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第3章

  シャワーをゆっくりと浴びた後、留守番電話をチェックすると、メッセージが3件残されていた。すべて昨日の日付で、帰宅して以降の時間帯にかかってきたようだった。どうして電話を応えなかったのか、美波にはよく思い出せなかった。

1件目は、エディだった。キーランはそっちへ行ったのか、それならば日曜日にふたりで顔を出しなさいという内容。これは、後でキーランと相談しなくていけない。2件目は菜穂からで、昨夜の番組見たのかという確認だった。いつも連絡のつかない美波に郷を煮やしてか、さっさと携帯電話を買いなさい、それから明日の夜、仕事で行けないの、来週、必ず会おうねという言葉で終わっていた。今日の夜ってなんのことだっけと思っているうちに、3件目のメッセージが始まった。寺崎からで、今晩の約束の場所と時間の指示。神山町のバーで、7時半。ああ、そうかと思い出して、折り返し電話をかける。

「もしもし」

電話に出たのは、しのぶであった。女性的な、柔らかい声。いつ聞いても声の主の性格の良さを感じさせて、自然に好意があふれてくる。

「しのぶちゃん、私、美波。久しぶりね」

「ああ、美波さん。本当にお久しぶりです。お元気ですか」

「うん、とっても元気。今日は、お泊りなんだ?」

「ええ。あとでお兄ちゃんもお昼を食べに来るんですよ。協力してもらっているから、そのぐらいはしないとね」

しのぶは、可愛らしくふふふっと笑う。厳格なしのぶの家では、大手商事会社に一般職として勤めるようになって既に2年になるのに、いまだに外泊を許してもらえない。それでも、時にはゆっくりと一緒に時間を過ごしたいしのぶと寺崎のために、研修医となる前の時間の都合がつく頃は、何度もしのぶの外泊の言い訳役を務めた。この頃では司法修習を終え、一年の地方勤務を経て東京検察庁に配属になり、一人暮らしを始めた兄の暁がもっぱらしのぶの外泊の言い訳を提供していた。

「賢一さん、ここにいますから、ちょっと待ってくださいね」

しのぶは軽やかに言うと電話を代わったようだった。

「よぉ、不良娘。やっと家にお戻りなのかい?」

すぐに寺崎のすっかりとからかうような調子の声が耳に飛び込んでくる。大方、仕事で病院に足止めを食らったとタカをくくっているのだろう。さて、どういうふうに昨夜のことを説明しようかと、美波は考える。

「わざわざ、メッセージありがとう」

「神山町ならば川嶋さんの家からすぐだろう?菜緒は今夜、仕事みたいだから、オレたちだけの場合、渋谷近辺の方が便利だ」

「うん、そうね」

それから、一呼吸置き、一気に言う。

「あのね、もうひとり、連れていってもいいかな?」

「ええ!川嶋さんの連れ?誰のこと?」

寺崎は、心の底から驚いたようだった。あまり人のことを見くびってもらっても困る。

「実は、一昨日、キーランが東京に来たの」

「キーランさん?」

心の底からびっくりしたような声で聞き返すと、寺崎はしばらくの間、沈黙した。

「なんだ、ふたりはまた復活したんだ」

「復活って、別れた覚えはないけど」

「それで付き合った覚えもないんだろう?」

間髪いれず、寺崎が言う。寺崎の言うことは、かなり正しいかもしれない。

  大学1年の頃からの付き合いである寺崎は、髪の毛を長く伸ばしていて、夏休みになると東京でふらふらしていたキーランに会ったことがある。その頃から、竹を割ったような性格の寺崎は、多くの人には秘密である美波とキーランの関係に首をひねっていたが、一年半前にしばらく会わないことにしたと告げた時には、理解の許容範囲を超えてしまったようで、頭を抱えていた。好き合っているならば周囲にステディな関係を公表し、全力でもって維持していこうという寺崎の恋愛観は、大変健全である。

「でも、それじゃあ、暁ががっかりするなぁ。おれは、キーランさんが好きだからいいけれどね。もっとも、キーランさんに会ったら、しのぶもポーっとしそうだよね。あの人はさ、他の男に劣等感を抱かせるために存在しているとしか思えない時があるからさ」

「寺崎君が、劣等感?冗談でしょう?」

「本気だよ。それとも、川嶋さん、キーランさんをやめて、オレか暁に寝返る?逆は結構ありそうだけど、それは絶対にあり得ないと思うけどな」

「あのね、そんなことしたら、私がしのぶちゃんに絶交されちゃうでしょう」

寺崎は、大きな声でハハハと笑った。そんなに安心していいのかなぁと言う。なんだ、結局、のろけているんじゃない。

「じゃあ、今夜。キーランさんに会うのを楽しみにしているって伝えといて」

寺崎は快活に言うと、電話を切った。


  英字新聞を買いに出ていたキーランは、ベーグルのサンドイッチを持って戻ってきた。この辺はニューヨークにいるのと、ほとんど変わらないなと言う。

「ガイジン人口が結構、多いからね。スターバックスもあるよ」

「まったく、グローバライゼーション万歳だね。ベーグルはいいとしても、東京でスターバックスのコーヒーなんか飲みたくはないよ」

キーランは、クリームチーズのベーグルを美波の方へ押しやると、自分はベーコンをはさんだベーグルを美味しそうに齧った。よっぽどお腹が空いていたんだと思い、笑いながら、キーランと自分のために、大きなマグカップにコーヒーをたっぷりと注ぐ。

「今日、何か予定あるの?」

「あるわけないだろう。日本に着いたばかりだし、今日は土曜日だし」

「じゃあ、夜は付き合ってね。実は寺崎君たちと約束していたの。7時半に神山町のバーで会うことになっているんだけど、いいでしょう」

「ああ、剣道部の寺崎君だろう。警察官になったんだよな。いいよ、オレは別に」

「警察官僚よ。ずっと偉いの。それから、寺崎君の彼女のしのぶちゃんと、そのお兄さんの芳賀君も来るはずよ。芳賀君は東京検察庁の検事さん」

そこで、美波は芳賀の怪我はどうなっただろうと、ふと思う。担当医から特に何も言ってこなかったということは、きっと大丈夫なのだろう。

「なんだ、同業者か」

キーランは、興味なさそうに新聞をめくった。仕事柄、弁護士、判事、検事とばかり会うので、検事という言葉にあまり関心を示さない。

「それから、お父さんからも電話があった。キーランは、そっちへ行ったのか。なら、日曜日にふたりで顔を出すように、ですって」

美波がそう言うと、キーランは仕方なく顔を上げた。眉根を微かによせた表情。

「どう思う?」

「どうって、無視すると後がやっかいだしな。お前、明日の仕事の予定は?」

「明日は研究会で抜けなければいけない先生の代理で、2時ごろに出て行って3時間ほどうろうろしていればいいだけだと思うけど」

「じゃ、そのあと外で夕食とって、8時ごろ青山に行くか?翌日、仕事があるとか言えば、10時ごろ帰っても大丈夫だろうし」

「なんだ、割とまじめじゃない。アリーおばさんが全然顔を見せないって嘆いていたよ」

「この場合、問題はオレじゃないんだ。お前が顔を見せないと、エディがパニックになる。一応、あれでも雇い主だからね。面倒は避けないといけないだろう」

「じゃ、キーランが青山に電話する?」

「だから、面倒は避けないといけないって言っただろう」

キーランは、美波を軽く睨むと、新聞に視線を戻した。


  その日の午後は、大量の食料品の買出しをした後、渋谷に行き、久しぶりに混んだ通りをふたりでそぞろ歩いた。キーランは、過去数年の間に随分と低年齢化したように見える渋谷の町の様子に、少し戸惑っていた。キーランが日本に住んでいた頃は、ふたりで時々、パルコ界隈の映画館に行ったりしたが、あの頃の突き詰めたような感じは今ではすっかり猥雑さに入れ替わってしまったようにも感じられた。スクランブル交差点を抜けて、神山町に向かうため、東急本店の方へとなだらかな坂を登っていると、キーランがふいに、ティーンネイジャーばかりで、随分と熱気があるよなと呟く。それなりに年齢を重ねたということを突然、思い知らされたようだった。

  より落ち着いた雰囲気の神山町の指定の店に行くと、寺崎たちはすでに中央辺りのテーブルを陣取り飲み始めていた。気の置けない友達と会うのは気楽でいい。店に入ってきた美波たちに寺崎が気づき、大きく手を振る。

「ひょっとして、待たせちゃった?」

「まさか。俺たちも今、来たところ。喉が渇いていたから、勝手に先に始めていただけのことだよ。キーランさん、お久しぶりです。また会えてうれしいですよ」

寺崎が腕をすっと伸ばす。キーランは、真っ直ぐに寺崎の腕を握った。

「会うのは2年ぶりぐらいかな。元気そうでなにより」

すっかり日本語モードのキーランは、ごく自然に言った。

「そちらこそ。紹介しますよ。こっちが、俺の彼女の芳賀しのぶ。それでしのぶの隣にいるのが、彼女の兄で、大学の後輩の芳賀暁。暁は、検事です」

「よろしく」

キーランがニックスのキャップを取ってにっこりと笑って言うと、確かにしのぶは少しだけ顔を赤らめた。芳賀もなぜか緊張しているようで、黙ってキーランのことを見上げている。

「芳賀君、怪我のほう大丈夫?」

空いているスツールに腰を下ろしながら、美波が芳賀に聞く。

「ああ、報告せずにすみません、大丈夫です。川嶋さんが言ったように、次の日にはすっかり気分が良くなっていました。あの次の日、病院にも行って、ちゃんと処置してもらいましたし」

「怪我って?」

事情を知らないキーランが聞きとがめて、尋ねる。

「ヤーさんに撃たれそうになったのよね。捜査中に」

「へぇ、東京で検事やっていると、そんな危ないことがあるんだ」

「ニューヨークじゃないんですか?」

「そりゃ、NYPDにでも勤めていればそんなこともあるだろうけれど、同僚の間じゃ聞かないなぁ。もっとも、ニューヨークじゃその辺に銃が転がっているから、そういう意味で危険ではあるけれど。依頼人が突然、銃を持ってきたとか、笑えない話は聞いたことがあるよ」

「そう言えば、突然、目の前で自殺した依頼人の話とか、大学の授業で聞いたことありますよ。ねぇ、先輩」

「そういえば、あったよなぁ」

「それは、あり得るだろうね。自分が実際にそういう目に遭ったことはないけどさ。それから、マフィアまがいの依頼人にあたって、命辛々の思いをしたっていうのもよくあるらしい」

「あー、隠れやくざ関係はこっちも多いですよ」

それから、男3人は、やくざやマフィアがどういった悪どい手を使って、弁護士、検事、警察官を悪の道に引きずり込むかという話に夢中になった。エディとパトリックもそうだけれど、法律関係の同業者が集まると同じような話に熱中する。キーランは、昔から友達を作るのが上手いが、今夜もすっかり寺崎と芳賀に打ち解けて楽しそうに話していた。困った人たちねと、美波はしのぶに向かって肩を竦めてみせた。しのぶはおかしそうに笑い、美波に近況を話し始めた。


