カシャギ 1
まるでヌマガラシの種でも食べたように興奮して眠れなかったが、それでも双子鈴の月の十日目がやってくる。
それは二年前に彼の兄の運命が決まったときと同じ、剣のような夜明けが東の山々の薄闇を裂き、西の崖をその上から少しずつ光で浸していった。茅葺の屋根からは粥を煮る煙が立ち、それが杏色に染まると、精霊たちが徐々に見えなくなるようだった。髪を上にまとめ上げ、赤い二本のフミリを差してから、寝具を片づけ籐の長持ちにしまう。すると、サヅタヤがやってきた。
「おはようございます、兄上」
「ああ、おはよう。眠れたか?」
「いえ。兄上のときは?」
「わたしも眠れなかった」
「本当ですか?」
「なんだかうれしそうだな」
「いえ、そんなことはなく――」
サヅタヤはもう寝衣からイバリノミに着替えている。あれから二年、兄の背を追いかけるように修行に勤しんだ。だが、どれだけ努力をしてもカシャの鏡が曇らねば終わりなのだ。
その後、両親がいる広間へと出る。父のケナクもイバリノミをつけていた。
「父上、母上。おはようございます」
「ついに十六のカシャギが来たな」
「はい、父上。必ずや――」
ケナクは手を上げて制した。
「――怖いか?」
怖くない、とこたえたかった。だが、
「――少しだけ」
怖い、と認めるとこれまで心に秘めていた不安がいっせいに流れ出した。父や兄も影術士なのに自分が影術士に選ばれなかったらどうするか。そのことで不安を感じないときは一瞬もなかった。
すると、父ケナクは武将らしい顔をほころばせ、大きな口を開けて豪快に笑った(兄弟の容貌は母に似たのだ)。
「心配するな。お前が影術士にならなければ、それはカシャ神の御心。里を支えるのは影術士だけではないぞ。病に倒れれば薬師、不浄を清めるには巫術士、それにヌズを育てる家とてそうだ。彼らがおらねば、ここにあるお前のイバリノミも今ごろは――」
「あなた」
「ああ、いかん」
母のマデハウがたしなめたが遅かった。
「僕のイバリノミがここにあるのですか?」
イルククは兄のほうを見た。その曇りなき眼にサヅタヤは苦笑しながら、
「本当は社に昇る前に見せるつもりだったのだがな。父上、よろしいですか?」
「うーむ、仕方あるまい。言ってしまったものは取り消せんでな」
イバリノミは客を泊める離れにあった。それは修行中の子どもたちが使うイバリノミではなく、本物の戦士のためのイバリノミだった。体を守ることと動きを阻害しないことを考え、厚さと柔らかさが異なる十六種類のヌズ布を組み合わせた戦装束は使う人間の成長に合わせて大きくもなるし小さくもなる。戦士とともに成長する装束であり、あるときは闇に溶ける助けとなり、あるときは疾風のごとき戦いを助ける。
「兄上、袖を通してもよろしいですか?」
「これを着るのは社に昇るときのことだ」
「待ち遠しいです」
イルククが感嘆のため息をついているとき、屋敷の門ではガヴルナが巻物をひと抱え持ってきていて、ケナクが応対していた。
「先日、お借りした巻物をお返しに上がりました」
「おお、エージャ。朝餉は済ませてあるか?」
「ええ、一応食べたといえば食べたと言えるし食べてないと言えば食べていないような――」
ぐー。
「つまり、まだと言うことだな」
イルククはガヴルナを見ると、早速、自分用のイバリノミが出来上がっていて、それを実際に見てきたことを興奮気味に話した。たとえ影術士に選ばれずとも、これからもし戦うことがあれば、あれを身につけ里を守るために戦うのだと熱っぽく話した後、ハッと気づいて、
「もちろん、そんなことがないのが一番なのですが」
と、つけ加えた。
豪快な父ケナクはいつ敵が攻めてきてもよいよう気を張るのは大いに結構と笑い、大きな鍋から山菜粥をかき込んだ。
「母さんの山菜粥はランカ一だな」
「誉めてもお酒は出ませんよ」
「まあ、よい。夜になれば、浴びるほど飲めよう」
「エージャ。今宵はどちらにしろ、イバリノミを披露できると思います」
「楽しみにしているよ。ところで、サヅタヤ、さっき話があると言っていたね」
「ええ。ですが、エージャ、後でも大丈夫です」
「ふむ、そうか」
イルククは食事を終えると、今年カシャギを受けるターカとサキリのもとを訪ねた。ふたりともすでに自分たちが使うイバリノミを見せられていて、興奮を隠せなかった。剣術、弓術、投擲術、厳重な警備をかいくぐって忍び込む術、風の流れから敵の動きを読む術、そして影そのものに潜り込む術。その厳しい鍛錬も今日のことを思えばだ。
大きな切妻の屋根をのせた家の前では影術士のサヤトがいて、空を見上げていた。
ゴツゴツした岩のような大男は何をするでもなく、じっと見上げているので、何か珍しい鳥でも飛んでいるのかと思ったが、サヤトは雲を見ていた。雲の形で何が分かるわけでもないが、ときどきこうやって見上げずにはいられないのだ。もうすぐ四十に手の届く齢だが、いまだに嫁を貰わず、ひとり切妻屋根の家でのんびり暮らしていた。
「お前たちは運がいいな」サヤトが言った。「おれのカシャギのときは十年に一度あるかないかの大嵐でな、田んぼの水が大暴れしてルンビエの社に行くまでに三度は溺れ死ぬところだった。儀式が終わった後のごちそうもなかったが、それもそのはずで誰も嵐で来られなんだ。神官だって遅刻したくらいだ」
