第7章
元のパンツスーツに着替え、手術着を備え付けのゴミ箱に放り込むと、美波は恐る恐るバスルームを出た。部屋の中には誰もいなかった。少しだけ安心して、洗面道具の入った紙袋を机の上に置く。それから、そっと厚手のカーテンをめくってみた。
現れたのは、外界に通じる大きなガラス戸であった。すっかり暗くなっていて、辺りの様子はあまり判然としなかったが、少し先に小型のクルーザのようなものが確認できた。ガラス戸に耳を押し付けると、微かに波の音。とするならば、自分が今いる場所は海辺ということとなる。腕時計を確認すると、午後9時を少し回ったところだった。手術が終わったのは午後3時前だったから、近藤たちに拘束されてから6時間ほどが経っている。薬でどのくらい気を失っていたのか、そしてこの場所に到着してからどの程度の時間が経っているのか定かではないが、飛行機で移動したのでなければ、この短い時間の間に東京からそれほど離れた場所に移動したとは思えない。東京近辺の海辺で、小型のクルーザが乗り回せそうな場所と言えば、多分、神奈川の南部から伊豆にかけてか房総辺りということになるのだろう。
そんな風に自分の思考にとらわれていたら、突然、コツン、コツンという乾いた音がした。見ると、木原がニヤけた笑いを浮かべて、ガラス戸の外に立っていた。ヤクザに協力して、同僚の刑事に危害を加えるような嫌なヤツ。乱暴にカーテンを閉めて、踵を返す。そうして、美波は、近藤が小さな盆を持って部屋に入って来るのを目にすることになった。
「最初に言っておくけど、あんたがそのガラス戸から逃げないように、外には5人ほどの男がいて、あんたのことを見張って見張っているぜ。それから、船の中にも何人かいる」
美波の位置を確認して、近藤は言った。
「座れよ。食事だ」
「欲しくないわ」
美波は顔を背けた。ほぼ同時に、大きな音をさせて盆を応接セットのテーブルの上に置くと、近藤は大股で近づき、美波の左腕を引っ張る。
「突っ張るのは止めろよ。どうせ逃げられないんだし、昼飯食ってから随分と時間が経っているんだろう。ありがたく食べな」
強引に美波を応接セットの片側の椅子に押し込めると、近藤は向かい側に腰を下ろし、タバコに火を点けた。盆に盛られていたのは大ぶりのクラブサンドイッチと、フルーツサラダ。そして、イタリアン・ローストのコーヒー。まったく、美波の好みをよく知っている。1分間ほど、その食べ物をじっくりと眺めていて、美波は自分がどうしようなく空腹であることを思い知る。ゆっくりとコーヒーに口をつけると、食べ物への欲求が体の中から溢れてきて、サンドイッチに手を伸ばした。
近藤は美波が食事をする様子を、タバコを燻らせながらじっと観察していた。食べ物をあらかた片づけてしまうと、機敏に盆を持って立ち上がる。
「コーヒーをもう一杯、飲むだろう」
大きなマグカップになみなみ注がれたコーヒーとともに、近藤はすぐ戻ってきた。美波が身じろぎもしないでいると、マグカップを大きな音をさせてテーブルの上に置く。
「何とか言ったら、どうなんだ。あんた、お嬢様なんだから、礼儀ぐらいは弁えているんだろう」
「ありがとう」
近藤を見上げ、無表情のままに言う。近藤は笑顔を浮かべた。
「いい子だ。いい子ついでに、両手を出しな」
「何をするの」
「念のため、コイツをしておいて貰う。あんたも自分の立場がわかっていいだろう」
スーツのポケットから手錠を出して、近藤は美波の前でひらひらさせた。それで、思わず両手を隠そうとしてしまう。そんな美波の腕を無情に掴むと、近藤は見せつけるように手錠を片手ずつはめていった。
「それなら、自分でトイレにいけるだろう」
クックッと笑う近藤をよそに、美波は自分の腕にかかった手錠をしばらく見つめ、それから両手に顔を埋めた。確かに、このやり方には心理的な効果がある。
「他に何か必要なものはないか」
美波が黙ったままでいると、しばらく経ってから近藤が聞いた。美波は顔を上げた。
「あのカーテンを開けてもいいかしら」
「もう夜遅いから何も見えないぜ」
「いいの。カーテンを閉め切っているのって、嫌いなの。閉所恐怖症のような気分になる」
「それなら、今、開けてやるよ。外のヤツ等は、あんたが部屋の中にいるのが見えて、仕事がやりやすくなるから大歓迎だろうよ」
近藤はカーテンを一挙に開けた。真っ暗な外界に通じるガラス戸は、部屋の明かりを反射していて、応接セットの椅子に体を埋める自分の姿を確認することはできたけれども、海の存在は片鱗さえ見出せなかった。
夜明けまで、あとどれくらいの時間があるのだろう。母が育ったメイン州にある家の最上階の部屋からは、海越しにこの上もなく美しい日の出を見ることができた。まだふたりとも大学生だった頃、キーランとふたりでニューヨークを抜け出し、メインの家でふたりきりの新年を迎えたことがある。年が明けるまで小さな町のフェアで遊んで、それから家に戻り、何度もセックスをした。そうしているうちに夜が明けて、太陽が水平線の向こうから顔を出した。その光景のあまりの美しさにふたりとも興奮し、急いで祖父の船を出し、沖に出た。あの時は、あんな風にキーランと一緒に新年を迎えることができて、心から幸福であると感じていた。
もう一度、あんな日の出をキーランと一緒に見てみたい。でも、この場にキーランはいないし、それに、私は明日を生き残り、キーランのもとに戻れるかどうかもわからない。
カリフォルニアの地で死ぬ直前、母は何を思っていたのだろうか。いつの間にか、美波はそんなことを考えていた。父と離れたままでひとりで死んで行くことを、母はどう受け止めたのだろう。
美波はその時、絶望的にキーランを欲していた。なぜ、自分は愚かにも、キーランと一年半も会わずにいられたのだろう。
「何を考えているんだ」
突然、近藤の声が聞こえた。虚ろな目を向けると、近藤はガラス戸にもたれ掛かって、美波のことをまっすぐに見ていた。自分の側に近藤がいたことなど忘れていた。
「色々なこと。海の側にある祖父の家や、お母さんのこと」
それから、キーランのこと。それだけは心の中でそっと付け加えた。近藤は笑った。
「あんたの母親ってえらい美人だったんだって」
「ありがとう。似ているってよく言われるの」
美波が気のないように答えると、近藤は更に笑い声を高めた。
「似たもの親子か。そいつはいいや」
それからタバコを取り出し、一本取り出すと、吸い口を美波のほうへ差し出す。美波はありがたくいただくことにして、差し出された煙草を口に咥え、近藤が火を点けるに任せる。
「多分、これ以上黙っている意味なんかないだろうから親切に教えてやるけど、アンタの母親をカリフォルニアで刺し殺したのはうちのオヤジなんだ」
美波は不自由な手で煙草の灰をテーブルの上の灰皿に落とした。
「驚かないんだな」
近藤が少し意外そうに聞いた。
「そんなことだろうと思っていた」
「そうかよ。アンタ、確かに頭は回るはずだよな。東大をご卒業なんだろう。そっちのほうは親父さんと同じでさ」
完全に揶揄する調子の近藤に対して、美波は何も答えなかった。近藤はそんな美波をしばらくの間見つめていた後、突然、独り言のように話し始めた。
「アンタのことをしばらくマークするようにオヤジに言いつかった時、珍しくオヤジが酔っていてさ、アンタたち親子との因縁を話してくれたんだ。けっこう、面白しろかったよ。アンタたちがアメリカから日本へ移り住んで来た頃から、うちのオヤジは、人に頼まれてアンタたちのことを影で見張っていたらしんだ」
美波はゆっくり近藤に視線を向けた。この男がなぜ自分に昔のことを話し始めたのか、よくわからなかった。薄らとした笑いを浮かべながら、近藤は続けた。
「初めてあんたの母親を見た時、オヤジはそれまで写真でしか見たことがなかったような美人のガイジンが目の前に現れたんで、驚いたんだそうだ。しかもよ、まだ小さかったアンタは本物の天使のように見えたんだと。そして、そんなアンタと、アンタの母親に、アンタの親父は目も当てられないほどメロメロになっていたんだそうだ。あんたたちは夢のような親子で、心の底から羨ましいと思ったってオヤジは言っていた。俺も写真を見せて貰ったけどよ、確かにあんたたちは世界一幸せそうだった」
美波の脳裏に、寺崎と芳賀が見つけてきた写真が浮かんだ。母が生きていた頃のことはまったく覚えていないが、写真の中の自分は確かに屈託なく笑っていた。
「だけど、アンタの親父も、母親も、妙に仕事熱心で、そのうち余計なことに気づいちまって、結局、あんたの母親には死んでもらうしかなかった。あんたの母親を殺るためにアメリカに向かう飛行機の中で、オヤジはさ、何で自分の手であんたたち親子をブチ壊さなければいけないのかって、やりきれなく思ったそうだ」
そこで、近藤が挑戦的に、美波を見た。美波は短くなった煙草を灰皿に押しつけ、両手を握り締めた。
