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第6章

翌日病院に出ると、やっぱり休日勤務となっていた看護師の中西に、先生、警察なんかに付きまとわれて災難でしたねと言われた。他のスタッフも部屋が荒らされたことや病院に警察が押しかけてきたことの見舞いを述べたりしたが、エディのことを口にした者はいなかった。きっと、浜口部長が自分ひとりの胸のうちに留めておいてくれたのだろう。ここ数日ドラマチックなできごとが続いたので、エディが自分の父親であることがバレて、騒がしい思いをせずに済んだことに、美波はとても感謝していた。

引継ぎの連絡の間に須藤の検査がすべて終了し、所見が済んだことを知った。進行した肺がん。周囲の臓器への転移あり。要するに、彼の命はあまり長くないということだ。悪いことをしてきたヤクザでも、がんには勝てない。告知は佐々木先生がするそうですからと、夜勤明けで眠たそうな顔をした数年先輩の医師に言われ、美波は曖昧に微笑んだ。

実際、美波の勤務する病院は地域の休日救急医療指定病院だったので、引継ぎを完全に終了する前に、2台の救急車が到着し、美波は慌しく治療室へと繰り出さなければならなかった。救急車からは見たところ、風邪をこじらせて脱水症状を起こしたらしい5歳ぐらいの男児と、足の指を車に轢かれてしまったという可哀想な大学生が運び出されてきた。男の子の方は内科の医師にまかせ、美波はどうやったら足の指だけ車に轢かれるようなことが起こるのだろうという疑問を封印して救急隊員の説明を聞いた上で、大学生の治療を始めた。

その日は、結局、そんな調子のまま1日中、救急患者から別の救急患者に移動して過ごした。午後8時ごろにその夜の救急部当直の医師がやっと現れ、入院が必要な患者や様子見のため治療室に待機している患者の引継ぎをすると、美波はその日3杯目のコーヒーを口にした。気がついてみたら、昼食もきちんと終えてなかった。さすがに、眼が回るはずである。疲れた体を引きずってドクターラウンジに戻ると、キーランがソファの片隅に座り、眠り込んでいた。確かに、この数日、神経をすり減らすようなできごとが続いていたので、さすがのキーランも疲れたのだろう。美波が横に腰を降ろすと、キーランは緩慢に眼を覚ました。

「今日は遅かったんだな」

あくびをしながら、少し間の抜けた声で言う。こういう時のキーランはまだ子どものように振舞う。

「今日はすごく立て込んでいだの。まるで、東京中の人が風邪を引いたり、事故にあったりしたみたいだった」

「まさか。大げさだな、そんなわけがないだろう」

「まぁ、これだけ人がいればね、そんなことはないのだろうけれど。でも、忙しかったせいで、余計なことを考えずに済んでよかったかな」

「ケガの功名ってやつ」

昔、ニューヨークの日本語教師のところへふたりで通っていた頃から、キーランはどういうわけだか、ことわざを覚えることに熱中していた。それで、時々、おかしな時におかしなことわざを使う。美波が笑うと、キーランはクシャリと美波の髪を撫ぜ、立ち上がった。

「とにかく、もう開放されたんだろう。帰ろうぜ。明日は朝出勤して、それから夜勤だろう。お前も少し寝とかないと、そのうち倒れるぞ」

「そうだね。お腹も空いたし。お昼もちゃんと食べていないんだ」

キーランにつかまって立ち上がると、美波は着替えをするために、緩慢にロッカールームに向かった。キーランは数歩遅れて、美波の後について来ていた。のろのろと白衣を脱ぎ、聴診器と一緒にしまうため、自分用のロッカーを開ける。そして、美波は硬直した。

「どうした?」

様子がおかしいことに気づいたのか、キーランは美波のロッカーを覗いた。その瞬間、大きな音をさせて唾を呑み込み、そのままじっとロッカーを凝視する。

「守衛を呼んでくるよ。お前はそこにじっとしていろよ」

随分と長い間、ロッカーの様子を観察してから、キーランは美波の肩に手を置いて言った。美波は黙って頷いた。

  ロッカーには回転式の鍵が付いているが、第三者がこじ開けるのはそれほど難しいことではない。これまでにも、ロッカールームで窃盗被害が数度あったとは聞いている。とはいえ、美波のロッカーの様子は、そうした単純な犯罪とは趣が異なっていた。コートなどをかけるポールから下がっていたのは、赤ペンキをかけられた空気で膨らんだダッチワイフだった。首の周りにロープが掛けられ、絞首刑にされたようにも見える。ダッチワイフがロッカーの中で少し揺れたのだろう。美波の黒皮のハーフコートやショルダーバッグにも赤いペンキがたっぷり付いていた。

  駆けつけてきた守衛は、ロッカーの様子を見ると、すぐに警察を呼んだ。それで、美波はたった1日をおいただけで警察の人間と再び話をするハメになった。もっとも、新宿署から来た若い刑事は、先日の原宿署の木原という刑事とくらべると格段に紳士的で、美波とキーランから事情を聞くと、ロッカーの中のものを証拠品としてかき集め、帰って行った。途中で様子を見に来た看護師の一人が、川嶋先生、ストーカーにでも狙われているんじゃないですかと、深刻そうに聞いた。それで、美波は、寺崎が見せてくれた大量の隠し撮りされた写真のことを思い出し、身を震わせた。

  キーランが会社に届けられていた美波の車に乗って来ていたおかげで、助手席に深く身を沈めたままの状態で青山のマンションに戻ることができた。相変わらず粗雑なキーランの運転も今日はあまり気にならなかった。地下駐車場に車を停めると、キーランはごく自然に身を乗り出して、美波に長いキスをする。

「当然、お父さんに何があったかは報告したんだよね」

キーランが唇を離したのを見計らって、美波は聞いた。

「遅くなるって言わなければならなかったからね。それに、今はあんまり隠し事をしている時じゃない」

美波が大きなため息を吐くと、キーランは美波の上腕部を撫ぜた。

「大丈夫だよ。あの人だって、お前を怖がらせないために何事もなかったように振舞うさ。もっとも賭けてもいいけれど、玄関の鍵を回した途端、3人揃って飛び出してくるんだろうけどな」

「だから、私はいつも大丈夫って言わなければいけない。それはそれでけっこう大変なんだけどな」

「確かに、お前たちって、本当に因果な親子だよな」

フンと鼻を鳴らして、キーランは自分に言い聞かせるように言う。

「とにかく、少し元気を出せよ。オレだっていつも手伝ってやっているだろう」

しばらく美波の顔を観察するように眺めてから、キーランは美波の肩を叩いて、車を降りた。それから、助手席の方へ回り、美波のためにドアを開ける。

「ほら、お姫様。王様が待っているから、行こう」

「意地悪」

美波は鼻の上に皺を寄せて、キーランの手を取り、車を降りた。


  キーランが予想した通り、玄関の鍵を開けた途端、確かに3人揃って飛び出してきた。美波とキーランの顔を見ると、曖昧な笑顔を浮かべてお帰りと言う。その様子が、何となく可笑しくもあり、結局、美波は無理なく笑うことができた。