  それは、2杯目のドリンクが半ばを過ぎた頃、そろそろ場所を変えようかと話していた時のことだった。

「キーランさん、キーランさんでしょう?すごい偶然」

突然、店の中に、少し高めの興奮した女の声が響いて、美波たちは一斉に声の方を向いた。声の主は綾乃であった。昨夜の番組に出ていた3人組の男の子のうちの2人と一緒に店に入ってきたところのようであった。

「ねぇ、私のこと覚えていますよね。綾乃です」

そう言いながら、キーランの右腕にかじり付く。キーランは、急な展開に呆気に取られ、声も出ない。

「いつ、日本に来たんですかぁ?」

「ああ、一昨日かな」

やっとそれだけ言うと、美波を見る。美波は美波で、やっぱりとても驚いていて、何と言ってよいのかわからなかった。まったく、昨日の今日で、いいタイミングだ。もっとも、ここは神山町で、川嶋家のある松濤の隣だから、言ってみれば綾乃の地元である。綾乃に会ったとしても当然の範囲なのかもしれない。

「私ね、この間、キーランさんのことをあそこにいる人たちに話したばかりなんですよ。あの方たち、日本ではとても有名な芸能人なんだけれど、皆さん、キーランさんのファンなんですって。だから、こちらに来て、お話しませんか?」

綾乃は、少し甘えたような潤んだ声で誘い、キーランの腕を引っ張った。

「いや、でも、今日は友だちと一緒だから。それに、ファンって言われても、僕はそういう仕事をしているわけでもないし」

「あら、少しだけならいいじゃないですか」

美波たちの方はまったく見ようともせず、綾乃はそう言い放つ。そうした綾乃の無遠慮な対応に、美波たちは呆然として、口を挟むことができなかった。普段ならば、そういった女の子たちの失礼な対応は、やんわりとした調子で、それでも断固と退けるキーランだったが、昨夜のこともあってのことだろう。今日は綾乃になされるがまま、連れられていってしまった。慌てふためいた調子で美波の方を振り向いて、すぐ戻ると英語で言う。

「拉致、されちゃったね」

しばらくたって、寺崎が言った。まだ少しびっくりしているような様子が声から伝わってくる。

「もぅ、綾乃様、相変わらず、強引なんだから」

珍しく、しのぶが少しムッとしたようであった。

「そうか、しのぶちゃん、彼女と小学校からずっと同じクラスだったんだよね」

美波たちが通った小中高一貫のお嬢様学校では、1学年に1クラスしかなく、したがって、学年が一緒であると、高校の卒業まで同じクラスということになる。綾乃としのぶでは性格が合うはずもなく、だとするとしのぶにはあまり面白くはない学校生活だったのかもしれない。

「でも、あの子、あの川嶋真隆の子どもなんだろう。それにしては随分と失礼だよな。同じ学校出身のしのぶや川嶋さんに何の挨拶もしなかったしさ」

そこで、寺崎は何かを思いついたかのように、変な顔をした。

「そう言えば、苗字が同じなんだ」

美波は曖昧に笑った。単に偶然と言いながら、単に偶然で腹違いの姉妹であることにため息を吐いてしまう。

「綾乃さんは昔からあんな感じですよ。あまり周りのことには構わない。なぁ、しのぶ」

「あれ、芳賀君も彼女のことを知っているの?」

「ウチの親父は、川嶋グループの会社で雇われ社長しているんですよ。だから、僕ら、昔から、あの家恒例のクリスマスパーティには引っ張り出されていたんです」

「松濤の家のクリスマスパーティ?」

美波は驚いて聞いていた。キーランと自分が綾乃と直接会ってことばを交わしたのは、2度。1度目は、5年前のニューヨーク。もう1度は、13年前、松濤の家のクリスマスパーティに無理やり連れて行かれた時のことだった。

「だから、本当は、川嶋さんやキーランさんに、ずっと昔に1度だけ会っていたんです」

「何、それ。何のことだか説明しろよ」

話の展開に目を白黒させて、寺崎が聞く。

「あのね、松濤の川嶋家では昔からクリスマスイブに派手なクリスマスパーティを催していて、主な社員の家族を招待するわけ。アメリカの育ての父とエディ、つまり川嶋真隆が親しいのね。それで、あの家のパーティに、13年前、キーランと無理やり連れ出されたことがあったの。でも、芳賀君やしのぶちゃんがあの場にいたなんて、今の今まで知らなかった」

「僕らは、さすがに気がついていましたよ。だって、僕が言うのもなんだけど、川嶋さん、妖精みたいな白いドレスを着て、メチャかわいかったですし、金髪を頭の後ろで結んだキーランさんは映画からそのまま出てきたみたいで、ふたりはそれこそ別世界から来たようなカップルでしたからね。もっとも、当時は、川嶋さんとキーランさんは完全に仲の良いきょうだいだと思っていたわけですけれど」

芳賀暁としのぶもとても仲が良い兄弟である。でも、本物のきょうだいであるから、この歳になると一緒のベッドで寝たりはしない。

「私もとてもよく覚えている。だから、賢一さんの紹介で美波さんとお友だちになれて、とっても嬉しかった」

美波は何だか赤面してしまった。

「何だよ、お前ら、そういうことはもっと早く言えよな。その時の写真は持っていないの?見てみたいよな、妖精みたいな川嶋さん。キーランさんのポニーテール姿は、大学の時に散々、見たけれど」

「今度、探してみますよ。でも、もう13年も前のことだから」

「そうよね。大昔のことよね」

そう言いながら、ひょっとして綾乃はそんな大昔にキーランのことを好きになって、その気持ちをいまだに引きずっているのかもしれないとふと思う。

「だから、もう妖精みたいなドレスは似合わない?」

美波の顔を覗き込んで、寺崎がからかう。

「寺崎君、そういうセクハラまがいのオヤジのようなコメントは、品性を疑われるから止めたほうがいいと思うよ」

とりあえず、寺崎を軽く睨むが、寺崎が綾乃の一件で水をさされたその場の雰囲気を再び盛り上げようとしてわざと言っていることはよくわかっていた。だから、結局、皆で笑いあう。綾乃に連れて行かれたキーランが、こちらのほうをチラリと見た。美波はにこやかに手を振った。


  トイレから出た途端、キーランの腕に絡め取られてしまった。

「お前、いいかげんに人のこと助けに来いよな。自分ばかりが楽しんでないで」

「だって、綾乃さんには思いっきり無視されちゃんったんだもの。まるでその場に存在なんかしていなかったみたいに。行きにくいじゃない?」

キーランは、肩を竦めてみせた。

「美波がそう言うのはわからなくもないけどね。もう帰ろう。美波が恋しい」

腰に腕を回し、美波の首筋に唇を這わせる。その時、誰かが横を通った。しまったと、キーラン。

「何?」

「あのボーヤ3人組の1人が通っていった。びっくりしていたみたいだ」

「いいじゃない、別に。綾乃さんだって、私たちが本当のきょうだいじゃないことぐらい昔から知っているわよ」

「それもそうだな。さぁ、とにかく行こう」

もう一刻のガマンもできないといった様子で、美波の腕を取って、キーランは歩き出す。

寺崎たちには、キーラン、時差ぼけなんだって、帰るねと伝えた。店を出る前に、美波は、綾乃に軽くさよならと言った。やっぱり挨拶はきちんとしなければいけないと思う。もちろん、綾乃には完全に無視された。

  手をつないで店を出る間際、トイレから戻った人気アイドルだという男が、あのふたり、本当にきょうだい、キスしていたよと綾乃に聞いたのが耳に入った。綾乃さん、どうぞ、そのことについてはよく悩んでください。美波は心の中で真剣に願った。


  翌日、病院に出る前に青山に電話して8時ごろ行くと伝えた。食事は済ませて行くと言うと、エディの不満そうな雰囲気が電話越しに感じられた。今日までは仕事は休みと宣言していたキーランは、出勤する美波と一緒に新宿までついて来ると、美波を病院に残して雑踏の中に消えていき、4時間後に戻ってきたときには、両手にCDの袋を抱えていた。お前の家、ロクなCDないからなと照れ隠しに言っていたが、実際のところは久しぶりのショッピングを楽しんだらしい。CDぐらいニューヨークで買えばいいのにと思うが、毎日仕事をしていると、そんな余裕がないまま日々は過ぎていく。

  それから、青山に出て、昔よく入ったエスニック系の料理屋で軽く食事を取り、8時になったので、ゆっくりとエディのマンションに向かった。ドアを開けたエディは、多少呆れたような表情で美波とキーランのふたりを迎え入れた。

「せっかく、アリーと僕できちんと料理をしてお子様方のお出ましを待っていたんだけどね」

「ごめんなさい。病院、抜けられなくって」

「キーラン、君のほうは、この数日、結構楽しんだらしいね」

「嵐の前の何とかってやつ。依頼人の人遣いが荒そうだから、仕事に入る前にまずはリラックスをしておかなきゃ続かないと思ったんだ」

「それはよい心がけだね。明日からが楽しみだよ」

エディに招き入れられて居間に入ると、パットリックとアリシアはジャズを聴きながら、ワインを飲んでいた。何だ、自分たちも遊んでいたんじゃないかと思う。

「こいつは奇跡だ。1週間に2度も息子様の顔を拝めるなんて」

大げさなジェスチャー付きでそんなことを言うパトリックに対してあからさまに顔を顰めて見せてから、キーランは、ハイ、母さん(マム)とアリシアの頬にキスをし、定位置の椅子に腰を下ろした。

「いつもだって、何だかんだ言って週に一度ぐらい会うだろう」

「そうかい?気がつかないけれど」

「嘘つくなよな。会うと、手ぐらい振ってやっているよ。だいたい、ライバル事務所のシニア・パートナーとあんまり親しくするはマズイだろう」

「転職されるかと思って、給料を上げてくれるかもしれないよ」

そこへ追加のワイングラスを持って戻ってきたエディが口を挟む。

「まさか。皆、オレがパットのところに移る気がないことぐらい、十分に承知しているさ。いくら今より高い給料もらったって、パットの下で働くのなんか、真っ平だからね。パットは人に仕事を押し付けるのが上手いから、過労死一直線だよ。今回だって、オレは、エディが大ボスで、しかも2、3ヶ月だから引き受けたんだ」

「お前は本当につれない息子だな」

母さん(マム)の苦労を見てきたんだから、自然とそうなるよ。エディがいなかったら、きっと何十年も前に離婚されていたんだろうからさ、せいぜいエディに感謝するんだな」  

「なぁに。今度は私とエディにお鉢が回ってきたの」

いつものことなので、アリシアはケラケラ笑いながらふたりのやり取りをやり過ごした。

「あーあ。口の減らない息子なんて持つもんじゃないね。オレはつくづく美波みたいな女の子が欲しかったよ」

「頼りないくせに、人一倍はねっ返りで、隠れて悪いことばかりしているこのお嬢さんでいいのかい?」

エディは、チラッと横の美波を見ると言った。目元は笑っているが、それにしても、けっこうな言い様だと思う。

「悪いことって、お父さん、私もそれなりの年齢の大人なんだけど」

「それじゃ、それ相応の行動をとるんだね。僕が君の年の時には、キーランは4歳で、君は2歳だった」

「あら、エディ、それは美波に不公平な言い方よ。30年前と比べると、日本でもアメリカでも平均初婚年齢も出産年齢も上がっているもの。私たちの世代が、ちょっと、特殊なのよ」

