第12章
「それにしても、大きくて、立派な家だな」
周囲をゆっくりと見回して、寺崎は声をうわずらせてそう言った。寺崎の横の芳賀しのぶもあまり落ち着かないようだった。そんなふたりの様子に思わず苦笑が誘われ、自由になったばかりの右手を使って、慎重にコーヒーを人数分の茶器に注いでいた美波の手元が微かに乱れた。すぐに心配げに見守っていた家政婦の澄江が、お嬢様、大丈夫ですかと聞く。美波は笑ってごまかした。
「ねぇ、今日は泊まって行ってね。ちゃんとお夕飯も、客間も準備してあるんだから」
茶器を盆に載せてソファセットまで運び、寺崎と芳賀しのぶ、芳賀暁、それから菜穂に粗相することなく振まうと、ソファの端に腰を下ろし、美波は自分もコーヒーカップを手に取った。一見して高価そうな茶器の行く末を心配してか、美波の横でハラハラしながら見守っていた澄江は、安堵の笑顔を見せて、その場を後にした。
「私たちなんかが泊まったりしたら、川嶋のおじ様にはお邪魔じゃないのかな」
自分の横に座った美波の右手をいい様に動かして遊びつつ、菜穂が聞いた。腕を吊っていないことが珍しくて仕方がないらしい。
「お父さん、昨日と今日は泊まりなの。明日の午後まで戻らない予定よ」
「社長、週末なのに出張かなんかですか」
そう興味深げに聞いたのは、芳賀暁だった。検察を辞めた後、しばらくの間、仕事をしていなかった芳賀暁は、今週から川嶋コンサルティングで弁護士業のアルバイトを始めた。双方が納得すれば、4月から正社員になるという話もあるらしい。これでまた、エディのことを社長と呼ぶ人間が増えるわけである。
「表向きはね、伊豆にある川嶋都市計画の元リゾートマンションを高級老人ホームに改築するから、その下見だって言うんだけれど」
芳賀の質問に、美波は思わずため息えを吐いてしまっていた。それで、菜穂がクスリと笑い、あとの3人はきょとんとした表情を見せる。
「表向きって、どういうこと?」
寺崎が美波と菜穂の顔を交互に見ながら聞いた。菜穂は笑うばかりで、美波は肩を竦めた。
「つまりね、本当のところは、デートだと思うの。きっと、ガールフレンドがパリから来ているのね。それで、お父さんは彼女と親密な時間を過ごすために、どこかに泊り込んでいるんだけど、それを私にははっきりとは言えないから、出張ってごまかしたんだと思うの。だから、お父さんが本当に伊豆に行ったのかどうかはわからないわけ」
「でも、川嶋さんは出張っていう社長の嘘をちゃんと見抜いているわけですよね。それで、何も聞かないんですか?」
「だって、何て聞いていいのかわからないじゃない。でもね、今回はちょっと意地悪をしたの」
「意地悪ってなによ?」
菜穂がさも可笑しそうに、美波の手の甲を数度軽く叩いた。
「お土産にわさび漬けを買ってきてねって頼んだの」
「わさび漬けぇ?」
菜穂は堪らずに大爆笑を始めた。美波もつい笑い始めてしまったが、事情がよくわからない残りの3人は顔を見合わせるばかりだった。
「わさび漬けで、何がそんなにおかしいわけ?」
菜穂と美波が少し落ち着くまで辛抱強く待ち、寺崎が尋ねた。美波は、寺崎の質問に答えようとして、こみ上げてくる笑いに声が出せず、かなり苦労してしまった。
「多分ね、お父さんはわさび漬けなんてものは知らないと思うの。それでも、私が頼んだから、伊豆に行ってはいなくても、きっと苦労して探して買って来るんだと思う。それで、実物を見て、かなり驚くんじゃないかな。あれ、かなり臭うしね。わさび漬けを買いながら、どうして私があんなものを欲しがったのか、頭を捻っているはずよ。正直言って、私だって、寺崎君に食べさせてもらった時、びっくりしたもの」
美波が一通り説明すると、依然として笑いながら菜穂が美波の脇腹を突く。
「アンタって、本当に親のありあまる愛情に甘やかされた傲慢なひとり娘よね。そうでしょう、寺崎君?」
「確かに、かなり意地が悪いかもしれない。川嶋さんのお父さんが可哀想な気もするな」
