第9章
あとでケンイチと来るよということば通り、キーランは午後半ば、特大の花束を抱えた寺崎と一緒に戻ってきた。枕に深々と頭を沈めて、前日、アリシアが持ってきてくれた小型のCDプレーヤーから流れる滑らかなピアノの演奏を半覚醒の状態で聴いていた美波は、花束の隙間から覗く寺崎の顔の不自然さに戸惑い、目をパチクリさせてしまう。
「調子が悪いようなら、また出直すよ」
寺崎はすっかり慌ててしまったようだった。
「大丈夫。少しボーっとしているのは点滴に痛み止めが入っているせいで、ここしばらくの間はこういう状態だろうから、しなければならない話があるならば、辛抱強く付き合ってもらうしかないの」
「まぁ、医者の川嶋さんが言うんだからアドバイスに従うけれど、こっちはいくらでも融通が利くんだからあまり無理はしないでね」
誠実な寺崎の言い方に、美波はニッコリと笑ってみせる。横ではキーランがとても心配な顔をしていた。
「来てくれて、とても嬉しいし、それからお花もありがとう」
「花はオレだけじゃなくて、しのぶや暁からでもあるんだ。アイツら、川嶋さんにとても悪いことをしたって謝っていた」
「芳賀君やしのぶちゃんに謝られるようなことは何もないでしょう。ある意味では、わたしたち皆が巻き込まれたようなものなんだから」
美波ができるだけ軽く言ってみせると、寺崎は彼にしては複雑な笑顔を浮かべ、キーランに薦められるままにベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、私はこのお花にピッタリな花瓶を探して、ついでにちょっと買い物をしてくるわね。キーラン、後はあなたに頼めるわよね」
それまで静かに美波に付き添っていたアリシアが、花束を持って立ち上がる。キーランはアリシアのためにドアを開けてやりながら、素早く何ごとかを耳打ちしていた。部屋を出る前に振り返ったアリシアに対して、美波は約束をするかのように微笑んでみせた。
「川嶋さん、本当にゴメン。オレが至らなかったせいで、川嶋さんが大怪我するようなことになってしまって、どう謝ったらいいのかわからないよ」
アリシアが出て行くと同時に、寺崎は立ち上がり、美波に対して深く頭を下げて見せた。大学時代に、剣道の稽古をしていた時を思い起こさせる寺崎のとても日本的な振る舞いに、美波はかなり動揺してしまう。
「だから、寺崎君が謝らなければならないようなことはまったくないでしょう」
「でも、川嶋さんが拉致されてしまった日の朝、オレは川嶋さんに会っていたし、須藤が消えたことの報告だって受けていたんだ。だから、事態を甘く見て、川嶋さんを1人で病院に残してしまったことはオレの責任だよ。あの時はさ、てっきり須藤は高飛びするつもりだと思っていた。それで、川嶋さんに危険なことが起こる確率は低くなったと思い込んでいたんだけれど、オレの判断が完全に間違っていた」
「私だって須藤さんはいなくなってしまったと思って油断していたもの。判断ミスをしたのは、寺崎君だけではないわ」
すっかり恐縮して身を縮める寺崎に、美波が宥めるように返答すると、ふたりから少し距離を取って、病室の窓に寄りかかるように立っていたキーランも苦しげに付け加える。
「美波が須藤たちに誘拐されて、すっかり弱気になったエディに美波のことは無事に救出できるから計画を続行するように言い張ったのは結局、オレなんだ。その意味では、オレだって状況を甘く見ていた」
美波は意識して、大きな息を吐いた。
「ふたりとも、責任の取り合いはいいけれど、少し急ぎすぎ。もう少しゆっくり説明してくれないと私にはわからない」
美波の問い掛けに、寺崎とキーランが顔を見合わせ、それからキーランは乱暴に横を向いた。
「そうだね。最初から何があったか説明した方がいいかもしれない。ただし、こっちも川嶋さんからは正式に事情を聞かなければいけないんだ。だから、オレがこれから言うことはあくまで非公式な会話であって、理論的にはこれから取るはずの川嶋さんの証言には影響してはいけないことになる。それはいいよね」
何となくこういう時の習慣でキーランの視線を探すと、キーランは相変わらず窓辺であらぬ方向を向いたままであった。仕方がないので、美波は黙って頷く。そんな美波たちの様子をよく確認もせず、寺崎は俯きかげんにぽつりぽつりと話し始めた。
「川嶋さんに張りついていた私服刑事はふたりだったんだ。川嶋さんが近藤信宏にリネン室に連れ込まれたのを見て、ふたりは川嶋さんのことを助け出そうとした。ところが、そんなふたりの刑事のことを木原が目聡く見つけて、刑事のひとりの頭を殴って、意識不明の状態にした。残ったひとりは無事に逃げおおせて、応援を呼び、リネン室に戻ったんだけど、その時までには川嶋さんは連れ去れてしまっていた。後には、木原にやられた刑事と中西って看護師が残されていて、無事だった方の刑事がまだ意識のあった中西から事情を聞くことができた」
「中西さん、どうしたの」
美波は恐る恐る聞いてみた。死んでしまったとは考えたくなかった。
「警察病院にまだ入院しているよ。刺傷が小腸にまで達する重症だったんだ。まだ、当分病院にいることが必要で、起訴されるのも病院からってことになるだろうね。そう言えば、川嶋さんに謝罪を伝えて欲しいって言っていたよ」
「起訴されるの?」
「そりゃ、誘拐幇助とか家宅侵入とか器物損壊とか、色々重なっているからね。大怪我して、川嶋さんに謝罪したからってお咎めなしというわけにはいかないよ」
美波は胸元の毛布に視線を落とした。
「お見舞いのお花を贈るのは悪い考えかな、キーラン」
「お前がそうしたいならば、手配しておくよ」
突き放したように答えるキーランに対して、美波は大きく頷いた。今更、花束なんか何の役にも立ちそうにもないけれど、だからと言って誰もが中西のことを見捨ててしまったとしたら、それはいくらなんでも遣り切れない。特に、近藤から中西の生い立ちを聞いた後ではなおさらだ。
「ともかく、川嶋さんが須藤組の組員らしき男たちに連れ去られてしまったことはすぐにオレにも連絡が来た。それに、そのころまでには川嶋さんの指輪の発信装置が作動し始めて、キーランさんからも問い合わせが来た。それで、オレはキーランさんと病院で落ち合う約束をした」
チラチラと美波の様子をチェックしながら寺崎は続ける。
「病院に行ってみたらすでに大騒ぎになっていた。須藤が消えて、川嶋さんがいなくなってしまって、しかも突然、ふたりも重症患者を抱え込んだわけだろう。浜松救急部長は頭を抱えていた。おまけにさ、病院には菜穂が暁と一緒に来ていてさ、川嶋さんのことをしつこく聞いていただろう。こんな時に何でテレビ屋の菜穂が出て来るんだと思って、正直言ってウンザリしたよ」
「菜穂が芳賀君と病院に?一体どうしてそんなことになっていたの?」
意外なところで意外な名前が出てきたので、美波は思わず声を上げる。
「だって、川嶋さんが菜穂に電話したんだろう?」
寺崎に言われて、美波はやっと昼食時に菜穂に電話したことを思い出した。
「そう言えばそうだった」
「川嶋さんが電話した時、菜穂は暁と昼メシを食っていたらしいんだ。アイツも一応政治記者の端くれだからさ、前橋関係から暁が検察庁を辞めたって情報を仕入れて、それで暁のことを呼び出したらしい。アイツらのあまり辻褄の合わない話を総合すると、食事の後に、川嶋さんのメッセージが携帯に残っていたのを発見して、じゃあついでだからふたりで電話しようかってことになったらしいんだ。そうしたら、病院が奇妙な対応をしたもんで、これは何かあるってふたりで押しかけてきたってわけ。菜穂はさ、昔から余計なところで余計な気が利いて、あちこちに要らない首を突っ込むから困ったもんだよ」
寺崎の言い方と表情を見ていて、美波には何となくことばの裏にある「困った」事情の見当がついたような気がしたが、あえて聞くことはしなかった。もし、美波の勘が当たっているならば、寺崎は実際、可哀相な立場になってしまう。後で菜穂を問い詰めてやらなければと、美波は頭に刻み付ける。
「オレとキーランさんが慌てて病院に駆けつけてきたのを見て、菜穂は川嶋さんに何か大変なことが起こったって気がついてしまった。それで、アイツはこっちが状況を教えて、川嶋さんが安全であることを確かめるまで、オレたちの側を離れないって言い張る。オレだって昔からの友だちだから、アイツが川嶋さんのことを心配してそう言っているのはわかっていたけれど、捜査する方としてはさ、迷惑でもあったんだ」
「菜穂には悪気はないと思うんだよね」
美波は遠慮がちに言った。この場合、菜穂の気持ちも嬉しいけれど、寺崎がつい愚痴を言いたくなるのもよくわかるような気がした。だから、それはわかっているんだけどさと、寺崎はため息を吐いた。それから、気持ちを切り替えたように続ける。
