第5章
目覚めると、部屋の中は真っ暗だった。時計をチェックすると、5 時45分を少しだけ過ぎたところ。このところ、1日のうちで太陽の恩恵を被ることができる時間の短くなるスピードがめっきり速くなっている。美波は自分の横で熟睡しているキーランに声をかけた。
「キーラン、もうすぐ6時だよ」
「ああ、もう、何だってアイツ等は揃いも揃って早起きなんだよ」
低い声で唸る様にそう言うと、キーランは目をつぶったまま首を伸ばして美波にキスをし、乱暴に立ち上がった。
結局、美波とキーランは、皆で食事を楽しんだ後、昨夜はエディのマンションに泊まった。そういう時の常として、キーランはソファベッドが置いてあるエディが普段書斎として使っている部屋に一旦引っ込んだ後、他の者が寝静まったのを見計らって美波の部屋に忍び込んでくる。昨夜も、夜中の1時ごろ、そっと美波の部屋に現れ、セミダブルのベッドに滑り込んできた。ただ、この場合、翌朝、他の3人が起き出す前にキーランは元のソファベッドに戻っていなければいけない。エディもパトリックも朝6時半には起き出してくるので、父親たちをごまかすためには、どうしても6時前に動き出す必要があった。
キーランはエディから借りたスウェットの上下を身に着けると、まだベッドの中でぐずぐずしていた美波のほうに覆いかぶさった。
「オレ、このまま原宿に戻るよ。会社に行く前に着替えないといけないからさ」
「それなら、玄関まで送っていく」
「いいよ。寝ていろよ。せっかくの休みだろう」
「ううん。お父さんたちと朝ごはんを食べた後、もう一度寝るから」
「うらやましいな。それも」
美波はキーランに掴まって立ち上がり、冬用のやや厚手のガウンを羽織った。冬が近づきつつあることを強く意識されられるのは、やはりいつも朝方だ。
足音を忍ばせて玄関まで行き、キーランの唇にキスをして送り出す。たまには、こういうのもいいなと思う。
「いってらっしゃい」
「今晩はこっちに戻ってくるよ」
「わかった。昨日のスーツはクリーニングに出しておくね」
キーランは微笑んで、手を振り、ドアを閉めた。それから、台所に戻り、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。せっかく早起きしたんだから、ちゃんとした朝食を用意してあげようかなと、ガウンの袖をまくった。
6時15分なると、エディの寝室のドアが開いたような音がした。それで、スクランブルエッグを作りはじめると、エディはきっかり15分後にワイシャツにネクタイなしの姿でキッチンに現れた。
「朝ごはん、できているよ」
淹れたてのコーヒーを渡しながら言うと、エディは満面の笑みを浮かべて美波の頬におはようとキスをする。
「今日は休みなんだろう?もっと寝てればよかったのに」
「でも、起きちゃったから。お父さんたちが出勤した後、また寝るからいいの」
「すばらしい生活習慣だね」
エディは多少おどけたように言うと、フォークを取り上げ、美波の用意したスクランブルエッグの朝食を食べ始めた。3口ほど口にしてから、ふいに聞く。
「キーランはどうしたんだい」
「今朝早く、原宿の家に戻っていった。会社に行く前に着替えなければいけないって」
言ってしまってから、美波は喋りすぎたことに気づいた。これでは、一緒のベッドに寝ていたことを告白したようなものではないか。エディは横を向いて笑うと、食事を続けた。その様子を観察しながら、美波はコーヒーを飲むことに集中した。5分程すると、シャワーの順番で遅れを取ったパトリックが、ガウン姿のアリシアとともに現れた。美波が朝食を差し出すと、満面の笑みで礼を言って、早速食べ始める。アリシアはそんな様子をやっぱりコーヒーを飲みながら、ニコニコと眺めていた。
電話が鳴ったのは、エディとパトリックが朝食を食べ終え、2杯目のコーヒーを飲んでいた時だった。何だろう、こんな時間にと受話器を取ると、エディの顔が一瞬だけ緩んで、またすぐに険しくなる。
「何だって?」
大きな声でそれだけ言い、あとは相槌を打ち続ける。美波がエディに視線を合わせると、エディも美波を見た。父の顔は明らかに当惑していた。
「何があったんだ?」
異変を感じ取ったパトリックが、エディが受話器を置いてすぐに聞いた。エディはそんなパトリックをチラリと見て、それから美波に対峙するようにキッチンテーブルに腰を降ろす。エディのいつになく緊張した様子に、美波は息が止まりそうにも感じていた。ゆっくりと、エディは美波の手を取った。
「とても悪い知らせなんだ、美波。今の電話はキーランからだったんだけど、何者かが昨夜、君のマンションに押し入ったらしい。今朝、キーランが戻ったら、家の中が滅茶苦茶に荒らされていたんだそうだ」
美波は空いている方の手を口に当てて、エディの言うことを聴いていた。正直言って、言われたことを理解できている自信がなかった。
「とにかく、キーランが警察を呼んだらしい。それから、君の警視庁の友だちも今、原宿のマンションに向かっている。ただ、あの部屋の住人として、君も今すぐ原宿に行く必要がある」
「荒らされたって、お父さん、どういうこと?」
「詳しいことは僕もわからない。さすがのキーランも少し動揺していたからね。ただ、尋常な状態じゃないみたいだね。だから、僕も君と一緒に原宿に行くよ」
「大変。パトリック、私たちも行きましょう。すぐ着替えてくるわ」
アリシアがそう言って、立ち上がる。パトリックは黙って頷いた。エディはそんなふたりの様子をしばらく眺めてから、ふたたび美波を見る。
「君も着替えておいで。なるべく早く行った方がいい」
美波は言われた通りに立ち上がって、部屋に行こうとした。けれども、足に上手く力が入らず、すぐに元の椅子に腰を落としてしまう。それでエディが立ち上がり、そんな美波をふわりと抱きしめた。
「子どもの時から君には迷惑ばかりかけているね。僕にはどうしたら君に償うことができるのかまったくわからないよ」
美波を抱きながら、そう言うエディの方が押さえ切れない憂鬱さに沈んでいくように感じられた。美波は震えがとまらない指で、父の背中を抱き返した。
原宿のマンションのドアの前には、制服姿の警官が立っていた。その部屋の住人の川嶋美波であると伝えると、警官は一緒にいたエディやパトリック、アリシアをいぶかしげな視線を送る。
「家族の者なんです」
「家族って、あんた、どっかで見た顔だよな」
警官は、そう言ってエディのことをじろじろと見た。エディは無表情でスーツの内ポケットから名刺を取り出すと、警官に渡した。
「警視庁の寺崎警視がいるならば、取り次いでいただけると嬉しいですね」
エディの名刺を見て、警官は弾かれたように部屋の中に入っていった。すぐに、寺崎が部屋の中から飛び出して来る。
「大変だったね、川嶋さん」
それから、エディたちに気づいて、会釈をする。美波は寺崎に導かれて、この10年間住んできた自分のマンションの中に入っていった。
玄関から居間に向かうと、陽光が満ちた居間では、キーランがソファに座って、3人ほどの警察官がマンションの中を歩き回るのを観察していた。美波たちの到着に気づくと、弾かれるように立ち上がり、美波に駆け寄る。キーランは、エディのトレーナーの上下から自分のジーンズと綿シャツに着替えていた。いつものスーツ姿ではなかった。
「お前、大丈夫か?」
美波の額にキスをし、エディたちを見る。誰もが凍りついたような表情をしたまま、何も言わなかった。
「キーラン、スーツに着替えなかったの」
多分、どうでも良いことなんだと思ったが、なんとなく気になって、美波は聞いた。キーランの表情が複雑に歪む。
「それが、オレのスーツは、どうも持って行かれてしまったらしい」
「みんな?」
キーランはニューヨークからスーツを6着持ってきていた。だから、昨日着ていたものを除くと、5着のスーツがこの家にはあったはずだ。
「いや、消えたのは4着だ」
それを聞いて、美波は急にエディの結婚指輪のことが心配になり、寝室へと駆け出そうとした。そんな美波の腕をキーランが掴む。
「待てよ。お前はまだ寝室に行かない方がいい」
「どうして?」
美波が聞くと、キーランは固く唇を噛んだ。キーランらしくない、とても混乱した表情。それで、美波はキーランの手を振り解き、寝室に入った。
「待てよ」
キーランは美波を思いとどまらせようと背後から追ってきたが、その必要はなかった。寝室に入った途端、美波は、その惨状に棒立ちになってしまった。
「だから、入るなって言っただろう」
キーランが背後から美波の体を抱きかかえる。
寝室の中は、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような状態だった。タンスの引き出しに入れてあったスカーフやジュエリーは、すべて床の上に投げ出されて、散らばっていた。とはいえ、美波の視線を釘付けにしたのは、ベッドであった。キーランのスーツと美波の下着類が無造作に投げ出され、白い粉とやっぱり白っぽい、べとべとした液体がランダムにかけられていた。その上、ご丁寧にもベッドの中央には、先日、キーランがプレセントしてくれた写真立てが表面のガラスにヒビが入った状態で投げ出され、すぐ横にナイフが突き刺さっていた。咄嗟に、美波は震える手で写真立てを拾おうとし、寺崎に止められた。
「触っちゃ駄目だよ、川嶋さん。言い難いけれど、精液がかけられているんだ」
そう聞いた途端、美波はひどい吐き気を覚えた。口に手を当て、体を折り曲げる。キーランが耳元で囁いた。
「お前、吐き気がするのか?」
美波は必死で頭を縦に振った。美波を抱きかかえると、キーランはトイレへと急ぐ。途中、やはり呆然としたエディの前を通り過ぎたが、色々と考えている余裕はなかった。