珍しく寺崎が菜穂に同意した。
「でも、今回の出張がデートだって、川嶋さんにはどうしてわかったのかな?あれだけ忙しい人なんだから、実際、仕事なのかもしれないだろう」
「そりゃあね、色々と証拠になるようなことがあってね。パリの彼女とはもう20年来の仲で、毎年12月にはヨーロッパ出張に出かけて、よろしくやっていたみたいなの。でも、今年はゴタゴタしていたでしょう。だから、どうするのかなって思っていたら、先週、突然、伊豆の出張の話をし始めて、しかも私に隠れて宝石屋さんに行ったりしていたから、ああ、彼女が日本に来るんだなって察しがついたわけ。それで、明日、ドレスの箱を抱えて戻ってきたら、これはもう絶対にデートなの」
「ドレスですか?」
「彼女、ファッション・ジャーナリストなのよ。だから、彼女に会うたびに、お父さんは彼女に勧められt洋服を私に買ってくるの」
芳賀しのぶが大きな息を吐いた。
「何だか、川嶋の社長さんって本当に素敵なお父さんなんですね」
「どうかしら。だって、あの人、すっかり独身の生活様式が身についちゃって、菜穂やしのぶちゃんのお父さんたちみたいに落ち着いていないし、いい年をして、女性へのアピールがどうも過剰気味だし」
「要するに、同性としては、とことん迷惑な存在ってわけだ」
寺崎が腕を組んで唸った。そんな寺崎に、横から菜穂が、寺崎君はそもそも比べる対象にはならないから、大丈夫よと口を挟む。その途端、芳賀暁が笑い始めた。
「実際、そういうことらしいですよ、先輩。このところ、うちの父に若かった時の川嶋社長の話を聞く機会が何回かあったんだけれども、父の話からすると、川嶋社長っていう人はかなり独特ですから。例えば、ざる蕎麦の話なんか、傑作ですよ」
「ざる蕎麦って、何のこと?」
エディとざる蕎麦はまったく合わないなと思いつつ美波が聞くと、芳賀暁はチャーミングな笑顔を見せて応えた。
「まだ社長が川嶋で働き始めたばかりの頃で、うちの父が当時、川嶋電機の常務だった川嶋社長の秘書のようなことをしていた時のできごとなんですけれどね」
「それはお父さんからも聞いたことがある」
「その頃にですね、一時期、東京の下町にある川嶋電機の下請工場を頻繁に挨拶して回るようなことをしていたらしいんですけれど、社長はああいう人だから、町工場の工場主のような人たちとは水と油で、間に入っていた父には色々と面白い経験をしたみたいなんです」
「どういう状況か、想像つくような気がする」
美波は、病院をしばしば訪れる新宿の裏通りにある店の店主たちや、ヤクザたちのことを思い浮かべながら言った。ひょっとしたら、自分にはあまり笑えない話かもしれない。
「それで、ざる蕎麦っていうのは、具体的にはどういうことなんだよ」
「それがですね、ある工場で丁度、お昼時だったからと麦茶とざる蕎麦がふるまわれたそうなんですよ。暑い日だったし、その日はその後、まだ数件回らなければいけなかったので、先方も気を遣ってのことだろうと思い、父は早速、箸を割ったそうです。ところが、川嶋社長はそんな父をじっと見ているだけで、まったく動かない。それで父は小声でどうしたんですかって聞いたそうです。すると、川嶋社長は父の耳元に口を寄せて、これ、食べ物なの、どうやって食べるのって真剣に聞いたって言うんです」
芳賀暁がそこまで言った途端、菜穂も寺崎も堪えきれずに噴き出した。話をしている芳賀暁自身も、よほどおかしいのか、体を揺らして笑っているし、平生はとても礼儀正しいしのぶまでもが、俯いて笑っている。そんなことだろうと予想していた美波は、額に手をやった。
「それで、川嶋のおじ様はざる蕎麦なんか食べたのかな」
