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第2章

  患者の状態を一通り確認した後、急患が来る前に夕食として何かお腹に入れておこうとドクターラウンジに戻ると、美波宛の伝言メモが残されていた。

「NBC、露木、折り返し連絡乞う。8:23PM」

電話の主は、露木菜穂。中高一貫のお嬢様学校時代からの友人である。菜穂自身、イギリスとオランダで小学校に通った帰国子女であり、加えてもともと物怖じをしない性格だったので、見るからに「ガイジン」の編入生であった美波を屈託なく受け入れ、以来とても仲良くしている。もっと正確に言えば、今でも付き合っている中学高校時代からの唯一の友人である。菜穂は、高校卒業後、都内の有名私立大学に行き、現在では民放キー局で政治記者をしていた。この菜穂の長年付き合っているボーイフレンドが寺崎の大学の同級生であり、美波が寺崎と知り合ったのは菜穂の紹介であった。

  衆議院記者クラブに詰めることが多い菜穂と連絡を取る方法は、携帯電話に電話する以外にはない。すっかり覚えてしまった番号を押すと、呼び出し音1回で菜穂は応えた。

「はい、露木」

「菜穂、一体どうしたの?」

「美波ぃ、アンタ今日泊まりなのぉ?」

菜穂の口調は、どう考えても酒が入っていた。背後で洋楽が流れているので、おおかたどこかの飲食店にでもいるのだろう。菜穂は一人で飲みに行くことを躊躇しない、美波の知る数少ない日本人女性である。もっとも、時々、飲みすぎる。

「残念だけど、そうなの。仕事中なの」

「なぁんだ。つまらないの。せっかく付き合ってもらおうと思ったのにぃ」

「酔っているの。そういう口調だよ」

「えー、まだ飲み始めたばっかり。今日は朝から本当にロクなことなくて、だから厄払いしようと思って」

「言ってみれば。今、少し休憩しようと思っていたところだから、聞いてあげるし、ちゃんと同情もしてあげる」

受話器を耳に挟んで、マグカップにコーヒーを注ぎ、冷蔵庫から昼間買っておいたサンドイッチを取り出す。どうやら、今日の夕食は退屈しないで済みそうだ。

「なぁによ、偉そうに。アンタにも関係のあることなんだから」

「ええ、私?」

「そう、アンタとアンタの腹違いの妹の綾乃さん」

菜穂の返答を聞いて、美波はごくりとコーヒーを飲み下す。エディと絵梨子の子どもである綾乃とは、まったく関わりがないはずだ。

「ちょっと待ってよ。全然わからない」

「そりゃそうでしょう。まだ放送前なんだから」

「何が?」

「うーん、だからね、初めから話すと、10月からうちの局の11時のニュース、リニューアルするのね」

菜穂の勤める放送局では、確かに夜の11時台にニュース番組を放映していた。ジャーナリストとしてそれなりに名が知られている男性メインキャスターの仕切りが評判を呼び、硬派ニュース番組として人気が高かったはずだ。あまりテレビを見ることのない美波でさえ見たことがあるくらいだ。

「それで、もちろん、メインキャスターの奈良岡さんは変えようがないんだけど、女のサブキャスターを変えようって方向で話が動いていたのね」

「それで、菜穂のところに話がきたの?」

美波はごく自然にそう聞いていた。テレビに登場する女性の政治記者はもともと数が少ない。その上、国会から着実なレポートをする菜穂は、他のスタッフから信頼されているようであるし、見た目も良い菜穂ならばニュースキャスターをやるのはぴったりであろう。

「そんなことだったら、こんなところで飲んでいるわけがないでしょう」

菜穂は、心底、呆れたように言った。

「私は、自分でもまだ若いと思っているし、これから勉強したいことがあるから、今回はもともと他人事の人事だとは思っていたんだ」

「じゃあ、問題は何なのよ」

話が見えず、美波はつい首を傾げて、サンドイッチを齧る。

「だから、それが、よりにもよってあんたの妹に決まったのよ」

それを聞いて、美波はたっぷり1分ほど黙り込んでしまった。

「決まったって、綾乃さんが、ニュースキャスターをするの?」

やっとそれだけ言うと、菜穂は、堰を切ったように話し始める。

「そう、あの綾乃様がニュースキャスターをおやりになるの。いくらあんたのお父様が番組のCMスロットをたくさん買ってくれているっていったって、これじゃいくらなんでもあんまりじゃない。今朝のアナウンスでうちの局の女性社員は皆うんざりしたわけよ。でも、その辺のオヤジ連中は、結構喜んでいてね。今日、国会で尚幸の上司にたまたま会ったんだけど、そしたら、あのクソオヤジ、メロメロな顔をして、11時のニュースのサブキャスターには川嶋綾乃さんが決まったそうだね。君もこれでテレビ局でのキャリアが見えただろうから、今からでもワシントンDCに行ったらどうかいなんて言うのよ」

最後は、ほとんど咆哮だった。それは確かに堪えただろうと、美波は心から同情した。寺崎と同級生であった菜穂のボーイフレンド、飯岡尚幸は大蔵官僚で、ワシントンDCの大学院に留学中である。留学前、菜穂にアメリカまでついてきて欲しかった尚幸と、仕事を続けたかった菜穂の間にはそれなりのすったもんだがあり、不思議なことに、それが尚幸の上司の知るところとなった。以来、記者クラブで会う度に、尚幸の上司は菜穂にチクチクと嫌味を言う。きっと、官僚の中には、20代後半になってからの留学すら1人でこなせない人間が多いのであろう。上司が介入してくるなんて、そうとしか思えない。

「まぁ、それが本日最初の嫌なことだったの」

自分でも少し興奮しすぎたと思ったのであろうか、菜穂は少し間を開けて、続けた。

「それで、何だかムシャクシャして局に戻ったのね。そしたら、あの綾乃さんがブラッド・ボーイズ・アンリミティッドに出て、その収録がこれからあるっていうじゃない。ニュースの前宣伝で。だから、同期の子に頼みこんで、収録を見に行ったの」

「なぁに、そのブラッド・ボーイズ・アンリミティッドって?」

美波が聞くと、菜穂は冷たく鼻で笑った。

「アンタ、そんなこと言っているから、日本に15年も住んでいるのに、いつまで経ってもガイジンだと思われるのよ。ブラッド・ボーイズ・アンリミティッドっていうのは、うちの局の看板番組よ。人気アイドルのブラッド・ボーイズが、トークしたり、歌を歌ったりするバラエティ番組。日本中で知らないのはあんたぐらいなものなんじゃない」

そうだったのかと、美波は妙に納得する。ニュース以外のテレビ番組、特にバラエティ番組と言われているものが暴力的なように思えて、何となく苦手である。おまけに、そういった芸能ネタを扱うワイドショーやスポーツ新聞にも縁がない。後輩研修医の吉岡が時折スポーツ新聞を見せてくれるが、おかしな紙面構成をしているので、読むのに時間がかかり、最後には飽きてしまう。

「とにかく、そのブラッド・ボーイズ・アンリミティッドに出るのは、一流芸能人の証明なわけね。その番組に、綾乃様がお出ましになって、色々言いたいことをいってくれたわけ。私は聞いていて、あんたのことを思って涙が出た」

美波は、菜穂の言い方にすっかり慌ててしまっていた。自分なんかのために泣いてくれる人はそういやしない。長い付き合いなので、菜緒は美波の父親がエディであることや、キーランとの経緯をすべて知っているが、その菜穂の感情をそこまで高ぶらせたのは一体何であったのだろうか。

「そう。それは、その、迷惑をかけたね」

何と返していいのかわからず、しどろもどろになって言うと、菜穂はため息を吐いた。

「美波、アンタの唯一の日本人の親友が一度しか言わないんだから、よく聞きなさい。おっとりしているのも、お人好しなのもアンタの良さなんだろうけれど、ものには限度ってものがあるんだし、いつまでもものごとをはっきりさせないのもよくないと思う。それから、これは確信を持って言うけれど、キーランさんみたいにイイ男は他にはいないし、アンタだって、正直なところ、キーランさん以外の男には興味がないんでしょう?」