「それに、オレたちの親たちは2組揃って後先のことを考えずに結婚して、子どもができた後でトラぶっているからね。オレも美波も、自然と慎重になるよ」

キーランがそう確信を持って言うと、エディとパトリックは揃って苦笑いを浮かべた。確かに、ふたりとも、結婚と子作りの手腕に関してはキーランに反論できない。パトリックとアリシアは、アリシアの親から大反対されたにもかかわらず学生結婚をし、結婚後しばらくは経済的にとても苦しい状況にあったと言う。彼らが、エディとフィオナとケンブリッジで共同生活するようになったのは、もっぱら経済的な事情ゆえであった。もちろん、フィオナとの結婚のごたごたを今でも引きずっているエディは言うまでもない。

「そういう時代だったのよ。若者の異議申し立てって、聞いたことあるでしょう?恋愛はその象徴だったわけ」

アリシアが少しうっとりしたような感じで言った。母さん(マム)もいい年をしていつまでもロマンチックだねとキーランが笑う。

「とにかく、せっかく久しぶりに5人全員が集まったわけじゃない。乾杯しましょうよ。皆が揃ったのって、美波が医師国家試験に受かった時以来でしょう?」

「そう言えばそうだな。早いもんだよな。その美波も今は研修医じゃなくて、ちゃんとしたお医者なんだから」

「おまけに、キーランは来年30歳になるしさ。僕が出産に立ち会ったのが30年も前のことになるなんて、感慨深いよ。お互い年を取るわけだよね」

3人とも、まだ50代に手がかかったばかりなのに、妙に年寄りめいたことを言う。仕方ないので、美波は、エディの出してきた高そうなワインをカラフェに移し、全員に注いでまわった。

「はい、元気を出して。乾杯。大丈夫よ、3人とも。精神的には、私やキーランなんかよりもっと若々しいんだから」

ホント、揃いも揃って、子どもみたいに手がかかるんだから。小さな声で付け加えると、キーランが美波の独り言に気づいたかのように、笑いかける。

  まぁ、実際、久しぶりだし、3人ともとても嬉しそうだから、たまの親孝行も良いよね。美波はとりあえず、そう納得することにした。


  神山町のバーで綾乃と会ったことは、エディには言わなかった。それは、ふたりの間では松濤の家のことを話さないという単なる慣習ゆえであり、決して意識して黙っていたわけではない。


  翌日からキーランが仕事に入ると、美波とキーランの生活は随分と規則正しいものになった。キーランは、国際取引などを専門にコンサルティング業を取り扱う、川嶋コンサルティングの赤坂事務所に毎日通う手はずとなっていた。川嶋コンサルティングは、もともとはカリフォルニア州弁護士資格を持っていたエディの父、川嶋隆が興したもので、隆の死後一旦業務を縮小したが、その後、パトリックが社長を勤めた間に急激に事業規模を拡大し、現在ではコンサルティング業界でも指導的な会社となっている。そういった事情から、パトリックがエディの仕事の都合で東京に来ると、いつも川嶋コンサルティングの重役室があてがわれていたが、今回はキーランもそれに加わる形になった。もっとも、オフィス面積が格段に狭い東京のビルでは、若手弁護士といえどもニューヨークのような個室が与えられるわけではなかったのだが、他の日本人社員と机を並べていて、仕事中に他人の様子が観察できるというのもけっこうおもしろいと、キーランは気楽に言っていた。

  美波が定時の勤務の場合、美波とキーランは、朝、一緒に原宿のマンションを出て、山手線で新宿まで出た。キーランには随分遠回りとなる通勤方法だったが、キーランがどうしてもそうしたいと言ったので、美波は特に何も言わなかった。病院の玄関で別れた後、キーランは地下鉄で赤坂に向かう。そして、美波の勤務時間が終わる頃に、必ず迎えに現れた。幼稚園児みたいに送り迎えしてくれなくてもいいわよと言ったのだが、相変わらず、キーランは美波のそんな抗議を完全に無視した。夕方にミーティングを設定してくるような無粋なヤツに対していい口実になるだろうと言い、夜勤のない日は、毎日ほぼ6時半ごろになると病院の待合室に姿を現した。そんな風にして、2週間が過ぎてみると、キーランはいつの間にか、浜松部長や婦長、他のスタッフとすっかり親しくなっており、美波の勤務が終わるのをドクターラウンジで仕事関係の書類をめくりながら待つようになっていた。きっとキーランは火星に飛ばされても立派に生きていけるはずだと、美波は確信する。

  そんな調子のキーランではあったが、それでも忙しい仕事をしているようで、美波の夜勤の日は、かなり遅くまでオフィスに残っているようだった。キーランがLANを通した会社のコンピューターに向かって仕事をしていると、コンピューターを通じてちょっとしたおしゃべりができる。美波が試しに深夜12時近くにEメールを打ってみると、即座に「ちゃんと仕事しろ」というメールが返ってきたりした。

  そして、ふたりは時間を見つけてはセックスをした。まるで会わなかった時間を埋め合わせるかのように、平日の夜や病院に行かなくてもいい休日の昼間は、巣篭りでもしているようにベッドやソファで抱き合って過ごした。一通りお互いの身体の感触を堪能した後の圧倒されるような感情の高まりがそれなりに落ち着いた頃、キーランはしばしばメモをとりながら数字が羅列された書類をめくり始めたり、美波のあまり使っていないラップトップのパソコンで文章を書きはじめたりした。美波はそんなキーランの横で、クラシックな小説などを読んでいるうちに眠りに落ちることに安らぎを感じていた。

  キーランが戻ってきて以来、美波はスケジュール調整に最大限の努力を払って、キーランの休日である土曜、日曜のうち、必ず一日は休日となるように心がけていた。休みの日には、ふたりで映画を観に出かけたり、街をぶらついたりして、その後、寺崎たちや菜穂と落ち合って、食事をすることもあった。ただ、そんな場合でもふたりは早い時間に帰宅し、それから、ベッドの中での親密な時間を重ねた。キーランの髪の毛に指を絡めて遊びつつ、セックスばかりしているっていうのも芸がないよねと言うと、他にすることなんかないだろうという答えとともに、唇をふさがれた。キーランは、他の女の子には、通常はとても紳士的で、そういう言い方はしないはずである。喜んでいいのか、怒っていいのか、美波にはよくわからなかった。

  そんな熱に浮かされたような毎日の中で疎かになっていったのが、青山への訪問であった。美波もキーランも一応は親たち、特にエディに気を配り、最低でも週に一度は顔を出すようにしていたが、ふたりの関係について問い詰められると気まずいと尻込みする気持ちもあって、エディの家で過ごす時間が自然と短くなっていった。パトリックとアリシアが滞在中ということもあって、エディもいつものように連絡をしてこなかったものの、会いに行くといつも何か言いたそうな顔をした。それで、青山の敷居がなおさら高くなっていった。


  規則的にキー音が鳴る音がした。キーランがまたパソコンをいじっていると思うと、妙にすっきりと目が覚めた。ベッドから起き出して台所に行き、ココアを淹れる。キーランはミルクティは好まないが、これならば暖かいし、コーヒーと違って眠れなくなることもないだろう。

「また、仕事?」

ココアと差出しながら、パソコンの画面を見つめる。今日も、やっぱり、たくさんの数字が羅列しているだけだった。美波には、現代美術の作品にも見えなくもない。

「起こしちゃったかな」

キーランは、目を瞬かせて美波を見る。画面に集中しすぎていて、美波が近づいたことには気がつかなかったのだろう。Tシャツの肩に触れると、ひんやりとしていた。こうやって随分と長い間仕事をしていたのだろうけれど、この2、3週間で夜はすっかり冷えるようになっていた。キーランがおいでというように美波の腰に手をまわして、自分のひざの上に座らせる。美波はベッドから毛布を掴むと、自分とキーランを包んだ。

「起きたのよ。研修医をやると、訓練で、眠りが浅くなるの。だから、毎晩、何度も起きるの。その代わり、いつでもどこでも寝られるけれど」

「それは知っている。コーヒーを飲みながらとかね」

キーランは笑って、ココアに口をつけた。美味しいな、冬になるとよく母さん(マム)が作ってくれたよねと懐かしそうに言う。そんなキーランを見ているうちに、美波は思い切って、その質問を口にしていた。

「ねえ、こういう数字をいつも見ているけれど、何がわかるの」

「これ?そうだな」

言いながら、キーランは、マウスを使って、カーソルをぐるぐるまわす。それから、突然一塊の数字を選択する。

「たとえば、これなんかは、売り上げの減退で神経質になった上司に脅された営業マンの最後のあがきの典型かな。このあとで、誰もが嫌になって、少しでも見込みのありそうな社員は、皆、別の会社に移って行ってしまったってところなんじゃないかな」

「ええっ」

美波はその箇所をよく見てみたが、実際のところ、何をどうやって見てよいのかわからない。そんな美波の反応に、キーランは噴き出す。

「今のは、半分、はったりだよ。でも、こっちはもっと面白い」

キーランは、別の数字を選択する。

「10-1がゼロになるパターンが確立している。収益にも問題があるけれど、残ってしかるべき金がどこかに消えてしまったと考えるしかないと思う。誰かがちょろまかしたのか、何かの間違いか、別のプロセスと関係しているのか、色々可能性はあるけれど、組織的なのは間違いない」

美波は大きな息をついて、キーランを見た。

「キーランはそういうことって、どこで習ったの?大学で勉強したのは、確か政治学で、経済学や会計じゃないよね」

「大学でパートタイムのMBAコースをとったんだ。事務所が金を出してくれたし、誰かさんに無視されていてけっこうヒマだったしね。あと、会計のことは、会計士と仕事をしていると実地で習えるんだ」

「そんな時間、よくあったね」

「時間なんて、どうにでもなるさ。要はやらなければならない理由があるかとか、興味があるか、ないかってこと。オレにはMBAなんて退屈なもので、最後には飽きていたけれど、事務所に授業料を出して貰った手前、ちゃんと修了する必要があったんだ」

まったく、キーランは律儀である。律儀でまじめで、それから生活や仕事に組織だった方法論が使えて、つまり嫌味なほど有能なのである。だから、寺崎のような男さえも、劣等感を抱いてしまう。

  それにしても、忙しい弁護士の仕事に加え、パートタイムで勉強し、それでも、山のようにいる友だちときっちりと遊ぶ。どうしてそこまで忙しくしている必要があるのだろう。美波の頭に、いつもの嫌な思いが甦ってくる。

「キーラン、ひょっとして、弁護士の仕事に退屈しているのかな」

「何だよ、急に」

「だって、変じゃない。いつもそうやって色々なことをしているけれど、弁護士の仕事が好きなら、それに熱中するものでしょう」

キーランは、ココアをすすりながら、美波の顔をたっぷり3分ほど見つめていた。大方、言いたいことがあって、それをどういう風に言ったらよいのか思案しているのだろう。確かに、美波には頑固なところがあって、だから時々、物分りがとても悪くなる。

「お前さぁ、昔、誰がお前に何を吹き込んだのか知らないけれど、そろそろ、その『キーランは自分のやりたいことを諦めて弁護士になった』っていうワンパターンな考え方を頭から追い出した方がいいんじゃないか。そうじゃなくてさ、『キーランはパトリックとエディをけっこう尊敬していて、だから弁護士になった』って考えることはできないかな」