「まぁ、聞かれた父の方では、ざる蕎麦を見た事がなかったり、食べたことがないっていうのは想像を絶したことだとは思ったようですけれど、それでも川嶋社長のことだからと思い直し、社長に自分の真似をするようと言って、いつもよりも丁寧でゆっくりとした動作でざる蕎麦を食べてみせた。社長はそんな父をじっと見ていて、それから、多少、苦労しながらも父の手順を慎重に辿るようにざる蕎麦を口に含んだ。ところが、その途端、社長の顔が強張って、喉を詰まらせてしまったらしいんです。それでも、社長は何とか蕎麦をのみ込んで、麦茶に手を伸ばして一口、飲んだんですけれど、それでまたすぐに咳き込み始めてしまった。父は状況に圧倒されて、とりあえず箸をおいて社長の背中をさすり始めた。川嶋社長もその時は、かなり必死だったようで、口元をハンカチで拭うと、思わず英語でit tastes like sewageと言ったそうです。ただ、言ってしまってからやっぱりまずいと思ったのか、父と工場主の顔を交互に見て、非常に美味しいですとしどろもどろになって取り繕った。もちろん、工場主には英語は分かりませんから、父は笑ってごまかすしかないと思い、本当に美味しいと相槌を打って、それからふたりともざる蕎麦をかきこむように食べたと言っていました。工場主は何かがおかしいとは思ったようですけれど何も聞かず、社長はざる蕎麦をすべてのみ込むように食べて、早々にその工場を辞去したそうです。それで最寄りの駅まで何とか辿り着くと、社長はトイレに駆け込んで、ひどく吐いたようですね。だから、社長はとても礼儀正しいし、頑張る人だけれども、根本的に日本の庶民の生活は体質的に合わないんだっていうのが父の結論です。つまり、庶民の女性では、社長の相手は務まらないっていうわけですね」
芳賀暁がすべてを語り終えてしまっても、菜穂と寺崎は依然として顔を見合わせて大笑いをしていた。美波にはふたりが何を考えているのか、手に取るようにわかった。
「やっぱり親子なのかな。同じようなことがあったよね、川嶋さん。まだ知り合って間もない頃、一緒に昼を食べようって学食に行った時、オレの友だちが食べているかき揚蕎麦を見て、これがお蕎麦なんだ、テレビの時代劇以外で見るのって初めてなのって言ったじゃないか。オレもその友だちもびっくりして、何て答えたらいいのかわからなかったもんな」
「それで、寺崎君、私のところに電話してきたのよね。もっとも、美波ってもしかして少し変わっているなんて聞くから、寺崎君の方がどういう神経しているんだろうとも思ったけど。美波は見た目からして大いに変わっているとしか言いようがないじゃない」
「放っとけよ」
寺崎が軽く睨むと、菜穂は悪びれず、屈託なく笑った。要するに、寺崎も菜穂も相当なもので、類は友を呼ぶというのは正にこういうことなのだろうとは思ったのだけれども、美波は鼻に皺を寄せたままで黙っていた。
「確かに食べ物ってやっかいなのよね。美波が遊びに来た時、お母さんは私から色々と聞いていたから、外国の人にはすき焼きよねって、イギリス時代に習得した変な偏見ですき焼きの用意をしたんだけれど、美波は食卓に生のお肉が並んでいるのを見てびっくりしちゃったし」
「だって、テーブルの上でお料理して食べるのがデリカシーだなんて知らなかったんだもの」
美波が言い訳すると、菜穂はいつもにも増して包容力のある笑顔を見せた。
「だからさ、美波もおじ様みたいに頑張って、日本の生活の仕方をそれなりに学習したじゃない。今でもさ、お嬢様すぎてかなりズレているところがあるけれど、それでもちゃんと働いていて、同僚の人と仲良くやっているんだから、でかしたってものよ」
菜穂は腕を伸ばして美波の肩を抱くと、美波に対してウィンクして見せた。言いたいことを言ってくれてと、そんな菜穂のことを睨もうとして、結局、美波は笑い始めてしまう。その時、ああと、寺崎が大きな声を出した。
「日本の生活の仕方で思い出した。忘れないうちに、これを渡しておくね」
そう言いながら、寺崎は厚手の大きな封筒を2通、美波に対して差し出す。
「なぁに?」
美波は封筒を受け取りと、じっと見つめた。
「オレたちの結婚式の招待状。3月だからね、仕事の方をちゃんと調整しておいてくれよ」