菜穂が早口で繰り出す小言に、美波の頭はくらくらしてきた。菜穂は一体何を言っているのだろう。

「とにかく、明後日、金曜の夜10時。必ず番組を見なさい。これは局の宣伝がしたくて言っているんじゃないんだから。見れば絶対に改心するんだから」

「改心って、菜穂、何のこと?」

「見ればわかるわよ。そろそろ友だちが来るから、電話切るね。また電話するから」

それだけ早口で言うと、菜穂は突然のように通話を終了した。きっと、尚幸が留守中の間に確保した臨時のボーイフレンドが来たのだろう。美波はしばらくの間、とても混乱した気持ちで、受話器を握り締めていた。


  翌朝は、珍しく、救急外来患者の来院が少なかった。おかげで、わりとゆっくりしたペースで仕事をすることができ、当直あけの美波には幸いであった。

  誤って食材の代わりに自分の手を包丁で切り刻んでしまったという料理人見習いの傷を、いつもより幾分か丁寧に縫いつけていると、突然、吉岡が現れた。

「川嶋先生、それ、ボクが代わりますよ」

「なぁに、もうすぐ終わるわよ。どうしたの。まだ昼休みでしょう」

「婦長の命令なんです。川嶋先生に面会の人が来たんだけど、看護師たちが救急外来受付に集まっちゃって仕事にならないから、早く川嶋先生を連れて来いって言われました」

「面会の人?」

ドキリとして、美波は吉岡をじっと見る。吉岡は、さも面白くもなさそうな、ふて腐れた表情をしていた。

「やっぱり、不公平ですよね。そもそも身長が違うし、足の長さとか、シャレになんない」

「面会の人って、金髪の、背が高い男の人?」

「そうですよ」

キーランだと思った瞬間、美波は縫合中の糸を少し強く引っ張ってしまった。まだ若い料理人見習いの顔が歪んだ。我慢強い人でよかった。ごまかすために、急いで取って置きの笑顔を作った。


  とりあえず縫合だけは済ませ、後は吉岡に任せて、美波は救急外来受付に向かった。何となく足取りが重かった。一体、どういう顔をして、会いにいけばいいというのだろう。まったく、想像がつかない。

  外来受付はいつものように雑多な人で溢れていた。それでも、背が高く、ストロベリーブロンドの髪のキーランを見つけるのは、とても簡単であった。出入り口のすぐ脇で、ズボンのポケットに両手を突っ込み、壁にもたれている。ちょうど到着したばかりの救急車から運び出されたストレッチャーに気を取られていて、その場の多くの者がキーランの姿に目を奪われていることも、美波が現れたことにもまったく気がついていない。

「川嶋先生、丁度いい。手伝ってくれ」

浜松救急部長がそう叫んだのは、丁度、美波がキーランに声をかけようとした瞬間であった。一瞬、混乱して、浜松部長の方に視線を向け、それから、またキーランの方を見る。

「美波」

美波に気がついて、キーランが軽く手を上げた。

「川嶋先生、何をしているんだ」

同時に、浜松部長のかなりイラついた声。

「キーラン、急患なの。すぐ戻るから、待っていて。お願い」

それだけ早口の英語で叫ぶと、キーランは笑って、声を出さずOKという口の形だけ作って見せた。そんな仕草は、一年半前とまったく代わってない。美波は、自分が少しだけ安心していることに気がついた。


「あの映画俳優みたいな派手なオニィちゃんは君の知り合いなのかい?」

結局、30分近く格闘した挙句、救急患者を蘇生することができず、死亡宣告をし、事後処理を進めていた美波に、浜松部長は聞いた。

「映画俳優みたいな派手なオニィちゃんですか?」

とっさに言われたことの意味が理解できず、美波は鸚鵡返しに聞き返してしまった。確かに、圧倒的に黒い髪をした日本人の集団の中では、キーランのストロベリーブロンドはよく目立つ。とはいえ、キーランの髪は生まれた時からああいう色だし、190センチ近い背の高さや、ニューヨークの弁護士にとっては制服のような仕立ての良いピンストライプのスーツにも慣れてしまっていて、美波はキーランが派手だと意識したことがない。

「何て言うか、兄のようなものなんです」

「兄のようなもの?」

「はい。きょうだい同様に一緒に育ちました。今、ニューヨークで弁護士をして、久しぶりに日本に来たんです」

「それはまた、随分とドラマチックな話だね。君のことは堂本教授からお預かりしたとはいえ、驚くようなことばっかりだ」

浜松部長は本当に驚いたというように目を丸くした。

「まぁ、とにかく、蘇生することができなかったとはいえ、君の処置は的確だったよ。3年目の医師としては、上出来だ。残念ながら、われわれはすでに死んでしまった人間を生き返えらせることはできないからね。さぁ、ここはもういいから、オニィさんと昼食でも食べてきなさい」

美波をDOAの患者の処置に引きずり込んだことに多少後ろめたさを感じてなのか、優しい配慮を示す浜松部長に促されて、美波は処置室を出た。心の中で、助けることができなかった初老の男性のために、少しだけ祈りながら。もう少しだけ早く運ばれていれば、何とかなったかもしれないのに。


  外来の受付に戻ると、キーランは待合室の最前列の椅子に、長い足を投げ出すかのように座り、書類の束を熱心に見ていた。相変わらず、待合室中の人々がそれとなくキーランの様子をうかがっているが、キーラン自身はそういう周囲の状況には気がついていない。確かに、吉岡の言ったとおり、外来の受付には、いつもよりも多めに看護師がたむろしていて、キーランのことを注視している。美波はそぉっとキーランの隣に腰を下ろすと、素早く頬にキスをした。受付の看護師の集団から一斉にため息が漏れた。

  美波のキスに弾かれたように、キーランはこちらを向いた。すぐに、優しい笑みが顔一杯に広がる。

「早かったじゃないか。もっと、時間がかかるかと思って、長期戦体制だったんだ」

そう言いながら、書類の束を盛ったまま、美波の肩に腕を回し、両頬にスタンダードな挨拶のキスをする。

「うーん。でも、ここに着いた時には、もう死んじゃっていたから、あまりできることがなくて」

「何だよ、医者のくせに怖いことを言うなよ」

きっと、冗談だと思ったのだろう。キーランはクスクスと笑った。無理もない。美波も病院で実習を始めた当初は、こんなにあっけなく人が死んでしまうものであるとは信じられなかった。浜松部長が言ったように、既に死んでしまった人間を生き返らせることはできない。エディたちがいくら望んでも、フィオナが戻ってくることはないように。だから、美波は医者として、怪我をしたり病気の人たちを助けることに一生懸命になる。

「ねぇ、私、今から昼休みなの。時間があるならば、お昼に付き合って」

「いいよ」

キーランは無造作に手にしていた書類の束を愛用の革の書類鞄に突っ込んで立ち上がり、美波に手を差し出した。

「そういうことなら、次の救急患者が来ないうちに早く行こう」

結局、美波は笑って、キーランの手を握っていた。


  病院近くの喫茶店に落ち着くと、キーランはスーツの上着を脱ぎ、東京はまだ暑いなと言って、ネクタイを緩めた。注文を取りに来たウェイトレスはそんなキーランを見て、はっきりと顔を赤らめた。ウェイトレスだけではない。その時、店中の人間が何かしらの形でキーランを見ていた。単に、ガイジンであるとか、ハンサムであるとかということ以外に、キーランには人の目を惹きつけるところがあった。それは日本にいる時だけでのことではなく、ニューヨークでも変わらず、キーランは常に周囲の者の視線を独占していた。

  テーブルの周りでいつまでもうろうろしようとしているウェイトレスに立ち去ってもらえるように、美波はコーヒーとサンドイッチを注文し、キーランはアイスコーヒーを頼んだ。東京のアイスコーヒーが忘れられなくてさと、キーランは笑った。

「いつ着いたの?」

「今朝早く。成田から直接、エディのところに挨拶に行って、それで病院の場所を聞いたんだ。もっと迷うかと思ったんだけど、すぐにわかったよ。でも話に聞いたとおり、荒っぽいところで、美波が働いているなんて実際に目にするまで信じられなかった」