10代初めに日本に移住してきた頃、美波はストレスを感じるたびに、嘔吐を繰り返していた。日本の生活に馴染んでいき、年齢を加えるにしたがって精神的にも落ち着くようになったのか、高校生になるまでには習慣的な嘔吐はおさまっていたのだが、自分の生活の大切な一部だった寝室に徹底的なダメージが加えられたのを見て、美波は久しぶりに強い吐き気を感じていた。
朝飲んだコーヒーをすっかり吐いてしまうと、美波はトイレを出た。キーランがタオルと水のはいったコップを持って待っていてくれた。美波は我慢できず、キーランの胸に顔を埋める。
「どうして?」
「わからないよ。あの様子は何だか、猟奇的だよな。とにかく、これを飲んで。警察の人が話を聞きたいそうだ」
「終わったら、泣いてもいいかな」
「いいよ。今日も仕事に行けそうもないってだけのことで、お前がこの状態じゃ、エディは気にしないさ」
キーランは美波の髪を丁寧に撫ぜた。それで、美波も少しだけ気分を持ち直し、コップの水を飲む。吐き気はまだ続いていた。
居間に戻ると、エディは寺崎と話をしているようだった。美波が戻ったのを見て、少しだけ表情を崩す。
「大丈夫かい」
美波が確信なさげに頷くと、エディは美波の頭を抱え、抱擁した。美波は思わず涙を零しそうになった。泣かなかったのは、妙にもったいぶった咳払いが聞こえてきたせいであった。
「原宿署の木原です」
声の方を振り向くと、小柄な男が警察手帳を差し出していた。美波はエディから少し体を離して、男の方に向き直った。
「川嶋美波さんですね」
「そうです」
「失礼ですが、このお部屋におひとりでお住まいですか」
「普段はそうです。でも、今はキーランがニューヨークから来ていますので、ここに泊まっています」
「キーランさんというのは、そちらの金髪の男性ですね」
木原は美波の横に立っていたキーランを無遠慮にボールペンで指した。美波は微かに眉をしかめるのを止められなかったが、それでも素直に頷いた。
「そうです」
「それで、おふたりのご関係は?」
「その、キーランは私の義理の兄のようなものです」
「義理のお兄さん?」
「きょうだい同様に育ちました。そちらが私を育ててくれたケネディご夫妻で、キーランは息子さんなんです」
美波はソファに座って成り行きを見守っていたパトリックとアリシアを木原に紹介した。
「そうですか。その割には、随分とご親密なようですな。あなたの寝室に、キーランさんの洋服などが置いてあったようですから」
美波が顔を少し赤らめると、木原は口の端を上げた。
「ニューヨークからいらっしゃったのは最近なんですか?」
「9月の上旬です」
キーランが滑らかな日本語で答えた。すぐに、木原が多少怒ったように美波とキーランを見返す。
「それで、ニューヨークからわざわざいらっしゃったのはどういったわけなんですか」
「それは、私の仕事の都合です」
エディが横から口を挟んだ。木原という刑事はエディの存在を意識すると、目を細めた。
「川嶋真隆さんですか?」
「そうです」
「失礼ですが、こちらとどういうご関係でいらっしゃるんですか?」
そこで、寺崎が大きな声で割って入った。
「もういいですよ。木原さん。川嶋さんの家族関係については、僕の方で把握しているし、川嶋社長からも本庁の合同捜査チームが事情を聞いているんだから、必要ならばそういったことは後で情報を共有します」
「ところがそういうわけにもいかないんですよ、寺崎警視。せっかく、本庁からお出ましいただいたのに申し訳ないんですがね」
それだけ言うと、木原という刑事はとても皮肉な笑いを浮かべた。美波の吐き気が悪化するには十分な、気味の悪い笑い方であった。そういう美波に構うことなく、木原は薄力粉が詰まったようなビニール袋を高く掲げる。
「実は、こちらのお嬢さんのタンスの中から、こんなものが見つかりましてね」
「まさか、それって」
寺崎の顔色が変わった。
「なぁに、寺崎君。何なの、そのビニール袋?」
反射的に美波が聞くと、寺崎は呆然としたように美波を見つめ、低い声で言った。
「シャブだよ」
「ええっ」
美波はただ驚いて、寺崎と木原という刑事を交互で見る。
「おまけに、こちらの銀行通帳を見ると、毎月決まったようにけっこうな額の入金がある。非常に興味深い事実と言わざるをえませんな」
いつの間に見つけたのか、木原は空いている方の手で、預金通帳を目前に突きつけた。
「ちょっと待てよ。シャブって何?」
状況の展開から取り残されていたキーランが、イライラしたように聞いた。美波はキーランを見て、口を開きかける。その時、背後からエディの厳しい声が飛んできた。
「この場では、何も言わない方がいい、美波」
振りかえると、エディは既に携帯電話を耳に当てていた。
「岸田君、僕だ。悪いけれど、すぐコンサルティングの阿武さんと連絡を取って、原宿の美波のところまで来るように行ってくれるかな。弁護士がふたり必要なんだ。人選は阿武さんにまかせるよ。ただ、僕の戸籍謄本とプライベートな財務状況の記録を持ってきてくれると助かる」
それだけ言うと、エディは電話を切った。木原は、そんなエディに皮肉な視線を向ける。
「弁護士先生にご足労いただくのは原宿署にしていただきませんかね。こういう証拠が出てきた以上、この部屋の住人であるそちらのおふたりには署までご同行いただかなければいけませんから。そうでしょう。寺崎警視」
美波は寺崎の顔を見る。寺崎はしばらくの間、思いあぐねたように床を見つめて思案していたが、やがて意を決したように美波に告げた。
「木原さんの言うことにも一理ある。川嶋さんと麻薬のつながりなんて確かにばかばかしいけれど、あんなに大量のシャブが出てきてしまった以上、念のために正式な手続きを踏んでおくに越したことがないと思うんだ。オレも一緒に原宿署に行くから、川嶋さん、心配しないで、ここは参考聴取を受けておこう」
「参考聴取」
そのことばの非現実的な響きに、美波はうろたえる。キーランの腕を掴むと、やっぱり我を忘れていたような表情のキーランは、改めて気がついたように美波の方を見て、肩に手を回した。エディは、無表情に木原刑事を見やると、ふたたび携帯電話の通話スイッチを入れた。
「ああ、岸田君。たびたびで悪いけれど、阿武さんに場所は原宿署に変更になったと伝えてくれないか?それから、僕もこれから警察に行くから、午前中の予定はすべてキャンセルだ。言い訳はなんでもいいよ。それと、もうひとつ。美波のマンション、大掃除が必要なんだ。だから秘書室からだれか寄越して取り仕切ってくれるかな?かなり酷いことになっている。じゃあ、追って連絡をする」
それだけ言って電話を切ると、エディは背後から美波とキーランの肩に手を置いた。
「心配しないで。警察には僕も行くから」
それから、パトリックとアリシアの方を振り返り、早口の英語で言った。
「ここのところ、僕らは少しついてない様だね。警察はふたりが麻薬の売人ではないかと疑っているんだ。とにかく、このことについては僕が何とか片付けるから、アリーはここで待っていてくれないか。この部屋の掃除は秘書室の者が取り仕切ってくれるはずなんだけれど、君がいて目を光らせてくれた方がいい。それからパトリックは悪いけれども会社に行って、向こうの状況を監督してくれないか。君もふたりのことが心配だろうけれど、僕や阿武さんまで出払うことになるわけだから、会社の方を監督する人間が必要だろう」
「麻薬の売人!」
エディの英語の説明を聞いて、パトリック、アリシア、そしてキーランの親子はほぼ同時に似たような大声を上げる。
「麻薬って何さ?」
すっかり慌ててキーランが聞く。
「知らない方がいいよ。もし、君が何も知らなければ、でっち上げることすらできないだろう」
自分の父親があっさりとそう言うのを聞いて、美波はさらに強くなった吐き気にとうとう負けてしまい、その場に座り込んでしまった。
美波とキーランは別々の警察の車に乗せられた。家を出る前、美波はキーランと一緒に行くように、エディに頼んだ。この15年間、ずっと日本で暮らしてきて、日本の学校に行った美波は日本語で困ることはないが、警察とのやりとりとなればキーランはきっと難儀するだろうし、厄介な状況に巻き込まれる可能性がないとは言えない。美波の申し出に、キーランは最初、大反対し、対して、エディはその方が確かに論理的ではあるねと心配そうに言った。結局、寺崎が美波と同行すると申し出たので、最後にはふたりとも納得した。
原宿警察署に行くと、尿検査のためのサンプルを提出するように指示され、両手の指紋も取られた。その後、狭い取調室のようなところに連れて行かれた。エディから阿武弁護士が到着するまで何も喋るなとキツく言われていたので、自分の名前と住所を確認し、覚せい剤の入った袋のことは何も知らない、あとは阿武弁護士を待ちたいと小さな声で告げると、美波は押し黙った。そんな美波に木原は立て続けに厳しい嫌味を言い、寺崎がいたたまれずに何度も介入した。美波はなるべく木原の言うことは考えないように努力し、キーランのことに頭を集中させていた。強い吐き気は、まだ続いていた。
アメリカで弁護士資格を取ったキーラン、エディ、パトリックは、日本では外国法事務弁護士という資格でしか仕事ができない。この資格の規定では、日本で資格を取った弁護士に認められている一部の業務が行えるにすぎず、また3人とも基本的にはコーポレート・ロイヤーであるので、あまり日本の麻薬事件のことには詳しくないだろう。だからこそエディは会社の弁護士を呼んだのだが、キーランは今頃、とても悔しい思いをしているに違いない。まったく、何でこんなことになったんだろう。
