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第4章

  その朝のカンファレンスの短いプレゼンテーションが終わって胸をなでおろした瞬間、窓の外の緑の葉が生い茂る街路樹が突然、美波の意識を捉えた。10月も下旬になり、東京の景色もすっかり秋らしくなってきているが、木々があざやかに紅葉するまでにはもう少し待たなければならない。その時、美波が思い出していたのは子どもの頃に親しんだニューヨークの秋模様であった。あの頃は、飽きもせず、あとから、あとから降り注ぐ黄色い落ち葉をキーランと拾い集めた。東京では、どうしてもニューヨークのようにはいかない。病院の周りには木が少ないし、残念なことに仕事が終わる頃までには真っ暗になっているはずである。第一、紅葉が始まるまで、キーランが東京に滞在できるのかだって、怪しいものだ。進藤外科医長と浜松部長の労いのことばに応えながら、美波の心は窓の外へと流れ出していた。青空が広がる美しい秋の日。黄色の落ち葉はまだだとしても、ピクニックを用意して、外で過ごすには絶好の日和だ。仕方がないので、後でタバコ休憩に出ようと、心の中でその日のスケジュールを確かめる。運の悪いことに、朝の間は外来の診療に当たっているので、昼休みまで診療室に缶詰状態である。おまけに、今日は夜勤だ。秋の日光を楽しむような時間はまったくない。もっとも、心配性のキーランは、美波が缶詰状態であることを知れば、安心するだろうけれど。

  エディの家で話を聞いてからすでに3週間が経っていた。あれ以来、相変わらずキーランは過保護に美波の送り迎えを繰り返し、また、エディに言われたようにふたりで定期的に青山の家を訪ねていた。とはいえ、毎日は平穏に過ぎていくばかりで、美波は、話を聞いた当初の緊張感をまったく失っていた。すべてはエディの心配のし過ぎか、自分とキーランをびっくりさせて結婚に追いやるための芝居に過ぎなかったのではないかとさえ思えてくる。相変わらず美波とキーランは自分の仕事に精を出し、一緒にいられる時はその時間を楽しむようにしていた。時々、エディの依頼した仕事が終わらず、このままキーランが東京にいてくれたらばと思ってしまうのだが、もちろん、そんなことを口にすることはできなかった。

  担当の診療室に入り、コーヒーを胃に流し込んで体を強制的に仕事モードにしようと努力していたところ、電話が鳴った。受話器を取ると、短く外線からだと告げられる。

「もしもし、川嶋さん?」

電話は、寺崎からだった。何となく声に緊張が感じられた。

「寺崎君?どうしたの、こんなに朝早く」

「この時間なら、患者さんたちが来る前に川嶋さんと話ができると思ったんだ」

さすがに長年の付き合いのせいか、寺崎はしっかりと美波の勤務状態を把握している。

「あのねぇ、川嶋さん。実は折り入って、内密の話があるんだ」

「随分と改まっているのね。内密の話って、何のこと?」

「後で話すよ。でも、できれば、オレと暁だけで川嶋さんと話をしたいんだ。今日、本庁まで来る時間はあるかな」

寺崎の言い方に美波は少し驚いていた。桜田門の警視庁まで来るように聞くなんて、何の用があるというのだろうか。

「今日はちょっと無理。夜勤だもの」

とりあえず、正直に応える。

「そうか。じゃ、そっちの病院で秘密の話ができそうな場所なんてあるかな」

「そうねぇ。たとえば、朝の診療が終わった後、診療室に30分ぐらいこもって話をすることぐらいはできるけれど。それとも、会議室のようなところが必要なのかな」

「診療室で大丈夫だと思うよ。まさか、盗聴装置なんてついてないよね」

言われて美波は息を呑んだ。寺崎の質問に、とても驚いていた。

「そんなこと考ええたこともない。それとも、調査しなきゃいけないかな。ウチの病院、十分に古くて、そんなものが使えそうには見えないけれど」

寺崎は浅く笑った。

「この場合、施設自体の建築年数はあんまり関係ないんだ。いいよ、あとでオレたちで調べるから」

じゃ、またあとでと言って、寺崎は突然のように電話を切った。彼は無駄話をするようなタイプではない。けれども、残された美波は、寺崎の突然の電話に当惑してしまう。寺崎が美波に話を聞くためにわざわざ会いに来ると言う。しかも、盗聴器なんてものを気にしている。エディの話を聞いた夜に感じた捉えどころのない不安が美波の胸に戻ってきた。


  その朝、最後の患者が診察室を後にすると、看護師の中西がコーヒーのたっぷり入ったマグカップを持って入って来た。美波はとてもほっとして、いつになく丁寧な礼を述べ、コーヒーに口をつける。その日の仕上げとなった仕立ての好いネイビー・ブルーのスーツを着こなした初老の男性患者の肺のレントゲンの結果は思わしいものではなかった。できるだけ早く検査入院の手続きを取りようにと説明し、一緒にいた青木看護婦をつけて帰したのを中西は目敏く見つけたのだろう。

「あの患者さん、やっぱり癌ですか?」

「レントゲンからすると、かなり確実にね。それもとっても悪い」

「あーあ。何だか、もったいないな。少し年を取っていたけれど、とても素敵な人だったのに。服装といい、体の姿勢といい、何ていうか粋でしたよね」

「粋、かぁ」

美波は、初老の男のことをもう一度じっくり思い出してみた。確かに、印象的な男であった。とても意思の強そうな、ともすれば人に威圧感を与えるような目つきをしていたのだが、全体の成熟し、穏やかな雰囲気がそれを隠していた。美波のネームプレートを目ざとく見たのか、とても柔らかい笑顔を浮かべると、川嶋先生っておっしゃるんですか、私はまた外国の方かと思いましたと言った。

「よく、そう言われます」

美波は、男に苦笑して応えた。実際、初診の患者で、美波を見て外国人と思い、動揺しない方が少なかった。この頃では、看護師も心得たもので、心配そうな患者には、こちらが川嶋先生ですと紹介する。川嶋という日本の名前を聞いて、何となく落ち着く患者は多い。

「いや失礼。昔、アメリカで大変よく似た方に会ったことがあるものですから」

男はとても誠実に美波に対して頭を下げた。それで、美波は却って気恥ずかしく思ったものだ。粋というのは、ああいう態度のことを言うだろうか。

「やっぱり私にはよくわからないな。粋っていう概念(コンセプト)が」

「先生の場合、男性の魅力もカタカナじゃないとだめですか?キーランさんみたいにスマートとか」

キーランの名前が突然出てきたので、顔を上げると、中西はあっと小さく言って、口に手を当てた。

「それで思い出した。寺崎さんと芳賀さんがずっと待っていらしたんですよ。おふたりとも、かなり深刻な顔をして。それで、皆で、キーランさんが来てから、先生がつれないんでショックを受けているのかなって言っていたんです」

「あのふたり、もう来ていたの」

美波は、中西の冗談の方は無視して聞き返す。午前中の診療は、スケジュール的には11時半までとなっているが、実際にはいつも1時過ぎまで持ち越す。寺崎ならば、そのぐらいのことを心得て行動するはずだ。

「はい。12時半を少し過ぎた頃には、もう待合室にいらっしゃったと思います。でも、どこへ行かれたんでしょうね。すぐ入って来られると思ったんですけれど」

中西が思案深げに言ったのと同時に、ノックの音がした。

「ああ、いらっしゃったんですね」

言いながら、中西が気軽にドアを開ける。すると、確かに芳賀の優しい顔が覗いた。

「川嶋さん、もう大丈夫ですか」

美波はできうるかぎり完璧な笑顔を作って応えた。

「大丈夫よ。最後の患者さん、終わったから。こっちへ来て座ったら」

それから、中西の方を向いて言う。

「ねぇ、中西さん。実は頼みごとがあるんだけど」

「何ですか?」

「あのねぇ、私たち大事な話があるみたいなんだけど、この診療室を30分ぐらい使ってもいいかな?お掃除とか、少しだけ伸ばしてもらえればとても有難いし、婦長のこともちょっとごまかしてもらえるととても嬉しいんだけどな」

顔の前で手を合わせながら、美波がそう聞くと、中西は噴き出した。

「先生ったら、こんなときだけ日本人みたいなやり方をマネしようとしてもダメですよ。どうしようかな。先生、このところキーランさんにベッタリで、実際、付き合い悪いし」

「ねぇ、それなら、この間、好きだって言っていたエルメスのスカーフでどうかな?」

「何だかとても大盤振る舞いですね、先生。あの素敵なスカーフいただけるならば、色々やって差し上げるのは嬉しい限りなんですけれども。本当にいいんですか」

「もちろん」

「もしかして、新しいシーズンのスカーフを親御さんに貰ったとか」

中西に図星を突かれて、美波は黙るしかなかった。確かに、2週間ほど前に娘さんにどうぞと貰ったのだと言って、エディは新しいシーズンのエルメスのスカーフをくれた。きっと相手は綾乃のことを想定して言ったのだろうとスカーフを返そうとしたら、君が余計な心配をする必要はないと、エディは受け取ろうとしなかった。だから、新シーズンのスカーフは、あまり使う機会がなかった昨シーズンのスカーフといっしょに美波のタンスで眠っている。正直言って、美波はどちらを中西に譲ってもよかった。ただ、美波としては、純粋に中西が好きだと言ったスカーフを貰ってもらいたかっただけなのだ。美波の心配を吹き消すかのように、中西は気楽な笑い声を上げた。

「いいですよ。スカーフ、約束ですからね」

「今日は夜勤だから、明後日もって来るね」

「絶対ですよ」

中西は割りと真剣な表情で念を押すと、診療室を出て行った。芳賀がさも済まなそうに、美波に視線を送る。

「ごめんなさい、川嶋さん。何だか、余計な世話をかけたみたいですね」

「そんなことはまったくないけど。寺崎君はどうしたの?」

「すぐ来ますよ」

芳賀は憂いを帯びた表情を隠さず、横を向いて嘆息した。いったい、何があったと言うのだろう。


  寺崎は、芳賀から3分ほど遅れて、コーヒーが入ったマグカップをふたつ抱えて診療室に入ってきた。コーヒーは中西に貰ったらしい。実はこれ買ってきたんだと伊勢丹のショッピングバッグを机に載せる。中には、3人前の高級サンドイッチが入っていた。美波は遠慮なく頂くことにした。

「川嶋さん。オレたちがこの部屋に入ってくる前に、診察していた患者のこと、誰だか知っているのかな」

美波がサンドイッチを手にするのを待って、寺崎が聞いた。言い方がとても深刻そうだった。

「最後の患者さんのこと?確か、須藤さんっていったわよね」

美波が何気なく答えると、芳賀が背筋を伸ばした。寺崎が間を置かず質問を続ける。

「須藤は須藤でも、どういった須藤だか知っているの?」

美波は寺崎の質問に気楽に笑った。そんなにたくさんの須藤さんがいることなど考えたこともなかった。

「まさか。私が覚えているとしたら、病変の部分だけ」

「アイツ、本当に病気なんですか?」

芳賀が畳み掛けるように聞いた。美波は怪訝な顔を芳賀と寺崎に向けた。

「本当に病気って、どういうこと?第一、私が患者さんの病状について話せない事はわかっているでしょう?医者の守秘義務ってものがあるんだから」

寺崎と芳賀はお互いの顔を見つめ、黙り込んだ。美波は、サンドイッチ一切れをゆっくりと咀嚼し、それから、もう一度ふたりの顔を見返した。しばらくして、寺崎が当惑したように声を絞り出した。