「確かにさ、あの場に菜穂と暁がいて実は良いこともあったんだ。暁は川嶋さんが須藤組に関係した男たちに拉致されたかもしれないってことを聞いて、すぐに実家に戻って、親父さんと話してくれた。暁の親父さんは川嶋さんのことを聞いて、須藤が川嶋さんを連れて行きそうな場所を特定してくれた。川嶋さんが連れて行かれたのは、川嶋都市計画が数年前に分譲したリゾートマンションだったんだけど、結局ほとんど売れなくて、不良債権化していたんだ。その類いのリゾートマンションが房総には幾つかあって、暁の親父さんは須藤たちがそのうちのどれかを使っているんだろうって推測をつけてくれたんだけど、実際、その通りだった。地元の警察に内偵に出て貰ったら、早い時点であのマンションの周りでヤクザ風の男たちが数人目撃されて、そのうちの何人かは須藤組の組員だと特定することができた。おまけに川嶋さんの指輪の発信装置も房総辺りで川嶋さんの動きが止まったことを示していたしね。だから、川嶋さんの居場所は割りと早い時点でわかっていたんだ」
寺崎はそこで大きな息を吐き、キーランの方を見る。キーランもまたため息を吐き、ゆっくりと英語で喋り出す。
「お前が須藤たちに拉致されてしまったことを伝えると、エディはパニック状態になったんだ。フィーに続いてお前までも亡くすことができないって、すべてを諦めなければならなかったとしても何がなんでもお前を取り戻すって言った。そんなエディを思い留まらせたのはオレなんだ。エディもパットも、長い間、この時のために準備をしてきたのを知っていたし、オレはとにかく23年前のことを片づけなければならないと考えていた。幸いお前の居場所は特定できていたし、芳賀さんから須藤のことを聞いているうちに、須藤はいたずらにお前を傷つけることがないって思うようになっていた。だから、芳賀さんが逮捕される前にお前を助け出してしまえばいいと、簡単に考えていたんだ」
「それで、オレたちは菜穂の助けを借りることにしたんだ。暁の親父さんが逮捕されることになれば、マスコミが大騒ぎする。でも、もし、そのタイミングを上手くコントロールして、川嶋さんを芳賀さんに関する情報が伝わる前に助け出すことができれば、川嶋さんが危険な目に遭うことはない。だから朝一番に川嶋さんを救い出すお膳立てをして、菜穂には芳賀さんの逮捕のスクープをやるって約束で、川嶋さんを助け出すまで情報が漏れないように目を配っていてくれって頼んだんだ。もし、他の局が情報をリークしそうな場合は教えてくれって」
キーランの後を受けて、寺崎が言う。日本語と英語というふたつの異なる言語で話しているのにもかかわらず、ふたりの間にいつの間にかチームワークができていて、美波は不思議な思いでキーランと寺崎の言うことを聞いていた。
「それなのに情報が漏れてしまって、芳賀君のお父さんが警察に事情を聞かれたことがニュース速報で流れてしまったのね。私もテレビで観たもの」
寺崎とキーランが苦しげに顔を見合わせた。
「菜穂がオレの携帯に電話してきて、ニュース速報があと1分で出てしまうって叫んだんだ。オレとキーランさんはまだリゾートマンションに向かう車の中にいた。それから、内偵中の刑事から須藤たちが川嶋さんをクルーザーに乗せたって連絡が来て、それで、急遽、管理会社のモーターボートに乗って、後を追ったんだ。実際、キーランさんと地元警察の人間が船に詳しくて助かったよ。オレにはモーターボートなんてどうやって動かしていいかわからなかったからね」
もともと竹を割ったような性格の寺崎は、不器用さを精一杯動員して、取り繕うように言った。その間、キーランは苦い顔をして、窓の外をじっと見ていた。ふたりの様子から、美波は自分の質問を一瞬だけのみ込もうとしたが、結局、我慢できずに口にしてしまっていた。
「菜穂が局で目を光らせていたんでしょう。どうして、情報が漏れるようなことになったの?」
寺崎は息を吐いて、キーランを見た。キーランは微かに頭を振った。
「綾乃さんらしいんだ」
「綾乃さん?」
「そう。菜穂が後で調べたところによると、綾乃さんが11時のニュースのスタッフ数人に電話して、芳賀さんの周辺で動きがありそうだから様子を探るようにアドバイスしたらしい。しかも、その時に、綾乃さんは、菜穂にはバレないようにって特に頼んだらしいんだ」
寺崎の返答を聞いて、美波は深く俯いていた。
「どうして、綾乃さんはそんなことをしたの」
「誰も彼女から事情を聞いていないからわからないよ。彼女は11時のニュースを3日前から休んでいるし、まだ松濤の人たちとは何の連絡も取っていないからね」
キーランが困惑したように答えた。美波はどんな表情をしてよいのかわからず、ただ自分の胸元の毛布を見つめていた。綾乃は美波の死を願って、ニュースを流したのだろうか。だとしたら、どうして、自分と綾乃はそんな風に敵対し合わなければならないのだろうか。
「明日にも綾乃さんには直接、事情を聴くことは考えているんだ。だけど、彼女はニュース番組スタッフなわけだし、関谷久夫とは一緒の家に住んでいるから、理論的には、川嶋さんのこととは関係なく、彼女が芳賀さんのことを自分のお祖父さんから聞き込んで、自分が出ている番組のために良かれと思って情報を流すことはありえないことじゃない」
美波が自分の思いに沈んで、しばらくの間、何も言わないでいたら、寺崎が静かに告げた。
「日本の法律では、故意をもって命が奪われるような危険に誰かを陥れる行為は殺人謀議の未遂に問うことができるんだ。ただ、この場合、故意の立証はそんなに簡単なことではない。証拠って言っても、綾乃さんの証言とあとは状況証拠しかないだろうしね。実のお祖父さんやお父さんが困った立場になるのに、どうしてそんな情報を流したんだとか、そういうところから少しずつ矛盾を突いていくしかない」
寺崎が言ったことを慎重に2度反芻してから、美波は聞いた。
「もしかして、これは事情を説明しているんじゃなくて、ふたりとも私に相談しているの?」
寺崎は気まずそうに、下を向いた。キーランは、窓の外に視線をやったまま動かなかった。
「実は、まだ、もう少しだけ説明しなければいけないことが残っているんだ。つまり、最後の船の上で起こった騒動のことなんだけれど」
美波の質問には直接答えず、寺崎は更に声を低めて続ける。話が核心に近づいてきたのを感じて、反射的に今の自分に可能な限り体を起こす。
「あの場にいた須藤組の関係者は、須藤以下、近藤や木原など6名。川嶋さんは多分周りのことを気にしている余裕はなかっただろうけれど、警察の出現にアイツ等はそれなりに抵抗をしてきて、だから最終的には須藤以外は全員現行犯逮捕ができたんだ」
「須藤さん以外って、須藤さんはどうしたの?」
美波がつい反射的に問いただすと、寺崎は一瞬だけ言い淀んで、短く答えた。
「須藤は自殺した。川嶋さんが海に落ちた後、追いかけるように自分の胸を撃ち抜いて、海に落ちていった。まだ死体も上がっていない」
最後に見た須藤の表情が鮮やかに美波の頭に蘇った。美波は妙に納得して、寺崎の言うことを受け入れていた。
「須藤は、末期の肺ガンだったんだろう。近藤が取調べで言っていたよ。近藤の話によると、須藤は最初から死ぬ気だったらしい。そんな須藤に近藤も付き合うつもりだったと言っていた。まったくさ、自殺したかったならば自分たちだけでやればいいのに、関係のない人間まで巻き込んで、メーワクな男たちだよな」
寺崎が感情のイラつきを隠さずに言い捨てた。
「でも、結局、近藤さんや他の人たちは死なないで、警察に捕まったんでしょう。それで、取調べを受けて、あの時何があったのか話したのね」
美波はゆっくりと自分に言い聞かせるように聞いていた。完全に、声が震えていた。寺崎は軽く頷いた。
「素直にとは言いがたいけれどね、それでもこの2、3日で随分と色んなことを喋り出している。ひとつだけ言うとね、川嶋さんを撃ったのは木原なんだ。あの野郎、マル暴関係は知らないなんて言っていたけれど、5年ほど前に須藤組と繋がりがある賭博場で大きな借金を作って、以来、影で須藤組のために動いていたらしい。ただね、木原は今度のことが起きる直前にちょっとした金額の金を手にしているんだけど、その出所が須藤組ではなくて、関谷久夫に関係する組織である可能性が高い。だから、そこからヤツを締め上げていけば、関谷に行き当たることができるかもしれない。木原と比べると、須藤も近藤もずっと個人的な動機で動いていたような感じだね。少なくとも、近藤には金がいった形跡がまったくない。それに、須藤は最後まで、携帯電話で川嶋さんのお父さんに連絡を取ろうとしていた。電話が掛けっぱなしになっていたから、こっちは海の上でも場所の特定にそんなに困ることはなかったんだけど、考えてみれば、おかしなな話だ」
寺崎はそこで一旦言葉を切ると、大きく息を吐いた。それから、再び何かを言おうとして、口を開け、しばらく難儀していた後、途方に暮れたように俯いた。それで、それまで窓にもたれて、寺崎と美波のやりとりを黙って観察していたキーランが静かに身を起こし、移動を始める。
「もういいよ。ケンイチにばかり押し付けるのはフェアじゃないし、多分、ここから先はオレから美波に話すべきなんだろう」
美波が横たわるベッドの後方に腰を掛けて、キーランが言う。真っ直ぐな、突きつめた視線が美波を射すくめる。