美波がふと視線を泳がすと、木原が美波の目前で、テーブルをバンっと叩いた。
「あんたね、ずっと黙ったままだけれど、いいかげんになめたマネは止めたほうが身のためだよ」
木原の暴力的な勢いに、美波は首を竦めた。
「木原さん、乱暴は止めたほうがいい。黙秘権というのは立派に認められた権利です」
寺崎が通常では考えられないぐらいに声を荒げて抗議すると、木原は鼻を鳴らした。
「寺崎警視は黙っていてもらいましょう。これは原宿署の事件ですし、あなたには何の権限もないのだから、これ以上介入なさるおつもりなら出て行っていただきましょうか。あなたがこの場にいるのは、私の好意からなんですよ」
「僕にだって、この後、あなたの上司と話すことぐらいできます。状況から見て、川嶋さんが発見されたシャブの袋に関係していたという可能性が薄いのは明らかです。部屋の中で採取された指紋の身元が判明すれば、その線からブツの出所が割れるでしょう」
「捜査のやり方は私が決めます。もうたくさんだ。出て行ってもらいましょう」
木原は立ち上がってドアを開け、寺崎を促した。寺崎は美波と木原を交互に見て、仕方なく立ち上がった。
「川嶋さん、弁護士さんをすぐに連れてくるから、あまり心配しないで」
美波は心配そうにそう言う寺崎に対して、そっと微笑んでみせた。
寺崎が部屋を出て行くと、木原刑事は美波の正面に座り直した。
「それじゃ、もう一度、最初から行きましょうか」
「ですから、お話は阿武弁護士が来てからにお願いします」
「まさか、弁護士がいないと日本語がわからないってわけでもないでしょうに。あんた、そんな顔をしていて、寺崎警視と同じように東大を卒業しているんだろう」
「そんな顔って言われても」
顔で大学入試をするわけではないと、美波はことばに詰まる。この男、ひょっとして自分の出た大学が気に食わなくて、色々と突っかかってきているのだろうか。美波がどう対応しよいか分からず、こみ上げる吐き気に片手で顔を覆うと、木原刑事はニヤッと笑った。きっと性格的にサディストなんだろう。
「それにしても、お嬢さんっぽい外見とは裏腹に、あんたもけっこうやるね。義理の兄さんだなんて嘘ついて、毎日、男といちゃついて、しかも昨日はあの川嶋真隆の家に泊まっていたんだろう。3人でいいことでもしていたんじゃないの」
木原の下劣な言い方に、美波はことばを失った。俯いてため息を吐くと、木原が大声で笑った。その時、突然、ドアが開いた。
「遅くなって申し訳ありません、美波さん」
入ってきたのは、日本人にしては大柄な丸い顔をした中年の男だった。仕立ての良いスーツに上等そうなコートを羽織っている。
「阿武です。お父さんから言われて来ました」
美波は大きな息を吐いた。一瞬だけ、気が遠くなってしまいそうになったが、何とか持ち堪える。
「お忙しいところ、お手間をかけてしまって、ご迷惑をおかけします」
「いいえ。何のこれしき」
阿武はにこやかに笑うと、部屋を大股で横切って、美波の横に立った。目で椅子を探すが、余分な椅子は存在せず、木原の方では、阿武に椅子を勧める気はなさそうだった。
「さて、容疑を説明していただけませんかね」
阿武は大きな書類鞄を机の上にどんと置くと、聞いた。
「覚醒剤の売買だ。所持と使用の方でも調べている」
「モノはどこで発見されたんですか」
「そのお嬢さんのタンスの中だ」
「タンスの中ですか。分かりやすすぎる場所ですね。ただ、昨夜、何者かが美波さんの家を荒らしていったって聞きましたけれど」
「本人がやったのかもしれないよ。義理のお兄さんといっしょに」
木原が挑戦的に言うと、阿武は眉を上げて見せた。
「その点については、議論になりませんね。美波さんもケネディ君も、昨夜は8時ごろに青山の川嶋真隆氏の自宅に着いて、その後、今朝まで外出していません。ちゃんと捜査していただければマンションの管理人やタクシーの運転手からの証言が得られます。連絡先は、こちらです」
阿武は木原にメモを渡した。木原は不機嫌そうにそのメモを受け取った。
「さて、こちらが川嶋真隆氏の戸籍謄本です。見ていただければ分かるように、こちらの美波さんは川嶋氏の長女ということになります。そしてこちらが、川嶋氏の個人的な銀行口座の写しです。ごらんの通り、美波さんへの毎月の入金は、お嬢さんへの心遣いとして川嶋氏がなさっていることです」
渡された書類を一瞥して、木原は机の上に投げ捨てる。
「納得いかないね。何だって、とっくに成人して、しかも医者として高給を稼いでいる女にそんな大金を毎月振り込むんだよ。愛人でもなきゃ、説明できないな。第一、世間では川嶋真隆と言えば、超有名な芸能人の娘がひとりいるってことになっている。こちらの美波さんの話など、聞いたことがない」
阿武は冷め切った目をして、木原を見やった。
「個々の家庭には、それぞれ事情がありますからね。ただ、戸籍の記載事項はごまかしがきかないことぐらいご存知でしょう。それからですね」
阿武はそこでことばを切って、書類鞄の中を探る。
「覚せい剤と精液がバラ撒かれていた美波さんのベッドの惨状ですがね、掃除のついでにこちらでも調査会社を使って少し調べてみたんです。それで、指紋などから、私どもはこの男にたどり着きましてね」
そう言いながら、阿武は頭を丸刈りにした鋭い目をした男が写った写真を示す。
「近藤信宏。須藤組の中堅メンバーです。かなり悪い噂があるようですね」
「オレはマル暴関係は知らねぇよ」
木原は顔を背けて、写真を見ようともしなかった。
「そうですか。でも、精液も残っていたようですし、そちらももうお調べになっているんでしょう」
木原は答えなかった。阿武がかまわず続ける。
「それで、尿検査の結果はどうだったんですか」
「こんな短期間で結果が出るわけがないだろう」
「そうですか。でも、アリバイが立証され、金銭の受け取りに関しても事実無根であると証明されたわけですから、これ以上の質問は、美波さんの部屋を荒らした連中に対する捜査が目的でなければ立派なハラスメントになりますね」
木原は腕組みをして、美波と阿武を睨みつけた。
「そちらが証拠もなく、美波さんを覚醒剤の売買や所持、使用の容疑で拘留するとなれば、こちらもそれ相応の対応をさせていただきますよ。いいんですか?」
「お前、オレをおどしているのかよ。」
「まさか。適切な捜査の手続きの話をしているだけです」
阿武弁護士は、余裕たっぷりの様子で笑って見せた。木原は横を向き、勝手にしろと小声で言う。
「さぁ、それでは行きましょう」
阿武は美波の肩にそっと手を置いた。美波は立ち上がろうとしたが、緊張と疲労のため、躓いてしまう。そんな美波を両手でサポートして立たせると、阿武は書類鞄を持った。
「木原さん、失礼します。捜査の進展については、以後、私の方にご連絡ください」
美波は結局、阿武に抱えられるようにして部屋を出た。両足が震え、吐き気で気を失いそうだった。
エディとキーランは、寺崎と阿武とともにやって来た弁護士とともに原宿警察署の待合室で美波のことを待っていたようだった。美波と阿武の姿を認めると、すぐに駆け寄ってくる。
「阿武さん、面倒をかけましたね。ありがとうございます」
エディが律儀に言う。
「お安い御用ですよ、社長。美波さんのお役に立つことができて嬉しい限りです。これで、お母さまにも少しはお返しができた」
お母さまということばに反応して、美波が阿武の顔をみると、阿武は笑って美波の体をエディの方へ促す。
「そちらはどうでしたか」
「社長の初動の判断が利きましたよ。日本に来たばかりで、シャブなんてことばを聞いたことがない外国人に覚せい剤売買の容疑なんてかけようがありませんからね。状況からして、モノは昨日、美波さんの部屋を荒らした連中が置いて行ったとしか考えられませんから、事実を確認した後はすぐに行ってもいいと言われました」
キーランと同じくらいの年であろう、日本人弁護士が快活に言う。
「キーラン、ごめんね」
美波がやっと涙声で言うと、エディの横に立って美波を観察していたキーランは美波の頭を撫ぜた。
「何で謝るんだよ。お前のせいじゃないだろう。正直言ってこれはハラスメントだよ」
「そうですね」
阿武が頷く。
「あの木原って刑事のことをもう少し調べてみる価値はありますね。今回のマンション荒らしといい、捜査や事情聴取のやり方といい、正直言って随分と稚拙です」
「こっちの動きを1日止めるだけの効果は、確実にありましたけどね」
エディがため息混じりに言った。それでも、手は休まず美波の肩をさすっていた。
「私も本当の狙いはそっちにあると思いますよ。昨日のケネディ君の件と言い、今日のことといい、時間稼ぎをしているような気がします」
「多分、阿武さんの言うことが正しいんでしょう」
それから、エディは美波の頬にキスをした。
「僕はこれから、会社の方に行くよ。可哀想なパトリックひとりに任せておくわけにはいかないからね。美波は君に任せても大丈夫だろう、キーラン?」
「それは、もちろん大丈夫だけれど。オレも仕事に行った方がいいんじゃないかな」
「いいよ。今朝からもう十分過ぎるほどに色々なことがあったし、このお嬢さんには誰かが付いていたほうがいい」
「それに、ケネディ君は月曜までにスーツを調達するように努力したほうがいいですね。ウチの社にはドレスコードがあって、その格好ではちょっと困りますから。ねぇ、社長」
「ああ、そうだった。キーラン。明日の朝、銀座のモード・ビルに行くといいよ。ちょうど、新しいスーツが2着仕上がってきたところだったんだ。さっき電話で確認したら、今だったら君用にサイズを調節する事ができるようだから、それならば月曜までに間に合うだろう」
「他になくなっているものってあったの」