「ねぇ、まだご飯残っているかな。私、お昼もちゃんと食べてないの。だからお腹空いちゃった。キーランもそうでしょう」

「確かに、空腹で死にそうで、あんまり料理する気にはなれない」

「ふたりとも、帰る早々、食事の心配?私があなたたちを空腹のままにしておくわけがないでしょう」

アリシアは顔を綻ばせると、美波を抱擁し、頭を数度撫ぜた。

「実は、僕らもまだちゃんと夕食を食べていないんだ。僕は財界の集まりからやっと解放されて、ほんの少し前に家に戻ったばかりなんだ」

「オレとアリーはお前たちを待っていようかなんて話しているうちに、時間が経ってしまっていた」

いつになく歯切れ悪く、エディとパトリックが言った。

「それじゃ、待ちに待った夕食にしましょう。いま暖めるから、ふたりともシャワーを浴びていらっしゃい。特に、美波は念入りに洗うのね」

「どうして?」

「あなた、薬なんだろうけれど、よくわからないにおいがするわ」

「ああ、アリーはまだ慣れていないんだね。僕も最初は閉口した。特に、学生時代に解剖実習ばかりしていたころはひどい臭いがしたな」

エディが可笑しそうに笑い始め、アリシアとパトリックがその笑いに加わる。

「失礼ね」

美波は笑い合う3人の脇を通り過ぎて、浴室に向かった。心の中で、とりあえず、第一関門突破と思う。


  今日の最初の患者は、足の指を車に轢かれた大学生だったと告げると、食卓を囲む全員が揃って奇妙な顔をして、真意を測るように美波の顔を見返した。

「どうやったら、そんなことになるんだよ」

そう聞いたキーランの声は、微かに笑い声で揺れていた。

「それがね、聞いた話を総合すると、一緒に病院に来た友達と道路で話をしていたらしいの。そこへ車が通りかかって、道を聞かれたらしいのね。それで、道順を説明してあげたら、運転手がありがとうって言って、窓を閉めて車を発進させたんだけど、その患者さんの足の指に乗っちゃったんですって。車の方はまったく気がつかずにそのままいっちゃったんだけど、その患者さんは、あっ、車が自分の足の上にあるって思って、その次の瞬間から痛くて、痛くて仕方がなかったんですって。足の指の骨が全部折れていたもの、当然よね。一本の指はけっこう潰れていて、爪もはがれていたの。あれは治るのにけっこう時間がかかるはずよ」

そこまで言うと、キーランとエディがほぼ同時に、何気なくフォークを置いて、ワインを口にした。

「どうしたの。気分を悪くした」

美波がびっくりしたふたりの方を見ると、エディは苦笑をした。

「君は毎日そういうものを見ていて慣れているんだろうけどね。僕らにはあまり馴染みのある世界じゃないんだ」

「だって、お父さんだって、キーランだって料理するじゃない。お肉とか切ったりするでしょう。今日はお魚のパイだから残念ね。これで血の滴るステーキだったりすると、もっと連想がしやすいことを教えてあげられるんだけどな」

多少の皮肉を込めて美波が言うと、パトリックがそいつは面白しろそうだと笑い始めた。

「お前もおかしなヤツだよな。だいたいにおいて神経が細くできているくせに、血と肉に関することにだけは妙に度胸がある」

かなり呆れた声で、キーランが言う。

「訓練のたまもの」

美波が得意げに答えて見せると、アリシアが笑いながら、軽く窘める。

「それでも、テーブルマナーとして、そういうことはあまり食事中には言わない方がいいわよ。私の同僚のパートナーも外科医だけど、ディナーパーティで手術なんかにことを突然、話し始めるのが原因で離婚寸前にまでいったことがあるって聞いたわ」

「それは単なる口実だろう。オレにも医者のパートナーと別れた同僚が何人もいるけれど、結局、医者と結婚していると、色々不都合なことがあるから、どうでもいいことでもケンカの種になるんだ」

「不都合なことって?」

エディが心配そうにパトリックに尋ねる。

「そりゃ、勤務時間が不規則だとか、休日出勤をしなければいけないとか、深夜勤務があるとか、なかなか家に帰れなかったりとか、約束をしてもいつも遅刻したりするとか」

パトリックがそこまで言うと、エディがため息を吐いて、もういいよと言った。

「それじゃまるで美波だ」

「まるでじゃなくて、美波のことを言っているとしか思えないね」

キーランが付け加える。

「なによ、ふたりとも。私は真面目に働いているだけです」

「だから、余計、君の将来を気にするんだよ。その」

エディは何かを言いかけて、それを慌てて飲み込み、拳を口に当てる。

「男性の方だけに寛容であることを求めすぎるもの酷なんじゃないのかな。フィーだってちゃんと立派な仕事を持っていたけれど、君や僕と過ごす時間を最初に確保するようにいつも努力していたし、アリーだって、家族のことを疎かにはしないだろう」

「エディがそういうことを言うと、説得力があるわね。パットが言っても駄目だけれど」

アリシアは穏やかに笑った。それから、テーブルの上に投げ出されていた美波の手を握る。

「ねぇ、ハニー。バランスを取るのは確かに難しいけれど、あなたの選んだ大事なパートナーと一緒なら、かならずふたりで何とかやっていけそうなやり方を見つけることができるはずよ。そうでしょう、キーラン坊や」

アリシアがキーランの方を向いて同意を求めると、キーランはワイングラスに口を当てながらあらぬ方向を向いた。アリシアに子ども扱いされた時の常として、機嫌が良くなかった。

「知らないね」

美波はそんなキーランの様子を少しだけ注意して見てから、話題を変えようとパトリックの方へ向いた。

「それにしても、パットおじさんはどんなに際どい話をしてもいつも平気ね」

「まぁね。さすがに人間の血や肉はあまり見たことがないけれど、昔、両親の友人の肉屋のところに手伝いに行かされたから、動物の解体は何度も見たことがあるよ」

「あら、あなた、そんなことは初めて聞いたわ」

「そうだったかな。大したことじゃないよ。子ども時代の思い出のひとつだってだけで。オレはエディやキーランみたいにお坊ちゃん育ちじゃないからね」

「自分が育てておいて、お坊ちゃん育ちはないだろう」

キーランはますますむくれたようだった。

「事実は事実だ。オレからすれば、お前の悪さなんてたかが知れている。せいぜい、髪の毛を伸ばして、歌を歌って、女どもにチヤホヤされていたぐらいのことだろう」

「自分がモテなかったからって人に当たるなよな」

「オレは十分にモテたよ。その証拠に、アリーみたいな女性に早々に捕まって、結婚してお前が生まれただろう?お前こそ、来年には30になるっていうのに、その年になっても誰もつかまえられないじゃないか」

パトリックが断言するように言うと、キーランは押し黙って、ワインを飲み干した。あまりよくない兆候だ。

「君は本当に素直じゃないね、パトリック。キーランがあまり悪いこともせず、大人になったって一番に喜んだのは、君じゃないか」

「そうよ。それに、だいたい私から言わせれば女性問題に関してあなたたち3人は誰も何も言う資格はないわよ。キーランが女の子に対してカッコつけたがる傾向があることは否定できないし、パット、あなただって、この間、マイク・ギャンブルが29歳の女性と3度目の結婚をしたって聞いて、エディもマイクも若い女をとっかえひっかえしていていいなって思わず言っていたじゃない」

「アリー!」

アリシアがそう涼しげに言うのを聞いて、パトリックとエディが同時に叫んだ。ふたりともいつになく居心地が悪そうにしている。その光景を見て、美波は思わず笑い始めてしまう。

「なんだ、結局、キーランはパットおじさんとお父さんの悪いところを受け継いでいるだけなんじゃない」

キーランは、そんな美波のことを呆れたような顔で見る。

「それはお前には言われたくないよ。お前だって、エディの浮世離れしたところと、パットの妙に無神経なところはふたりにそっくりじゃないか」

美波は笑うのを止め、キーランを見返した。キーランの口調はかなり真剣であった。

「よしなさい、ふたりとも。要するに、あなたたちふたりは、こっちが困るぐらいに親に似ているっていうことよ。キーランの口の悪いところはパットだけじゃなくてフィーにそっくりだし、美波の極端に世間ずれしていないで素直なところは、多分、エディだけではなく私にも似てしまったのよ」

言いながら、アリシアは、再び、手を伸ばして美波の手の甲を撫ぜた。

「結局ね、ふたりは私たちにとって自慢の子どもたちなの。パットもエディも何だかんだ言って、ふたりのことをとても誇りに思っているんだから」

アリシアはいつもの抱擁力がある笑顔を振りまきながら、そう断言した。それで、その場の誰もが何となく納得してしまう。とどのつまり、最終的なコントロールを行使するのはいつもアリシアで、自分たち子ども役だけではなく、エディもパトリックもアリシアの掌の上で遊ばされているだけなのかもしれないと、美波は思う。