「川嶋さんの今日の最後の患者なんだけど、実は、広域暴力団須藤組の会長で須藤一晃って言うんだ」

今度は美波がびっくりする番であった。あまり驚いたので、座っていた椅子が後方へ20センチぐらいずれた。

「ええっ。あの人とっても上品そうに見えたけれど、ヤーさんなの」

「そう。ヤーさんなんだ。それもとても偉いんだ」

寺崎は、少し疲れたように応えた。美波には、黙り込む以外にできることはなかった。寺崎は、短いため息を吐いてから、美波の目をまっすぐ捉える。いつもの気楽な調子ではなく、仕事をしている警察官の目であった。

「朝言ったように、オレと暁が今日病院まで来たのは、川嶋さんにちょっと聞きたいことがあったからなんだ。実は、その話には須藤組も関係していて、だから待合室で須藤の姿を見た時は、本当に驚いた。しかも、アイツ、よりにもよって川嶋さんの診療室に入って行っただろう。正直言って、気が気じゃなかったんだよ。オレが暁よりも遅れてきたのも、診療室を出た須藤の後を付けて、やつが迎えの車に乗り込むのを確認してから、この部屋に来たからなんだ」

「寺崎君たち、私に須藤組のことを聞くために、わざわざ来てくれたの?」

この間のエディの話にも須藤組の名前が出てきたなと思い出しながら聞く。いくら暴力団関係者が時々来院し、治療に当たることがあるとはいえ、その手の知り合いが美波にいるはずもなく、そうなると、ここのところの自分と須藤組との接点の増加は、確かに不自然な感じがしなくもない。

「須藤組のことだけじゃないけどね」

寺崎は、そこで、コーヒーに口をつけた。寺崎も芳賀も、せっかく買ってきたサンドイッチに手をつけようともしない。こんなに緊張している様子のふたりを見るのは初めてであった。寺崎が芳賀の顔を見ると、芳賀が頷く。それで、寺崎はゆっくりと喋り始めた。

「最初から話すとね、オレと暁は今、政治家がらみのスキャンダルを追っている東京地検と警視庁合同の大きな捜査チームに所属しているんだ。極秘捜査だから、ここで捜査の詳しい内容について話すことはできないんだけれど、でも、政治スキャンダルだから、おきまりのアクター、つまり、色々な企業とか暴力団とかも捜査上で上がってきて、調べなければいけないことは常識として予想がつくよね」

「うん。そのぐらいは政治に疎い私でもわかる」

「それでね、暴力団の方は須藤組が中心なんだけれど、ただ今度の捜査をしているうちに、企業関係者として川嶋都市計画の名前がかなり頻繁に上がってくるようになったんだ」

「川嶋都市計画?」

「うちの父が雇われ社長をしている川嶋グループの会社です。主に、首都圏周辺の土地開発や不動産管理を手がけています。マンション、オフィスビル、駐車場なんかを建てたり、房総や伊豆あたりにリゾートホテルやマンションを作って、売ったりしている会社です。」

美波の質問に、芳賀がテキパキと答えた。

「芳賀君のお父さんが社長さんをしている会社?」

バカみたいだとは思ったが、つい美波は鸚鵡返しに聞いてしまった。

「そう。だから、暁だけじゃなくしのぶと付き合っているオレにも個人的な利害関係が出てくる可能性があるわけ。それで、捜査の進展にふたりで少し過敏になっていたんだ。そんな時に、オレたちは須藤組のガサ洗いに行かされた。最初の時は川嶋さんも知っている通り暁がケガしたりなんかしたんだけど、今週の初めに割りと徹底的な家宅捜査をやって、その結果、こんなものが見つかったんだ」

寺崎は、美波に分厚い黒のボックスファイルを差し出した。

「私が開けていいの」

寺崎は無言で頷いた。美波は、緊張した手で、ファイルを受け取り、蓋を開けた。その途端、思わずアッと声を上げてしまった。

  ファイルは大量の写真で一杯だった。一番上の写真に写っていたのは、美波とエディ。背景の様子からすると、きっと、先月初めにふたりで新宿御苑を散歩中に写されたものだろう。美波がエディの腕に自分の腕を絡め、どこかへ誘導しようとしている。エディはそんな美波を穏やかな笑みで包んでいる。美波は、しばらくの間、その写真をじっと見つめてから、意を決して、写真を1枚、1枚めくっていった。

  写真の中の美波は、次第に若返っていった。研修医時代、大学時代、高校、中学、そして、日本に来たばかりの頃に通っていたインターナショナルスクールの時代と、日本に移住してからの美波の生活を写真は忠実に追っていた。美波と一緒に写っている人物も、エディだけではなく、キーラン、パトリックとアリシアといった家族として生活してきた者たち、病院のスタッフ、研修医仲間、寺崎や菜穂などの友人たちと多彩にわたってる。ファイルに収められていた写真を並べていけば、美波の日本での生活を再現することができる。

  写真をすべて見てしまうと、ファイルの底のほうに古い書類挟みが納めらていたことに気がついた。大量の写真の束を脇に置き、書類挟みを開ける。中に収められていたのも、やはり10枚ほどの大判写真であった。けれども、先に見た写真の束よりもさらに古い時代に撮られたそれらの写真を見て、美波はたまらず涙を零してしまった。まったく、最近、よく泣く機会がある。

  書類挟みに、他の写真とは区別して収められていたのは、幼い美波と両親、つまりまだ若かったエディとフィオナの写真であった。美波の目は、特に最後の一枚に釘付けとなった。エディが美波を肩車し、もう片方の手でフィオナの手を握っている。3人とも同じ方向に視線を合わせていて、気持ちよさそうに笑っている。ある意味で、美波が初めて目にする家族の肖像であった。

「正直言って、一番上の写真を見た時、川嶋さん、川嶋真隆と付き合っているのかと思った。それで、キーランさんがしばらく来なかったのかなとか、くだらないことを想像した。彼は、女性に関しては色々と噂がある人だからね」

美波が最後の写真を見たまま、しばらく黙っていると、寺崎が自嘲気味に言った。

「でも、写真の川嶋さんはどんどん若くなっていくし、おまけに自分みたいな人間まで出てくるんで、わけがわからなくなった。どうして須藤組が川嶋さんのことをこんなにしつこく追ってきたのかって。でも、書類挟みの写真まで見た時、ひとつだけわかったことがある」

寺崎は、そこで、少し間を取って、美波の様子を観察した。美波は目の淵の涙を拭い、顔を上げ、正面から寺崎の視線に応えた。

「そこに写っている小さな女の子、川嶋さんだろう?それで、川嶋真隆の横の外国人女性が川嶋さんのお母さん。とてもよく似ているもの。そうなると、横にいる川嶋真隆が川嶋さんの父親ってことになるよね」

「私の母はフィオナっていうの。アメリカ人よ。母と父、川嶋真隆はアメリカで結婚したの。それで、私が生まれた」

寺坂が大きな息を吐いた。

「苗字のことやら、それからこの間の神山町のバーのことやら、本当はヒントはいつもたくさんあって、やっとそのことに気がついた時、自分でも何て鈍かったんだって呆れたよ。認めたくないけれど、偏見もあったのかもしれない。川嶋さんと日本人男性の親子関係の可能性なんて、無意識に排除していたような気がする。考えてみれば、川嶋真隆だって外国人の血を引いているのにね。ゴメン、友達としてとても悪いことをしていた気がする」

寺崎は、とても誠実に頭を下げた。美波はその寺崎らしい潔い、わかりやすい態度に、思わず微笑んでいた。

「おあいこよ。私も隠していたもの。でもね、色々と事情があって、父の最初の結婚と私のことは秘密になっているの。だから、言えなかったの。日本の中で、私と父の関係を知っているのは、本当に少数の人なの」

「それで、川嶋さんのお母さんはどうしたんですか?」

芳賀が口を挟む。

「死んだの。23年も前に。私もついこの間、初めて父から事情を聞いたのだけれど、カリフォルニアで刺殺されてしまったようなの」

「事件だったのか。それで犯人は?」

美波は無言で首を横に振った。寺崎と芳賀が、また顔を見合わせた。

「実は、また続きがあるんです」

今度は、芳賀が話を始めた。

「先輩が須藤組の押収資料の中に川嶋さんの写真を見つけて、多分川嶋さんが川嶋真隆の娘だって気がついて、それで僕に電話してきたんです。理由は、僕の父は川嶋真隆の秘書をわりと長く勤めていた時期があるんですけれど、それが川嶋さんがその写真ぐらいに小さかった時に始まっているんです。おまけに、川嶋都市計画と須藤組の関係は、政治スキャンダルとの関連でつながってきている。だから、僕らはとても不安に思って、それで、実家に戻って親父の書斎をちょっと引っ掻き回したんです」

「本当は、違法なんだけどね」

寺崎が補足した。

「もちろん、実家の父の書斎なんかでたいしたものが見つかるわけがないとは思ったんですけれど、いてもたってもいられなかった。で、結果的に言うと、こういうものを見つけたんです」

芳賀は、古びた書類挟みを差し出した。美波は受け取ると、慎重に開いた。正直言って、これまでのことでもう十分驚いていて、これ以上何も驚くことはないと思っていたのだが、それでも用心に越したことはない。

  芳賀が差し出した書類挟みに納まっていたのは、またしても美波の写真であった。ただし、ごく最近のものを除くと美波のニューヨーク時代の写真が大半である。大抵は、キーランやパトリック、アリシアと写っていたが、エディが登場する写真も何枚かあった。そして、写真の束を締めくくるのは、須藤組の写真の束の最後の写真と同じプリントであった。美波を肩車し、フィオナと手を繋ぐ幸せそうなエディ。

「これ、同じ写真ね」

「そうなんです。それは須藤組のファイルにあった写真と全く同じプリントなんです。その他は、何というか、補足的という事ができる。父のファイルと須藤組のファイルを合わせれば、川嶋さんのこれまでの生活史が完成する」

「つまり、須藤組と芳賀の父親、あるいは川嶋都市計画が交代で川嶋さんのことをずっと観察してきたわけってことになるんだよね」

寺崎と芳賀は、極めて真剣に美波に言う。

「問題はそれがどうしてかということなんだ。何で、須藤組が、そして川嶋都市計画が川嶋さんに対してこんなにも強い関心を持ってきたのかってこと」

「もちろん、川嶋さんの方でも色々な事情があるとは思います。でも、僕らにとっても、これは父の問題でもあるんです。だから、もし、川嶋さんが何かを知っているならば、教えて貰えればと思ってここに来ました。僕としては、もし父が取り返しのつかない状況にあるのならば、自首を勧めるなり、最悪の結果になる前に対処したいと思っています」

そう言いながら、コーヒーが入ったマグカップをギュッと握る芳賀の両手は震えていた。美波は、何て言ってよいのかわからず途方に暮れていた。

  美波がエディから聞いた話では、須藤組はほんの少ししか言及されなかった。ましてや、川嶋都市計画の話などはまったく出てこなかった。とは言え、パトリックやエディが不良債権の話をしていたことは覚えている。不良債権と言えば、土地取引と関係している。そして、川嶋都市計画は土地取引を行う会社だ。美波はたっぷり1分ほど思案をして、結局、自分ではふたりに対して納得できるような具体的な話はできないという結論にいたった。この状況で、間違った情報を伝えることほど愚かなことはない。芳賀は既に十分まいっている。