美波が顔を起こして聞くと、エディは首を振った。
「不思議なことに、なくなったのはキーランのスーツだけだったらしい。結局、物取りが目当てではなかったってことだよね。アリーが言うには。君のジュエリーなんかはすべてあるだろうってことだ。ただ、君も後で確認するといいよ」
それを聞いて、美波は父の胸に顔を埋めていた。そんな美波に心配そうな視線を送り、エディは少しだけ躊躇った後、やがて意を決したように次のことばを絞り出す。
「そうは言ってもね、アリーによると、君の下着なんかの状態が良くなくて、多分、君は洗っても使いたくないだろうからって、かなりのものを処分しなければいけなかったそうだ。だから、君も明日、キーランと銀座に行って、足りないものは買うといい」
美波はすべてのエネルギーを使い果たしたような気分になり、エディにしがみついたまま、嗚咽を始めた。エディの高いスーツを汚していることはわかっていたが、どうしても自分を抑えることができなかった。そんな美波を抱きかかえたまま、エディはまだ小さな子どもの頃、寝かしつけてくれた時ようにとても柔らかく囁きかけた。
「そんなに泣かないで。今日はなるべく早く家に戻るようにするよ。それに、キーランがずっとそばにいてくれるはずだ。君たちはいつも一緒で、だから僕はいつも安心していられたし、これまで危ない状況を無事にやり過ごすことができただろう?」
美波が顔を上げずに、それでも頷くと、エディはそっと美波の頬にキスをし、美波をキーランの方へ押しやる。
「愛しているよ、美波。君はフィーと僕の大事な宝物なんだ」
それから、エディは小声でキーランに頼むよと言うと、阿武ともう1人の弁護士を促して歩き始めた。今まで黙っていた寺崎が、大きなため息を吐いた。
「参ったな。大変だったんですね、キーランさん」
「まぁね。フィーが死んだ後、エディにとっては、美波は唯一の心の恋人だったからね」
「でも、相手が川嶋真隆じゃなぁ、分が悪いや」
「同感だね。多少でもオレにつけ込む隙があったのだとしたら、エディが実の父親で、いつも美波と一緒にいられなかったことだけだよ。人並み外れて傲慢なオレの親父を含めて、エディとまともに競争しようなんて奇特な男、今まで見たことがない」
「それでも、ここまでやってきたのは、キーランさんだったからじゃないですか。オレだったら途中で怖気づいているな」
頭のどこかで、キーランと寺崎が勝手なことを言っているのを聞きながら、美波は意識が段々と判然としなくなっていっているのを感じていた。どうしようもなく疲れていた。まだ少ししゃくり上げながら、まぶたが重くなっていくのを意識する。
「おい、美波。ダメだ。ここで寝るな」
キーランがそんなことを言ったような気がしたが、遅かった。美波はジェットコースターで滑走しているように、眠りの世界へと落ちて行った。
気がつくと、青山のマンションの自分の部屋のベッドに寝ていた。状況が把握できず、美波は暫く瞬きを繰り返す。
「起きたのか」
声の方を見ると、キーランはベッド脇の椅子に腰掛けて、相変わらず数字が羅列している書類を見ていた。
「どのくらい寝ていたの?」
「3時間ぐらいかな。原宿署からは、ケンイチが車で送ってくれたから助かったよ」
そう言いながら、キーランはベッドに入り込んでくる。
「ごめんね。なんだか本当に疲れてしまって」
「無理もないよ。オレだって、正直、くたくただよ」
美波の隣に横たわって、キーランは額に手をやる。
「まったく、ロクでもない日が続いたよな」
「なんだか、昔見たホラー映画みたいだね。呪いをかけられて、その後、ずっととんでもないことが続くとか」
極めて真剣に言うと、キーランはギョッとした様に美波を見る。
「お前ねぇ、医者の癖にそういう非科学的なことを言うなよ」
「世の中、科学だけでは解明できないからね」
キーランは眉根を寄せて、美波を見る。美波はそんなキーランの唇にキスをしながら、胸に手を回した。暫くしてから唇を離すと、キーランが耳元で囁いた。
「母さんが居間で聞き耳を立てているはずなんだ」
「じゃ、音楽でもかけよう」
「それじゃかえってあからさま過ぎるだろう」
キーランが噴き出す。それから、もそもそと体を動かすと、握り締めた右手を美波の方へ差し出した。
「これ、心配していたんだろう。帰りがけに着替えを確保するために原宿の部屋に寄ったんだけど、ついでに取って来たんだ。あの部屋もけっこう綺麗になっていたよ。まだ、ベッドはなかったけどね」
両手で、キーランが握りしていたものを受け取ると、それはエディの結婚指輪とティファニー製のプチ・ダイヤが埋め込まれたピアスだった。
「ありがとう。指輪のことは本当に心配だった。でも、ピアスのことは、忘れていた」
「なんだ。オレには、エディからの山のようなプレゼントの中では、随分と印象の深い品だったんだけどな」
「キーランの言っている意味、分かるような気がする」
ダイヤのピアスは十代の初めにクリスマス・プレゼントとして貰ったもので、その後、随分と長い間、特別なことがあるたびに身に着けていた。あまり使わなくなったのは、キーランが誕生日の度にピアスをくれるようになったからだ。
美波は、エディの指輪とピアスをそっとベッド脇のサイド・テーブルに置くと、もう一度、キーランにキスをした。
「やっぱりセックスしよう」
「何だよ。今日は、エディの家で随分と積極的だな」
「いいじゃない。それで、明日は原宿の家に行って、キーランがくれたピアスや指輪なんかも取ってこよう」
それだけ言うと、キーランは笑った。
「余計なことは気にするなよ」
「大切なことだよ」
キーランの首筋に顔を埋めて、美波は一語一語に丁寧に思いを込める。
「色々なくなってしまっても、嫌なやつに理不尽なことを言われても、私はキーランが側にいてくれればそれでいい。それで、元気になれるような気がするし、お父さんが言ったように、そうやって、私は今日まで何とか生き延びることができてきたんだから」
美波の背中をさすりながら、キーランは暫くの間、黙って美波の言うことを聞いていた。それから、ふいに美波の瞳の奥を覗きこむ。
「もっとも、盗まれたのは、オレのスーツだけらしいけどな」
それを聞いて、美波は悪いと思ったけれど、笑い始めてしまった。キーランも笑っていた。
居間に出て行くと、アリシアは読んでいた本から顔を上げ、美波を自分の隣に呼び寄せた。
「大変だったわね」
「少し寝たから、もう大丈夫」
「確かに、お前は昔から何かっていうと寝るよな。日本語で『寝る子は育つ』って言うけれど、そういうことなの?」
「ちょっと意味が違う」
キーランが持って来てくれたコーヒーを受け取りながら答えると、キーランはニンマリと笑った。多分意味を知っていて、わざわざ聞いたのだろう。
「エディがさっき電話してきて、いつものお店で夕食を8時半に予約したそうよ。だから、あと20分ほどしたら、一緒に出ましょう」
「もうそんな時間?」
「そう、あたりは暗いでしょう」
美波は改めてあたりを見回した。確かに暗かった。
「何か、損したな。折角のお休みだったのに」
「お前はいいよ。オレなんか、2日分の給料が危ないんだから。オレだって一応、ニューヨークのボスのことも気にしなければならないのにさ」
キーランの心配は確かに的を射ていた。川嶋コンサルティングで働いている間のキーランの報酬は基本的に時給制である。だから、仕事をしないと報酬に結びつかない。
「大丈夫でしょう。お父さんは、キーランにはとっても甘いから、昨日と今日の分の報酬は払うと思うけどな」
「どういう意味だよ、そのとっても甘いっていうのは」
「そのままよ。昔からキーランが何をやっても笑って見ているだけでしょう?私なら怒られるようなことでも、キーランには寛容だったじゃない。実はキーランのほうがずっと悪質だったのに」
美波が無邪気に笑うと、キーランは口を曲げた。
「それじゃ、キーランに怒られる前に、シャワーを浴びて来ようかな」
「5分で出てこないと引っ張りだすからな。オレもシャワーが必要なんだ」
「ふたりとも子どもみたいな言い争いはやめなさい」
アリシアが笑って窘めると、美波は笑顔を残してその場を離れ、バスルームへ向かった。
美波が居間を出て行くのを送って、アリシアは表情を引き締めてキーランに視線を向けた。
「あの娘、あれからまた吐いたの」
「いいや」
キーランは自分の表情を隠すように、コーヒーに口をつけた。
「昔のようなことはなかったよ。だいたい、とりあえず、自分で何とか立ち直ろうとして、明るくして見せているだろう」
「そうね。あなたたちの話し声や笑い声なんかが聞こえたわ」
キーランは、頬杖を付いて、試すように自分の母親を盗み見た。
「あら、いいのよ。別に、今、告白してくれって頼んでいるわけじゃないの」
「母さん、オレが母さんのこと信頼しているのは分かっているんだろう。それに、母さんはオレのことを信頼している」
「そんなこと、言うまでもないわよ。それに、私は、あなたが精神的にとても堅実であることをよく知っている。問題は今の美波の精神状態と、それから、あなたたちの将来よ。そうでしょう?」
「母さんはオレに何を言わせたいわけ?」
「だから、特に、何も」
キーランは難しい顔をしてアリシアを見返した。アリシアは部屋着のポケットから小さな小箱を取り出して、キーランに渡す。
「開けてみて、よく考えることね。それは、あなたのお祖父さんがお祖母さんに贈った婚約指輪よ。古風かもしれないけれど、どういう風に役に立つのか考えてみるのも悪くないんじゃないかしら」
「オレにどうしろって言うのさ」