長い沈黙の後、絞り出すように出てきたキーランのことばは、美波にとってとても意外なものであった。

「そうなの?パットおじさんとお父さんのことを尊敬しているの?」

美波が聞くと、キーランは、大きなため息をついて、美波の上腕部を撫ぜた。

「たとえば、そういう考え方もできるってだけの話。お前はさ、どうしていつも物事にシロクロつけなきゃ気が済まないんだよ。困った癖だよ」

「よくわからない」

実際に混乱した気持だったので、自然と眉根を寄せて聞き返すと、キーランは再び大きく息を吐いた。

「だからね、オレはオレなりにパットとエディのことを30年近く見てきて、色々と留保はあるけれど、ふたりが仕事に関してはとても有能であることも知っていて、その限りでは、ふたりのことを尊敬している。エディはさ、結局のところ、現在、誰もが認める天下無敵の経営者だし、パットには、何て言うのかな、生存本能があるんだ。だから、あのふたりが組むと、もう対処の仕様がなくてさ。オレの場合、そういうふたりを子どもの時から間近で見てきたわけだから、弁護士の仕事の内容なんて、ロー・スクールに入る前からよく知っていたわけだろう?つまり、ロー・スクールに行って、弁護士になるっていうのは、オレにとっては、よく考えた上で決めることができる選択肢だったわけ。バスケットボールも歌を歌うのも楽しいけれど、それを仕事にしてしまうと楽しいだけじゃ済まないだろう?オレは母さん(マム)みたいに学者になるつもりもなかったから、その代わりに数字をみたり、判例を読んだりすることを選んだんだ」

美波は、キーランの言ったことを2度ほど反芻してみた。要するに、キーランは自分がやっていることは自分が選んだわけなのだから、余計な心配はするなということなんだろうか。

「キーランはさ、私がいなくても弁護士になったと思う?」

「そんなこと考えたこともないよ。2 歳になる直前に生まれたばかりのお前に会って以来、いつも一緒だっただろう。何かが起こらなかったらどうなっていたかなんて、考えるだけで時間の無駄だよ」

それから、画面上の複数のファイルを上書きして、パソコンを閉じる。

「オレは弁護士になってよかったと思っているよ。けっこう面白い経験ができるし、何たってボスからの制約があまりない。それから、これはもっとも大事なことなんだけど、オレは美波と生まれた時からいつも一緒であったことを、とてもラッキーだったと思っている」

それだけ言って、キーランは美波の唇の脇に軽くキスをする。

「だから、余計なことを思い悩むのはやめろよ。もういい加減、美波だって理解していてもいいはずだ。オレは、いつも美波には言いたいことを言っているし、自分のやりたいことをやっている。そんなオレのことを笑って見てくれている美波だから、オレは美波と一緒にいたいと思っているんだ。そして、美波だって、そんなオレだから一緒にいてくれるわけだろう」

「でもさ、わたしみたいな面倒なのに引かかって、損したとは思わない?キーランならば、素敵な女性、選り取りみどりなんだろうし」

やっぱり、かなり後ろめたく思って、美波は聞く。

「そうだな、美波には、いちいち説明をしなければいけないから、確かにかなり面倒だよね」

そこまで言って一呼吸置き、キーランは美波をまっすぐ見詰める。

「でも、美波はさ、いつもこうやってココア淹れてくれたり、毛布で包んでくれたりして、自然に気遣ってくれるだろう。オレはそういう美波の優しさに、とても感謝している。何て言うかさ、他人のことを大切に扱わなければいけないって思い起こさせてくれるんだ。正直言うとね、美波といることで、もともとの自分よりもいい人間のように振舞えるような気がして、だから、実は、オレだってけっこう自分勝手だったりもするんだ」

美波は、とても複雑な気持ちでキーランの言うことを聞いていた。キーランが今言ったことはある意味で自分に対する過大評価にも聞こえるが、同時に、人は、しばしば、小さな子どもを見ていて同じようなことを言うような気もしなくはない。やっぱり、キーランの美波に対する評価は3歳児であった時と変わらないのだろうか。

「それにさ、お前ってとんでもなく不器用で、無愛想だろう。一年半も放っておいたのに、他の男の心配をしなくて済んだというのは、ポイント高いよ」

美波がしばらく黙っていると、キーランはそんなことを言った。

「何よ、それ。いくらなんだって随分と失礼じゃない」

かなり核心を突いていたので、本気になって怒ると、キーランは屈託なく笑っていた。

「冗談だよ。冗談。本当はずっと心配だった。だから、けっこう電話しただろう」

「そう?」

美波はキーランの首筋に顔を埋める。キーランの体温を感じていたかった。

「夜が明けるまでまだもう数時間ある。もう少し寝ようか」

キーランはデスクの明かりを消し、美波を抱き上げた。


  一年半前、キーランが東京に来るのをやめると宣言した後、美波は精神的なパニックを感じるようになった。心の中に巨大なブラックホールができて、自分自身さえその中にのみ込まれていくような感覚が終始消えず、眠ろうとすると必ず高いところから落下するような幻想に襲われた。とはいえ、美波は自分のそうした精神状態を誰にも打ち明けることはしなかった。エディやキーランにはもちろんのこと、キーランが訪れないのを不思議がる寺崎や菜穂には、しばらく会うことをやめることにしたとだけと伝えただけだった。

  そんな美波の異変に気がついたのは、東京に赴任したばかりの芳賀暁だった。芳賀は事情を何も尋ねず、慎重に、遠慮がちな距離を保ちながら、美波のことに気遣った。美波はそんな芳賀に対して感謝の気持ちを感じていたが、それでも結局、ふたりの間には何も起こらなかった。芳賀のデリケートな優しい思いも、美波の中にしっかりと根づいているキーランと積み重ねた長い時間に対しては何の意味も持つことはできなかった。それだけのことだ。


  その日の午前、美波は、大学時代の指導教官が主催する勉強会に呼ばれて、赤坂にある病院に出かける予定になっていた。朝、出掛けに、いつもよりも幾分フォーマルなダークスーツを着ていたらキーランがどうしたのと聞く。赤坂の病院に行くのだと答えると、ならば待ち合わせて昼食を一緒に食べようと誘われた。

  美波は、普段、川嶋グループの会社には極力近寄らないようにしていた。もちろん、社員の間で美波のことについて知る者はほとんどいないのだが、松濤の家とのゴタゴタ、特に絵梨子の父で、川嶋グループ会長である関谷久夫のことを考えると胃がキリキリと痛くなる。関谷には、13年前に松濤の家でのクリスマスパーティで、心臓が潰れそうなほど睨みつけられたことがある。それで、エディから会社に来るように誘われたことはこれまでにも何度かあったのだが、いつも何だかんだ理由をくっつけて行かなかった。

  だから、その朝、キーランから会社まで呼びに来いよと言われた時も、反射的に外で待ち合わせようと頼みそうになった。そんな美波の気を変えさせたのは、キーランの働いているところを見てみたいという好奇心だった。美波は、キーランが働くニューヨークの法律事務所を訪ねたこともなかった。ニューヨークで最大規模を誇る伝統のある法律事務所は、中に入るのをためらわれるような威圧感が一杯で、自分のような部外者が行くようなところではないように思われた。

  勉強会が無事終わった後、堂本教授や知り合いに挨拶を済ませると、美波はかなり緊張して川嶋コンサルティングへの道を歩いた。川嶋コンサルティングは、赤坂見附の駅から歩いて5分ほどの距離にあるオフィスビルの高層フロアを占拠していた。きっと家賃だけで、想像もできないような金額を払っているのだろう。それで採算が取れるのであるから、弁護士というのはやっぱり稼ぎすぎである。

  ビルの入り口はタッチ式の自動ドアであったので、中に入ろうと手を伸ばすと、美波はロビーにキーランの姿を認めた。手を振って、声を掛けようとした美波は、次の瞬間、キーランと会話している女性に気づき、その場に立ち止まった。女性は綾乃であった。美波はどうしてよいかわからず、自動ドアの隣の壁に身を隠した。自動ドアが開いて、また閉まった。

  幸いその場には誰もいなかったので、美波はそっとドアの影からロビーの様子を覗いた。ふたりは美波の出現には気づかなかった様子で、まだ話をしているようだった。綾乃は俯いていて、キーランも綾乃に合わせて下を向いているので、ふたりの表情はよく見えない。ああ、もう、何を話しているんだろう。美波はかなりイライラした気分で中の様子をもっとよく見ようと、首を伸ばした。

「君はそんなところで、そんな格好をして、一体、何をしているんだい?」

突然、背後から聞きなれた声がした。エディだった。しまったと硬く目を閉じて、それから、ゆっくりと声の方に振り返る。

「会社に来るなんて、珍しいんじゃないのかな。いつもはいくら頼んでも近づきもしないのに、今日はどういう風の吹き回しなんだい?」

ズボンのポケットに手を突っ込んで、美波の顔を覗き込むエディ。その横には、第一秘書の岸田がいて、美波さん、こんにちはと挨拶される。

「こんにちは、岸田さん。お久しぶりです」

うろたえながらも岸田にしっかり挨拶を返す美波をじっと観察した後、エディは美波の背後に視線を移した。

「へぇ」

エディの目がすっと細くなる。多分、キーランと綾乃の姿を確認したのだろう。50代になっても、エディの視力は衰えていない。まずいことになったと、美波はその場から逃げ出したくなった。

「こっちに来なさい」

エディは美波の肩を抱くと、オフィスビルの脇へと導いた。美波は言われるがまま、おとなしく従った。


  エディが美波を案内したのは、ビルの脇の搬入用の通用口であった。慣れているのか、岸田はさっさとカード・キーを出し、そのまま搬入用エレベーターにエディと美波を案内する。

「ところで、美波、僕と君が川嶋コンサルティングの赤坂オフィスがあるビルの玄関先で会うなんて、ちょっとした偶然なんだけれど、わかっているのかな?」

エレベーターの中で、エディがふと言った。

「偶然?」

「そう。僕のオフィスがあるのは、川嶋グループと川嶋電機の本社ビルで、コンサルティングの赤坂オフィスではないんだ」

「そうだったかしら」

美波は懸命にとぼけてみせようとした。

「そうなんだ。それで、本社ビルはどこにあると思う?」

美波は頭の中を必死になって検索しようと試みたが、たったひとつの地名も思い出せなかった。

「品川だったかな」

当てずっぽうで言うと、エディはエレベーターの表示に目を向けたまま、美波の方を見ようともせずに切り捨てた。

「おしいね。品川にあるのは工場で、本社は丸の内なんだ。今度、一度、是非来るといい。来れば、そのくらいのことは覚えるだろう」

これで、丸の内の本社ビルにエディを訪ねざるをえなくなった。美波はすっかり項垂れる。横を見ると、岸田が下を向いて、笑いを噛み殺していた。


  エディが美波を案内したのは、パトリックのオフィスだった。珍しいお客さんがいるんだと、エディが美波を部屋の中に連れ込むと、大きな窓をバックに、ものすごい勢いでキーボードを叩いていたパトリックは立ち上がり、あんぐりと口を開けた。