  食事が終わると既に12時近かったので、美波は早々に自室へと引き上げた。ひとりになって寝巻きに着替え始めると、急にまた不安な感情が戻ってきて、吐き気に圧倒されそうになる。どうにかして落ち着くために、窓際の椅子に座って、本を読みながら煙草を2本吸った。そのうちに居間のほうが静かになり、しばらくしてキーランがミネラル・ウォーターのボトルを持ってこっそりと現れた。キーランの顔を見るなり、美波は椅子を蹴って立ち上がり、首にかじりついていた。それから、狭いセミ・ダブルのベッドの上で、キーランとお互いの体が密着した状態で横になっているうちに、美波はやっと浅い眠りに落ちていった。

  結局、その夜は、寝たり寝なかったりの繰り返しだった。美波の睡眠パターンに付き合ったのか、あるいは、キーランも同じような精神状況だったのか、午前4時を過ぎた頃、何となくキーランと眼が合って、どちらからというわけでもなくセックスを始めた。暫くの間、キーランの腕の中でリラックスしていると、体の奥底に隠れていた睡魔が飛び出してきたように眠くなった。美波はキーランが満足して、荒い息のまま美波に覆いかぶさるように横たわるのを見届けると、眼を硬く閉じた。キーランの息遣いと体臭を感じながら、つかの間の安息が訪れた。

  キーランが美波の頬にキスをし、突然ベッドを出て行ったのは、きっかり5時45分だった。ガウンを羽織ると、美波はキッチンへと向かい、コーヒー・メーカーのスイッチを入れてから、キーランと入れ違いにシャワーを浴びた。体の芯に鉛を詰め込んだように判然としない気分で、既に疲れ切っているという感覚で一杯だったが、その日は夜勤に当たっていたし、午後からは単純なヘルニアの手術ではあるとは言え、執刀医を勤めることになっていたので、仕事を休むことなど考えられなかった。美波はほとんど絶望的な気分でとっておきのバラのシャワージェルを使って、気分を奮い立たせようとした。研修医を始めてから、体力的な限界を試されたことは一度や二度のことではなかったが、今回は体力だけではなく精神的にまいってきていることを自分でも意識せざるをえなかった。

  自室に戻って、週末に買ったパンツスーツに着替え、キッチンに出て行くと、キーランは既にワイシャツ姿で、コーヒーとトーストの朝食をとっていた。美波の姿を認めると、コーヒーを美波用のマグカップに注いでくれ、パンくずのついた口で唇に軽くキスをする。笑いながら、あまり寝られなかったでしょうと聞くと、平気を装った風にそんなことないよと答えた。それでも、やっぱり、いつもの溌剌とした様子と比べると何となく疲れているように見えた。他の3人もそれから程なくして起き出してきて、珍しく皆黙りがちなまま、朝食を食べた。マグカップに2杯分のコーヒーを飲んでやっと少しは覚醒した気分になり、そうやって7時半になるまでには家に残るアリシア以外の皆が示し合わせたように出かける支度を完了していた。

  エディとパトリックとは地下駐車場で別れた。来客用の駐車スペースまでついて来ると、エディは美波をしっかりと抱擁し、気をつけるんだよと頬にキスをした。美波が大丈夫よと微笑むと、エディは困ったような笑顔を見せる。多分、エディ自身も自分自身の不安を持て余しているのだろう。

  病院まではやっぱりキーランが運転した。救急車の横に車を停め、慌しく別れのキスをすると、キーランはあとで様子を見に来るよと言い残し、赤坂方面に車を発進させた。美波はその場に立ち竦んで、何となく慣れ親しんだ自分の車が視界から消えてしまうまで見送った。


  月曜日の病院は、いつもより騒がしかった。更衣室で着替えを済ませ、ドクターラウンジに行くと、吉岡が待っていましたとばかりに美波の横に来て、囁いた。

「大変ですよ。須藤さんが昨日の夜、消えてしまったみたいなんです」

「消えたってどういうこと?」

コーヒーに口をつけながら、眉を顰めて聞く美波に、吉岡はさらに声を潜めて応える。

「ことばそのままですよ。幽霊みたいに消えてしまったそうです。それで、昨夜、病棟の当直だった田端と森野さんはさっきから外科医長の部屋に呼ばれてこってり絞られています。今朝から警察も加わって捜しているんですけれど、完全に姿を消してしまったみたいです」

「なぁに、また、警察が呼ばれたの?」

美波がウンザリしたように言うと、吉岡は何かを思い出したかのように頭に手をやった。

「そう言えばさっき看護師連中に聞きましたけれど、川嶋先生、昨日、また災難にあったみたいですね」

「もう噂になっているの?気が重いな」

「そりゃ、話からすると相手はかなりマジなストーカーみたいじゃないですか。美女とストーカーの組み合わせには皆、興奮しますよ」

吉岡の言い方に、美波は黙って頭を抱えた。他人には話を聞いて興奮するぐらいのことなのだろうけれど、当事者としては正直なところ心配で堪らない。

「川嶋先生、ちょうどよかった。進藤外科医長のところまで来てくれないか」

美波が吉岡にどう話していいものか思案していると、浜松救急部長がドクターラウンジに顔を出した。美波は黙って頷いて、マグカップを流しで軽く漱ぐ。ふと気がつくと、吉岡が大判の封筒を持って、隣に立っていた。

「これ、先生がお休みの間に届いていたんです。大事な書類が入っているのかと思って、取って置きました」

「ありがとう」

差し出し人は菜穂だった。美波の行動パターンをよく知る菜穂は、仕事場に送ったほうが早いと踏んだのだろう。封筒を開けてみると、新聞記事のコピーが大量に入っていた。美波はさっと確認すると、封筒を小脇に抱えて、吉岡にまた後でと手を振り、ドクターラウンジを後にした。


  進藤外科医長の部屋のドアをノックすると、うなだれた田端と森野がドアを開けて部屋から出てきた。ふたりに軽く会釈をして、部屋に入ると、執務机の向うで進藤外科医長は難しい顔をして美波を迎えた。そんな進藤医長の後方には、浜松救急部長や外科婦長がやっぱり不安げな表情をして控えていた。入院中の患者が消えたとなれば、病院では管理上の責任が問われることになる。美波は事態の重要さを改めて痛感した。

「川嶋先生、須藤さんが昨夜、行方不明になったという話は聞いたのかな」

進藤医長は単刀直入に切り出した。

「はい。さっき、吉岡先生から聞きました」

美波が答えると、進藤医長は2、3度大きく頷く。

「君に来て貰ったのは、昨日の勤務状況について確認するためなんだ。昨日の救急部の当番医は君だったね」

「はい」

「見たところ、昨日は随分と忙しかったみたいだね」

左手でカルテの束を軽く叩きながら進藤医長が聞く。

「そうですね。結局、夜まで患者さんが途切れる時がありませんでしたから」

「記録によると、病棟の担当医だった森野君に数度、応援を頼んでいるようだね。でも、これでは君が病棟に回る余裕はなかったと理解していいかな」

「はい。昨日は一日中、救急部に詰めていました」

「それでは須藤さんの担当医として須藤さんに接触することもなかったわけだね」

「引継ぎの際に須藤さんの所見が済んでいたことは聞いたのですが、告知は佐々木先生がおやりになるとのことでしたので、私の方では昨日は特に須藤さんの状態をチェックするということはしませんでした。病棟から要請もありませんでした」

進藤医長は浜松部長の方を見て、それから美波に対して頷いて見せた。

「ありがとう、川嶋先生。こちらでもカルテをチェックした限りだいたいそんなところだろうと思っていたのだけれど、一応本人に確認する必要があったものだから、君に来てもらったんだ」

