貴公子 1
大きなアーチ門のある市庁舎を民衆が取り囲んでいて、金持ちの持ち物を好き勝手に奪っていいという法令が下される期待ではち切れそうになっていた。イルククは舌打ちをしたが、それは革命から浅はかな利益を望む人びとにイラついたというよりは鉛製の雨水パイプが窓のそばを通っていて、人目がなければ、簡単に侵入できることにイラついたものだった。ちなみにガヴルナはこの舌打ちをききわけることができた。イルククはガヴルナの前では絶対に舌打ちをしなかったが、それでもこの観察の鬼ともいえる博学者はイルククの舌打ちを五つのケースに分類し、さらに補足ケースを二種付け加えていた。
このときもイルククの舌打ちを正しく感じ取ったガヴルナは、ここはイリカさんの侵入方法に任せるのがいいんじゃないかな?と言っておいた。イリカが商店街で買ったものはきちんと意味があるのだ。イルククもそれを知らないわけではないが、そのまま相手の手段に乗っかるのは若き影術士にはちょっと悔しいから反発心も出るだろう。若者を冷静な行動へ誘引することは大人の義務とまでは言わないが、ささやかな美徳とされるべきなのだ。
それでもイルククをイリカと一緒についていかせることはなかなか同意してくれなかった。
「先生にもしものことがあったら」
「こう見えても、けっこう如才ないつもりなんだよ?」
「イリカはひとりで行けばいいんです」
「でも、人手が必要なのは彼女のほうだよ」
結局、ガヴルナも一緒についていくことになった。というのも、三人のなかで書類バサミが一番似合うのがガヴルナだったからだ。彼は学生だったころから、こんな感じの革の板に課題を挟んで、紐で結んで、野性の麻でいっぱいの放置された庭園や下宿屋の裏手のハコベが咲く道を歩いた。実際、裏口から近づいても、あまり不審そうには思われなかった。
つぶれた帽子をかぶった民兵がひとり、そこで止まれ、と言った。
「用がないと、市庁舎には入れないぞ」
「こんにちは、同志さん。わたしはミハイル・ミハイーロヴィチ・ミハイロフ。委員会のものです。後ろにいるのはわたしの助手のアブラとカタブラ。今日は委員会からの書類を持ってきました」
「なんの委員会だ?」
「封筒委員会です」
「フートー?」
「はい、同志さん。封筒委員会は革命政府に良質な封筒を供給するために必要なあらゆる措置をとることが許可された非常に強力な委員会です。そのなかにはパンの優先配給も含まれます。あ、これがその身分証です」
と、ガヴルナは彼の手帳の、ミツバチの交尾ダンスに関する覚え書きがいっぱいに書き込まれたページを開いて見せた。
「うん。確かに封筒委員会だ」民兵は字が読めなかったが、読めるふりをした。だが、それがなくても、ガヴルナは委員会のものに見えた。おかっぱっぽい髪型の瓶底みたいな眼鏡をかけた男はきっと知識人であり、革命の委員会に選ばれるのは決まって、字が読める知識人なのだ。
「通ってもよろしいですか?」
「いいぞ。革命のためにフートーをジャンジャン作ってくれ」
「もちろんですよ、同志さん。じゃあ、アブラ、カタブラ。市庁舎にお邪魔しよう」
市庁舎にはあらゆる種類の陳情者がいた。住宅、食料、治安。それに気に入らないお隣さんを密告する悪意に満ちた人びと。それに市庁舎内に王家を連想させるものは全て削り取れと言われた石工の親子が梯子に登って、王家の紋章にノミを打ち込んでいる。石膏の粉が舞い落ちるホールでは羊肉入りの揚げ饅頭が利益が出るが搾取扱いされない奇跡的な値段設定で売られていた。ドアを開けっぱなしの事務室からは若い貴族の「土地の分配などできるもんかっ!」という景気の悪い文句が景気よく放たれた。
「土地は革命政府のものになるんだぞ?」貴族は続けた。「土地を百姓どもにくれてやれば、すぐに飲んで潰して、土地は売りに出され、地主階級が生まれる。この地主が革命にとって、どれだけ有害なものか、分かるだろう? 土地は配らない。ただ、小作人は管理人と呼ばれる」
「そんな呼び方じゃ、やつらは働かない」
「じゃあ、農業労働者と呼ぶことにする」
「それ、農奴とどう違うんだ?」
「農業労働者は限りなく自由な存在だ」
「限りなく自由な存在が土地を得られず困っている」
「限度というものがあるだろうが、限度というものが」
革命はまだ手当たり次第にひっくり返す段階には来ていない。だが、こうした人びとが反動だの反革命的だのと糾弾され、断頭台の露と消えるのは意外と早いものだ。もちろん、それより先に君主や貴族の首が胴と異になり、土に埋められる。運が悪いものは首がきちんとついたまま――つまり、生きたまま埋められる。