「お前だって、あの時、現場には警察の人間がたくさんいて、お前がどういう状態にあったか目撃したことはわかっているはずだ。お前を海から引き上げた時、お前が身に着けていたシャツは引き裂かれていたし、船の上には下着の残骸が残っていた。だから、お前がレイプされかけていたことは、誰の目から見ても明らかだった。近藤もそのことについては別に隠す必要があるとは考えていないみたいだ。彼はお前とセックスができなくて、それだけが心残りだったとはっきりと警察に証言している。もう少し正確に言えば、そういう風にオレとお前に伝えて欲しいと言ったそうだ」
キーランは感情を込めることなく、淡々と美波に対して語ってみせた。つい、美波はキーランの視線を避けるように、下を向いてしまう。
「日本の法律では、レイプとその未遂は親告罪ってことになっている。つまり、たとえ多くの目撃者がいようが、近藤自身がそれを警察の取調べで喋ろうが、お前が近藤を訴追しない限り、船の上で近藤がお前をレイプしようとしたことは犯罪にはならない。それで、警察の中には、暴行に加えて、レイプの未遂でも近藤を告発するようにお前を説得するべきだって声もある。だから、お前が正式に警察の事情聴取を受ける前に、こちらの方針と戦略をはっきり立てておく必要があったんだ。今日、オレたちがふたりで来たのは、そのことをお前と話すためだ」
美波の足元に腰を掛け、キーランは頑ななまでに事務的に言葉を継いだ。自分とキーランの間に存在する物理的な距離に、美波は気分が沈んでいくことを抑えられなかった。感情的な問題が今にでも爆発しそうなのに、まず、弁護士としてのキーランと事件の処理をしなければならないというのはあんまりだと思う。
「ポイントは2点。綾乃さんの事件への関与をどこまで追及するのかということと、それから近藤をレイプ未遂で刑事訴追するのかということ。ここまではいくら世間知らずで、いつも法律問題からは逃げ回ってばかりいるお前でもわかるだろう」
美波が黙ったままでいると、キーランが子どもにでも言い聞かせるように、丁寧に説明する。多分、この手の問題に関するキーランの美波に対する信用はその程度なのだろう。仕方なく、美波は俯いたまま聞いてみることにする。
「追求するのとしないのでは、どんな違いがあって、キーランはどっちが良いと思うの?」
キーランは暫くの間、じっと黙っていた。それから、完全に不機嫌な声が聞こえてくる。
「お前さぁ、お前と川嶋グループの顧問弁護士としてのオレのアドバイスと、オレの個人的な意見のどっちが知りたい?」
顧問弁護士と言われて、美波は反射的に顔を上げた。キーランは目を細めて、そんな美波を鋭く見返す。
「頼むから、オレがお前の顧問弁護士だと知らなかったなんて言うなよ。そんなことを言ったら、あちこちに山のようにある、お前名義の信託財産やら不動産やらの面倒なんか、金輪際見てやらないからな」
そんなことになったら困るばかりなので、美波は再び黙って俯いた。それでも、キーランの心情はよくわかった。キーランだって、本当はこんな風に船の上でのできごとを美波と話し合いたくはないのだ。けれども、それがキーランの仕事である以上、避けて通ることはできない。キーランは再び、大きくため息を吐いた。
「最初に、弁護士としてのアドバイスをすると、オレは、綾乃さんのことも近藤のことも、今回はケンイチを丸め込んで、これ以上追及しない方がいいと思う。理由は大きく分けてふたつ。第一に、芳賀さんが逮捕されて以来、暴力団の須藤組や保守党の前橋派との癒着が表沙汰になって、川嶋グループは、既に十分、大きなダメージを受けているんだ。これから捜査の手が前橋本人や関谷氏に及ぶことになれば、会社にとって都合の悪い事実が更に表沙汰になるのは必至で、川嶋グループはしばらくの間、マスコミの格好の餌食になるだろうし、ライバル会社はそんな状況を利用して、攻撃してくるはずだ。そういうことを考えると、関谷や綾乃さんが暴力団を使って、お前をレイプしようとしたり、殺そうとしたりしたことが社会的に知れ渡るなんて、百害あって一理無しだよ。結局、関谷とエディのごたごたは家族内の問題になるわけだし、お前と綾乃さんは腹違いの姉妹だろう。金持ちの家のスキャンダルだって面白がるヤツは世間にはたくさんいるだろうけれど、それじゃ悪いイメージが拡大していくばかりだ。しかも、裁判となれば、関谷の方だって、綾乃さんや自分のことを守るため、お前とエディのことを攻撃してくる。そうなれば、こっちだって無傷ではいられない。川嶋都市計画や川嶋グループが危機に瀕していて、これから立て直していかなければならない時なんだから、余計な問題は持ち込まない方がいい」
それだけ言うと、キーランは美波の顔を覗き込んだ。わかったかということなのだろう。美波は、微かに頷いて見せた。
「それでふたつ目の理由は何なの?」
多少協力的なジェスチャーを見せようと質問すると、キーランはスッと視線を外した。
「エディなんだ」
「お父さんが?どうして?」
「今度のことで、エディは今、完全にキレているんだ」
キーランはうんざりしたように言い、美波の方へ向き直る。
「フィーのことだってあったし、関谷とはこれまで長い間、色々と確執があったわけだけれど、それでも彼らは一応、エディにとっては親戚であるし、自分の妻であり、子どもであるわけだろう。だから、これまではエディの中にも最後の歯止めみたいなものがあって、彼らのことを何とか穏便に処理しようとしてきたんだ。ある意味ではさ、だからこそ、ここまで来るのにフィーが死んでから23年もかかってしまったわけじゃないか。それが、今回、関谷はお前に本気になって手を出して、最後にはお前が大怪我をすることになった。それで、エディの理性が吹っ飛んでしまったんだ。でも、川嶋グループが成長した過程では、関谷だって随分と貢献しているから、さっき言ったように、関谷たちを追い詰め過ぎると、グループにとっても都合の悪い事実が出てくる可能性がある。関谷を切る刀は、グループにとっても危険なんだ。エディだってそんなことを十分にわかっているはずなのに、徹底的に関谷を追い詰めるって言い張って聞かなくてさ。それで、昨夜、パットとエディが大喧嘩をした」
「お父さんとパットおじさんが喧嘩したのぉ?」
美波は状況を忘れて、つい大きな声を出していた。自分の声に傷が疼き、顔を顰める。寺崎がびっくりしたように、美波とキーランを見た。
「そう。それも横で聞いていたオレが赤面するしかないような、低レベルの喧嘩だった。あの場にいたのは幸いオレだけだったから、正直言ってホッとしたよ。ふたりともバカみたいなことを散々と言い合って、部屋を飛び出して、昨夜はどっちも家に戻って来なかった。それで、オレは母さんにも色々と問い詰められて、余計なトラブルをもうひとつ抱え込むことになったわけだ。お前のことやグループのことだけでもう手一杯なのに、何でオレがアイツらの面倒まで見なければいけないんだと思うと、情けなかった。それで、オレだっていい加減頭にきていたから、アイツ等の言い争いを全部母さんにぶちまけてやったんだ。そしたら、母さんがとてつもなく怒って、今頃アイツ等のオフィスでお説教しているよ」
買い物に行くってそういうことだったのかと、美波は病室を出て行く寸前のアリシアの様子を思い出す。それにしても、キーランが赤面するほど低レベルで、あのアリシアが怒ってお説教に乗り出すような喧嘩とは一体、何だったのだろうか。
「喧嘩の原因を聞いてもいいかな」
美波が恐る恐る聞くと、キーランは恥ずかしげに顔を背けた。
「だから、最初は、関谷を追求する戦略や松濤の人たちへの対応について議論していたんだ。そのうちに、パットがエディに行き過ぎるって意見し始めたんだけど、エディは納得ができなくて、オレがまったく知らなかった昔のことを持ち出してきた。フィーと美波があんなことになったのに、君にはアリーがいるから随分と冷静でいられるわけだね。でもそれじゃ、フィーが可哀想だろう。彼女だって君のガールフレンドだったわけだからって、エディは言った」
キーランが早口で言うのを聞いて、美波は息をのんだ。
「お前、昔、パットとフィーが付き合っていたって知っていたか?オレは昨日、初めて聞いた。母さんが昨日の夜、話してくれたんだけど、あの4人のそもそもの始まりは、パットとフィーが短期間、恋人同士だったことに遡るらしい。ただ、ふたりは喧嘩ばかりしていたからすぐに恋人関係を解消して、以来、仲が良い友だちになった。それで、フィーが母さんをパットに紹介し、パットとアリーを介して、エディとフィーが親しくなったんだそうだ」
さも面倒くさそうにキーランが説明するのを、美波は黙って聞いていた。正確に言えば、事の顛末に言葉を失っていた。そんな騒動に付き合わされたキーランがとても気の毒だった。
「それにしたって、パットおじさんにそんなことを言うなんて、お父さんもいい年をしてしょうがないわよ。10代の子どもじゃないんだから」
美波がやっとのように、それだけこぼすように呟くと、キーランは頭を振った。
「パットもパットなんだ。エディがこのところの騒ぎで、ギリギリまで追い詰められているのを知っているくせに、真面目にエディに突っかかり始めて、見所があると思ってフィーのことを任せたのに、エディがだらしないから結局、フィーは死んでしまったんだとか、自分だってアリーのこと恋人だと勘違いしているくせにとか、どうしようもないことを言っていた。オレは心の底から呆れ返った」
