二年後 2
壊れかけたイルククをガヴルナが気絶させて背負い、ランカの里を逃げてから二年が経っていた。あらゆるものに心を閉ざし、あらゆるものに冷たくあたるイルククだが、ひとつだけ例外があるとすれば、それはガヴルナだった。それどころか、イルククのガヴルナを慕うことはランカの里にいたころよりも強くなっていたくらいだ。
「本当は一緒に行きたかったんですけど」
豆とウサギ肉のシチューを食べながら、イルククが言う。
「でも、きみは誘拐事件を解決しないといけなかったのだろう?」
「どうでもいいような仕事でしたよ」
「そんなことはないさ。さらわれた親にとって、子どもが無事に戻ってくることは本当にうれしいはずだよ。いいことをしたね、イルクク」
「そうですか? エージャがそう思うのでしたら、おれは嬉しいです」
イルククはにこっと笑うと、シチューにひたしたパンを子どもっぽく口いっぱいに頬張った。
「でも、今度、旅行に行かれる際は、おれも連れていってくださいね。街道で盗賊に襲われるかもしれないし、止まった宿屋の主が連続殺人鬼で宿泊客を殺して、剥製にするのが趣かもしれません。おれ、剥製になったエージャを見たくないです」
「うーん。お客を剥製にする宿屋に遭遇する確率は十万年に一度かもしれないけど」
「でも、おれは心配なんです」
「うん。わかったよ。今度は一緒に行こう。旅はひとりよりふたりのほうが楽しいだろうしね」
イルククが嬉しそうに笑った。
「はい! 約束ですよ! あ、そうだ」
イルククは金貨の入った袋を取り出して、テーブルに置いた。
「今回の仕事の報酬です」
「前にも言ったけど、それはキミが稼いだものだから、キミのものだよ」
「でも、エージャに渡したいんです。好きに使ってください」
「じゃあ、ボクがそれをもらって、それをボクが好きにしてキミに渡すことにしよう」
「それじゃ意味がないですよ」
「じゃあ、貯めておいたほうがいいよ。何か欲しいものが出てくるかもしれないだろう?」
「むぅ。エージャがそう言われるのでしたら」
そう言って、イルククは自分のベッドの下に金貨の袋を入れる。この家は家具ごと貸し出されているのだが、どれも粗末できちんと仕上げをしていないから、棚もベッドもヒビが入っていて、流し台は石の水槽を支えきれず傾いている。布団はぺちゃんこ、壁にも亀裂、煉瓦の平炉台の煙逃がしは煤まみれでそろそろ煙突にヒイラギの枝を詰めて、屋根からロープで引っぱり上げて掃除しないと、スープ鍋にどっさりと煤が落ちてくる。そんな家のベッドの下に金貨が数十枚隠されているとは泥棒は夢にも思わないだろう。
この家はかつて街灯守りの住居だった。アレンテラ王国がまだ丘の灯火を国庫で照らしてあげようと狂っていたころ、サヴァトという一族が梯子と燃える石炭を入れた火種籠を抱えて、街灯の灯芯に火をつけていた。だが、そのうちアレンテラ王国はなぜ丘の灯火を国の金でつけなければいけないのかと正常な考え方をするようになり、サヴァト一族はお役御免、どこか国の金で民のために夜の灯火をつけてあげようとしていると狂った国へ移住した。
そんなわけで、壁には旧市街とマディアの丘にある全街灯を網羅した地図がまだ残っている。地図は直接壁に刻み込まれていて、その数を見る限り、なるほど街じゅうの灯火を管理するのは一族単位でかからなければいけない大仕事だと分かる。ガヴルナは最初に借りたころはこの地図を見て、その測量法を再現してみたり、青銅でできた街灯がまだ残っているかどうかを手帳にまとめ、それをもとに旧市街の治安を五つの区分にしてみたりしてみた。壁の刻み絵を相手に知識欲を満たしていないときは、もう少し治安が良く、教育に価値を見出す街区へ出かけて、家庭教師をしたり、代書をしたりしている。役所で書類の書き写しをすることもあった。あまり給料はよくなく、稼ぎはイルククの十分の一だったが、意外に買い物上手で、新鮮な卵やウサギを安い値段で手に入れて、支出をおさえるどころか書物を買うための貯金もコツコツしていた。イルククが本の名前を知って、買ってきてくれることもあった。嬉しいと言いはするが、イルククが自分の欲しいものを買うために使ってくれたほうがボクも嬉しい、と一応言っている。だが、イルククは書物に目を輝かせるガヴルナを見るのが嬉しいし、そのために金を使いたかった。そんなふうに、知ることへの情熱に上気するガヴルナを見ると、イルククはランカの里にいたときのことを思い出す。
