カシャギ 3
次の日の午後、影術士としてイバリノミに小太刀を一本差し、それに手裏剣や鉄線を体のあちこちに身につけたイルククがガヴルナの家を訪れた。朝からあちこちで自分の晴れ着を見せてまわる子どもっぽい喜びに浸っていたのだが、ガヴルナが縁側から釣り竿を振り出し、水を張った手桶に木切れの浮きを浮かべているのを見つけると、逆に驚かされてしまった。
「あの、エージャ。何をしているんですか?」
「もちろん釣りだよ」
ひょっとして、昨日のお酒がまだ残っているのかもしれないと思ったが、ガヴルナは自分はシラフだし、もしかしたら、ここ数年で一番頭がはっきりしていて、明晰な状態にあるかもしれないと言った。
「それにしても、そのイバリノミは立派なものだね」
「そう思いますか?」
「この通り、手桶に釣り竿振っているけど、目はきちんと見えている。その小太刀は?」
「僕の家に伝わるものです」
自分よりも若い人たちが誇らしげにするのはいつ見ても気持ちのいいものだなと思ったガヴルナは影術士のイルククをスケッチさせてくれないかとお願いしてみた。
「僕を?」
「キミが影術士となって、初めてボクの家に来た記念だ。そんなに時間はかからないよ。ちょっと紙をとってくる」
ガヴルナはいつものように細く尖らせた炭筆を両手に持ち、線や陰影を選別してはさらさらとイルククの姿を紙に落としていった。
「なんだか恥ずかしいですね」
「恥ずかしがることはないよ。とても立派だ。次は後ろを向いてくれないか?」
「こうですか?」
「そうそう」
イルククの後姿を半分ほど描き終えた瞬間、よそ者の到来を告げる鐘が鳴り響いた。イルククは覆面を引き上げて顔を隠すと、風のように走り去った。影術士となった以上、彼には里を守る最前線に立つ責任があるのだ。ガヴルナも自転車にまたがり、ペダルを漕いだ。
これまでも鐘が鳴ることはあったが、外国人の旅人や行商人が迷いこんだくらいのことだった。だが、いま、里じゅうに鳴り響いている鐘は二度打ち、一度打ち、また二度打っている。それは極めて危険なガリャンイーの到来を告げるものだ。
いつの間にかイルククの姿は道のそばの草むらに移り、ほんの一瞬、杉の幹を蹴って跳ねる姿が見えたかと思ったら、その姿は悪戯好きの精霊のように消え去っていた。
ランカの里へ東から入る唯一の道、ザンジャ谷の出口につながる土手の道が見えた。そこには軍旗をかかげる騎兵の一隊がいた。その数はおよそ五十で白く染めた革のベルトでカービン銃を下げ、人の身長よりも長い槍に小さな赤い旗をつけてまっすぐ空に向かって立てていた。水色のドルマン式上衣にビロードを巻いた筒型の軍帽をかぶっていて、耳に銀の輪を通したり、大きな口ひげを蓄えて、こめかみの毛を編んで垂らしたりしていた。騎兵たちの先頭には銀のサーベルを下げた士官らしい男と文民らしい男が巨大な馬にまたがっていて、道を塞ぐ長老たちを傲然と見下ろしている。ランカの人びとはみなイバリノミ姿であるが、影術士はいない。だが、土手の左右は深い草むらと小川がある。影術士たちはそこに潜んでいるのだろう。ガヴルナは自転車を止めると、騎兵士官と長老のにらみ合うあいだに割って入った。
「なにがあったんです?」
長老が首をふった。「分からん。だが、このガリャンイーは武装してランカに入ろうとしている」
ガヴルナは士官のほうを見上げた。
「あなた方のうち、ランカの言葉が分かる人は?」
「やれやれ、やっと話の通じる文明人がやってきたか」
士官の横にいた平服の男が蔑むようにパナシェ語で言った。見た目通りの粗野な男らしい。長い鷲鼻ともじゃもじゃした眉毛の持ち主で角ばった頭に赤と青の羽毛飾りをのせた仰々しいトップハットがすっぽりはまり込んでいた。着ているものは文官の燕尾服だったが、少しでも軍服らしく見せようとしているのか真っ赤で派手な飾り帯を巻き、二丁の騎兵ピストルを突っ込んでいる。
「わたしはパナシェ共和国議会の全権派遣議員エティエンヌ・ブロエだ」
その声はまるで議会で演説でもするみたいな大声だったが、そのドラ声は響くかわりにランカの緑と大気のなかに吸い込まれていった。
「そして、こちらは共和国陸軍、第三軽騎兵連隊第一大隊指揮官のボルド少佐。我々は敵ではないと、その野蛮人たちに伝えろ」
「閣下、あなたは味方を野蛮人呼ばわりするのですか?」
「お前、名前は何という?」