キーランはイライラと小箱を空中にトスしながら聞いた。アリシアは何も言わず、キーランの額にキスをして、着替えをするために自室へ消えた。小箱をもらったキーランは、箱を開けて再び深いため息をついた。物事は、時々、自分たちの思惑を超えて展開していくものだ。
青山のレストランでは、エディとパトリックがかなり強いアペレティフを飲みながら、美波たちの到着を待っていた。
「よぉ。ラッキー・ボーイ。2日の臨時休暇を充分に楽しんだか」
キーランがレストランの個室に姿を見せるなり、パトリックが声をかける。多分、既にかなりの量のアルコールが入っているのだろう。
「楽しかったよ。うらやましいだろう、パット」
「美波みたいに、お父さんと言え」
言われたキーランは、すっかりパトリックを無視して、ワインクーラーのシャブリの瓶からよく冷えたワインを自分と美波、アリシアのために注ぐ。
「お父さんの方は大丈夫だったの?」
美波が聞くと、エディは気楽に笑った。
「何とかなったよ。1日やそこらで片付く案件ばかりじゃないからね」
「やっぱりオレも仕事に出ればよかったかな」
「いや、君が別のところでとても良い仕事をしてくれたのはわかっているよ。ウチのお嬢さんは思ったよりも元気そうだ」
「ほら、言ったでしょう。お給料の心配はなさそうじゃない」
美波がニッコリと笑って、キーランを見上げると、キーランは顔を顰めて、ワインに口をつけた。
「まったく、お前は気楽だな。人が誰のお守りをしていたんだか、わかっているのか」
「お蔭様で。感謝しております」
軽く乾杯の仕草をしてみせる。エディがそんな美波の横にスッと近づいて、心配そうに顔を覗き込んだ。美波は笑って、エディの腕に自分の腕を絡ませる。それで、エディは美波につられたように微笑みを浮かべ、アリシアの腕も取ると、ふたりをテーブルに導いた。
「さて、それじゃ、食事にしようじゃないか。僕もパトリックも昼ごはんにありつく暇がなかったんだ」
「そういえば、オレたちも昼食を忘れていたな」
「いやね。皆で仲良くダイエットでしていたみたいで」
「そうだな。今日は言ってみればダイエットの強制だったな。美波の部屋で、エディの説明を聞いた時は、正直言って、たくさん汗をかいたよ。美波とキーランが麻薬売買の容疑をかけられているなんて、悪い冗談にも程があると思ったけれど、下手なエクササイズよりもエネルギーを消耗した気がする」
「そう言えばさ」
美波の横の椅子に腰を降ろしながら、キーランがクスクスと笑い始める。
「どうしたの?」
「ケンイチから面白ことを聞いたんだ。あの木原って刑事、事情を聞くために、美波の病院に人をやったらしいんだ」
「病院に警察が行ったの?」
美波は一遍で憂鬱な気分になった。キーランは、そんな美波の上腕部に手を置き、笑いながら続ける。
「大丈夫だよ。それで、お前に妙な人望があることがわかったんだから」
「妙な人望って、どういうことだい。キーラン?」
「それがさ、その刑事はまず美波のボスの浜松救急部長のところに行ったらしいんだけど、美波と覚せい剤のことについて話を聞きたいって言ったら、浜松部長は、普段、病院ではトイレに行く暇もないぐらい忙しいんだから、覚せい剤に関わっている時間なんてあるはずがない、ばかばかしい冗談に付き合っている暇はないって、即座に言い捨てたらしいんだ」
「トイレに行く暇もないって言うのは、ハードな生活ね」
アリシアが陽気な笑い声を立てる。
「それで、その後、他の人にも話を聞こうとしたんだけど、話しかけたスタッフの全員に同じような対応を受けて、いいかげん嫌になったところで、別の看護師に話しかけたらしいんだ。そしたら、その看護師の人、美波と覚せい剤の関係って聞いた途端に大声で笑い始めて、美波が覚せい剤なんか摂取できるはずがないって言ったんだって。美波はとにかく贅沢に育ったみたいだから、値段の高いワイン以外を飲むと調子が悪くなるし、コーヒーもインスタントなんて体質的に受けつけない。そんな美波が覚せい剤なんて混合化学物質を打ったら、一発で死んでしまうって言ったそうだよ」
そんなことを言ったのは、大方、中西あたりだろう。キーランの話に他の皆が心置きなく笑うのを眺めながら、美波は不機嫌な顔をしてワインを飲み込んだ。
「明日、病院に電話しなきゃ」
「そうするといいね。今日のところは一応、僕から連絡を入れておいたんだけれども、君が調子を崩しているっていったら、浜松さんって人が心配していたから、ちゃんと挨拶をしておくといい」
「お父さんが電話したの?」
美波はびっくりして、エディを見る。
「そうだよ。だって、警察なんかが押しかけて、迷惑をかけたんだから、ちゃんと謝罪しておく必要があっただろう。いけなかったかい」
「いけなくはないけれど。でも、浜松部長驚いていたでしょう?」
「多少ね。でも、適当に説明しておいたから、大丈夫だよ」
エディはとても涼しげに答える。
「近いうちに、日本中の人が、君が僕の娘だって知ることになるんだから、ちょうど良い機会だったと僕は思うけれど」
「日本中の人がって、お父さん、私がお父さんの子どもであることについて興味を持つ人がそれほどいるわけがないでしょう」
「君はそういうところは本当に純真だね」
エディはパトリック、キーランと視線を交わし、苦笑する。
「美波は性格が地味すぎるんだよ。このごろの若い女の子は、なんとしてでもマスコミに出たがる子の方が多いのにな。そうだろう、キーラン?」
「そういうことを妙に重視する子は、確かに多いよね」
「あら、3人ともそういう言い方はよくないわよ。美波はただ堅実なのよ。地に足が着いてなくて、浮ついたことばかりしている女の子よりもよっぽど安心なんじゃないかしら」
「どうかな。どっちかって言うと余計に世話がかかるような気がするけれど」
「その点については、僕もキーランに同感だね。もう少し、世慣れしておいた方がいいと思うのだけれど、トイレに行く暇もない忙しい女医さんではそういう時間をつくることさえ難しそうだ」
「そんなこと言って、エディ。あなただって、昔、随分と浮世離れしていたじゃない」
「僕は君たちのおかげで世慣れしただろう」
エディがウィンクをして見せると、その場にいた美波以外の者はさらに大きな笑い声を上げた。散々と人のことをダシにして勝手なことを言ってと、美波は最初、鼻の上に皺を寄せていたが、やがてつられたように微笑を浮かべた。タイミングを計ったように、ウェイターが前菜を持って現れた。
レストランの支配人が突然入ってきたのは、食後のデザートを半分ぐらい食べた頃だった。クレープ・シュゼットは美波のお気に入りのデザートのひとつで、カロリーの高さを完全に無視をして存分に楽しむことを決めていた。美波がおいしそうに3口ほど食べて見せると、我慢ができなくなったのか、キーランが横からフォークを出し、つまみ食いを始めた。子ども時代からほぼ変わらないふたりの行動の仕方に、親3人は気楽に笑っていた。そういう親密な空間に突然登場した通常ではありえない支配人の行動に、美波はびっくりしてデザートから顔を上げた。
支配人は素早くエディに近づくと、耳元に何かを囁いた。エディは、弾かれたように支配人を見上げる。ちょっと失礼するよと言って、エディがナプキンを置いて立ち上がったのと、かなり強い調子でお待ちくださいということばが聞こえて、ドアが開いたのは、ほぼ同時だった。ウェイターに遮られながら部屋に入ってきたのは、川嶋絵梨子であった。その場にいた全員が息を呑んだ。
「もうそろそろお食事を終えられるころだろうと思って、失礼を承知で伺いました。私もいつまでも待っているわけにも参りませんし、かといって、あなたとはこのような形でしかお会いすることが叶わないようですから」
少し高ぶった声で、絵梨子はそう言った。彼女の早口の日本語は、美波には別の世界から聞こえてくるようにも感じられた。
「何の用ですか」
エディが立ったまま、無表情に聞いた。突然の絵梨子に登場に、戸惑っているようにも見えた。
「ですから、あなたと少しお話をさせていただきたかっただけです」
「オレたち、席を外すよ。先に家に戻っている」
キーランがエディと絵梨子の様子を注意深く観察して、美波を促して席を立とうとした。絵梨子はそんなキーランの様子をじっと観察した後で、ゆっくりと頭を振った。
「もし、今おっしゃったことがこのままお帰りになるということでしたら、どうぞ、お気を遣わずにいてください。日本語がお出来になれないケネディさんご夫妻はともかく、あなた方にも是非この場にいていただきたいわ。特に、美波さん、あなたには残って頂きたいの」
名前を呼ばれて、美波は動けなくなる。キーランの顔を確認して、それからエディの視線を探した。
「絵梨子さん、美波もキーランも今日は大変な1日を過ごしたんです。もし、僕に話があるならばいくらでも聞きますから、あとの者は帰したっていいじゃないですか」
「あなたはそんな優しさを綾乃には示してくれませんでしたわ。だから、私には美波さんに配慮をする必要があるように思えません。昨日、綾乃は美波さんと会って、散々に傷ついて帰ってきました。それでも、あなたの関心は、あなたのご立派な娘さんだけ。その人が綾乃のことを打とうとしたことさえ甘く見ていらっしゃる」
絵梨子のことばに美波は下を向く。言い訳できることではなかった。
「僕も昨日の病院でのできことについてはそれなりに聞いています。確かに、美波の態度が100パーセント誉められるわけではないけれど、あなたや関谷さん、そして綾乃本人が美波やキーランのことを追い詰め過ぎたのではないでしょうか。僕にはそうとしか思えない」
「あなたはいつもそう。フィオナさんや美波さんが第一で、わたしたちはいつもあなたの関心の外。そのことはいくらお話しても無駄ですわね」