「申し訳ないけれど、私じゃふたりのお役に立ちそうもないの。母が死んだときのショックが強くて、小さかった私が精神的に不安的になったものだから、父もアメリカの育ての親も、いまだに私には詳しいことをほとんど話してくれないの。3週間ほど前、父の家に呼ばれて、少しだけ昔起きたことの話を聞いたりしたんだけど、あの時も、父は具体的な因果関係にはまったく触れなかったし」

「そう」

美波のことばにはっきりとした失望を見せて、芳賀と寺崎は俯いた。そこで、美波はあることを思いついた。

「ねぇ、キーランと話してはどうかしら」

「キーランさんと?」

「そう。キーランが今、東京に来ているのは父の仕事のことでなの。それで、多分、仕事の内容は、ふたりが関わっている問題とも関係している。ねぇ、電話してみましょうよ」

言うが早いか、美波は受話器を取り上げ、川嶋コンサルティングでのキーランの直通電話を押した。寺崎も芳賀も異議を挟まなかった。

「はい。こちらキーラン・ケネディの席でございます」

電話に出たのは、日本人女性だった。完璧にマニュアル通りの声に、美波はとてもがっかりする。

「私、川嶋美波と申します。ケネディさんに伝言をお願いしたいのですが」

美波がそう言うと、電話の向こうで女性が多少緊張したようだった。少々お待ちください、ということばの後、趣味の悪いオルゴール風のクラシック音楽が流れる。いやな音楽だ。今度、エディに変えるように言ってみよう。

「美波か?」

突然、オルゴールの音が途絶え、キーランの声が飛び込んできた。やっぱり、少し緊張しているみたいだ。

「そう。仕事中に、ごめんね。ちょっと、緊急に相談したいことがあったの」

「何?」

「今ね、病院に寺崎君と芳賀君が来ているの。私用じゃなくて、今、ふたりが捜査中の事件との関連で」

「事件って、何の事件?」

「政治家に関するスキャンダルですって。それでね、色々調べていくうちに、暴力団の須藤組で私の写真をたくさん見つけて、その上、芳賀君のお父さん、川嶋都市計画の社長さんのところでも同じような写真を見つけて、その事情を聞きにきたの」

「美波の写真?」

「そう。私の小さな頃から1ヶ月程前までをカバーする大量の写真。もちろん、お父さんやキーランも写っているし、寺崎君なんかの友達も一緒に写されている。それから、お父さんと私とお母さんの写真」

「フィーの写真まであるのか」

キーランは、電話の向こうで息を呑んだ。頭をめまぐるしく働かせて、どうするべきか考えているのが伝わってくる。

「ちょっと待って」

そう言うとキーランは、電話口を離れたようだ。たっぷり3分ほど再びオルゴールの音楽を聴いた後、キーランは戻ってきた。

「悪い。寺崎君に電話を代わって貰えるか」

それで、美波は寺崎に受話器を差し出した。寺崎は、唾を飲み込むと、美波の隣に立って、受話器を耳に当てた。

「寺崎です」

寺崎がそう言うと、キーランが何か言い始めたようだ。受話器から、微かに滑らかな声が漏れてくる。美波は受話器を握る寺崎の横顔を観察して、話の行く末を見定めようとした。寺崎はしばらく相槌を打ったり、頷いたりしていた。そして、突然のように、それに須藤は病院にまで来ていましたしねと言った。

  美波はすぐに頭を抱えた。寺崎もキーランの反応に自分が何をしたのか気がついたのか、美波の方を向くと、左手でごめんという手の形を作った。ただでさえ心配性のキーランは、須藤が病院にまで現れたことなど知れば、一挙に警戒度を高めてしまう。美波はデスクの上のメモを取り寄せて、「怒った?」と書いて寺崎に見せた。寺崎は短く頷き、それから須藤が来た時の状況の説明を始めた。ちゃんと打ち合わせをしておけばよかった。

「それじゃ、これからすぐにそちらに向かいます」

寺崎はそう言い終わった後、受話器をまっすぐ美波へ向ける。

「川嶋さんに話があるって。ゴメン」

美波は仕方なく、恐る恐る受話器を取った。

「お前、何で須藤の診察をしたことを言わないんだよ」

キーランの声は、完全に不機嫌だった。

「だって、ただ診察をしただけなのよ」

「それで、須藤は病気だったんだな」

「そうよ。どういう状態かなんて言えないけれど」

美波が返答した後、キーランはしばらく黙っていた。あんまりよくない兆候だ。

「よりにもよって、今日は夜勤だよな」

「そうよ。朝、言ったでしょう」

「じゃあ、あとでそっちに行くよ。夕食を食べる時間ぐらいはあるんだろう」

「あるけど。8時半ぐらいかな」

「それまで、よく気をつけるんだぞ。余計なところなんか行くなよ。できたら青山の家に閉じ込めておきたいぐらいだよ」

それだけ言って、キーランはガシャンと電話を切った。耳がジーンとする。寺崎が再びゴメンと言った。美波は他にしようがなく、寺崎と芳賀に笑ってみせた。


  寺崎と芳賀はこれから赤坂の川嶋コンサルティングに行くと言う。美波は、結局ほとんど手がつけられていないサンドイッチをふたりに持たせた。車の中で胃に押し込む時間ぐらいあるだろう。ふたりがキーランとどんな話をするのか興味がなくもなかったが、どうせ、キーランが今夜、病院までやってくるからその時に尋ねることができるだろう。須藤の来院をごまかさなければならないから、話題は少しでも多いほうがいい。

  ふたりが慌しく診療室を出て行くと、ふと思いついて、美波は受話器を取り上げ、菜穂の携帯の番号を押した。

「はい。露木」

「菜穂、私、美波。今ちょっと話せるかな?」

「美波ぃ?いいけれど、どうしたの」

受話器から、かすかにものを噛むような音が聞こえた。昼食中だったのだろう。ラッキーだった。

「うん。それがね、このところ、政治スキャンダルに関連して、名前が出ている政治家って誰だか教えて欲しくて」

美波が聞いた途端、菜穂は大きな声でええっと叫び、すぐ声を潜めて聞いた。

「アンタ、頭でも打ったの?政治家の名前が知りたいなんて」

「失礼ね。私だって、政治に関心を持つことだってあるの」

「冗談。アンタって、日常に埋もれていて、国政レベルの政治的無関心の標本みたいな人間なんだから、突然、政治に関心持つなんてなんかあったんでしょう」

記者をやっているだけあって、さすがに、菜穂の観察は正しかった。

「理由に関しては、今は悪いけれど言えないの。色々と家の事情とか、関係していて」

「ふーん。家の状況ね。つまり、あんたのとこの立派なお父様」

これ以上言うとやぶ蛇になりそうなので、美波は唇を噛みしめ、沈黙を守った。菜穂は、陽性な笑い声を立てた。

「いいわよ。教えてあげる。政治家のスキャンダルの噂なんて幾つもあるけれど、アンタの家との関係ならば、きっと、前橋亘のことよ」

「前橋亘?その人って、総理大臣だった人よね」

「よく知っていたじゃない」

電話の向こうで菜穂はケラケラ笑った。人を見くびるにも程があると思う。

「総理大臣だけじゃなくて、運輸、通産大臣なんかも務めた保守党の中でも実力№.1の古参政治家よ。ただ、色々と悪い噂とかあって、これまで何度も汚職事件で名前が出てきているし、組織犯罪との関係も強いって言われている」

「組織犯罪って、暴力団の須藤組とか」

美波がそう聞くと、電話の向こうで菜穂が黙った。

「どうしたの、菜穂?」

「あんた、一体、誰から何を聞いているの?」

菜穂の声はいつになく真剣だった。美波にはやっぱり、黙り込む以外にできることはなかった。菜穂は軽く咳払いをした。

「あのねぇ、うちの局でもその辺のことはとっくに調べているわけ。特に綾乃様が出ている11時のニュースなんかが熱心で、前橋自身とそれから須藤組や川嶋都市計画のことについてアンタのお父上にインタビューを申し込んだんだけど、さすがの綾乃様コネクションも通じなくて、けんもほろろに断られているの」

そうだったのかと、美波は初めて理解する。こんなにも色々な人が、エディのビジネスに関することで、動いていたのだ。やっぱり、自分にはついていけない世界なような気がする。

「私も先週、寺崎君のところに行って、寺崎君と芳賀君とお茶したのよね。ほら、芳賀君のお父さんって、川嶋都市計画の社長じゃない。それに、あのふたりはどうも前橋関連の捜査本部に関係しているらしいし。だから話を聞きたかったんだけど、ふたりとも難しい顔をしているばかりで、何も教えてくれなかった」

「そうだったの」

控えめなため息が美波の口から漏れた。

「まぁ、いいや。調べるのがこっちの仕事だから。あんたのインタビューが必要になったら知らせるから、その時は親友のよしみで受けてよね」

「私はだめよ。会社とは関係してないの」

からかう菜穂に美波は重々しく言って見せたが、同時にひとつ気になることがあった。

「ねぇ。その前橋って政治家、これまでも汚職事件で名前が出ているって言ったよね」

「うん」

「どういった事件なのかわからないかな」

「そうねぇ。けっこうたくさんあるしね」

菜穂は、しばらく考え込んで言った。

「それってすごくいいポイントだと思うよ、美波。私がちょっと調べてみるから、結果はあんたにも知らせてあげる」

「お願い。多分、私じゃ一生かかってもわからない」

「ホント、そうだろうね」

菜穂は再び、陽気に笑ってから電話を切った。


  結局、その日の午後は、特に何事もなく過ぎていった。小さな手術を一件済ませ、容態が良くない受け持ちの患者が何とか落ち着くと、午後8時を過ぎていて、一日中、タバコ休憩の時間もなかったことになる。この調子だと、いくら心配性のキーランでも、心配するネタがないと美波は気づく。手術室にいたり、重態の患者さんのケアする美波に襲い掛かろうとしたも、そんなチャンスなどあるはずがない。そう考え始めたら、美波は良い言い訳ができたような気になり、心がずっと軽くなっていった。

  キーランは、8時半少し前に、テイクアウトのピザの箱をふたつ抱えて、ドクターラウンジに現れた。その日は、随分と消耗したようで、珍しく疲れた様子だった。

「食事まだだろう。ピザ、食おう」

「ピザなんて、懐かしいね」

美波とキーランが、まだ10代前半の頃、パトリックとアリシアが夜、外出する度に、ふたりで映画を見ながら、テイクアウトのピザを食べたものだったが、そう言えば、ここしばらくはピザなど口にしていなかった。

「悪いけれど、懐かしがって、ジャンクフードを食べたい気分なんだ」

ピザの箱をテーブルの上に投げ出し、ドサッと椅子に腰掛けるキーランを見て、美波は淹れたてのコーヒーを差し出した。

「お疲れ様。今日は大変だったみたいだね」

「ケンイチたちが来て、新しい要素が加わったからね。それにしても、あの場で電話してくるとは、美波にしては上出来だったよ。彼らと話して、双方、収穫があったんだ。それから、ケンイチが、こっちに覆面の警察官を寄越すように手配するって言っていたよ」