「アンタをマークしている間、実はさ、俺もそのことについて何度も考えたんだ。何で俺がアンタを傷つけなければならないんだろうって。アンタはさ、いつも一生懸命で、優しげで、幸せそうに見えた。特に、あんたの親父や、あの金髪のオニィちゃんと一緒の時は眩しいぐらいで、俺なんかが触れてはいけない大事な宝物のようだった。親父の方はともかく、あんたのことは放っておいてやりゃいいのにと思った」
近藤の言い方に美波は心の底から驚いて、彼の表情を覗き込んでいた。今言われたことを素直に解釈すると、愛の告白をされたと言えなくはない。
「だけどよ、そのうちになぜ俺じゃ駄目なんだと思うようになったんだ。俺とあんたの男とは、年がそんなに違わない。なのに、あんたの男はいつもイイ格好をして、結構な金を稼いで、当然のようにあんたのような女といちゃついている。俺たちの間にある違いは何なんだって考えた」
「確かにキーランは子どもの時から何をしてもよくできたけれど、それだけじゃなくて、人一倍真面目で、いつもやるべきことを着実にやってきたの」
寺崎のような男でさえ、キーランには劣等感を感じると言っていたことを思い出しながら、美波は短く告げた。結局、多くの人はどこかで自分自身に不安を感じていて、それを他人に投影する。キーランはそのわかり易い対象になることが多いけれど、そのキーランが、実は、エディに対して劣等感を持っていた時期があって、だからこそエディに負けまいと、常に努力してきたことを美波はよく知っていた。
「才能と努力か。大概のヤツはそう言うよな」
美波の返答を近藤は鼻で笑ってみせた。
「ついでだから、もう一つ面白いことを教えてやるよ」
暫くの間、外の様子をうかがって、近藤は再び話し始めた。
「俺と有紀子が寝るようになったのは、何も偶然じゃない。有紀子はさ、あんたのことストーキングしていたんだ。あんたの行く先々であいつに会ったから、あんたをマークし始めて、すぐわかったよ。それで、ある日、あいつのことを茶店に連れ込んで、問い詰めたんだ。そしたら、すぐ素直に吐いたよ。あんたがあの病院で働き始めて直後にあんたの私生活に興味を持つようになって、後を付回すようになったと言っていた」
「そんなこと、まったく気がつかなかった」
すっかり意表をつかれて、美波は反射的に応えていた。近藤は爆発的に笑い始めた。
「あんたは俺が後を付回していたのだって気づかなかったんだろう。でも、あんたの親父や男は、時々、こっちのことを気にしていたぜ。普通はよ、あんたのようにガキの頃から妙なヤツに追いかけ回されていたら、そのぐらいの注意はして当然なんだけどな。あんたはさ、とことんオメデタイ性格をしているんだろう」
言われて見れば、エディもキーランも、ふいに美波の体を覆い隠すように肩を強く抱くことがあった。びっくりして見上げると、決まってあらぬ方に気を取られていた。ああいう時は、誰かがつけてくる気配を感じていたのかもしれない。もちろん、美波自身はまったく気がついていなかった。オメデタイ性格と言われても、反論できないのだろう。
「でも、どうして、中西さんはそんなことをしていたの」
心を落ち着けるために、少し間をおいて、美波は聞いてみた。
「アンタはさ、有紀子みたいな女にとって、漠然と夢に思い描いていたことの具体像なんだ。とびきりの美人で、金持ちで、アイツなんかには手が届かないブランド物をたくさん持っていて、いつの隙のない身なりをしている。しかも東大出の医者で、一生、生活には困まることなく自分で食っていける。その上、あんたは性格も文句がつけようがないほど良い。あれで性格が悪かったら陰で悪口のひとつも言えるのに、川嶋先生には完璧で、だから尚更イラつくのよねって、アイツは言っていた。つまりさ、アンタは存在するだけで有紀子のような女を追い詰めるんだよ。もっとも、そんなことアンタの責任でも何でもないんだけどよ」
近藤は素早く煙草を咥え、美波にも煙草の箱を差し出した。美波は首を振った。煙草を吸う気分にはとてもなれなかった。近藤は皮肉な調子で唇の端を上げた。
「とにかく、有紀子はアンタにとてつもなく憧れて、そして自分では処理が出来ないほどの嫉妬をした。だから、アンタの後を付け回し始めた。あんたがどういった店に行って、どういった人間に会うのかいちいち調べて、自分の満たされない欲求の補填をしていたんだ。大馬鹿だよな、アイツも。そんなことをしたって、アイツはアンタがレストランの個室で親父と楽しんでいる間、向いのコーヒー屋で150円のコーヒーを啜っていたのがせいぜいなんだから。しかもよ、最悪だったのは、あんたのことを調べていくうちに、あんたがどうも超有名な川嶋真隆の愛人ではなくて、大事な娘でないかって確信するようになったことなんだ」
「どうしてそれが最悪なの?」
美波のことをエディのガールフレンドと誤解する人間はたくさんいた。けれども、自分がガールフレンドではなく娘であるからと言って、それが第三者にとって特定の意味があるとは思えない。
「有紀子もガキの頃に母親が死んで、親父はその後、再婚しなかった。要するに、あんたと同じような家庭環境だったんだ。ただ、あいつの親父はあんたの親父ほどご立派ではなかった。有紀子はさ、まだ中学の時に実の親父にレイプされているんだ。それ以降、あいつと親父の関係は、あいつが看護学校を出て、アパート暮らしを始めるまで続いた」
美波は思わず手錠で締め付けられている両手で口を覆っていた。言葉もなかった。
「そんなびっくりするなよ。オレはさ、半分施設で育ったようなもんだから、その類の話はいくらでも聞いたし、実際よくあることなんだ。男も女も結局、勝手な生き物だからな。アンタの親父だって、けっこう好き放題しているだろう」
「お父さんはあからさまに相手の女性を傷つけるようなことはしないわ」
「よく言うよ。アンタの親父が大して興味もない女と時々、遊んでいることはアンタだって知っているんだろう。問題にならないのは、アンタの親父が金を一杯持っているからだけさ。大抵の女は、アンタの親父が気前よく色々と払うもんで、自分がどれだけぞんざいに扱われているのか気づきもしない。だけど、俺が見たところ、アンタの親父が敬意を払う女は娘のアンタと、それからアンタの男の母親だけだ。他の女はクズとしか思っちゃいない」
それは違うと、美波は思った。確かに、父は時々、どうでもいいような女性関係を持つ。けれども、その一方で、イザベルとはもう20年近い付き合いを続けているし、ふたりがいまだにつかず離れずの状態であるのは、エディがイザベルの意思に敬意を払っているからであると思う。結局、エディはまだフィオナとの結婚生活に囚われていて、実際、死んだ母のことをとてつもなく愛している。だから、他の女性と真剣に、フルタイムでつき合うことができない。イザベルのように素晴らしい女性とでさえ、ふたりの間には母の存在があって、頭の良いイザベルはそのことを充分に理解している。だからこそ、彼女はエディの内面には必要以上には踏み込まない。
時々、そういうことをしてみたくなるんだ。女性の肌の近くで寝てみたいと思って、それで、随分と後になってから、その女性がフィーではなかったことに気づくんだ。
あれはまだ10代前半の頃、エディの奔放なセクシュアリティが日本の週刊誌に取り上げられたことがあった。偶然、その記事を目にした美波に対して、エディは極めて率直にそう言った。少女だった美波には父が可哀想としか思えなかった。もちろん、そうした思いには、自分が味方になってやらねば誰がエディの行動を許容するのだろうという思いも関係していた。とはいえ、父は自分のことを愛しんで、とても大事にしてくれた。それを知っている美波だからこそ、エディの行動に潜む傷つきやすさを守ってやらなければならないと思った。
「もっともよ、アンタの親父は絶対にアンタには手を出さなかった。アンタがいくら母親に似ていようが、アンタとアンタの男との関係に介入することはなかった。有紀子の親父とは大違いだ。アイツの親父はさ、アイツが他に男を作ることを極端に嫌っていたらしい。有紀子を自分のものとして、囲い込んでおきたかったんだろうな。それで、アイツは看護学校に入って、早いうちに家を出た。要するによ、アンタと有紀子はある意味では似たような境遇にあったっていうのに、色々な条件の違いで、まったく違った生活を送ってきた。そんなふたりが偶然、同じ病院で勤め始めた。医者と看護婦っていう随分と違う立場でな。有紀子がアンタのことを多少、嫉妬したのもわかるだろう」
「そんなことを私に言うくらいならば、中西さんのことをちゃんと愛してあげればよかったじゃない」
体の中からどうしようもないほどの怒りが溢れ出てきて、美波は体を震わせていた。近藤に何を言っても、自分と近藤、そして中西は噛み合うことがないとは感じていた。だからといって、黙っていることもできなかった。どうして、人の思いはすれ違ってばかりいるのだろう。
