予兆 1
ドラジャル公国の首都ルダネストは小国の首都らしく、町なかに葡萄畑があり、大通りと呼べるものが一本しかなかった。その大通りだって、並木の樹齢を揃えられず、大きすぎたり小さすぎたりと無様なものだったし、大通りに沿って立っている建物は山小屋みたいなものばかりだった。ふたりは大きな平屋の中央郵便局で馬車を降り、市街地を歩くが、空き地が目立った。住民はときどき道の代わりに青草が茂る空き地を通ったりして近道をしていた。ガヴルナの知り合いであるサーロイ博士の家は貯水池のそばにあった。その小さな町は水利の関係で博士の家以外はみな果樹園になっていて、地元の酒場へ果実酒の原料を供給していた。
「せっかく来てもらって残念なんだけど」とサーロイ博士が言う。「例の踊り子はもう別の場所に行ってしまったらしいんだ。まあ、もともと旅芸人だからね」
イルククが想像していたサーロイ博士は痩せていて、世捨て人風の髭を生やした男だったが、実際のサーロイ博士はかなりの大柄で首も太く、建物の入り口をささえる柱の彫像みたいに立派な体格をしていた。
「ただ、スケッチをしておいたんだ」
と、大きな板で装丁した紙束から何枚か取り出した。
「巫術かあ。ドラジャの巫術は悪霊信仰だからね」
「悪霊信仰?」
イルククがたずねると、ガヴルナは、うん、悪霊、とこたえた。
「悪霊と言っても、全部が悪いわけじゃないんだ。イタズラ好きくらいの悪さ。もちろん呪術に使われる悪霊もいるだろうけど、この踊りは神託を得るためのものだからね。古代ドラジャでは神の言葉は良い霊になろうとする悪霊が運ぶと言われているんだ。神託をもたらす悪霊は天国に行ける。だから、古代ドラジャの巫術は悪霊を信仰する。舞のひとつひとつの仕草が悪霊を呼ぶための願いがかけられていて、占ってほしいものによって、舞は変わる。いくつかの仕草があって、それを用途によって組み替える。もちろん呪術もできる。ただ、悪霊を信仰するというのはあまり人目によくないからね。だんだんなくなっていって、もうそれを教え継ぐものがいなくなったんだ」
イルククの胸がキュッと締められる。カシャギ、イバリノミ。ランカの里の風習は失われてしまった。
「いくつかの仕草は分かっていて、ボクもこの通り、いくつか記録しているんだけど、ひとつながりの舞になっているものはまだ見たことがないんだ。ねえ、サーロイ。実際、どんなものだった?」
「あれは実際に見てみないと何とも。ただ、つま先が床から離れることはなかった」
「飛んだり跳ねたり宙を舞ったりはしないわけだ。どんな意味があるんだろう?」
「そうだなあ。おれには分からん。ただ、このあたりじゃ、飛んだり跳ねたり宙を舞ったりしない踊りは人気がないからな。ただ、問題は別のところにあって」
「うん」
「ここに来るとき、貴族を大勢見なかったか?」
確かに大勢の貴族を見た。と言っても、普通の貴族みたいな華美を尽くした姿ではなく、軍人のようなキビキビとして無駄な装飾のない服装だった。彼らは自分たちを〈青年貴族〉と呼んでいた。と言っても、四十代半ばの貴族もいたが、これは年齢の問題ではなく、思想の新しさを意味して、青年、という言葉を使っているのだろう。ただ、ほとんどは三十歳より下の若い貴族だった。
「自分たちが国を新しくしてやるから、庶民たちは支持しろ、とか言ってるだろう?」
「そこまで露骨ではなかったけど、まあ、貴族風のレトリックでそう言っていた」
はやい話が貴族たちは革命の話をしているのだ。だが、革命、という言葉をきくとイルククは後先考えない。あんな目に遭えば当然だが、いまのルダネストで青年貴族たちから王党派の手先だと呼ばれれば、ちょっとした暴動が起きるかもしれない。庶民階級に対する偉そうな態度にもかかわらず、青年貴族たちは人気があったし、革命に期待しているところもあった。
「人民の専制か」
「そうならないよう願おう。それでさっきの話に戻るんだが、例の巫女の舞だが、その青年貴族が前時代の因習扱いして、やめさせたんだ」
「旅の巫女が踊るような酒場で青年貴族が飲むのかい?」
「自分は庶民の味方だって」
「露骨な人気取りだね」
「おれは嫌な予感がするんだよ。ルダネストには大隊が五つあるんだが、そのうち三つが青年貴族派を支持している。そもそも青年貴族が士官なんだ。ちょっとしたドンパチがあるかもしれない。そもそも青年貴族たちの思想の根幹はパナシェの共和制だ」
パナシェ、ときいて、歯軋りの音がきこえた。イルククが怒りで震えている。
「そっちの青年は大丈夫か? なんか気分が悪そうだ」
「パナシェにいい思い出がないんだ」
「奇遇だな。おれもだ。パナシェに行ったとき、そこの娼婦に病気をうつされた。高級娼婦だったのにな。まあ、それはおいておこう。ガヴルナ。おれから呼んでおいてなんだが、はやく帰ったほうがいい。さっきも言った通り、情勢が不安定なんだ。巻き込まれたら、厄介なことになる」
「うん。そうしよう。ああ、このスケッチを写してもいいかい?」
「もちろんだよ。あまりうまくはないが」
ガヴルナは手帳にスケッチを写した。踊るときの手つき、衣装につけた布のさばき方。それにつくりが小さな少女の顔。顔のつくりは幼く、十六か七くらい。
「この子に巫術の舞を教えた人がいるはずだね」
「それをきけばよかったんだがな。お節介なやつらが邪魔しやがって」
さらさらと衣装を描く。ふっくらとしたズボンを履いていて、これでは酒場の酔客は文句を言うだろう。ただ、上半身の衣装は割とぴったりとしている。特徴的なのは袖で、大きく垂れて下がって、腕を下げている状態で履物に触れるくらい。この袖のさばき方が特徴的なのだとサーロイ博士が言う。
また、少女の顔のスケッチに加筆する。前髪は目にかかるかどうかくらいで、狭く小さな鼻をしている。口元について、サーロイ博士の注記があって『簡単に笑いそうにない!』に二重線がひいてあった。そして、全体の総括として『あと七年あれば、いい女に育つだろう』とあった。
「きみは結婚しないね、サーロイ」
「おれに『いつ崖から飛び下るんだ?』って言ってるようなもんだぜ」
「まあ、古人の言葉に結婚をよく言うものより悪く言うもののほうが多いことは認めるよ。ありがとう、スケッチが終わったから返すよ」
「きみは本当にスケッチがうまいな。それにはやい」
「コツは両手で描くことさ」
「それはコツとは言えない。うちに泊っていくんだろ?」
「助かった。そう言ってくれるのを待っていたんだ」
「二階には以前、きみが来たときにし残したチェスがそのまま残っている。やるだろ?」




