第8章
大きな音がしてドアが開き、須藤一晃が部屋に入ってきたのは、その日2杯目のコーヒーを飲んでいる最中であった。美波の方を一瞬注視すると、真っ直ぐにテレビに近づき、スイッチを入れる。映し出されたのは、にぎやかな朝の番組で、特有の高い声をした女性アナウンサーが何事かを一生懸命に唱えていた。美波は呆気にとられて、テレビをじっと見た。数秒後、電子音とともに、画面の上部に、ニュース速報を伝える字幕が流れた。
「川島都市開発社長芳賀俊介氏、警察の任意同行に応じ、警視庁に出頭した模様」
美波はテレビの脇に立つ須藤の顔に視線を移した。須藤は直接、美波を見返した。
「あなたのお父さんは妥協ということを知らないらしい」
「父の責任なんでしょうか」
遠慮がちに声を落として、そう聞いてみた。実のところは、須藤も美波の疑念を共有しているという確信があった。
「そう、これはきっとお父さんの責任ではない。ただ、あなたのお父さんがこういう態度に出れば、私にはやらなければいけないことがある。でも、私はそれをやりたくなかった」
イタリア製のスーツを着こなした須藤は、唸る様にそう言い、美波を見詰めた。
「あなたを病院からさらって来たのが私であったことには気がついていましたね」
美波は黙って頷いた。
「私はあなたの成長を陰でずっと観察してきた。小さな芽が大輪の花を咲かせるさまを長い間、見守ってきた。だから、あなたを自分の手で手折るようなマネだけはしたくなかった」
「そう言いながら、あなたは私の母を殺した。母は愛する父と離れ離れのまま、親しい人たちから遠く離れたところで、ひとり死んでいった。そんな残酷なことをしたあなたが、今、私のことを殺すことを躊躇しているのだとしたら、それはとても辻褄が合わないことだと思います」
それだけ言ってしまうと、須藤は横を向いて小さく笑った。病院にいる時の消耗した須藤と違い、ずっと洗練された立ち振る舞いが印象的であった。
「あなたは私の子どもでもあったのですよ。私には子どもがいませんから、あなたの成長は私にとっても楽しみであった。そして、私は、あなたがとても立派な女性に成長したことをとても嬉しく、誇らしく思い、そんなあなたを傷つけなければいけないことを残念にも感じている」
テレビの画面は、突然、警視庁からの中継に替わった。徹夜明けなのだろうか。ややくたびれた感じの男の記者が、興奮した調子で騒然とした状況を伝えている。
乱暴にドアが開いて、見知らぬ男が顔を出した。
「おやっさん、サツの車が確認できたそうです。こっちに向かっています」
須藤は無表情にテレビを消し、近藤を見やる。
「近藤、これから沖に出るが、お前、一緒に来るか」
「もちろんですよ、オヤジ」
近藤は不敵に笑い、美波の腕にかかる手錠を掴んだ。
「さぁ、お嬢さん、散歩の時間だ」
近藤を見上げた瞬間、近藤は素早く片方の手錠を外すと背後に回し、後ろ手に締め直した。
両脇を近藤と木原に挟まれて、美波は引きずり出されるようにガラス戸から外に出た。よく晴れ渡った天気の良い日であったが、風が少し強かった。裸足にブラウス1枚のまま外に出た美波は、寒さと動揺で身を竦めた。暫くして、背後で銃声がした。弾かれたように振り返る美波を、近藤は気軽な笑顔を浮かべたまま、中型のクルーザーに引っ張り込んだ。
「気にするなよ。小競り合いだろう」
須藤と近藤の他には、木原を含め4人ほどの男たちがクルーザーに乗り込んできた。美波を操縦席の後ろの小さな椅子に座らせると、銃を構えた見張り役をつけ、他の男たちは甲板に出て行った。随分前から出航の準備ができていた様で、美波たちが乗り込むと舫い綱が解かれて、クルーザーはコンクリートの船つき場をゆっくりと離れ始めた。
船遊びがエディの趣味だったおかげで、美波とキーランは、エディから船の操縦を一通り教わっている。エディの祖父が残したヨットも、フィオナの父、つまり母方の祖父が残したクルーザーも手入れが行き届いており、依然として良好な状態であったので、美波は両方のタイプの船に十分に親しんでいた。背後から見た限り、このクルーザーの操縦もこなせそうではあった。手錠さえはめられていなければ、もう少し体の自由が利けば、何とか脱出する方策を試すことができるのに。どうしようもなく焦った気分で一杯になる。
船つき場を離れてから、須藤はずっと携帯電話で通話をしているような様子であった。そんな須藤から数歩離れて、近藤が甲板にもたれており、木原などの他の男たちは、反対側の甲板でたむろし、タバコを吸っていた。男たちの様子は思いもがけずリラックスしていて、だからこそ、美波はこれから起こりうることに、不安を感じてしまう。
ふいにずっと頷いていた須藤が顔を上げ、指でこっちに来いと合図をした。銃を持って美波のことを見張っていた男に無造作に腕を掴まれて、歩き出すように促される。不自由な体勢で、やや高めの波に揺れる甲板を難儀して進み、美波は須藤の目の前に引きずり出された。須藤は美波に見えるように携帯電話の番号を押した。エディの携帯の番号だった。
「お父さんはきっと芳賀氏の逮捕の前にあなたを助け出すつもりだったのですね。それが、情報がリークされたことで、計画通りにいかなかった。予想外の事態にあちらこちらへの連絡にお忙しいようで、こちらの電話にはお出になれないようだ」
須藤はしばらくの間携帯電話を耳に当てていたが、やがて諦めたようにため息を吐くと、携帯電話をコートのポケットにしまった。スイッチを切ったようには見えなかった。それから、ゆっくりと美波に背を向ける。
「近藤、あとはお前にまかせる。好きにすればいい」
須藤の指示が出ると、近藤の目が鋭く煌いた。美波は反射的に後退ったが、見張り役の男に腕を掴まれたままだったので、大股でアプローチし、腰を掴む近藤から逃れることはできなかった。近藤は美波の体を軽々と抱え込むと、唇を押しつけてきた。思わず、美波は近藤の唇を強く噛んでいた。美波の反撃に、近藤は一瞬だけ、美波から体を離した。
「ナメたマネするなよな」
同時に重い衝撃が美波の腹部に加わる。耐えられず、体をふたつに折り曲げると、近藤は美波の上半身を片手で支えて、ポンっと放り出した。
「おい、木原。手伝え」
「いいでしょう」