「病院に警察官がくるの」

美波はつい、顔を顰めてしまった。

「制服着ているわけじゃないんだから、わからないよ」

不満そうな美波にキーランはピザを差し出す。キーランの好きなペパロニと美波の好きなツナのピザ。ピザを2枚頼むことの問題は、ふたりだけでは到底食べ切れないことなのだが、もったいないからペパロニだけでいいと言っても、律儀なキーランは必ず2枚買ってくる。

「本当だったら、お前はしばらく仕事を休んで、青山の家にいたほうがこっちも気が楽なんだぞ。だけど、お前は、絶対にうんとは言わないだろう」

「そのことなんだけどね。病院にいるのもけっこう安全なんだよ。だって、今日なんか、手術と患者さんの対応で、タバコ休憩に出る暇もなかったもの。手術室で私のこと襲おうたってそんなことできないでしょう」

「だって、いつも手術中ってわけではないだろう。今日だって、偶然かもしれないけれど、須藤のことを診察したんだ。病院なんて、色んな人が出入りするんだから、用心することに越したことがないんだよ」

美波のやっと考えた言い訳は、言下に否定されてしまった。弁護士相手に論争しようとするのが間違いなのかもしれない。落ち込む美波を尻目に、キーランは、すごい勢いで1枚目のピザを食べると、2枚目に取り掛かる。

「昼ごはん、食べていないんでしょう」

「お前が電話してきた時、たまたまエディとパットとのミーティング中だったんだ。終わったら、昼食にしようと思っていたんだけど、ケンイチとアキラが来たから、その暇がなくなった」

「そんなことしていると、太るよ。昼食抜きの上、ピザだなんて。キーランだって、来年には30歳になるんだから」

キーランは、嫌な顔をして美波を見た。

「こういう時だけ医者ぶるなよ。気分的に疲れている時には、ジャンクフードもいいんだ」

「しょうがないな」

美波は、口の中にピザを押し込むと、立ち上がり、キーランの背後に回った。それから、スーツの上着を脱がせ、ネクタイを緩めると、首の辺りをマッサージし始める。

「気持ちいいでしょう」

しばらくして美波が聞くと、キーランは応える代わりに、そっとマッサージを続ける美波の手に唇を寄せた。それで、美波もキーランの頭の上にキスをする。すっかりリラックスした気分になり、このままベッドに行けたらなと思った時、ドクターラウンジのドアが開いた。美波は、反射的に、顔を上げたが、手はキーランの肩におかれたままだった。

「いいな。川嶋先生、ピザなんか食べている」

入ってきたのは、吉岡だった。疲労困狽といった趣で、その弱弱しい目がピザに注がれている。吉岡が関心を持っているのは、ピザのみであるようで、美波がキーランと何をしていたのかなんてどうでもいいらしい。美波は慌てて言った。

「吉岡先生、どうぞ、こっちへ来て、一緒に食べたら。どうせ、私たちだけじゃ食べきれないもの」

「いいんですか。ラッキーだな」

吉岡は、そそくさと空いている席に腰を降ろすと、ピザに手を伸ばし、かじりつく。美味しいですねと言うその様子は、長い間、点滴でしか栄養がとれなかった患者さんが久しぶりに食べ物を口にした時のようだった。

「夜勤用スタッフ用のカフェテリアとか、ないの?」

吉岡の様子に、さすがのキーランも少し呆気に取られて聞く。それでも、とりあえず3枚目のピザを確保しているところはしっかしている。

「あるけれど、入院患者用の食事の余りものみたいな感じの定食しか出さないの。食べるのがちょっとコワイかな」

「弁当も取れるんですけれど、毎日だとさすがに厭きるし。かと言って、コンビニとか行っている時間がない時のほうが多いし」

「毎日って、毎日、夜勤するの?」

「アルバイトも含めると、だいたいそうですね。この2年間、ほとんど家なんか帰っていませんよ」

「でも、フルタイムの職業持っていて、アルバイトする必要なんてないんじゃないかな」

驚いて、目を丸くするキーランに、美波は苦笑を向ける。

「キーランには前にも説明したと思ったんだけど、研修医のお給料ってとっても低いの」

「低いって、どのぐらい?」

「病院によってだけれど、下は3万円ぐらいから。だいたい20から25万円ぐらいかな」

「3万円?何だよ、それ。いまどき大学院生だってもっと稼ぐだろう」

「そうだよな」

吉岡が遠い目をして頷いた。

「つまりね、研修医は、まだ一人前とは見なされないから、仕事に対する対価はその程度でいいだろうってことらしいのね。それで、普通は、皆、色々なアルバイトをしながら、2年間を耐え凌ぐの」

「じゃあ、美波もアルバイトしていたのか」

「私は、お父さんが色々とうるさかったからあまり積極的にはやらなかったけれど、ただ割り当てが研修医のグループごとに来るのね。だから、まったくやらないってわけにもいかなかったの」

「へぇ。そういうことだったのか」

「そうよぉ」

美波は、真剣に頷いてから、2枚目のピザに取り掛かった。よっぽど飢えていたのか、吉岡は黙々とピザを片端から平らげている。

「でも、その点、ニューヨークの弁護士先生はいいわよね。ロー・スクール在学中から、高級取りの仲間入りができて」

「ニューヨークの弁護士って、年収どのぐらいなんですか?」

「一年目のアソシエートで1500万円ぐらいかな。ねぇ、キーラン」

美波に突然水を向けられて、キーランは少し驚いたようだった。そうかなと指を折りながら数えてみる。

「そんなものになるか。もっともロー・スクールを出た人間全員がそういう職に就けるとは限らないけれど」

「1500万円。1500万円」

吉岡は熱でうなされたように、繰り返した。

「でも、吉岡先生だって、あと半年で研修医生活は終わりでしょう。大学院に行くのか、病院に残るのかわからないけれど、3年目になったら、随分と楽になるわよ」

「僕は、川嶋先生みたいに、レジデントとして残ってくれなんて誘われることはありませんよ」

吉岡はそう言って、机の上に突っ伏す。

「だいたい、正直言って、毎日、川嶋先生を見ていると、これからもっと大変なんだって思い知らされるばかりですよ。僕は、卒業試験の間に彼女に振られて以来、ずっと独りなんですけれど、この先、当分の間、彼女なんかつくる暇なんてありそうにもないですよね。先生だって、そんなにキレイなのに、男の影が全然ないなぁと思っていたら、結局、義理のお兄さんなんて、お手軽なところで落ち着いちゃって」

「ええっ、そういう話になっていたの?」

気軽に吉岡の愚痴を聞き流していた美波は、最後の「落ち着いちゃって」というところまで来て、大声を上げる。吉岡の余りにもコロキアルな言い方に、多分、途中で話の筋を見失っていたキーランは、何と怪訝そうな顔で尋ねる。

「やっぱり、知らなかったのは川嶋先生だけって、いつものパターンですね。先生、そういうところは、本当にお嬢様ですね」

吉岡は、めんどうくさそうに顔を美波の方へ向けた。

「先生たち、けっこう、青山とかで看護師連中に目撃されていたんですよ。ふたりとも、背が高いから、よく目立つんだそうです。皆、手を繋いでいたとか、キスしていたとか、キャーキャー騒いでいますよ。だから、誰もキーランさんに言い寄ってこないでしょう。川嶋先生が相手じゃ勝ち目ないですからね。でも、それで、浜松部長なんかはけっこう悩んでいますよ。やっと使い物になってきた川嶋先生に来年、抜けられたら困るけれど、やっぱりその辺りのことは、上司として聞きにくいじゃないですか。だから、フォローしておいた方がいいですよ」

「よくわからないけれど、ここでも結婚問題みたいだね。美波も大変だなぁ」

吉岡を観察しながら、キーランは澄ました調子で英語で言った。美波は、人ごとで済ませないでよねとキーランを軽く睨みながら、吉岡にピザをもう一枚取ってやった。

「ピザごときで色々と教えてくれてありがとう」

「そんなこといいですよ。やっぱり暖かい食べ物って美味しいですよね。川嶋先生、またピザを一緒に食べてくださいね」

「そんなことなら、お安い御用だけど」

「嬉しいなぁ。だって、川嶋先生は、本当にいつもお嬢様で、ピザなんかに誘ったら軽蔑されそうだったし、キーランさんだってモロにヤンエグだから、そんな人でもピザを食べるだって知って、何かホッとしましたよ」

「モロにヤンエグ?」

「見た目そのものが典型的なヤング・エグゼクティブのように見えること。もっとも、そんなことば、今では誰も使わないけれどね」

美波が英語でそう説明すると、キーランは小さく笑った。

「日本語って、創造的なことばだね」

そうですかぁと吉岡はピザの切れ端を口に放り込む。その時、まだ若い看護師がドクターラウンジに飛び込んできた。

「吉岡先生。増岡さん、術部から出血です。すぐ来てください」

驚いた吉岡は、ピザを喉に詰まらせてむせ始めた。吉岡に悪いと思ったが、美波もキーランも、つい笑ってしまった。

「いいわよ。とりあえず、私が行ってあげる。吉岡先生は落ち着いたら来たらいいわ」

そう言って立ち上がった途端、キーランが急に美波の腕を掴んで、自分の方へ引き寄せ、唇にキスをした。

「オレも帰るよ。明日、早い時間にアポイントメントがあるんだ。明日は、夕方、迎えに来るから」

わかったと言って、キスを返すと、キーランは一瞬真剣な表情をして、気をつけてと言った。ふと見ると、迎えに来た看護師が赤面していた。


  次の日、広域暴力団須藤組の会長、須藤一晃が検査入院をした。後々のトラブルの発生を避けるため、担当となったのは経験豊かな先輩医師、佐々木であったが、美波も佐々木の補助として、須藤の治療に加わることになった。それで、佐々木と共に須藤の個室に挨拶に行くと、須藤は相変わらず穏やかな様子で、よろしくお願いしますと頭を下げた。昨日の写真のこともあったのだが、そんな須藤の態度に、美波はつい心から微笑んでいた。それでも、一歩、須藤の病室を出ると、目つきが鋭く、派手な服装の男たちがたくさんたむろしていた。ドクター・ラウンジにもどる途中、やっぱり川嶋先生は1人では病室に行かないほうがいいなと、佐々木は美波に注意した。ああいう男たちが徒党を組んでいるところへ、川嶋先生のような女性を送るのは、ハイエナの群れに肉を投げ込むのと一緒だからね、吉岡がもう少し頼りになればいいのになぁと思わずのように呟く。佐々木の身も蓋もない言い方に、美波は気をつけますとだけ応えておいた。