「なんてこった。美波じゃないか。ここに来るのは初めてのことじゃないかい」

「入り口のところでうろうろしていたのを拾ったんだ」

対して、エディはとても静かに説明した。

「うろうろ?まさか、道に迷っていたなんて言わないでくれよ」

「似たようなもんじゃないかな。ちょうどいいから、君の息子も呼ぶといいんじゃないかな」

ああ、そうだなと頷いて、パトリックが電話を取り上げる。その間、エディは美波を部屋の真ん中の応接セットに座らせ、自分は美波の真向かいに腰を下ろした。社長、終わりましたら電話をくださいと、岸田が出て行った。

  終わりましたらってことはそれなりの時間かかるのだろうかと不安になり、美波は大きな革張りの椅子の中で小さくなった。日本人秘書が人数分のコーヒーを持って入ってきた。秘書がコーヒーを配っている間、エディはじっと美波のことを見つめて、黙っていた。

「社内にいるらしいが、今は席を外しているそうだ。伝言を残しておいたから、そのうち姿を見せるだろう」

そう言いながら、パトリックがエディの横の椅子に腰を下ろす。この位置関係は、あまり嬉しくない。  

「それで、どうして君が平日の昼間、赤坂なんかにいるんだい?」

パトリックが落ち着くのを待って、エディが聞く。とうとう尋問が始まった。

「堂本教授(せんせい)の勉強会が、この先の病院であったの。だから、駅まで戻る途中で、たまたま近くを通っただけ」

「たまたま近くを通っただけの人間が、何でビルの中を覗いていたのかな?」

「中を覗いていた?さっさと入ってくればいいのに。それは、確かに挙動不審だぞ」

「だから、その、高そうなオフィスビルだし、私には近寄りがたいところだなぁと思って」

「そんなに興味あるならば、いつでも言えばよかっただろう。僕だって、パトリックだって、これまで何度も君のことをここや丸の内の本社ビルに招待してきたのに、来なかったのは君なんだからね」

「だから、それは、その」

美波が言い淀むと、エディは組んでいた足を組み替えて、肘掛にもたれ、美波を斜め下方から見据える。

「うちのお嬢さんの気がここのところで急に変わったのは、なせなのかな?」

パトリックが、大げさに眉を吊り上げて、美波の方を見た。白状しろということなのだろう。美波が狼狽えて、コーヒーを口にすると、軽いノックの音。何てタイミングが悪い日なんだろう。すぐドアが開いて、キーランが現れた。

「何、パット、呼んだ?」

それから、部屋の中にいる他のふたりに気づいたのだろう。やっぱり、多少は驚いたようで、キーランは小さく息を吸う。

「ああ、なんだ。エディと、それから美波」

「キーラン、君も座りなさい」

エディが美波の隣の椅子を指し示す。キーランは、2、3秒の間、その場の状況を見定めようと応接セットの3人を見つめてから、椅子に着く。

「どうしたのさ、お揃いで」

「それがね、珍しいことに、美波とこのビルの入り口でばったり会ったんだ。この15年間、川嶋の会社には絶対に近づかなかった娘が、今日はなぜだか会社のドアのところでかくれんぼをしていた」

「かくれんぼ?」

「どうもロビーの中に入りづらかったらしい」

そう言われて合点がいったのか、キーランは軽く頷いた。

「そういうことか。それじゃあ、きちんと説明するけれど、僕は、急に呼び出されて、ロビーに行ったんだ。実は美波と待ち合わせて一緒に昼食を取る約束だったから、最初は美波かと思ったんだけど、別の人だった。だから彼女には帰って貰いました」

いつになく改まって、キーランが言う。パットリックが何か言いかけたが、エディがそれを手で制した。

「聞いたところによると、週のうち、何日かは随分と遅くまで仕事をしているようだけれど、その他の日は、6時には書類をまとめて帰っていくそうじゃないか」

「それが、何か?オレは自分のスケジュールはちゃんと管理していて、貰っている給料分以上の仕事はしているつもりだけどな」

「それも聞いている。君から上がってきたレポートもよくできていた」

「だったら、問題はないだろう。雇い主として」

「雇い主としては、確かにそうだね」

エディは、突き放した調子で同意する。あまり、納得していないといった様子だ。美波は、どう口を挟もうかと思案していたが、ふたりが美波のコントロールの及ばない仕事のことを話し始めるのを聞いて、お手が挙げであることを思い知らされる。

「それで、君の場合、このところ、あまり夜勤をしてないのかい?」

エディは、突然、矛先を美波に向ける。

「一昨日は夜勤だったかな。このところ、週に1、2度ってところ」

「それで、美波が夜勤の日は、キーラン、君も遅くまで会社にいるってわけなのかな?」

エディは、いつになく容赦がなかった。キーランは、少し身を引いて、そんなエディを見返した。今日のエディは、いつもの冷静さを失っている。

「6時に赤坂を出れば、6時半ごろには新宿に着くよね」

畳み掛けるエディに、美波はどう対処していいものかとパニックになった。父がいつまでも美波に子どものままでいて欲しいと思っているわけではないことは確かだった。とは言え、何も言わない自分のことを、じれったく思っているのだろう。さて、いったい、どうしたものか。

「要するにだな」

突然、咳払いとともに、今まで黙ってエディの様子を見ていたパトリックが口を挟んだ。

「お前たち、この頃、ちっとも顔を出さないだろう。そりゃ、若いお前たちには色々と予定があるのかもしれないけれど、こっちは何をしているのかと気にもなるし、第一、研究休暇(サバティカル)で来ているアリーが随分と退屈していね。そういうことに、もう少し気を遣ってもいいんじゃないかと、エディと話していたんだ。オレたちにも仕事があるもんで、そうそう早い時間に家に帰ることはできない。それで、お前たちの協力も必要なんだ」

パトリックの説明を一通り黙って聞いて、エディは大きな息をついた。それから、ゆっくり座りなおし、美波に聞く。

「それで、君の今日の勤務はいつ終わるんだい?」

「病院に戻って、報告書を書けばいいだけ」

「そう。それならばアリーに電話しておくから、仕事の後は青山に顔を出しなさい。少し話しておきたいこともあるんだ」

その途端、キーランは極めて真剣な様子でエディを見返した。エディはすでに穏やかな笑みを取り戻していた。

「詳しいことは後で話すけれど、君も関係していることだ。もう、これ以上、先に延ばしてはいられない」

「何のこと?」

不安な思いが胸に溢れて、美波は聞く。すると、キーランがいつものように美波の上腕部をサッと撫ぜた。

「送っていくよ、美波。じゃないと、オレたち、ランチ食べ損ねるしさ。今出れば、テクアウトのサンドイッチくらい食べる時間はあるだろう」

「僕の車が地下で待っているはずだから、それを使うといい。こっちから連絡をしておくよ。ただ、あまり、昼食を食べ過ぎないことだね。電話をするとアリーが大量の夕食を用意するはずだから」

「わかっているよ」

キーランは屈託のない微笑みを浮かべて、エディに応えた。

「それじゃ、お父さん、またあとで」

美波がいつものようにエディの頬に挨拶のキスをすると、エディは美波をまっすぐ見上げた。

「君の方はただうるさいだけと思うんだろうけれど、こっちも色々と心配があってね。君はとても秘密主義だし」

「私はいつも大丈夫だよ」

「そのことについては、後で話そう」

エディは、美波の額にそっとキスを返した。パトリックにもあいさつのキスをした後、部屋を出ようとキーランとともに歩き始めると、エディの声がを追ってきた。

「キーラン、悪いけれど1時間ほどで戻って来てくれないか。打ち合わせをしておきたいことがあるんだ」

キーランは、敬礼のマネをした。

「わかっているよ、ボス。本当は、明日あたり現れるんじゃないかと思っていたんだ。1日早まって、ちょっと驚いたよ」

エディとパトリックは、そんなキーランの返答に少しだけ笑った。


  地下駐車場に向かうためにエレベーターを待つ間、キーランは美波の髪をクシャリと撫ぜて、お前は相変わらずトロイなぁと苦笑まじりに言った。確かに、親たちにつかまるのは、いつも美波の方であった。到着したエレベーターには、誰も乗っていなかった。それで、ふたりで乗り込み扉が閉まると、キーランはお約束のように熱心なキスを始めた。そんなことをしているうちに、美波は綾乃のことを聞く機会を失っていた。


  帰りもキーランは、エディの車に乗って現れた。要するに、この件に関して、エディは美波のことをあまり信用していないらしい。運転手付きの国産高級車が、突然、救急車の隣に停まったのを見た婦長がびっくりして、ドクターラウンジに駆け込んできた。帰り支度を終えていた美波は、会社の車なのと小さい声で言い訳をし、そそくさと病院を出た。

  青山のマンションに行くと、手ぐすねを引いて待っていたアリシアから一通り怒られた。既に色々な問題が山積みになっているのに、その上でエディに余計な心配をかけるのはフェアじゃないわとアリシアは言う。

「あなたまでキーランのマネをしなくていいの。あなたとキーランでは置かれている状況が違うんだから。それから、キーランももう少し周りの状況に気をつけなさい。あなたのライフスタイルに美波を巻き込まないの。エディと美波はほとんど一緒に暮らしたことがないんだから、エディが必要以上に心配してしまうのもわかるでしょう」

「そうだね。それから、母さん(マム)のことも放っておいて悪かったね」

キーランがそう神妙に言うと、アリシアは冷たい目でキーランを睨む。

「あなたのそういう話術は他の女の子には通用するんだろうけれど、親には通用しないってことよく覚えておきなさい」

「わかっているって。だから、ちゃんと母さん(マム)って呼んでいるじゃないか」

まったく、キーランも懲りないんだからと、美波は思った。アリシアは、自分よりは30センチほど背が高くなってしまった息子を見上げて、ため息をついていた。キーランが16歳になった頃、アリシアはキーランの生活に介入するのを諦めた。それ以来、キーランはアリシアとパットリックに対して好き勝手なことを言ったり、やったりしている。もっとも、キーランは生来真面目で、律儀な性格だったので、アリシアたちの放任を良いことに問題を起こすようなこともなかった。結局、ティーンネイジャーから大人になっていく過程での親子関係の変化としては、成功した方なのだろう。対して、美波とエディの場合、快適な距離のとり方がいまだにわからない。

「とにかく、ふたりとも手伝って。あとのふたりももうすぐ帰って来ると思うから」

アリシアにそう言われて、美波とキーランはおとなしく台所に向かった。とりあえず、ここは誠意を見せよう。


  エディとパトリックが帰ってきたのは、皆でアメリカ大統領選挙の候補者選びのニュースを見ているときだった。候補者を決定する予備投票日まで、あと数日。エリート層に属する大抵のアメリカ人の例に漏れず、パトリックとアリシア、キーランの親子は3人とも政治的なことにも随分と関わっている。パトリックが民主党政権の閣僚を勤めただけではなく、キーランも東京に来る間際まで民主党のニューヨーク州での選挙を手伝っていた。社会学者であるアリシアの政治的立場はもう少し複雑で、民主党との関わりを維持しながらも、時には政党政治の枠には収まらない急進的な市民団体の活動も支援している。だから、その日のニュースで、共和党候補者選挙ではブッシュJrが優勢であることが伝えられると、テレビを見ていたふたりは憂鬱な声を出した。