美波が木原の声を聞いた時には、背後からしっかりと押さえこまれ、甲板に無理矢理のように座らされていた。身長はほとんど変わらないはずなのに、木原は圧倒的な握力を行使して、美波を押さえ込んでいる。近藤は血を滴らせる唇を手で拭い、満足げに木原の腕の中でもがく美波を見ると、ゆっくりと近づいきた。
「須藤さん、こんなバカなことやめさせて」
美波は首を廻らして、叫んだ。身近で起こっている騒ぎから自分を切り離すかのように、背を向けてタバコを吸っていた須藤は、まったく動こうとはしなかった。
「諦めなよ。アンタの親父の対応次第ではこうなることは、アンタには初めから説明してあっただろう。悪いようにはしないからさ」
近藤は、木原の拘束から逃れるために必死で動かしていた両足を難なく捉えると、そのまま美波の体を強く引っ張った。甲板に頭を強く打ちつけ、意識が遠くなる。その間に、近藤はパンツのファスナーを下ろし、取り去った。露になった両足に、水上の風が直に吹きつけ、痛みとしてしか感じられない寒さに美波の全身が震え出す。
「こいつも邪魔だな。心配するなよ。寒いのなんて今のうちだけだから。すぐにオレが暖めてやるよ」
言いながら、近藤は美波のブラウスを手で引き裂き、前面を大きく開けた。ブラジャーに収められた胸が曝け出され、美波は恥ずかしさと悔しさでいたたまれなくなり、顔を背けた。目頭が熱くなり、視界がぼやけてくる。
「思った通り、いい体してるぜ」
近藤が喉の奥を鳴らした。それから、美波の体を左手で強く押さえ込んだまま、ポケットから小型ナイフを取り出して、ブラジャーの紐に当てた。
「やめて」
ありったけの力を動員して、近藤から逃れようと美波は体を揺すったが、かろうじて自由に動かすことのできた左足の先だけが空しく甲板の上でバタついた。
「動くと怪我するぜ」
美波の必死の抵抗を全く気に留めることなく、近藤は機械的にブラジャーの紐を切り取り、するっと抜き取る。美波は目を閉じた。そして、体の奥底から湧き上がってくる怒りに身を委ねた。絶対に、こんなことはやめさせなければならない。そして、自分はこんな暴力には負けてはならない。大きく息を吐き、目を見開くと、美波は近藤を直接、見据えた。
「こんなことしたって、あなたは私を傷つけることなんてできない。私はあなたに負けるつもりはないし、だから、あなたは私とキーランの間に入り込むことなんかできない。私のキーランに対する愛情も、キーランの私に対する思いも、どんな方法を使ったって、誰にも損なうことなんてできない」
美波はできるだけ明確に自分の感情を曝け出した。近藤は呆けたような表情で美波の言うことを聞いていた。それから、徐々に冷たい皮肉な笑いが顔全体に広がっていく。
「上等じゃねぇか」
近藤は右手を大きく上げると、美波の頬を厳しく打った。一度、二度、三度、四度。大柄の男から力を込めて平手打ちされ、口の中が酸っぱい血の味で一杯になり、意識が曖昧になっていく。
「これでも、アンタはまだそんな口が利けるのかい」
遠くから聞こえてくるような近藤の声に、美波は頭を振って、体の反応を取り戻そうとする。
「利けるわ。あなたには私を支配することなんて、できないもの」
近藤は拳で顎に殴ることで、反論する美波に応えてみせた。突然のパンチの衝撃に、美波は首を項垂れて、目を閉じる。近藤の手が、ショーツにかかった。もうだめだという絶望的な思いに圧倒されて、体の中を爆発する感情が口からこぼれ落ちる。
「こんな意味のないことはやめて」
その時、突然の轟音と突風が辺りを支配し、美波の必死の訴えを打ち消してしまった。その場にいた全員が頭上を見上げる。美波もしっかりと目を開け、轟音の出所を探した。すると、澄み切った青空を白と黒のツートンカラーのヘリコプターが横切る。
「チェッ、これからって時にサツかよ」
タバコを投げ捨て、近藤が悪態をついた。一瞬、美波を見下ろしてから、踵を返す。手には既に銃が握られていた。
「いくぜ、木原。お楽しみはお預けだ」
「付き合いましょう」
木原は近藤が打ち捨た美波に強い蹴りを入れると、近藤の後を追った。蹴られた拍子に額を甲板で強かに打った美波は、再び意識が遠くなる。生暖かい液体が、視界を覆い、銃声が、数発聞こえた。それから、誰かが自分を呼ぶ声。
「美波!」
キーランだと思った瞬間、美波は目を見開いた。
「美波!」
もう一度呼ばれた。それで、甲板をつたって体を起こし、辺りを見回す。
「美波、こっちだ」
声の方を振り返ると、キーランのストロベリーブロンドが、後方から近づいてくるのが垣間見えた。ふらつきながら、甲板を横切って、美波は、キーランの姿を確認しようとする。キーランは寺崎と一緒に、モーターボートでクルーザーのことを追ってきていた。美波の姿を認めて、キーランが手を上げる。キーランの方に駆け出そうとすると、誰かが後ろから腕を掴んだ。須藤だった。
「離して。もう私に構わないで」
思わず叫ぶと、須藤は一瞬、顔を顰めた。スーツのポケットから携帯電話を取り出し、無造作に海に投げ捨てる。
「今回は間に合ったようですね」
それから、須藤は微かに笑ってみせた。その場にそぐわない透明な笑顔で、恐れさえ抱かせた。後退さる美波の腕をしっかりと握り、須藤は内ポケットから小型の拳銃を出すと、美波の額に向けようとした。美波は反射的に自分の体を須藤に対し思いっきりぶつけていた。もう一刻たりともこの場に留まっていることはできなかった。今すぐ、須藤の手を逃れなければ。考えられたのは、それだけだった。
美波の突然の体当たりに、須藤は胸を押さえ、膝を折った。倒れた反動で頭上に向けられた拳銃が、大きな音を立てて火を吹く。美波は身を竦めたが、それでも、キーランの追ってくる方向へ走り始めた。
「川嶋さん、危ない」
寺崎が怒鳴ったのと、銃声がして、大きな衝撃が美波の上半身を襲ったのは同時だった。そのまま船尾の手すりに激突し、美波はバランスを失う。落ちると思った時には、すでに海の中だった。
自分が海の中を沈んでいることは理解していた。晩秋の海は昏く、静かで、近藤や中西、須藤、綾乃の屈折した思いに引き寄せているようにも感じていた。あらゆる感覚が麻痺したように、まったく動くことができなかった。ただ、ゆっくりと、海の中を漂いながら、沈んでいった。美波は、目を閉じた。
