第13章
「美波ちゃん、どこに行っていたのさ。ずっと待っていたんだよ」
法律事務所に戻って、クリスマスパーティが開催されているフロアに上がった美波とキーランを最初に出向かえたのはデーヴィッドとジェニファーであった。美波の顔を見た途端、デーヴィッドは両手を広げて抱き竦める。今や押すに押されぬ人気ポップスターであるデーヴィッドは、数年前と比べ格段とスタイリッシュになっていたが、眼鏡の奥の瞳は相変わらず優しさに満ちていて、美波は安心してデーヴィッドの抱擁を受け入れていた。横で、キーランがわざとらしく大きなため息を吐いた。
「お前、自分のところのクリスマスパーティはどうしたんだよ。今回は新しいCDのプロモーションを兼ねているんだろう。主役のお前がいないとパーティになんないじゃないか。まったくさ、毎日働いているわけでもないんだから、やるべきことがあるときぐらいはしっかりやれよ。オレは、売れなくなったらお前の顧問弁護士なんか、すぐ辞めてやるからな」
「ちゃんと挨拶をして、5曲ほど歌ってきたから大丈夫だよ。あの手のパーティじゃ皆、適当に楽しむだけだろうから、オレがいないことに気がつく人間がいることすら疑わしいし、誰かさんのおかげで契約することができた新しいマネージャーはとてもやり手だから、あとはあの人が仕切ってくれるだろう」
デーヴィッドはキーランの小言などまったく意に介していないように、相変わらずニコニコした表情のままで、平然と言い返した。キーランが口を曲げて、相変わらず気楽なヤツだなと呟く。
「今回ぐらい大目に見てあげなさいよ。私もデーヴィッドも美波と会うのは随分と久しぶりなんだから、うるさいことを言わなくたっていいじゃない」
堪えきれない笑いを開放的に発散させながら、ジェニファーが口を挟んだ。美波はジェニファーの方を向いて、しっかりと抱擁を交わす。すっかり熟練したジャーナリストになったジェニファーの体からは、相変わらず学生の時のような、ちょっとスパイスがきいたようなグリーン系の香りがした。
「ジェン、お前ねぇ、あれだけ今日はデーヴィッドのことを見張っていろって頼んだじゃないか」
「だから、ちゃんとデーヴィッドが『お仕事』を終えるまでは見張っていたでしょう。デーヴィッドの言う通りで、私たちが抜け出す頃までには第一陣の大事なお客は帰ってしまっていたし、あとはこっちが気を遣わなければいけない招待客なんか真夜中近くになるまで来ないわよ。それよりもアンタと美波の顔を見に来たほうが楽しいじゃない」
ジェニファーは美波の両手を取り、無邪気さを装って、ねぇと同意を求めた。その瞬間、デーヴィッドの目が、美波の左手に薬指に吸い付く。
「美波ちゃん、その指輪、ひょっとしてキーランに貰ったの?」
美波の首筋が自然と赤くなり、キーランはあらぬ方を向いた。そんなふたりをデーヴィッドとジェニファーの探るような視線が追い詰める。
「キーラン!」
タイミング良く、パーティの人ごみの向こうから、白い頭の背の高い男が手を上げ、キーランを呼んだ。キーランは首を伸ばし、その男に対して頷いてみせる。
「悪いな。ボスの呼び出しだ。美波、お前も来いよ。紹介してくれって言われていたんだ」
美波の左手をじっと見詰めているデーヴィッドとジェニファーに早口でそう言い捨てると、キーランは無造作に美波の手を取って歩き始めた。それで、デーヴィッドとジェニファーも、後を追ってくる。
キーランがボスと言ったのは、一際仕立ての良いスーツをスマートに着こなした、体格の良い男だった。年の頃は、エディやパトリックと同じ頃だろうか。完璧でいて、それでも取り付く島のないような笑顔は、仕事をしている時のエディやパトリックに似ていなくもない。男は遅かったじゃないかとキーランの肩に親しげに手を掛けると、興味深げに美波の顔を見た。
「紹介しますよ、マックス。彼女がミナミ・カワシマ医師です。美波、こちらはこの事務所の大ボスのマックス・シェーファー」
「大ボスとは聞こえが悪いな」
マックスと呼ばれた男は快活な笑い声を立てると、美波の右手を丁寧に握った。
「やっとお会いすることができて光栄ですよ。私は、あなたのお母さんとコロンビアで同窓でね。お父さんのこともよく存じ上げているし、あなたは覚えていないのかもしれませんけれど、あなたとキーランが小さかった時は、お父さんとお母さんとセントラル・パークで散歩しているあなたたちに頻繁に会ったものです。それにしても、キーランもそうだけれど、あなたもとてもご立派になられたものだ。それに、学生だった頃のお母さんによく似ている。お父さんはとてもあなたが自慢なんでしょう」
「母に似ているとは、よく言われます」
美波は気恥ずかしくなって、目を伏せて答えた。まったく、このニューヨークで弁護士に会うと、決まって父と母の話になる。だから、ふたりのひとり娘である自分には逃げ場がない。
「それで、私は、君の婚約者に紹介を受けるという光栄に浴したのかな?」
マックスは相変わらず完璧な笑顔のままでキーランに聞いた。キーランは軽く息を吐いた。
「ええ、そうですね」
「それでは、君はやっと東京に行く決心したわけだね」
「そういうことになります」
マックスに対して答えるキーランの声はいつもよりも多少低く、美波は一体何が起こったのかと思い、キーランの顔を見上げた。キーランは軽く口を曲げて、美波を見返した。
「ドクター・カワシマ、お父さんも今、ニューヨークにご滞在中ですよね?」
キーランの様子をまったく気にすることなく、マックス・シェーファーが美波に聞いた。
「そうです。東京から一緒に来ました」
「いつものようにパトリックの家にご滞在ですか?」
「はい。明日のクリスマスをケネディさんのお宅で過ごして、それから東京に戻る予定です」
「それでは、申し訳ないのですが、お父さんに、明日、少しだけお時間を割いてくださいとお願いしていただけないでしょうか。至急、お話しておきたい件があるもので」
「それは構わないと思いますが」
美波は同意を求めようとキーランを見たが、キーランは何事かを考えていたようで、自分の靴の先を睨んでいた。いつものキーランらしくない様子に、美波が訝しげに瞬きすると、マックスは軽い笑い声を立て、失礼しますと言ってから、歩き始めた。マックスが完全に離れてしまったことを確認して、美波は聞いた。
「どうしたの?」
「昔、バカな賭けをしたんだ」
頭に手をやって、キーランがうんざりしたような声を上げた。珍しく、キーランが本格的に困っている。キーランの様子に、それまで微妙に距離を取っていたデーヴィッドとジェニファーも話の輪に加わってきた。
「賭けって何のこと?」