そう言いながら立ちはだかる絵梨子は、生来の美しさに加え、凄みを放ち、美波はそんな絵梨子から目を離すことができなかった。
「エディ。やっぱり私たちは帰った方がいいわね。これ以上は、美波が持たない」
アリシアがため息交じりに呟いた。それを聞いて、美波はアリシアとパトリックに微笑んで見せる。
「私は大丈夫だから。アリーおばさんもパットおじさんも、心配しないで、先に家に戻っていて」
「でも、美波、あなた、今朝から辛いことばかりだったじゃない」
言いながら、アリシアは当惑したように絵梨子を見る。
「もう何年も考えてきたのに、私には何と言ったら、彼女を宥めて、分かってもらうことができるのかわからないの。あなたのためなら何でもしてあげたいのに」
美波は席を立って、アリシアに近づき、頬にキスをした。
「だから、アリーおばさんが大好きよ。でも、私は本当に大丈夫。絵梨子は日本語しか話さないから、アリーおばさんやパットおじさんがいない方が話しやすいと思うし」
「母さん、オレが残るよ。それなら少しは安心だろう」
横からキーランが言った。見ると、既に反論は聞かないぞという顔をしている。エディが、ゆっくりと息を吐いた。
「多分、そうするしかないんだろう。パトリック、君とアリーで先に家に戻ってくれないか。僕らもあまり遅くならないようにするから、コーヒーを用意しておいてくれるとありがたい」
パトリックはアリシアの肩を抱いて、美波とエディ、キーランを順繰りに見た。そして、早口の英語で言う。
「OK。アリー、オレたちは先に帰ろう。美波の言う通り、オレたちがいても話に加わることができるとは思えない。それに、コイツ等が帰ってきた時には、きっと適度な快適さが必要なはずで、それはやっぱり君にしかできないことだ」
アリシアはパトリックの胸に顔を押し当てた。小声で何事かをキーランに囁いてから、パトリックは、アリシアを促して部屋を出て行く。キーランは微かに笑っていた。
「迷惑をかけましたね。迷惑ついでに申し訳ありませんが、コーヒーをもうひとつお願いできませんか」
エディが支配人に緩慢に聞いた。支配人は一礼をして出て行き、絵梨子は空いている席に、静かに腰を降ろした。
「私たち結婚して23年になりますけれど、あなたとこういう風にお話するのはこれで2度目ですわね」
絵梨子は、背筋を真っ直ぐに伸ばして、エディの顔を見詰めて言った。対して、エディは両手を顔の前で組んで、やっぱり絵梨子のことをじっと観察していた。カラーコンタクトで隠されたエディのふたつの瞳が暗く揺れている。美波はテーブルの下で、そっとキーランの手を握った。
「それで、あなたのお話とは何ですか?食事の途中で乱入するような行為にまで出たんだ。よっぽど大切なことなんでしょう」
「そうですね。本当は、父も一緒に来たかったらしいんですけれど、このところの心労で調子が良くなかったもので、ひとりで参りました。皆さんで家族団欒の時間を過ごしでいらっしゃるところ、申し訳ないとは思ったのですが、とはいえ、この2、3日、お話をしたいと幾度も申し上げていたのに、時間を作っていただけないようですから、こちらに参りましたの。青山のお宅には上げていただけないでしょうし」
「僕の方にはこれ以上話す事など何もないし、僕の決心を変えるための説得なんて時間の無駄でしかないですから」
「でも、あなたのお話は秘書の岸田さん経由で伺っただけですから、直接お話しをする機会があったわけではありません。第一、それでは交渉にもなりませんわ」
「絵梨子さん、これは最初から交渉ではないんです。問題は、あなたたちが僕の提案を受け入れるかどうかということで、あなたたちが拒否すれば僕は自分がしなければならないことをするまでです」
「つまり、父は刑務所に行き、私たちは離婚して、私と綾乃が松濤の家から出て行くということ以外に選択肢はないとおっしゃるわけですね」
「そうです。それが僕にとっての最低限のラインなんです」
美波は驚いてエディの方に視線を投げた。話がそこまで進んでいたことを、もちろんのように美波は知らなかった。キーランが美波の手を握る力を強めた。黙っていろということなのだろう。
「それで、綾乃はどうなるんですか」
「その件はあなたの好きなようにしてください。岸田君に伝えて貰った通り、財産分与をまったくしないと言っているわけではないんだし、それに、あなたにだって料理やパーティの本なんかで作った資産が多少あるのでしょう?綾乃だって、仕事をしていないわけではない」
エディのことばの調子は、最後の方では随分と揶揄的にも聞こえた。絵梨子の料理やパーティの本というのは、川嶋グループ会長の娘であり、現社長の妻という触れ込みで出版されたもので、絵梨子が松濤の家で行うパーティやその際に振舞う料理などを紹介したものであったし、綾乃の芸能人としての仕事は、そんな絵梨子のコネで料理番組のアシスタントをすることから始まり、現在でも川嶋家の一人娘という評判を使いながら仕事をしている。もし、関谷が逮捕されて、離婚ということになれば、その後、絵梨子と綾乃の仕事が成り立たなくなる可能性は高い。
「私がお話ししているのはお金のことだけではありませんわ。あの娘だって、美波さん同様、あなたの血を分けた娘なんですよ。その綾乃に多少の心をかけてくださってもいいじゃないですかとお聞きしているんです」
「絵梨子さん」
エディは頭を振って、とても憂鬱な声を出した。
「そのことについては、彼女が生まれた時にはっきり言ったはずですよね。僕は綾乃を自分の子どもだとは思えない。この先、何年経ってもそれは変わりません」
「一度だけとはいえ、あなたは私を抱いたんですよ。それで、綾乃が生まれたんです」
「それは、関谷さんが美波の命をかたに、僕にそうしろと脅したからです。あの時、僕は美波のことしか考えていなかった。このことは、もう何度もお話したはずです」
「どうして?」
絵梨子が声を激しく震わせ、怒りに満ちた目を美波に向ける。
「どうして、あなたは、その人が私たちの存在をこんな風に踏みにじってもいいと思われているんですか?」
「あなたは因果関係を完全に取り違えています。存在を踏みにじられたのは、僕であり、死んだフィーであり、そして美波なんです。あなたたちは自分たちにとって都合の良い綾乃という命を生み出すために、フィーというこの上もなく素晴らしい命を葬り去った。フィーという人はね、僕やあなたなんかよりもずっと価値のある、掛け替えのない人間だったんです。僕からすれば、綾乃の存在を認めるということは、あなたたちがフィーにしたことを受け入れることを意味します。僕にそんなことができるわけがないでしょう」
エディは、そこでことばを切って、美波の方へ向いた。
「君、タバコを持っているんだろう。1本くれないか」
美波はエディの突然の質問に飛び上がった。それでも、急いでバッグからタバコの箱とライターを取りだすと、エディに差し出す。習慣的な喫煙のことがバレていたなんて、知らなかった。エディは微かに笑って、煙草に火を点けると、ゆっくりと吸った。
「それにね、絵梨子さん、子どもと親との関係って、生物学的な問題だけではないんです。キーランが生まれる前、僕はアリーとパトリックと知り合って、子どもが生まれる前の興奮や緊張、戸惑い、そして、その他の様々な感情を共有したんです。それで、キーランが生まれて、僕は子どもの世話の仕方を覚えて、キーランが食べ物を食べ始めた時や、笑うようになった時、初めて立ち上がった時にアリーとパトリックと一緒になって喜んだ。そうやって、キーランの成長は僕の生活の一部になっていったんです。ある意味では、僕もキーランと共に成長していったようなものだった。ハーバードへ行った当初の僕は、どうしようもなく世間知らずでしたからね。そういう状況は、美波の時も変わらなかった。パトリックやアリーは僕と一緒になってフィーの妊娠を見守って、美波が生まれると、キーランと美波を皆で一緒に育てた。だから、キーランは僕にとって自分の息子と代わらないし、アリーやパトリックは美波のことを本当の娘のように大事にしている」
そう言いながら、エディはこの上なく優しい視線を、美波とキーランに対して向けた。それから、もう一度、煙草を深く吸い込み、ゆっくりと絵梨子を見据える。
「そんな美波とキーランと比べるとね、絵梨子さん、正直言って、僕と綾乃には関係性ってものがないんです」
「でも、それはあなたがあの子を拒否していたからですわ」
「ねぇ、絵梨子さん、この間、あなたたちがキーランのことを取り込もうとして、彼に綾乃との結婚話をした時、キーランがとても良い言い方をした。あなた方の言うことと僕の生活には何の接点もないって。あの時、僕は、23年前に自分があんな風に明晰に言えていたらと思いました。綾乃のことと僕の生活には何の接点もない。あなたは綾乃を産んではいけないって、僕は言うべきだったんです。けれども、僕はそういう風にはっきりとは言わなかった。その限りで、きっと僕も責任を負うべきなんだと思います。でもね、それでも綾乃をこの世に送りだしたのはあなたであり、関谷さんだ。僕や、フィーや、美波の思いなど構わずに。だから、結局のところは、あなたが最終的な責任を取らなければいけないと、僕は考えています」
「そんな言い方、綾乃にはあんまりですわ。実の父親のおっしゃりようとは思えません。あの娘は今でも、あなたとニューヨークで一緒に過ごした時のことを嬉しそうに話すんですよ」