体の動きが止まったのも、やっぱり、突然のことだった。衝撃とともに、全身が揺れ、腰の回りに懐かしい手の感触を感じる。すぐに、力強く引っ張られて、急速に浮上していくのを感じた。
再び海上に出て、呼吸をすることができた時、キーランの顔は目の前にあった。
「お前、生きているんだろうな」
荒い息をしながら、キーランが聞く。美波はただ頷いていた。目の前で濡れた金髪が日の光を吸い込んで、揺れた。
「まだ、寝り込むなよ」
言いながら、キーランは美波の体を右肩に引きずり上げ、水を掻き始める。
「キーランさん、こっち」
寺崎の声がした。キーランは少しずつ方向を修正しながら、前に進んでいった。その間、美波は息をしているのがやっとだった。
しばらくして、突然、水面が数度、激しく跳ねた。首を回し、キーランが激しく舌打ちをする。
「まだ、性懲りもなく撃ってくる。潜るぞ」
そうして、美波は再び水面下に漂っていた。ただし、今度はキーランが美波の体を支え、一定の方向を目指して進んでいる。美波は自分の髪の毛の先が移動に合わせて水中で揺れるのを眺めることで、水中の静寂の中で薄くなっていく意識を必死に維持しようと格闘していた。
再び海上に浮上した時、背中に硬いものが当たったのを感じた。振り返る気力はもうなかった。
「川嶋さん、今、ボートの上に引き上げるからね」
頭上から寺崎の声がし、複数の手が美波の体を持ち上げる。視界が移動するに従って、モーターボートの縁に手をかけ、息を整えているキーランが見えた。
「まいったな」
美波をボートの上に引き上げると、寺崎が唸った。スーツの上着を脱ぎ、美波の体にかける。そのうちに背後から手が伸びて、美波の腕を掴んだ。恐怖の感覚が全身を開けめぐる。
「やめて。離して」
自分でもどこにそんな力が残っていたのか、不思議だった。反射的に立ち上がり、美波は自分の体に触れる手から逃れようと懸命にもがいた。すぐにキーランの腕が美波を正面から抱きかかえてくれた。美波はキーランの胸に崩れこんだ。
「大丈夫だよ。オレだよ、美波」
美波の体を両手でしっかり支え、キーランが耳元で囁く。
「今、警察の人がお前の手を自由にしてくれようとしているんだ。だから、安心して。オレがお前のことを抱いていてやるから、お前はこれ以上動くな」
言いながら、キーランはゆっくりとその場に腰を下ろしていく。美波はキーランの濡れたシャツの胸に全身を預けた。キーランの胸が大きく上下し、肌に張り付いたシャツが明るい赤に染まっていく。
「キーラン、怪我したの」
首を動かしてキーランの顔を見ようと、最大限の努力をして、美波は聞いた。困ったことに体の自由がまったくきかず、自分の声が、吹き付ける風の中で消えてしまいそうな程、弱々しく聞こえた。
「怪我したのはお前だよ」
言いながら、美波の頭に唇を当てる。
「ちょっと待てよ。今、これ、脱ぐから」
器用に片手でボタンを外し、キーランはシャツを脱ぎ捨てる。それから、どこからともなく毛布が掛けられた。素肌からキーランの体温を感じて、美波は目を閉じた。
「手錠、外れました」
見知らぬ声とともに、左手がふいに持ち上げられて、懐かしい手が握り閉める。同時に、体を動したせいか、上半身に激痛が走り、呻き声が漏れてしまった。
「岸に救護ヘリが向かっているそうです。川嶋さん、どうですか」
すぐ近くで寺崎の心配そうな声がした。
「オレにはよくわからないよ。医者の本人が怪我したんだから」
キーランは珍しく当惑したような声で、寺崎相手に英語で答えていた。
「間に合うはずだったんだ。芳賀氏逮捕のニュースが流れる前に、お前を助け出す、そういう手筈だったんだ。それがどういうわけか情報が漏れちまって、お前がまたこんなにも辛い思いをしなければならなかった。何で、いつもお前なんだよ。いつまでこんなことが続くんだよ」
美波の額に唇を当てて、キーランは憑かれたように呟き続けた。そのうちに、生暖かい雫が美波の頬にひとつ、ふたつと落ちてくる。美波は目を開けた。
「それでも、キーランは来てくれたじゃない。ぎりぎりだったけれど、最後にはまた助けてくれたじゃない」
そして、意識が途切れた。
それからのことは、全く判然としない。自分がストレッチャーに載せられ、ヘリコプターに乗り込んだことや、そういう自分にキーランが付き添ってくれたこと。それから病院の廊下のようなところで心配そうに待っていたエディ、パトリック、アリシアの顔。そういうイメージは切れ切れに頭に浮かんだのだが、果たしてそれらが現実のことであったのか、それとも夢を見ていたのか、美波には見当もつかなかった。
どこか懐かしい、微かな電子音と消毒薬の匂いがして薄く目を開けると、恩師の堂本教授と堂本の研究室の先輩医師である佐々木、そして浜松救急部長がベッドの脇で美波の様子をチェックしていた。美波は一瞬、自分のいる場所がわからず混乱した。
「川嶋先生、安心するといい。外科教室の大事な愛弟子のために佐々木君と精一杯執刀したから、きっと痕もほとんど残らないぐらいに、すぐに回復するよ」
堂本が穏やかな笑顔を浮かべて、言った。
「教授、ありがとうございます」
美波には自分がそう最後まで言えたのか、定かではなかった。何の前触れもなく、再び意識が遠くなり、眠りの世界に引き戻されていた。
花の香りがした。頭を巡らすと、アリシアがベッドサイドの棚に、大輪のバラを活けた大きな花瓶を置いたところだった。明るいオレンジ色のバラが白っぽい部屋の中でやけに鮮やかに浮かび上がり、何となく安心する。
「綺麗なお花ね、アリーおばさん」
アリシアがハッとして美波の方を向き、手を口元にやる。
「美波、あなた。意識を取り戻したのね」
微かに、アリシアは嗚咽をしていた。
「私は長いこと眠っていたの」
「そうね。手術が終わってからもう丸2日が経つわ。お医者さんたちはあなたが疲れているだろうからって言っていたけれど、それでも長い時間だったわ」
ベッドに屈み、美波の頬を撫ぜながら、アリシアは言った。アリシアの声の震え方と、止めどなくながれる涙で、美波はアリシアが極度の緊張状態にあったことを悟る。
「アリーおばさん、心配かけてごめんなさい」
「あなたが謝る必要なんてまったくないのよ。あなたの意識が戻って、本当に嬉しいわ。エディも、パットも、キーランも、ついさっきまでここにいたのよ。でも、どうしてもやらなければいけない仕事があって、しぶしぶ出て行ったの。あなたの意識が回復したことを知れば、皆、喜ぶわ」