「あんな中途半端な女、誰も愛するもんか。俺はさ、アイツがあんまり言うんで、アンタの部屋を荒らした時、有紀子を連れて行ってやったんだ。有紀子も最初は喜んださ。アンタの洋服を着て、アクセサリーを身に着けて、クソ高そうな酒を飲みながら、アンタのベッドで俺とセックスをした。なのに、帰りがけに何でも好きなもの持って行けよっていったら、それじゃ先生があまりにも可哀想すぎるとか言うんだ。だったら、最初からあんたのことなんて放っておきゃいいのによ。俺はやるからには徹底的にやる。だから、アンタの男のスーツも頂いたし、アンタも手に入れる」
ウンザリしたようにそう言うと、近藤は大股に美波に近づいた。危険を感じて、美波は席を立ち、近藤から逃れようとした。近藤の腕が伸び、両手を繋ぐ手錠の鎖の部分を引っ張る。近藤の顔が正面にあると認識した瞬間、乱暴にキスをされた。美波はありったけの力を込めて、両手で近藤の胸を叩いた。手錠の先端が近藤の胸元と美波の手首に食い込み、苦痛に顔を歪めた近藤は美波をベッドの方へ投げつける。
「アンタも諦めが悪いな。だけど、そんな風に突っ張っていられるのも、今のうちだぜ。明日になったら、抵抗なんてさせない。よく覚えておくんだな」
まったく隙のない冷たい目を美波に向けて、近藤は言い捨てた。それから、テーブルの上で忘れ去られていたコーヒーのマグカップを掴み部屋を出て行った。ドアの閉まる音を合図に、美波はベッドを背に床に蹲った。泣きたいような気もしたが、困ったことに涙さえ失くしてしまったようだった。
暫くの間、ベッドにもたれて、ガラス戸の向こうの深い闇を見ていた。11月の夜は物音一つせず、時間までもが止まってしまったようにも感じられた。美波は、近藤が放ったネガティブなエネルギーに揉まれて、消耗し切っていた。目の前に広がる空っぽの夜に溶けていってしまいそうな圧倒的な喪失感の中で、消えてしまいそうも思えた。
近藤は新しく入れ替えたコーヒーと共に戻ってきた。放心したように座り込んでいる美波の傍のベッドサイドテーブルにマグカップを置く。美波は緩慢に近藤を見上げた。
「寝るんなら、安心してそのベッドを使いな。親父に殺されたくねぇからよ、許可がでるまでは何もしねぇよ」
「ここでいいわ。でも、コーヒーありがとう」
美波はゆっくりと両手を伸ばして、マグカップを握り締めた。暖かかった。少しでも、自分の体が反応していることを感じることができて、ほんの少しだけホッとしていた。
「好きにしな。俺はこっちで寝るよ」
微かに笑うと、近藤は先刻まで座っていた椅子に戻り、テーブルに両足を載せると目を閉じた。機械的にコーヒーを口にしながら、美波は自分の思考に身を任せてみる。
近藤が言っていたように、誰かに付け回されたのは、これが初めてのことではなかった。今にして思えば、エディと関谷との関係が険悪化する度に、関谷はエディをコントロールするためのカードとして美波の安全を使っていたのだろう。実際、関谷に初めて会った時も、関谷は美波のことでエディを脅しをかけていた。
あれはケネディ一家とともに、美波が東京に移住してから最初の新年を迎えた頃だった。東京で暮らし始めてほぼ半年。美波もよくやく日本での生活に慣れ始めていたし、何よりもそれまで慈しんでくれたケネディ一家との生活から、実の父親、エディとの生活へのゆっくりとした移行期にあった。多分、美波の生活に急激な変化を起こさないようにという親たちの配慮でもあったのであろう。当時、ケネディの一家はエディのマンションから数百メートル離れた別なマンションに住居を構えていて、美波は基本的にはニューヨーク時代と同じように、そのマンションで生活していたが、エディと過ごす時間は毎日、着実に増えていった。最初は実験的に週に一度、エディの家に泊まることから始めて、親たちは慎重に様子を見ながら、美波がエディのマンションに泊まる日数を増やしていった。あの頃はまだキーランと一緒に東京のインターナショナルスクールに通っていたので、学校から一旦、ケネディ一家の家に戻り、エディの迎えを待つ。エディが早く戻れた時はふたりでエディのマンションに帰宅し、遅くなった時はケネディ一家の家で夕食を済ませ、エディもそのまま泊まった。逆に、時には、パトリックとアリシアがふたりで外出することもあったので、そういう時はキーランと3人でエディの家で過ごし、翌朝、ふたりはエディの家から学校に行った。そうやって、毎日、ふたつの家を往復しながら、徐々にではあるが、エディの存在は日常的なものに変わっていった。思い返してみると、あの頃、エディはほとんど夜の外出や海外出張をせず、毎日早い時間に帰宅して、美波との時間を作っていた。きっと、陰で大変な仕事のやりくりをしていたのだと思う。そして、アリシアとパトリックは、そんなエディを全面的にバックアップしていた。皆の暖かい配慮に包まれて、美波は安定した気持ちで、エディとの生活を受け入れ始めていた。
関谷が突然、エディのマンションに現れたのは、冬休みが終わった最初の登校日だった。その時、美波は夕食の準備をするエディの傍ら、キッチンテーブルで日本語の勉強をしていた。エディがそれなりの寄付金と、得意の説得テクニックを駆使したおかげで、美波は4月から由緒ある有名私立女子中学校に入学する手筈となっていた。ただ、そのためには「帰国子女枠」の入学試験に通らなければならず、日本語の特訓をする必要があった。幼い頃から日本語を習ってきて、小学校程度の課程はとりあえず終えているものの、母語として日本語を操る他の受験生と比べるとどうしても美波の日本語には不安が残る。それで、あの頃、エディによく日本語の勉強をさせられていたが、どちらかと言えばインターナショナルスクールに残りたかった美波は、実のところはあまり気が乗らず、したがって進み具合も捗々しくなかった。暇つぶしのため美波の日本語の勉強に付き合っていたキーランは、お前の場合は「入国子女枠」を作って貰ったらいいんじゃないかとからかった。
英語で慣れ親しんだ時制の用法と日本語の用法の違いをすっきりと理解することができず悩んでいた時、ドアのチャイムが鳴った。てっきり早めに夕食を摂り終えたキーランが遊びに来たと思った美波は、席を立って玄関のドアを開けた。エディも特に警戒してはいなかった。
美波の予想に反して、訪問者はキーランではなく、中背の初老の男だった。事態が呑み込めず、美波は一瞬キョトンとして男を見つめてしまった。男は厳しい目で美波を睨みつけた。
「真隆はいるのか」
大きな高めの声で、男は早口に行った。
「マサタカ?」
「自分の父親の名前を聞いたことがないのか」
男の言い方は威圧的であった。美波は心臓の鼓動が速まるのを感じながら、間違えないように慎重に言った。
「聞いたことはありました。お父さんはいます。でも、どなたですか」
言ってしまってから激しく後悔した。いつも間違えないようにと緊張すると、結局、つまずいてしまう。この場合、聞いたことがあるという現在形が正しいし、父はおりますと敬語を使わなければならない。男の顔が一層、厳しくなった。美波は首を竦めた。
「美波、どうしたの」
様子がおかしいと思ったのだろう。エディが玄関に顔を出した。訪問者の顔を見て、表情を曇らせ、美波を庇うように自分の背後に押しやる。
「関谷さん、こんな時間に、何ですか。話があるならば、明日、会社で改めて伺います」
「その会社にこの頃、あまりいつかんのはどこのどいつだ。松濤の家にも戻らんのだから、お前と話をするのにはここに来るしかないだろうが」
関谷と呼ばれた男は、辺りを憚らずに大きな声で怒鳴った。美波はびっくりして、エディの袖を掴んだ。エディがゆっくりと美波の方を向き、ことさらに優しい笑顔を見せた。
「心配しないで。ここは大丈夫だから、君は自分の部屋に行っていなさい。さぁ、早く」
エディに促されて、美波はとりあえず玄関から居間に引っ込んだ。一旦は言われた通りに自分の部屋に行こうかと思ったが、不安な思いに落ち着かず、結局、居間の入り口でふたりの会話に聞き耳を立てることにした。
「それで、用件は何ですか。僕らはまだ食事前なんですから、手短にお願いします」
ドア越しに聞こえたエディの声は、それまでに聞いたことがないほど冷たく、強張ったものだった。
「このところあの娘はこの家に入り浸りのようじゃないか」
男の声は、とても不機嫌に聞こえた。ふたりの間の確執の深さを感じ、美波の体が震える。
「彼女は僕の子どもですよ。僕の家にいるのは当たり前じゃないですか」
「あの娘とはたまに会うのはよいとしても、一緒に暮らすことは許さんと言ったはずだ。お前はこのところ絵梨子や綾乃のことを放りっぱなしにして、あの娘をケネディ一家ごとアメリカから呼び寄せ、やりたい放題している。それでは約束が違うはずだ」