あれから、パナシェ共和国は東大陸のほとんどを占領した。ランカの里は焼き討ちされたままにされて、誰も住んでいない。革命に逆らったものの末路として晒すために戦場が保存されているらしい。あれ以来、イルククはイバリノミを捨ててしまった。家族と仲間、故郷を守れなかった自分には影術士の資格がないと言って。
さて、二年後の現在、ガヴルナが帰ってきてから、イルククは仕事を受けず、ガヴルナがどこかへ出かける用事がないものかと待ち構えていた。ガヴルナは書生みたいな暮らしをしながら、何かの図面を書いたり、きいたことのない言葉をつぶやいたりしていて、どうもマディアの丘の暮らしについて、犯罪者同士の隠語や城壁時代からの建物の変遷を整理しているようだ。それを見て、エージャはエージャなんだなあ、とイルククも暢気をしていた。
「宮廷も学会も庶民の暮らしを研究するときは決まって、新しい税金を課すときだけど、なかなか自然科学と同じくらい興味深い風習がある。たとえばパンを食べることを『パンを食わす』と言う。食べるという言葉について、自分で自分に食わすという使い方をする。不思議だねえ。肉は食わすと言わず、食うと言う。お酒は飲ませるとは言わず、飲むと言う。きけば、彼の父親も祖父も曽祖父も高祖父もそのように言う。パンを食わす。ふむ。興味深い。パンについては行為者と対象者を区別するようなこの認識の源は何だろう?」
「エージャ。前、そこの子どもがクッキーを食わすって言うのをききました。蜜菓子は食うって言うのに」
「なるほど。焼いた穀物が関わっているのかもしれない。いや、ありがとう。イルクク」
「おれ、お役に立てましたか?」
「もちろんだよ。それに町角で起きていることにきみが興味を向けていることを知れて、安心したよ。きみは冷たいって評判だから」
「別にあいつらについては、おれにはどうでもいいんです。でも、エージャが興味を持ちそうなことは覚えておこうと思って」
「そうか。もし、また何か面白そうなものを見つけたら、教えてくれるかい?」
「もちろんですッ、エージャ! ふふ、なんか嬉しいです」
運がいいことに三日後にドラジャル公国の友人から面白い踊り子を見つけたので遊びに来ないかと手紙が来た。踊り子を見に外国を旅する人というのは凄まじい好色漢のようだが、その舞は古代ドラジャ時代の巫術の舞と共通点があり、身ごなしひとつひとつに込められた祈願について、興味深い考察ができると思うとのことだった。ガヴルナは早速、手持ちの資料のなかで東大陸の旅巫女たちについてまとめたノートを開き、抜け落ちている箇所を埋めるべく、質問をまとめ始めた。
次の日にはふたりは西を目指して進む旅人になっていた。郵便馬車に便乗させてもらい、手紙や小包の後ろの通称〈小遣い稼ぎ〉と言われている取り付けの椅子に腰かけていた。郵便馬車は客の便乗を建前として禁止しているが、郵便馭者たちの給料の安さから旅人を乗せることはこっそりと認められていた。ある侯爵が郵便長官になり、便乗を厳格に禁止し〈小遣い稼ぎ〉を三日以内に取り外せと命じたとき、国じゅうの馭者たちが郵便物の運送を拒否した。禁止して、その補填を国庫からするならば、まだ分かるが、何もせず、ただ便乗をやめろでは面白くない。そのうち、分かってきたのだが、侯爵は郵便事業の経費削減に成功することで財務長官になるための布石を得ようとしていたことが分かり、馭者たちは怒って、侯爵邸に郵便馬車で囲んで誰も入れないようにした。馬たちは遠慮なく糞を落とし、それを片づけるものもいないので、ひどいにおいになった。結局、侯爵は辞任に追い込まれ、〈小遣い稼ぎ〉は復活した。
そんな〈小遣い稼ぎ〉だが、乗り心地は最悪だった。そもそも郵便馬車というのは馬車のなかでも最も安いつくりの馬車なのだ。手紙袋は馬車がガタつくからといって文句を言ったりしない。スプリングは最も安いものが馭者席の下にあるだけ。だから、轍が不細工な道に入ると、固い泥を車輪が乗り越えるたびに〈小遣い稼ぎ〉から尻が飛び上がり、板を横に渡しただけの席にぶつかる。
郵便馬車はドラジャル公国のエンブラ地方を走っていた。晴れ空にどこまでも青い麦が続いていて、道は乾いて、埃が波立っていた。村が茅葺屋根を寄せて、十字路の上に乗っかっている。村には郵便局はなかった。だから郵便物は教会の前に放り出されることになっていた。馭者は馬車のスピードを落として、手紙の束や小包を二、三個、乱暴に落とし、馬の尻を手綱を打つ。春まき小麦の畑を通る道を、唄う農婦たちを乗せた馬車とすれ違う。ガヴルナはいつも持っている手帳でその歌詞を書き写した。遠ざかる馬車を見ながら、帽子の端をちょっとつまんで挨拶をすると、農婦たちは大笑いした。このあたりでは帽子をかぶったまま女性と会ったとき、こんなふうに挨拶する男はいないらしい。