「来るならば知らせてくれればよかったのに」

「オレがいちいち言わなくったって、どうせ、母さん(マム)かエディから話は伝わっていたんだろう?それとも、事前に話していたら、成田まで迎えに来てくれたのかな」

嫌味なのか、冗談なのか。キーランは気軽さを装って言うと、ウィンクをしてみせた。

「行ったかもしれないよ」

「どうだか。美波はけっこう意地っ張りだからな。頼んだって来やしないよ」

「でも、キーランと会うのは随分と久しぶりじゃない。だから、行ったかもしれない」

何となく追い詰められたような気がして、そう小声で応えると、キーランはすっとテーブル越しに腕を伸ばし、美波の右手を握った。

「また会えて、嬉しいよ。本当は、少しびっくりさせたかったんだ」

「十分、びっくりした」

「それはよかった」

そこで、ウェイトレスが注文したコーヒーとサンドイッチとともに、戻ってきた。美波は手を引っ込め、キーランはありがとうとウェイトレスに笑いかける。若いウェイトレスの頬には、明らかに赤みが差した。

「それで、今回はどのぐらい東京にいるの?」

「うーん。まだ、何とも言いがたいな。あんまりニューヨークの方も留守にできないんで、2、3ヶ月で戻らなければならないんだけれど、ちょっと、複雑な案件なんだ」

「お父さんのビジネスがらみなんでしょう?大丈夫なのかな」

「そのうちわかるよ。でも、エディのことはお前が一番良く知っているだろう。あの人は、目的を達成する前には、殺したって死んだりなんかしないさ」

アイスコーヒーをすすりながら、キーランは澄ました調子で言う。この言い方では、エディはまるでゾンビのようだ。

「それにさ、ニューヨークからとびっきり腕利きの弁護士がふたりも来ているんだぜ。大丈夫だって」

「それ、キーランとパットおじさんのこと?」

「他に誰がいるんだよ」

謙遜という薬があるならば、キーランに飲ませてやりたいと思い、美波はサンドイッチを齧った。

「お前、ちゃんとと食事しているのか?」

サンドイッチを一切れ摘むと、キーランは口に放り込み、顔を顰めた。

「しているよ。ニューヨークの弁護士先生みたいにいつもおいしいもの食べているわけじゃないけどね」

「ふーん」

鼻を鳴らして、美波の顔を探るように見る。それから、ふっと視線を落とすと、片手でストローの入っていた紙袋を弄びながら、素早く言った。

「なぁ、お前のところに、行ってもいいかな?」

「うちに来るって、泊まりに?」

答えながら、美波に心臓が、ビクンと飛び上がる。

「ああ。今日は、一応、親の手前もあって、青山に泊まるって言ったんだ。母さん(マム)とパットにも聖パトリックの休日以来会っていないし」

聖パトリックの休日は半年近く前のことだ。キーランは親不孝な子どもだと思う。

「ただ、いつまでもあの3人と同居っていうのも気が重いだろう」

それはよくわかる。よくわかるのだが、つい、意地悪なことを言ってしまう。

「日本じゃ私たちぐらいの年の子どもが親と同居しているなんて、普通の話よ。パラサイトシングルって言うの」

「なんだい、その悪趣味な言い方は。オレの趣味じゃないね」

「わかっている。うちに来るなら、お好きにどうぞ。どうせ、部屋は余っているんだし」

「へぇ」

キーランは上目遣いに美波を見やった。随分と挑戦的な視線だった。それで、美波は横を向いた。

「明日、何時に仕事終わるの?」

「明日は定時。6時」

「じゃあ、6時半にまた来るよ」

「いいわよ。わざわざここまで来なくたって。明日の夜、青山から車で拾ってあげる」

「お前は相変わらずトロいな。そんなことしていたら、母さん(マム)に捕まるだろう。車はこっちにまわせよ。オレはタクシーで来るから。どうせ、領収書はエディに回せるんだ」

それだけ言うと、キーランは立ち上がり、体を半分に折り曲げて、テーブル越しに美波の唇に軽くキスをする。

「もう行くよ。じゃ、明日な」 

「うん。今日はよく休んでね」

「わかっているよ」

キーランは伝票を掴むと、優しい笑顔を残して、店を出て行った。美波はサンドイッチをふたたび齧った。困ったことに、味などまったくしなくなっていた。


  病院へ戻って、翌日のカンファランス用の資料を作ろうとパソコンの前に座った途端、美波は看護師の集団の襲来を受けた。先生、お兄さんとの合コンを企画させてくださいという彼女たちの熱意に、ほとんど恐れに近い感覚を覚える。

「あの人は、あんまり合コンとか好きじゃないと思うよ」

「えー、どうしてですかぁ」

「そういうマッチメイキングみたいのめんどくさいみたい。あの人の場合、その辺に立っているだけで、女の人がわんさか寄ってくるから、わざわざ合コンみたいなところに出て行く必要もまったくないし」

あまり希望を持ってもらっても困るので、いつもにも増して、美波ははっきりと言った。看護師たちの間から、大きなため息が漏れる。

「お兄さん、そんなにモテるんですか?」

「そんなこと良くわからないけれど、NEW YORKERって雑誌があるのね。その雑誌がこの間、『二十代の最高の婿がね』って企画の特集をしたんだけど、そこに載ったりとかしていたから、やっぱりモテるのかなぁ」

「ああ、そんな超大モテのお兄さんがいるから、先生、なかなか彼氏を作らないんだ」

突然、看護師の中ではそこそこに美人で、それなりにヤリ手である青木が言った。言葉尻に挑戦的な調子が感じられた。

「どういうこと?」

「だって、先生のお友だちの寺崎さんや芳賀さんもとても素敵な人たちだし、何て言っても超エリートだから、あんな人たちが彼氏だったら毎日が有頂天になってしまいそうなのに、先生は友だちよって、いつもつれないじゃないですか。でも、今日、やっとその謎が解けました。あのお兄さんより素敵な人って、なかなかいるわけがないですよね」

「別に、キーランと他の男の人を比べているわけじゃないわよ。第一、寺崎君にはとても可愛い彼女がいるわけだし、芳賀君はふたつ年下で、別に年下がいけないわけじゃないけれど、私はあまりそういう気になれないの」

なんでよくも知らない看護師相手にこんなことを言わなければいけないのかと、少し戸惑いながら美波は答えていた。

「ともかく、合コンのことなら、本人に聞いてみたらどうかな。この先、2ヶ月ほどはこの辺りにしょっちゅう出没するはずだから」

「えー、どうしてですか?」

「キーランは昔から基本的に過保護なの。だから、仕事帰りには迎えに来るはずよ」

「やった。これで仕事に来る楽しみができるわけだぁ」

看護師たちは手を叩いて、飛び上がった。

  そうか、キーランは看護師たちの日常の希望の星になるわけだ。

  そう考えると美波には何だか看護師たちが可哀想にも思え、咄嗟にそんな風につい考えてしまったことについて、喉の奥に苦いものを感じた。


  看護師たちが決して理解しようとしないのは、少なくない男性が美波をある種の脅威として受け止めることである。美波があまりボーイフレンドを作らないのは、自分とリラックスして付き合ってくれる男性が、日本の環境ではとても稀であるからだった。

  大学に入った当初、菜穂に連れられて合コンというものに時々、参加した。大抵は、同じ大学の法学部の男の子が集まっていた。卒業後、国家公務員や弁護士、企業のエリート社員になっていくはずの彼らは、美波が顔を出すと、決まってバツの悪そうな表情を見せた。日本語が通じるとわかった後でも、医学部だと告げると、なぜ理系を目指さなかったのかと言い訳を始めたり、法律を学ぶことがどれだけ重要であるのか力説したりと、随分と防御的な対応を受けた。結局、そういう男の子たちは、自分が支配できそうにもない美波には用がないようであった。

  寺崎と会ったのもそんな合コンの席だった。美波が菜穂に無理やり引っ張り出されたのと同じく、あの頃は同学年のガールフレンドと付き合っていた寺崎も尚幸に頼み込まれてその場に来ていただけのことで、ふたりが友達になったのは、会が始まってすぐにお互いが退屈していたのを見抜いたからだった。きっと、セクシャルな下心があってあの場にいたのならば、展開は随分と違っていただろうと思う。確かに、寺崎は、友人として美波を好ましく思っているようであるし、実際、会えば楽しい時間を過ごすことができる。とはいえ、4歳年下のしのぶを扱う様子からすると、生活をともにするパートナーに対等であって欲しいとすら思ってないことがよくわかる。

  対して、芳賀は、最初から美波に降参していた。時折、美波のことを天使か聖母と間違えているかのようで、セックスをする生身の女としては見られていないように思えた。気持ちはありがたいが、そういうのにも困ってしまうし、男女の仲には発展しにくい。