「いつまでも昔のことを持ち出して、僕を縛りつけようとするのは愚かなことですよ。川嶋グループの社長は今では僕であり、僕が松濤の家を含めてすべての資産の所有者なんです。あなたが今でも松濤の家に住むことができているのは、僕が表立った行動をしないだけのことです」
「生意気を言うんじゃない。10年前にお前だって十分に思い知ったはずだ。お前が絵梨子の夫で、綾乃の父親でいる限り、あの娘には手を出さないと言っただろう。お前が約束を破るならば、俺の方はやるべきことをするまでだ。お前の娘は、第一に綾乃でなければならないんだ」
「勝手なことを言わないでください。僕が絵梨子さんと綾乃のことを受け入れたことはこれまで一度としてなかったはずだし、これからだってありません。僕の子どもは美波だけで、あなたたちがいる限り、松濤にも二度と戻るつもりはありません。たとえあの家が正真正銘、僕の両親が遺してくれた、僕の家であってもです」
「真隆、お前、自分が誰に対して、何を言っているのかわかっているんだろうな。後悔しても後では遅いぞ。それはお前が一番良く知っていることじゃないのか」
それから関谷は声を落として、一語一語区切るように力を込めて言った。
「俺はあの娘の安全のことを言っているんだ。あんな日本語もまともにできない子どもを始末するのはわけないことなんだ」
関谷の発言に美波は息を呑み、急いで自分の部屋に駆け込んでいた。エディと関谷の話のすべてがわかったわけではなかったが、関谷の最後行ったことだけは明確に理解していた。キーランと時々観るテレビの時代劇ので、悪役が関谷と同じような言い方をすることがある。誰かを始末するというのは、殺すということだ。あの男はどういうわけだか美波がエディの家にいるのが気に食わず、それで美波を殺そうとまでしている。でも、どうして、そこまでする必要があるのだろう。
自分の部屋のベッドに腰を下ろし、うつらうつらとエディと関谷という男の関係を考えようとしているうちに、関谷がエディの現在の妻、絵梨子の父親であることを思い出していた。そして、関谷が綾乃と言っていたのは、エディのもう一人の子ども、母が違う自分の妹のことだ。美波が彼らの存在を知っているのは、1年程前に、エディのことを特集したビジネス雑誌の記事を読んだからであって、親たちから直接、話を聞いたわけではない。美波はとても混乱していた。人のあからさまな悪意が自分に向けられたことだけではなく、父の秘密の深さに触れたのも初めてであった。
「美波、悪かったね。もう大丈夫だよ」
軽いノックと同時に、ドアが開いて、エディが入ってきた。既にいつもの優しげな調子を取り戻していて、ベッドに座っていた美波をふわりと抱きしめる。
「会社でちょっとしたトラブルがあったんだ。でも、もう帰って貰ったから、食事にしよう。お腹空いただろう」
エディは美波が盗み聞きしていたことを知らない。そして、美波が知らないという前提のもと、関谷が言ったことについて、美波に話すつもりはないらしい。美波は軽くエディを抱き返して、笑顔を浮かべた。
「本当に、お腹ぺこぺこ」
エディは美波の額に軽くキスをした。それで、いつものような親密な時間が再び流れ始める。食事の後、日本語の時制についてエディが特訓を始めたことを除いては。
関谷の脅しは、それでも、翌日から現実的な形となって、美波を脅かし始めた。最初は、猫の死体だった。管理人が常駐し、オートロック式のセキュリティシステムが完備されているマンションにどうやって入り込んだのか、美波とキーランが学校から戻る時間を見計らったように、猫の轢死体が玄関のドアの前に投げ出されていた。膝が震えるのを我慢し、キーランの腕を握り締めながら猫の死体を迂回して家の中に入ると、キーランが管理人室に電話をした。美波はキーランの肩越しに管理人が猫の死体を片付けて、マンションの前のタイル張りの床に広がった血を清掃するのを黙って見守った。
その数日後、学校からの帰りに、キーランと並んで地下鉄のホームに通じる階段を下りていた時、すれ違いざまに突然、誰かが美波の腕を引っ張った。体のバランスを崩し、そのまま階段を10段ほど転げ落ちてしまう。ホームの床に呆然として座り込む美波の横に、キーランが駆けつけ、助け起こしてくれた。幸い、あざが多少できた程度で、大きな怪我はなかった。それでも、しばらくは体が震え、美波は立ち上がることさえできなかった。
何とか家に戻ると、アリシアが待ちかねていたようにキーランをテラスに連れ出した。夜間灯が切れていると言う。冬の真只中で、テラスで食事をする時期とも思えなかったのだが、アリシアはいつになく強引だった。窓越しにキーランが椅子にの上に立ち、電球を換えているのを見ながら、ココアを作るためにミルクを沸かし始めると、電話が鳴った。美波は気軽に電話を取った。
「もしもし」
「美波さんかい」
潰れたような男の声だった。
「さっきは痛い目に合わせて悪かった。お母さん代わりのアメリカ人の女には、美波さんが階段から落ちたことをちゃんと報告しておいたからね。ただ、お父さんにはまだ話をしていないから、自分からちゃんと伝えるといい。それで、お父さんも、今後はもっと気をつけるようになるだろう」
聞こえたのはそれだけだった。日本式の訛りの強い英語だったが、相手の男の声に聞き覚えはまったくなかった。不意をうたれた美波は、電話が切れても、まだ受話器を握り締めて突っ立っていた。ガスコンロに掛かっていた小鍋から、ミルクが吹きこぼれた。
「どうしたの、美波。電話、誰からだったの?」
いつの間にかテラスから戻ったアリシアがキッチンの入り口で聞いた。キーランが、とても難しい顔をしてアリシアの横に立っていた。
「アリーおばさん、私が地下鉄の階段から転げ落ちたって、誰に聞いたの?」
アリシアの質問には直接答えず、美波は聞いていた。アリシアの顔が当惑を隠しきれずに歪んだ。
「鍋が焦げついているよ」
キーランが突然大声を出して、ガスコンロを止めた。それから、ゆっくりと美波の方を向き直る。
「電話、誰からだったの?」
「わからない。お父さんに私が駅の階段から転げ落ちたって話せって言うの。でも、私はココアを作ろうと思っていたの。キーランと私のために」
それから美波は両手で顔を覆って、泣き始めた。キーランがごく自然に、美波の頭を抱きかかえる。
「いいわよ。ココアは私が作ってあげるから、あなたたちはその間、テレビでも見たらどうかしら。もうすぐ、お気に入りの時代劇の時間じゃない。宿題はその後にすればいいわよ。今日は私もつきあうから、ドラマの中でどんなクレージーなことが起こっているのかふたりが説明してくれると嬉しいわ」
アリシアはいつもの優しげな笑顔を浮かべて見せた。キーランの腕の中で、美波は何とか頷いてみせた。
結局、いつもキーランが側にいてくれた。どんなに心細いような、不安な場面でも、キーランが側にいて、美波のことをサポートしてくれた。そして、美波は、どんな状況でもキーランが普通に笑うのを見て、何となく落ち着くことができた。あの日も、そしてあれからも、そうだった。
地下鉄の階段から転げ落ちてから1週間ほどしてからのことだった。最寄りの駅から地上に出て、いつものように、ケネディ家のマンションまでキーランと歩いていると、何の前触れもなく、突然、キーランが美波の右手を握って、ショーウィンドウを指した。急なことにびっくりして、キーランの視線を探す。
「変なヤツ等が付けて来ているんだ。お前の鞄、貸しなよ。この先のアイスクリーム屋まで、走ろう」
あくまでもショーウィンドウを観察しているような振りをして、気軽な笑顔を浮かべながら、キーランは美波の耳に囁いた。言葉尻から、その表情とは裏腹にキーランがとても緊張していることが感じられた。
「変なヤツって?」
「詳しいことは、後。お前、走れるだろう」
美波は必死で頷いていた。宿題などが入った重い鞄を美波からひったくると、キーランは小声でイチ、ニィ、サンと掛声を掛けてから美波の手を取り、走り始めた。
前面がガラス張りの明るいアイスクリーム屋までは200メートルほどの距離があっただろうか。荒い息で店の中に駆け込むと、キーランは美波に聞く。
「お前さぁ、金、持っている?」
「1000円ぐらいかな」
「上等。オレは170円しかないんだ」
美波はキーランをじっくりと見上げた。気楽な笑顔を浮かべると、美波の手を引っ張り、キーランはアイスクリームが並ぶショウケースの前まで進み出る。
「お姉さん、オレはマカデミアンナッツ・チョコレートとクッキー・アンド・クリームのダブル。こっちはストロベリー・チーズ・ケーキとバニラね」
お得意の笑顔を惜しげなく見せて、若い女の店員に注文をすると、美波の方に身を屈ませる。店員は、キミ、日本語が上手ねぇと笑っていた。