  入院中の須藤の治療に加わることになったことを、帰宅途中、山の手線の中でさりげなく伝えると、反射的にキーランはとても厳しい目をして美波を見返した。

「でも、主治医じゃないから、私がひとりで接触することはとても少ないと思う」

「誰かと代われないのか」

「無理だと思う」

「そう」

暫くの間、考え込むような仕草で、キーランは車窓を眺めていた。美波もキーランの視線の先に目を向ける。街一杯に広がる様々な色の照明が、目の前を通り過ぎていった。

  原宿の駅に着くと、キーランは美波の肩を抱いて、電車を降りた。

「須藤のことは、明日、ケンイチに連絡するから。駄目だと言っても、オレは聞かないよ」

わかっていると、美波は頷いた。キーランが美波の言うことを聞かないのは、珍しいことでは決してない。


  マンションに戻ると、キーランはそそくさとシャワーを浴びに行ってしまった。中西との約束を思い出して、美波は、忘れないうちにスカーフをバッグの中に入れておこうと、寝室に入った。すると、ベッドの上に、綺麗に包装された包みが置かれていた。リボンの間に挟まっているカードには、「美波へ。K」とだけ書かれている。誕生日でもクリスマスでもないのに、何だろうと首をひねりながらリボンを解くと、包みの中から現れたのは、趣味のいい銀製の額におさまった、寺崎と芳賀が持参した幼い自分と両親の写真だった。

「お前、確かフィーの写真を持ってなかっただろう。母さん(マム)のところに残っていたのは、全部、エディにやってしまったんだから」

いつの間にか、シャワーを終えたキーランが、美波の背後から言った。それで、美波はキーランの方を向く。

「ケンイチもアキラも、いいヤツ等だよな。美波はフィーの写真を持っていないんだろうから、無理だとは思うけど写真を貰えないかって聞いたら、芳賀さんの書斎から出てきた分は捜査資料じゃないですからって、すぐにくれたよ。もっとも、横でオレたちの話を聞いていたエディも欲しくて仕方がないようだったけど。誰が何のために撮ったのか分からないけれど、いい写真だよな」

キーランは、いつも美波の願いを自分のことのように理解する。確かに、昨日、写真を見た瞬間から、この写真を自分のものにすることができればと願っていた。とはいえ、寺崎と芳賀の様子や、ふたりが仕事で美波を訪ねてきたことを考えると、自分の思いを口にすることなどできなかった。多分、キーランは、そんな美波の心を感じ取って、写真を貰ってくれたのだろう。

  だとすると、キーランが妙に心配性になっているのも、きっと、想定されている美波の危険を自分のことのように考えていてくれているからなのだろう。そして、美波が存外に落ち着いていられるのは、そうやってキーランに心配を分担してもらっているからであるはずだ。

  感謝のことばを上手く見つけることができず、美波は黙ってキーランの半分濡れた体を抱擁した。そんな美波の耳元でキーランが囁く。

「お礼は美波でいいよ。だから、早くシャワー浴びてきな」

「私はけっこうお腹が空いているんだけど」

「それはあと。こっちが先」

そして、キーランはゆっくりとキスを始めた。


「アキラにはちょっと辛いことになるかもしれないよ」

ベッドの中でしばらく楽しんだ後、ふたりで夜食のツナ・スパゲッティを作っていた時、キーランが唐突に言った。

「辛いことって、芳賀君のお父さんのこと?」

「美波が小さい時、エディの秘書をしていたらしいね。パットも何度か会ったことがあるって言っていた」

美波も質問には直接答えず、キーランは独り言のように続けた。

「芳賀君は、最悪の場合、自首を勧めるって言っていたよ」

「エディも来週、個人的に会いに行くってさ。大学の先輩なんだって」

「芳賀君と寺崎君みたいなものか。私には、けっこう不思議な関係なんだけどね」

茹で上がったスパゲッティをざるに上げて、美波はキーランに差し出す。

「あれは、また特別だろう。ほとんど義理の兄弟のノリじゃないか」

「芳賀君のお父さんが許してくれていたら、多分、ずっと前にそうなっていたんだけどね。芳賀君のお父さんとしては、しのぶちゃんにもっと血筋のしっかりしたエリートと結婚して貰いたいみたい。寺崎君のお父さんは、ヒラの警察官だから駄目なんだって」

キーランは美波の方を見て、笑った。

「パットと母さん(マム)の場合と同じだな。やっぱり、ある社会の中でそれなりにエリートだと、失うものがあり過ぎて、迂闊な結婚はできないのかな」

それから、少しだけ声を落として続ける。

「でも、日本の社会の中で、生き残りをかけて戦っているエディは、不思議とそういうことは言わないな。美波の相手は日本人じゃないと駄目だとか」

キーランの質問に、美波は肩を竦めるしかなかった。

「自分が迂闊に結婚した手前、私にそんなこと言っても説得力ないし、それに、多分、お父さんはキーランのことがとても好きなんじゃないかな。これまでたくさんの若い男の人を見てきたんだろうけれど、キーランほど気に入った人っていないんじゃないのかな」

それから、美波は器用に菜箸を使って、ソースにスパゲッティを絡めるキーランを後ろから抱きしめる。

「少なくとも、私はそうかな」

「そんなことを言ったって、何も出ないぞ」

「私としては、スパゲッティが無事、出来上がればそれでいいんだけどな。もうお腹ペコペコなんだ」

キーランは笑って、それなら皿を持ってきなと言った。

  丁度いい大きさの大皿を選びながら、美波は少しだけ考える。日本の社会でエリートの家に育った娘たちが、パートナーにこんな風に料理をさせることなんか、多分あり得ないことなのだろう。仕事から帰ってくる時間に合わせて夕食を準備し、朝は朝食を用意して、仕事に送り出す。そうして、美波みたいに、お腹ペコペコなんて言って、甘えるようなことはしない。そういう意味では、美波はエリートの結婚相手として相応しくない。そして、キーランは、望めばもっと伝統的なタイプの女の子を人生のパートナーとして選ぶこともできるはずだ。きっと、その方が、生活していく上では楽なのではないかとも思う。

「何、どうしたの」

美波が自分の考えに捉われていると、キーランが聞いた。美波は何でもないと首を振った。


  翌日の午後、入院患者の午後のチェックを終えた美波は、看護婦から伝言メモを受け取った。伝言はキーランからで、緊急のミーティングが入ったので、夕方は迎えにいけない、ただし、会社の車を回すので、それに乗って先に家に帰っているようにとのこと。キーランが夕方のミーティングに出なければいけないことは経験的に非常に珍しいことではあったのだけれど、美波はそういうこともあるものだと単純に納得した。

  勤務を終えて病院を出ると、エディの運転手つきの車がやっぱり救急車の横で待っていた。お待たせしてすみませんと言って乗り込むと、運転手にいいえ、こんなものだと聞いてきましたのでと言われた。ということは、きっと美波のことを随分と待っていたのだろう。それでも、美波は非常に丁寧に、家に帰る前にスーパーマーケットに寄ることができないかと聞いてみた。運転手は気楽にいいですよと請け負ってくれた。

  青山にある高級スーパーマーケットに30分ほど寄ってから家に戻ると、美波は真剣にビーフシチューを作り始めた。子供の頃から、アリシアが頻繁にビーフシチューを作ってくれた。マッシュポテトと合わせたアリシアのビーフシチューは、その日にあった嫌なことをすべて忘れさせてくれるような美味しさで、子ども時代の優しい記憶の中核にある料理だった。覚えている限り忠実にアリシアのレシピに従って料理をすると、すぐに抵抗しがたいような匂いが辺りに立ち込め始めた。

  キーランが戻ってきたのは、8時半を優に過ぎてからであった。何となく上の空で部屋に入ってきて、美波がキッチンにいるのを見つけると、急に抱きすくめる。

「なぁに?料理の匂いに、里心でもついたの」

からかうような調子で言うと、初めて気がついたように鍋の中を見る。

「すごいな。仕事から帰った途端に料理にありつけるなんて、専業主婦を欲しがる男の気持ちが初めてわかった」

あまりに素直なコメントに、美波はかなり、狼狽える。

「そうなの?私といる限り、多分、あと3年ぐらいはこういうことはないかもしれないよ」

キーランは、すぐに複雑な笑顔を浮かべた。

「冗談だよ。料理のことなんてどうでもいい」

「それも困るな。今日はとても頑張ったんだから。とっても疲れているキーランのために、アリーおばさんみたいなビーフシチュー作ろうと思って」

美波が囁くように言うと、キーランは、美波の首筋に顔を埋めた。

「確かに、今日は色々と立て込んでしまって、疲れているんだ。だから、もう少し、このままでいさせてくれないかな」

キーランは、とても静かにそう聞いた。それで、美波もしばらくの間、黙ってジャガイモが煮える音に耳を澄ましていた。


  シャワーを浴びた後、キーランは爆発的な食欲を見せて、ビーフシチューを食べた。その夜の間、帰ってきた当初の感傷的な態度についてはまったく説明をせず、美波もあえて聞くようなことをしなかった。それで、ふたりはいつものようにベッドの中でゆっくりとお互いの体を堪能した後、朝まで穏やかな眠りについた。


  その日の通常勤務を終えると、美波は、2日続けての休みを取れることになっていた。1日は平日なので、キーランは仕事にでなければならないが、それでも珍しく連休が取れるというのは嬉しいものだった。そのせいか、気持ちよくベッドを抜け出すことができ、しっかりと朝ごはんを食べた後で、キーランと一緒に家を出た。

  電車に乗っている間、いやに周りの人たちが自分たちのことを見ているなとは思った。それでも、もともとキーランと自分が並んでいると目立つものなので、特に気にも留めずにいた。いつものように、病院の近くまで来ると、キーランは素早く美波の唇にキスをし、赤坂方面に消えて行った。

  白衣に着替えてドクターラウンジへ入っていくと、また病院で夜を明かしたのか、吉岡がスポーツ新聞を広げていた。美波の姿を見ると、挨拶も赤ず、妙に驚いた調子で新聞をテーブルの下に隠す。

「どうしたの?」

何気なく笑って聞くと、吉岡は恐る恐る美波の顔を伺う。

「川嶋先生、大丈夫ですか」

「何のこと?私はいつも大丈夫よ」

「もしかして、まだ知らないんですか」

そういって、吉岡は、おずおずと先ほど隠したスポーツ新聞を美波の方へ押しやった。自分のマグカップにコーヒーを入れ、美波は気軽に視線を新聞の方へ投げる。それで、危うくコーヒーをテーブルの上にぶちまけそうになった。

  第1面に大きく写されていたのは、キーランの全身像であった。どこで撮影された写真なのか不明であったが、階段を急いで登っているような感じであらぬ方を向いている。美波は状況が把握できず、眉を顰めた。

「川嶋先生、こっちから読むんですよ」

吉岡が丁寧にも指で示して教えてくれる。大きな赤い文字で、「川嶋綾乃、絶好調」と書いてあった。そしてその隣に、やや小さな青い文字で「ニューヨークの超ハンサム若手エリート弁護士と結婚!」という見出しが踊っている。美波は、身を乗り出して、そのスポーツ新聞の記事を読もうとした。非常に細かい字と独特のスタイルに難儀しながら読解したところによると、昨夜、都内のホテルで川嶋家とキーランとの間で話し合いがもたれ、その場でキーランと綾乃の結婚が合意され、実現に向かって動き始めたとのこと、川嶋真隆も非常に乗り気であることなどが書かれていた。