  だから、結局、キーランになってしまう。なかなか一緒の時間が持てないことで喧嘩になったりはしたが、基本的には、キーランは美波が何をしようがそれを脅威として受け止めることはなかった。より正確に言えば、まだ高校生の頃、医者になりたいとエディに打ち明けるための予行練習に散々付き合ってくれたように、美波が望む生活が実現できるようキーランは常にできる限りのサポートをしてくれた。大事なことは、美波の美しさも賢さも、キーランにとっては日常の一部であり、だからこそ、キーランは、美波のことを愛しんだのだと思う。もっとも、本人は、そんなことは決して口にはしない。アメリカ人は感情の表出がわかりやすいと一般的には考えられているようだけれど、きっと弁護士になるような人間は「人種」が違うのであろう。自分のことを一体どう思っているのか、一度、面と向かって本人の口からはっきり聞いてみたいものだと、美波は思う。


  ふと、思いついてEメールをチェックすると、キーランからのメールが入っていた。これから東京行きのフライトに乗る。驚くなよという、いつものような一行のメール。とっても驚いた、お帰りなさいとメールを返しておいた。


  翌朝のカンファランスで報告しなければならなかったので、その夜は、もともと家に戻るつもりはなかったのだが、キーランが来るとなれば話は別だ。夜中の1時を回った頃、美波は、原宿の自宅マンションにタクシーで戻ると、それから2時間かけて大掃除をした。台所を磨き、冷蔵庫の整理をして、一応、予備のベッドに新しいシーツをかけた。キーランは一体どういうつもりでこの家に来るのだろう。色々と思いを巡らしてみたが、結局のところどこから考え初めてよいのかさえもさっぱりわからないことに戸惑い、同時に、必要な食料品のリストを作るという分裂した頭を抱えて、美波は眠りに落ちていた。明日の夜まで、体が持てばいいと思う。


  この数日で溜まった疲労のせいで、翌日の勤務が終わるまでの最後の一時間は、特に長いものに感じられた。それでも、朝方、運び込まれた患者の容態が思わしくなかったので、白衣を脱いで待合室に行くまでには19時を過ぎていた。キーランは、相変わらず、待合室の最前列の椅子に腰掛け、書類をめくっていた。ただ、昨日のスーツ姿とはうって変わり、今日は、コットンのシャツにブルー・ジーンズというカジュアルな格好をしている。そして、頭には、ストロベリーブロンドを隠すように、ニューヨーク・ニックスのキャップ。昨日の浜松部長のコメントを考えると、今日は、幾分かは地味目になるのだろうか。

  キーランは、野球やアメリカンフットボールではなく、バスケットボールを好む。ジュニア・ハイとハイスクールではバスケットボールチームの選手であったし、今でも時々、ゲームをするのを楽しんでいるらしい。バスケットに比べると、野球やアメリカンフットボールは何だかトロくて、見ていてイライラするんだと本人は言うが、実のところは子どもの頃、自分にばかりかまっていたので、大きなチームを作ってやるスポーツにハマる暇がなかったのでないかと美波は疑っている。

「お待たせ」

目の前に立ち、声を掛けるまで、キーランは、書類に集中していて美波のことには気づかなかったようだった。すぐに弾かれたように、顔を上げる。

「もう、帰れるのか?」

まぶしそうに、美波を見上げて、キーランは聞く。

「うん、もう限界。早く家に帰りたい」

「OK。それじゃ、帰りは運転してやるよ」

「駐車場は地下なの。こっち」

まったく意識することなく、美波はキーランの腕を取って、地下駐車場へ通じるエレベーターに導いていた。書類鞄と大きなスーツケースを手にすると、キーランは慌てて美波の後を追っかけてきた。


  原宿までの短いドライブで、右ハンドルは運転しにくいというキーランに運転させたことを、美波はとても後悔した。一般的に東京の運転マナーはかなりひどいが、キーランの運転はそれにも増して傍若無人であった。とにかく事故だけは避けようと、ナビゲーションと交通ルールの説明に追われて、マンションの地下駐車場に着いた頃までには、自分で運転して帰ってきたときよりも激しい疲労を感じていた。足を引きずるように、エレベーターに乗って、自分の部屋までたどり着いた途端、美波は居間の3人がけのソファにへたり込んでしまっていた。

「先にシャワー浴びてもいいかな」

スーツケースをとりあえず予備の客間に突っ込んでから、キーランが聞く。

「お好きにどうぞ。一休みしたら、コーヒー淹れるから」

「そう。それじゃ、お先に」

美波の原宿のアパートメントを、まるで自分の家のように熟知しているキーランは、そう言って、浴室に消えていった。しばらくして、浴室から、水が滴る音が聞こえてくる。この家に、自分以外の人間がいるなんて、本当に久しぶりのことだ。

  シャワーの音に耳を済ませながら、美波はよろよろと立ち上がり、コーヒーメーカーのスイッチをいれた。しばらくすると、つんっとしたイタリアンローストの強い香りが部屋の中に広がっていく。そういえば、冷蔵庫の中にはミルクさえなかったんだと今更ながらに思い出したが、すぐに食べ物のことは後で考えようと思い直した。とりあえず、マグカップに半分ぐらい、淹れたてのコーヒーをそそぐと、ソファに戻って、肘掛を枕に横になり、四肢を伸ばす。独りではなく、ほかの誰かの必要性や快適さも考えなければならないということは、新鮮でもあり、何となく嬉しいことでもあった。夜ご飯、何にしようか。


  ガーリックの香ばしい香りが、ふいに鼻について目が覚めた。身を起こすと、台所から物音が聞こえた。一瞬、状況を見失い、美波は周囲を見回した。それで、コーヒーテーブルの上にキーランの腕統計を認め、やっとのようにキーランがシャワーを浴びている間に、自分が寝入ってしまったことを理解する。

  恐る恐る台所に顔を出すと、キーランはフライパンで何かを炒めている真っ最中だった。パトリックの家事能力の無さにうんざりしているアリシアは、キーランには徹底的に家事を教え込んだ。それで、美波とキーランは子どもの時からよく一緒に台所に立った。キーランは、家事に関してはとてもマメで、そういうところは、パトリックよりもエディに似ていると思う。

「やっと、起きたのか?」

「うん、ごめん。寝ちゃったみたいだね」

「よく寝ていたよ。だけど、お前も珍しいヤツだよな。コーヒーを抱えながらうたた寝するなんて、聞いたことがないよ」

「ここのところ、妙に忙しくて、しかも夜勤が多かったものだから」

「昨晩、エディがそんな風に文句を言っていた。この頃、美波にあんまり会うことができないって」

「困った人だな。これでも結構、気を遣って時間を作っているのに」

「あの人の場合、お前と一緒に住むっていう野望を果たすまで、文句を言い続けるさ」

妙に無感情な声でそう言うと、キーランはごまかすように笑った。野望だなんて言葉を使って冗談に紛らわせようとしているが、底にある複雑な思いが感じられる。

「ねぇ、何の料理なの。いいにおい」

美波はフライパンのほうへ身を屈めて聞いた。話題を変えるためでもあったが、正直に言って、お腹がとても空いていて、食べ物の誘惑には勝てなかった。

「大したもんじゃないよ。トマトのパスタ。お前の家、アルコール以外、本当に何もないんだもんな。そこのコンビニで買えたもののありあわせだよ」

「正直に言うと、昨日の夜遅く、冷蔵庫の整理をしたの。この2週間、ほとんど家にいなかったから、けっこう色々とダメにしちゃって」

「お前、本当にどうしようもない生活しているな」

キーランは美波の顔を正面から見て、深いタメ息を吐いた。恥ずかしさをゴマかすため、美波は冷蔵庫を開けてビール缶をふたつ取り出すと、キーランに1本差し出す。ビール缶なんかで買収なんかされないぞと言いながら受け取ると、キーランはビールを美味しそうに飲んだ。

「それで、何を手伝ったらいい?」

「特に、何も。もうすぐできるから、テーブルでもセットしているんだな。免税店で買ったワインを何本か持ってきたから、好きなのを開ければいいよ」

「それは、それは。お気遣いいただきましてありがとうございます」

「お前に酒を飲ましたのは一生の不覚だったね。金がかかってしょうがないよ」

「なぁによ。高給取りのくせに」

ワインクーラを冷蔵庫に突っ込みながら、美波は見慣れないラベルのワインを確認した。確かに、高そうな銘柄ばかりだ。それならば、本気になってテーブルのセッティングでもしますか。とっておきのテーブルクロスを探すために、美波は台所を後にした。