「だからさ、この事務所に勤め始めて1年ぐらいした時のことだったんだけれど、マックスが、オレはいずれ東京方面にヘッドハンティングされて事務所を辞めることになるんじゃないかなんて言うから、オレはこの事務所を辞める気はさらさらないって答えたんだ。自分の大ボスにそうですねなんて言えるわけがないだろう。しかもオレはまだ1年生だったわけだしさ。そしたら、マックスは、それなら賭けをしようじゃないか、万が一、オレがヘッドハンティングされて辞める場合、全職員の前で歌を歌えって言うんだよ。それも『ビーチ』を。オレはとんでもない話だと思ったんだけれど、マックスは辞める気がないならば大したことではないだろうって粘ったんだ。だから、その時は売り言葉に買い言葉でさ、結局、そういう約束をしてしまったんだけど、でもずっと昔のことだろう。オレはいい加減忘れていたんだ。けれど、この間、パートナーの話をオファーされた時に、マックスはあの話を蒸し返してきてさ。パートナーの昇進を蹴って他で働くのならば、昔、賭けをした通りに今日のパーティで『ビーチ』を歌えって言うんだ。でも、オレはもう随分と長いこと人前で歌なんか歌っていないからね。もう一度『ビーチ』をステージの上で歌うなんて、正直言って、生きた心地もしないよ」
「ラッキーだな。オレはもう一度キーランと『ビーチ』をやってみたかったんだ。やっぱりあっちのパーティを抜けてきて、正解だった」
ため息交じりに苦しげに説明するキーランを尻目に、デーヴィッドが歓喜の声を上げ、軽くステップを踏んだ。そんなデーヴィッドを見るキーランの目がスゥっと細くなる。
「デーヴィッド、よく覚えておけよ。オレは人前で歌を歌うことは辞めたんだ」
「そんなに勿体ぶることないだろう。一回ぐらいいいじゃないか。歌を歌ったって減るもんじゃないし、美波ちゃんとの婚約記念にもなるだろう。大丈夫だよ。仲間内で歌っている時の様子じゃ、お前の歌は、今だってそこいらのプロよりも聞けるよ」
「あの歌は個人的な歌なんだ」
一言、一言区切るように、キーランは低い声で言った。
「オレは『ビーチ』を人前で歌うつもりはまったくなかったんだ。それをお前がぎゃーぎゃー言うから、仕方なくライブで歌って、それが原因でCDにまでなって」
「売れてよかっただろう?それに、あの歌のおかげで、美波ちゃんの親父さんや自分の親に色々と説明する手間も省けたしさ。そんなに感謝してくれなくてもいいよ」
気楽そうにニコニコと笑って応えるデーヴィッドに、キーランはいよいよ厳しい目を向けた。大きく息を吸った後、何かを言おうとして口を開きかけたが、そこに要領よくジェニファーが割り込む。
「ほら、アンタのボスのご登場よ。諦めて出頭しなさい」
確かにジェニファーが示す方向では、マックスがパーティ会場の一角に設置されたステージの上で雇われバンドのメンバーと一言、二言言葉を交わし、マイクを握ったところだった。キーランの深いため息がさらに深くなった。
「キーラン!」
マックスがマイクを通じてキーランに呼びかけた。キーランは振り返ってマックスに対して手を上げると、スーツの上着を脱ぎ、美波に放り投げる。
「お前、それ預かっておいてくれよ」
それから軽くデーヴィッドの肩を叩き、早足でステージの方へ歩き始める。美波はジェニファーと何となく顔を見合わせた。
「学生時代からほとんど変わっていないのよね、あのふたり。それにしてもキーランがあれだけ照れるっていうのもおかしいじゃない?」
「私も今さら『ビーチ』を人前で聞くのはかなり恥ずかしいな」
美波の思わず出てしまった返答をジェニファーは笑い飛ばした。
「何言っているのよ。ライブの時は、歌い終わったキーランがあなたにキスして、散々見せつけてくれたじゃない」
そう言われてしまっては、美波は赤くなって俯くしかなかった。
ワイシャツの袖を捲り上げたキーランがギターを肩にかけると、マックスは会場の注目を求めた。もっとも、デーヴィッドとともにキーランがステージに上がってギターを手にした時点で、その場にいた多くの者たちは何事が始まったのかとステージの様子に注意を向け始めていた。マックスは完璧な笑顔を保ったまま、滑らかに話し始めた。
「ここでちょっとした余興を私から皆さんにプレゼントしたいと思います。キーランが私どもの事務所の一員となったのは今から5年ほど前のことになりますが、そのキーランがロー・スクール入学前に、ニューヨークの地元ではちょっとしたスターであったことは、多分、私より皆さんのほうが詳しいかもしれません。さて、そのキーランと私は、数年前に、ちょっとした賭けをしました。その賭けにキーランが負けた時には、事務所の全職員の前でかの有名な『ビーチ』を歌うという約束になっていたのですが、本日、とうとうキーランはその負債を払わなければなりません。この将来有望な若者は、残念なことに、しばらくして私どもの事務所を去ることになると思いますが、私たちは彼がこの事務所にとって大変重要なメンバーであったことを忘れることはないと思いますし、この若者が、この先も多くの祝福を受けた人生を歩んで行くことには皆、異存はないと思います。ですから、今夜は彼の今後の幸せを願って、一生に一度しかないチャンスとして、『ビーチ』の歌を聞かせてもらおうじゃないですか」
それだけ言い終わると、マックスはキーランに微笑みかけた。キーランが何事かマックスに対して呟き、マックスはそんなキーランの肩に軽く手を置いてから、ステージを降りた。
キーランはギターを爪弾きながらデーヴィッドと二言、三言、ことばを交わすと、ゆっくりとマイクの前に立った。昔と同じように、ハイ、皆とはにかんだように話し出す。
「マックスに賭けをしようと言われて、それを断ることができる従業員がこの事務所にどれだけいるのかオレにはよくわからないけれど、約束してしまったものは仕方がない。『ビーチ』は8年前に一度だけライブで歌って、それ以来、オレは一度も人前で歌を歌っていないから、正直言って今は緊張して、生きた心地もしない」
それから軽くギターを爪弾くと、意を決したように顔を上げた。
「オレにとって『ビーチ』はとても個人的な歌で、付き合っていた女の子に対して自分の気持ちを伝えるために作った歌だった。彼女とは実際、腐れ縁で、オレたちはもう随分と長いこと一緒の時間を過ごしてきたけれど、実は30分程前にやっとその彼女に結婚することをオーケーして貰ったところ。だから、この歌は、やっぱり美波のために。これまでも、そしてこれからも」
キーランの呼びかけに弾かれたように、美波は真っ直ぐに顔を上げた。すぐに、覚えているようはずっと丁寧な調子の『ビーチ』の前奏が流れてきた。
8年前と比べると、キーランの声は少しリラックスして、低めであった。単語をひとつひとつ発音するように『ビーチ』の歌を丁寧に紡いでいく。久しぶりにキーランの生の歌を聞きながら、美波にはひとつだけわかったことがあった。これからは、あのビーチに戻るために、キーランとふたりで自分たちの生活を築いていくのだ。父と母が幸せを願ったあのビーチで、私はキーランと幸せになることができる。