「うん。興味深いね」
しばらくすると、ふたりの街道警備騎兵が横道からあらわれ、郵便馬車と並んだ。赤い羽根飾り、リボン、熊毛帽、王国の紋章が打たれた鋼の胸当て、オレンジの剣吊りベルト、大きな騎兵銃。しっかり油で磨かれた鞍にまたがったふたりは重い装備をつけながら、立派に馬に乗るよう訓練しているようで、六月の暑さにも涼しい顔だった。
「このあたりは盗賊は出るかい?」馭者がきいた。
「ウンベルト街道に一昨日出たよ」年かさの騎兵が言った。
「殺しはあったかい?」
「いや、ないな」
「従兄弟が南で魚を運んでるんだが、街道で盗賊にぶっ殺されちまった」
「盗賊に抵抗するとそうなる。出くわしたらあきらめて、金目のものは素直に渡すのがいいよ。その後で、おれたちが取り返すかもしれないしな」
「ウンベルト街道がマズいんじゃ、あっちの森を通らんといかんのか?」
麦畑が終わるあたりに木戸があり、その向こうに小さい森があった。木は鬱蒼と茂っているのは離れたところからでも分かる。人を待ち伏せするのに困らない森だな、とイルククは思ったが、馭者はもう森へ続いている道を選んで曲がっていた。イルククは小さくため息をついた。騎兵がついているなら心配はない。こいつらが肝心の盗賊でない限り。
森に入って、見通しのきかないところまで進むと、ふたりの騎兵は正体をあらわした。
「ああ、くそっ」馭者が毒ついた。
「そういうこった。南の魚運んでる従兄弟みたいになりたくないなら、有り金全部置いていってもらおう」
もうひとり、若いほうの騎兵が騎兵銃を構えたまま、うまく御して、イルククに金を出せと言った。イルククは小さな袋を投げた。若者はそれを手綱を握りながらうまく紐を解き、中身が金貨であることを確認すると、嬉しそうに顔をほころばせた。
数枚の金貨のために命を危険にさらす仕事をしているが、仕事以外の場面で数枚の金貨のために命を危険にさらすつもりはなかった。黙って、欲しいものを渡せば、危機は回避できる。なら、そうさせればいい。ある意味、影術士の考え方だった。
ガヴルナも袋を渡したが、その袋はイルククが渡したものよりも軽いし、銀貨が少々、あとは銅貨が入っているだけだった。
「なんだよ、これ」
「ボクがお金持ちに見えるかい?」
「見えねえな。おい、こっちはなんだ?」
ガヴルナの膝の上には手帳があった。日々の生活や旅の途中で気になっていることを書き綴ったり、スケッチをしたりしているノートで世間的には一銭の価値もないものだったが、盗賊が欲しがるなら渡してもいいと思っていた。ところが――、
「エージャのノートに触るな」
イルククがピシャリと言う。こんなふうに有利な立場にいる盗賊にとって、ピシャリとした物言いはむかつくが、逆にそれだけ高価なものがそこにあるという印になる。それも金貨の入った袋を渡した小僧がそんな態度を取るくらいだから、この薄汚れた手帳も物を知っている故買屋に持ちこめば、結構な額になるのかもしれない。そう思って、手を伸ばすと、
「触るなと言ったんだ」
盗賊はイルククを睨んだ。
「お前、自分の立場が分かってるのかよ?」
「あー、あのね、イルクク。ここは相手を刺激しないほうがいいんじゃないかな。たかがボクの手帳のためにそんな危険を冒す必要はないよ」
だが、イルククはまっすぐ向けられた騎兵銃の銃口を睨み返して、一歩も引かない。
「金は渡した。それで満足しろ。エージャの手帳に触ったら、許さない」
盗賊はへらへら笑うと、ガヴルナの手帳に触れた。次の瞬間には盗賊は乗っていた鞍から体が外れて、宙でぐるぐるまわりながら、麦畑のなかに落ちて、目をまわしていた。イルククが盗賊の声色を真似て、馭者のほうにかかっている盗賊を呼んだ。
「すげえ金貨だ! 百枚はあるぜ!」
それをきいて、慌ててやってきた年かさの盗賊をまわし蹴りで倒す。馭者席からふり返って、ポカンとしている馭者にイルククはとられた袋を全部回収すると、馭者の財布を投げ渡して、
「なんだ? はやく出発しろ」
馭者は盗賊たちを縛らなくていいのかときいたが、イルククは面倒だと言って、盗賊たちをそのままにして、馬車を出発させた。