「潮時かもな」

エディとパトリックがそろって居間に現れたのは、キーランがそんなことをポロっといった時だった。それで、美波は、キーランの意図を確かめることができなかった。

「おう、ブッシュJrか。オレたち、亡命する準備でもした方がいいぞ」

画面を見るなり、パトリックが言った。美波はびっくりして、パトリックを見る。

「気分が悪くなる。先にシャワーを浴びてくるよ」

そう言い捨てると、パトリックは部屋を出て行った。キーランが苦笑して、アリシアに何かを言った。アリシアはテレビを消した。

「私たち、あなたのマキャベリアンな政治的態度を見習ったほうがよさそうね、エディ」

「まだ、候補者選びの段階だろう。君たちにせっつかれて、僕もかなり投資したんだしね。だから、本選挙での健闘を祈っているよ。もっとも、大事な時に優秀な参謀たちに東京まで来て貰ったんだから、僕にも責任あるのかなぁ」

「こういう時は優しいんだな、エディは。行こう、母さん(マム)、手伝うよ」

キーランがそう言ってアリシアを台所に促すので、美波はごく自然に立ち上がった。すると、エディが美波の肩に手を置いた。

「君はここにいてくれないかな。話しておきたいことがあるんだ」

そう言ったエディの声は、いつになく重かった。それで、美波は反射的に、キーランの表情を確かめようと頭を巡らしていた。キーランは大丈夫だというように美波を見返すと、アリシアとともに居間を出て行った。


「何から話していいか、実はかなり難しいんだ。おまけに、あまり気分のいい話でもないしね」

美波をソファに座らせ、自分もその隣に腰を降ろすと、エディはスーツの上着を脱いで、ネクタイを緩めた。それから、美波の手をとって、そんなことを言う。常日頃、気味の悪いほどに明晰なエディらしくない言い方だった。

「君も、今回、わざわざパトリックやアリー、そしてキーランにまで東京に来て貰ったのは、それなりの事情があることぐらい察しているだろう」

美波は黙って頷く。

「第一に、川嶋グループの財務的な問題がある。うちにも不動産やリゾートの開発を手がけていた部門があるからね。バブルの崩壊やそれで持ち上がった不良債権問題っていうのに、それなりの影響を受けた。家電部門やコンサルティングがそれなりに好調だから、まだ表立っては言われてないけれど、正直言って、庭に不発弾が埋まっているような状況なんだ。だから、こいつを上手く処理しなければならない」

「だから、キーランがこのところ、数字と睨めっこばっかりしているんでしょう」

エディは、美波の質問に、思わずのように顔を綻ばせる。

「いや、キーランがやっているのは、単に不良債権だけのことではなくて、もう少し込み入ったことなんだ。それがこれから言おうと思っていた第二の問題。川嶋グループの経営統治上の問題なんだ」

「経営統治?」

聞いたこともない言葉が飛び出してきて、美波は鸚鵡返しに聞き返す。

「うん。要するに、会社の経営をどうコントロールするかってことなんだけれど、実はここにも今大きな問題を抱えていてね。このことは、長い間に積み重なった膿のようなものなんだけれど、だからこそ厄介なんだ」

一体、父は何だって、突然、会社やビジネスのことを自分に話し始めたのだろう。エディの言うことを聞きながら、そんな疑問が美波の頭に広まっていく。

「日本でもアメリカでも、大きな会社の経営をしていると、キナ臭い話と付き合わなければいけない時もある。政治家とか、組織犯罪とかね。問題は、そういう部分とどういう風に適切な距離を取るかってリスクのコントロールの問題で、なかなか潔癖ではいられない。それでね、そのリスクのコントロールの仕方が、古い時代の経営と今必要とされている経営の方式では違ってきている。僕には、倫理的な観点からどちらがより正しいかなんてことは言えないけれども、ただ、必要とされているスタイルが違っているし、企業の説明責任(アカウンタビィティ)に関して言えば、一昔前よりも一層厳密であることが求められている。ここまではいいだろう」

「大丈夫。わかると思う」

やや自信なさげに、美波は答えた。エディはおかしそうに笑った。

「君も大学の教養学部課程で、政治学や経済学の授業を取って、少しは社会科学系の勉強もしたんだろう」

エディと美波は24年の時間差はあるが同じ大学に通った。エディが卒業したのは、寺崎や芳賀と同じ法学部。美波のまわりでは、皆が同じ学校に行き、同じような職業についている。そういうのも、つまらないものだと時々、思う。

「ちゃんとやったわよ。お父さんほどではないけれど、それなりの成績で卒業したのは知っているでしょう。でも私が大学の授業でやったのは、もっと理論的なことだったの」

「大学の成績に関しては、僕ら、経験的にあまり当てにならないことは知っているはずだと思うけれど」

そういうエディは、実は、主席で大学を出ている。もっとも、一刻も早くアメリカに脱出したかったことから卒業式には行かなかったので、実はエディ自身、自分の卒業証書がどこにあるかも知らない。エディは、学生運動の激しい時期だったので大学で勉強する機会は稀で、だから東京の大学の成績にはあまり意味がないと言う。対して、美波は、みっともないような成績では、エディや卒業生代表でスピーチをしたキーランの手前、体裁が悪いのでそれなりに努力はしたのだが、実際ところ、教養学部時代に一番熱心であったことは、休みごとにニューヨークに行くための言い訳づくりであった。

「まぁ、いいや。理論的な方が性に合っているというのは、いかにも美波らしいからね。ともかく、話を元に戻すと、古い経営の仕方、特にリスクのとり方が問題なんだ。はっきり言うと、かなりの範囲で違法行為と言わざるをえない領域に踏み込んでいるし、もっと悪いことに、古いやり方が、グループの不良債権の処理をも妨げてもいる。だから、古い経営のやり方をやめて、新しい経営に変えていかなければならない」

「違法行為って?」

「汚職、脱税、粉飾決済。それから、マネーロンダリングや組織犯罪との関係もある」

美波はめまいを感じて、つい手で額を押さえていた。エディの会社が病院に来るようなヤーさんたちと関係しているなんて思ってもみなかった。エディは、穏やかに続ける。

「それでね、今度は実際にどうやってグループの経営方法を変えていくかって方法論が問題となるんだけれど、これが思いの外に厄介でね。君も知っていると思うけれど、僕は川嶋グループの社長であるけれども、僕の上に会長っていう役職があって、この仕事をしているのが絵梨子さんの父親の関谷久夫。一応、うちの親戚筋に当たる」

エディは、英語で話しているにも関わらず、律儀に、別居中とはいえ自分の妻である絵梨子のことを「さん」付けでと呼んだ。多分、それがエディの絵梨子との距離の取り方なのだろう。

「関谷さんは、美波のお祖父さん、つまり僕の父が死んだ後、川嶋グループの経営の中心となって、それなりに頑張ってきた。グループの不動産や土地開発の分野が成長したのは何といっても彼の功績なんだ。ただ、やり方にとても強引なところがあって、それから、長い間、高度成長期のロジックでリスクを積極的にとり続けているうちに深みにはまってしまった。彼の古いやり方では、今、川嶋グループが直面している問題を解決することができないんだ。それで、僕は、関谷久夫やその取り巻きたちを排除して、違法行為を止めさせ、グループの経営を一新すると決意した」

「排除って、随分と過激に聞こえるけれど。引退してもらうの」

「いや」

エディは美波の質問を即座に否定すると、視線を落とし、そのまま自分の足元を見つめたまま、暫くの間、何も言わなかった。

「お父さん?」

あまりにも長い間、エディが黙っているので、美波が覗き込むと、エディはごめんと顔を上げた。

「ここからは、実は僕の個人的な問題と関わってくるんだ。第三の問題」

「お父さんの個人的な問題って、どういうこと」

「うん、だから、フィーと君のこと」

「私とお母さん?川嶋の会社が現在、抱えている問題と、私や死んでしまったお母さんがどう関係あるって言うの?」

正直言って、美波はかなり混乱していた。これまでのエディの話は、会社や松濤の家が関係しているとしても、自分や死んだ母と何らかの接点があるとは思えなかった。

「君は今でもフィーが死んだ時のことをまったく覚えてないんだろう?この23年間、思い出すことはなかった」

美波の目を真っ直ぐに捉えて、エディは聞く。美波は素直に頷いた。

「当然だよね。君はまだ本当に小さかったし、実際、あれは残酷なできごとだったから。だから、僕もこれまであえて君に対して、どうしてあんなことになったのか話すことはなかった。でも、やっと、あの時のことに決着をつけるチャンスが来たんだ」

穏やかながら力のこもったエディのことばに、美波はぶるっと体を震わせた。父は一体、何を言おうとしているのだろう。エディは、美波の不安を感じ取ったかのように、震える美波の手を優しく両手で覆った。

「単刀直入に言うとね、フィーはヤクザに刺し殺されてしまったんだ。そして、フィーをそんな風に死に追いやったのは、関谷さんだった」

エディの言葉は美波の理解の許容範囲を超えていた。口をポカンと開けて、エディを見返すと、エディは苦笑いを浮かべる。

「そりゃ、びっくりするよね」

「どうして」

やっとそれだけ声を絞り出すと、エディは美波の手の甲をやさしく撫ぜて話を続けた。

「理由は多分、ふたつある。ひとつは、あの頃、川嶋グループと政権党であった保守党の有力政治家との癒着が問題となっていたんだ。この件は、結局、通産省の官僚ひとりと宗田さん、僕の後見人であった人なんだけれど、この人が自殺して終わった。ただ、当時から、関谷さんの関与の噂があって、それで事件の解決の仕方には疑問が付きまとっていた。僕とパトリックでこの間、少しずつ調べていきたんだけれど、彼らが口封じに殺されたという疑惑はかなり濃厚だし、もっと悪いことに、フィーも事件について何かを知っていたんじゃないかと思う。フィーは、本当に優秀な弁護士だったからね。だから、彼女に生きていられたら困った人間がいたわけで、それが関谷さんである可能性が大きい」

美波は思わず大きく息を吐いていた。エディは、そんな美波の肩を抱き、自分の腕の中に抱え込む。

「君には可哀想だけれども、これからもっと辛い話になる。関谷さんがフィーを殺さなければならなかった二つ目の理由なんだけれど、それは、僕の結婚問題だったんだ。前に君にも話した通り、関谷さんは僕を絵梨子さんと結婚させると僕らがとても幼い頃から決めつけていた。僕が彼女と結婚すれば、グループは実質上、関谷さんの手に落ちる。けれども、僕はアメリカでフィーと出会って恋に落ち、彼女と結婚して君が生まれた。関谷さんにとっては、大きな計算違いとなった。僕の岳父としてグループの実権を握るつもりが、僕の勝手な結婚でその可能性は潰れて、おまけに君という川嶋の家の立派な跡継ぎとなる娘まで生まれたわけだからね。自分が手に入れられると思っていたものを失うかもしれないと思った時、関谷さんはとても強引な方法を使った。政治スキャンダルを利用して君とフィーを僕の生活から排除しようとしたんだ。最初、暴力団の須藤組を使って、君とフィーを誘拐しようとした。フィーは外出中だったから危うく難を逃れたんだけど、君は当時のお手伝いさんと一緒に捕まってしまい、松濤の家に連れて来られた。そこで、関谷さんは君の命と引き換えに、フィーと離婚して、絵梨子さんとの結婚届けにサインするように僕に迫った。僕はサインをして、一度だけ絵梨子さんとセックスをした。その時できた子どもが綾乃なんだ。それでも、あの時は、最後にはパトリックがニューヨークから来てくれたり、君も知っている大使館のマイク・ギャンブルが助けてくれたりして、最終的には君とフィーをアメリカに逃がすことができた」