「オレは電話してくるから。大丈夫だよ。こんな開放的な店の中では誰も何もできないよ。アイスクリームを受け取ったら、店の真ん中辺りのテーブルに座っていろよ。オレはすぐ戻るから」
早口でそれだけ言うと、キーランは店の隅に置かれた公衆電話の方へと向かった。キーランが行ってしまうと、美波はそのまま俯いて、店員がキーランと自分のアイスクリームを紙のカップに掬っている様子に集中した。アリスクリームが山のように盛られたカップを受け取り、支払いをしている間、背の高い黒っぽい服を着た男が自分の隣に並んだことには気がついた。それでも、美波は決して目を上げなかった。
キーランと自分の分のアイスクリームを受け取って、言われた通りに、美波は店の中央部に位置するテーブルに落着いた。店はわりと混んでいた。いくつもの学生グループが気楽なおしゃべりに興じており、ガラス戸越しには、多くの人が通りを行きかう様子が見てとれる。アイスクリーム屋のパイプ製の椅子に腰を掛け、周囲の様子窺っていた美波の視線は、突然、ガラス戸の向こうに釘づけにされた。申し訳程度に植えられた街路樹の脇で、派手なシャツを着た男が美波のことをじっと見ていた。体が凍りつくようなショックを感じ、指先が震える。その時、ショウケースの前で美波の横に並んだ男が、美波の視界をゆっくりと横切った。黒服の男は、一瞬、ガラス戸の向こうの男と視線を交わすと、意味ありげな笑顔を美波に向けた。美波は身を竦めた。
「お待たせ」
聞き慣れた声が、美波の耳に飛び込んできた。キーランだった。見上げると、いつもの屈託のない笑顔を浮かべて、黒服の男と自分の間を遮るように、キーランが立っている。美波は少しだけ安心して、笑った。
「親父、もうすぐ来るから、大丈夫さ」
明るい調子でそう言い、鞄を空いている席に投げ出すと、美波の隣に滑るように腰を下ろす。それから、自分の背後にいた黒服の男を、真っ直ぐに見上げた。
「おじさん、オレの彼女に何か用?」
「ガイジンのガキが色気づきやがって」
黒服の男が横を向いて、小さく言った。声が聞こえた時には、男は既に歩きだしていた。
「おじさん、恋愛はユニバーサルなことなんだよ。覚えておいた方がいいよ」
キーランが大きな声で、黒服の男の後ろ姿に追い討ちをかけるように声をかけた。美波はキーランの手を強く握った。
「そんなに怖がったら、向こうの思う壺だよ。オレたち、デートでもしていると思って、楽しんだ方がいいよ」
マカデミアンナッツ・チョコレートのアイスクリームを一度に半分ほど口にかきこんで、キーランが言う。そんな食べ方をしたら、気持ちが悪くならないだろうか、と美波は要らない心配をしてしまう。
「デートなんてしたことがないもの。何をしていいんだか、わからないじゃない」
「オレだって経験がないけれど、皆、やりたがるんだから、きっと楽しいんじゃないのかな。とにかく、アイスクリーム、食べろよ」
キーランが美波のアイスクリームをスプーンで掬って、口に突っ込む。鋭い冷たさに、美波は目を閉じ、つい涙ぐみそうになった。
「楽しいことなんて、考えられないよ」
「だったら、思い出せばいいじゃないか。親父と生活していると、可笑しいことなんていくらでもあるだろう。ほら、このあいだのクリスマス・イブの時とかさ」
それから、キーランは美波の耳元にチョコレートの香りがたっぷりの口を寄せる。
「親父と母さんがふたりで出かけていて、エディもいなかったし、どうせ帰りが遅いと思ってオレたちがモンティパンソンのThe Meaning of Lifeを見始めたら、しばらくして親父と母さんが帰ってきたじゃないか」
言われてみて、美波もつい思い出してクスクスと笑い始める。
「そうだね、あれは面白かったね」
「すごくタイミング良いんだったもんな。丁度、3番目のエピソードが始まったところで、ふたりで部屋に入ってきてさ」
「第三世界、ヨークシャーのところだよね」
「そう。親父のきょうだいたちみたいにポコポコ子どもを作るカソリックの家族が出てくるエピソードで、Every sperm is sacredって子どもたちが歌って、踊ってさ」
「あれは困ったよね。アリーおばさんもパットおじさんもソファに座り込んで、見入っていたけれど、下手に笑えないじゃない。笑ったら、意味がわかっているってばれちゃうから。それで、パットおじさんが最後に悪態をついて」
「イギリス人のクソ野郎!」
「アリーおばさん、パットおじさんのこと、とても怒っていたよね」
「親父だけじゃないよ。オレだって、あの後、親父と母さんとダブルで、とんでもなく怒られたんだから。お前におかしなもの見せるなって」
「もう、遅いよね」
「それでさ、次の日、クリスマス・ディナーに来たエディまでが何か言いたそうでさ」
「お父さんも、確かに変だった。私のこと、覗き込むように見たりとかして。12歳にもなったのに、私が、子どもがどうやって生まれてくるのかわからないと思っているのかなって思ったら、つい猫をかぶりたくなっちゃった」
「お前はいいよな、それで済むから」
呆れ顔でため息をつきながら、キーランはもう一度、美波のアイスクリームを掬い、無造作に口に放り込む。
「ほら、早く食べないと溶けるぞ」
美波は、キーランの屈託のない表情と行動に心から感謝をして、アイスクリームが口の中で溶けていく感触に神経を集中させた。少しだけ笑ったので、もうちょっとだけ、この場所でパトリックのことを待つことができそうな気がした。
「おう。おふたりさん、遅くなって悪かったな」
タイミング良く、パトリックの張りのある声が店内に響き渡った。見ると、明るいオレンジ色の髪を揺らし、パトリックが丁度、店の中に駆け込んできたところだった。なぜかパトリックは、いつも絶妙のタイミングで現れる。示し合わせたように下を向いて、キーランと美波は、同時にクスリと笑った。
「車が混んでいてね。さぁ、タクシーが外で待っているんだ。行こうじゃないか」
美波とキーランの肩に手を置き、ふたりに覆いかぶさるようにして、特有の大きな声でそう言うと、パトリックはすぐに声を潜めて囁く。
「それで、どこのどいつだ」
「外にいるよ。一人は黒服の背の高い男で、もう一人は趣味の悪い派手なシャツを着た男。黒服の男は、学校からオレたちのことをつけてきていたし、派手なシャツは今朝、地下鉄で一緒だったんだ。だから、おかしいと思ってさ」
「お手柄だよ、坊主。お手柄ついでに美波の鞄を持ってやれ。美波は立てるか」
パトリックはキーランの肩を2、3度叩いてから、美波の手を取り、立たせる。抜け目なく辺りに目を配ると、コートの半身でふわりと美波を包み、自分の腕の中に抱え込んだ。
「これなら寒くないだろう。さぁ、家に帰ろう」
軽くウィンクをして、パトリックは美波を促し、歩き始める。パトリックのコートの陰に隠れて、自分の震える体を人の目から隠すことができて、美波は何とか舗道まで歩くことができた。
タクシーに乗り込んだ瞬間、黒服の男をバックミラーに認めた。男は真っ直ぐに美波のことを見て、喉元に手をやり横にスッと引いた。それで、結局、タクシーの後部座席でパトリックとキーランに挟まれたまま、美波は嗚咽を始めていた。そんな美波をパトリックが黙って抱きかかえた。
タクシーがマンションの前に停車しても、美波はひとりで立つことさえできず、子どもの時のようにパトリックに抱かれて、家に戻った。玄関のドアを見た瞬間、猫の死体のことが思い出されて、猛烈な吐き気を覚えた。トイレに倒れ込んで、どうにも止まらない嘔吐と格闘しているうちに、美波は意識を失った。
誰かが優しく額を撫ぜていた。薄く目を開けると、エディだった。ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛け、美波の額から頭にかけて丁寧に指でなぞっている。
「気がついたんだね」
エディは優しく、悲しげに笑った。
「怖い思いをして、大変だったね」
「お父さん!」
両目から涙が滝のように溢れ出した。手を広げると、エディはベッドの縁に座りなおし、美波のことを抱き締める。
「お父さん、お父さん、お父さん」
エディの首筋にしがみ付き、美波はヒステリックにエディのことを呼び続けた。本当は、どうしてあの関谷という男の人は私のことを始末したいの、と聞きたかった。けれども、どうしても「お父さん」という単語以外、口にすることはできなかった。
「僕が代われるものならばいくらでも代わるのに。怖くて、嫌な思いをしなければならないのはいつも君だ」
エディは美波の髪を撫ぜながら、ポツリと言った。憂鬱の底に沈んでいるのが、手に取るようにわかった。
「それでも今回はキーランが一緒だったおかげで、少しはマシだったのかな。僕らのキーランはとっても優秀だね。アイスクリーム屋でパトリックを待つなんて、本職の探偵よりも気が利くよ」