進藤医長は無理して作ったような笑顔を美波に向けた。美波はそれで話が終わったものだと思い、微かな笑顔を作ってから踵を返した。

「そういえば、川嶋先生」

一礼して部屋を出ようとしたところ、突然、浜松部長が口を挟んだ。

「昨夜、君のロッカーが荒らされたんだって?」

美波はどう答えたらいいものか、数秒間、思案してから頷いた。

「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「とても変質的なやり方だったって聞いているけれど」

「確かにあまり気分のいいものではありませんでした」

赤ペンキをかけられたダッチワイフが、一瞬、美波の頭を過ぎった。正直言って、どういうことがあったのか、この場で具体的に説明するのは躊躇われた。

「何か心当たりはあるのかな。その、君の私生活に立ち入るつもりはないのだけれど、浜松先生から聞いたところによると、川嶋真隆さんから君のお父さんとして謝罪の電話を頂いたらしいね」

進藤医長が遠慮がちに聞いた。美波は素直に頭を下げた。

「父のことは結果的に、先生がたに隠していたようなことになって申し訳ありませんでした。色々と事情がありまして、父の最初の結婚は世間には秘密になっているので、私のことが表に出ることはこれまでほとんどなかったものですし、私も黙っていることが習慣となってしまっていたので、ついご報告が滞っていました」

「そのことは気にする必要はないよ。どこの家にも込み入った事情のひとつやふたつはあるはずだからね」

今度はずっと自然な微笑を浮かべて、進藤外科医長は言った。

「ただ、浜松先生の話では、ここのところ君の身辺でおかしなことが起こるのは、川嶋グループの事業上の問題と関係していることを川嶋さん自身がほのめかしていらっしゃったようだね」

美波は小さく頭を振った。

「私はあまり詳しい話は聞いていないんです。経済がこんな時期ですから、色々な問題が会社ではあるようなんですが、私は部外者ですから会社の事情には疎くて、そんな私に対して父が会社の詳しい話をすることは滅多にありません」

「まぁ、我々医者にはあまり得意な領域ではないのかもしれないね」

歯切れ悪く答える美波に、浜松部長は軽く笑って応えてみせた。進藤医長もつられたように笑い声を立てる。

「そうだね。川嶋さんには、今度、是非、病院の経営についての相談に乗っていただけるとありがたいと伝えてくれないかな。川嶋さんのアドバイスなら事務長も喜ぶ」

進藤外科医長は冗談めかした調子でそんなことを言った。きっと、ごまかしてしまった後ろめたさを隠しきれない美波の気持ちを慮ってくれてのことだろう。そんな進藤外科医長と浜松部長に対し、特に他にできることもなく、笑顔でわかりましたと言って、美波は再度、深く頭を下げ、部屋を出た。ドアを閉めた途端、自然とため息が漏れた。関谷とエディの間の問題や須藤との関係について説明しなかったことが重い鉛のように心の中に沈んでいった。とはいえ、一旦説明を始めれば長くなってしまうだろうし、美波自身、事情を完全に把握できているわけではないので、説明しきれる自信もなかった。こんな問題、早く片がついてしまえばいいのに。こみ上げてくるイライラを抑えながら、美波は朝に診療のため、外来の診療室に向かった。


  10人程度の患者を立て続けに診察した後、突然、寺崎が大きなビニール袋を手に抱えて診療室に入ってきた。美波は驚いて瞬きをした。

「どうしたの。病気?」

「まさか。昨日のロッカー荒らしの件、ジュク署からこっちに連絡があったんだ。昨日、証拠品として預かったモノ、持って来たよ。財布なんかが混じっていたから困っているんじゃないかと思ったんだ」

「わざわざありがとう。何か余計なめんどうをかけちゃったみたいで悪いな」

「そんなことないよ。本庁に戻る途中で寄ったんだ」

寺崎は手にしていたビニール袋を美波に渡し、患者用のスチール椅子に腰を降ろした。透明な袋越しには、コートやバッグについてしまった鮮やかな赤のペンキが見て取れ、今日は既に数え切れないほど吐いてしまったため息が、再び美波の口から飛び出してしまう。

「その様子じゃ、コートとバッグは捨てるしかないね」

「コートの方はけっこう気に入っていたんだけどな。でも、まぁ盗まれたものはなさそうだし、原宿の部屋のことの後では被害は少なかったって思うしかないよね」

美波が無造作にビニール袋を自分の背後に置くと、寺崎は曖昧な笑顔を見せた。

「川嶋さん、実はちょっと聞きたいことがあるんだ」

膝の上に投げ出されていた両手で自分の指を弄びながら、寺崎は俯いたまま聞いた。いつも単刀直入な寺崎にしては、珍しく躊躇っていた。

「病院の職員用のロッカーって、どうやって割り当てるのかな」

「私なんかのレジデントや研修医は来た順よ。初めて病院に来た日にロッカールームに連れて行かれて、ここが空いていますよって言われるだけ」

「ロッカーの多くには名札もついていないんだよね。おまけに、割り当て表のような書類を作っているわけではなくて、使用はあくまでもレジデントと研修医の自由裁量で決める。だから、誰がどのロッカーを使っているかは、実は、管理職でも余り把握していない。この理解で正しいのかな」

「そうね」

「それで川嶋さんのロッカーには名札がついていなかった」

「前はついていたんだけどね、取れちゃったの。半年ぐらい前だったかな」

美波は何気なく答え、それから何となく寺崎の言いたいことが思い当たった。

「それじゃ、寺崎君は、私のロッカーにイタズラをしたのは、病院の事情に詳しい内部の人間だって思うわけ?」

寺崎は大きく頷いた。

「だって、それしか考えられないだろう?この大きな病院の中で、職員用のロッカールームを探して、沢山並ぶロッカーの中から割り当て表も無く、名札もついていない川嶋さんのロッカーを見つけるのは一仕事だよ。実は川嶋さんに張り付いている私服刑事がロッカールームの出入りを調べたんだけどね、昨日は日曜日だったとは言っても、あの部屋への人の出入りはけっこうあって、川嶋さんとキーランさんがあの部屋に行く前に犯行に使えそうな時間はそう長くないんだ。最長で45分、短いときには5分ぐらいの間隔しかない。そんな短時間の間に、ロッカーの鍵を開けてイタヅラをしたんだから、誰か川嶋さんのロッカーの所在を知っている人間が手引きしたんだと考えるのが合理的だろう」

「でも、いったい誰が」

美波は次々に病院のスタッフの顔を思い浮かべてみたが、美波のロッカーにあれほど趣味の悪いいたずらをするような人間がいるようには思えなかった。寺崎は片手を天井に向け、首を竦めて見せた。

「それはこれから調べるよ。とにかく、病院内部の人間が関わっている可能性が出てきた時点で、とりあえず川嶋さんには警告しておいたほうが良いと思って病院回りで帰ることにしたんだ。もっとも、来てみて大正解だったよ。須藤が病院から消えて大騒ぎになっていたなんて、オレも知らなかった。正直言って、アイツが川嶋さんの周りから消えてくれて、こっちとしてはとても助かるけれど」

「病院では責任問題よ。一応、あれでも重病人なんだから」

美波にも寺崎の言うことは十分にわかったのだが、おどけた調子で言ってみせる。寺崎は小さく笑って立ち上がった。一旦、歩き出しかけて、それからゆっくりと美波の方を振り返る。今朝の寺崎は、随分と大人っぽく見え、一緒に飲み屋で楽しんでいる時とは別人のようにも見えた。

「帰る前にもう一つ。今日、暁が検察庁に辞表を出したんだ」

「芳賀君が、辞表を出したって、川嶋都市計画との関係で?」

「やっぱり親子で取調べをする側とされる側にいると、色々と余計なことをいうヤツも出てくるだろう。多分、あと数日でそういうことになる。今のところ、アイツの上司が辞表を預かっているけれど、アイツも芳賀さんが逮捕されたら出勤しづらいだろうし、家のことでも忙しくなるだろうから、多分、検察庁に戻ることはないと思うよ」

「そう」

美波は2日前にモード・ビルで見かけた、思いつめた表情の芳賀を思い出していた。物事は確実に進行し、自分だけではなく、多くの人々がその影響を受け、日々の生活の変化を強いられている。