美波はアリシアの愛撫が気持ちよく、つい目を閉じる。
「キーランは大丈夫?怪我なんかしていない?」
「あの子は大丈夫よ。生まれつき体が丈夫なのは、あなただってよく知っているでしょう」
アリシアの返答に、美波はゆっくりと微笑む。
「あなたの意識が戻ったら、すぐにお医者様を呼ぶように言われていたの。私はお医者様に知らせて、それからエディたちに連絡をしてくるわ。あなたはお医者様が来るまで起きていられる?」
美波は小さく、それでも確実に頷いた。それでアリシアは美波の額にキスをすると、立ち上がり、病室を出た。ドアを閉めた途端、涙が溢れ出し、アリシアは堪らずその場に蹲っていた。
佐々木という若い医師が美波の様子をチェックしているのを観察しながら、アリシアは美波が手術室に入っていった直後のことを思い返していた。美波はまだ心もとない様子だったが、確実に佐々木に対して反応している。状況を考えれば、これでも、まだ被害は小さかったのかもしれない。なにしろ、今回は、美波を取り戻すことができた。23年前の事件では、フィオナは死んでしまったのだから、美波が生きて戻っただけでも、自分たちは感謝するべきなのだろう。
物理的に一番大きな傷は、右肩の銃創だった。銃弾が貫通した傷は、美波の大学の恩師である堂本がありったけの技術を駆使して、継ぎ合わせてくれた。できるだけ痕が残らないようにしておきましたと、堂本はエディに行ったのだという。それで、エディは堂本に対して深々と頭を下げてみせた。アリシアがほとんど見たことのなかった、エディの日本的な所作であった。
美波の体には、その他、様々な外傷ができていた。特に顔はひどかった。額は切れて血を流していたし、ひどく殴られたようで唇が切れ、美波の綺麗な顔にあざが幾重にもできていた。その他、長いこと手錠で締め付けられていた手首は傷だらけで腫れ上がっており、右足も捻挫して、靭帯が切れていた。
ただ、そういった外傷は時間が経てば癒えていく。問題は心の傷の方であった。フィオナが死んだ時、美波は自閉状態になり、一年以上、専門家の治療を受けた。この2日、手術の後の美波が目覚めなかった間、アリシアの不安の核心にあったのはあの時のことの再現であった。また、美波が心を閉ざしてしまったとしたら、自分たちはどうすればよいのだろう。この23年間で美波が充分に成長したことを知りながら、アリシアは自分の不安を抑えることができなかった。そして、おそらく、キーランも同じ思いだったに違いない。とりわけ、救出された直後の美波の様子を知っているキーランならばなおさらだった。アリシアは、この2日、ほとんど口をきかなかった自分の息子のことを思った。あの子の、そして美波の心の傷は、どうしたら癒えていくのだろうか。
ストレッチャーに載せられた美波が手術室に消えていった後、病院のスタッフがずぶ濡れで毛布に包まったキーランを治療室に連れて行った。キーランは約30分後、アリシアの用意した洋服に着替え、戻ってきた。右手の甲の包帯が目についた。
「あなたは、大丈夫なの?」
アリシアが聞くと、キーランは青い顔をして頷いた。
最初にキーランの異変に気づいたのはエディだった。キーランの顔をじっと見てから額に手をやり、ため息を吐く。
「キーラン、君、ひどい熱だ。アリーと一緒に家に帰りなさい」
「大丈夫だよ」
キーランは上の空で、応えていた。壁に頭を預けて天井を睨み、肩で荒い息をしている。
「君まで倒れてしまったら、僕も美波も困るんだ。だから帰りなさい。そして、ゆっくり休むんだ。美波の手術が済んだら、必ず電話を入れるから」
エディはいつになく断固とした調子で言った。それに促されたように、アリシアはキーランの頭に手をやる。
「さぁ、エディの言う通りよ。ここにいたって私たちは何もできないんだし、あなただって少し休むことが必要だわ」
「車まで、送っていくよ」
パトリックがキーランの肩に手をやった。キーランは厳しくパトリックの手を跳ね除けた。
「ひとりで歩けるよ、パット。放っておいてくれないか」
困ったように、パトリックはキーランの肩を2、3回軽く叩いたが、キーランは振り向きもせず、出口に向かって歩き始めた。
エディのマンションに戻ると、キーランはソファに寝そべり、ぼんやりとしていた。アリシアは毛布を渡すと、冷蔵庫にあさりがあったのを思い出し、チャウダーを作り始めた。キーランと美波が子どもの頃、ふたりを連れてフィオナの父親の家を頻繁に訪ねた。そういう時、フィオナの父が海から持ち帰った獲れたてのあさりで作ったチャウダーを、皆で食べたものだった。
暖かいチャウダーの盛られた器を差し出すと、キーランは少しだけ顔を綻ばせた。懐かしいなと言ってスプーンを取り上げる。アリシアは黙ってキーランが食事をする様子を見守った。
「母さん、あいつさ、レイプされかけていたんだ」
チャウダーをあらかた食べてしまった後、キーランは緩慢にアリシアに打ち明けた。アリシアは叫びだしたりしないように、自分の両手を絞るように握った。
「まさか、そんな」
「オレは間に合わなかったんだ。オレがモタモタしていた間に、誰かがアイツの服を引きちぎって、下着を切り裂いて、アイツの顔を殴ったんだ。それで、最後にはアイツは撃たれて、海で溺れかけた」
キーランは全身を震わせて、下を向いたままでそう言った。自分の息子がこれほどまでに撃ちのめされている姿を目にするのはフィオナが死んで以来のことだった。アリシアはキーランの横に移動し、頭を抱きかかえる。
「オレは間に合わなかったんだ。あれほど、アイツのことを二度と危ない目には遭わせないって努力してきたのに、オレは間に合わなかったんだ」
いつの間にかキーランは子どものように泣いていた。その泣き顔に、アリシアは覚えがあった。フィオナの死の知らせを聞いてカリフォルニアの小さな町に駆けつけた直後、自分が話しかけても反応をしない美波が可哀想だと言って、キーランはパニックを起こして泣いた。あの後、日本から駆けつけて来たエディのことを、随分と詰っていた。
「ねぇ、あなたはこれまでもう十分に頑張ってきたわ。だからもしもあなたが辛いのならば、止めてもいいのよ。エディだって、美波だって、それでもあなたに感謝するだろうし、誰もあなたを責めたりはしない。だから、辛ければ止めていいのよ」