少し間をおいて、気を取り直したように、エディは少し冗談めかして言った。美波は涙でぐしょぐしょの顔でエディを見上げて、それからまた泣き始めた。その夜、結局、美波は小さな子どもの時のようにエディに抱かれたまま寝入ってしまった。翌朝、目が覚めるまでには、エディはもういなくなっていた。
翌日から高熱が出て、美波は1週間ほど学校に行くことができなかった。丸2日間、熱にうなされて、正気づいたのは3日目の午後。キーランが学校から戻る少し前だった。
「美波、やっと熱が下がったんだって」
ノックもそこそこにキーランは部屋の中に駆け込んできた。ベッドの上で上半身を起こしていた美波は、緩慢にキーランの方を向いた。
「お前、痩せたな」
「そうかな」
「そうだよ。良かったよ、これを買って来て。はい、お土産」
そう言ってキーランがデニムのジャケットの背後から取り出したのは、小型のアイスクリームのカップだった。ストロベリー・チーズ・ケーキとクッキー・アンド・クリーム。確かに発熱に苦しんだ後では、美味しそうだ。
「だって、あの時、お前はアイスクリームを全然、食べられなかったじゃないか」
そういうキーランだって、あまり食べてはいなかった。それでも、キーランの配慮が嬉しく、美波はにっこりと笑って、クッキー・アンド・クリームのカップを受け取る。半分ずつにしようなと、キーランは嬉しそうに蓋を開けた。
「キーラン、170円しか持ってないんじゃなかったの」
「あの後さ、実は所持金が170円しかなくて焦ったんだって言ったら、親父とエディがそれぞれ内緒で1000円ずつくれたんだ。それに、今朝、美波にアイスクリームを買ってこようかって言ったら、母さんが1000円くれた」
「しっかりしているんだ」
「そりゃね。だから、お前も、オレのおかげで無事に危機を脱出したろう」
この間のエディのように、ベッドの縁に腰を掛けて、キーランは軽くウィンクする。美波は俯いて、アイスクリームのカップを弄ぶ。
「あのねぇ、キーラン」
「何?」
「お父さんの家にいる時、関谷って人が来たの。キーランも雑誌で読んだでしょう。お父さんの今の奥さんのお父さんの関谷さん」
「覚えているよ。それで、そのオヤジがどうしたの?」
「よくわからないんだけど、お父さんが私と一緒に暮らさないって約束を守らないんならば、私のことを始末するって言っていたのが聞こえたの」
キーランはアイスクリームのさじを口に咥えたまま、美波のことをじっと見返した。
「関谷ってヤツがとてつもなく嫌な奴だっていうのは、親父から前に聞いたよ。エディに、時々、とてもひどいことをするって言っていた」
暫く時間をおいて、キーランは面倒くさそうに言った。
「私のことも嫌いみたい」
美波がポツリと言うと、キーランは持っていたアイスクリームのカップを美波に握らせ、まだ蓋も開けていない美波のカップを奪い取る。
「お前は本当にいつもトロイよな。おかしなオヤジのことなんて心配しないで、さっさとアイスクリームを食べろよ」
それでも美波がアイスクリームのさじでカップの中をかき回していると、キーランは大きくため息をついた。
「お前、オレのクラスのニッキーを知っているだろう」
突然の話の転換に戸惑いながら、美波は取りあえず頷く。ニッキーというのは西海岸出身で、黒髪が印象的なハンサムな少年だった。キーランとは仲が良かったはずだ。
「アイツ、どこかでお前が学校を休んでいるって聞き込んだのか、どうしたんだって聞くんだ」
「私のことを?」
「そう。それで、熱を出しているっていったら、見舞いに行っていいかとか色々と言うんで、何でって聞いたんだ。そしたら、お前に興味があるってさ」
美波は思わず大きく瞬きをしていた。よく意味がのみ込めなかった。
「今度、一緒に出かけたいんだそうだ。つまり、デートだな。お前どうする?」
節目がちに、キーランは早口で聞いた。美波はただ驚くばかりだった。
「何で、私と?」
「そりゃ、興味があるからだろう。とにかくさ、オレが言いたいのは、これだけ色々な人がいればさ、そうやって物好きにもお前をデートに誘いたいなんてヤツもいるし、お前のことが嫌いな人間だっているってこと。だから、関谷なんてやつのことは忘れて、アイスクリームを食べろよ。関谷のことはエディがどうにかするよ。そうやって親父たちが話しているのを聞いたんだ」
「盗み聞きしたの?」
「聞こえたんだよ。親父があれだけ大きな声で怒鳴れば、嫌でも聞こえるって。それに、だから、お前が熱を出して寝ているのに、エディはこの数日、姿を見せていないだろう」
「お父さんとは先刻、電話で話した。週末にキーランも一緒に映画にでも行こうって。だから、それまでには元気になっているようにって言っていた」
「そんな美味しい話があるんなら、それまでにちゃんと直せよな」
キーランは早く食べろよとでも言うように、美波の腕を突く。それで、美波はアイスクリームのカップの蓋を開けて、少しずつ食べ始めた。発熱でざらついた舌にアイスクリームの感触は心地よく、それから暫くの間、美波は黙ってアイスクリームを口に運び続けた。キーランとつかず離れずの距離で、そうやってアイスクリームを食べているうちに、何となく落ち着きを取り戻していた。
「それで、お前、ニッキーのこと、どうする?」
長い沈黙の後、キーランがあらぬ方を向きながら聞いた。すっかり半分になってしまった自分のアイスクリームを美波の方へ押しやる。
「どうするって?」
「だから、アイツとデートしてみるか」
うーんと、美波は下を向く。実は知らない人と話すのはあまり得意ではない。
「キーランが一緒に行ってくれるなら行ってもいいよ」
「やだよ。何でオレがお前と自分の友だちのデートにつき添わなきゃいけないんだよ」
「たくさんいるガール・フレンドのひとりと一緒にくればいいじゃない」
「それでお前がオレにばかりくっついていたら、向こうが気を悪くするだろう。だいたい、オレにはデートに誘ってもいいような女友達はいないし」
キーランはいつになく機嫌が悪そうに言い捨てた。美波は、再び、黙ってアイスクリームを食べた。
「キーランがさ、また、アイスクリーム屋さんに連れていってよ。私はそれでいい。知らない人と出かけたりするの、あまり気が進まないもの」
すっかり食べてしまったアイスクリームのカップを重ねて、キーランに差出しながら美波は言った。キーランはゆっくりと美波の視線を直接捉えて、笑った。
「失礼なヤツだよな、気が進まないなんてさ。ニッキーはさ、あれでもけっこうモテるんだぞ」
言っていることのわりには、キーランはどこか嬉しそうに見えた。それで、美波も屈託なく笑うことができた。
結局、この年になるまで美波がふたりだけで出かけたことのある男性は、キーラン以外には3人しかいない。もっとも、その内のひとりはキーランの親友のデーヴィッドで、デーヴィッドと出歩くのはキーランといることの延長のようなものだから、数のうちに入らないのかもしれない。あとのふたりとは、それぞれ1度ずつしか出かけなかった。エディの母方の親戚の子どもであるウィルとはオペラに出かけ、その後、ふたりでキーランが歌っているライブハウスに遊びに行った。そして、芳賀暁と出かけた時は、始終、キーランのことばかり考えてしまって、上の空だった。
私はひょっとして女性としてあまり楽しい思いをしてこなかったのかもしれない。生まれたときから相手がキーランだけっていうのも、芸がなさ過ぎる。
美波は自分の考えの暢気さに思わずクスリと笑ってしまっていた。こんな時に、私は何をのんびりと考えているんだろう。ここにはキーランはいない。だから、この状況を乗り切るためには自分で何とかしなければならないのに、キーランとの時間ばかりを思い返している。
体動かした拍子に腕にかかった手錠がカチャリと乾いた音を立てた。美波は膝を抱えて、頭をベッドに預ける。
正確に言えば、キーランは常に美波の側にいたわけではない。この10年ほどは、離れていた時間のほうが長かった。だから、自分だってひとりでそれなりにやってきたはずだ。それなのに、思い出すのはキーランと過ごした時間ばかりで、その他の時、自分が何をしていたのかあまり定かではない。
大学に入るために東京を発つ前日、キーランは美波の引越しに付き合ってくれた。キーランが出発し、その1週間後にはアリシアとパトリックもニューヨークに戻る予定となっていて、ひとり東京に残る美波は、原宿の部屋で一人暮らしを始めることになっていた。あの頃はまだ真新しかった2LDのマンションは、全体的に白っぽく、いくら子ども時代から溜め込んだ美波の所有物を持ち込んだとしても、ガランとした印象を打ち消すことができなかった。
すっかり片づいた新しいベッドルームを見ているうちに感じ始めた淋しさを持てあましてテラスの手すりに寄りかかっていると、キーランがレモネードの缶を持って出てきた。美波に缶を渡すと、手すりから長身の体をぐいっと乗り出す。