「川嶋先生、わかりますよね」

美波が記事とにらめっこしていると、吉岡が遠慮がちに口を挟んだ。

「キーランが川嶋綾乃と結婚するって書いてあるんでしょう」

「そうですね。今日のスポーツ新聞各紙の1面は、軒並みこの話題です。川嶋綾乃はニュース番組の司会を始めてから、けっこう人気が上がっていますから」

「スポーツ新聞各紙?じゃあ、これはメジャーな話題なの?」

「多分、キーランさん、今日はワイドショーのレポーターに追い掛け回されるんじゃないんですか」

それで、電車の中で、見知らぬ人たちが自分とキーランのことを見ていたのだと、美波はやっと納得する。そして、昨夜のキーランの感傷的な調子は、多分、このことと関係している。美波は、思わず、怒りで体をブルっと震わせていた。そんな美波の様子を、吉岡が上目遣いに伺っていた。


  その日の午前中、美波はどうにか自分のイライラを押さえ込み、外来の診察に当たった。それでも、いつもよりも殺気立っている気配が感じ取れたのか、もしくは看護師連中や他のスタッフもスポーツ新聞の記事を読んだのか、誰もが美波に対して壊れ物を扱うように接した。それが尚更、癪に障って、美波のイライラはさらに募っていった。

  朝の外来の最後の患者が診療室を出ると、美波はタバコを掴み、救急外来の玄関へ向かった。もう一刻も、診療室に篭っていることができなかった。けれども、救急外来の待合室まで行くと、自分が最悪の判断をしたことを思い知らされた。待合室の最前列に座っていたのは、綺麗な身なりの川嶋綾乃その人だった。

  美波に姿を認めると、綾乃は立ち上がり、まっすぐ美波の方へ歩み寄った。

「お話があります」

美波は、綾乃を冷たく見やった。

「病気ならば、向こうで初診の受付をしてください。といっても、今日の受付時間は既に終わっていますけれど。病気じゃないならば、私の方にはお話することはありませんので、お引き取り下さい。これでも仕事中なの。誰かみたいに、親の名前で仕事しているわけじゃないから、あなたと話す時間なんかありません」

それだけ言って踵を返し、綾乃に構わず救急外来の出入り口に向かう。遠くで、看護師の誰かが、どうしよう、あの(、、)川嶋先生が怒っていると、あまり小さくない声で言ったようだった。


  タバコを吸うため、救急外来入り口の脇の窪地に入ると、綾乃は黙ってついてきた。美波は綾乃のことを徹底的に無視して、タバコに火を点けた。

「お話があります」

美波はそっぽを向いた。

「キーランさんを私に下さい」

そのことばを認識した途端、美波は心の底から驚いて、思わず綾乃を見ていた。何を言っているのだろう、この子は。

「キーランさんを私に下さい」

綾乃はもう一度、繰り返した。それで、綾乃が冗談を言っているわけではないことを、美波は理解する。仕方がない。綾乃がそのつもりならば、こちらも真面目に綾乃の相手をしなければならない。

「あなた、自分が言っていることを理解しているの?キーランはモノではないのよ」

「わかっています。私はキーランさんがとても好きなんです。そして、キーランさんに素晴らしい可能性を拓いて上げることができると思っています。だから、自分のことを彼にふさわしい伴侶になれる女だと思っています」

「素晴らしい可能性って?」

「川嶋グループです。私と結婚すれば、キーランさんは、いずれ川嶋グループの経営者となることができます。キーランさんはあれだけ色々な才能に溢れた人なんだから、全世界にネットワークを持つ企業グループを経営するチャンスは、彼にとって最善の人生の可能性であるはずです」

「キーランがそうしたいって言ったの?」

「キーランさんは、あなたに遠慮しているんだと思います。優しい人なので、やっぱり、自分のことだけを考えてあなたと別れることなんかできないんです。でも、キーランさんの将来を考えたら、彼にこのチャンスを掴ませてあげるべきだと思います。だから、キーランさんと別れて、私との結婚を承諾するように彼を説得してください」

美波は綾乃の言っていることを聞いて、吐き気を覚えた。どうしたら、ここまで自分勝手なことを言い立てられるのだろうかと、強い怒りを感じる。

「ひとつだけ親切に教えてあげるけど、昔からキーランは、自分の生活に関わることは自分で決めていて、私や彼の両親を含めて他の人間の言うことを聞いた試しなんかないの。だから、あなたがここで私相手に何を言おうが無駄で、時間の浪費でしかないの。わかったら、さっさと家に帰りなさい」

ほとほとうんざりした美波はそう言い捨て、短くなったタバコを病院の壁でもみ消して、その場を立ち去ろうとした。そんな美波の腕を綾乃がギュッと掴む。

「人のこと、子ども扱いしないでください。私だって知っているんですよ。あなたと父のこと」

美波は綾乃を見据えた。

「知っているって、何のこと?」

「あなたが父の隠し子だっていうこと」

「隠し子?冗談でしょう?」

美波の知る限り、隠し子ということばは、婚姻関係にある者が結婚の枠組みの外で他の性的パートナーとの間に作った極秘の子どものことを意味していて、どう考えても自分には当てはまらない。少なくとも、エディはいまだに美波の母であるフィオナを妻だと思っており、深く愛している。

「冗談なんかでこんなことを言うわけがないでしょう。ちゃんと母と祖父から聞いたんだから。父が家に帰らないのは、あなたとあなたの母親にたぶらかされたせいで、だから、あなたたちのせいで、私の家はずっとむちゃくちゃだったんだから」

綾乃の激しい言い方に、今朝から溜まっていた美波のイライラが爆発しそうになる。

「ちょっと待ってよ。少し考えれば、そんな言い方、おかしいってわかるでしょう。あなたよりも私の方が年上だし、私の母はずっと昔に死んでいるんだから、エディが絵梨子さんとちゃんとした結婚生活したいと思っていたならばそうしていたはずでしょう。現実がそうでなかったのは、エディと絵梨子さんの間に問題があるってことなの」

それから、お祖父さんの関谷さんとの間にもねと、美波は心の中で付け加えた。

「そんな頭の良さそうな言い方をしてもダメ。お母さんは、お父さんがアメリカに行く前から、お父さんと婚約していたのよ。それをあなたの母親が、横取りしたんじゃない」

「エディがそう言ったの?そんなこと、言うわけがないわよね。だって、私は、エディ本人から、アメリカに行ったのは、あなたのお祖父さんから絵梨子さんとの結婚を強要されそうになったからだって聞いたもの。ちゃんとエディの戸籍謄本を見てみたら?エディと私の母は本人たちの意思に基づき、アメリカで結婚して、エディと絵梨子さんとの結婚は私の母が死んでから、エディの意思とは関係なく成立したの」

綾乃は、美波がすべてを言い終える前に、顔を真っ赤にして遮った。

「そんなこと、嘘よ。あなたも、あなたのお母さんみたいに、色仕掛けで、お父さんにそんなこと言わせているんでしょう」

綾乃の投げつけたことばの鋭さに、美波の忍耐力は擦り切れてしまった。

「それ、どういう意味なの?他人がすべてあなたみたいに振る舞うなんて思わないでよ」

言いながら、思わず右手を高く上げていた。自分が何をしているのか、はっきりとは意識していなかった。

「美波、やめろ」

手を振り下ろそうとした瞬間、突然キーランが現れ、美波の右手を掴み、美波と綾乃の間に割って入った。

「もういい。やめろよ」

キーランは左手を美波の腰に当て、美波を抱きかかえるような体勢になっていた。極度の興奮とショックで、全身が震え始めた美波はそのまま崩れ落ちそうになった。ぶたれると思ったのだろう。綾乃は片手で顔を覆い、キーランの背後で小さくなっていた。

  キーランは自分の頬を美波の頬と合わせると、ゆっくりと美波をその場に座らせた。それから、綾乃の方をむいて日本語で言う。

「君はもう帰ったほうがいい。僕が乗ってきたタクシーがまだその辺にいるはずだから、行きましょう。車まで送ります」

そういって、綾乃を促す。さすがの綾乃もキーランの言う通りに歩き出した。

「すぐ戻ってくるからな。美波はそこにいるんだぞ」

キーランが、美波の方を振り返って、英語でそう言った。けれど、その頃までには、美波は両手に顔を埋めて嗚咽を始めていた。自分がなぜ泣いているのか分からなかったが、涙がどうしても止まらなかった。


  暫くしてキーランが帰ってきても、美波はまだぐずぐずと泣いていた。

「まだ泣いているのか。しょうがないヤツだな」

キーランは、肩がかすかに触れ合うように美波の隣に腰を降ろすと、美波の白衣のポケットからタバコを探し出し、火をつけた。それから、美波の手にハンカチを握らせる。

「早く泣きやまないと、オレがお前のタバコ、全部吸いつくすぞ。そういう気分なんだ」

それで、美波は顔を上げて、ハンカチで涙の跡を拭き始める。きっと、めちゃくちゃな顔をしているのだろう。

  キーランは、ゆっくりとタバコを1本吸ってしまうまで、ずっと黙っていた。短くなったタバコを地面に押し付けると、すぐに次の1本に火を点ける。

「私にもちょうだい」

随分と鼻声気味だったが、美波が言うと、口の端で2本目に火を点け、渡してくれる。

「お前さぁ、子ども相手に本気になって怒るなよ」

とても緩慢な調子で、キーランが言う。美波がキーランの方を見ると、煙をゆっくり吐き出しながら、次のことばを口にする。

「それから、暴力を振るうなんて、最低だぞ」

「ずっと見ていたのなら、もっと早く止めに入ってくれればよかったじゃない」

「見ていたって、ほんの5分ぐらいだよ。でも、認めるよ。オレの人生最大の判断ミスだった」

そう言って、キーランは良く晴れた秋の空を見上げた。

「オレはさ、お前と綾乃さんがいがみ合う理由はないと思ったんだ。結局、お前たちはふたりとも被害者じゃないか。綾乃さんだって、あんな状況の中で生まれてきたのは、彼女のせいではないんだからさ。だけど、もう取り返しのつかないことってあるんだよな。綾乃さんはお前を許せないし、お前だって既に十分な被害を受けたと思っている」

「突然、人の職場に押し掛けてきて、厚かましくボーイフレンドを下さいなんて言うのは被害には当たらないの」

「あの娘は自分が何をやっているんだかわかっていないんだよ」

「そんなに綾乃さんの肩を持つんだったら、彼女のところに行ったら」

美波が激しく言い捨てると、キーランはまっすぐ美波の目を捉えた。

「いいかげんにしないと、オレだって怒るぞ」

キーランの剣幕に、美波は視線を外す。

「よく考えてみろよ。オレはあの娘をタクシーに乗せただけで、すぐに美波のところに戻って来たんだぞ。あの娘だって、さっきの言い争いで十分に傷ついただろうに、オレはそんなことには構いもせず、美波のところに戻ってきたんだ。それがオレの選択で、あの娘だってそのことの意味はしっかりとわかっているはずさ」

大きなため息をついて、キーランは続ける。

「あの娘がオレに興味があるとしたら、その理由はお前しかないだろう。エディがお前にべったりで、あの娘には見向きもしないから、お前のモノが欲しいだけなんだよ。それで、一番分かりやすいのがオレなわけ。そうでもないと、お互いよくも知らないのに、結婚したいなんてバカな話になるわけがないだろう」

美波は、その点では、キーランが間違っていると思った。きっと、綾乃はキーランに対して、かなり本気になっているのだ。確かに、多少は、想像で膨らんだ部分があるのかもしれない。けれども、幼い頃に松濤の家のクリスマスパーティでキーランと短い会話を交わして以来、多分、綾乃はずっとキーランのことを忘れてはいない。