エディは、そこで一旦言葉を切って、美波の様子を見た。美波は、パトリックと数回会ったことがある父の友人であるマイクの顔を漠然と思い浮かべながら、突然の予想もしていなかった打ち明け話にエディの腕の中で体を縮めていた。その時の美波には、困ったことに、話をしているエディのことを思いやる余裕はまったくなかった。

「今でも時々、あの時、君やフィーと一緒にアメリカに戻るべきだったんじゃないかと考える。でも、僕は日本に残った。父が遺していった川嶋の会社のことが心配であったんだ。関谷さんにすべて持っていかれてしまうことは、絶対に受け入れられなかった。フィーがアメリカに隠れていれば僕らの離婚は成立しないし、それで数年間、何とか凌ぐことができれば、また君やフィーと東京で暮らせると思っていた。でも、僕はとても甘かった。結局、フィーは関谷さんに関係する者に殺されてしまい、僕は彼女の最後を看取ることさえできなかったんだ」

エディの声が微妙に揺れた。

「パトリックからの電話でフィーが死んだって聞いた直後、関谷さんと絵梨子さんが部屋に入ってきた。その頃、既に絵梨子さんのお腹は少しだけ大きくなっていた。それで、関谷さんが言ったんだ。これでよくわかっただろう。フィーが死んだ今、もし、僕が君のことまで失いたくないのならば、関谷さんの言う通りに絵梨子さんの夫として落ち着いて、生まれてくる子を川嶋の家の跡継ぎにしろって。そうすれば、君に危害を加えるつもりはないし、たまには会うことを許してやってもいいと言われた。だから、僕は君の事をパトリックとアリーに頼んで、絵梨子さんの夫で綾乃の父親であるふりを始めた。あまり上手くできなかったし、いかなかったけどね」

「じゃあ、お父さんが絵梨子さんと再婚したのは、私のためだったの」

美波が恐る恐るそう聞くと、エディは子どもの時、よくそうしてくれたように美波の頭を撫ぜた。

「君だけじゃないよ。フィーのためであり、僕のためでもある。美波は僕たちの大事な子どもで、君の安全と幸福が、僕にとっても、フィーにも、最も重要なことだったからね。僕だって、フィーが死んだ後、随分と絶望的な気分になって、美波のことがなければ正直なところ自分がどうなっていたのかなんてわからない。そして、パトリックとアリーは、お人好しにも僕のそんな思いにキーランまで巻き添えにして付き合ってくれた。だから、僕らには、彼らには返すことができない恩がある」

キーランの名前を聞いて、美波は再度、自分の体が震えるのを感じた。そんなふうにキーランを巻き添えにしていたとは知らなかった。

「ともかく、関谷さんは、フィーが殺されてしまった時、事件に自分が関係していることを匂わせた。だけど、僕には証拠がなかった。それで、僕はパトリックと協力して、関谷さんに自分のしたことの罪を償わせるための努力を始めた。簡単ではなかったけれど、でも、関谷さんの力は年毎に弱まっていって、僕は少しずつ自分の地盤を東京に築くことができ、君を呼び戻すこともできた。そして、23年もたった今、やっと、すべてのことを正すチャンスが来たんだ」

「正すって、お父さんは何をするつもりなの」

「絵梨子さんと離婚する。本当は結婚を白紙に戻したいけれど、こう年月が経ってしまった後ではそうするわけにもいかないだろう。その上で、僕の妻がフィーひとりであり、美波が僕のたったひとりの娘であることを周囲に認めさせ、美波を川嶋グループの跡継ぎにする。そのためにも、関谷久夫を排除する」

エディは、いつになくはっきりした調子でそう言った。

「でも、それで、綾乃さんはどうなるの」

美波が聞くと、エディは横を向いた。

「ねぇ、美波。あんなことがあった後では、僕には綾乃のことを自分の子どもであるとは思えないんだ。残酷であるかもしれないけれども、これが本心なんだから仕方がない」

それから、エディはもう一度、ゆっくり美波の方を見直す。

「僕にとって、僕の子どもはフィーが産んでくれた美波ひとりきりなんだ」

美波は返すことばを失い、ただじっとエディの顔を見上げていた。そんな美波のことをエディは随分と長い間、観察するように眺めていたが、ふと視線を外すと、ズボンのポケットから小さなジュエリー・ボックスを取り出し、開けてみせる。中には、小指に合うサイズの小さな指輪が納まっていた。エディは指輪をつまむと、美波の左の小指にはめた。どうやって調べたのか、相変わらず、サイズはぴったりであった。

「それで、本題。このところ、僕とパトリックで関谷さんのことをかなり追い込んだ。キーランが来てからは、もっと効率が良くなった。それで、向こうもとても神経質になってきている。そうなると、心配なのは美波のことだ。何たって、最初の約束が、僕がおとなしくしている限り、美波には手を出さないってことだったからね。僕が約束を破って攻撃に出た以上、関谷さん側が美波に何か仕掛けてきてもおかしくはない」

「私に?」

「そう。前にあったみたいに誘拐するとかね。君にだって覚えがあるはずだよ。おかしな男に付きまとわれて、危ない目に遭ったのは一度や二度のことではなかっただろう」

美波はひとつ深呼吸をしてみせる。エディの言う通り、見知らぬ男たちから怖い思いをさせられたことがこれまでに数度、あった。それでも、誘拐なんてことばは、美波の日常のボキャブラリーには含まれているはずがなく、正直言って、どういう事態を言われているのか判然とはしなかった。

「だから、これを用意した。ちょっとした安全装置なんだ。もし万が一のことがあったら、指輪の中央部を回してごらん」

言われるまま指輪の中央部を回してみた。すると、外観上でははっきりとはわからなかったけれど、中央部が90度回転し、カチリと音がする。30秒ほどしてノックがした。

「キーランだろう。いいよ。入りなさい」

エディが声をかけると、ドアが開き、本当にキーランが顔を見せた。

「話し中にゴメン。でも、例のモノがちゃんと機能していることを知らせる必要があると思ったんだ」

「知らせてくれっていったのは、僕だからね。ありがとう」

それから、エディはキーランの方を振り向いて言う。

「悪いけれど、ちょっとここにいてくれないかな。君にも聞いておいて貰いたい話がある」

「オレに?」

エディに言われて、キーランは少し驚いた表情を見せたが、それでも言われた通り、いつもの1人がけの椅子に腰を降ろす。

「もし万が一、君が危険な状況に巻き込まれて、助けが必要になったら、その指輪を使いなさい。高性能の発信装置がついていて、今のように指輪の中央部を回すと機能し始める仕掛けになっているから、指輪のシグナルを手がかりに、僕なりキーランなりが君の行方を捜すことができる。そうだろう、キーラン?」

「えっ、ああ、そうだね」

急に話を振られたキーランは、慌てて頷いてみせる。そんなキーランをじっくり眺めた後、エディはゆっくり美波に視線を戻した。

「ただね、いくらこんな装置を用意したって、状況が君にとって危険である事には変わりはない。だから、美波には十分に気をつけて貰いたいんだ。幸い、これまでのところ、いつものようにキーランが気を利かせて、君のことに気をつけていてくれていたみたいだけれど、いつも彼と一緒というわけでもないだろう?それから、こっちもそれなりに心配がしているんだから、ちゃんと連絡をして、今まで通り、最低週に2回は顔を出すこと」

反論は許さないといった、いつになく厳しい調子で言い渡すエディに、美波は仕方なく頷く。

「わかりました」

そんな美波に、エディは再び穏やかな微笑みを取り戻し、丁寧に笑いかけた。

「それじゃあ、最後にもうひとつだけ。実は、ひとつだけ君によく考えて貰いたい問題があるんだ」

そこまで言うと、エディは一度、ことばを切り、丁寧に美波とキーランの表情を確認してから、再び静かに話し始める。

「この件が無事に片付いた後では、川嶋の家と会社の跡継ぎは君1人ということになる。跡継ぎといっても、僕は君に医者を辞めろと言っているわけじゃないよ。君がビジネスとは関わり合いになりたくないこともよく知っているしね。だから、君に川嶋グループの経営者になれとは言わない。実際、会社の経営なんて、この頃では金を出せば、いくらでも適当な人材を見つけることができる。ただね、川嶋の名前を残すことには象徴的な意味があるんだ。グループには数多くの会社が属しているけれど、まったく別の業界に散らばっていて、そんなバラバラの企業群にグループとして統一性を担保しているのが、川嶋の名前で家なんだ」

名前と家と言われ、美波はその時代がかった響きに違和感を隠せなかった。とにかく、まったくエディらしくない語彙であるし、美波が観察したところ、川嶋グループの求心性は経営者としてのエディの実力なのではないかと思う。そんなところに、ビジネスには素人の自分が出ていったからといってどうにかなるものではない。第一、エディに輪をかけて、見かけ上まったく日本人には見えない美波を、エディが言う川嶋の「名前」と「家」を結びつける人などいるのだろうか。その時、自分は完全に戸惑いに溢れた表情を浮かべていたのだろう。エディはクスリと笑った。

「わかっているよ。こんなことを言うのは、まったく僕らしくない。おまけに、日本の中では僕も君も、外国人との混血で、結局のところアウトサイダーだからね。家と名前なんて、この社会の本質的な構成要素と考えられているものと関わっていると認めてもらうのは簡単なことではない。でもね、不可能ではないと思うし、何たって今度のことが片付いた後は、川嶋の名前を継げる人間は美波しかいなくなるわけだから、最終的には、皆、受け入れざるをえないんだと思う」

「でも、私は本当の瞳の色を隠してきたお父さんよりも、もっとあからさまに日本との関係が薄いのよ」

「それでも、美波だって日本の学校に行って、日本の病院で働いているじゃないか。経験上、僕が言えるのはね、選ぶことが重要なんだ。日本に住むことを選ぶこと。そうやって、はっきりと意思表示をすれば、川嶋グループは実際のところ多国籍企業なんだから、僕らの外国との親和性はかえって有利な要素となる。ただ、そのためには、いくつか努力しなければいけないことがあって、多分、その中でも最も大事なのは、ここに、東京に、家族を作って、落ち着くことなんだ」

「家族?」

「そう。美波の家族。僕だけではなくて、美波の人生のパートナーと美波の子ども。川嶋と美波のパートナーの名前の両方を将来にまで繋げてくれる子どもたち」

子どもたち。そう言ったエディの声はとても静かで、たくさんの感情が込められていた。すっかり圧倒された気分で、美波は唾をのみ込む。エディはもう一度、美波とキーランに対して穏やかな視線を向けた。

「でも、お父さん、子どものことなんて考えたこともない」

苦し紛れに、美波は結局、正直に打ち明けていた。エディは小さく笑って、立ち上がった。

「だから、よく考えてくれるかな」

言いながらキーランの肩をポンと叩き、シャワーがそろそろ空いただろうと言って、居間を出て行く。ドアが閉まった音がした瞬間、キーランが一際長い身体を椅子の上で伸ばして、大きく息を吐いた。