それじゃ、アリーおばさんが怒るはずよねと、美波は完全に理解する。開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろう。
「まぁ、あのふたりのことは母さんに任せておけばいいよ。というか、オレは関わり合いになりたくない。ただ、ただでさえエディはそういう状態なんだ。そんなところへ、お前がレイプされかけただの、綾乃さんが関与しているかもしれないなんて聞いたら、エディはそのまま暴走を始めて、誰にも止められなくなる」
「それじゃあ、お父さんは、あの時のことは詳しくは知らないのね?」
「お前を助け出した時点で、オレが口止めをした。だから、現場にいた警察の人間以外であの時何があったのか知っているのは、母さんだけなんだ」
配慮が行き届いたキーランの手腕に、思わず美波はほぅっと息を吐く。これはしっかり感謝をしなければならないと思い、できるだけ上半身を起こして頭を下げてみせた。
「それはどうもお疲れ様でした。ありがとう」
「いいよ。そのぐらいの金は貰っているし」
それから、キーランは少し不貞腐れたように、窓の外に視線を投げる。
「個人的なことを言えば、オレだって、お前をあんな目に合わせた人間は、片端から叩き殺してやりたいよ。計画を放棄しようとしたエディのことを思い止まらせた自分自身を含めてね。だけど、感情的になってばかりもいられないから、こうしてケンイチと一緒にお前のところに来たんだ。お前もそのぐらいのことは察しろよ」
言葉の端に痛々しさがにじみ出ているキーランの様子に、美波は目を伏せる。
「寺崎君はそれでいいの。私たちに丸め込まれて、困ったことにならない?」
「こっちの方は心配することないよ。最初に言ったように、綾乃さんの件は立証がもともと難しいし、近藤の方は川嶋さんに対する暴行の他、中西の殺人未遂や川嶋さんの誘拐殺人未遂の他、追及できそうな余罪がたくさんあって、川嶋さんがわざわざ嫌な思いをしてレイプ未遂で告発しなくても、当分の間、刑務所に入れておくには十分なんだ。それに、捜査の合理性から言っても、山のようにある他の重要な案件に限りあるリソースを配分した方がいいしね」
寺崎はとても明確に言った。美波は俯いたまま、左手に力を込めて、毛布を握り締めた。ここまで話してきたのだ。もう、自分の中の不安を心のうちに押し止めておくことはできなかった。
「ふたりがそう言うのだったら、私はそのアドバイスに従う。もともと私にとって気がかりだったのは、あんなことがあっても、キーランが私のことを許してくれて、また受け入れてくれるかってことだけだったの。だから、後のことはふたりが最善と思うやり方で進めてくれればいいと思う」
美波がそれだけ言うと、キーランが弾かれたように、美波の顔に視線を定めた。対して、その時、美波は顔を上げることさえできなかった。
「ちょっと待てよ。オレがお前のことを許して、受け入れるってどういうことだよ」
生まれて初めて聞くような鋭い声で、キーランが尋ねる。美波は左手が震え出すのを感じた。
「だって、私は、あの時、最後までがんばることができなかった。私が無事で戻ることをキーランが待っていてくれているって、キーランがきっと助けに来てくれるって信じて、あんな男たちに負けるものかって思っていたんだけど、それでも最後にはもう駄目だっていう気持ちに圧倒されて、諦めていた」
「何をバカなこと言っているんだよ。あの状況で、お前に何ができたって言うんだ」
「わからない。でも、きっと、諦めちゃいけなかった。私が諦めて、キーランの信頼を裏切ったから、だから、キーランが怒って、悲しむのも無理はないのかなって思う」
すべてを言い終わる前にキーランが激しく怒り始めたのを感じて、美波はますます、顔を上げられなくなる。
「お前って、どうしていつもひとりで先走るんだよ。おまけに、そういう時は決まってろくでもない、唐偏木なことを考えている」
キーランはウンザリしたように言い捨てた。唐偏木はないのではないかと、美波はつい思う。
「そこまで人のことを見くびって、情けないことを言うなよ。オレがあんな目にあったお前に怒ることができるはずがないだろう。オレが怒っているのは、結局、お前を守ることができなかった自分に対してであって、それだけ傷ついたお前に対して何もできない自分自身にイラついているんだ。許して貰わなければいけないのはオレの方なんだ」
珍しく興奮した調子のキーランの言葉に、思わず、美波の目から涙がこぼれていた。
「それじゃ、私はキーランを苦しめるばかりじゃない」
キーランは乱暴に立ち上がった。美波に背を向けて、ズボンのポケットに両手を突っ込み、窓の外をじっと見る。その時、遠慮がちに、それでもわざとらしく、寺崎が咳払いをした。寺崎がこの場にいたことなど忘れていたので、美波はハッとして寺崎の方を向いた。キーランの様子からすると、キーランの方もそんな感じだったのだろう。寺崎は困ったように笑っていた。
「キーランさん、近藤から聞いたところによると、川嶋さんは、自分に暴力を振るう近藤に対してとても大胆なことを言っているんですよ」
「大胆なこと?」
数分前の深刻そうな雰囲気をすっかり忘れてしまったかのようにニヤつく寺崎に、キーランは確信なさげに聞き返す。
「そう、オレが覚えている限りでは、川嶋さんは近藤に対してかなり色々なことを言ったみたいですよ。自分に乱暴をしても、近藤は川嶋さんを傷つけることはできない。近藤が何をしようが、川嶋さんは近藤なんかに支配されないし、川嶋さんとキーランさんのお互いに対する愛情を損なうことはできない。それから、ふたりの間には誰も介入できないって言ったそうです。川嶋さんがそうはっきり言い切るのを聞いて、近藤は、何て傲慢で、嫌な女なんだって思ったそうで、だから、あんな女とヤレるわけがないだろうというのがアイツの結論です。アイツは根っからのヤクザで、悪いヤツだけれど、その点についてだけは、オレはアイツの言うことが分かるような気がするな。それに、自分の彼女からそんな風に信頼されているっていうのも、キーランさんにとっては、実はとても大変なことですよね」
寺崎はさっきよりもずっと気楽な調子でそう言うと、立ち上がった。キーランは呆然として寺崎の言うことを聞いていて、そんなキーランの横で、美波は恥ずかしさに全身が火照り出すのを感じる。
「どうして、オレはその話を知らなかったのかな」
少しの間をおいて、キーランが戸惑った表情のまま聞く。
「プライベートな会話で近藤が言ったことなんですよ。オレはキーランさんに伝える必要は特にないのかなって思っていたし、第一、オレだって照れくさくてこんなことをキーランさん本人には言い難い。でも、川嶋さんとキーランさんがいつまでも無駄な言い合いをしているようなんで、ぶっちゃけて話してみただけです。さっきからずっと聞いていたけれど、聞いているこっちとしては、結局、ふたりの関係はとても強くて、お互いを深く思い合っていて、ちょっとやそっとのことでは壊れないって宣伝されているようなもんだった。だったら、最初から、素直に幸せそうにしてればいいのに、いつまでもはっきりしないのは良くないと思うな。だから、暁みたいな被害者が出てくるんだ。そうだろう、川嶋さん?」
美波は黙って下を向いていた。動けるものなら、すぐにその場から立ち去りたかった。寺崎はとうとう声を出して笑い始めた。
「それじゃ、オレはお邪魔なようだから、今日はこれで帰るよ。明日、刑事をもうひとり連れてくるから、川嶋さん、調書の方をよろしく。時間については、あとでキーランさんの方にメールで知らせるから、ふたりはこのまま仲良く言い争っていればいいよ」
寺崎はいいように美波とキーランのことをからかっていたが、ふたりともそのまま動くことも、ことばを発することもできなかった。そして、笑いながら病室を出て行く寺崎を呆然と見送った。
寺崎が部屋から出て行くと、キーランは緩慢に美波に視線を移した。ため息混じりに、あきれ返ったような声を出す。
「お前さぁ、これから自分をレイプしようとしていた男に対して、よくもまぁ言ったもんだよな」
美波は逃れるように左手で毛布をギュッと握っていた。恥ずかしくて、穴にでも入りたいというのはこういうことを言うのだろう。
「私もあの時は必死だったの。でも、改めて聞いてみると、本当に傲慢で、自信過剰だよね」
俯いて、自信なさげに答えると、2、3秒置いて、キーランが噴き出した。
「確かに、それだけ信頼して貰っているっていうのも大変だよな」
喉の奥を鳴らして笑いながら、さっきまで寺崎が座っていたベッド脇の椅子にドスンと座り込むと、ネクタイを緩める。美波のすぐ隣で、キーランの表情が数分前よりずっとリラックスものに変わっていった。
「それで、芳賀暁とは何があったんだよ」
聞きながら、キーランは美波の左手を丁寧に握った。美波は精一杯、顔を背けた。
「何もなかったの。一度、ふたりで出かけたけれど、それだけ」