「結婚式の日にちが決まったの?おめでとう」
美波は声を弾ませて、しのぶの手を握った。対して、しのぶは何となく遠慮がちに俯いてしまう。
「どうしたの?」
思いがけないしのぶの反応に、美波が背筋を伸ばして尋ねると、しのぶは複雑に笑って見せた。
「なんだか賢一さんに迷惑をかけているみたいで」
「やめろよ。お前が心配することは何もないって言っただろう」
珍しく怒ったように、寺崎がしのぶに対して言い放った。状況が見えず、美波は菜穂と芳賀暁の顔を見る。菜穂がなだめるように、美波の手の甲を摩った。
「あの事件で、結局、芳賀さんは刑事訴追されたわけでしょう。つまり、犯罪者ってわけよね。対して、寺崎君はエリート警察官だから、そういう人の娘と結婚することに対しては色々と詰まらないことを言う人もいるのよ」
菜穂の説明に、美波は驚いて寺崎の顔を見た。寺崎は憮然としたように、美波を見返した。
「くだらない陰口なんだ。あの事件は、最後には芳賀さんの証言なしには解決できなかったって言うのに、起訴されたってだけで色々とあることないことを言うヤツがいる」
「でも、先輩、捜査2課から配属が変わるんですよね」
芳賀暁も心配そうに聞いた。寺崎は頭を振った。
「来年9月には長期のFBI研修に出ることになるんだから、その都合だろう。新しい配属先は国際犯罪関係の部署なんだから、オレにとっては願ったりってところだね」
「だったら、いいんですけれど」
芳賀暁は寺崎の答えに対して、割り切れないような表情を見せた。美波はその場の全員の顔を順繰りに確認して、招待状を開けた。素早く目を走らせると、宛名はキーラン・ケネディと書かれている。2度その箇所を読み直して、招待状から目を上げる。
「これ、キーラン宛よ」
「そう。それで、もう一通が川嶋さん宛。ひょっとしたら、ふたりには一通でことが足りたのかもしれないけれど、オレたちには状況がわからなかったから、別々の招待状を用意したんだ」
寺崎の言うことがのみ込めず、軽く眉を寄せると、菜穂がため息混じりに再び、美波用の解説を始めた。
「つまりね、結婚式の招待状って世帯ごとに用意するの。だから、アンタがキーランさんと結婚した場合、招待状はもちろん連名ということになるわけ」
美波は思わず招待状をバタンと閉じてしまった。
「どうしてそんなことを心配する必要があるの?私はキーランと結婚の話なんかしたことがないのよ。だいたい、3月にキーランが日本にいるかどうかだって知らないんだから」
美波の返答に、寺崎は自分の膝の上に肘をつき、美波の顔をじっくりと見上げ、菜穂は鼻を鳴らした。
「なぁに。何なの。皆でおかしな顔をして」
「川嶋さんは、社長やキーランさんから何も聞いてないんですか?」
芳賀暁が辛抱強く尋ねた。美波には何の心当たりもなかった。
「何のこと?キーランとは昨日、電話で話をしたけれど、車のこと以外何も言っていなかった」
「車って?」
菜穂が聞きとがめて、尋ねる。美波はマズいことを口走ってしまったと手で口を覆ったが、言ってしまった以上は仕方がない。諦めて、告白することにした。
「キーランは車を買い替えろって言うのよ。腕のリハビリも兼ねて、今週はお父さんのことを車で会社まで送っていってあげたんだけれど、そうしたら川嶋社長が随分と倹しい車で出勤してくる。そんなんで川嶋グループは大丈夫なのかって会社で大騒ぎになっちゃったらしいの。それで、岸田さんがキーランに連絡して、それから、キーランは毎日、車を買い換えるために電話をしてくるの」
「アンタ、アンタのあのボロいシビックでおじ様のことを会社に送っていったわけ?」
菜穂がほとほと呆れたような声を出して言った。残りの3人は悪いと思ったのかあからさまには笑わなかったが、おかしな表情をして俯いていた。美波は、寺崎の友達から譲り受けた最初の中古車が修理不能になった後に、同じモデルの新古車を買い、そのまま7年以上、同じ車に乗り続けていた。美波としては、小回りが利き、燃費がよく、丈夫な自分の車はとても重宝だと思っていたのだが、普段エディが乗っている車とは確かに格段の違いがある。