そんな風に言うことは美波に対する裏切りだと分かっていた。それでも、アリシアとしては、口に出さざるをえなかった。母親として、キーランにはこれ以上の負担はかけられない。後は、自分が美波に対してできる限りのことをしていかなければ。あの時、アリシアは、そんな風に思い詰めていた。アリシアにとっては、美波もキーランも自分の大事な子どもであり、だからこそどんな方法を取ってでもふたりのことを守らなければならなかった。
暫くの間、アリシアの肩に顔を埋めていた後、キーランはふいに立ち上がった。
「オレ、寝るよ。美波の様子が判ったら、教えてくれないかな」
「いいわよ」
キーランはアリシアの額に柔らかくキスをすると、美波の部屋に入って行った。数時間後、パトリックから手術が無事終了したという電話が入ったので、知らせるために美波の部屋に入ると、キーランは額に片手を当てて、仰向けに横たわったまま、じっと天井を見ていた。
「手術、無事に終わったみたい」
アリシアが遠慮がちに声を掛けると、キーランは大きく息を吐いた。
「母さん、オレにはやめるなんてこと、できないよ。アイツがいない生活なんて、考えられないんだ。アイツはさ、図々しくオレ自身の核心に居座っているし、それに、誰だって自分の過去をなくしたりできないだろう」
キーランが慎重にことばを選んで、考えを進めながらそう言うのをアリシアは息を潜めて見守った。それから、できるだけ穏やかに微笑むことを心がけて、キーランの額に置かれた手に自分の手を重ねる。
「そう。わかったわ。だったら、今回のことを含めて、美波を丸ごと受けとめてあげるしかないわね。難しいことだろうけれど、あなたならきっとできるわ」
キーランはアリシアの手を思いがけない力で握り返した。視線を天井に向けたまま、早口に言う。
「助け出された時、アイツがどういう状態だったか、実は、エディには詳しく知らせていないんだ。だから、エディはアイツがレイプされかけていたことは知らない。多分、知らせない方がいい」
身を屈めて、アリシアはキーランの額にキスをする。
「わかったわ。あなたがそう言うのなら、これは私たちだけの秘密にしておきましょう」
それから、キーランはギュッと目を閉じた。
翌朝、起き出してきたキーランは、すっかり平生のように装っていた。6時半にはスーツに着がえて、病院経由で会社に出かけていった。連日の心労でさすがに寝過ごしたエディが既にキーランがいないことに気づき、物憂げな目をアリシアに向けたが、アリシアには不器用に微笑み返すことしかできなかった。ふたりのことを信頼しましょうよと言うと、彼らは僕よりも立派にやっているよと、エディは浅く笑った。
キーランは昼頃、ふらりと美波が眠る病室に現れた。アリシアにテイクアウトのコーヒーを渡し、ベッドの脇の椅子に座って自分の分のコーヒーを飲むと帰って行った。その後、7時半ごろ、すっかりカジュアルな服に着替えてパトリックと戻ってきた。美波のことは自分が見ているからと、午後の早い時間から病室で仕事をしていたエディとアリシアにパトリックと家に帰るよう促した。そういった様子は、すっかりいつもの有能さを取り戻していたけれど、口数が極端に少ないことは誰の目から見ても明らかであった。そして、今朝、皆で病室に戻った時、キーランは美波の左手を握り、熟睡する美波を痛いような視線で見つめていた。キーランの様子に、アリシアは思わず目を伏せ、パトリックがそんなアリシアの肩を抱いた。
この23年間、エディも美波も過酷すぎるほどの肉体的、そして心理的な苦痛を経験しなければならず、自分たち親子は少なからずその影響を受けてきた。しかも、キーランは、この長い間ずっと、美波を真っ直ぐに愛してきた。だから、美波の心の傷を自分のことのように受けとめ、彼女を守ろうと必死だった。この23年間のふたりのことを誰よりも知っているがゆえに、アリシアは憂鬱な思いに囚われ、ひとり物思いに沈んでいった。あの子たちは、今回の事件をどう処理していくのだろうか。
再びウトウトしていた美波は、ぼんやりと覚醒した。誰かが柔らかく左手を握っていて、それがとても心地よかった。ベッド脇の椅子に座り、暖かい眼差しで美波の見下ろしていたのはパトリックだった。
「起きたのかい」
パトリックは空いている方の手で、美波の額を撫ぜた。
「パットおじさん。おじさんが居てくれたの?」
美波は眩しげにパトリックを見上げた。
「アリーから美波の意識が戻ったって電話があった時、折り悪くオレたち全員、ミーティングの最中でね。メモが回って来たんだけれど、日本語がよくわからないオレ以外、エディもキーランも席を外すわけにはいかなかったんだ。だから、アイツら、きっと今頃は歯軋りしながら会議に出ているよ」
美波は思わずクスクス笑った。パトリックが言う情景が手に取るようにわかるような気がした。
「なぁ、美波。あんな状況で美波は本当によく頑張ったな。さすが、オレが育てた娘だ。とても誇りに思うよ」
いつになく優しい目をして、パトリックは美波の頭を何度も撫ぜた。美波は笑った。
「おじさんに教えてもらった西部劇みたいな言い廻し、ちょっと役に立ったかな」
「だったら、いいんだけどな。それなら、オレの言葉遣いの悪さについてアリーに少しは言い訳ができる」
「本当よ。おじさんにはとっても感謝している」
「いい子だ。だけど、オレの方が美波に感謝しているんだ。生きて戻ってきてくれて、本当によかった」
パトリックの語尾が微かに震えた。頬に、キスを感じる。
「ねぇ、パットおじさん、私、ひどい顔している?」
パトリックはチャーミングにウィンクをしてみせた。
「美波はいつでも世界一の美人だよ。オレはアリーの前では、アリーの次にって言うけれど、美波の前で嘘をつく必要はないだろう」
「本当かな」
美波が声を上げて笑うと、パトリックの笑い声が重なった。
「さぁ、もう少し、寝るといい。エディもキーランもまだ当分来られないだろうし、アリーは必要なものを取りにマンションに一旦、戻ったんだ。オレひとりが美波といつまでも喋くっていて、疲れさせでもしたら、あとの連中に殺されかねない。大丈夫だよ。皆が戻るまでオレが側にいるから、安心して眠るといい」
「そうね。私はおじさんの家で、いつでも安心して眠ることができた」