「へぇ、それで彼が被害者なんだ」
キーランが美波の顔を覗き込む。
「寺崎君が大げさなのよ。それに、キーランだって私のことを色々と言うことはできないでしょう?自分だってニューヨークにはセックスフレンドがたくさんいるくせに」
苦し紛れに言う美波をキーランはあっさりと切り捨てる。
「そんなこと、くだらないからもうやめたんだ。オレはこの一年半の間、仕事ばかりしていて、そうでない時は、結婚/離婚問題に混乱していたデービッドと、やっぱり結婚問題でトラブッていたジェンに付き合っていた。誰かみたいに、奇特な崇拝者がいたわけではないからね」
キーランの言い方に、美波はついキーランの方を向き、言い返してしまう。
「それなら一年半も待たせないで、さっさと東京に来ればよかったじゃない。私が折れて、ニューヨークにキーランのことを追いかけていくのを待っていたなんて、ずるいわよ」
「結局、出向いてやったのはオレの方なんだからさ、そういう言い方はないだろう。お前だって、オレが折れて、追いかけてくるのをじっと待っていたわけじゃないか。オレはね、これでも色々と考えて、お前が研修医をやっている間は、時間の都合がつきそうにもないから、オレも仕事に集中して、やれることをやってしまおうって決めたんだ。東京にしょっちゅう出張に来たりしていると、仕事の効率が悪くなるんだよ。だから、お前が仕事に集中しなければいけない間は、オレも同じように時間を遣えばいいと思ったんだ。それで、お前が一段落つく頃にまた東京に行こうってういう心積もりでいたら、今度の件が具体的になってきて、それでこっちに来るのを数ヶ月遅らせたんだ。つまり、オレは行き当たりばったりのお前と違って、一応は考えていたんだ」
それからキーランは力が尽きたように、枕の脇にバタンと頭を横たえる。
「確かに美波は正しいよ。お前にはいちいち説明しなければならなくて、こんなに面倒くさいヤツなのに、なぜかオレはお前から離れるころができない。オレたち自身、自分たちの関係をコントロールできないんだ」
「後悔している?」
できるだけキーランの方へ身を寄せて、美波は恐る恐る聞く。
「お前といると、幸か不幸かそんなこと考えている暇はないよ。この数日、最初はお前の安否の心配や救出の手配やらに追われて、その後は事後処理で手が一杯だったんだ。お前の顔を見たらさ、ああ、生きていてよかったな、またおかしくならなくて良かったなって、そういう気持ちで圧倒されていたんだけれど、それでもやっかいな用事が後から後から沸いてきた。昨日の夜、ケンイチに会わなかったら、本当は面倒くさいことなんか考えていたくないよ」
美波はキーランの手を握る力を強めた。
「キーランは本当に大変だったね。私のことを助けてくれて、自分の仕事をして、お父さんたちの心配までしなくてはいけなくて。とても感謝をしている」
美波が愁傷に言うと、難儀そうに顔を起こして、キーランは美波の瞳の奥を射すくめる。
「行くのが遅くなってゴメンな。オレはお前に嫌な思いをさせたり、怪我させるつもりはまったくなかったんだ」
美波はできうる限り首を伸ばして、キーランの唇にキスをした。
「あの夜、最初はキーランが側にいないことがとても心細かった。それで、色々と昔のことを思い返していたの。そうしたら、そのうちにキーランと離れ離れになることなんかありえないような気がしてきた。私は、キーランのところに必ず戻れるし、キーランは絶対に私を助けに来てくれるって。そしたら、キーランは最後にちゃんと助けに来てくれて、私を海から引きずり揚げてくれた。私はとてもホッとして、幸せな気持ちになった。私はそれでいいの。あとはキーランが納得してくれればと願うだけ」
キスの合間に迸る様に発せられる美波の囁き声を突き詰めた表情で受け止めて、キーランは小さく息を吐く。
「オレもそうだった。結局、美波と離れ離れになるとは思えなかったし、お前が死んでしまうなんて思いもしなかった。もっとも、お前が海に落ちるのを見た時は、心臓が潰れそうになったけどな。もうあんなことは二度とゴメンだよ」
それから、美波の右肩の傷をじっと見る。
「痛そうだな」
「痛いよ」
「それじゃ、当分セックスできそうにもないよな」
キーランの言い方に、美波はつい笑ってしまう。
「あと1ヶ月は絶対に無理だね。それからは様子を見てってところかな」
「ついてないな。その頃はもうニューヨークだ」
力尽きてしまったように、キーランは再び美波の顔の側で、ベッドに頭を横たえた。
「まぁ、いいか。こうしてまた美波がオレの側に戻ってきたんだし」
言いながら、キーランのまぶたが静かに閉じられていく。
「オレさぁ、今度の件をしっかり片づけるから、だからこんな騒動、もうこれきりにしような」
「そうだね」
美波はそっとキーランの方に体をずらし、包帯に包まれた自分の額でキーランの額に軽く触れる。キーランが眼を閉じたまま呟く。
「ああ、どうしようもなく眠くなってきた」
「少し眠るといいよ。キーランだって疲れているんだから。キーラン、寺崎君相手に英語で喋っていたのに気がつかないぐらいなんだもの。くたくたなのよ」
「そうだっけ。実際、まったく気がつかなかった」
夢でも見るように、キーランが上の空で言う。
「でも、アイツ、日本語で答えていたじゃないか」
「そうよ。ふたりで違う言語を使って、会話していたの。面白かった」
「ああ、もう、何語でもいいよ。オレにはフィンランド語を話しているような気がする。美波、悪いけれど、4時になったら起こしてくれないかな」
「努力はするけれど、私は今のところ痛み止めでボーっとしているから、そういうことではあんまり当てにならないよ」
美波の返答にキーランは一瞬だけ眼を開けたが、またすぐにまた閉じてしまう。
「それもそうだよな。まぁ、いいか。その頃までには母さんが戻ってくるだろう」
キーランのまつげが微かに揺れた。それを見ている美波もしだいに眠気に流されていく。
「美波」
「なぁに?」
かすれ声で聞き返すと、キーランは何か言ったようだったが、よく聞こえなかった。すっかり安心したように子どものような顔で眠りに落ちていくキーランの横で、美波もまた眼を閉じた。
結局、美波とキーランは4時少し前に戻ってきたアリシアに起こされた。ふたりとも、子どもの時と同じような格好して寝ていたわよと、アリシアはゆったりと微笑んだ。そんなアリシアの様子に、美波は久しぶりに確信をもって微笑み返すことができた。そして、キーランも屈託なく笑っていた。
エディは、美波があまり食欲をそそられない病院の夕食と格闘している時にフラリと現れた。美波の顔を見ると、慌てて笑顔を取り繕ったが、少し不貞腐れたような様子がうかがえる。片手で抱えていた本の束をベッドサイド・テーブルにドサッと置くと、ベッド脇の椅子に腰を掛けた。
「キーランと岸田君にオフィスを追い出されたんだ。まったく、自分の会社から追い立てを食うとは思わなかったよ。君に本を持っていけって託ったけれど、どうせ口実だろう?」
美波は笑って、エディの顔を見返した。この父は、いい年をして、少年のような言い方をする。
「それで、キーランは僕に何を言えって君に言ったの?」
さっきまでキーランが頭を載せて寝入っていたのと同じ場所に頬杖をついて、エディは美波の顔を覗き込んだ。アリシアとキーランが帰る前に急いで打ち合わせてことを素早く復習してから、美波はゆっくりと切り出した。
「お父さん、やり過ぎだって」
エディは軽く眉を上げて、へぇっというような表情をする。
「関谷さんを切る刀は川嶋グループにとっても危険なことはお父さんだって十分にわかっているはずなのに、理性を失くしてしまったようで歯止めが利かないから困るって」
「キーランがそんなことを君に言ったの?」
「そりゃ、キーランだって誰かに愚痴りたくなるわよ。多分、このところほとんど寝ていなかったんだろうし、仕事は山積みだし、お父さんとパットおじさんの世話までしなければならなかったんでしょう?雇い主ならもう少し考えてあげなきゃ可哀想よ。あんな優秀な人に逃げられると困るでしょう?」
できるだけ穏やかさを心がけて美波が言うと、エディはクスクス笑い出した。
「君にそんな風にお説教されることになるとは思わなかったよ。特に、会社の人事管理の問題について、君の意見を聞くようになるとは思わなかった」
それから、意味ありげに美波を見上げる。
「でも、僕の方でもこのところほとんど寝ていなかったし、仕事は山積みだし、君やキーランのことを心配して、気が気ではなかったんだけどな。それでも、キーランほどは同情して貰えないらしい」
美波はわからないように、そっとため息を吐いた。これでは、駄々子を相手にしているのとあまり変わらないのではないだろうか。
「お父さん、私は一応、真面目に話をしようとしているんだけど」
「わかったよ。ちゃんと聞くよ」
エディは笑いながら、片手を軽く挙げてみせた。美波はそんなエディの手をそっと握った。心を落ち着けるために軽く息を吐いてから、キーランとアリシアが帰った後、ずっと心の中で反芻していたことを思い切って言ってみる。