美波は目を閉じて、キーランの歌声にじっと耳を澄ました。10年の歳月を経て、再び、キーランといつも一緒にいる生活に戻る。私とキーランは、自分たちの家族を作る生活を選べるところにまで、やっと辿り着いたのだ。
家の中はすっかり静まりかえっていたけれど、微妙な感じで開いていた廊下へのドアから覗くと、柔らかな室内灯がキッチンから漏れていた。玄関ホールでコートを脱いで、美波は思わずキーランの顔を見上げる。美波のコートを受け取って、コート掛けに掛けながら、キーランは軽く肩を竦めた。
「やっぱり起きて待っていたんだな。アイツ等もそれなりに心配しているんだろうけど、こっちとしては正直言って、今夜ぐらい放って置いてほしいよ」
美波には頷くことしかできなかった。嫌がるデーヴィッドをジェニファーの付き添いをつけてデーヴィッド本人のパーティ会場まで送り返し、そろそろ親たちは寝たころだろうと思って帰ってきたのだが、さすがに敵も今夜は手ごわいもので、この時間になってもベッドに行くことなく、美波たちが帰るのを待っていたようだった。
「キーラン、戻ったの?」
廊下の向うからアリシアの柔らかな声が尋ねた。キーランがため息を吐いて、美波の左手を握った。
「ああ、母さん。今、行くよ」
キッチンの方へ手短に答えると、キーランは美波の顔をじっと見る。
「お前、アイツ等の顔を見る準備はできているのか?」
「できているわけなんかないでしょう。どんな風にお父さんに話せばいいのかまったくわからない」
「そうだよな。オレだって本当は母さんやパットに色々と説明なんかしたくないよな。エディには話をつけないといけないとしても」
美波はすがるような視線をキーランに向けた。キーランは再び重いため息を吐いた。
「わかっているよ。オレが話せっていうんだろう。お前は本当に気楽でいいよな」
それでもキーランはいつものように美波の手を取り、歩き出す。そうやってふたりは、まったく気が進まないままキッチンへと向かった。
エディとパトリック、そしてアリシアはキッチンのブレックファーストカウンターを囲むように座っていた。パトリックはいつものように新聞を広げ、その両隣でエディとアリシアは野菜の皮むきをしていた。エディが芽キャベツで、アリシアが人参。明日のクリスマスディナーのためなのだろうが、美波は、ついついこんもりとボールに盛られた大量の処理済の芽キャベツに意地悪な目を向けてしまう。
「お父さん、そんなに芽キャベツの準備をしてどうするの?お父さんもキーランも芽キャベツはあまり好きではないでしょう」
「ああ、そうかな」
言われて初めて気がついたように、エディは自分の目の前のボールに目を落とした。それで改めて大量の芽キャベツの存在を確認し、当惑したように視線を泳がせる。
「大丈夫よ、エディ。芽キャベツはね、ビニール袋に入れて冷蔵庫に入れておけばかなり持つのよ。休暇が終わったらシチューにでもするわ」
「そうだね、それがいいんじゃないかな。それで余った人参の方もカタがつく」
美波と自分のためにマグカップにコーヒーを注ぎながら、キーランが口を挟んだ。アリシアは軽く頬を赤く染めた。
「それで、パーティは楽しかったのか?」
キーランと美波がコーヒーのマグカップとともに、ブレックファーストカウンターから少し離れた位置のダイニングテーブルに落ち着いたのを見計らって、パトリックが聞いた。美波はブレックファーストカウンターの3人の視線が美波の左手に集まっていることを強く意識して、喘ぐように息を吐いた。左手は硬く握り締め、テーブルの下に隠したままであった。
「それなりにね。そっちはどうだったの?」
答えながら、キーランはネクタイに手をやっていた。結び目の辺りを少し悪戯し、それから思い返したように、キッチリとネクタイを締め直す。何気ない様子を装っているが、やっぱりかなり緊張しているようだった。
「楽しかったよ。何だか昔に戻ったような感じだったよな」
「あの店は確かにこの20数年、ほとんど変わっていなかったからね。僕にとっては、ニューヨークでクリスマスイブを過ごすのは本当に久しぶりだったし」
「それでオレたちは、お前とフィーの話をたっぷり聞かなくてはいけなかったってわけだ。美波、お前の親っていうのは本当に困ったヤツ等だぞ」
それは知っている、と心の中で思ったが、美波は口には出さなかった。俯いたままでコーヒーに口をつける。
「そう言えば、キーランのボスのマックスって人に会ったよ。お母さんの同窓生だったって言っていた。それでね、明日、お父さんに緊急の用があるから、是非会いたいって。午後に訪ねてくるみたい」
「マックス・シェーファーが僕に会いたいって言ったの?」
エディはブレックファーストカウンターの椅子をぐるりと回して、自分の体を美波とキーランの方へ真っ直ぐに向けた。気恥ずかしさに、美波はそ知らぬほうに視線を泳がせた。
「マックスが僕に用事があるって、どういうことなのかな。キーラン、君には何か心当たりでもあるのかい?」
「さぁ、オレには何のことだかさっぱりわからないな」
キーランは居心地悪げにコーヒーに口をつけた。それでもエディはキーランと美波から視線を外すことなく、結局、気まずさに押し黙るしかなかった。
「わかったよ。ちゃんと言うよ」
息が詰まるような沈黙が数分続いた後、キーランはマグカップを食卓に叩きつけるように置いた。
「美波に指輪をやった」
アリシアの口から大きな息が漏れ、美波は自分の左手を右手で覆った。
「そんなこと、大して珍しくもないだろう。お前は昔からオレたちに隠れて、美波に色々なアクセサリーのようなものをプレゼントしていたじゃないか」
パトリックが低く抑えた声で言うのに対し、キーランは反射的にパトリックを睨み返した。
「美波にやったのは母さんがくれたニュートンのお祖父さんとお祖母さんの指輪で、要するにオレは美波に結婚を申し込んだんだ」
キーランがゆっくりとそう宣言すると、ブレックファーストカウンターの3人の視線が美波に集中した。緊張感にいたたまれなくなり、美波は身を竦めた。
「それで?」
パトリックがキーランに劣らず抑えた声で聞いた。しばらく逡巡したあと、美波の手に自分の手を重ねて、キーランは顔を上げた。
「だから、もし皆に依存がなければ、オレたちは結婚しようと思う」
「でかしたぞ、息子」
パトリックが大きな声を上げ、新聞を放り出すと、大股で近づき、食卓に座るキーランの頭を抱えた。
「これで美波は名実ともにオレの娘だ。それでお前、結婚式はいつにする?」
キーランは煩そうに自分の父親の顔を見上げるだけだった。
「オレとしては明日、役所に行って、手続きをしてもいけれど」