「やっぱり、いつものように、あなたには僕の話のポイントが分かっていないようですね。要するに、僕はこれまで一度だって綾乃の父親であったことはないし、今後それが変わることなどありえません。もし、あなたがそうして欲しいと言うならば、綾乃本人にはっきりとそう告げても構わないし、その時に、彼女がどういう状況の中で生まれてきたかについて正直に話したっていい。ただそれではいくら何でも可哀想だと思ったから、僕は彼女に近づかないんです。もう既に、多くの人たちが必要以上に傷ついているんだ。彼女に、不必要な悲しい思いをさせることもないでしょう。僕がニューヨークで彼女の相手をしたのは、英語もできず、たいして準備もしてこなかった日本人の女の子とその友だちを放ってはおけなかったからです。事故があったら会社で責任を問われる人間が出てくることになります。それだけだったんです」
エディは容赦がなかった。決然として絵梨子にそう告げると、いら立つ感情を抑えるように、煙草を灰皿でもみ消した。
「あなたのお立場はわかりましたわ」
絵梨子は体を震わせて、大きく息を吸った。
「あなたのお話を聞いた限りではあまり意味があるとは思えませんが、とにかく、父から託ってきたこちらからの提案をお話いたします。あなたの美波さんへの思いはわかりました。フィオナさんとの結婚と美波さんの存在を公にしたいのならば、どうぞそのようになさってください。離婚にも同意いたします。そして、父も引退いたします。ここまではあなたの提案を受け入れます。ただ、父への刑事訴追と綾乃の除籍についてはどうしても受け入れるわけにはまいりません。父はあの通り高齢ですから、刑務所などにやるわけにはいきません。そして、綾乃にはあなたの娘であり続ける権利と川嶋家の財産を相続する権利があります。あなたの娘が美波さんだけであると認めることはできません」
エディは絵梨子が話し終えるまで身じろぎもせず聞いていたが、絵梨子が口を閉じた途端、立ち上がった。
「それでは残念だけど、僕には受け入れられません。人間は皆、自分のやったことの責任を取る必要があります」
言いながら、美波とキーランの肩に手を置いて、立つように促す。
「もう行こう。これ以上、お互いに嫌な思いをすることはない。特に君たちふたりはね」
「父は約束を覚えているのかと、申しておりましたわ」
エディが去った後に残された空っぽの椅子を凝視したまま、絵梨子は高い声を上げた。
「約束?」
「はい。23年前の約束だそうです。あなたが私の夫で、綾乃の父親であることを受け入れ、そのように振舞う限り、美波さんには手を出さないという約束です」
「よく覚えています。関谷さんがそうやって僕と美波との関係性や時間に介入したことは決して忘れません」
「それではすべてを承知の上で、約束を破棄すると決心したんですね」
「絵梨子さん、そんな約束はもともと不道徳なんです」
「わかりました」
絵梨子は落ち着いた声でそう言い、立ち上がった。それから突然、美波の方に体を向けると、美波の頬を思いっきり平手打ちにした。咄嗟のことに、エディもキーランも反応できず、その場が凍りついた。
「絵梨子さん」
エディが絵梨子に詰め寄り、腕を掴む。
「美波には何の責任もないんです」
絵梨子は目も前のエディを完全に無視をし、厳しい視線を美波に投げる。
「今のことは、美波さんが先日、綾乃にしたことの報いだと思ってください。たった今うかがったお話からすると、私以外にあの娘のことを守る人間はいないようですから。美波さん、綾乃はあなたが真隆さんやケネディさんご一家の愛情に囲まれてぬくぬくと暮らしていた間、父親の愛情を知らずに育ちました。だから、私には、この間、あなたが綾乃にしたことや言ったことは許されることだとは思えません。あなたは綾乃の最後の願いを打ち砕くことで、あの娘を絶望に追い込んだんですよ」
「でも、それは綾乃が自分で招いた事でもある」
「綾乃はキーランさんに本気になって憧れていたんです。綾乃だって、真隆さん、あなたがあの娘には一度も見せたこともないような愛情をもって、キーランさんに接していたことぐらいわかっていました。それに、キーランさんにはあなたに似たところがあるようですからね。だから、綾乃はキーランさんに近づきたかった。なのに、今度もまた、あの娘の前には美波さんが立ちはだかって、あの娘の欲しいものを独り占めしている。その上で、綾乃は非難され、悪者にされたんです。これが暴力でないとしたら、何なんですか」
美波は打たれた頬を押さえ、俯いたまま絵梨子の言うことを聞いていた。彼女の一言、一言が胸に重く沈んでいった。
「でも、美波だって、たくさんの悔しい思いや悲しい思いをしてきたんです」
突然、それまで黙っていたキーランが口を開いた。美波の頭を抱え込み、体を引き寄せながら、ゆっくりと、ひとつひとつのことばを確認するかのように続ける。
「僕はずっと美波のことを見てきたから、そのことをよく知っています。大好きなお母さんをあんな酷いやり方で亡くして、お父さんにはなかなか会えなくて、小さかった美波はひどく打ちのめされて、それでエディが次にニューヨークに来る日を、僕らは一緒に数えて待っていたんです。僕が美波のことを愛していて、この上なく大事にしているのは、僕らがそうやって長い時間を一緒に過ごしてきたからです。綾乃さんにそんな風に時間を共有してきた人がいないのはとても可哀想なことだけど、僕らにはどうすることもできない。美波を責めるのはお門違いです」
美波は率直なキーランの言い様にとても驚いて、キーランの瞳の奥を見詰めていた。キーランは少しはにかんだように笑い返した。
「それならば、その大事な美波さんを亡くしたりしないように、せいぜいお気をつけになることね。真隆さんのように、若い時に最愛の人を亡くして、残りの人生をその人を想いながら生きていくのは嫌でしょう」
「嫌ですね。だから、そんなことにはならないように僕らが全力で美波を守ります。エディだけではなく、僕や、僕の両親、美波の友だち、仕事場の同僚。皆、美波をとても愛していて、大事にしているんです。あなたが美波を傷つけるようなことをするならば、そういう人たちの思いも踏みにじることになるんだとよく覚えておいてください」
絵梨子に背中を向けたまま、美波に語りかけるようにキーランは言った。その後、しばらく間、緊張した沈黙が部屋の中を支配した。
「出口まで送ります」
エディがふいに言って、絵梨子とエディが緩慢に歩き出した。すぐに、遠くで、ドアが閉まる音がする。その音を合図に、美波はキーランの肩に顔を埋めた。キーランがそっと美波の頭の先に唇を寄せた。
数分後、エディは赤ワインの瓶とグラスを持って戻ってきた。
「本当はもっと強いやつが必要なんだけどね」
美波とキーランにワインをたっぷり注いだグラスを渡すと、自分はさっき座っていた椅子に腰を降ろし、煙草に火を点けてから、グラス半分ぐらいのワインを一気に飲む。そんな父の様子は、いつもより、少しだけ興奮気味のようにも見えた。
「お父さん、煙草なんか吸っていたの」
「30代の半ばでやめたんだ。もっとも、今でもヨーロッパに行くと、時々、吸うかな。とにかく、君ももうすぐやめるといいね」
エディは穏やかに笑って見せた。美波は少し赤くなった。
「それはそうと、お見事だったよ、キーラン。君の態度はとても立派だった」
グラスを上げて、乾杯のような仕草をし、エディは残りのワインを飲み干し、すぐに手酌でワインを継ぎ足す。ジュースにようにワインを飲むエディに、キーランは行きがかり上グラスを手に取ったが、どことなく居心地が悪そうだった。
「ところで、キーラン」
「何?」
ワインに口をつけながら、キーランが用心深く聞き返す。エディは、美波とキーランに対して、その完璧な笑顔を向けた。
「今度、僕の娘についてああいう発言をする前に、一度、美波とふたりで僕のところに来て、君たちの関係について正直に話をしてくれると嬉しいな。寝耳に水で、若い男が自分の娘を愛しているって聞くのは、やっぱり父親としてショックではあるからね」
そう言ってから、エディはさもおかしそうに笑い始める。美波は突然、少年のように振舞い始めた自分の父親に呆気に取られ、キーランはグラスの中のワインを飲み干すと、エディからワインボトルと美波の煙草の箱をひったくった。
「寝耳に水なんて、よく言うよな」
「事実だろう。僕は、君たちから何の報告も受けていないし、第一、君も美波もそういうプライベートな問題になるといつも貝のように口を噤む」
「ちゃんと話せるような段階になったら話すよ。言っただろう、オレも美波もこういう問題については慎重なんだ」
「君たちの場合はウィスキーの醸造のようだね。ただ、この場合、10年物はともかくそれ以上の年月が経つとあまりいただけないと思うのだけれど、どうかな?」
ずばり10年ものと指摘され、美波は少し身を引いた。この人は、きっと、自分たちのことについてずっと知っていて、それでも黙ってきたのだろう。それをこんな状況で言い出すなんて、ある意味では、意地が悪い。
「それはそうと、出て行く前にパトリックは君に何て言ったのかい。キーラン、君、笑っていただろう」
美波の反応を余裕の表情で少しだけ楽しみ、エディは話題を変えた。それで、それまで緊張で強張り気味であったキーランの表情がみるみるうちに緩んでいく。
「もしもの時はエディが殴る前にお前がやれって言われたんだ。その方が問題は少ないだろうってさ」
キーランの答えに、エディは屈託のない笑い声をたて、美波もつい噴き出してしまっていた。
「パットおじさん、相変わらず西部劇みたいよね」
「確かに、喧嘩の仕方では、パトリックの右に出るものはいないよね」
エディは煙草の煙をゆっくり吹き出すと、一瞬、遠い目をした。
「こういう時には、パトリックほどに頼りになる味方はいないってことかな」