「これはね、キーランやアリーおばさんに言われたわけじゃなくて、私が自分で考えて、お父さんにお願いしたいことなんだけど」
「君のお願いならば、いつでも大歓迎だよ」
エディは気楽そうに応えた。つられるように微笑んで、美波は、エディのコンタクトレンズの奥に隠された暗い瞳を見つめる。
「松濤の人たちのことを許してあげましょうよ」
そう言った途端、エディの表情がスッと消えた。
「ううん、許すっていうのは正しくないかもしれない。お父さんが前に言ったように、人は誰も自分のしたことの責任を取らなければいけない。でも、もしその人のしたことが犯罪ならば、警察が追及するだろうし、多少でも責任があると思ったら、その人はその思いに苦しむことになる。だけど、私は、私とお父さんが松濤の人たちのことを責めるのはもう止めた方がいいと思ったの」
一息ついて確認すると、エディは身じろぎもせず、美波の言うことを聞いていた。
「私はお母さんが死んでしまったり、お父さんと一緒に暮らせなかったりして、とても悲しかった。だから、松濤の人たちのことを快く思っていなかった。でも、多分、あの人たちも同じなんじゃないかな。特に、綾乃さんはそう。私にとってお母さんが死んでしまったことがとても悲しかったように、綾乃さんは、お父さんがいつも彼女に対して距離を置くことが悲しくて、だから、私のことをあそこまで嫌ったのよ。そう考えたら、あの人たちもとても可哀想なんだってわかったの。それで、もう追い詰めるのはやめて、できる限りそっとしておいた方がいいんじゃないかって思った。そうすれば、お互いにもう傷つけ合うことはないし、あとは時間が解決してくれるはずよ」
「君はそれでいいのかい。そんな怪我までして、追い詰められて、それでも彼らのことを許すって言うのかい?」
しばらくの間考え込んでから、エディは聞いた。美波はしっかりと頷いた。
「私にはずっとお父さんがいたし、キーランや、それにアリーおばさんとパットおじさんもいた。昨日、パットおじさんがね、私に感謝しているって言ったの。生きて戻ってきてくれて、感謝しているって。あの時、私ね、こんなに皆に愛されていて、とても幸せだと思った。だから、私には、わざわざ可哀想な人たちを苦しめる必要はないの。もっとも、だからといって、助けの手を差し伸べたりするつもりもないから、実は、とてもケチなのかもね」
美波が喋り終えても、エディは随分と長い間、黙っていた。やがて、ゆっくりと顔を綻ばせる。
「だったら、僕は君の上を行くひどいケチなんだろうな。キーランとパトリックのアドバイスを受け入れるとしても、関谷さんの告発をやめる気はないからね」
「だから、キーランもパットおじさんも理性的にやればいいって言っているんでしょう?お父さん、そういうことはもともと、得意じゃない?今回だけ感情的になるなんて、おかしいわよ」
「君とフィーという僕にとって最も大事な人たちのことが絡むと、そうそう落ち着いてばかりもいられないんだ」
言いながら愛しそうに美波の髪を撫ぜ、エディは美波を眩しそうに見上げる。
「だけど、君の言うことの方が、筋が通っているし、多分、実際的でもあるんだろう。負けたよ。僕は君の言う通り、松濤の人たちをこれ以上追い詰めるのを差し控えるよ。それでいいだろう?」
美波が微笑んで頷くと、エディは少し首を傾げて、美波の顔を覗き込んだ。
「それはそうと、キーランの帰国が1週間後に決まったんだ。君がこんな状態なんで、僕としてはできるだけ彼の滞在を伸ばしてやりたかったんだけど、彼のボスもそろそろ痺れを切らしてきてね。あっちでもどうしても彼が必要らしい」
「そう。キーランも大変だね」
美波は俯き加減に答えて、軽く笑ってみせた。エディは少し意外そうにそんな美波を見る。
「引き止めて欲しいなら、やってみるよ」
「いいわよ。キーランだって、困るじゃない」
「けっこう、あっさりしているんだね。僕は君がまた泣くんじゃないかと心配だった」
「こんなことじゃ泣かないわよ。もう10代の子どもじゃないんだから」
美波の返答に、エディは大きく視線を逸らした。そうなのだ。美波の父と母は、アメリカと日本で離れ離れのまま、二度と生きて会うことはなかった。でも、今度の事件を乗り越えた自分たちは違う。美波は特に根拠もなく、そう確信していた。
「キーランが大学に入ってから、私たちはいつも東京とニューヨークで離れて暮らしていたわけだけれど、それでも必ず、数か月ごとに会うことができていたでしょう?今度もまたすぐに会えるわよ」
軽やかに腰を浮かせて、エディは美波の頬に口を寄せる。
「君がこんなに素敵で、強くて、しかも立派な女性に成長してくれたことがとても嬉しいよ」
その時、美波は、須藤があの朝、同じことを言ったことを思い出した。目を閉じて、エディのことばをじっくりと噛みしめてみる。体の中に温かい思いが溢れ、自分が父と共有した長い時間の中にしっかり立っていることを意識する。
「私もお父さんの娘に生まれて、本当によかったと思っている。とても大事にして貰ったもの」
美波の返答に、エディはにっこりと笑って応えた。
パトリックが病室に現れたのは、それからすぐのことだった。トレイの上の夕食にほとんど手をつけていなかった美波を心配し、エディが左手では大変だろうからとスプーンを取り上げたので、赤くなって思い止まらせようとしていたところだった。まだ体の調子が回復していないのだから、食欲がないのは当たり前なのだと言っても、エディは納得しなかった。多分、子どもの時のように、美波の世話を焼いてみたかったのだろう。
「パットおじさん、助けて」
美波が笑って声をかけると、パトリックは少し拍子抜けしたような顔をして、手に持っていた本を既にベッドサイド・テーブルに置かれていたエディが持参した本の山の上に重ねる。
「君も美波に本を持っていけって、キーランにオフィスを追い出されたようだね」
エディはチラリとパトリックの方を見て、言った。まだ少し、いつもより素っ気ない。
「お前のせいだよ。お前が聞き分けないことを言い張るからいけないんだ。今日の午後は、アリーがオフィスに乗り込んできて、言いたい放題言ってくれたし。まったく散々だよ」
壁際から椅子を引き寄せ、エディの隣に腰を下ろしながら、パトリックは言い放った。ことばのわりには、口調に勢いがなく、照れたような感じでさえあった。
「アリーなら僕のところにも来たよ。僕も多少は、怒られた」
「また差別待遇だな。お前は見た目と物腰で女の味方のように見えるから、随分と得だよ」
パトリックはうんざりしたように頭に手をやると、エディを軽く睨んだ。ベッド脇に並ぶそんなエディとパトリックの顔を交互に眺め、美波は笑いがこらえ切れなくなる。
「あのねぇ、実はキーランとアリーおばさんから伝言があるのよ」
「伝言?」
何となく嫌な予感がしたのだろう。エディとパトリックはつい顔を見合わせる。
「キーランが川嶋コンサルティングの近くのホテルに部屋を手配したから、今晩はそこに泊まって、ふたりでゆっくり反省しなさいって。それで、明日までに仲直りしたら、アリーおばさんがおいしい朝食を作ってあげてもいいわって言っていた。でも、アリーおばさんもキーランも今晩はゆっくり寝たいから、家に戻ってくるなって言っていた」
「参ったな。僕はオフィスを追い出されただけではなくて、自分の家にも帰れないのかい?」
珍しく、エディが唸った。横でパトリックも不機嫌な顔をしている。
「自業自得よ。ふたりとも昨晩言ったことは、お母さんやアリーおばさんの人格に対して失礼だし、第一、私やキーランからしてみれば、本当はきょうだいだったんじゃないかって、一瞬なりとはいえ心配しなければいけなかったのよ。キーランが呆れ返ったっていうのも無理はないと思うな」
エディがびっくりした顔でパトリックを見たので、パトリックは急いで激しく首を振ってみせた。
「そんなわけがないだろう」
それから、ガクッと首を垂れる。
「オレはフィーがエディと付き合うようになって、多少寂しくも思ったけれど、それでも心の底から安心したんだ。実際、フィーはオレには手に負えなかったけれど、エディとはとても上手くやっていた。だから、あんなことになってなおさら、悔しかったんだ」
エディはパトリックの調子に打たれたように、パトリックの顔を覗き込む。何かを思いついたかのように、薄く笑っていた。
「僕の方は、結局、君とアリーが羨ましかったんだろうな。美波が助かったって知らされてから、23年前にフィーを死なせてしまった自分の不甲斐なさにかえって腹が立ってきて、確かに、昨日の夜は、キーランが言う通り、理性を失っていたよ。正直に言えば、あの後はずっと、フィーが今でも生きていたら、彼女は離婚もせずに僕に付き合ってくれていて、君とアリーのように仲良く結婚生活を維持していることができただろうかって考えていた」
パトリックは呆れたように、エディを見返した。
「お前たちの場合、きっとオレたち以上だよ。あの調子で23年間も結婚生活を続けていたら、今頃、美波にはオレよりも多くのきょうだいがいたことになっていただろうよ」
美波はたまらずに噴き出していた。きっと、父と母の間柄については、誰でも同じ事を思うに違いない。美波につられて、あとのふたりも笑い出した。