「あら、それは駄目よ。結婚式は6月にメインでしましょう。昔、エディとフィーが結婚式を挙げたレミントンのホテル、6月の美波の誕生日の頃にいつでも都合をつけてくれるって言っているの」
それまでじっと黙っていたアリシアが急に腰を浮かせて、キッチンの引き出しのひとつから小さなパンフレットのようなものを取り出す。キーランは不満げに自分の母親を見やった。
「母さん、そんなこといつ調べたのさ?」
「東京から戻ってから一度、メインに行ったのよ。それで、その時に、万が一の時のために調べてみたの」
アリシアはにこやかに笑って、パンフレットをエディに差し出す。エディは一瞬躊躇したような表情を見せたが、パンフレットを受け取り、それからキーランの顔をゆっくりと見た。
「話はそれだけ?」
エディに聞かれ、キーランは軽く唇をかみ締めた。それからゆっくりとエディの顔を見返す。
「エディのオファーを受けるよ。今の事務所を辞めて、カワシマに移る」
「日本の会社は4月1日から新年度が始まる。今からで間に合うかな?」
「事務所にはもう2月末日で辞めるってことで話をしている。それでいいだろう。母さんもパットもオレが東京に行くことに異存はないよね」
「あるわけないじゃない。どうせ同じニューヨークに住んでいても、あなたはさっぱり顔を見せないんだもの。東京でエディが目を光らせてくれたほうが安心よ」
言いながらアリシアは立ち上がって、キーランと美波の頬にキスをするとパトリックの隣に並んだ。それで、美波の視線は自然とブレックファーストカウンターにひとり取り残されたエディに吸い寄せられてしまう。エディはアリシアから渡されたパンフレットにしばらくの間、視線を落としていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、いつものように美波に対して優しく微笑みかけた。
「おめでとう、美波。僕もとても嬉しいよ」
「ありがとう、お父さん」
答えながら美波はつい探るようにエディの顔を見てしまったが、エディはそんな美波から逃げるように視線を外して、キーランのほうに顔を向けた。
「キーラン、美波のことをよろしく頼むよ。もっとも、美波がどれほど頼りないのかは、僕よりも君のほうがよく知っているのだろうけれど」
「エディ」
キーランは何かを言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。エディは相変わらず、穏やかに微笑むばかりだった。
「エディ、お前、泣くなよ」
パトリックがやけに明るい調子で口を挟んだ。見ると、口調のわりには、随分と真剣な目をしている。
「娘の結婚がやっと決まって僕が泣くわけがないだろう?第一、これから色々と考えなければいけないことがあるしね。会社の手前、東京でも披露宴ぐらいしないと格好がつかないだろう」
「東京でも結婚式をやるの?」
美波がウンザリした声で聞き返すと、エディは厳かに頷いた。
「そりゃあね。言っただろう。君は僕のひとり娘で、川嶋家の資産を相続できるたった1人の人間なんだから、君が結婚するとなれば会社の重役たちが黙っていないだろうし、会社経営では人付き合いってものがとても大切なんだよ」
キーランが立ち上がって、美波の手を引っ張った。つられて美波も椅子から腰を浮かす。
「もう寝よう、美波。どうやらオレたちの出る幕ではないらしいよ」
パトリックが特有の開放的な声で笑った。
「おい、キーラン。お前、少し慎めよ。お前たち、まだ結婚したってわけではないんだぞ。美波と一緒に寝るなんて、もってのほかだ」
美波の手を握ったまま、キーランは自分の父親に氷のように冷たい視線を向けた。
「パトリック、もういい加減にいいじゃないか。やっとキーランと美波が、自分たちの関係について僕らに正直に話してくれたんだから。それにキーランだって、そろそろ朝方に起きて、ベッドを移ることにはうんざりしているはずだろう」
美波は、エディが妙にリラックスした笑顔のまま、そんなことを言うのをじっと眺めていた。父は親しげな表情を見せていたが、その影には戸惑いのようなものが垣間見られた。美波はキーランの袖を一度強く握ると、ブレックファーストカウンターの背の高い椅子に腰をかけたままのエディの方へゆっくりと近づいた。
エディは歩み寄ってくる美波を見て、不思議そうに首を傾けた。そんなエディに構わず、美波は身を屈めると、エディの唇にキスをした。エディは反射的に息を吸った。もっとも、驚いて息をのんだのはエディだけではなく、その場にいた全員だったような気がする。
「お母さんがね、お父さんのためにこのキスを私に託けていたの。お母さんは約束を守れなくてごめんなさい、でも、お父さんと私という家族を持つことができてとても幸せだったって言っていた」
「フィーが、いつそんなことを言ったの?」
取り憑かれたような調子でエディは美波を見上げて、聞いた。少年のようなエディの傷つきやすさの感覚に、美波は思わず腕を広げてエディを抱擁する。
「お母さんが死ぬ前。警察署の前に車を停めて、お母さんは私のことを抱きしめて、とても優しいキスをくれたの」
「君、いつそんなことを思い出したの?」
そう聞くエディの声は掠れていた。美波は父への愛おしさで一杯になっていく。
「病院で夢を見たの。お母さんがカリフォルニアの家で刺されてしまう夢。あれが本当のことであったのかどうか私には判断がつかないけれど、でも、現実味が一杯の夢で、そして、お母さんはお父さんを心の底から愛していた。だから、私には、あの夢が本当のことであったとしか思えない」
「そう。フィーはそんなことを言ったの」
美波の背中に手を回して、エディは呟いた。美波はエディを抱く手の力を強めた。
「そうよ。ずっと忘れていてごめんね。でも、お母さんは最後までお父さんのことをとても愛していたの。そして、私はそんな風にキーランのことを愛したいと思っている」
「そうだね。君たちには、きっと、それができるんだろうね」
エディは確認するようにそう言うと、名残惜しげに、それでもきっぱりと美波の体から自分の体を引き離し、額に丁寧なキスをした。
「さぁ、可愛い娘、君の大事な人が待っている。もう寝るといいよ」
「そうね。そうするわ。おやすみなさい、お父さん」
美波はエディにキスを返すと踵を返し、キーランの手を握った。
シャワーを終えて、寝室に戻るとキーランは窓辺にもたれて、眼下に広がるニューヨークの町並みを見下ろしていた。ドアが開閉する音に弾かれたように振り返り、美波に手を差し伸べる。美波がキーランの手を取ると、美波の体をすっぽりと自分の腕の中に抱え込んだ。
「この部屋、なんだかとても変わったね」
美波はその昔キーランが使っていた寝室を見回した。今ではキーランの持ち物はすっかり跡形もなく消えてしまい、大きなダブルベッドが置かれた若向きの洒落た部屋に様変わりしていた。