  食事をしている間、ふたりとも、しょうもないことを話しながら、よく食べて、よく飲んだ。2本目のワインを開けてから、食卓からソファに場所を移した。キーランはいつの間にか、美波の家に置きっぱなしになっていたギターを持ち出してきて、遊び始めていた。最初は話をしながら流行のポップソングなどを爪弾いていたのだが、そのうち、話よりのギターの方に夢中になっていた。そして、いつの間にか、キーランのギターが奏でていたのは、『ビーチ』のメロディであった。

  大学時代、今よりも髪の毛をずっと長く伸ばして、左の耳にピアスをしていたキーランは、友だちとロックバンドを組んで、大学の近くのライブハウスで毎夜のようにギターを弾き、歌を歌っていた。卒業間際の頃には、キーランの少し高めの甘い声と、今では押すに押されぬ人気ポップスターであるデーヴィッド・クレイトンのピアノを売り物としていたバンドは、ニューヨークの地元ではけっこうな人気を誇っていて、プロにならないかと誘われたのも一度や二度ではないらしい。実際、デーヴィッド・クレイトンは、大学卒業後、プロのポップ歌手になり、新しいアルバムを出すごとに決まってヒットチャート上位にランクされている。デーヴィッドが音楽の道を選んだのとは対照的に、キーランは、卒業式前夜に最後のライブを終えると、長かった髪の毛をすっぱり切って、ピアスを外し、ロー・スクールに進んでスマートな弁護士になった。

  キーランがバンドの最終ライブで、最後に歌ったのが『ビーチ』であった。タイトルの『ビーチ』は、エディが祖父から譲り受け、フィオナが死亡する直前に美波とともに暮らし、今では名義上、美波の所有になっているカリフォルニアの家の前に広がる浜辺に由来している。3年前に医学部を卒業するまで、美波とキーランは、毎年、カリフォルニアの家を訪れて、夏の休暇を過ごしていた。キーランが書いた『ビーチ』の歌詞は、カリフォルニアの家での思い出と美波への思いで一杯であった。キーランは、バンドの最終ライブで、美波のためにと前置きをすると、『ビーチ』を一度だけ人前で歌った。

  その後、曲を書いたデーヴィッドの強い希望で、『ビーチ』はデーヴィッドのデビューアルバムに収められることになった。キーランとデーヴィッドが一緒に歌った『ビーチ』は無名の歌手の作品としては異例の注目を浴び、シングルカットされた。実際、『ビーチ』のシングル盤はよく売れたようだった。今でも、時々、洋楽を流す居酒屋に行くと、『ビーチ』を耳にすることがある。『ビーチ』のCDが売れたおかげで、ロー・スクールに行ったのに借金作らなかったんだと、後になってキーランは言っていた。

  デーヴィッドの最初のアルバムに付けられた冊子に印刷された『ビーチ』の歌詞の下には、小さな文字で「美波のために」というクレジットが入っていた。考えてみれば、あれが最初で最後のキーランの愛の告白のようなものだった。


「ねぇ、もう歌とか歌わないの?」

ギターをいじくりまわしてばかりいるキーランに少し焦れて、美波は聞いた。

「歌ぐらいいつだって歌うさ。これでも接待でカラオケにだって行かなきゃいけないんだ。デーヴィッドの歌なんか歌うと、結構受けるよ。それに、デービッドは週に一度ぐらい押しかけてくるし、シャワーの中でも歌っている」

「そんなことを言っているんじゃないってことぐらい、わかっているくせに」

キーランは、美波をまっすぐに見て、ギターを脇に置いた。

「オレはね、デーヴィッドみたいにロマンチックじゃないから、歌を歌って一生生きていけるなんて思えないんだ。ポップ歌手なんて、あいつみたいに、変な女に引っかかるようなヤツじゃないと、やっていられないんだよ」

「そういえば、デーヴィッド、離婚したみたいだね」

美波は、ふと思い出して言ってみた。デーヴィッドは、東京にいる美波にもわりとマメに連絡をくれていたのだが、6ヶ月ほどで終わってしまった結婚期間の間は、ほとんど連絡が無く、離婚したというニュースが流れて2週間ほどして、美波ちゃん、オレねえ、結婚して離婚したんだと突然、言ってきた。デーヴィッドは確かにとても気立ての良い、優しい人なのだが、感情に流されてしまうようなところがある。

「あんな三流の女優に引っかかるなんて、アイツは本当にバカだよ。オレが散々やめておけって言ったのに結婚して、その挙句に、結婚期間中はオレの家にいた時の方が多かったんだから、こっちはいい迷惑だよ」

そういうことだったのか。それで、キーランの手前、美波のところに連絡をすることができなかったわけだ。

「でも、アメリカの離婚って、お金がかかるんでしょう?大変だったんじゃないの」

「オレがついていて、そんなことになるもんか。色々と考えると、安上がりだったと思うよ。仕事にも集中するようになって、新しいアルバムもクリスマス前までには完成するはずだからさ、最終的にはあの離婚はプラスだね」

「そうか、離婚もプラスになるんだ」

そう口にしてしまってから、バカなことを言ったと思った。キーランは、嫌そうな顔をして、ワイングラスを口に当てながら、美波のことをじっと見る。

「お前さぁ、のんびりと人のことを心配している場合じゃないだろう」

それから、たっぷり2分ほど間をあけてから、美波の方へ身を乗り出し、耳元で囁く。

「セックスしない?」

キーランの息遣いを間近に感じて、心臓が飛び出しそうになった。反射的に顔を向けると、頬がかすかに触れ合った。たまらずに、美波は立ち上がる。

「シャワー浴びてくる」

「はい、はい。食事の後片付けはしておくよ」

キーランの冗談(もしかしたら、嫌味なんだろうか)にも答えず、美波は浴室に向かった。


  既に、たっぷりと10分ほど熱い湯に打たれていたが、美波は浴室を出て行くきっかけがつかめずに、ぐずぐずとシャワーを浴びていた。何が、セックスしないだ。もっと他の言い方だってあるだろうにと思う。だいたい、セックスして、これからどうするつもりなのだろう。色々と考えなければと言っていたのはキーランなのに、いつも突然のように行動に出るのはずるい。

  そんなことをぶつぶつと言いながら、それでもシャワーに打たれていたら、ドアの外からキーランの声が乱入してきた。

「美波、入るぞ」

ノックとともに、浴室の扉が開く。ちょっと待ってと、扉を押し戻そうとしたが、完全に遅かった。キーランは美波をシャワーの付いている壁際に追い詰めると、ゆっくりと丁寧なキスをする。

「濡れるよ」

「もう遅い。濡れているよ」

それから、シャワーを止める。

「一年半ぶりなんだから、あまり人のこと待たせるなよな」

そう言いながら美波のことをバスタオルでくるみ、抱き上げる。美波はついキーランの首に腕を回していた。


  美波をベッドに寝かせると、キーランはぶるっと頭を振った。細かな水滴が、キーランのストロベリーブロンドの毛先から飛び散る。すっかり濡れて、ところどころ体にはりついていたシャツを脱ぎ捨てると、キーランは、唇の端を噛み、とても真剣な目をして美波を見た。

「キーラン?」

何か言わなければと思ったが、その前に唇が塞がれた。キーランのキスは、美波の唇から首筋へ、首筋から胸へとゆっくりと下降していく。感情の高まりに圧倒され、美波は目を閉じ、体の力を抜いて、キーランの愛撫を受け入れていた。  そのうち、体にかかるキーランの重みが消えたので目を開けると、キーランは上体を起こし、憑かれたように美波のことを見ていた。

「美波、お前、ホントに綺麗だよな」

美波は思わず微笑んでいた。

「来て」

手を差し伸べると、キーランは美波に手に自分の手を重ねた。そして、それから、ゆっくりと美波の中に入ってきた。


  突然、頬に冷たいものが触れた。目を開けると、すぐ横で、キーランが白ワインを満たしたワイングラスをぶらぶらさせていた。

「飲むだろう?」

「うーん」

もそもそと起き上がると、シーツを胸まで引っ張り上げ、ベッドサイドに常備してあるタバコをつかみ、火を点けてから、ワイングラスを受け取る。

「お前、寝タバコまでするわけ?」

「だって、もともとは自分が教えたんでしょう」

「オレは自己管理が上手いからいいんだ。お前はどっちかって言うと、ぐずぐず引きずるタイプだろう」

「外科医の喫煙率って、世界的にも高いものなの。これでもけっこうストレスの溜まる仕事しているんだから」

「そうやって言い訳をしながら、ずるずると続けているのは、自己管理ができてないって証拠なんだよ。人が心配して言ってやっているんだから、たまには素直に聞けよな」

それで、美波はフッと菜穂のことを思い出した。何だか、このところ、みんなで寄ってたかって、人のことを心配してくれている。ところで、菜穂の言っていた金曜日は、今日のことだ。