「まぁまぁ、何の騒ぎですか」
美波たちが笑っていると、外科のベテラン婦長が病室に顔を出した。
「川嶋さん、たいがいにしてくださいよ。お嬢さんはまだ本調子ではないんですからね。あまり興奮させて疲れさせないでください。それから、川嶋先生も川嶋先生ですよ。今の体の状態についてはお医者であるご自分が一番よくご存知なんですから、お父さんにきちんと弁えていただくように説明してくださいね」
夕食のトレイを片付け、スキなく美波の様子をチェックしながら、婦長は休まずに注意を続ける。日本語のわからないパトリックはきょとんとしていた。
「今日は警察の方と随分と長い間、お話になっていたわけですし、本来ならば、川嶋先生のお体のためには、面会は早めに切り上げて頂く方がいいんですよ。佐々木先生が好きにして貰えばいいじゃないかなんて甘いことをおっしゃるので、ご家族の方にはそのようにして頂いていますが、この病棟にも一応、面会時間というものがありますし、第一、先生にはまだ正式な面会の許可が出ていないんです。それなのに、金髪の若い男性はしょっちゅう入り浸っているし、お父様と大騒ぎなさっているし、他の患者さんに対して示しがつかないではないですか」
婦長の小言は留まるところを知らなかった。エディが少しびっくりして、言葉を失っているので、美波はとりあえず素直に頭を下げてみせた。医者としての経験上、病棟でベテラン婦長に勝てる人間はまずいない。
「迷惑をかけてごめんなさい。あんな事件があった後でしょう。父たちの顔を見ていると、なんだか安心してくるの。だから、つい無理を言って、いて貰うことになってしまって」
「まぁ、それはわかりますけれどね」
婦長は腰に手を当てて、軽く美波を睨むと、廊下から点滴の下がったポールを引きずってきて、先に付けられた針を無造作に美波の左手に固定されたチューブに差し込んだ。それから、機械的にベッドの上半身部分をほぼ平らな状態に戻す。その様子を黙って見ていたエディは、一瞬だけ身を引いた。
「とにかく、今晩はゆっくり休んでくださいよ。川嶋さんも長居は困りますからね。ほどほどにしてお帰りください」
「心得ましょう」
幾分持ち直したエディが営業用の笑顔で頷いたが、そんなエディの手管にはまったく懐柔されず、婦長は厳格な面持ちで部屋を出て行った。
「なんだか、看護師の割にはおっかない女だな」
婦長が出て行ったのを確認して、パトリックが思わず言う。
「病棟の婦長なんてあんなものよ。権力者なの。会社や法律事務所でのお父さんやパットおじさんと一緒よ」
「でも、とても事務的な対応をするものなんだね。こんな風に無理やり寝かされたって、君だって眠れないだろう」
エディもかなり驚いたようだった。多分、ふたりとも、看護師という仕事にステレオタイプのイメージしか持っていないのだろう。病棟の婦長が辣腕管理職型の人間でないと勤まらないことを知らない。
「婦長の言うことも一理あるのよ。今日は確かに事件のことで寺崎君と長い時間、話をしなければならなかったから、昨日意識が戻ったばかりの人間にしては、随分と忙しかったの。だから、ちゃんと休息をとらなくちゃね。そうしないと、しっかり食事をする元気も出てこなくて、さっきみたいにお父さんがまた心配するでしょう?」
美波の説明に、エディは黙って自分の手を点滴につながれた美波の手に重ねた。美波は自然にエディとパトリックに微笑みかけていた。
「でも、多分、あの婦長も、それから他の看護師の人たちも、ケーキの箱のふたつやみっつはとても感謝すると思うの」
エディは軽く頷いた。
「明日、キーランと岸田君に言っておくよ」
重ねられた手から、エディの体温と優しさを感じて、美波はうっとりと笑う。
「それでねぇ、私は、この薬のせいで、しばらくすると眠くなると思うの。だから、それまでふたりは私の側に居て、お母さんの話をしてくれないかな。私が知らないことや覚えてないこと。お父さんとパットおじさんならば、たくさん知っているでしょう」
美波が微かに甘えるような感じを匂わせてそう言うと、ベッドの脇に並んだエディとパトリックは、とてもよく似た仕方で柔らかい笑顔を浮かべた。
翌日、警察が調書を取りに現れる前に打ち合わせをしようと午前半ばに訪れたキーランは、エディとパトリックがその朝、無事帰宅したことを報告した。
「どうも、お前が眠り込んだ後、ふたりで閉店間際のモード・ビルに行って、母さんに幾つかプレゼントを買い込んでから、ホテルの部屋で随分と飲んだらしい。何を話したのかオレは聞かなかったけれども、結構楽しんだんじゃないかな。それで、今朝は随分とテンションが高い調子で戻ってきて、パットはエディが見立てたに違いない洋服とアクセサリーを、エディは大きな花束を母さんに渡していた。それで母さんもとりあえず機嫌を直していた。昨日の夜はけっこう色々と文句を言っていたんだけどな」
美波は何と返答していいかわからず、ただ苦笑を浮かべた。
「お父さんが花屋に行ったんだろうなとは思っていた。今朝、大きなバラの花束が届いたもの」
言いながら大きな淡いピンクのバラのブーケに視線をやると、キーランは肩を竦めた。
「エディがあの色のバラを送るのは、フィーとお前だけなんだって。母さんが言っていた」
「それで、お父さんは、アリーおばさんにはどんな花束を贈ったの?」
「深紅のバラ。ワインの色に近いやつ」
美波はたまらず笑い始めた。
「お父さんも気障だね」
「ああ、いやになるくらいだよ」
ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、ベッドの端に浅く腰をかけ、キーランがウンザリしたように言う。口調の割には、眼が笑っていた。
「私はキーランが贈ってくれたオレンジ色のバラがとても好きだよ」
「何だ、気がついていたんだ。だったら、早く礼ぐらい言えばいいのに」
「きっと、お父さんもそうでしょう。だから、私のところにもバラの花を贈ってきたのよ。キーランにやりこめられてちょっと悔しくて、それで変なところで対抗しようとしている」
「エディにはフルタイムの健全なパートナー必要なんだ」
キーランは断定的に言った。
「さもないと、いつまでもお前のことを恋人扱いしたり、母さんの精神的な浮気に付き合っていたりして、話がややこしくなるばかりだ」
「精神的な浮気?」
「母さんのパーソナリティはエディの方に近いからな。あのふたりは昔からよく話をして、感情的な理解に関してだったら、パットなんかお呼びじゃないよ。もっとも、パットには到底できそうもない母さんの感情的なケアをエディがしてくれているから、あのふたりはいまだに離婚しないでいられるんだ。昨日だって、最初は怒って、パットの後にエディのオフィスを訪ねて行ったのはいいけれど、結局、ふたりでしんみり話をしていたみたいだ。パットは自分がそういうところでエディに頼りきっていることを知っているし、何といっても、とてつもなく無神経なところがあるからあまり気にしていないけれど、普通の男だったら怒っても仕方がないよ」
「確かに面倒くさそうね」
美波は話の展開に軽い戸惑いを感じて、つい左手で額を押さえていた。
「だから、エディにはパートナーが必要なんだ。さもないと、こっちはいつまでも後始末を押しつけられて、面倒くさくて仕方がない」
キーランは、美波に念を押すように真顔で言った。そんなキーランの顔を見ているうちに、心の中にしまっておいたことを告げるのはこの時しかないような気がしてくる。美波は、思い切って、言ってみることにした。
「でも、新しいパートナーと落ち着く前に、きっと、生まれなかった子どものことについて、お父さんは心の整理をする必要があるよね。多分、私に子どもを作れって言ったの、そういうことでしょう?」
美波が躊躇いがちに口を閉じると、キーランは電気ショックでも受けたかのような表情を浮かべた。何かを言おうとして声を出せず、口を数度パクパクさせる。美波は少し俯いた。
「お前、思い出したのか?」
しばらくして、キーランが掠れ声で聞いた。
「昨日の朝、色々と思い出したって言ったでしょう。正確に言うと、夢を見たの。だから、夢の中のことが本当にあの時のことなのか確信はなかったんだけれど、でも、お母さんが妊娠していたことが事実だったのならば、やっぱり昨日見た夢は、あの事件の再現だったんじゃないかな」
美波が一通り言ってしまうと、キーランは思わずのようにまいったなと呟く。
「それで、お前、犯人の顔を思い出したのか」
「ううん。私には見えなかったの。でも、あれは須藤さんだったって、近藤さんがはっきり言っていた」
「そんなことまで喋っていたのか。アイツら、本当に破れかぶれで、行動していたんだな。あとは死ぬだけだから、もう何も隠す必要はないってわけか」
キーランは独り言のように言い、顔を背けた。口元がはっきりと歪んでいた。
「それじゃあ、キーランはお母さんが死んでしまった時、妊娠していたこともずっと知っていたんだね」
キーランの様子を確かめながら、美波は用心深く聞いた。キーランは浅く、頷いた。