「何だか、芳賀君に悪いな」

「川嶋さんの責任ではないし、それに、川嶋さんだって既に十分に被害は受けているだろう。それでもさ、あと数日でヤマ場を越えるハズだから、それまで辛抱して、すべてが終わったらまた皆で飲もうよ」

寺崎は努めて屈託なく言った。それで、美波も笑って、そうだねと頷いた。そんな風に振舞いながら、心の中では、前のように皆で集まって楽しむ機会などもうないのかもしれないと思案していた。芳賀の父親が逮捕されるようなことになれば、暁もしのぶも傷つき、追い込まれることになる。そして、そうやって芳賀親子を追い込んだのは、結局のところ、エディの美波とフィオナに対する思いであり、その限りで美波は芳賀家やしのぶを愛する寺崎の苦悩とは無関係ではいられない。美波の不安を察知したように、寺崎は寂しげな様子で俯いたが、すぐに顔を上げ、じゃあねと手を上げて診療室を出て行った。ドアを閉める前に、なるべくひとりにはならない方がいいよと、言い残すことは忘れなかった。


  慌しく昼食用のサンドイッチをつまみながら、美波は菜穂が送ってくれた書類封筒の中身にやっと目を通すことができた。新聞記事のコピーがほとんどであったが、日付は1940年代後半にまで遡る。ちょうどエディが生まれた頃だ。旧日本帝国軍の物資横流しを追及する記事の中で、前橋亘の名前が言及されていた。その後、起訴されたという記事がないので、この時は疑惑が出ただけで終わったのだろう。

  その後、前橋は1950年代、60年代と時代が進むに従って、政治家としてのキャリアを順調に築いていったようだった。ただ、前橋が政治家として頭角を現していくにつれて、金銭がらみのスキャンダルが取りざたされることも多くなる。単純な贈収賄から土地取引をめぐる疑惑など、数年に一度の割合で追求されているが、結局、最後には巧くかわしてしまうようで、事件として立件されたことはなかったようだ。

  関谷久夫の名前が前橋との関連で初めて出てくるのは、1960年代の前半であった。東京郊外の団地建設をめぐる利権で川嶋都市計画と前橋のつながりが問題にされ、この時には須藤組の関与も示唆されているが、この問題も深く追求されることがなくうやむやで終わっている。その後も関谷は前橋のビジネス界でのパートナーを務めていたらしく、前橋の政治家としての地位の上昇にあわせて、関谷の財界での地位も高くなっている。1970年代の半ばに前橋が総理大臣になった時には、関谷は前橋のブレーンとして注目をされている。

  前橋・関谷をめぐる最大の政治スキャンダルが起こったのも同時期であった。1976年に川嶋電機がアメリカへの輸出規制に関する違反を続けてきたことが新聞報道によって暴露され、現職の総理大臣であった前橋のこの件への関与が問題となっている。これが数週間前、エディの家で話を聞いた保守党と川嶋グループの癒着の問題なのだろうか。結局、事件は当時、川嶋電機の社長であった宗田英輔と通産省の役人が自殺したことで収束したが、エディが言っていたように宗田の死んだ状況からは不審さが感じられた。宗田の死亡が新聞で伝えられる前日には、当時、川嶋電機常務取締役であったエディが事情聴取を受けたという小さな記事も載せられていた。もちろん、そんなことを美波は覚えてもいなかったし、知りもしなかった。菜穂はその小さな記事を蛍光ペンで囲み、欄外に「けっこう際どかったんだね!」と書き加えていた。美波の手が震えた。

  1980年代後半には時代状況を反映して、土地と株の取引を利用した川嶋グループによる前橋の派閥への利益供与が取り沙汰されている。バブル時代ということもあってか、問題となっていた土地と株の取引にはいかがわしいものも多く、須藤組の名前も再び表に出ていた。最終的には、この時は、川嶋グループの幹部社員が逮捕されていた。逮捕当日の新聞記事は、川嶋グループ社長であるエディが関谷会長に事情を聞いてくださいという素っ気無いコメントを残し、雲隠れしてしまったことを伝えていた。そう言えば、高校2年の6月、ちょうど自分の誕生日の頃に突然のようにエディに誘われて、学校をサボって伊豆の海辺のホテルに1週間ほど滞在したことがある。美波としては、キーランと恋人となる直前にエディと過ごした最後の子供らしい親密な時間で、今でもいい思い出であるのだが、実のところはあの時、エディはマスコミの追求から逃れていたわけである。まったくもって、こういうところはけっこうな父親だ。事件の方は、エディと美波が海辺の休暇を楽しんでいる間に、関谷が押さえ込んだのか、川嶋グループが大きなダメージを受けることなく、下っ端社員の暴走として終わっている。

  結局、戦後の間ずっと、関谷久夫と前橋亘は協力関係にあったようだ。このことはつまり、関谷が牽引してきた川嶋グループは、前橋という政治家が君臨してきた戦後の政治構造の中で成長してきたということを意味している。そして、エディも自分も、そうした日本社会の大きな流れのようなものに否応もなく巻き込まれてきたのだろう。逆に言えば、今、エディがやろうとしているのは、そうした既存の構造からグループ自体を引き離した上で、新しく作り直すことであり、だからこそ、反対する勢力の抵抗も激しいのだろう。それにしてもと、美波は考える。前橋にからんだ主要なスキャンダルが起こる時期が、エディの人生の転機と重なっているのが気にかかる。最初の物資横流し事件はエディが生まれた頃であり、エドワードという名前は、直前に亡くなった祖父川嶋隆の弟、つまりエディの叔父にちなんで付けられたと美波は聞いている。次の1960年代前半の団地をめぐる贈収賄疑惑は、エディの両親が交通事故で突然、死亡したのと同時期に起こっている。そして、最終的には宗田や母フィオナが死んだ1976年の事件。言ってみれば、前橋関連の事件が表に出る度に、エディは身近な人間を失っている。これは何かの偶然だろうか。

  美波は大きなため息を吐き、コピーの束を書類に戻すと、礼を言うために菜穂の携帯の番号を押した。聞こえてきたのは菜穂の明るい声のメッセージだった。多分、仕事中で携帯のスイッチを切っているのだろう。これから手術だから終わったらまた電話するという簡単なメッセージを残して電話を切り、美波は手術着に着替えるためにロッカールームに向かった。


  ヘルニアの手術は予想していた以上に単純なものだったので、予定していたよりもずっと早く美波は手術室から開放された。外科医長との回診が始まるまで30分ぐらいの余裕があるので、これならドクターラウンジでくつろいでコーヒーを飲みながら来週の勉強会の準備をすることができる。ここ数日、憂鬱なことが続いていたので、美波はささやかな幸運に少し気分を良くして、軽く鼻歌を歌いながら廊下をロッカールームの方へ小走りに向かった。

  その男を目にした瞬間、どこかで見た顔だと思った。日本人にしてはとても背が高く、仕立ての良いスーツを着ていたが、それにしてはボタンがかけられていないジャケットのサイズが少し大きめであるような印象を受けた。美波はちらっと男の顔を見ただけで通り過ぎようとした。特に意識したわけではないが、すれ違った時に、スーツの内側のタグが目に入った。キーランがよく着ているニューヨークのブランドのロゴで、その瞬間、美波は原宿の部屋からなくなったキーランのスーツを思い出し、緊張した。もう一度、男の顔を見ようと振り向こうとした瞬間、腕を乱暴に掴まれ、冷たく硬いものが背中に当たった。

「川嶋先生」

次の瞬間、か細い、女性が泣いているかのような声が聞こえてきて、美波は腕を掴まれたまま、声の方に振り返った。看護師の中西がドアの開け放たれたリネン室の中で、一見して堅気ではない男に羽交い絞めにされて、恐怖に顔を歪めていた。

