ってきて、ブロエのために天幕を張り始めている。
「おべっか使いの馬鹿ども」サン=タンドレは吐き捨てた。彼は軍人貴族の家柄に生まれ、革命が始まる前から歩兵中佐であり、アーデルハイト北部十一州の独立戦争での活躍で連隊長に昇進した実績がある。革命後、貴族の出自は革命軍において不利に働くが、彼自身は革命の理想に賛同していたし、なによりも軍人として有能だった。革命直後、各連隊では貴族階級の連隊長たちが逮捕されるか兵士たちがマスケット銃で片づけるかしていた。その後、兵士たちの選挙によって指揮官が選ばれたが、どれも口がうまいだけの素人であり、革命戦争も最初のうちは絶望的だった。共和国議会は利用できるものは何でも利用すべきと考え、サン=タンドレは師団長に任ぜられたのだ。彼は革命の賛同と貴族の誇りが同居する珍しい軍人だった。
そのとき、また銃声が鳴り響いた。それも何発も続いて音が溶け合い、雷のように激しい音が大気を打つ。サン=タンドレは真鍮の望遠鏡を取り出して、森のあいだの小道を覗き込んだ。濃密な白煙が道を閉ざし、怪我人が運ばれてくる。
「ボルド少佐。すぐに戦闘区域に行き、敵の側面をつける迂回路があるか探せ」
「わかりました、閣下!」
最初の小競り合いがあったのはハラン辻とウシュイ辻というふたつの十字路のあいだにひろがる村境の道だった。道に沿って腰丈の石壁があり、そこから放たれた矢が偵察に出ていた歩兵の胸を射抜いたのだ。
負傷した偵察が後送され、第三十五歩兵連隊の第一大隊はすぐに横列隊形に開いたが、そのために道が塞がり、隊列の左右はまだ水の残る田に浸かることになった。
「撃て!」
大隊の三百丁のマスケット銃が一度に火を噴き、白く濃密な硝煙が部隊の視界を塞ぐ。
命中したかどうかも分からないまま、メーローニュ地方出身の兵士が紙製薬包を噛みちぎり、立てた銃身に火薬を流し込もうとしたとき、硝煙の壁から飛び出した矢じりが首に刺さり、延髄を破壊してうなじから突き出た。
それを合図に横列隊形の兵士たちに次々と矢を浴びて倒れた。中尉が一名、左の太ももを貫かれて倒れ、軍曹たちは思わず後ずさる兵士たちを怒鳴り声と拳で突き戻し、隊列を維持する。大隊長のガイエ少佐はまだ硝煙も晴れぬうちに全兵隊の再装填を確認すると、すぐに一斉射撃を行った。
矢はぴたりと止まる。
「少佐殿。抵抗が止みました」大隊付き副官が言う。
「総員着剣、前進し敵の守備陣地を占領せよ」
百ヤードを前進すると、腰丈の石壁にぶつかった。両翼の歩兵たちもふたつの十字路を占領したが、ランカ兵はひとりもいなかった。
「誰もいねえな」
「逃げやがった」
兵士たちは道沿いの家を調べ、奪えるものを奪ってから焼き払った。
大隊長のガイエ少佐はまた偵察隊を出し、今度は四列横隊のまま前進した。隊列を維持しながら前進するのはどうしても時間がかかるが、偵察の索敵が成功してから戦闘に入るまでの時間が短くなる。
まもなく斥候隊長のボルド少佐があらわれ、敵の側面を叩くための迂回路を探しにきたが、ガイエ少佐は側面もなにも敵を捕捉していないとこたえた。
「連中は少し抵抗してすぐに退却する。こちらは敵の姿も拝んでいない」
第一大隊はそのまま抵抗らしい抵抗を受けず、目的の前進ラインまで到達した。
侵攻軍は三手に分かれて進撃していた。北のヤーンア街道を第十七歩兵連隊が、南のダンバレイ村を第十一歩兵連隊が、そして中央を第三十五歩兵連隊の第一大隊が進んでいた。抵抗らしい抵抗は結局、中央の第三十五歩兵連隊が受けた死者二名、負傷者八名だけで占領区域は広がっていった。
戦おうとせず逃げる一方のランカ族を兵士たちは嘲り始める。
「これが世に名高いランカの戦いか」
「やつらは所詮こそこそ動くしか能がねえんだろう」
「娘っ子まで動員してるらしいじゃねえか」
「ここにゃあ本物の男がいねえんだ」
「この調子じゃ三日で終わるぜ。この戦はよ」
世に名高いランカ族を相手に戦うことにあった一抹の不安はあっけない抵抗と順調な前進で過去のものとなっていた。
それは司令部でも同様だった。
総司令部には大きな天幕が張られ、派遣議員のブロエが勝利の栄光をこんなに容易く得ることにがっかりしていると言った。六人の連隊長たちもその通りだと調子を合わせる。
「これではまるで我々が仕事をしていないように見られるだろうな。だが、革命の威光の前に野蛮人もひれ伏せずにはいられないということか。しかし、失望させてくれる」
サン=タンドレ将軍は別のことに失望していた。純白のテーブルクロスとワインボトルを持って後ろに控える従卒の少年、よく煮込まれた子牛の頬肉。こいつらは革命の軍隊じゃないのか? 革命直後に殺された軍人たちのなかにはサン=タンドレの友人が大勢いたし、サン=タンドレよりもずっと有能なものもいたのだ。
それに兵士たちの装備だってひどいものだ。ここに来るまで国境から国境へと連戦続きで装備は疲弊し、半分は靴を履かずに裸足で歩き、残りは布屑を入れた木靴をはき、軍服の青は色あせ、擦り切れ、破れている。馬糧は規定の半分以下で馬も痩せ始め、また食料については兵士たちは固いビスケットで何とか腹をもたせている。
軍がこんな状態でいることがないよう、この現状を中央へ報告するのがブロエの役目なのにこの全能を驕る男は不足に不満を唱えるのは反革命だと言ってきかない。
この男は何か自分の気に入らないことがあるたびに反革命だと言う。この調子では夫婦喧嘩にも反革命をもたらすのだろう。
サン=タンドレは政治は嫌いだった。もし、共和国議会の議員たちがブロエと五十歩百歩の有象無象ならば、貧民を救うはずの革命はあっけなく潰えて、また元の帝国が戻ってくるだろう。皇帝が議会に変わるだけだ。
ふと、思い出すのは甥のルイ・セザールのことだった。キュスティーヌ家に嫁いだ妹の子でやはり陸軍に入隊し砲兵少尉となっている。最後にあったのは五年前、十四歳のときだ。きっと立派な若者になったことだろう。妹からはくれぐれも息子のことを頼むと言われていたが、肝心の軍がこの有様では果たして軍に籍を置き続けることが正しいのか疑問だ。