「昨日、何があったのか聞きたいか?」

キーランの問いかけに、美波は短く頷いた。キーランは、もう一度ため息をつくと、ゆっくりと話し始めた。

「エディからの呼び出しを受けたのは、午前の早い時間だった。ただ、おかしいなとは思ったんだ。いつもはエディが直接電話してくるのに、電話をかけてきたのは秘書室の末端の人間だったし、パットに確認を取ると、パットは何も知らなかった。あのふたりには、秘密なんてないからね。パットが知らないとなると、エディのやっていることじゃない。それで、パットとふたりでエディ本人から確認を取ろうと思ったんだけれど、なぜか昨日の午後の間、エディとは連絡がつかなかった」

キーランは、青空を見つめたまま、ポツポツと話を続けた。いつの間にか、キーランの咥えていたタバコも、美波の手に挟まっていたタバコも火が消えてしまっていた。

「そんなことしているうちに指定された時間が迫ってきて、仕方がないからオレは指示があったホテルへ行ったんだ。まぁ、雇い主の言うことでもあったし、何よりもエディが心配だった。ホテルへ着くと、レストランの個室に案内された。関谷久夫と絵梨子さん、それから綾乃さんがいて、おまけに、驚いたことにエディもその場にいたんだ」

そこで、キーランは微妙に顔を歪めた。

「あれは、本当に嫌な光景だった。関谷と絵梨子さん、綾乃さんは中央のテーブルを囲んでいたんだけど、エディはさ、部屋の奥の窓のところに1人で立って、外を見ていたんだ。他の3人に背を向けて。オレが入っていくと、エディはゆっくり振り向いた。突き放したように無表情で、それでも口元が笑っているように歪んでいた。オレだってあの人のことを30年近く見てきたけれど、あの人のあんな表情を見たのは初めてだった。それで、突然、エディは英語で話し始めたんだ」

たまらないといったように、キーランは頭を振った。美波はキーランの手からタバコの箱をむしり取ると、キーランに一本渡し、自分の分に火を点けた。

「オレとお前がニューヨークから東京に引っ越してきた時、ひとつだけエディが強く念を押したことがあっただろう。その場にひとりでも英語を理解しない人間がいたら、かならず日本語を使えって。それが最低限の礼儀だって。そのエディがあの3人を前にオレに英語で話し始めたんだ。オレはあんなに落ち着かない気分になったことはなかった」

「お父さん、なんて言ったの」

「悪いね、キーラン。僕も騙されて、ここに呼び出されたんだ。彼らは生贄の羊は1匹だけでは満足できないらしいって言った」

キーランが機械的に言うのを聞いて、美波は、キーランが咥えていたタバコに火を点けてやった。その場にいたキーランは、それは居た堪れなかっただろうと思う。

「それを聞いて、関谷が真隆って呼びつけて、エディを睨みつけた。あいつ、大昔に会った時と余り変わっていなくて、今でも迫力十分でさ」

「松濤の家で睨みつけられたのを覚えている。とても怖かった」

「昨日もあんな感じだった。で、エディは黙って横を向いた。窓のサッシをじっと見てさ、われ関せずって自分の世界に引っ込んでしまったような感じだった。そんなエディを少し観察して、関谷と絵梨子さんが話を始めた。内容は、要するに、綾乃さんとの結婚話だった。綾乃さんはふたりが大事に育てた子どもで、彼女と結婚すれば川嶋グループの経営者となる可能性も出てくるとか、そんなこと。オレはあの場でのトラブルを避けたかったから、彼らの話を一応最後まで聞いた。それから、申し出はありがたいけれど自分には興味ないって断ったんだ。仕事を自分のパフォーマンス以外のところでお膳立てしてもらったところで重荷になるばかりだし、何よりも自分には長年付き合ったガールフレンドがいるから、他の女の子には興味がないってはっきりと言った。でも、彼らはけっこうしつこくってさ。何とかオレの考えを変えようと、もっと欲深くあるべきだとか何とか、話し続けた。だから、オレはもう一度、彼らの言っていることは、オレの生活とは何の接点もないことを説明しようとしたんだ。でも、関谷と絵梨子さんは聞かなかった」

そこで、キーランは一旦、息を継いだ。次のことばを言おうとして難儀しているような感じだった。

「それで、どうしたの」

美波がキーランの顔を覗くと、キーランは煙を吐き出し、再び青空を見上げた。

「エディが爆発したんだ」

「爆発したって、怒ったってこと?」

「あれは怒ったっていうより、本当に爆発だった」

キーランは片手で目の上を押さえた。

「何て言ったかな。そう、まだわからないんですか。人の気持ちを第三者が変えることなんかできないんです。あなたたちは23年前と同じ間違いを犯そうとしている。僕のことで充分わかったはずじゃないですか。キーランは僕にとっては大事な名づけ子(ゴッド・サン)なんだから、僕と同じ経験なんて絶対にさせるわけにはいかない。そんなことを随分と激しい調子で言っていた。まったくいつものエディらしくなくて、抑制を欠いていて、攻撃的だった。横で聞いていて、オレは呆気に取られた」

「想像がつかない」

そう言うしかなかった。美波にとってのエディはいつも余裕綽々で、自信と穏やかさに溢れた存在であった。そのエディをそこまで追い詰めることがあったなんて、にわかには信じられなかった。

「オレもびっくりした。とにかく、エディは、色々と言いたいことだけを言うと、行こう、ここにはもう用がないってオレの肩を叩いた。それで、エディとオレは、関谷たちを残して、部屋を出た。出る直前にちらっと見たら、絵梨子さんは唇を噛んで、とても怖い顔をしていて、綾乃さんは泣きそうだった」

キーランは独り言のように続けた。

「帰りの車の中では、エディはまた自分1人の世界に引きこもってしまったみたいで、何も言わなかった。じっと、窓の外を見ていたんだ。だから、オレも何も聞けなかった。それで、原宿のマンションの前でオレを降ろすと、エディは、悪かったね、でも美波をよろしくって言ったんだ。オレはさ、お前もいることだし、一緒に部屋まで行かないかって聞いたんだけど、エディは薄く笑って、今日はよすよってどこかに行ってしまった。今朝パットが言っていたけれど、エディは、昨日、青山のマンションには帰っていないそうだ」

「そうだったの」

美波は俯いた。孤独なエディが昨夜をどう過ごしたのか、この先きっと知ることはないのだろうと思う。独りでホテルで過ごしたのか、あるいはいガールフレンドの1人と一緒だったのか。どちらにしても、誰かがエディの感情を慮ってくえるような状況ではなかったはずだ。

「ともかく、オレはオレで、昨日のことはあれで済んだと思っていたんだ。なのに、今朝、オフィスに行くと、机の上に妙にカラフルな新聞みたいなのが何紙か載せてあって、自分の写真が載っているじゃないか。フロアの連中の態度も変だし。それで、新聞を読解してやろうと思っていたら、パットから呼び出しを受けて、そこでパットの日本人アシスタントから事情を聞いた。正直言って、ああいうコロキアルな日本語を読むのはあまり得意じゃないから助かったよ。そうしているうちにエディからも電話が入って、妙な連中が集まって来るだろうから、後のことは自分にまかせて、できるだけ早くオフィスを抜け出したほうがいいって言われた。ただ、お前も記事のことをすぐに知るだろうから、そっちの方は頼むって。それで、すぐここに来るつもりだったんだけど、その時までにはうるさいマスコミ連中がビルの周りに集まっていて、なかなか抜け出せなくて、とうとうこの時間になったんだ」

キーランは、そこでチラリと美波を見る。

「でも、まぁタイミングとしてはそんなに悪くなかったな」

美波は、衝動的にキーランの唇にキスをしていた。

「大変だったね」

「ああ、もう昨日から、散々だ。オレにはエディがどうやって何度も持ち直すことができるのかよくわからないよ」

「そうだね」

美波が素直に頷くと、キーランは美波の頭を抱えた。指先で美波の髪を弄びながら呟くように言う。

「とにかく、オレの話はこれでお終い。聞いていてわかっただろう?オレは美波のことをちゃんと説明したし、ああいう状況で綾乃さんだってつまらない思いをしたんだ。そりゃ、だからって、彼女がああいう風に攻撃的になっていいっていうわけではないけれど、それで綾乃さんを責められるかと言ったら、オレにはそうとも思えない。何て言うかさ、愛情って、モノポリーの法則が働くようなところがあって、片方にはお前みたいにテキサスの石油王の財産のように溢れる愛情に囲まれているヤツがいるかと思えば、綾乃さんみたいに、愛情に関しては何の確証もない人間もいる」

テキサスの石油王の財産っていうのは少し言いすぎなんじゃないだろうかと、内心思ったが、美波は黙ってキーランの話を聞いていた。

「お前はさ、本当に人に愛されることに関しては天才的なんだよな。なのに、綾乃さんはやることなすことすべて裏目に出てしまって、それで、ますます愛されなくなる。多分、学習の問題もあるんだろうけれど、あまりにも皮肉で、だから、オレはあの子には辛く当たりたくないんだ」

そうして、キーランは、美波の目を真っ直ぐに捉える。

「綾乃さんのことはそれだけなんだ。ただ、辛く当たりたくはない。でも、彼女のことなんて、美波のことと比べれば、結局、オレにはどうでもいいんだ」

美波はもう一度、キーランの唇にキスをした。分かったよ、ごめんなさいと言う代わりに。

「それで、これは相談なんだけれど」

しばらくタバコの味が強くするキスを味わった後で、美波が一瞬、唇を離すとキーランがすばやく言った。

「何?」

「これからオフィスに戻るのもなんだし、お前の仕事が終わるまでの数時間、病院の中のどっかで匿ってくれないか」

「ええっ」

「だって、あの調子じゃ、カフェなんかに入れそうにもないしさ。街を歩いていても、人がジロジロと見るし」

「それはいつもと変わらないと思うよ」

「そうかな。とにかく頼むよ」

「じゃあ、霊安室にでも隠れている?」

「もう少し、気分のいいところがいいな。ベッドとか、空いていないの?」

キーランは気楽そうに聞いた。ベッドなんか空いているわけがないでしょう。美波は額を手で押さえた。


  その午後、キーランと綾乃の婚約話は、エディの発した鶴の一声で急速に萎んでいった。政府関係の審議会だか勉強会だかのひとつに出席したところをレポーターたちに捕まって、お嬢さんの綾乃さんの結婚は本決まりなんですかと質問が投げかけられると、とても役者なエディは怪訝そうな顔をして言った。

「いや、僕は聞いていないけれど。相手は?そう、キーラン。確かに、キーランはよく知っていますよ。僕は彼の名付け親(ゴッド・ファーザー)でもあるし。でも、何かに間違いじゃないかな。おっしゃるとおり彼は立派な青年であるけれども、僕が知る限り、随分と長い間、付き合っているガールフレンドがいるはずですよ」