「おっさんのカシャギって古王国時代のことだろ?」
「ターカ、お前は面白いことを言うなあ。まあ、ともあれ夜を待つことだ。泣いても笑っても夜になれば決まる。ただ、カシャ神をないがしろにするわけではないが、人間の運命が鏡の晴れ曇りで決まるなんて馬鹿馬鹿しいとは思わんか?」
「父上もなにも里のためになるのは影術士だけではないとおっしゃっていました」
「その通りよ。ケナクは正しい」
「でも、わが父アスナンは」サキリが言う。「カシャの鏡にはこれから先の何千何万の人間の運命が決まっていると言っていました」
「その通り。アスナンは正しい」
「じゃあ、結局、どっちが正しいんだ?」
「両方正しい。それでいいだろう」
「いい加減だなあ」
「そうだな。おれはいい加減だ。そんないい加減な人間を影術士に選ぶくらいだ。カシャギはカシャ神の酔狂とでも思っておくがいいだろう。ガハハ」
そう言って笑うとサヤトは覆面を引き上げて顔を隠し、空の雲を眺めた。
「これからは、そうだな、影術士はこれまで以上に奮起せねばならんかもしれん」
「というのは?」イルククがたずねる。
「パナシェで起きた革命とやらが、思いの他大きな戦をする」
一年前、パナシェ帝国で革命が起き、皇帝一家が処刑され、国は人民のものになった。それと同時に周囲の国にも『革命を伝播させる』として侵攻を繰り返し、アルブケルケ王国を併合し、かつてその独立と自由のために戦ったアーデルハイト北部十一州をも併合しようとしている。里の影術士が呼ばれることも多くなり、東大陸の残りの国は同盟を結んで、パナシェ共和国と戦おうとしている。
「自由やら平等やらがどんなものか、おれには分からんが、あんだけ戦をするんだ。民は重税を食らっていることだろう。国が人民のものになってからのほうが税は重いし、軍に人をとられていくという。それに、革命の軍も軍に変わりはない。自由だ平等だと言っていても、略奪は止まない。もし、お前たちが影術士になったら、きっとパナシェ共和国を相手にすることになる。その手で人を殺めることにもなるだろう。だが、カシャ神はそこらへんも考えている、とおれは思う。だから、気張るな。できることをやればいい」
イルククはパナシェで革命が起きたとき、サヅタヤがパナシェにいたことを思い出した。あれ以来、ときどきサヅタヤは何かを考えこむことが多くなった。大人たちはエージャのもとに向かい、世界がどうなっているのかをたずねる。革命が発生して一年が経ち、戦乱がもたらされている。ランカの里を守るため、影術士になりたいと三人は志を新たにした。
その志が固まるあいだ、ちりんちりんと風変わりな鈴の音がした。見てみると、ガヴルナが風変わりな二つの車輪付きの機械にまたがっていて、こちらへやってくる。
「エージャ、何ですか、それは?」
「これはね、自転車というものだ。馬ほど速くはないが、歩くよりはずっといい」
「なんで、おれたちのまわりをぐるぐるまわりながら話すんだ?」
「立って止まることができないんだよ。この発明は」
面白そうなので、三人は自転車に乗ろうとしたが、どうしても倒れてしまう。走り続ければ立っていられるという実に奇妙な決まりのある乗り物よりも自分たちの足で走ったほうがずっと速いと三人は自転車をあきらめるが、サヤトはなんとかこれを乗りこなしたいと言うので、ガヴルナは快く自転車を貸し、三人についていくことにした。
途中、横板を釘で打っただけの粗末な橋で瀬音をまたぎ、板の隙間から見た川面はちょうど深場で鏡のように黒く、その底で川鱒の青みがかった背がいくつか並んでいて、川上に頭を向けて、溺れた昆虫が流れてくるのを待っていた。ターカの祖父で薬師のノウシが川沿いの木立で膏薬のもとになる野草やキノコをつんでいて、その籠のなかにはかわいらしい野辛子や牛の耳に似たキノコ、網状の蔓を伸ばす薬壺のにおいがする植物、触ると葉を引っ込めるシダ、山歩きをする巡礼が『緑の雲』と名づけたふんわりした苔などがいっぱい入っていた。
その後、イルククたちは壁から出っ張った棒に商品をのせた鞍づくり職人の家に寄ったり、酒を仕込むときに使う丸めた麹を売る店のそばを通ったりした。モルバクーの鍛冶屋に並んだ鍋や包丁、石垣の上にある古い機織りの家、干したイチジクがお供えされた小さな石の神さま、甕のなかに隠れている子ども。ランカの里は平和だった。そのはるか東ではカフェや安い料理屋で人が集まり、しきりに演説がされ、全ての王と貴族と聖職者と買い占めで不当な利益を稼ごうとする商人を皆殺しにすべきだと叫ばれていた。革命裁判所の判事が毎朝、死刑人を連れて監獄を歩き、その日に処刑することになる反革命者を乗馬鞭で指し示していた。全ての外国勢力が革命を圧殺しようとしていると議会で叫ばれ、少女のように可憐な若者が立ち上がり、革命に敵対する全ての旧弊は例外なく粛清すべしという反革命法を採決するよう演説していた。宮殿の隣にある古い館に集まった議員たちは他国へ攻め入ることを革命を輸出すると言い換えていた。全てはガリャンイーだった。世界は変わりつつあった。今の平和をどれだけ大切にしようが、変革は周囲に広がって、この小さな里を飲み込もうとしていた。