「ここ、眺めがいいな」
首の辺りで汗を吸い込んでほつれた長めの金髪が、左耳にブラ下がったピアスと一緒に、夏の終わりの風の中でパタパタ揺れていた。美波はドキリとして顔を赤らめた。この2年ほどで、キーランの背は15センチほど伸び、その表情から少年らしさがどんどん消えていった。このところ美波は、髭を剃るキーランにやっと慣れてきたところだった。
「だから、お父さんがここに決めたみたい。眺めが良いと、ひとりでもそんなに寂しくないからって言っていた」
レモネードのプルトップを開けると、プシュという涼しげな音がする。口に含むと、舌に酸っぱい刺激を感じて、美波は一瞬だけ目を閉じる。
「何だよ、それ。エディのひとり暮らしの知恵なわけ」
キーランはクスクスと笑った。
「それにしても贅沢だよな。ひとりで住むのに、2部屋あって、大きな居間つきで、こんな広いテラスまである。きっと、とんでもない家賃払っているんだろうな」
「お父さんは教えてくれなかった。気にするなって」
「そりゃ、エディはそう言うだろう。それで、2部屋目はエディのためなわけ?ベッドがおいてあるけれど」
「ううん。お父さんは寂しい時に誰か友だちに来て貰えばいいだろうって、お客さん用にしておけばいいって言うの」
美波の答えを聞いて、キーランは爆発的に笑い始めた。美波は何よと、膨れる。
「お前、本当に信用がないんだな。先刻から寂しい、寂しいってそればっかりじゃないか。エディは、お前がひとり暮らしなんか始めたら、毎晩泣くんじゃないかと思って、心配で堪らないわけだ」
「どうせ、私はキーランのようには信頼されていませんよ。いいわよね、大学の学生寮に入る誰かさんは、毎日、友だちと楽しく遊び回るんでしょう。大学生はいいな。うるさい校則とかないし」
「ニューヨークの学校にもお前の学校みたいなうるさい校則なんかないよ。お前のところはさ、お嬢様が集まる学校だからだろう。それと、アメリカの大学生は日本の大学生よりずっと忙しいんだ。だから、そうそう遊んでもいられない」
「それでもちゃっかり遊ぶのがキーランじゃない」
キーランは微笑んでレモネードを飲むと、美波の顔を覗き込む。
「オレ、ソフィアかICUに行っても良かったんだぜ」
言われて、思わず美波は大きく頭を振った。
「駄目だよ。キーランはコロンビアに行きたかったんでしょう。アリーおばさんだって、お母さんだって行った大学なんだから、きっと良い大学だよ。それに、そろそろニューヨークに戻ってもいい頃だし。私のためにいつまでも東京にいても仕方ないじゃない」
思わず必死になって言い募っていた。それに反応するように、キーランは美波の方へ微かに身を傾けた。
「だって、美波はすぐ寂しがるじゃないか」
とりわけに明るいキーランの空色の瞳が、真っ直ぐに美波に向けられている。美波の胸の辺りが疼いた。
「私は大丈夫だよ。今では友だちもいるし、日本語もバッチリだし。何とか、やっていけるよ。それに、最近、おかしなことも起こらないでしょう?」
本当は自分でも確信が無かった。学校の帰りにキーランと待ち合わせることなく、ひとりで家に帰り、ひとりで宿題をすることなど想像もできなかった。それでも、キーランのために大丈夫と言うことが重要であるように思われた。それでも、キーランは、少し俯き気味になる。
「本当はさ、オレの方が寂しくてどうしていいのかわからないのかもしれないな。お前はさ、生まれた時から、ずっとオレの周りをウロチョロしていただろう。だから、明日からお前がいないんだと思うとなんだか暇そうだなとか思って、自分がどんな生活をするのか想像できないんだ」
美波は驚いてキーランを見返していた。キーランが弱みのようなものをほんの少しでも美波に対して見せたのは初めてのことだった。
「私のことなんか、すぐ気にしなくなるよ。キーランには新しい友だちができて、ニューヨークの刺激のある生活に戻って、大学で新しいことを勉強して。やることたくさんあるじゃない。私はそうやってキーランが自分の生活を楽しんでくれるのが嬉しいな」
自分に言い聞かせるように美波が小声で言うと、キーランはゆっくりと美波の方へ顔を向けた。その時、美波は、生まれて初めて、キーランの頬から首筋にかけて線が繊細で微妙な美しさを持って流れていることをはっきりと意識した。美波が小首を傾げると、キーランがすっと手を伸ばして、美波の髪をクシャリと撫ぜる。
「お前のことを心配するのは、長年の習慣なんだから、そうそうやめることなんかできないよ。だから、お前がマメに電話しろよ。貧乏学生に国際電話代を払わせるのは酷だろう」
美波は戸惑いがちに微笑んで、頷いた。心を懸命に抑えておかないと、このままキーランにとんでもないことを言ってしまいそうにも思えた。キーランは、一瞬、美波の髪に絡める手の力を強めて、それからふいに何かを思いついたかのように手を離した。
「もう帰ろう。今日はエディもパットも早く仕事を片づけて帰ってくるって言っていたからさ」
照れたようにジーンズのポケットに手を突っ込み、キーランは踵を返し、居間へと歩き出す。
「キーランには東京最後の夜だもんね」
2、3歩遅れてついて行きながら、美波は努めて明るくキーランに声をかけた。
「どうせ、また来るさ」
顔だけ捩って、キーランは美波の方を振り返った。他にも何か言いたいような感じで、唇を動かし、それから、また下を向く。美波は恐る恐るキーランの腕に手を掛けた。
「ねぇ、キーラン。ニューヨークから手紙を書いてよ」
「手紙ぃ?」
「そう。お父さんが昔、長い手紙をよくくれたじゃない。あんな風に、キーランからの手紙を読んでみたいな」
キーランは困ったように首をかしげた。
「オレ、そういうのは苦手なんだよ。お前に手紙書くなんて、照れくさいじゃないか」
「でも、手紙は後まで残るでしょう。電話で話したことばは消えていってしまうじゃない。キーランが手紙をくれれば、寂しくなった時、読み返すことができるもの」
「ますます気が進まないな。エディやパットの世代はそういうこと恥ずかしげも無くできるのかもしれないけれど、オレの趣味じゃないよ」
「1行でもいいんだけどな」
キーランはじっと美波の顔を見下ろして、表情を読むように覗き込む。
「お前、今日はやけに食い下がるね」
「いいじゃない。餞別だと思って、いいよって言ってよ」
「あのねぇ、餞別貰うのは、普通はオレの方だよ。困った奴だな」
それで美波は思い出し、キーランを引っ張って居間に取って返すと自分の鞄から綺麗に包装した細長い小箱を取り出して、キーランに渡した。
「私からは餞別でそれをあげるから、だからキーランはちゃんと手紙を書いてね」
キーランはびっくりしたように、小箱をじっくりと眺める。
「開けないの?」
「ああ」
美波が聞くと、キーランは慌てて包装紙を解き始めた。美波が割りと苦労して結んだリボンを無造作に取り、包装紙を引き裂く。いいんだけどね、と美波は苦笑をする。
「へぇ、すごいな」
中の小箱を開け、万年筆が入っているのを見つけて、キーランは軽く口笛を吹いた。美波は少し得意になって、笑う。
「それで手紙を書けるでしょう?」
美波の問いかけに、キーランはかしこまりましたと笑って、勿体ぶってお辞儀したてみせた。
ニューヨークに戻ったキーランから手紙が届いたのは、手紙のことをいい加減に諦めた秋も深まったある日のことだった。郵便受けに大らかな字で宛名が書かれたエアメールを見つけて、美波はそれなりに興奮して自分の部屋に戻った。制服から部屋着に着替えて、コーヒーを淹れ、ゆったりソファに落ち着いてから、慎重に封を切る。中から出てきたのはノートの切れ端と鮮やかな黄金色の落ち葉だった。
今日、セントラルパークで昔のお前みたいな小さな女の子を見かけた。妙に嬉しそうに落ち葉をかき集めていて、一瞬、子どもだったお前が戻ってきたのかと思った。いつもお前のことを考えている。クリスマスにはこっちに来いよ。
殴り書きのメッセージに大きなKという署名だけ。それでも、インクの色は美波がプレゼントした万年筆特有のブルー・グレイだった。とりあえず、使ってくれているんだと思うと、美波は人知れずに苦笑していた。それから、キーランのメッセージと落ち葉をキッチンのボードにピンで留めてしばらく眺めていた。