「ねぇ、今何時?」

「10時5分過ぎぐらいかな」

「丁度いい。テレビ見ていい?」

「いいけど、珍しいね」

「菜穂のこと、もちろん覚えているでしょう?2、3日前、彼女が勤めている放送局の10時からの番組を見るように電話してきたの」

言いながら、リモコンでテレビをつける。すぐに大きな笑い声がして、髪の毛を思い思いの色に染めた3人の若い男の子たちの顔のアップが映った。きっと、ブラッド・ボーイズというのはこの子たちのことなんだろう。何だか、子どもみたいな顔をしている。

「何だい、あのボーヤたち。菜穂はああいうのが好きなわけ?」

「まさか。違うのよ。綾乃さんが出るんだって。それで、私にも見ろって言ってきたの」

「綾乃さんって、エディのあっちの子?」

あっちもこっちもないだろうと思ったが、とりあえず美波は頷く。

「何で、彼女がテレビに出るわけ」

「そういう仕事をしているらしいの。東京のお嬢様大学を出たあと、お母さんの絵梨子さんのコネで料理番組のアシスタントをするようになって、少し人気が出て、それから色々な番組に出ているみたい。菜穂の局で今度はニュースキャスターするんですって」

「へぇ、あの娘がね」

キーランは綾乃と東京とニューヨークで、一度ずつ会ったことがある。両方の機会とも、その場に居合わせた美波はとても不愉快なできごととして覚えているので、あまり思い出したくない。もちろん賢明なキーランは、美波が不機嫌になることを恐れて、綾乃のことには触れない。もっとも、キーランのことだから、普段は綾乃の存在自体覚えていないのだろう。キーランには知り合いが多い。

  画面の3人組のわけのわからないトークが5分ほど続いた後、綾乃はやっと紹介された。セットの奥に設置されたドアが開いて、フェミニンなワンピースを着た綾乃が階段を楚々と降りてくる。

  綾乃は、美波の目から見ても綺麗な子だった。何だかんだ言っても、エディの血を引いているわけだし、エディの妻、絵梨子も大きな目が印象的な上品な感じの美人である。おまけに、純粋な日本人が母親であるのだから、美波とは違って、圧倒的に日本人が多い集団の中にいても、その美しさが際立つことがあっても、浮くようなことはなかった。

  綾乃とはエディが美波を無理矢理押し込んだ小中高一貫のお嬢様学校で一緒であったが、学年が4年下であったので、直接の接点はまったくなかった。とはいえ、綾乃はいつも取り巻きを連れていて、つねに学校内のできごとの中心に存在していただけではなく、美波を敵視していることを周囲に隠そうとはしなかった。それで、美波は在学中、少なくない生徒たちから睨まれていただけではなく、時に、理不尽な扱いを受けるようなこともあった。それでも、美波自身は松濤に住むエディの家族とは係わり合いになりたくなかったので、できるだけ綾乃とその取り巻きからは距離を取る努力をして高校を卒業するまで耐え凌いだ。そして、その後、綾乃のことは、5年前、突然のようにニューヨークに現れるまでは、思い出すこともなかった。


  5年前の夏、大学の休みを利用して、いつものように美波はアメリカに脱出した。ところが、その年の夏は、何かと上手くいかないことが多かった。キーランはロー・スクールの2Lが終わったばかりで、選ばれたばかりのレビュー委員長の役割や、法律事務所でのサマージョブなどに追われてとても忙しく、いつものように美波の相手をする時間を確保できなかった。折り悪く、美波のニューヨーク滞在中、キーランの都合が悪い時に美波に付き合ってくれるデーヴィッドやジェニファーもニューヨークを留守にすることが多く、美波はもっぱらアリシアと時間をやり過ごしていた。それでも、8月の第2週にはエディが仕事にかこつけて美波に合流し、デーヴィッドも含めて皆で、メイン州にある美波がフィオナの父から相続した家での休暇に出かける予定であったので、それを楽しみにしていた。ところが、エディがパリ経由でニューヨークに着き、パトリックの家に落ち着くやいなや、川嶋グループのアメリカ現地法人である川嶋USから綾乃が東京からやって来るという連絡が入った。それからが大変だった。あまり英語が上手くない綾乃を放っておくこともできず、エディは綾乃の相手に追われ、綾乃は毎日のように、美波が生まれ育ったパトリックとアリシアの家を訪れた。自分の縄張りを侵されたようで、とても不機嫌になった美波は、その頃一緒に住んできたキーランとデーヴィッドのアパートメントに避難した。ところが、最後には、綾乃はそこにも侵入してきた。

  その時、キーランはシャワーを浴びていて、美波は朝食の支度をしていた。デーヴィッドがミルクを調達しに外出していたので、呼び鈴が鳴った時、美波は、特に確認せずにドアを開けた。すると、ドアの外には綺麗に身支度をした綾乃とその友だちが立っていた。対して、美波は、キーランのTシャツにショーツのみという部屋着だった。

「ごきげんよう。キーランさんはいらっしゃりますか」

美波をまっすぐに見て、綾乃は言った。

  後になってからのエディの説明によると、その日、エディは会社の急用でワシントンDCに行かねばならず、綾乃には友だちふたりと適当に過ごすようにと言ったということだった。その綾乃が、どうしてキーランとデーヴィッドが住んでいたアパートメントのアドレスを知っていたのか、誰にもわからない。あの朝、綾乃は、とても澄ました顔で、エディがキーランを頼るように指示したと説明した。綾乃のことで美波の機嫌が既にとても悪いことを熟知していたエディが、そんなこと言ったとは、正直、考えられなかった。

  美波がキーランとデーヴィッドのために用意した朝食の席で、綾乃は、キーランにその日1日中、自分と付き合ってくれと迫った。忍耐も限界に達していた美波は、朝食もそこそこに困り切っていたキーランを置いて、アパートメントを飛び出していた。そんな美波のことを、デーヴィッドが追ってきた。

  その日の仕上げは、綾乃とその友だちとの夕食だった。夕方、キーランと待ち合わせたバーに行くと、キーランとともになぜか綾乃も待っていた。そして、とても自信たっぷりな様子で、キーランと()()()父と夕食をともにして欲しいと、デーヴィッドと美波に提案した。あまりの言い方に、美波は泣きそうになった。美波を傷つめるために、綾乃がわざわざそんな言い方をしたとしか思えなかった。横にいたキーランは、居心地の悪い様子で黙っていた。

  あの夜、美波を救ったのは、デーヴィッドの存在であった。美波ちゃん、負けちゃだめだと、デーヴィッドが耳元でささやくのを聞き、美波はやっとその場に留まった。結局、その夜の間、デーヴィッドに励まされて、美波はよく知らない綾乃の友だちに囲まれて過ごした。エディとキーランのふたりは、その後数ヶ月間、美波の機嫌を取るためにかなりの努力を割かなければならなかった。


  あの時のことは、今、思い出しても本当に腹が立つ。美波は、あの日以来、綾乃のことが徹底的に嫌いになった。誰だって、あんな風に攻撃されれば、相手のことを嫌いになる。


  画面の中の綾乃は、そんな攻撃的なところなどちらりとも見せずに、すっかりお嬢様な様子で、3人組の若い男の子の相手をしていた。あいかわらずかわいいねぇという当たり障りのないやりとりから、話題は綾乃の新しい仕事であるニュースキャスターに移っていった。