「中西さん!」

反射的に大声で叫びそうになったが、大きな手に遮られて、美波は結局、声を発することができなかった。

「大きな声を出すんじゃねぇ。これがわからねぇのかよ。おとなしく中に入りな」

背後から太い男の声がそう囁き、円形の硬いものが美波の背中に容赦なく押し当てられる。思わず苦痛で顔を歪めた途端に、物凄い力でリネン室の方へ突き飛ばされた。美波はわけがわからないままリネン室の中に倒れこんだ。

  リネン室の中では、中西を羽交い絞めにしている男の他に、別の男が待機していた。状況を把握する暇を与えられず、部屋の中央で膝をついてしまった美波の腕を引っ張り、ドアの方を向くように立たせる。そうして薄暗い照明の下で最初に目に入ったのは、黒光りする銃口だった。美波は息を呑み込んだ。

「おとなしく手を上げるんだ。さもないと、あんたも、あんたのお仲間も痛い目にあう事になる」

廊下ですれ違った男が小型の拳銃を真っ直ぐに美波に向け、リネン室の中に入ってきた。ドアを閉め、鍵を回す。突然のことに美波が身動きを取れないでいると、男は銃口を中西の頭に当てた。中西が激しく泣き始めた。

「手を上げるんだ」

男は美波の目を直接捉えて、一語一語区切るようにはっきり繰り返した。美波はのろのろと言われたように両手を広げて、顔の辺りの位置まで上げて見せた。この時、初めて男と直接的に対峙し、顔をはっきりと見ることができた。長めの前髪を突き抜けるように美波を捉える、冷たくて厳しい目。弁護士の阿武が原宿署の木原に見せた写真の男。確か須藤組の中堅幹部の近藤とかいう男だと思い出すまでには、暫くの時間がかかった。

「やっと直接お目にかかれてとても光栄ですよ。川嶋さんのお嬢さん」

近藤は口の端を上げて、言った。

「お仕事中、大変申し訳ないのだけれど、お嬢さんに是非ともご足労頂かなくてはならないんですよ。それで、まぁ、丁重にお願いしても来て頂きそうにもないから、少し荒っぽいご招待の方法を取らせていただきました」

「私にどこに行けって言うの?」

美波はやっとそれだけ聞いた。恐怖で潰れた声が自分のものであるとは信じられず、気味の悪さに総毛だった。

「それは今にわかりますよ。おい」

愛想の良い笑顔で応えると、近藤は美波の背後に立つ男に対して目で合図をした。次の瞬間、背後の男が美波の右手首を無造作に掴み、下方へねじり曲げる。美波が男の手から逃れようとしてもがき始めたのと、ガシャンという音がして金属の輪が美波の手首を締め付けたのは同時だった。手錠のひんやりとした金属の感触に、身震いがした。

「だからおとなしくしろって言っているだろう。俺だって忍耐強い方じゃないんだ」

近藤が冷たく言い放ち、銃を中西の額にこすりつけた。中西が泣き声のボリュームを上げた。その光景を見て、美波は再び動くことができなくなり、その隙に背後の男がもう一方の手を掴んで、結局、美波は後ろ手に手錠で拘束されてしまった。両手の自由を奪われたことで、パニックの感覚に襲われ、懸命に自由を得ようとしてもがいたが、背後の男が片手で美波の体を抱え、もう一方の手にナイフをかざして見せた。近藤が高らかに笑った。

「お嬢さん、もう無駄な抵抗はやめなさい」

かすれた叫び声が美波の口から漏れ、それで、背後の男がナイフを投げ捨てて、美波の口を手で覆った。その時、不規則なノックの音が聞こえ、近藤がドアを開けた。

  ドアから倒れこんできたのは、体格の良い若い男だった。そして、そのすぐ後に原宿署の木原が続く。美波は自分の目の前の光景を素直に受け入れることができず、目を見開いた。

「お嬢さんにくっついていたネズミだ。もう一匹は逃げたから、俺たちも早くズラかった方が良い」

木原は美波の方を意味ありげな視線を送りながら言った。若い男は美波の足元でぐったりと横たわっていた。死んでいるようではなかったけれど、状態が良いとは決して言えない。美波は足元の若い男を見て、それから木原と近藤に視線を戻した。木原と近藤は場違いな、屈託のない笑い声を立てた。近藤がスーツのポケットからガムテープを取り出し、美波の目の前で広げて見せた。

「ちょっと失礼しますよ。少しのことです。よぉ、有紀子、いいかげんにしっかりして、やることやってくれや」

近藤は長めにとったガムテープで、美波の口を塞ぐと、中西の肩を軽く叩いた。中西はまだ啜り泣いていた。

「川嶋先生、ごめんなさい。私、ごめんなさい」

近藤と木原がウンザリしたように、ひたすら謝り続ける中西を冷たく見る。

「いいかげんにしろよ。お嬢さんの勤務時間やロッカーの場所を俺たちに手引きしたのはお前なんだから、お前だって同罪なんだぜ」

「アンタ、すっかり近藤さんにイカレていたもんな」

ふたりの男に嘲笑されて、中西は身を縮こませる。俯いて、涙をこぼす中西に、近藤が注射器のようなものを押し付けた。

「早くやってくれよ、ダーリン。じゃないと、もうイイことしてやらねぇぞ」

それから、更に笑い声を高めた。中西はそんな近藤を傷ついたように見上げたが、すぐに近藤が醸し出すエネルギーに気圧されたように、うな垂れると注射器を受け取った。

   美波は最後の望みをかけて、中西の視線を捉えようとした。中西も、ほんの一瞬だけ、真っ直ぐに美波を見つめ返した。それから、ポケットから小さな薬剤を取り出し、注射器の針を突き立てる。

「中西さん、やめて」

自分ではそう言ったつもりだった。けれども、実際のところは、ガムテープで締め付けられた唇は十分な音さえも発することができなかった。

「私、こんなつもりではなかったんです。この人たちが川嶋先生にこんなことをするとは思わなかったんです」

言いながら、中西は機械的に半袖の手術着をめくって、美波の上腕部を消毒し、注射器を突き立てた。

「すぐに気がつくはずです、先生」

美波が体を震わせ、中西を見ると、中西はハッとしたように大きく目を見開き、そして、ゆっくりと床に崩れ落ちた。悲鳴を上げようと、美波は最後の抵抗を必死に試みたが、感情も体の自由もどこにもはけ口を見出せることができず、パニック状態の中、急速に奈落の底へ引き込まれていった。

  気を失う前に、理性のかけらが左手の小指の指輪を探し当てた。精一杯の力を込めて、中央部を回転させる。それから、エディ、キーラン、アリシアとパトリックの顔を順々に思い出し、美波は意識を失った。


  強い吐き気がした。生唾が口の中に溢れてきて、反射的に手で口を押さえようとしたが、手首が硬い金属で締め付けられていて、両手の自由は完全に奪われていた。しばらくは、状況がのみ込めなかった。目を開けたはずなのに視界が真っ暗であることや、両手と両足がまったく動かないこと、そして呼吸さえ上手くできないことが、なぜであるのかまったく理解できなかった。

  体の中で渦巻く吐き気に耐えられず、美波は大きく深呼吸しようとして却って喉を詰まらせてしまった。ヒステリックな咳が止まらず、体が震えだす。このまま窒息死するのではないかという疑念で美波の頭が一杯になった頃、ようやく誰かが唇を締め付けていたガムテープをむしり取った。一瞬の鋭い刺激の後、ひんやりとした外気が口の中に流れ込んできて、むさぼるように美波はその空気を吸った。

「気がついたのか」

ふいに太い指が美波の頬に触れ、男の声がした。美波はかろうじて頷いた。

「体を起こすぞ」

そのことばとほぼ同時に複数の手が伸びて美波の上半身を引き起こし、壁のようなものに対して寄りかかるように座らされる。

「水だ。飲みな」

乾ききった唇に冷たいガラスが当てられ、美波は思わず口を開ける。細い糸のようにグラスから水が流れ込んで口を浸し、美波は喉を鳴らして水を飲み込んでいった。一口飲み込むごとに、体の細胞ひとつひとつが回復していくようだった。