美波は思い出すように笑うと、再び目を閉じた。パトリックが握る左手を意識の底で感じていた。
エディとキーランが病室に飛び込んで来た時、美波はベッドの上半身部分を立ち上げて、佐々木にカルテを見せてもらいながら、自分の体の状況を点検していた。病院に不釣合いな大きな音をさせて入ってきたふたりを、少しびっくりして見返す。
「ああ、美波、よかった」
エディは英語でそれだけ言うと、言葉に詰まったようだった。ベッドの縁に浅く腰を掛け、美波の頭を抱き、額にキスをする。側で見ていた佐々木医師は、エディの日本人離れした所作にかなり気後れしたように、2、3歩後退した。美波も気恥ずかしく思って、佐々木に対し、父はあまり興奮する性質ではないんですけれど、たまに興奮するとアメリカ式の行動をとるんですと言い訳をしていた。佐々木は妙な顔をして頷くと、まぁごゆっくりと言って、部屋を出て行った。エディは周りのことには構わず、暫くの間、美波の感触を確かめるように美波を抱擁し続けた後、大きな息を吐き出しながら言う。
「君が戻ってきてくれて、本当に嬉しいよ。フィーのようにいなくなってしまったらと思ったら、僕はずっと生きた心地がしなかったんだ」
「キーランのおかげよ。今度もやっぱり最後にはキーランが助けてくれた」
美波はやや俯き気味にそう言うと、おずおずとキーランの姿を目で探した。
エディと一緒に病室に入ってきたキーランは、いまだに出入り口のところで呆然と突っ立っていた。美波と目が合うと、大きく息を吐き、そのまま壁際に置かれていた椅子に倒れ込む。がっくりと膝についた両手に顔を埋め、肩で大きな息を吐いた。
「どうした、坊主」
パトリックが肩を叩くと、キーランは少しだけ顔を上げた。口元を手で覆ったまま、ポツリポツリと言葉を継ぐ。
「美波が意識を取り戻さなかったらどうしようかと思っていたんだ。あるいは、また喋らなくなってしまったら、わけが分からなくなってしまったら、オレはどうしたらいいのかと思っていたんだ」
「心配させてしまってごめんね。でも、キーランのおかげで、私はどうにか大丈夫だよ」
美波はかろうじて自由ではある左手を恐る恐るキーランの方へ差し出した。エディが穏やかに笑って立ち上がると、キーランの肩に手を置く。キーランはエディの顔を不思議そうに見てから、ゆっくりと立ち上がり、美波の手を握って、ベッドの後方に腰掛けた。
「ありがとうね、キーラン。私はいつもキーランにとても感謝をしている」
左手の力を少し強めて、笑いかけると、キーランは静かに身を乗り出して、美波の頬にキスをした。
「よく戻ったね、美波」
美波は目を伏せて、キーランの言葉を胸の奥にしまい込んだ。
「ところでね、実は、君にプレゼントがあるんだ」
美波とキーランの様子をしばらく観察した後、いつもより幾分はしゃいだ感じの声でエディが言った。それから、書類鞄には不似合いな、小さめのクッションぐらいの包みを出して、美波の膝に置く。
「私に?」
「そうだよ。開けてごらん」
美波は無防備な笑顔を浮かべるエディの様子に少し戸惑いながら、包みを開けようと試みた。片方の手でだけでは上手く包みを扱えず、結局、最後にはキーランが包みを解き、中から灰色の象のぬいぐるみを取り出した。キーランは最初、自分が手にする象のぬいぐるみを目にしたことが信じられなかったようで、口を微かに開けてぬいぐるみを見詰めていたが、突然のように噴き出した。キーランにつられて、アリシアとパトリックも笑い始める。対して、美波は何が起こっているのか判然とせず、辺りを見回した。エディも、とても開放的に笑っていた。
「どうしたの、みんな?」
「お前はコイツのこと覚えていないもんな。まぁ、今からでもせいぜい大事にしてやりなよ」
キーランはお腹を抱えて笑いながら、象のぬいぐるみを美波の方へ押しやる。エディは美波の髪を丁寧に撫ぜると、子どもの頃、童話を読み聞かせた時のような口調で、とても楽しげに言った。
「象のエディはずっと君のところへ戻ってきたかったんだけれども、これまでは色々と邪魔が入ってそれができなかった。でも、ようやく問題が片づいて、それで彼も戻ってきたんだ」
エディがそう言うと、他の3人がさらに笑い声を高めた。事情が完全に理解できない美波は、象のぬいぐるみを握ったまま、ただ瞬きを繰り返していた。
その夜、夢を見た。
美波には、それがはっきり夢であるとわかっていた。幼い自分が、乾いた砂と白い花びらでままごとをしている。カリフォルニアの空は晴れ渡っていて、穏やかな、いつもと変わらない午後。家の中からはラジオが流す流行歌が聞こえ、パイが焼きあがる香ばしい匂いがしていた。もうすぐマミィがおやつのために自分を呼ぶはず。美波は象のぬいぐるみのエディの鼻を掴むと、砂浜の方へ歩き始めた。
ダディのエディとはずっと前に会ったきりだった。ダディはお仕事がとっても忙しくって、アメリカに帰って来ることができないのと、マミィは美波に説明した。ダディとは電話で時々、話をする。ダディは相変わらずとても優しいけれど、少し悲しそうで、いつも美波とマミィに会いたくてたまらないと言う。だったら、会いにくればいいのにと美波は思う。美波も大好きなダディに会いたくて仕方がない。だから、ダディが別れる前に動物園で買ってくれた象のぬいぐるみにエディという名前をつけた。マミィは象のエディのことをダディだと思って大事にしてあげれば、ダディは早く帰って来るかもしれないと言う。
ダディと別れて、長い間、飛行機に乗った後、最初はニューヨークのパットおじさんとアリーおばさんの家に泊まっていた。美波はニューヨークに戻ったことが、とても嬉しかった。ニューヨークでは何と言っても、キーランと遊べる。キーランも美波が戻って来て、とても嬉しいと言っていた。でも、そのうちにマミィは、メイン州のお祖父ちゃまの家に美波を連れて行った。そこでもう少しだけ休んだ後、マミィと美波はダディが大好きなカリフォルニアの海辺の家に来た。ねぇ、ここで少しだけ美波とふたりっきりで静かに暮らしたいの、とマミィは言った。美波は、キーランもいればいいのにと答えた。マミィは笑って、キーランのところへはそのうちに戻れるわよと言ってくれた。あの頃、マミィはあまり元気がなかった。それでも、美波の誕生日を祝うためにアリーおばさんとキーランが遊びに来た頃には、マミィもずっと元気を取りもどしていて、アリーおばさんは、美波とキーランに、もうすぐわくわくするようなことが起こるのよと言っていた。