多分、ああいう風に別々の生活を始めることは、美波とキーランが子ども時代に終止符を打ち、ふたりの関係を変えていくためには必要なことだったのだろう。4ヶ月の会わないでいた期間の後、冬休みを利用してニューヨークに遊びに行った美波が発見したのは、いつも当然のように隣にいたキーランが少年時代から完全に抜け出し、美しい青年に成長していたことであり、自分がそのキーランから独占的に優しい眼差しを享受していることの特権であった。美波の覚醒は数ヶ月後、春休み期間中にニューヨークを訪れた時に決定的となり、東京に戻って新しい学年を始め、同級生たちの春休み中に起こった未熟な性の冒険の話を聞いた時、美波は自分が異性としてキーランを欲していることを強く自覚した。だから、その年の初夏、キーランが突然、東京に戻って来たことが素直に嬉しかったし、キーランのセクシュアルなアプローチを自然に受け入れることができた。いつからキーランに恋していたのかと聞かれると、答える自信がない。5歳の時にセントラルパークで一緒に落ち葉をかき集めた時。12歳の時に自分のベッドルームでアイスクームを食べた時。16歳の時の夏のテラスでの会話。そして、その秋にキーランからのぶっきらぼうなメッセージを読んだ時。思い返してみると、自分の心はいつもキーランに向かっていた。そして、美波は根拠もなく、いつも確信していた。自分の心とキーランの感情は常にどこかで交錯していて、離れている時でも自分たちの間には誰も入り込めないと。誰も、何も、私からキーランの存在を奪うことはできないのだと。
カリフォルニアの海辺の家での休暇の最終日。翌日、美波はエディと東京へ、キーランはパトリックとアリシアとニューヨークへ戻ることになっていた。美波とキーランは親たちの目から逃れて、ちょっとしたプライバシーを確保するため、午後の間ずっと、ヨットで沖を漂っていた。
波に揺られながらゆっくりとセックスをした後泳ぎに行ったキーランは、全身ずぶ濡れになって戻ってくると、美波に体を密着させて横たわった。冷やりとしたキーランの体の感触に、ゆったりと微睡んでいた美波が体を震わせて反応すると、キーランはクスリと笑い、美波のウェストの辺りを指でさすり始めた。
「くすぐったいよ」
堪らずに、美波は目を閉じたまま笑い声を上げる。キーランは美波の首筋に口を寄せた。
「ちょっとは我慢しろよ。明日からはまたしばらくこんなことはできないじゃないか」
「4ヶ月だね。クリスマスまでの4ヶ月間。そしたらまた会えるじゃない。もう受験も終わったし、大学は高校よりも早く休みに入るから、今年は去年よりも長い間ニューヨークにいられるはずだよ」
「それからまた2ヶ月ほどして美波の春休みだろう」
「そう。試験の後は大学の長い春休み。たっぷり2ヶ月ぐらいはあるかな。キーランのイースター休暇とはずれるけどね」
「でも、オレの方は6月に卒業試験が終わったら卒業式だ。だからたっぷり2ヶ月は東京にいられる」
「だったら、今年はたくさん一緒にいられるじゃない」
「そうだね」
美波は首を伸ばして、キーランの肩に顔を埋める。
「その後のことは、後で考えればいいじゃない。それともキーランは私のことを信頼していないの」
「そういう問題じゃないよ」
キーランは穏やかに笑って、美波の腰を抱きしめる。
「オレは美波のことをとても信頼している。でも、美波にいつも側にいて欲しいと思っても、そういうわけにはいかないし、だから、何か物足りないとじゃんじていることも確かなんだ」
「それは私も同じだけれど」
美波は素直に同意していた。
「でも、私はキーランがいない時、キーランが何を考えているんだろうって想像することが楽しくなってきている。たとえば、キーランへの今年のクリスマスプレゼントは何にしようかなとか」
美波の返答にキーランは片方の眉を上げて見せた。
「オレへのクリスマスプレゼント?気が早いよ。まだ8月だよ」
「だからいいんじゃない。あと4ヶ月の間、考えることがあって、きっと退屈しない」
「そしてオレはその間、美波が今年はどんな突拍子もないものをプレゼントに選んだか想像しなければいけないから退屈しない」
「そういうこと」
美波が確信をもって頷くと、キーランは明るい笑い声を立てた。
「お前、いつもクリスマス直前にしか現れないトロいサンタクロースに、オレが実はどんなプレゼントを期待しているのか知っているんだろう」
美波は寝返りを打ち、仰向けになると、水を滴らせるキーランの長い髪に手を絡め、ゆっくりとキスを始めた。
「時々は知っているんじゃないかなとは思っている。でも、これまでのところ、クリスマスの朝までにはキーランの欲しいプレゼントは届いているでしょう」
「これまでのところはね」
耳元で囁く美波に釣り込まれたように、キーランが微笑む。まぶしさを感じて、美波は目を細めた。
「確かに、キーランが大学を卒業したら、今までみたいに行ったり来たりはできないかもしれないね。仕事を持つようになったら、それなりに忙しくなるだろうし。卒業後、キーランが何をするかはわからないけれど」
「ちゃんと決まったら教えてやるよ」
「相変わらず秘密主義なんだ」
美波の下半身の方へ愛撫する手をゆっくりと広げながら、キーランは覆いかぶさるように美波を包み込む。微かに塩辛い腕の中で、美波は少しずつ体の力を抜いていく。
「そうでもないよ」
キーランの上気した体に感覚を圧倒され、美波はキーランの声を意識の底で受けとめる。
「お前だってよく知っているだろう。オレは、いつでもお前がオレのところに戻って来るのを待っているし、お前がどこにいようが都合がつき次第、オレはお前に会いに行く。そして、どういうわけか、お前と会わなくなるなんてこと、一度も考えたことがない。要するに、オレはどうしようもない程、お前に結びつけられていて、今ではそのことを誰に対しても隠してはいない。あまりにも当たり前のことなんで、ことばにして説明しないだけなんだ」
そういうキーランの囁く声を聞きながら、美波は確実に登りつめていっていた。
突然、オレンジ色の閃光が差し込み、美波はゆっくりと目を開けた。いつの間にか、眠りこんで、夢を見ていたのだろうけれど、キーランの体の感触が、まだ、体のそこここに感じられるようで、思わず首元に手を当てる。もう一方の手が手錠で引っ張られ、それで、美波は一挙に現実に引き戻される。
ここはカリフォルニアの海辺の家ではない。美波はキーランとではなく、思い通りにいかない場合は殺すと言っている男たちと一緒にいる。今、美波とキーランを結ぶのは、エディがくれた小指の指輪だけで、それさえも、ちゃんと機能しているのかどうか確信がない。キーランは自分が戻ることを待っていてくれるのだろうか。それとも、何とか美波のことを探し出し、会いに来てくれるのだろうか。
あの時、キーランが言ったように、美波もまた、キーランと二度と会うことができなくなる状況など考えたこともなかった。あまりにも当たり前で、きちんとことばにして表現したことがなかったけれど、キーランと自分はどうしようもない程に結びついていて、お互いに相手がいなくなることなど、想像することができない。
だとすれば、美波が今この瞬間しなければならないことは、何としても生き延びて、キーランの元へ戻ること。それ以外に、子どもの時から惜しみなく愛情を与えてくれたキーランの気持ちと信頼に応える方法があるのだろうか。
ガラス戸越しには、雲ひとつ無い、見事な夜明けが広がっていた。大きな太陽の片鱗が水平線から覗き、穏やかな水面を明るい色に染め替えている。美波はよく考える前に立ち上がると、ガラス戸を開け、裸足のままコンクリートの船着場を歩き出した。ただ、日の出をじっくりと見ておきたかった。
「おい。何しているんだ。止まれ」
興奮した鋭い声がした。振り向くと、まだ少年のような若い男が、自分に対して拳銃を向けていた。美波は真っ直ぐに男を見返した。
「あなたこそ、何をしているの」
若い男は当惑したように顔を顰めた。拳銃を構える手が、数度震える。急に興味がなくなり、美波はもう一度、海の方へ向き直った。
「もういいよ、石田。お嬢さんはちょっとした運動のために散歩が必要だったんだ」
騒ぎを聞きつけてきたのだろう。近藤が若い男の肩に背後から触り、拳銃を下ろさせる。それから、美波の腕を掴んだ。
「あんたも、もういいだろう。中に戻ろう。風邪を引くぞ」
「とてもきれいな夜明けだったから、水際まで行ってみたかったの」
水平線に視線を向けたまま、美波が無感情にそう言うと、近藤は朝日の方へ、眩しそうに目を向けた。
「ああ、確かにそうだな。日の出なんて、随分と久しぶりだ」
近藤は、暫くの間、美波につき合うかのように暁の海を見ていた。この男、実はそんなに嫌なヤツではないのかもしれないと、美波はふと思いつく。どこかで道を違えてしまっただけで、本当は別の生き方を願っていたのかもしれない。そんな美波の思考を断ち切るように、近藤は美波の腕を引っ張った。
「あんたがウロウロしていると、妙に興奮するバカも出てくる。部屋の中へそろそろ戻った方が良い」
美波は頷いて、踵を返した。晩秋の控えめな太陽は、今や完全に水面上にあり、世界は既にその鮮やかな色を取り戻していた。新しい1日の始まりだった。美波は突然のように凍てつくような寒さを意識して、体をブルッと振るわせていた。