「もぅ、たくさん勉強することがあって、大変なんですよ。今、局の方々に特訓を受けている最中なんです」

そんな風に、小首を傾げて、綾乃は言った。もちろん、トークの相手である男の子たちは、じゃあ何で勉強を終えてからキャスターを始めないのかとは聞かない。

「でもさ、綾乃ちゃんならきっと才能あるよ。だって、綾乃ちゃんのお父さんって、日本を代表するビジネスマンの川嶋真隆さんなんだよね」

そこで、画面一杯にエディの写真。ご丁寧に、1枚目は日本の首相と写っているもので、2枚目は、何年か前に新聞を飾った、アメリカ大統領と一緒のもの。

「エディもさ、こうしてみると何だか偉そうに見えるもんだな」

美波の横で、キーランがのんびりと言う。

「キーラン、あのねぇ、キーランみたいにエディの普段の姿を知っている人って、日本では少ないんだよ」

「ああ、そうか。エディは、日本じゃ猫かぶっているんだもんな」

猫をかぶるとだけ日本語で言って、キーランは納得する。美波はこっそりため息を吐いた。多分、キーランにとっては、普段のエディと仕事中のエディの違いはその程度のものなのだろう。画面からエディが消えると、3人組のひとりのアップになった。もう5分ほどこの番組を見ているが、3人の男の子たちの顔の見分けがつかない。

「で、お父さん、東大とハーバードを両方、卒業したんだよね」

「すっげー、メチャクチャ頭、良いじゃん」

「おまけに、英語ペラペラなんだよね」

そこで、キーランは爆笑を始めた。

「こいつら、困ったヤツラだね。英語できないでどうやってハーバード・ロー・スクールを卒業するんだよ。エディはさ、実際のところ、アメリカと日本のミックスで、子どものときから英語喋っているんだから、そんな環境に育てば、誰だって英語ぐらい喋るよなぁ。オレだって、子どものときから習っているから、日本語を喋れるもん」

3人組のコメントを笑い飛ばして、キーランは画面に向かって、茶々を入れた。  

「この国には、私が日本語を喋るとびっくりする人がまだ一杯いるんだよ。私だって、日本のパスポート持っているのに」

「お前の場合、オレの場合とあんまり違わないだろう。日本で生まれたわけじゃないし、英語が母語で、日本語はあとで習ったものだし。要するに、エディの親がふたりとも日本人と外国人とのミックスだったってだけのことでさ。お前の場合、よく考えてみれば、日本のパスポート持つ根拠って、アメリカのパスポートを持つよりも薄いんじゃないの?」

思い悩んでいることをズケズケと言ってくれてと、美波は思ったのだが、悔しいけれど、キーランの言うことは正鵠を射ていた。確かに、美波にはアメリカに住む理由はあるが、日本にいることの根拠はよくわからない。正直なところ、エディがそうして欲しいといったから、日本の大学に進み、日本の病院で働いているだけであり、日本が特別に好きなわけでもない。

「ねぇ、お父さんが、それだけ英語を喋れると、海外旅行に行くときとか、楽でしょう?」

美波が自分のアイデンティティの問題について思い悩んでいる間に、トークの話題は移っていき、3人組の1人がそんなことを言った。まったく、この子たち、いい度胸している。天下のエディを海外旅行の通訳に使おうっていうんだから。

「うちの父は、いつも忙しくて、実はあんまり一緒に旅行したことないんですよ。いっつも、月の半分は海外に出張で、家にいないんです。子どもの時は、そういうのがとても寂しかったんですけれど、今は大事なお仕事をしているのが分かりますから、お父さんがんばってって思っています。それに、今度のニュースキャスターのお仕事するようになれば、父との共通の話題が多くなるんじゃないかと期待しています」

うそつき。綾乃がそんなことを言い終わった途端、美波は思わず小声でそう呟いていた。エディがこの15年ほど松濤の家にはほとんど戻らず、綾乃の相手をしないのは、海外出張のせいでも、仕事が忙しいからでもない。すると、キーランがコツンと美波の頭をゲンコツで軽く叩いた。はしたないことを言うなということなのだろう。美波は黙ったまま、短くなったタバコを灰皿で握りつぶすと、すぐさまもう一本取り出し、火を点けた。

「でも、実は1回だけ、父と一緒にニューヨークに行ったことがあるんですよ」

まったくの突然に、綾乃がそんなことを言った。横で、キーランが大きく息を吸う。何だか、話が危ない方向に向かってきた。

「それで、その時に、とてもいい事があったんですよ。今でもちょっと信じられないんだけど、実は、私、その時、デーヴィッド・クレイトンに会ったんですよ」

画面の中の綾乃が言い終わる前に、キーランはたまらずのように口にしていたワインを噴き出した。美波も綾乃の話の展開にびっくりして、言葉を失っていた。とりあえず、手にしていたタバコをキーランの方に押しやると、キーランはタバコを受け取り、深く吸った。

「デーヴィッド・クレイトンって、あの有名なロック歌手のデーヴィッド・クレイトン?」

「スッゲーの。オレたち、彼の大ファンなんだよね」

そうそうと、画面の中の男の子たちは頷き合う。綾乃はニッコリと笑って続けた。

「本当に偶然だったんですよ。父のハーバード時代のお友だちの息子さんが、キーラン・ケネディさんって言うんですけれど、この人とデーヴィッドさんがコロンビア大学時代からのお友だちで、ルームメイトだったんです」

自分の名前が出て来ると、キーランはものすごい勢いでタバコを吹かし始める。完全に落ち着きを失っているようだ。そういう美波だって、正直言えば呆気に取られていて、何だか息苦しい。美波は、結局、自分のために新しくタバコに火を点けることにした。

「キーラン・ケネディ?その人って、最初のアルバムで、確か、デーヴィッド・クレイトンと『ビーチ』を歌っている人でしょう?あれいい歌だよね」

「オレもすごく好きだよ。そう言えばさ、あの曲にはFor Minamiってクレジットが入っていているんだよね。ミナミなんて、日本人ぽい名前だなぁと思っていたんだけど、じゃあ、日本と関係ある人なんだ」

美波の名前が出てきて、綾乃の表情が一瞬曇った。それでも、すぐにまた可愛らしい笑顔を取り戻して言う。

「美波さんて、キーランさんの妹さんなんですよ。ふたりはとっても仲が良いきょうだいなの」

そう、あんまり仲が良くって、とうとう一緒のベッドで並んで横たわりながら、この番組を観ていたりする。美波は激しい眩暈を感じていた。何で見も知らない人たちが自分たちのプライバシーについて、テレビで話しているんだろう。キーランはキーランで、ほとんどフィルター近くまで吸ってしまったタバコを灰皿に押し付けると、腕を伸ばして、ベッドサイドのタバコの箱を掴み取った。ただし、視線はテレビの画面に釘付けになったままだ。やっぱり相当に動揺しているのだろう。

「へぇ、妹なんだ。意外だな。『ビーチ』ってさ、究極のラブソングだと思っていたけれど」

綾乃は、その完璧な笑顔で3人組のコメントをやり過ごす。

「ともかく、キーランさんは、今は、ニューヨークで弁護士さんをしているんですけれど、デービッドさんとはとても仲が良くって、この間はふたりで一緒に雑誌に載ったりしているんですよ」

そこで、例のNEW YORKERの記事の写真のアップ。スーツ姿のキーランの肩に、茶色のスエードのハーフコートにジーンズを身に着けたデービッドが手をかけて、何がおかしいのかふたりとも屈託なく笑っている。ふたりがいるのはコロンビア大学の構内であり、リラックスした雰囲気がよく現れている、とてもいい写真だった。実は、美波もその写真が気に入っていて、額に入れて大事にとってある。

「そんな仲のふたりなんで、私がニューヨークに行った時、父を交えて、皆でお食事することができたんですね。とってもラッキーだったと思います。これが、その時の写真です」

綾乃が取り出した写真が、画面でアップになった。エディとキーラン、デービッドに囲まれて、ニッコリと笑う綾乃。そこに写されなかったのは、あの時、あの場に一緒にいた綾乃のふたりの友だちと、それから写真を写した美波。


突然、キーランがリモコンを掴み、テレビを消した。

「もう、やめよう」

「うん。そうだね」

キーランがやらなかったら、多分、自分がテレビを消していた。それから、しばらくの間、ふたり揃って、黙ってタバコを吸った。

「何だか、痛々しいな」

永遠とも言えるような沈黙の後、キーランがポツリと言った。

「痛々しい?」

「ああ。だって、オレとデービッドが綾乃さんとニューヨークで会ったのなんて、たった一度きりで、それも5年も前のことじゃないか。多分、デービッドなんか、綾乃さんに会ったことさえ完全に忘れているだろうし、オレだってすっかり忘れていた。そんな些細なことをあんな風に言うなんて、きっと、あの娘が話せるエディとの思い出なんて、あの時のことぐらいのことなんだよ」