ボトル1本のワインと半ダース以上の煙草で何とか気分を沈めてから、美波とエディ、キーランは青山のマンションに歩いて戻った。マンションでは、パトリックとアリシアがよっぽど気を揉んでいたのだろう。玄関の扉を開けると、ふたり揃ってすぐに飛び出してきたが、エディとキーランの調子が思いのほか陽気で、興奮気味であったことにパトリックとアリシアは当初、当惑した表情を隠せなかった。それでも、パトリックはエディとキーランの会話にすぐに加わり、美波にとってはあまり面白くもない法律関係者の噂話、つまり、最近の筋の通らない判決だとか、共通の知り合いの弁護士の近況だとか、困った同僚の話などを盛んに話し始めた。アリシアから興味深げな視線が送られてきたのだが、美波にはただ肩を竦めることしかできなかった。絵梨子との会話の後、父とキーランがふたり揃って少年のように振舞い始めたことや、パトリックがそういう調子に加わったことの意味が何であるのか、美波にはさっぱり検討がつかなかったが、3人ともが楽しそうなので、それはそれでいいのかもしれないと考えることにした。絵梨子とのことは、明日、改めてアリシアに告げればいいだろう。
その夜半、美波は突然、強い吐き気を感じて目を覚ました。キーランが隣で寝ていたので、できるだけ静かにベッドを抜け出して、トイレに行き、吐きたいだけ吐いた。胃の中に詰まっていたものが、面白いほど出てきた。
トイレの外に出ると、キーランがタオルとミネラルワォーターのボトルを持って、壁によりかかり待っていた。
「吐いたのか?」
「ちょっとね」
美波は洗面所に向かい簡単に歯を磨くと、一緒についてきたキーランからミネラルワォーターのボトルをありがたく受け取った。冷たい水を口に含むとすこしだけ安心する。
「単なる飲みすぎだよ」
「だったらいいけどね」
キーランは美波の体を抱き寄せ、ため息を吐く。
「絵梨子さんの言ったことは気にするなよ。こんなこと言っても慰めにはならないのかもしれないけれど、綾乃さんのことは誰にもどうすることができないし、絵梨子さんがお前を責めるのは間違っている」
「そうかもしれないけれど」
答えながら、美波も大きな息を吐く。
「だからって、気分が軽くなるわけではないし、お父さんもキーランもいつになく興奮気味だったし」
「仕方ないよ。エディだって、オレだって、絵梨子さんがあの部屋に居た間、ずっと緊張しっぱなしだったから、彼女が立ち去って、何て言うかさ、自分を解す必要があったんだ」
「そうだね」
美波は自分の体重をキーランの肩に預け、目を閉じた。それで、キーランが美波を抱き上げ、頬に唇を寄せる。このまま難しいことを忘れてしまえれば、どんなにいいかと思う。
翌朝、病院に電話すると、浜松部長は君もこのところとんだ災難だねと、笑っていた。
「それにしても、あの川嶋真隆氏が君の父親だって電話してきたのには驚いたよ。君は本当にドラマチックな人だね。有名なお父さんがいるって、もっと早く教えてくれればよかったのに」
「先生には、結果的には隠していたようなことになってしまい、申し訳ありませんでした。実は、あまり多くの人が知ることではないので、私も自然と口外しない習慣がついてしまっていて」
「まぁ、そう言えば色々と事情はありそうな感じではあったね。それで、体調の方はどうなんだい」
「もう大丈夫です」
美波は努めて明るい声を出してみせた。
「それなら、明日。仕事が山のように待っているから」
「はい。また明日、よろしくお願いします」
美波はできるだけ丁寧な調子で言うと、電話を切った。本当は軽い吐き気がまだ続いていたのだが、仕事をすることで克服できるのではないかと期待していた。
週末だというのに、エディとパトリックは朝早くから仕事に出かけて行った。美波とキーラン、アリシアは原宿のマンションに立ち寄ってから、エディに言われたように銀座のモード・ビルに出かけた。モード・ビルは80年代の初めに、川嶋グループが始めた総合ファッション・ビルで、オープン以来、東京での最先端ファッションの発信地として、ファッション・ビジネス関係者のみならず若い人たちの間でも注目を集めてきた。美波からすると、エディがファッション・ジャーナリストのガールフレンドから得たアイディアで始めたサイド・ビジネスなのだが、土曜日ということもあってかその日も大勢の買い物客で大変な混みようであった。不況とか、不良債権とかいう問題は一体どこに存在しているのだろう。
キーランがスーツの寸法を合わせている間、美波はアリシアと一緒にショッピングを楽しみ、下着に加えて、景気づけにとパンツ・スーツとワンピースを買った。よく考えると、エディのガールフレンドがお勧めのブランドだった。多分、小さい頃からエディが買い与える洋服類は、実は彼女が選んだものであったので、結局、趣味が似てくるのだろう。一通りの買い物を済ませると、いつものように、ビルの中庭のカフェでお茶をしながらキーランを待つことにした。
視界の端に芳賀暁の姿が引っかかったのは、アリシアが最近見た古い日本の映画のことを話している真っ最中であった。戦後直後から高度成長の時代に入る前の家族関係がとっても細やかに描かれていてね、というアリシアの声が急速に美波の頭の中から消えていく。テーブルの上に投げ出されたアリシアの手に自分の手を重ねると、美波は芳賀の姿を追った。黒のハーフコートに黒のジーンズを身に着けた芳賀は、いつもにも増して繊細に見え、懸命に誰かを追っていた。芳賀の行き先に向けると、身なりのよい灰色の頭をした男が小走りに人ごみを縫うように歩いていた。芳賀が何かを言うと、先を歩いていた年長の男が突然のように立ち止まり、芳賀の方に振り返った。芳賀が男の腕を掴んで、さらに何か言った。男はしばらく芳賀の言うことをじっと聴いていたが、やがて芳賀の手を振り払い、人ごみに消えて行った。芳賀は、呆然と男の後ろ姿を見送っていた。
「どうしたの、美波」
アリシアが訝しげに美波の顔を覗き込む。美波が頭を振って、何でもないと言うと、困った人ねと苦笑する。
「私にはもう少し、色々と言ってくれてもいいのよ」
「そんなことじゃなくて、ただ、友だちを思わぬところで見かけたから、びっくりしただけ」
「それなら、いいけれど」
穏やかに笑い掛けると、アリシアは美波の頬を優しく撫ぜた。もう一度、芳賀の方に目をやると、芳賀は同じ場所で、ジーンズのポケットに手を突っ込み、何かを思案しているようであった。そして、そんな芳賀のことを、難しい顔をしたキーランが5メートルほど離れたところでじっと見ていた。
スーツが入った大きなバッグを抱えて戻ってきたキーランは、モード・ビルは川嶋都市計画の経営なんだと教えてくれた。多分、美波が芳賀のことを見ていたのに気がついたのだろう。その後、キーランは、やっぱりオレも会社に行くよと、美波とアリシアを青山のマンションまで送り届けると、新しいスーツを身に着けて出かけて行った。午後の間中、残された美波とアリシアはソファに座って、読書をしたり、コーヒーを飲んだりして、ゆったりと、気ままに過ごすことにした。そのうちに美波はうとうとし始め、アリシアにもたれかかって眠り込んでしまった。
美波を起こしたのはエディだった。頬に手を掛け、心配そうに美波の方へ屈んでいる。上体を起こすと、弾かれたように笑った。
「随分と良く寝ていたね」
「エディ、美波はコーヒーを飲みながらでも眠り込むようなヤツなんだ」
どこからか、キーランの声がする。見回すと、エディの他は誰もいなかった。他の皆は、キッチンにでもいるのだろうか。
「今日1日、ゆっくり休むことができたかい」
「そうね」
「まだ吐き気がしているのかな?」
「もう大丈夫」
美波が微笑むと、エディも笑う。こういう時の父はとても甘く、抵抗しがたいほどハンサムで、美波はどうしてこの父が過剰にモテてしまうのか、納得してしまう。
「お父さんこそ、今日は休日出勤でご苦労様でした」
「経営者には休日出勤というのはないんだ。キーランにはあるけどね」
「悪かったな。せっかく人が気を遣って手伝ってやったのに」
すでにシャワーを浴びて着替えたのだろう。すっかりカジュアルなジーンズ姿に戻ったキーランが居間に入って来た。手にしたオーブングラブで美波の頭を軽く叩く。
「こら、怠け者。いつまでも寝てないで、手伝え」
「いいよ。僕が手伝うから」
「エディは1日中働いていたわけだろう。そうやってエディが美波のこと甘やかすから、コイツは幾つになっても何かって言えば眠り込むんだ」
「いいじゃない。明日、仕事あるのは私だけなのよ」
「残念でした。オレたち全員、明日も休日返上なんだ。だから、朝は病院まで送って行ってやるよ」
そうやって自分が一番、私のことを甘やかすんじゃないと美波は思ったのだが、笑うだけで済ませ、ゆっくりと立ち上がり、キーランの後についてキッチン方へと歩き出した。
「お父さん、早くシャワー浴びていらっしゃい」
部屋を出る前にエディの方を振り返ると、エディは困ったように笑って、わかったというように手を上げた。
その夜、食事が終わった後、居間に場所を移して皆で寛いでいた時、色々なことを考えるとこのまま原宿に帰らずしばらくこの家にいたほうがいいと思うんだと、エディが何気なく告げた。あの部屋に戻るには新しいベッドを手配する必要があるしねと、言い添える。言われた美波は、エディの表情を覗き込み、その本心を確かめようとした。本当に、ベッドのことだけであったらいいのだけれど、きっとその以上の心配をして、エディは提案したのだろう。アリシアが柔らかく、それならばクリーニングに出した洋服なんかはこっちに持ってきておくわねと付け加えるので、美波はつい頷いていた。何となくキーランの方に視線を投げると、ポーカーフェイスを装った振りで、新聞を見ながらパトリックと何事か話していた。実のところ、美波の前では、キーランはあまりポーカーフェイスが上手くない。