それだけ言うと、エディは軽く微笑んで、車に乗り込んでいった。

  キーランを病院の図書室に案内する途中、美波は、そういうエディの様子を外科病棟の見舞い客用の待合室にあるテレビで目撃した。キーランが軽く口笛を吹く。

「エディは相変わらず鮮やかなもんだね」

美波が黙って頷くと、テレビにキーランの写真が映った。魅力、徹底解明、と言う文字が画面に被る。美波は呆れて、ため息を吐いた。

「何あれ?」

「興味あるんだったら見ていけば。私はそろそろ回診の時間だから行かなきゃいけないし。図書館には、ここからならば頭上の表示に従っていけばすぐ行けるから」

「一体、何だって言うんだよな。人のプライバシーを勝手につつき回して」

美波の言うことを聞いていたのかいなかったのか。キーランは空いているベンチに腰を下ろすと、腕を組んで、テレビの画面を睨みつけた。じゃあ、あとでねと、美波はキーランをその場に残して立ち去る。10メートルぐらい離れてから振り返ると、待合室中の人たちが、画面のキーランと実物を見比べていた。


  母校の堂本教授を迎え、進藤外科医長以下が加わる合同の回診で、美波が受け持ちの患者のカルテを抱え、吉岡とともに最後尾で控えていると、突然、はつらつとした笑い声が中庭に通じる窓から流れてきた。廊下を巡航中の10名程の医師の集団は、笑い声に興味を引かれ、窓の外を見る。美波も何気ない気持ちで覗くと、キーランのストロベリー・ブロンドが動き回るのが見えた。ぎょっとして、もう一度よく見ると、キーランは珍しく子ども相手に野球に興じていた。

「川嶋先生、あの人が君の有名な義理のお兄さんですか」

進藤外科医長が「義理」の部分を強調して聞く。

「ああ、そうなの。あの人がそうなんだ」

進藤外科部長のことばに反応して、堂本教授までもが窓の外を覗き込む。美波は冷や汗をかきながら、小さな声ではいと応える。もう少し大人しくはできないものなのだろうか。

「野球なんかするんだね」

「一応、アメリカ人ですから」

多分、学校でやらされたのだろうなぁと思いながら、あまり確信がなく答える。

「あとでお礼言っておいてくださいね」

次に言われたことは、美波にとってまったく予想外だったので、びっくりして進藤外科医長を見返す。

「お礼といいますと?」

「あの子、直紀君といってね、509号室の川上さんのお子さんなんだよ。君も知っているだろう。川上さん、もうすぐホスピスに移られるんだ。直紀君もお父さんがずっと入院していて、実際、あまり様態が思わしくないものだから、このところ随分と元気がなくてね。あの子が笑っているのなんて、久しぶりに見ましたね」

「そうだったんですか」

「そう。それに、ほら、あそこ」

進藤外科医長はそう言って、1階下の窓を指差す。あまり楽な姿勢で見ることはできなかったが、外科部長の指の先には、話題の川上その人がいた。窓にもたれ掛かって、ふたりの様子をじっと見ている。微かに笑っているようだった。

「だから、お礼を言っておいてくださいね」

美波は微笑んで、はいと頷いた。

「それにしても、野球はあまり上手ではないみたいですね」

進藤外科医長の感想に、その場の者がどっと笑った。確かに、どう見ても小学生ぐらいの男の子に圧倒されていた。そうか、キーランの弱点は野球だったのかと、美波はその時、初めて学習した。もっとも、美波自身も、野球のことはよく知らない。


  多分、ごく幼い時に、とても大きな悲しみを目撃したことで、キーランは人の心の動きにとても敏感になった。いつも自分の周囲の人々の悲しみや苦しみを自分のことのように感じ取り、何気なくそっと手を差し伸べる。そうやって、キーラン自身、人として強くなっていった。ただ、そんなキーランの根本にあるのは、とても細やかな感受性であって、美波には、そういうキーランの心を自分がどの程度まで思いやることができているのか自信がない。


  勤務を終えてもキーランの姿がなかったので、外科病棟の方へ行くと、キーランは見舞い客の待合室でさっきの男の子と笑いながらソーダ飲料を飲んでいた。美波の姿を見て、キーランがもういかなきゃと立ち上がると、男の子はお兄ちゃんありがとう、バイバイと手を振った。

「あの子のお父さん、随分と長いこと入院しているんだって」

病院の外に出ると、キーランが聞く。

「そうね。それで、多分、もう助からない」

「あの子が言うには、母親が毎日働きに出ているから、学校が終わると病院に来るんだそうだ。で、母親が仕事を終わるのを待って家に帰るんだって。だから、いつも、あの待合室でテレビを見たりしているんだってさ」

「じゃあ、キーランと野球をして、気分転換ができたんじゃない。キーランのこと、随分とやり込めていたみたいだったから」

少し冗談めかした調子の視線を投げると、キーランは優しく笑っていた。

「進藤外科医長があんまり野球は巧くないみたいだねって言っていた」

「悪かったね。野球なんて10年以上やってなかったんだ」

「それから、お礼を言っておいてとも言われた。あの子が笑ったのを見たのは、随分と久しぶりだったんだって」

言いながら、美波はキーランの手を握る。

「やっと偉いお医者になっても、結局、そうとうところは直せないからね」

「そんなこと、きっと、誰にもできないよ」

キーランは、ギュッと美波の手を握り返した。それから、ふいに思い出したように言う。

「実はさっきパットに電話したんだ。一応、仕事のことをチェックしておこうと思って。そうしたら、今晩、青山で待っているって言われた」

そういうことになるんじゃないかなと、美波は予想していた。それで、午後から考えていたことを提案する。

「そうしたら、ここからタクシーに乗って、途中で一軒だけ、お店に寄っていいかな」

「何の店?」

「エディにお気に入りのワインでも買って行ってあげようかなと思ったの」

「お前、破産するぞ。あの人の口に合うワインなんて買っていたら」

「でも、どこかの高給取りも多少の寄付はしてくれるんでしょう」

「オレのクレジットカードにも限界はある」

「私のよりは限度額が大きいじゃない」

美波が済ました調子で答えると、キーランはわざとらしくため息を吐いてみせた。確かに、エディが甘やかすせいで、美波の経済感覚は多少雑になっていることは否めない。


  青山のマンションで出迎えてくれたのはアリシアだった。美波を見るなり、手を握ると大丈夫というような視線を送る。それで美波が微笑むと、アリシアは美波を抱きしめた。きっと綾乃の訪問のことが、キーランから伝わっていたのだろう。

  居間に入っていくと、すでに帰宅していたパトリックが、食卓で新聞を読んでいた。エディはいなかった。

「パットおじさん、今日は早いのね」

「うん、まぁ、今日はあまり仕事にならなくてね」

美波が挨拶のキスをすると、パトリックは曖昧な笑みを浮かべた。大方、芸能レポーターがたくさん押しかけてきて、川嶋コンサルティングは一日中、大騒ぎだったのだろう。

「お父さんは、まだなの」

「10分ぐらい前までいたんだが、ちょっと出かけたんだ。すぐ戻るよ」

「なんだ。せっかくお土産持ってきたのに」

美波がワインの瓶をテーブルに置くと、アリシアが感嘆の声を上げた。

「あら、奮発したのね」

「おかげで懐が痛いよ、こっちは」

スーツの上着を脱いで、ネクタイを外しながらキーランがぼやいた。アリシアはそんなキーランを見て、怪訝そうな表情を浮かべる。

「あなた、今日は随分と汚れているじゃない」

「午後中、エクササイズしてたんだ。けっこう、タフな相手だったんで、汗だくだよ」

「だったら、シャワーを浴びていらっしゃい」

「いいよ。ここには着替えを置いてないから」

「オレのとエディのものを合わせればなんとかなるだろう。勝手にそんなに上に伸びるからいけないんだ」

エディ、パトリック、キーランの3人は、アメリカ人の中でも背が高い方であるが、3人の中でもっとも背か低いのはパトリックであり、もっとも横幅があるのもパトリックだったが、法律事務所の高価なエクササイズ・マシンの効果もなく、サイズは毎年、少しずつ拡大しているようだった。そういうわけで、パトリックは体型の話をあまり好まない。といっても、決して太っているわけではなく、美波からすれば年相応で好ましいと思うし、エディの体の腺が細すぎるだけなのである。ほら早くいけと言うかのようにパトリックに新聞で肩を叩かれて、キーランはしぶしぶバスルームの方へ向かった。

  エディはキーランと入れ違いで戻ってきた。帰宅してシャワーを浴びてから出かけて行ったのか、ジーンズにカジュアルな綿シャツを合わせ、皮のハーフコートを着ている様子は、確実に、実年齢より10歳ほど若くは見える。

「あれ、キーランは?」

両手に綺麗に包装された箱を抱えて、エディはあたりを見回す。よかった。今日はとりあえずいつもの調子に戻っているようだ。

「今、シャワーを浴びに行かせたの。泥と汗だらけなんですもの。ねぇ、エディ、悪いけれど、着替え貸してやってくれないかしら。多分、パトリックよりあなたの服のほうがあの子のサイズに近いと思うの」

「そりゃいいけれど。でも、一体、どうしてそんなことになったんだい?」

「病院でスポーツ・セラピーの実践をしていたの。もっとも、キーランにはちょっと難しい課題だったみたいだけれど」

「何だい、それは。おい、エディ、今日はアイツのギャラ払わなくていいぞ。どうせ、遊んでいたんだからな」

「でも、今日の一連のことは、キーランの責任で起きたことではないだろう」

「そうよ。それに、パットおじさん、キーランは今日、何人もの人を精神的に助けたんだから、そんなこと言っては可哀想よ」

美波がそう言うと興味を惹かれたようで、エディは軽く首を傾げて、美波を見た。

「何だか、とても刺激的な1日だったようだね」

「そうね。とても勉強になる1日だった。」

美波が節目がちに応えると、エディはいつもの包み込むような微笑みを見せて、美波の頬にキスをする。

「これは君に。ここのチーズケーキは好きだろう」

確かにエディの持っていた箱は、美波の大好きなベイクド・チーズケーキを販売している店のものだった。アリシアが笑って、テーブルの上のワインの瓶を差し出す。

「親子して発想が一緒ね。はい、これは美波から」

「キーランもかなり投資した」

「へぇ、すごいな。早速、開けようか」

ワインのラベルを見て、エディの声が少しだけ弾んだ。その時、バスルームの方から「母さん(マム)」というキーランの声。

「ああ、着替えね」

エディは頼むよと言って、ワインの瓶を美波に預けると、自分の寝室に向かった。そんなエディの様子を見て、パトリックが呟く。

「勉強になる1日っていうのは良い言い方だったな。上出来だよ(ウエル・ダン)、美波。あれならエディもすぐに持ち直すさ」

「お父さん、様子がおかしかったの?」

「多少ね。色々と余計な事を吹き込むヤツもいるんだ。お前のところに綾乃が押しかけてきたんだろう」

「うん」

「勉強になったっていうのは、そのことなの?」

アリシアが口を挟む。

「彼女のことだけじゃないけれど」

「まぁ、とにかく、関谷っていうのも、いつまでもいまいましい野郎だ。エディも一発ガツンとやってやればいいんだよ」

美波とアリシアはパトリックの西部劇のような言い方に、思わず笑い出す。なぜ笑われているのかわからないパトリックは、ふたりの顔を交互に見た。

「ねぇ、パットおじさん。私たちは、皆、大丈夫だよ。だって、皆が他の皆のことを一生懸命に思いやっていて、愛しているんだもの。それで幸せだし、心強いじゃない」

美波が笑いながらそう言うと、パトリックも視線を随分と和らげて笑いかけた。




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