建物のなかでは書類や鍵が持ち去られ、置いていかれ、元の位置に戻って、また持ち去られる。陳情書は発行者と一緒にウジャウジャ増殖するし、農民たちに土地が分配される見込みはさっぱりない。ガヴルナがちょっと窓を覗くと、まわりを囲む群衆が投げるのに手ごろな石を道から剥がし始めていた。
「あまり長居はできないね。投石が始まるまでには公子と一緒に脱出したいところだ」
窓の外を見ていると帽子に石を集めている気合の入った男と目が合った。背中にツルハシを背負っていて、投げるには大きすぎる石を割るために引っ張りだこにされ、暴徒のリーダー格のひとりになっていた。
「これはボクの思うところなんだけど、囚人については王党派も革命家も似たような考えを持っている」
「なんのこと?」
「つまり、閉じ込めた部屋に歩哨を立てたくてしょうがなくなる閉じ込め病にかかっているってことさ」
「歩哨がいる部屋に公子が閉じ込められていると? そんな安直な――」
実際、その通りだった。気を失った歩哨を部屋に引きずり込むと、確かに囚人がいた。微笑みの美青年で、砲兵隊の要塞で見たときよりも背が伸びている気が――。
「彼は公子ではありません」
と、イリカが即座に否定する。否定的な見方を植え付けたい人が往々にしてやる言いっぷりだ。
ただ、フェレンツ公子ではないにしても、気品あふれる雰囲気がある。たとえ、ズボンだけでシャツがなく、上半身裸にされているとしても。
ガヴルナが自分の上着をあげると、美青年は外套を肌にじかに着ているとは思えないほど優雅に挨拶をした。
「あなたの慈悲に心からのお礼を。僕はミクローシュ・アデルカ侯爵。フェレンツとは従兄に当たります」
つまり、フェレンツの父親の父親、つまり祖父の大公ジュラ二世は妃のほかに愛人がいて、ミクローシュはその愛人の孫だということだった。ただ、ミクローシュを見るイリカの目線と口調のぞんざいさにはミクローシュが君主一族の厄ダネらしいことがうかがえる。
「殿下はどこにいるんですか、侯爵。ここに連れてこられたのですよね?」
「フェレンツもいたよ。いたんだけど、入ったと思ったら、すぐに出ていった」
「出ていった? どこへ?」
「セゲールト。ほら、湖があるだろう? あそこで反革命と見なされた連中を船に乗せて、湖に沈めて処刑する話を、そこでのびてる歩哨くんから盗みぎきしたんだ。それを止めるって言って、出ていった。若いよねぇ。まっすぐだよねぇ」
「あなたが女性を口説くとき以外の言葉の使い方がいいかげんであることは承知ですが、侯爵、『出ていった』というのは自発的な言葉ですよね?」
「その通り。フェレンツは出ていった。脱走したんだよ」
ミクローシュは助役のテーブルの下にある何かを蹴飛ばした。
すると、大きな大公の肖像画が隠しドアとして静かに開いた。
「ほら。これが自由への扉だ」
「なぜ、あなたがこんなことをご存じなのですか?」
「いまから三年前くらいのことなんだけど、あのとき僕は四人の美しい人妻と付き合っていて、定番の、夜の庭園での逢引きがマンネリ化して困っていたんだ。なら市役所はどうだろうと思って、やってみたら、なかなか燃えた。で、寝取られ亭主である助役殿の部屋でありがたーくアバンチュールしてたんだけど、そこでね、なんと見つけてしまったんだ。秘密の入り口をね。これがなかなか本式の代物で、しかもそう古くない時期に使ったらしい痕跡もあったから、どうやら助役の先生、自分もうまいことやって、ここで逢引きしていたらしいんだね」
最後まできかず、イリカはそそくさと秘密の入り口へ歩いていく。
「つれないなあ。我が妹は」
どこかでぴたぴたと水が滴る音が反響していた。秘密の地下通路を鉱山用のランタンひとつで歩くとなると、自然と足の運びは慎重になる。足元には転倒へ誘う出っ張りや石、滑りやすいつるつるした御影石の断面があるのだ。だが、一番こけやすいのは苔だった。水は必要だが太陽なしでも育つ強者の苔が厚く積もるように生えていると、どんなに靴底に鋭い鋲を打ってもこける。
どうやらこの抜け道は自然に出来上がったものらしかった。一滴一滴したたる水が気の遠くなるような年月を費やして、穿ったトンネル。それが先にあり、その上に市庁舎をつくったのだ。市長は怒り狂った暴徒に包囲されたときのことを考えたのだろう。
イリカとミクローシュは兄妹のようだ。さりげなく、先ほどミクローシュは『我が妹』と呼んでいた。ただ、イリカが明らかにそれを問い詰められたくない様子を見せていたので、誰もきかなかったのだが。