来週になれば、キーランがパットおじさんとアリーおばさんと一緒に、また遊びに来る。そうすれば、キーランと海で泳いだり、砂浜で遊んだりすることができる。マミィは時々、美波の遊びに付き合ってくれるのだけれど、この頃、少し太ってきたようであまり動くのが楽そうではない。それに、肩車したり、飛行機のように空中に放り投げたりして貰って遊ぶのは、ダディかパットおじさんじゃないとあまり面白くない。
「美波、どこ?」
マミィの鋭い声。それから、家の中で、何かが崩れるような大きな音。砂浜に小枝で絵を描きながら、あれこれと考えていた美波の思考が断ち切られる。一体、どうしたっていうのだろう。
「マミィ」
象のエディの鼻を掴んで、美波は立ち上がると家の方へ駆け出した。
美波は、パティオの方に廻って家の中に戻ろうとした。すると、マミィが最近にない勢いで庭から飛び出して来て、自分を抱き上げる。マミィの少し突き出したお腹が足の辺りでプルプル揺れた。
「ああ、美波、無事でよかった」
マミィは美波の頭にキスを浴びせかけると、そのまま走り出す。美波はわけが分からず辺りを見回していた。視界の隅に男が掠ったのは一瞬のことだった。そして、マミィは崩れるように倒れ、美波は砂の上に投げだされた。
「美波、車に行くのよ。急いで」
マミィのただならぬ調子に、泣くことも忘れて、美波は言われた通り車の方へ走り始めた。背後で、男の叫び声が上がった。
何とか車に乗り込むとすぐに、青い顔をしたマミィが現れた。美波の頬にキスをすると、車をものすごい勢いで発進させる。もしパットおじさんがこんな調子で運転したら、マミィとアリーおばさんにとっても怒られている。
「マミィ、どこ行くの?」
「町よ」
マミィは片手をハンドルから離して、美波の頭を優しく撫ぜた。マミィの手が震えていた。美波は首を巡らせて、マミィを見上げた。そして、マミィの背中からたくさんの血が流れていることに気づく。
「お怪我しちゃったの、マミィ。可哀想だね」
「ちょっとね。でも、大丈夫よ」
マミィは相変わらず美波の頭を撫ぜながら、微笑んだ。美波には、あんまり大丈夫なように見えなかった。どうすればマミィは元気になるのだろうか。
「ほら、マミィ。象のエディがマミィのお怪我を治してくれるよ」
美波は象のぬいぐるみを血が流れ出すマミィの背中に当てた。灰色の象のぬいぐるみは、貪欲に血を吸って、しだいに赤黒く変色していった。
「だって、エディはいつもマミィの味方で、マミィが大好きでしょう。だから、このきっとこのお怪我もすぐ治してくれるよ」
「本当にそうよね。美波はよく気がついて、優しい子ね。エディにそっくり」
マミィはとても嬉しそうに笑って、美波に言った。その間も、象のエディは赤く変色していった。
町に入って、車を停めると、マミィは美波を膝に載せた。マミィの丸い腹部が美波の膝に触れる。マミィは震える手を美波の頬に当て、しっかり美波を抱き締めた。
「さぁ、よく聞いて。これから美波はこっちのドアから出て、あの建物の中に入って、警察の人と話すのよ。悪い人が来て、美波とマミィにとっても悪いことをして、マミィが車の中でとても困っているって。できるかしら?」
美波はこくんと頷いた。目の前で、マミィの金髪が陽の光を浴びて、キラキラと輝いていた。マミィは少し体を離すと、美波のことを優しい目で真っ直ぐに見つめた。マミィが微かに泣いているのが不思議だった。
「いい子ね。それからね、もうひとつご用事をできるかしら?」
「うん。できるよ」
美波はマミィの顔をそっと触った。マミィはとても透明に笑っていて、深い青い瞳が揺れていた。
「もしもね、マミィがこのまま遠くに行かなければならなかったら、ダディに伝えて欲しいの。約束を守ることができなくてごめんなさい。でも、マミィはダディと美波という家族ができて、とても幸せだったって。ふたりのことをとても愛しているって」
「マミィ、遠くに行くの?ダディみたいに?」
美波は一瞬、涙ぐんだ。マミィは穏やかに笑って、だからもしもねと、小声で言う。それから、マミィは美波の唇にキスをした。
「ダディに会ったら、このキスを必ずあげてね。それから、これは美波の分」
頬にやや長めのキスをすると、マミィは運転手側のドアを開け、美波の背中を柔らかく押し出す。
「さぁ、行きなさい。可愛い美波。愛しているわ」
美波は振り返り、マミィが笑っているのを確認すると、象のエディの鼻を掴んだまま、目の前の建物への階段をとぼとぼと登り始めた。象のエディは今ではずっしりと重くなっていた。
建物の中は大勢の人で一杯だった。誰もかれも忙しそうで、ひとりで中に入って来た小さな美波に注意を払うものはいない。美波は出入り口近くにあるデスクの向こうにいる女の人に声を掛けようとしたが、気がつかないようだ。すぐに美波は不安に圧倒され、大声で泣き始めた。すると、制服を着た中年の男が近づいてきて、自分のことを抱き上げる。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
「悪い人が来たの」
「悪い人?」
聞きながら、男は美波が掴んで離さない血をたっぷりと吸い込んだ象のぬいぐるみに気がついたようだった。男の顔が一度に強張る。
「このぬいぐるみ、お嬢ちゃんの?」
「そう。象のエディ。マミィがお怪我したから、エディと助けてあげなきゃいけないの」
「マミィはどこ?」
「お外の車。困っているの」
美波の返答を聞いて、男は美波を近くの女性に預け、外に飛び出していった。すぐに怒鳴り声が聞こえる。
「おい、救急車だ。早く。それから診療所のホーランド先生に重傷の怪我人だと電話をするんだ」
それで、周りにいた大人たちはバタバタと動き始めた。誰かが美波の手から象のエディをもぎ取った。それをきっかけに、美波は再びヒステリックに泣き始めた。
目覚めた時、美波はすっかり周りの状況を見失っていた。涙でぐしょぐしょに濡れた自分の顔を拭おうとして、右上半身に激痛が走り、やっと自分が病院のベッドに寝ていて、4歳ではなく、27歳であることを思い出す。