「もういいだろう。それなりに落ち着いたはずだ。今、おやじさんを呼んでくるから、待っていろ」

突然、グラスが唇から遠ざけられ、ドアの開閉する音が聞こえた。美波はドアの音がした方に頭を回す。今、自分の周りには何人の人間がいるのだろうか。そもそも、自分が座らされている場所からして定かではない。美波は大きく体を震わせたが、周囲からの反応をまったく感じられず、自分が外界のすべてから遮断されているように感じていた。


  どのくらいたったのだろうか。再びドアが開閉する音がして、複数の人間が部屋に入って来たようだった。

「川嶋美波さんですね」

右の上腕部に大きくて柔らかい手が置かれ、深みのある声が美波に聞く。美波は軽く頷く。確実に、どこかで聞いた声であった。

「乱暴なやり方でお出で頂くようなことになって、とても申し訳なかったと思います。ああでもしてしなければ、来ていただけなかったので、仕方なく強引なやり方を取らせて頂きました」

「ここはどこ。私はなぜ、ここにいるの」

美波は意識してゆっくりとことばを押し出した。声がまだ掠れていて、自分でも何を言ったのか聞き取りにくかった。

「この場所についてはお教えできません。目隠しをして頂いて、私たちの正体を隠そうとしているように、あなたはまだ知らないほうが良い。もっとも、私が誰であるか、あなたは簡単に言い当てることができるでしょうけれどね」

男はそこでいったん言葉を切った。美波は何も言わなかった。

「ただ、あなたにわざわざ来ていただいた目的についてはお話した方がいいでしょう」

美波は男の声のする方向に顔を向けた。

「目的って?」

「実は、あなたのお父様、川嶋真隆さんにあることをお願いしました。ところが、あなたのお父さんはなかなか頑固なお方で、こちらのお願いをまったく受け入れて頂けない。そこで、お嬢さんであるあなたにこちらに来て頂いて、もっと真剣にこちらのお願いについて考慮していただけるようにと画策したわけです。川嶋さんには数時間前にお電話して、こちらの要求を受け入れて貰えるならば、お嬢さんを無事にお返しするとお伝えしました」

「父へのお願いって何ですか」

「第一に、川嶋さんが現在進めている川嶋都市計画に関する調査を打ち切って、川嶋グループに余計な動揺を引き起こさないということ。そして、世間的に川嶋さんの一人娘であると認められている綾乃さんに対して、独占的に川嶋グループに関する資産の相続権を与えることです。言い換えれば、これまで通り、あなたが川嶋さんの長女であることは、内部の事情に留めておくことになります」

やっぱりという思いに、美波はひとつ深呼吸をした。

「こんなやり方でそんな要求をして、父があなたの言うことを受け入れるのでしょうか」

「こちらのお願いを聞いていただけなければ、お嬢さんに辛い思いをしていただかなければないないことはお伝えしてあります。もしもの場合、私は、ある人から、なるべく残酷な方法でお嬢さんには死んで頂くように言いつかっています。私としては、もちろんそんなことはしたくないのですが」

男の答えに、美波は硬直した。「なるべく残酷な方法」で自分の死を願う人間がいることなど信じたくなく、情けなかった。

「川嶋さんとはお電話でこうしたことをお話し、24時間以内にお返事をいただけるようにお願いしました。その際に、当然のことながら、川嶋さんはあなたのことをとても心配されていて、あなたの意識が回復し次第、あなたが無事であることを確認するためこちらから連絡を入れるように言われています。これから電話をしますので、お父さんと話して頂けますね」

美波の反応を確かめるように、暫く間を置いて、男は言った。このまま男たちに殺されるかもしれない可能性を示唆され、呆然としていた美波は男の言うことを心半ばで聞いていて、すぐには反応ができなかった。男が美波の腕を強めに握った。

「お父さんと話して頂けますかと聞いているんです。わかりますね」

柔らかい物腰の男の声の底に流れる強い調子に弾かれたように美波は顔を上げ、反射的に頷いていた。男は小さな息を吐いた。続いて、携帯電話の番号を押す小さな電子音。周囲が沈黙に包まれている間、自分の浅い呼吸だけがやけに大きく聞こえた。

「ああ、川嶋さん。先ほどお電話を差し上げた者です。お宅のお嬢さんが気づかれたようですので、少しお話をして頂こうと思い、お電話をさせて頂きました。今、お嬢さんに代わりますけれど、念のために日本語でお話くださるようにお願いします」

男がとても滑らかにそれだけ言うと、小型の金属が耳に押し付けられる。

「お父さんですよ」

とても優しげに、男は言った。

「お父さん?」

思わず、囁くような声が美波の口から漏れていた。語尾が震えるのを止めることができなかった。

「美波かい」

電話器の向こうからエディの声が飛び込んできた。いつもより低い、緊張した声。

「そう。私」

「無事でいるのかい。怪我なんかしていないだろうね」

「大丈夫。私は大丈夫だから」

目隠しをされている上、意識もまだ判然としていなかったので、正直言って自分の体の状態について今ひとつ確信がなかったのだが、美波には、今のエディに対して伝えられることばをそれ以外には思いつかなかった。美波が病院から連れ去られたことで、エディはきっと自分以上に辛い思いをしているのだろう。

「美波、よく聞いて。僕も、キーランも、君とはいつも一緒にいる。僕の言う意味、わかるね。だから、何があっても心配しないで。僕らが何としてでも君に危害が及ぶようなことにならないようにこの件を上手く処理するから」

ひとつ大きなため息を吐いた後、エディはゆっくりと言った。エディの話し方が、幼児時代を思い起こさせて、聞こえてくることばが日本語であることに戸惑ってしまう。

「お父さんこそ、そんなに心配しないで。私は何とかやっているから。それよりも、あれだけ注意されていたのに、結局、厄介なことになってしまって、ごめんなさい」

「君が謝る必要はない。僕や会社のことに巻き込まれて、君にはいつも辛い思いばかりさせている。これは僕の責任以外の何ものでもないんだ」

エディの声のトーンが、憂鬱さに満たされ、一段と下がる。

「でもね、美波、これだけは信じてくれないか。僕は君を無事に助け出すためだったら、何でもする。フィーの時のように、大事な君をむざむざ殺されてたまるものか」

一瞬の沈黙の後、エディが英語でそう呟いた。美波は涙ぐみそうになりながら、やっとのようにわかっていると小さく英語で答える。その途端、無情にも電話器が美波の耳から遠ざけられた。待ってと声を上げたが、遅かった。

「日本語で話をするようにお願いしたはずですよ。守っていただけないならば、残念ながらこれまでです。さて、川嶋さん、少しビジネスの話をしようじゃありませんか」

それから複数の人間が移動する音がし、ドアが閉まった。目隠しをされ、体を拘束されたままその場に取り残された美波は、急に不安に圧倒されてしまい、エディの声を思い出しながら少しだけ泣いた。


  再び勢いよくドアが開く音がしたのは、目隠しを濡らした涙が暖かい空気の中で乾き始めた頃だった。美波が音のする方へ顔を向けたのと、乱暴に目隠しが取り除かれたのはほぼ同時だった。

「少し楽にしてやってもいいって許可が出たんだ。今、自由にしてやるけれど、だからって暴れるんじゃねぇぞ」

聞き覚えのある近藤の声がそう言った。美波は急に、暗闇から大量の光の中に引き出され、まぶしさに目を開けていることができず、体を捩じらせ、俯いた。近藤が美波の足首を引っ張り、何物かを切り裂き始めた。

  ようやく部屋の明かりに目が慣れてきた頃までには、近藤は手錠を取り外す作業にかかっていた。軽い金属音がして、手首の辺りがふっと軽くなる。おそるおそる両手を前方に回して確認すると、手首の辺りがところどころ擦れて血が滲んでいた。どうりで痛んだわけである。