「ああ、オレの持ち物はほとんどアパートメントに移してしまったからな。母さんはこの部屋を客間にしたって言っていたけれど、何だかんだ言って、ダブルベッドを入れたってことは要するにオレたちに使えってことだろう」
「それで、私の部屋はどうなるの?」
「あんな象のぬいぐるみだらけの部屋、子どもの他に誰が使うっていうんだよ」
言いながら、キーランはゆっくりと美波のバスローブの襟元を広げ、美波の右肩に唇をつけた。心地よい刺激が美波の体を駆け抜ける。
「オレはさ、結局、象のぬいぐるみやこの傷跡、それにエディのすべてをひっくるめて、お前のことを愛しているんだろうな」
美波は言葉で答える代わりに、キーランの唇を探して、顔を上げた。それを合図にキーランの手が美波の体を愛撫し始める。この1ヶ月ほど、こうやって、キーランに触れることを何度となく夢に見た。そして、今、夢ではなく、現実のキーランは自分の側にいて、優しく体に触れている。しばらくの間、キスを堪能していると、キーランが美波を抱き上げて、新しいシーツがかかったベッドに横たえた。そうして、長かったクリスマスイブがようやく終わり始めた。
翌朝起きたのは、突然、寝室のドアが開け放たれたからであった。流れ込んでくるざわめきに重いまぶたをこじ開けると、デーヴィッドがドアに寄りかかるように立っていた。
「お前、クリスマスの朝っぱらから人の家で何をやっているんだよ」
美波の体越しに頭を上げてデーヴィッドを確認したキーランが、さも煩そうに言った。同時に美波のウエストの微妙な部分に手を置く。美波は軽く声を立てた。
「朝っぱらって、もうすぐ10時なんだけど。いい加減起きても良い頃だろうし、誰かさんたちのせいで実際、大変な騒ぎになっているんだけどな」
そう言いながらデーヴィッドは、キーランと美波が寝ているベッドに新聞を放り投げた。面倒くさそうに新聞を広げると、キーランはすぐベッドの上で果ててしまった。キーランの反応を訝しく思い、美波が新聞を手に取ると、手をつなぐ自分とキーランの大判の写真がすぐに目に飛び込んできた。服装から判断すると、写真は昨夜、写されたもので、写真の上には「ニューヨークの若手弁護士とカワシマ・グループ社長のひとり娘が婚約」というキャプションがついていた。
「どうしてこんな写真が、今日の朝刊の社交欄に出ているの?」
美波が当惑げに聞くと、デーヴィッドは軽く肩を竦めてみせた。
「ジェンだろう。昨日の夜、キーランがステージの上で美波ちゃんと婚約したって話したから、公表しても大丈夫ってことで、友達のジャーナリストに写真をばら撒いたんじゃないかな」
「何だよ、アイツは。そんなことをしていいとは、オレは一言も言ってないぜ」
「ジェンからしたらさ、おいしいネタだったんだから仕方ないんじゃないの。それに、この新聞記事のせいで、朝からこの家の電話が鳴りっぱなしでさ。仕方ないから、ジェンはエディのプレス・セクレタリーのようなことをしているんだ。だから、あまりジェンにも文句を言えないだろう?」
「なんだよ。ジェンまで家に来ているのかよ」
キーランはほとほとうんざりした声を出し、枕の下に頭を隠した。
「キーラン、アンタねぇ、それは失礼な言い方よ。私とデーヴィッドをご親切に招待してくださったのは、アンタではなくこの家の女主人であるケネディ教授なんだから、子どものあなたが偉そうに文句を言うのはやめなさい」
そこで、タイミングよくジェニファーが口を挟む。ドアの隙間から顔を覗かしたジェニファーは、右手にはエディの携帯電話を握り締めていて、左手にはこの家の電話の子機を手にしていた。美波は一遍に頭痛を感じ、柔らかな毛布の下に隠れた。
「ジェン、冗談じゃないぜ。お前ら、たまには自分の家でクリスマスの祝いぐらいしろよな」
「残念でした。オレもジェンも家族なんていないも同然だからね。お前の家に来るしかあてがないんだ」
デーヴィッドがあっさり言い返すと、キーランは無造作にドアに向かって枕を投げつけた。
「お前ら、もうちょっとの間、消えていろよ。せっかく美波と久しぶりに会ったっていうのに、たまにはふたりきりにしてくれてもいいだろう」
デーヴィッドとジェニファーは陽性な笑い声を立てて、ドアを閉めた。その直前に、ふたりともそろそろ起きなさいというアリシアの柔らかい声が滑り込んでくる。キーランはうなり声を上げると、美波をぎゅっと抱きしめ、胸元に唇を押し当てた。
美波とキーランがやっとのように起き出して居間に出て行くと、エディは耳に当てていた受話器を一旦置き、じっくりと美波と顔を見て、今日はまた随分とのんびりしていたんだね、と呆れ声で言った。美波が照れて下を向いて笑うと、エディも柔らかな笑顔を見せて美波の頬にキスをし、再び電話に戻っていった。電話の相手は日本の取引先の会社か官庁の人間らしく、親密なパトリックの家では場違いなエディの慇懃な日本語に、美波は不思議な思いで耳を傾けた。
その日の午前中だけで、家のキッチンと居間は祝いの花束やらカードなどで埋め尽くされてしまった。午後になるとそれに多くの人が加わった。ニューヨークに住むパトリック、アリシア、キーランの友人、近隣の人びと、同僚たちが、美波とキーランに祝いを言うために次々と家を訪ねてきた。 そのうちにきっちりとスーツを着込んだ川嶋USの社長がせわしい様子で現れ、エディに今日は休日返上ですよと苦笑いをしてみせた。
マックス・シェーファーは午後半ばに現在のパートナーとリラックスして様子で現れ、エディとパトリック、キーランとシェリーを飲み、しばらくして上機嫌で帰っていった。何を話していたのとこっそり聞くと、キーランは軽く肩を竦めて、利益の分配と短く答えた。
慌しかった休日が終わりかけた頃、エディの携帯電話が鳴った。エディは液晶を確認してから電話機を耳に当て、それからさりげなくソファから立ち上がり、居間を出て行った。しばらくしてアリシアが新しいコーヒーのポットを持って来たので、美波はエディに知らせるために寝室のドアをノックした。まったく人の気配がしないので不振に思いながら居間に戻ろうと廊下を歩いていると、窓からエディの顔がちらりと見えた。そっと窓に顔を張り付けて覗くと、刺すような12月の厳しい寒さの中、エディはテラスでまだ電話機に向かって何事か話しかけていた。自分と一緒にいる時とは明らかに異なるエディの親しさに溢れた表情を暫くの間観察し、それから美波は黙ってその場を立ち去った。暖かく、心地よい居間のソファに腰掛けながら、美波は少しだけ考えた。パリの彼女が、この家族的な時間に加わることは将来あるのだろうか。