「送ってあげたら、お父さんはとても喜んでいたわよ。ただ、お父さんを降ろした時に、社員の人が立ち止まって見ていたから、ちょっと不安には思っていたんだけれど、でも、まだ十分に乗れる車を買い換えるなんてもったいないじゃない」
寺崎が大げさにため息を吐いてみせた。
「キーランさん、これから大変そうだな。川嶋さんと川嶋さんのお父さん、ふたりの面倒を一度に見ることになるわけだろう。ふたりとも予測がつき難いしさ」
「ちょっと、寺崎君、それどういうこと」
美波は一応抗議してみせたが、その場にいた誰もが美波に同調することはなかった。
翌日の午後半ば戻ってきたエディは、美波の予想通り、大きなドレスの箱を抱えていた。休日の残りを堪能しようと、階下のソファセットに陣取り、コーヒーを飲みながらおしゃべりに興じていた菜穂、寺崎、芳賀きょうだいは、美波の予想したようにエディがドレスを持ち帰ったことに、顔を見合わせニヤニヤと笑い合った。その場の雰囲気が掴めず、エディは軽く首を傾げる。
「すっかりお邪魔しちゃってすみません、おじ様。お帰りになる前にはわたしたちは失礼しようと思っていたんですけれど」
菜穂が如才なく言った。すっかり猫をかぶってと、美波は菜穂の背中を突付く。
「いや、僕の方こそ、早く帰ってきてしまったのかな。美波から皆さんを招待しているとは聞いていたんだけれど、東名がわりと空いていて、東京に思ったより早く着いてしまったんだ」
「お父さん、それじゃ、本当に伊豆に行っていたのね」
「君もおかしなことを言うね。この通り、君のご希望だった、伊豆名産のわさび漬けもちゃんと買ってきたよ」
エディは思い出したように書類かばんから、円形のわさび漬けの箱を出して、美波に差し出した。
「それにしても、君はそんなものを食べるのかな。随分と、独特な感じの食べ物だけれど」
美波はエディからわさび漬けを受け取りながら、苦笑した。
「寺崎君の大好物なの。だから、ちょうどいいと思って。ねぇ、そうでしょう?」
美波が柔らかく寺崎に対して笑いかけると、寺崎はとうとう大きな声で笑い始めてしまった。それを合図に他の3人も笑い始め、一人、その場の事情を知らないエディはきょとんとした表情で美波を見た。美波は立ち上がって、おかえりなさいとエディの頬にキスをした。
菜穂、寺崎、そして芳賀きょうだいが帰って行ったのは、結局、夕食後のことだった。寺崎としのぶが3月に結婚式を挙げるというニュースにエディはとても強い印象を受けたようで、皆が帰った後、さりげなく寺崎としのぶは付き合ってどれくらいになるのかと聞いた。美波が6年ぐらいかなとごまかすと、エディは意味ありげに美波の顔を覗き込んだ。すぐに息が詰まりそうにも感じて、美波はコーヒーカップで顔を隠した。
その朝目覚めると、家の中はすっかり静まり返っていた。手早く着替えを済ませて、階下に降りると、書斎で寝ていたはずのエディは既にどこかに消えていた。
エディとアメリカに来てから、5日が立っていた。最初の2日はカリフォルニアの海辺の家で過ごし、その後、メインの海辺にある美波の祖父が残してくれた家に移動した。どちらの家でも、エディはアメリカに来た時の常で、多少、寡黙気味になっていた。時々、何かに気をとられたように、周囲のことから一切遮断されてしまったようになり、そんな雰囲気に不安を感じた美波がエディの腕に自分の腕を絡めると、一瞬だけ美波のことを不思議そうな顔で見た後、思い出したように笑いかけてくる。そういうエディの反応は、注意を引こうとするまで母のことを考えていたことを感じさせ、結局、美波は何も聞くことができなくなる。そうしてエディはますます、母との思い出に深く沈んでいく。