  手首からゆっくりと自分の周囲に視線を移して、美波は初めて自分が大きなダブルベッドの上に足を投げ出すように座らされていたのを確認できた。足元にはガムテープの残骸が散らばっている。きっと、あのテープで美波の両足を縛り上げていたのだろう。日本の家にしては広めの部屋の中には、ベッドの他に、応接セットとテレビがおかれた机がひとつ。シティホテルのような内装になっている。向かって左側には壁一面に重そうなカーテンがかかっていて、ドアがあるのはベッドの斜め後方。近藤がドアの向こうの誰かに小声で声を掛け、紙袋を受け取ると美波の方を向いた。反射的に、美波は身を引いた。

「そんなに怖がるなよ。まだ何もしねぇよ」

軽く笑いながら、受け取った紙袋を美波の方へ投げる。

「あんたの着替え。必要なものを有紀子があんたのロッカーから取ってきたから、それで十分だろう。向こう側の奥にバスルームがあるから、シャワーも風呂でも何でも好きなようにすればいい。あんたが着替えている間、適当に食い物をみつくろっておいてやるよ。有紀子があんたはインスタント・コーヒーが飲めないって言うんで、あんたのためにわざわざコーヒー・メーカーを買いにやらせたんだぜ」

美波はかなり呆れて、近藤を見た。恐怖心や不安を忘れ、思わずキツイことばを投げつけていた。

「人のこと無理やり監禁したくせにそんな気遣いするなんて、私にはよくわからないわ」

「そりゃ、こっちはいろいろと頼まれてやっているんだから仕方がない。あんたには無理して来て貰っているんだから、決着がつくまでは、なるべく快適に過ごして貰おうって親切心だよ」

「それで、自分たちの思い通りにならなかった時は、私のことを殺すわけ。なるべく残酷な方法で」

「あんたの立派な親父に思い知らせるためだろう。大抵は、レイプして、顔を痛めつけて、嬲り殺す。娘がそんな目にあったりしたら、親や恋人は絶望して、自殺したくなる。あんたがそんなことになれば、あんたのカッコいい親父も男も可哀想に、ずたずたになって、あんなに颯爽としていられないよな」

「趣味が悪いのね」

軽やかに笑いながら言ってのける近藤を見ているのが耐えられず、美波は顔を背けた。近藤は大またで美波の隣まで来ると、乱暴に顎を掴んで、自分の方を向かせる。

「けっこう気が強いんだな。もっと、か弱くて、頼りないかと思っていた。あんた、俺の好みだからさ、いざって時は可愛がってやるよ。あんたも死ぬ前に、あの気障な金髪のオニィちゃんとはやったことがないこともしてみたいだろう」

「そうやって、中西さんを思い通りにしてしまったの」

美波はなるべく無表情を心がけて聞いた。

「そうだよ。俺と会う前に随分たまっていたんだろうな。アイツはセックス狂いだった。だから、可愛がってやると何でも俺の言うとおりにした」

近藤は楽しそうだったが、美波は吐き気に圧倒されていた。

「それで、あの後、中西さんはどうしたの。あなた、殺してしまったの?」

「あんなに泣き喚く女、連れて来られるわけないだろう。あんたが手に入ったから、もう用もねぇし。だけど、止めは刺しちゃいねぇよ」

これまでだと思い、美波は近藤の手を振り払い、立ち上がった。ガムテープで拘束されていたためだろう。足に上手く力が入らずよろけてしまったが、近藤に触れられると思っただけで我慢できず、踏みとどまった。

「そんなに突っ張るなよ。あと数時間は一緒にいなけりゃいけないんだし、あんたの親父の対応しだいでは、あんたの最後は俺が面倒をみなければいけないんだ。仲良くしようぜ」

背後から近藤が馴れ馴れしく肩に手を掛けてきた。

「私に触らないで」

美波は紙袋を掴むとバスルームに駆け込み、後ろ手でドアを閉め、鍵を掛けた。ドアの向こうから、近藤の高らかな笑い声が聞こえる。急に両足の力が抜け、その場に跪いてしまった。それから、便器まで這って移動をし、胃液を吐いた。この状況で、あとどれだけの間、持ちこたえていけるのだろうか。


  バスルームは、部屋の内装同様、典型的なシティホテルの様式で、外部に通じているのは小さな換気口だけだった。子どもの頃、キーランが好きだったスパイが主人公のドラマシリーズで、ああいった換気口を使って脱出するエピソードがあったような気がしないでもないが、どう考えても美波にはそんな芸当はできそうもない。しばらくの間、換気口を睨んでいたが、結局諦めて、シャワーの栓をひねった。

  中西が準備しただけあって、紙袋の中には着替えだけではなく、病院に常備している洗面道具一式が入れてあった。いつものシャワージェルを使ってシャワーを浴びながら、美波は中西のこと、そして綾乃のことを考えていた。

  中西とは割りと仲の良い方だと、自分では思っていた。他の看護師よりも経験が長く、実際、美波よりも年上であった中西は、若い看護師たちが時折、美波に対してみせる敵愾心のようなものとは無縁で、リラックスして付き合うことができた。3ヶ月に一度ほど、中西の方から積極的に誘って、他の看護師たちも一緒に食事にでかけた。そんな時、中西は、美波のアメリカと日本での生活の仕方を貪欲に知りたがった。ニューヨークではどういう店に行って、どんなものを買い、食事はどこでするのか。東京でよく行くレストランはどこか。中西はそういった情報を細かくメモしたりしていたが、セントラルパークでの美波のお気に入りの場所や、カリフォルニアの海辺の家の話にはあまり興味を示さなかった。

  きっと、美波の消費行動に対して中西が嫉妬していたと考えてしまうのが一番、簡単なのかもしれない。けれども、美波は、数ヶ月前にロッカールームで、中西が一瞬だけ見せた歪んだ表情を忘れることができない。美波が気に留めていなかったエディに貰ったドレスに羨望の眼差しを向け、私に先生の10分の1の美貌があったらモデルをしているのにと言った中西。彼女の目には自分はどう映っていたのだろうか。私は中西さんが欲していたものを特にありがたく思うこともなく、受け流していた。要りもしないのにエディがくれるからと、適当に扱っていた。本音を言えば、美波がエディに求めていたものは、エディが買い与える潤沢な商品ではなく、エディの存在そのものだった。だから、エディが美波との充分な時間を持てないことをごまかすかのように与えるモノを意識的に拒否してきた。ただ、そんな美波の行動を、中西はどんな風に受け止めていたのだろうか。もし、中西が、美波がぞんざいに扱った品々を何かの理由で真剣に欲していたとしたら。

  そして、多分、キーランが前に言っていたように、綾乃と美波の間にある愛情の受け止め方の違いも同様のことになるのだろう。綾乃は美波が当然のように享受していた愛情から完全に疎外されてきた。それでも、美波としては、エディと自分の親子関係はいつも松濤の人々の介入で妨害され、邪魔をされてきたと思っていたので、何があっても綾乃を許す気持ちにはなれなかったし、綾乃との関係では、自分の方が被害者であると確信していた。とはいえ、美波のそういった不満は、エディの愛情への全幅の信頼によって支えられていた。対して、エディの愛情をまったく期待できない立場にいた綾乃の状況からすると、美波のことを恵まれているという言い方もできるはずだ。

  自分は知らない間に、無神経さでたくさんの人を傷つけてきたのだろうか。そして、今、そのことの報いを受けているのだろうか。

  体の隅々まで丁寧に洗ってから、美波はシャワーを止めると、洗面台に向かって歯を磨き始めた。皮膚の裏側までひっくり返して、徹底的に洗ってしまいたかった。洗面台の小さな鏡に映った自分の顔は、いつもよりも一段と青ざめていて、目が虚ろだった。きっと、今、一番問題なのは、自分に対する確信がもてないことなのだろう。この状況を生き残っていくために必要な自分自身への信頼を、美波は今、失っている。ひょっとしたら、私にはエディやキーラン、そして他の人々にこれほど愛して貰うだけの資格がないのかもしれない。私は与えられた愛情に見合うだけ、他の人に対して愛情を注いでこなかったのかもしれない。


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