翌日、キーランは美波とエディと一緒に、東京行きの飛行機に乗り込んだ。聞けば、新年の5日まで休暇をとったと言う。パトリックとアリシアは、エディがクリスマス・プレゼントとして手配したパリの休暇に向けて、同じような時間にニューヨーク空港を飛び立つ手はずとなっていた。昔からエディはクリスマスプレゼントとしてふたりに休暇をアレンジし、それで美波とキーランはひとり残されたエディの時間潰しの相手に明け暮れることになる。エディとキーランの傍らでパトリックとアリシアと別れの挨拶をしながら、美波はすっかり昔に戻ったような気持ちになっていた。
松濤の家に一歩足を踏み入れるなり、キーランは大きな息を吐いて辺りを見回した。それでも、現在、美波が寝室として使う部屋で荷解きをし、シャワーを浴びるとそれなりに落ち着いたようで、その後、ふたりで家の探索に出かけた。休暇中に右翼の改装工事は終わっていて、以前、関谷の人々が住んでいた2階部分はエディのための現代的な趣味の良いアパートメントのようにすっかり様変わりしていた。まぁまぁだねと広々とした新しいリビング・ルームを見渡すエディに、これならお父さんのガールフレンドを連れてこられるじゃないと思わず言うと、エディは少年のような戸惑った表情で美波を見返した。横でキーランが明るい笑い声を立てた。
赤坂では政治家や大企業のご用達である有名ホテルの地下駐車場へのスロープを車が下り始めた瞬間、美波は突然、緊張を感じてブルッと震えた。そんな美波の手を右隣に座っていたエディは苦笑して軽く握り、左隣のキーランは覗くような視線を向けた。美波は曖昧に微笑むと、軽く深呼吸をしてみた。もともと、川嶋の会社関係のことはとても苦手だった。その上、この日は、関谷久夫に関連したごたごたの後、自分とキーランの婚約が公になってから初めて、エディとキーランと一緒に川嶋の会社の重役たちの前に立つことになる。緊張するなという方が無理な注文だった。
車が停まると、どこからともなくエディの秘書の岸田をはじめ、スーツを着た多くの男たちが集まって来た。エディに続いて美波が車を降りると、周囲の男たちから次々とおめでとうございますと言われた。美波はそういった男たちに対し丁寧に頭を下げ、エディの後についてキーランとともにエレベーターに乗り込んだ。
岸田に導かれて川嶋グループの仕事納めのパーティ会場に入ると、すぐにカメラのフラッシュが焚かれ、自分たちに集中する視線を美波は嫌でも意識せざるをえなかった。エディは半歩進むごとに挨拶しなければいけない人間に捉まり、そういう人びとに美波とキーランを丁寧に紹介して回った。それで美波は官僚やら、政治家やら、政治家の二世といったよく似た感じの大量の男たちと知り合うこととなった。自分の周りの人ごみのボリュームに、美波の頭はすぐにぼやけ始めて、人垣の隙間から寺崎と芳賀暁のお馴染みの顔が覗いたときには心底、ホッとしたものだった。
川嶋グループのパーティ会場で、美波をとても驚かせたことがふたつあった。まず、パーティ会場の多くの者が、随分と前から美波の存在を知っていたという感じで、とても自然に美波に接したこと。美波と面識があった歴代の秘書たちや川嶋USの社長を勤めた重役たちだけではなく、他の多くの者も美波のことをお嬢さんと呼び、関谷の家とのごたごたなどまるでなかったように振る舞っていた。しかも、そんな混乱した美波の横でキーランはとてもリッラクスして、周りの男たちと日本語で談笑していた。キーランは火星に飛ばされても生きていけるんだ。美波は再び強く確信していた。
パーティが終盤に差し掛かった頃、岸田がエディに軽く耳打ちをした。エディはにっこりと笑って応えると、美波の肩に手をおいてから、パーティ会場の奥に設置された壇上に駆け上った。
「本年は川嶋グループにとりまして戦後最大の危機の年となりました。特に前社長である関谷久夫の逮捕という事態に至ったことにつきましては、皆様には多大のご心配を掛け、現社長としては再度、真摯にお詫びする次第であります」
軽い前置きの後、エディは硬い表情のまま数週間前の記者会見の時と同じように丁寧に謝罪のために頭を下げて見せた。美波はやっぱり気恥ずかしく感じていたが、とりあえず愁傷に俯いた。その途端、会場のあちらこちらでフラッシュが焚かれ、自分が川嶋家の身内としてしっかりと認識されていることを思い知らされる。
「事件の全容が明らかにされるまでには今後も徹底した捜査が進むわけですが、その過程で川嶋グループはより厳しい追及と非難を受けることになると予想されます。したがって、川嶋グループの危機は今しばらく続くことになります。この苦難の時期を、川嶋グループは一体となって克服していかねばならず、そのためにも皆様には一層のご尽力をお願いしなければなりません」
そこでエディは一息つくと、会場をゆっくりと見渡した。美波は壇上のエディの顔にふいに穏やかな笑みが浮かんだのを見て不思議な思いに囚われていた。
「新しい年は、したがって、川嶋グループにとって試練の年であると予想されるのですが、とはいえ、そこに希望がないとは言えません。私事で恐縮ですが、先日、娘が、やっと結婚することを決心してくれました。娘のことは、彼女の母親が死んで以来、私にとっては最大の心配の種だったもので、周囲の者を長い間、さんざんヤキモキさせた上でふたりが結婚すると決意したという報告を聞いて、私は肩の荷が下りたようにも感じたのですが、同時に父親としてひとり娘が結婚するという事実に直面し、大きな喪失感を感じずにはいられませんでした。しかしながら、そのうちに、娘の結婚は、川嶋の家にとって家族が大きくなることを意味しているということに気づきました。娘が夫を得ることで、私には将来有望で、大変頼りになる義理の息子ができるわけですし、やがて生まれてくるふたりの子どもたちは、長年続いてきた川嶋の家を将来に繋げてくれることになります。つまり、娘の結婚は川嶋の家にとって、未来への大きな可能性を拓いてくれることになります。そう考えると、私にとっての娘を失うという危機は、未来のための希望でもあるのではないかと思えてきます」
美波から見てもとても魅惑的な表情でそう言うと、エディはきっちりとスーツを着込んだ女性従業員によってタイミングよく差し出されたワイングラスを手に取った。
「今回、元社長であった関谷久夫に関わる様々な疑惑が事件化され、表沙汰になったことによって、川嶋グループは確かに大きな打撃を受けました。しかし、これはグループの深部にこれまで隠され続け、溜まってきた膿を取り去り、新たな出発をするための絶好の機会であるとも言えます。ですから、今、私たちがやらなければならないのは、再生のために必要なこの痛みを引き受けて、川嶋グループの更なる発展のために邁進することであり、本年の苦難はそのための第一歩であったと考えることもできるでしょう。ですから、今日、この場をお借りして、本年の皆様のご尽力に深く感謝し、今後の一層の発展へと向けて乾杯させて頂きたいと思うのであります」