「アルトフルガヴリエル・ルナ。学者です」
「どこの出身だ?」
「アレンテラです」
「では、アレンテラ人よ。もう一度言う。この野蛮人たちに我々は味方であると伝えよ。我々はこの地に革命の成果をもたらしにやってきたのだ」
ガヴルナは言葉をそのまま訳して長老たちに伝えた。
長老のひとりが首を傾げた。「野蛮人と言ったのか?」
「ええ」
「こいつらは知恵が足りないのか? 自分が味方だと売り込む人間が相手を野蛮人扱いして、それで友になれると思っているのか?」
「少し思い上がっているようです。なんとこたえますか?」
「エージャよ。何をもって自分たちがわしらの味方といえるのか、それを教えて欲しい」
「閣下、あなたがたはランカの人びとに何をもたらすつもりなのか、それを教えてほしいとのことです」
「自由と解放だ」
「わしらはもとから軛に繋がれていない」長老が言った。
そう訳したがブロエは長老の言葉を無視した。
「革命に反する全ての旧弊を廃する。我々はお前たちを神から解放してやりにきた。お前たちは神という支配者の道具に囚われているだろう。それを我々が取り除いてやる」
「具体的にはどう行うつもりですか?」
「鏡があるだろう。あれを渡してもらおう。そして、この地に学校をつくる。革命のための学校だ。そこで野蛮人たちは自由と進歩が歴史に対して負う必然的運命について学ぶのだ。アレンテラ人。我々はお前をその教官に任命する準備がある」
「閣下。ランカの人びとはよそ者を拒むかもしれませんが、基本的には平和を尊び、自分から仕掛けることはありません。ですが、先ほどあなたが言った鏡についてのことを訳して伝えたら、その結果、起こることにわたしは責任を持てない」
ブロエの顔が紅潮した。こんなふうに自分の意思が通らないことは少なくとも派遣議員になって以来なかったことだ。彼の持つ任命状には公安委員会のメンバーの署名が入っている。それはつまり神にも等しい権力を行使できるという意味なのだ。そして、歯向かうものは全て反革命とし撃ち殺してもよいという許可証だった。おそらく私掠免許のなかでも最も邪悪なものだろう。通常の私掠免許はただ国のために盗めと書くが、共和国派遣議員の私掠免許は自由と平等のために盗めと書いてあるのだ。
「少佐。全員に銃を構えるよう命じろ」
「小隊、騎射姿勢をとれ!」
槍を鞍についた輪に通して手を離すと、ベルトをさばいてカービン銃を引き寄せ、ガヴルナと長老たちに狙いをつけた。
「こいつらは何が不満で武器を構える?」
「カシャの鏡を渡せと言っている」
すると長老がカラカラ笑った。「なるほど合点がいった。こいつらはただの盗賊だったわけだ」
「おい、何を話している!」議員が怒鳴った。「許しなくしゃべるな!」
「しゃべることを禁じるのですか? あなたがたの革命は言論の自由を憲法に記載しているときいていますが、議員である閣下がそのことを知らないとは驚きました」
すっ、と議員の目がすわったときガヴルナは、やりすぎた、これは死んだな、と思った。飾り帯のピストルを抜き取り、ガヴルナの顔に真っ直ぐ向けられた。まるで死ぬことは永遠に続く摩擦運動でもあるかのように時間が引き延ばされた。この調子だと弾が銃口から飛び出す瞬間を目で捉えることもできそうだと思ったそのとき、一本の矢が風を切って議員の腕を串刺しにした。銃弾は真上に飛んでいき、ピストルが地面に落ちるころには弓に矢をつがえた影術士たちが土手の左右の草むらから次々と姿をあらわした。
議員は痛みと驚きで口をパクパクさせ、少佐は苦虫を嚙み潰した顔をしている。
影術士レイェガは南の土手に部下を配置していて、騎兵たちのこめかみや喉は少しでも動こうものならたちまち矢で射抜かれる。
北の草むらではサヤトが強弓に矢をつがえていた。部下の半分は弓を構え、残り半分は小太刀を抜いて草むらに隠れ、合図があり次第、鞍上の騎兵たちに飛びかかり、その喉を切り裂く。
「わしらはわしらの生き方に満足している」長老が言った。「誰に縛られているわけでもない。あんたがたがいう自由というものも分かっている。なぜなら、いまのわしらの自由があるのは先祖の不断の戦いの末に勝ち取ったものだからだ。そして、先人は自由は別のものの自由とぶつかったときに終わるものだと説いている。腕の怪我については不運だったが、エージャを殺させるわけにはいかなかったからな。このまま帰られよ」