「随分と理解があるのね。話のポイントはどっちかって言うと、エディのことより誰さんの方だと思ったけれど」

キーランが言うことがわからないではなかったが、それでもついキツイ口調で言い返してしまう。

「嫌味を言うなよ」

「だって、あの時、彼女はとてもキーランにご執心だったじゃない?妙に甘えた仕草なんかして、私は、見ていてとても恥ずかしかったし、気分が悪かった。ちょっと綺麗だからって、要するに、男の人に取り入ろうとする手管に長けているだけなのに、キーランもエディもふたりとも、ものすごく寛容なんだと感心したのよ」

キーランは、少し驚いたように、美波のほうを向く。

「お前、随分と厳しい言い方をするよな。そりゃ、お前が綾乃さんに好意を持てないのは、よくわかるけれど」

「ああいう男の人に頼るばかりの女の子って、正直言ってウンザリなの。綾乃さんだって、結局、番組で言っていたのは、お父さんとキーランのことだけじゃない。自分には何のとりえも無いから話すことも無いわけで、そんな才能(タレント)の無いタレントでもテレビに出ていられるのは、エディの名前や力の七光りと、それからまだ少し若いからチヤホヤしてくれるオヤジたちが一杯いるからなの。ああいう女の子も、それに群がるオヤジたちも、地道に働いているこっちとしては、単に迷惑なだけなんだから、この世から消えて欲しい」

美波の剣幕に驚いたのか、キーランは、じっと美波の顔を見つめた。

「お前、それってさ、金持ちでプロフェッショナルな女の傲慢だよ」

しばらくして美波が落ち着くのを待ってから、キーランは穏やかに言った。同時に、ワインクーラから白ワインの瓶を取り上げ、美波のグラスにワインを継ぎ足し、美波に持たせる。美波に対するアメとムチをよく心得ている対応である。

「傲慢?」

「だからさ、誰もが美波みたいに、全世界で知られている企業グループの社長の娘として大事に育てられたわけではないだろう?」

「自分だって、ニューヨークの有名弁護士と大学教授の子どもじゃない」

「オレの家と戦争前からの大金持ちであるお前の家じゃレベルが違うよ。アメリカにいるエディの母方の親戚だって、とんでもないエリートばかりだしさ。お前のところからすると、パットの父親、オレの祖父さんは、アイルランドからの移民で、定年までヒラの警察官だったんだから、オレの父親は立派な成り上がり者なんだ」

パトリックが成り上がり者というキーランの説明は、確かに、事実であった。子どもの頃、時折、キーランと一緒にパトリックの両親の家を訪ねた。パトリックの両親はとても暖かな、気の好い人たちであったが、経済的には決して豊かとは言えなかった。そして、パトリックの4人のきょうだいやその子どもたちであるキーランのいとこたちの中には、お世辞にも上品とは言えない者や社会的に言って問題のある行動をする者もいた。パトリックがハーバードまで行ったのは、パトリックの努力と奨学金のおかげであり、そういった出自ゆえ、ハーバード大学の経済学の教授の娘であったアリシアとの結婚も随分と反対され、アリシアと実家との交流は長いこと途絶えていた。そして、パトリックが弁護士となってからは、自分の両親や他のきょうだいを経済的に助けてきたのだと思う。

「まぁ、お前を育てたのは、ウチの親でもあるわけだけど、エディから随分と金が出ていたんだろうし、だいたいエディはお前のことを溺愛しているから、普通の感覚からいったら、贅沢のしたい放題だったじゃないか。オレもさ、けっこうその恩恵に預かったけどね」

そのことに関しては、キーランは、まったく正しい。高校生の時から原宿で一人暮らしするというのは通常のことではないし、美波に物欲がほとんどないのも、要するに、モノを欲しいと思う必要がないくらい充分に満たされた生活をしてきたからだけのことだ。美波は「金持ち」については諦めて、ワインをすすった。

「それで、プロフェッショナルのほうは?」

「文化資本って言ってね。そんな風に大金を遣って、大事に育てられるとさ、どうしても、学歴の高いプロフェッショナルな職業につく確率が高くなるんだよ。美波だってさ、なんだかんだ言って、結局は日本で一番難しい大学の医学部(メッドスクール)にすんなり入っちゃったじゃないか。それで、今では立派な女医さんで、高給取りだ」

キーランほどではないよと、心の中で反論する。とはいえ、それは程度の問題なので黙っておく。

「でも、私は、そのために努力はしてきたよ」

「それは知っているよ。美波が中学生の時、あんまりプレッシャーで参っているから、学校の古典の授業の復習、付き合ってやっただろう?おかげで、オレまで大学の東アジア研究学部のやつらより日本語できるようになったんだから」

そうでしたと、美波は懐かしく思い出す。

「ポイントはさ、そうやって機会や励ましを受けることができた人間と、そういったものが無かった人間の間には、違いができてしまうってこと。綾乃さんはさ、確かに、経済的にはとても恵まれてきたんだろうけれど、エディにはほとんど無視されて、専ら母親に育てられてきたわけだろう。だとすると、プロフェッショナルな職業に就くなんて刺激はなかっただろうし、エディが実は、人格的に独立しているプロフェッショナルな女が好きなことも多分、知らない。それで、自分が学習してきた方法でエディの関心を買おうとして、尚更、エディに失望されてしまうんだ。『キャッチ22』で、実際、可哀想だよ」

キーランの分析に、美波は反論の仕様がなかった。降参という意味で、片手を挙げる。

「それでも、彼女が私の私生活に土足で入り込もうとするやり方は、ルール違反だし、我慢できない」

追い詰められたようにも感じて美波がそう言った途端、キーランはクスッと笑い、ほとんど消えてしまった自分のタバコを灰皿でもみ消すと、美波の吸っていたタバコを取り上げ、一服してから消した。

「なぁ、ひとつだけ、いいこと教えてやるよ。実は、エディの教育が好かったんで、オレもプロフェッショナルな女が好きなんだ」

「何よ、突然」

「つまりね、実は、今日の夕方、病院で美波のことを見ていて、オレは欲情してしまったわけ。これが他の女には、なかなかできることじゃない。特に、テレビで喋くっているような娘じゃだめなんだ。だから、何にも心配することはない」

「心配なんか、別にしてないよ。だいたい、会ったのだって一年半ぶりじゃない。私はキーランがこの一年半の間、修道僧のような生活をしていたわけではないことを問い詰めたりはしないでしょう」

本当は、心のどこかで修道僧のようだったという言葉を期待して、美波は言っていた。もちろん、キーランは、そんなことは言わず、屈託のない笑顔で美波の控えめな文句を受け止めるだけであった。

「それでもオレたち大丈夫だっただろう。結局、前とまったく変わりない。だから、オレを信じて、タバコの吸いすぎでふたりで肺ガンになる前に、くだらないことは忘れてもう一度セックスしよう」

「なぁに、そればっかり。他に、考えることないの?」

「ないよ。まずは一年半の欲求不満を解消しなくちゃね」

それから、キーランは、美波の頬に手をかけ、丁寧にキスをした。白ワインの味がふわりと美波の口に広がって、妙に酔っ払ったような気分になる。

「結局、美波でなければ、ダメなんだ」

いたずらっ子のような調子でキーランにそう言われて、美波は結局、観念してしまい、つい、グラスを置いて、本格的なキスを始めてしまう。まったく、キーランは、美波を懐柔するのが上手すぎる。


目覚めると、早朝の白々とした光の粒子が、部屋の中にあふれていた。視線を巡らすと、キーランの顔がすぐそこにある。無防備に目を閉じ、静かな寝息を立てている。

  美波はキーランの頬を手の甲で撫ぜる。その光景が、透明すぎて、現実のものと思えずに、どうしても触って確かめてみたいと思う。すると、キーランは目を閉じたまま、頬に触れる美波の手を無造作に掴んだ。

「美波、もう少しベッドにいようよ」

そして、首をすっと伸ばして、唇にキス。

「そうだね」

判然としない頭でそう答えると、もう一度、穏やかな寝顔を見せるキーランの頬を撫ぜて、目を瞑る。

  キーランが再び自分の生活の中に舞い戻ってきたことを実感しながら、美波は、束の間のような浅い眠りに落ちていった。


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