そこで、エディは、いつものように、とてもスマートな感じでワイングラスを軽く掲げてみせた。エディの動きに合わせて、美波の周囲の者たちも高々と自分のグラスを宙に掲げる。
「それでは、川嶋グループの更なる成長と飛躍を願って、乾杯!」
エディの掛け声に合わせて、あちらこちらでグラスを合わせる音がし、パーティ会場の者たちは皆、会釈をし合い、グラスに口をつけた。乾杯騒ぎが一通りの落ち着いたところで、美波はそっとキーランの耳元に囁いた。
「あんなこと言って、お父さん、私とキーランの子どもは80パーセント以上アメリカ人だって気がついているのかな」
「そんなこと、あの人にとってはどうでもいいんじゃないか」
ワインを口に含みながら、キーランは興味なさそうに言い捨てた。美波が少しだけ額に皴を寄せると、キーランは相変わらずワインを飲みながら早口で説明を始めた。
「少し前にさ、何でエディと関谷久夫があれだけ対立しなければならなかったのかって不思議に思って、本人に直接聞いてみたんだ。そしたらさ、エディとしては、そりゃあ理由は色々あったわけなんだけれど、多分、エディが最も気に入らなかったのは、関谷の人種潔癖主義みたいなところで、エディはさ、関谷が川嶋の家の血統をより日本的にするために絵梨子さんとの結婚をエディに強要したことを信じられないくらい馬鹿げているって身もふたもないような言い方で切り捨てていた。国籍なんて税金を払って、よろしくやるだけの便宜上のものでしかないのにねって。エディはさ、実際、5ヶ国語を話して、子どものころから自由に外国を行き来してきたわけで、だから国籍なんてものはどうでもいいんだろう」
「キーランはどう思うの?」
美波がわりと真剣な視線を投げかけると、キーランはワイングラスの隙間から、そんな美波をとても優しい視線で捉える。
「オレはお前がいればいいよ。自分の家族がいるところがオレの住む場所で、それがどの国だろうが関係ない」
キーランの確信のこもった言い方に、自然と美波の顔に微笑が浮かんでいく。そんな美波につられるようにキーランがワイングラスを左手に持ち替え、そっと美波の手を握る。その時、背後から、慣れ親しんだ大きな手が美波とキーランの肩を抱いた。驚いてふたりしてほぼ同時に振り返ると、エディが美波とキーランに対して相変わらず魅惑的な笑顔を向けていた。
「ふたりとも悪いけれどね、僕らの写真を撮りたいんだそうだ。付き合ってくれるかな?」
「私たちの写真?」
「そう。僕の新しい家族の写真」
言いながらエディは数メートル先に立っている重装備のカメラマンを示す。多少気後れしながら、それでもエディと一緒に美波はカメラマンの方を向いた。カメラマンは、エディを挟んで美波とキーランが両脇に並ぶ様子を丁寧にカメラに収めると、ファインダーから目を離して慇懃な笑みを浮かべた。
「川嶋社長、家族とともに再起の誓いっていうタイトルはどうですか?」
美波が思わずクスリと笑うと、エディがふわりと美波の肩を抱き、澄ました調子で悪くないねと答えた。
「美波、病院に着いたよ」
遠慮がちに、それでもかなり強い調子で、エディが美波の体を揺さぶった。遠くからキーランがそんな調子じゃ美波は起きやしないよと言うのが聞こえる。それで、美波は緩慢に瞼を開け、朝の光の眩しさにエディの肩に再び顔を埋める。
「お前って、本当によく寝るヤツだよな。高速に入った途端、眠り込んでここまで気がつかないんだもんな」
美波の側のドアを開け、キーランが身を乗り出して、軽く美波の頬を指で弾いた。
「ほら、今日から仕事に復帰だろう。しっかりしろよ」
「そうだよ。復帰第一日目から遅刻するのはよくないよ」
両脇からキーランとエディにそんなことを言われ、美波は仕方なく体を起こすと、軽く頭を振った。車での移動は、眠気を誘うものだ。しかも朝の5時に叩き起こされて、船で海を散策した後、高速を飛ばして東京に戻って来たとなればなおさらだ。
「お前の仕事に間に合うように、オレは伊豆からノン・ストップで運転して来たんだぜ。お前は気楽にエディにもたれて眠り込んでいたけどな」
「僕の方は、君の運転の仕方を見ていて、買い換えたばかりの美波の車で事故を起こすんじゃないかって心臓麻痺を起こす一歩手前だったけれどね。パトリックよりも荒っぽい運転する人間は息子の君以外にはいないんじゃないか」
苦笑交じりのエディのコメントにそれはないだろうと抗弁しながら、キーランは美波にまだ暖かいテイクアウトのコーヒーのカップを握らせる。
「それをやるから、さっさと降りて仕事に行くんだな。オレとエディだってこれから予定があるんだ。だから病院の玄関前でぐずぐずしてはいられない」
「日本はすっかりお正月なのにふたりは何をするの?」
まだ判然としない頭でコーヒーを啜りながら聞くと、美波の横でエディは忍耐強い微笑みを浮かべる。
「毎年、2日には年始の挨拶のスケジュールが朝からびっしり詰まっているだろう。この数年、君は研修医として年末、年始なんてなかったも同然だからすっかり忘れてしまったのかな?」
そうだった、忘れていた。ニューヨークから東京に移住してからも、美波はクリスマスと新年をニューヨークで過ごすことの方が多かったが、それと言うのも、通常、年始年末の会社関係のスケジュールをこなすためにエディが大変忙しいためであった。美波が日本にいると、それでも、仕事納めの翌日にエディのご贔屓の伊豆に小休暇に出掛け、東京の慌しさから逃れて新年を迎えたが、ゆっくりできるのも1日までであり、いつも2日の朝早くに伊豆を出発して東京に戻ってきていた。つまり、新年早々仕事をしなければならないのは美波だけではない。だから、今日のところは休日出勤することを気にする必要はあまりないようだ。美波は多少気を良くして、コーヒーをもう一口、口に含むと、エディの頬に柔らかくキスをした。
「それじゃお父さん、私は行ってくるから。お父さんもお仕事お疲れ様だけれど、今日は定時勤務だから、夜ご飯は一緒に食べましょうね」
「わかっているよ。仕事が長引いてお腹を空かせているだろう君を見捨てないで待っているから、しっかりやっておいで」
クスクス笑いながら美波の額にキスを返して、それでもエディは早く行くように美波の肩を軽く押しやる。それで、美波はドアの外に立っていたキーランの手を借りて、車高の高い四駆自動車を飛び降りた。
「外での約束のついでに帰りは迎えに来てやるから、ちゃんと待っていろよ」
「わかりました」
「じゃあな。休みボケで、あんまりポーとするなよ」
「大丈夫。でも、お父さんのことはお願いね」