「また、エディに完全にやられたな」


「ねぇ、知っていたの」

しばらくの間、ふたりとも黙っていた。キーランは、椅子の肘掛に頬杖を付いて、虚空を見詰めたまま動かなかった。それで、美波は聞いてみた。

「えっ、ああ、だって仕事に入る前は、説明はちゃんと受けるからね」

美波の声に、弾かれたように反応し、キーランは答える。それでも、声にどことなく確信がなかった。

「それじゃ、お母さんがどうして死んでしまったのかも知っていたの」

俯いたまま美波が聞くと、キーランは自分の体を美波の方へ向けた。ああ、そうかと、独り言のように呟く。

「パットと母さん(マム)がニューヨークから東京に移り住む計画の話をオレにした時に、エディと関谷の経緯について話してくれたんだ」

キーランはあっさりと言ってのけたが、その返答を聞いて、美波は打ちのめされたようにも感じていた。ということは、キーランはこの15年の間、父と関谷の確執が母を残酷な死に追いやったと知っていたということになる。美波の表情の変化を見て、キーランは慌てたように身を起こした。

「前にも言っただろう。オレは、あの事件が起こった時、6歳になる直前だったから、美波よりはもう少し色んなことがわかっていて、パットと母さん(マム)の悲しみ方が尋常でなかったことや、あの後、エディの様子もおかしくなったことなんかみんなよく覚えているんだ。だから、あの時は、オレ自身がパットと母さん(マム)から色々と聞き出そうとしたし、アイツ等もごまかしてもしょうがないと思ったみたいで、最後には、かなり率直に話してくれた」

「お父さんがおかしかったって、どういうこと?」

「うん、だからさ、エディはフィーの葬儀の後、しばらくして日本に戻って行ったわけだけど、数ヵ月後にニューヨークに来た時には、随分と痩せていたんだ。なんだか、ほとんど食事が取れなかったようで、パットと母さん(マム)がとても心配していた。おまけに、あんなにおしゃべりだったお前がまったく喋らなくなっただろう。そういったことが色々と続くとさ、いくら子どもだって、とんでもないことが起こったんだってことぐらいはわかるさ」

美波は、突然のように、パットリックとアリシアと暮らすようになった頃のことを思い出した。パットリックもアリシアも、黙ったまま、父母の行方を捜しまわる美波のことをできるだけ甘やかした。美波を喜ばせるために週末ごとに公園や海辺に連れ出し、一日中、遊んでくれた。もちろん、そういう時はいつもキーランも一緒ではあったけれど、パトリックが肩車をするのは常に美波で、まだ幼かったキーランには、時には辛く感じられることもあったのではないだろうか。

「もっとも、美波の子どもって話は、今日初めて聞いたんだけどね」

数分の長い沈黙の後、キーランがそう呟いたのを聞いて、美波の目から思わず涙が零れ落ちた。

「美波。何だよ、お前、泣くなよ」

キーランは俊敏に立ち上がり、ソファの肘掛に腰を掛け、美波の肩を抱く。美波は、パニックの感覚に襲われながら、自分の顔を両手で覆った。

「だって、私だけバカみたいじゃない。何も知らないで、皆の好意に甘えていて。キーランだってまだ子どもだったのに、そんなに大変な経験をしなければならなかったわけでしょう。それなのに、私は、今日まで何も知らなくて。おまけに、子どもだなんて。東京で家族を作れだなんて。まだ、自分自身にだって自信がないのに」

そう早口にまくし立てる美波の頭を、キーランは自分の胸に押し付けた。

「ちょっと待てよ。皆がお前のことを守ろうとしたのは、そうする必要があったからだからなんだよ。フィーが死んで、皆が大きなショックを受けたんだ。エディだけじゃなくて、パットと母さん(マム)だって、叩きのめされたような、絶望的な気分になっていたんだ。そういう皆の気持ちが癒されていったのは、あの事件を生き残ったお前が少しずつでも元気を取り戻して、また笑うようになったからなんだよ。だから、皆、特にお前に構ったんだ」

美波は、そんなキーランの言葉を聞きながら、それでもこみ上げてくる涙を押しとどめることができず、そのまま泣き続けた。美波の状態に反応して、キーランは、美波の上半身を抱える腕の力を強め、髪を撫ぜる。

「お前のことだから、どうせ、エディの話を聞いていた時、泣きたかったのに泣けなかったんだろう。もうしょうがないから、気が済むまで泣けよ」

それから、キーランは人知れず大きなため息を吐く。

「だけど、エディが最後に言ったことは、オレだってかなりショックだったんだ。美波の子どもだなんてさ。つまりは、モラトリアムをやめるように言われたわけじゃないか。だいたい、エディも酷だよな。子どもに子ども作れだなんてさ」

美波は、その「子ども」の中に自分のことは入っているのと、キーランに聞いてみたかった。けれども、今の状況ではそんなことを言ってもあまり意味はないようで、結局、そのままキーランの胸に顔を埋めて泣くばかりだった。


心得たもので、アリシアは随分と長い間、美波とキーランのことを呼びにはこなかった。食事の間、キーランはずっと上の空であったし、美波もあまり元気が出なかった。それでも、人間というのは現金なもので、美味しい食事でお腹を満たすことで、調子をそれなりに取り戻すことができる。後片付けを手伝い、エディの家を出る頃には、美波もキーランも、通常に近い精神状態を取り戻していたのではないかと思う。

  原宿のマンションに戻ると、キーランは先にシャワーを浴びに行き、美波は思い出したことがあって、洋服タンスの中を引っ掻き回し始めた。小さな頃から随分と溜まったジュエリーの小箱を開けていくうちに、それは見つかった。手のひらの上にそっと載せ、眺めているとキーランがシャワーから戻ってきた。

「なんだ。懐かしいな。エディの結婚指輪じゃないか」

美波の手の中を覗き込んで、キーランは言う。美波は微笑んだ。

「何だか、突然、思い出したの」

フィオナが死んだ後、エディは自分の結婚指輪を外して、それに鎖を通し、美波の元に残していった。小さな頃の美波はそれが特別なペンダントだと思って、いつも首からぶら下げていた。

「お前、いつもそれを身に着けていたもんな」

「そうしていればお父さんが会いに来てくれるってかなり本気で信じていたからね」

キーランは一瞬だけ、複雑な笑顔を見せた。それから軽く頭を振り、気楽さを装って聞く。

「でも、何だってエディにその指輪を返さなかったんだよ。この15年間、チャンスはいくらでもあっただろう」

キーランの質問に、美波は軽く赤くなった。

「だって、お父さんのガールフレンドたちに悪いじゃない。絵梨子さんとは別居していたわけだから、かろうじて独身のように振舞っていてもそんなに問題はないのかもけれど、いつまでもお母さんの思い出を引きずっていて、それなのに複数のガールフレンドと付き合っているなんて、あまり良いことではないような気がしたの」

「エディは本当にモテるからなぁ。だけど、娘のお前が、エディの勝手気儘なセクシュアリティを気にしても仕方がないんじゃないか」

勝手気儘なセクシュアリティとはよく言ったものである。確かに、エディには常に複数のガールフレンドがいた。もっとも古い仲のイザベルとはもう20年近い関係になるのではないかと思う。美波も東京のホテルで、一度だけイザベルに会ったことがある。大学の帰りに呼び出されて、東京でも格式の高いホテルに行くと、エディはホテルのバーでイザベルと酒を飲んでいた。長年の、とても親しい友人なんだと紹介されたが、お互いの仕草でふたりの親密さがどの程度のものであるかすぐに察しがついた。もと売れっ子ファッションモデルで、今では著名なファッション・ライターのイザベルは、独身主義者で、生まれ故郷であるパリに住んでいる。ふたりは年に数回、東京とパリで落ち合うが、結婚する気はまったくないらしく、会わないでいる時はお互い別の恋人との時間を過ごしている。エディにはその他にお馴染みの恋人が数人いるようで、また数ヶ月ごとに新しいガールフレンドが現れては、消えていく。美波の願いは、エディの相手が自分よりも年の若い女性になることがないことであるが、27歳の今、それもあまり遠くことではないのかもしれない。

「でも、ひょっとして、この指輪のこと、返して欲しかったのかもね。お父さんだって精神的な支えが必要だったのかもしれない」

鎖の部分を摘んで揺らすと、指輪は弧を描いて回転し始めた。キーランは笑った。

「そっちのほうは大丈夫さ。お前と母さん(マム)がいるからね。でも、今度の件が決着ついたら、返してやればいいじゃないか。その後どうするのか自分で決めるだろう」

「そうだね」

美波もキーランに向けて、ごく自然に微笑んでいた。すると、キーランは、突然のように真剣な表情を浮かべて、美波の両頬を手の平でそっと覆う。

「エディが言っていた子どもの話なんだけれどさ」

「うん」

美波は気恥ずかしくなって、俯こうとした。けれども、キーランの手が美波の顔をしっかり捉えていて、視線を外すことができない。

「こんなことを言うのは、オレが美波と結婚することを考えていないからじゃ絶対にないんだけれど、オレたちの将来のことを話すのは、この件が終わってからにしないか。オレは、エディから話があった時、今回のエディの目的は、フィーのことで関谷に復讐を果たして、周囲にお前のことを自分の娘であると認めさせ、お前と一緒に住むことだと思い込んでいたからすっかり油断していて、親たちがオレたちのことまで考えていたなんて気がつかなかった。そりゃ、パットはともかく、エディや母さん(マム)は、オレたちのことを知っているんだろうとは思っていたけれど、でも、まだ、オレたちのことをアイツ等に対してはっきりさせる時期じゃないような気がするんだ。その前に、23年前のことを片づけなきゃ、誰も前に進めないんじゃないかってオレは思っている」

「大丈夫だよ。キーランの言うことはわかるよ。私も正直言って突然だったから、ちゃんと考える時間が必要だと思う」

言いながら、美波はふっと笑いがこみ上げてくるのを感じた。キーランが、少し意外そうに聞く。

「何だよ?」

「ゴメン。でも、おかしいじゃない。普通の親って、やっぱり結婚のことから心配するものじゃないのかな。なのに、お父さんったら、結婚のことなんか構わず、突然、子どもなんだもの」

それもそうだなと、キーランもつられたように笑う。

「オレたちのことずっと知っていて、結婚なんか今さらと思っていたのか、それともエディ独特の傍若無人のセクシュアリティの感覚で、結婚なんてどうでもよかったのか、どっちかってところだろうな」

「もっとも、私も同じなのかもしれない。私たちけっこう長いじゃない。だから、確かに、結婚なんてどうでもいいような気がしないではないな」

「それは完全にエディの影響だね。オレはさ、これでもパットの子どもだから、その辺りについては結構、保守的かな。カソリックの教会でなきゃ結婚しないとまでは言わないけれど」

キーランは、冗談のような口調でそう言ってのけると、美波の唇に軽くキスをする。

「シャワーを浴びてこいよ。コーヒーを淹れといてやるから」

そんなキーランを見ていて、だから結婚や子どもなんてどうでもよくなるんじゃないと、美波はつくづく思った。ふたりでいることが、こんなにも気持ちが良くて、それで、他に何も欲しいと思わなくなる。


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