「オレはとっくに幼稚園に行っていただろう。あの年頃だとさ、母親が妊娠しているクラスメートがけっこういたし、第一、フィーの葬儀の前にエディが直接、オレとお前にそれらしきことを言ったんだ」
「お父さんが?」
美波が聞き返すと、キーランは横を向いたまま薄く笑った。
「そっちの方は、まだ思い出していないってわけか」
美波は黙って首を振った。しばらくの沈黙の後、キーランは一言ひとこと、自分のことばを確かめるように喋り始めた。
「オレにはあの時のことが忘れられない。お前はまったく反応しなくなってしまって、オレが呼んでもピクリとも動かなかった。それで、オレはパニックになった。エディはそんなオレとお前のことを抱きかかえて、それからこう言ったんだ。美波の弟はフィーと一緒に遠くに行ってしまってもう帰って来ないけれど、美波はかならず戻ってくるから、大丈夫だって」
「それじゃ、男の子だったの?」
キーランは頷く。
「母さんが言うには、妊娠25週だったんだそうだ。今だったら助かっていたのかもしれないけど、あの頃じゃ、絶望的だった。それでフィーと一緒に埋葬された」
「今だって、25週じゃ大変だよ」
美波はズボンのポケットに入ったままのキーランの手を左手で掴むと、自分の方に引き寄せる。キーランは腕を広げて、美波の頭を抱えるように、肩の傷を慮りながら抱きしめた。
「オレだってさ、エディがオレのことをあれほど可愛がってくれたのは、単にオレが生まれた時にその場に居合わせたからだけじゃなくて、あの時生まれなった男の赤ん坊のことを思う気持ちが影響していることぐらいわかっていた。それに、母さんとパットが結局、オレ以外に子どもを作らなかったのも、フィーがあんな風に死んでしまったことと関係しているんだろう。だから、多分、オレとお前が男の子どもを作れば、エディも、それから母さんとパットも、何となく踏ん切りをつけられるのかなとは考えた。でも、だからこそ、尚更、お前とのことは、アイツらの思惑に流されたくはなかったんだ。オレはお前といつかは結婚して落ち着くにしても、何としてもその前に23年前のことに決着をつけて、過去の亡霊みたいなものとは関係ないところで、オレとお前の問題として、自分たちの将来を決めたかった」
「キーランの言うことはとてもよくわかるよ。そして、そんなキーランだから、私はとても安心していられる」
キーランの腕の中で、美波はできるだけ丁寧に言う。額に巻かれた包帯を通じてキーランの胸が震えたのを感じた。
「でも、そんなことを考えていたから、オレは焦り過ぎてしまったんだろうな。それで、結局、お前がひどい目にあって、大怪我することになってしまった」
今にも消えてしまいそうなキーランの声。美波は左手でキーランの背中をさすり始める。
「私は今度のことを経験して、色々なことを少しは理解できるようになった気がするの。綾乃さんや中西さん、それから近藤さんが何を、どういう風に考えていたのか、多少でも想像できるようになったと思う。それにね、何よりも、キーランが私にとって、どれ程大切で、掛けがえのない人だったのかよくわかったの。ねぇ、4歳の私は、カリフォルニアの浜辺でさえ、早くキーランが遊びに来ればいいのにって思っていたんだよ。あまりにも一途で、泣けてくるじゃない?」
美波が笑い声を含ませて言うと、キーランは美波の首筋に頭を埋めた。キーランの思いが深く沈んでいくのがよくわかった。
「でも、美波はオレのことがわからなかったじゃないか。オレが何度も呼んだのに、答えなかったじゃないか」
そう言ったキーランの声は、子どもの頃を思い起こさせた。その途端、美波の頭の中に幼い頃のキーランのイメージが鮮やかに甦り、遣り切れない感情の鋭い痛みが自分の体に流れ込んでくるようにも感じる。美波は、キーランの背中においた手にできるだけの力を込めた。
「ごめんね。多分、あの時は本当に怖くて、それなのに、長い間、キーランもお父さん来なくて、そうしているうちに、いつのまにか道を見失ってしまったの。それで、どうやったら皆のところに戻れるのかよくわからなくなっていたの。でも、今度のことで、ちゃんと学習したのよ。どうしたら、キーランのところに戻れるのか何となくわかったの。だから、キーランはもうそんなに心配はしないで。私は大丈夫だから。いつも、最後には、キーランのところに戻るんだから」
キーランは何も言わず、黙って美波の首筋にキスをし続けた。雑多なことばや思いが蒸気のように空中に霧散していき、静寂の中で、美波は自分の心が落ち着いていくのを意識する。
「あっ、マズイ」
しばらくして、突然、キーランが大声を出し、それで、美波は仕方なく目を見開いた。すっかり眠気を感じていたのにと、かなり残念に思いながらキーランの視線を探すと、ベッドサイド・テーブルに置かれた小型の時計に釘づけになっていた。自分の腕時計と小型の時計を見比べて時間を確認するとベッドを飛び降りて、書類鞄からホッチキスで留められたA4の書類の束を取り出す。
「どうしたの?」
「あと1時間で警察が来るんだ。その前にちゃんと打ち合わせておかないと、またとんでもない失敗をするだろう。オレはケーキの箱を看護婦たちに届けて10分で戻るから、お前はその間にこいつを読んでしまうんだ」
そう言ってキーランが美波に突きつけた書類は、5枚ほどのA4の紙の両面にシングル・スペースでびっしり書き込まれていたものであった。美波の顔が引きつった。
「10分でこれを読むのぉ?」
「オレは5分で読める。大丈夫だよ、複雑なことは書いてないし、要点をつかめばいいんだから」
早く読めというように書類を軽く手で叩くと、キーランはぞんざいに美波の唇にキスをし、病室を出て行った。せっかくいい感じだったんだけどなと、美波はかなり残念にも感じていた。それでも、書類を読まないでいると後で言いたい放題に怒られるのがわかっていたので、不承不承、無機質な字面に目を落とす。物事は、こんな風にあまり思う通りにはいかないものだ。
寺崎と少し年配の刑事は約束の時間ピッタリに到着した。彼らが来る30分ほど前に、川嶋コンサルティングの日本人弁護士が打ち合わせに加わり、美波は何とか事情聴取を受けるための予行練習をすることができた。キーランよりひとつ年上の河合という日本人弁護士は、美波とキーランが原宿署に連れて行かれた時に阿武とともに駆けつけたことから既に顔見知りではあったが、よく聞けば、寺崎と芳賀暁のゼミの先輩であるという。美波さんのことも大学構内で見かけたことがあるますよと言われ、美波は苦笑せざるをえなかった。誰も彼もがどこかで知り合いというのは、やっぱり、あまり健全であるとは言えないような気がする。
警察の事情聴取は、緩慢に進んだ。痛み止めが効いてきた美波は、途中で危うく眠り込みそうになったが、後で寺崎に聞いたところによると、美波の体の状況に配慮して、なるべく迅速に済ませたということだった。美波はキーランに言われたように、必要最小限のことのみを言うように心がけて、刑事の発する質問に答えていった。船での上のことを聞かれ、暴行を受けたと答えると、年配の刑事は一瞬顔を上げたが、寺崎が黙ったままだったので、そのまま先に進んだ。
そのうちに、午後の回診時間となったので、あらかたの質問を済ませていた寺崎と刑事は立ち上がった。キーランは河合と一緒に、一旦病室を出て行ったが、佐々木医師が肩の傷と足首の捻挫の具合をチェックし、看護師が新しい包帯を巻き終わる頃までには戻ってきた。気軽に病室に顔を出したキーランに看護師がさきほどはどうもありがとうございますと満面の笑顔を見せると、佐々木はニヤッと笑い、キーランさんはなかなかヤリ手のようですねと言った。
その日の午後、警察と話すことで神経を擦り切らせてしまった美波は、キーランの横でウトウトして過ごした。今日はもう仕事はしないと宣言したキーランは、ベッドの脇の椅子にゆったりと納まり、CDを聞きながらペーパーバックをめくっていた。会話らしい会話を交わすことはなかったが、ふたりとも、妙に満ち足りた気分になっていて、夕方、土曜日にもかかわらずやっぱり仕事に出ていたらしいエディが現れた時までには、その朝の感情的な会話のことはすっかり片がついたように感じていた。
美波とキーランの顔を見ると、エディはいつもの完璧な笑顔を浮かべて、君たちの言う通りに理性的に処理してきたよと言った。美波とキーランが同時に笑い出すと、済ました調子で、今晩はパットとアリーはデートだからキーランを借りるからねと続けた。それから、しばらくの間、他愛のない話をしていると、昨日よりも随分と態度を軟化させた外科婦長が、少し年下の看護師を連れて現れた。おふたりには大変にお世話になってとすっかり丸い声で言う婦長に、美波は危うく笑い出しそうになったが、慣れたもので、エディとキーランはニコニコと応対していた。婦長はいつものようにテキパキとした調子で美波の寝支度を済ませると、ごゆっくりと言って出て行った。そのうち、痛み止めの薬がゆっくりと体に回ってきて、美波は曖昧に眠りに引き込まれていった。目を閉じる直前、エディと話すキーランの横顔を見ながら、今朝の会話で、これまでキーランの背負ってきた重荷が少しでも軽くなったのならばと願っていた。