言いながら軽く唇にキスをすると、キーランはゆったりと笑い、いつものように美波の髪をクシャリと撫ぜた。そういうキーランの反応に勇気づけられ、美波はいつになく確信を持って病院に向かって歩き出す。数メートル進んだ後でふと振り返ると、エディが運転席に乗り込み、車を発進させようとするところだった。大胆としか形容できないキーランの運転に、伊豆から新宿までの間、エディは本当に心配したんだろうなと思うと、ついおかしくて、美波はひとりでに笑っていた。
この数日、エディは人前で遠慮なくキーランのことを自分の息子のように扱えることをとても楽しんでいるようだった。多分、今日は年始の挨拶に出かけた先々で、嬉しそうにキーランのことを紹介して回るのだろう。エディにとっては、一度は失われてしまった息子との時間。美波はそんなエディの様子を見て、単純に嬉しく思っていた。そして、キーランもエディに付き合うことが満更でもないようで、川嶋家のささいな家族ごっこは今のところとても上手くいっていた。
久しぶりに白衣に着替え、大量の土産を持って廊下をゆっくり目にと歩いていると、看護師の青木が大層な勢いでこちらに向かって走ってきた。美波の顔を認めて、青木は手を大きく振る。嫌な予感に囚われて、美波は立ち止まった。
「川嶋先生、丁度よかった。今、呼びに行くところだったんですよ」
勢い余った青木は美波の肩につかまってようやく立ち止まり、その途端、肩で大きな息をして俯く。この様子では確実に緊急事態だ。
「なぁに、交通事故かなんか?」
「そうなんです。信濃町方面の玉突き衝突で、こちらに重傷者が4人搬送されてくるそうです」
「4人もなの?お正月なのに?」
「お正月だから、交通事故なんですよ。皆、運転するのに寝不足か、酔っ払っているか、浮かれているか、あるいはそのすべてをひっくるめてかなんだから。昨日から交通事故ばっかりです」
青木の必死の報告に、美波は小さくため息を吐いた。とうとうあの嵐のような時間が再び始まったのだ。
「救急部には浜口先生独り?」
「そうです。でも、外科から八代先生に応援を頼んで、もうすぐいらっしゃるはずです。だから、先生もなるべく早く待機してくださいとのことです」
美波はすっかり諦めた気分で、青木に対し大事に持っていた土産の袋を差し出した。
「それじゃ、これ、頼めるかな。皆に頼まれていたお土産」
青木は満面に笑みを浮かべて飛び上がる。その素直な反応に、美波はつい苦笑してしまう。
「やったね。先生、頼んだスカーフ、ありました?」
「あったけれど、あのスカーフを頼まれたのは青木さんだけではないのよ」
「わかっていますって。鈴口と藤原でしょう。このお土産のことは私たちでちゃんと管理しておりますから、先生は早く浜口先生のところに行ってあげてください。今頃きっとストーブの上のやかんみたいになっている」
青木の浜口に対する描写は、実際、とても正確であるように思えて、美波はじゃあ後でねと素早く言ってから、弾かれたように救急部に向かって走り出した。その途端、青木が先生、復帰、おめでとうございますと声を掛けた。美波は一瞬だけ振り返って、青木に対して手を振った。
手洗いを済ませて搬送口に出て行くと、浜口は文字通り苦虫をつぶしたような顔をして煙草を吸っていた。ストーブの上のやかんというよりは、棘だらけの雑草を踏んだ子どものようだった。救急車のサイレンが微かに聞こえたが、到着までにはまだ数分はありそうだった。
「おっ、川嶋先生、間に合ったな。よかったよ」
美波の顔を見て、浜口は煙草を投げ捨てる。
「重傷者4人だそうですね」
浜口の足元で踏み潰された煙草の吸殻を何となく目で追い、美波は聞く。どうも浜口は相当緊張していたらしく、右手が無意識のうちに新しい煙草を求めて白衣のポケットを探っている。美波は、その時、自分がもう長い間、煙草を吸っていなかったことを思い出した。
「多重複雑骨折が2名。他2名は、一人が頭部強打、もう一人は胸を強打したらしい。ただ、どれも致命傷ではなさそうだ」
「大事がないといいんですけれどね」
浜口の横に並んで、風に乗って流れてくるサイレンを辿るように前方に視線を向けると、浜口は突然のように美波の顔をじっと見た。
「それで、ニューヨークでのクリスマスっていうのを、やっぱりそれなりに楽しんだのかい?」
美波は驚いて浜口の顔を見返した。
「お蔭様で。久しぶりでしたから」
「それで、君は、結局、あのキーラン君と結婚することにしたんだよな」
何気ない浜口の言い方に、美波は一変で緊張し、頭を下げる。そうだった。病院にキーランと婚約したことを報告することをすっかり忘れていた。
「ご報告が滞ってしまって申し訳ありません。そのことについては、直接、浜口先生とお会いした機会にゆっくりお話しようと思っていたものですから」
美波の調子に、浜口は照れたような笑顔を浮かべた。
「いいよ。年末に君の有名なお父さんから直接電話を頂いて、仕事を再開した時に君から直接報告があるだろうけれどと前置きをされながら、大変にご丁寧なご挨拶を頂いているから」
美波は浜口にわからないようにそっと息を吐いた。さすがに、エディ。渉外関係についてはぬかりがない。浜口は美波の反応をじっくりと観察した後、次のことばを言い出しかねたように俯いた。美波は浜口の視線の先を追った。軽い咳払いをしてから、浜口は早口に聞いた。
「それで、君は医者を辞めて、川嶋の奥様におさまっちまうわけではないんだろう?」
「まさか」
即座にはっきりと否定してみせる美波に対し、浜口は多少驚いたような表情を見せたが、すぐに笑い始めた。家のビジネスから距離を取るということはそんなにおかしいものかなと美波は首を捻る。
「でも、浜口先生、私にビジネスのことはよくわかりませんから、川嶋の奥様なんてものを務めるのはとても無理です」
「いや、悪かった。それならば、いいんだ。こっちとしては、君の療養中に救急部での君の存在の重要さを実感したもので、これで君に結婚退職されたらどうしたらいいのかと考え込んでいたんだ」
必死に言い訳をする美波の肩を快活に叩き、浜口は答える。その時、急に爆発するようなサイレンが辺りに響き渡り、最初の救急車が駐車スペースに入ってきた。後続の救急車も後に続いているようだ。
「やっとお出でなすったな。川嶋先生、君、ビジネスはわからなくても骨折は大丈夫だろう。だから骨折の方を頼むよ」
「わかりました」
浜口がやけに機嫌よさげに冗談交じりの指示を出している間に救急車は乱暴に停車し、後部ドアが勢いよく開けられる。美波は浜口と同時に、引きずり出されるストレッチャー目掛けて駆け出した。忙しい一日の幕開けであった。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。美波とキーランのふたりが納得のいく形で落ち着くことができるようにと考えているうちに、とても長い話になってしまいました。最後まで見届けてくださった方には、感謝しかありません。ありがとうございました。