今見た夢が、あの時起こったことの再現であるという保証はない。もしかしたら、自分の単なる想像なのかもしれない。これまで誰とも母が死んだ時のことを話したことはないし、実際、まったく覚えていなかったので夢で見たことが実際のできごとであったのかどうか確かめることは難しい。象のぬいぐるみのイメージは、昨夜エディが持ってきたぬいぐるみと一緒だったが、それとて美波の刷り込みなのかもしれない。
美波はかなり苦労をしてベッドサイドの棚に置いてあった象のぬいぐるみを掴むと、寝具の中に引き入れ、抱きかかえた。こうしていれば、夢の中の感触が消えてしまわないような気がする。
それにしても、あの時、母が妊娠していたことなど、誰も口にしたことがない。もちろん、美波の思い違いということもあるだろうが、そうではなく美波のことを慮って親たちが秘密にしていると考えた方がどちらかと言えばしっくりくる。6月の美波の誕生日の頃につわりが終わりかけていたとすれば産み月は多分、12月か1月。だとすれば、絵梨子が綾乃を妊娠していたのと丁度同じ頃、母も自分のきょうだいとなる子どもを身ごもっていたことになる。母が死んだことで一方の子どもは生まれず、だから、父はなおさら、綾乃を自分の娘として受け入れることなどできない。
できれば、私が治療してあげたかった。今ならば、適切な応急処置をすることができるはずなのに、あの頃はまだ小さくて、頼りなくて、母と生まれてくる自分のきょうだいを助けることができなかった。
生まれてきたとしたら、弟だったのだろうか。それとも妹だとしたら。想像しながら、美波は笑いが込み上げて来るのが堪えられなくなる。あのまま父と母が引き離されることなく、一緒に生活し続けていたとしたら、熱烈に愛し合っていたふたりのことだ。きっと、自分にはたくさんのきょうだいがいて、今とはまったく違った生活を送っていたに違いない。ただ、その場合、今のように独占的に父の愛情を享受することはできなかっただろう。それで、他のきょうだいに嫉妬をしていたかもしれない。また、その場合、キーランとの関係はどうなっていたのだろうか。単なる幼なじみとして、すれ違って終わっていたのかもしれないし、やっぱりキーランに恋をしていたかもしれない。
多分、前にキーランが言っていたように、何かが起こらなかったのならばどうなっていたのかなんて考えるのは、時間の無駄でしかないのだろう。確実なことは、母の死が、多くの人にとって決定的な意味を持ってしまったこと。自分や父だけではなく、キーランや綾乃、あるいは須藤の今日も、母があんな死に方をしたことによって、あの時、決まってしまったのだろう。だから、あのできごとは誰にとっても悲劇であったのである。そして、父は、今でも生まれることができなかった子どものことを思い、母を懐かしむ。美波の子どもを願うエディの気持ちは、死んでいった母と生まれなかった自分のきょうだいにつながっていて、つまり別の言い方をすれば、あのできごとに関して心の整理をつけるためには、どうしてもあの悲劇を生き残った父と母の娘である美波の子どもが必要なのだ。父と母の家族を求める願いを将来に繋げる子ども。
色々と考えてみると、きっと、キーランも生まれなかった子どものことを知っていたのだろう。だからこそ、キーランにとって、自分たちの関係を親たちに対してはっきりさせる前に、23年前のことに片をつけなければならなかったのだ。そうしなければ誰も前に進めないんじゃないかと思うと言ったキーランは、誰よりもエディのことを思い遣っていた。
再び眠りに落ちる前、美波は母が別れる前に託けたキスをまだエディに渡していないことに気がついた。でも、この年になって、エディの唇にキスするのもねと、美波は苦笑する。きっとエディの方がびっくりするんじゃないかな。
カーテンの隙間から白っぽい朝の光がこぼれていた。ゆっくりと首を回すと、キーランがベッド脇の椅子に座って、新聞を読んでいた。
「来ていたの?」
声を掛けると、キーランは新聞を畳み、美波の方へ身を屈める。なつかしい笑顔が自分のすぐ側にあり、美波は嬉しさに目を細める。
「何となく、早起きしちゃってね」
「きっとキーランのことだから、このところ満足な睡眠時間を取っていないんでしょう。そのうち倒れるよ」
「オレはお前と違って丈夫だから、心配しなくていいよ」
絆創膏を張った手の甲で頬を撫ぜながら、キーランは美波の目を直接、覗き込む。母よりもずっと淡い、空色のキーランの瞳が、微かに揺れる。キーランは頭を小さく振ると、取ってつけたような明るい声を出した。
「それにしても、さすがにエディは自分の娘のことがよくわかっているよな。象のぬいぐるみは正解だったみたいじゃないか。どうせ、お前のことだからひとりで寝ていて、寂しかったんだろうけれど、その年で、ぬいぐるみと寝ているっていうのも不気味だよ」
「違うの。夜中に目が覚めて、色々と思い出して、考えていたの。それで、象のエディの助けが必要だったの」
「色々って?」
キーランは強く興味を惹かれたようだった。
「全部話していたら、キーラン、仕事に行けなくなると思うな」
美波は慎重に左手を動かし、キーランの手を握る。それから、真っ直ぐにキーランを見た。
「キーラン、私に話があるんでしょう?」
キーランは黙って頷いて、それから視線を落す。美波はそんなキーランがとても気の毒になり、愛しくも思う。
「私はもう大丈夫だから、話をするのはいつでもいいよ」
できるだけしっかりした調子を心がけて言うと、キーランは弾かれたように美波を見た。
「お前、自分の言っていることの意味がわかっているんだよな」
美波は笑顔で頷いて見せた。キーランは困ったように、横を向いて、テイクアウトのコーヒーを口にする。美波の視線は、ついコーヒーのカップに集中していた。
「いいな、コーヒー。私も飲みたいな」
とても真剣にそう言うと、キーランがふっと笑って美波の方に向き直る。
「お前、医者だろう。その状態で、こんなものを飲んでもいいのかどうか、お前が一番良く知っているはずなんじゃないのか」
「そうね。多分、ダメかな」
言いながら、つい噴き出してしまう。つられたように、キーランも声を出して笑い始め、それから、コーヒーをもう一口含むと、美波の方へ覆いかぶさった。
「それならさ、今日のところは匂いだけにしておくんだな」
久しぶりのキーランのキスに、美波は安心して、目を閉じていた。