朝食の準備をあらかた済ませると、厚手の外套を着こんで、美波は居間のガラス戸から庭に出た。船着場には庭の先端から細い小道が続いており、幼かった美波はその小道を祖父やキーランと一緒に歩いたものだった。エディも、祖父と船で沖にでるのが好きだった。
船着場のコンクリートを踏んだ途端、エディの姿が目に入った。ジーンズのポケットに両手を突っ込み、祖父の船を眺めていた。皮製のハーフコートに覆われたエディの背中は、真っ直ぐに直立していて、世界のあらゆるものを拒絶しているかのような厳しさを漂わせていた。美波は、思わずその場に立ち竦んでしまい、ブーツのヒールがコンクリートの床を打って、乾いた音を立てた。その音に、エディはゆっくりと振り返った。
船着場の端に佇む美波を見て、エディはとても驚いたような表情を見せた。理解不能といった、それでいて魅惑された表情。美波はどう声をかけてよいのかわからず、小さな声でお父さんと呟いた。その途端、エディは俯き、それから優しい笑顔を浮かべた。
「君だったのか。びっくりしたよ」
「探したのよ。朝ごはんの支度ができているの」
戸惑い気味に声をかけると、エディはとてもゆっくりと美波に近づき、ごく自然に肩を抱いた。ふわりと美波の体を覆うような感じで真横に立つ父の顔は、いつものように優しく微笑んでいた。
「ねぇ、美波、朝食が済んだら船に乗らないか」
元の小道を家の方に向けて歩き始めると、エディが緩慢に聞いた。エディの腕の中で、美波はため息混じりに顔を上げる。また、エディの困った「病気」の再発だ。
「そんな時間、ないわよ。お昼過ぎにはニューヨーク行きの飛行機を予約してあるんでしょう。家を出る前に、お母さんやお祖父ちゃま、お祖母ちゃまのお墓にも行きたいのだろうし、家だって多少、お掃除しておかなければいけないし。やることがたくさんあるんだから、船遊びなんかしていたら、飛行機に乗り遅れちゃうわよ。向こうの空港には、パットおじさんが車で迎えに来るんだから、待たせたら悪いじゃない」
「ほんの少しのことだから、大丈夫だよ。それに飛行機はチャーター機なんだから、それなりの時間の都合はつくだろう」
それからエディは美波の肩を抱く手に少し力を込める。
「もし、寒さのことを気にしているのならば、心配することはないよ。いつものようにコートやマフラーで体を覆って、暖かいコーヒーをポットにいれてもって行けばいいんだよ」
「わかっています。何度も聞いたもの。いつもそうやってお母さんと大晦日の日に船遊びをしたのよね」
「美波だって、ジェームスの船で何度も出かけただろう?子どもの時は、君とキーランはジェームスの隣でとてもはしゃいでいたよ」
「そりゃ、子どもの時はそうかもしれないけれど」
当時の記憶と感情を手繰り寄せようと、美波は額に皺を寄せた。エディはそんな美波に愛しそうに顔を寄せる。息苦しさを感じ、美波は顔を上げた。
「お父さん、船着場でお祖父ちゃまの船を見ていたの?」
エディは複雑な微笑みを浮かべて、俯いた。
「この時期は思い出すことが多くてね。特にメインにいるとなればなおさらなんだ」
「思い出すことって、何?」
「お子様にはちょっと刺激が強い話かな」
多少、気取ったようにウィンクをするエディの横顔に、感情のサインを探して結局は徒労に終わり、美波は諦めて自分の足元に視線を落とした。
「お父さん、お母さんの思い出を大事にしているのもわかるけれど、そろそろ別のパートナーとの生活を考えてもいい頃なんじゃないかな。離婚も成立して、今は花の独身でしょう。それで、あと10年もしたら引退して、それでまだひとりだったらきっと寂しいわよ。私だって、いつまでもお父さんの相手だけをしているわけにはいかないし、パットおじさんとアリーおばさんにくっついて、3人で引退するわけにもいかないでしょう?」
エディは首をぐるりと回して、美波の瞳の底をじっと見つめた。
「引退だなんて、君も随分と気の早いことを言うね」
「そんなことはないわよ。お父さんはもう50代だし、私だってあと数年すれば30歳よ。そろそろ引退を考えてもいい時期でしょう?」
美波の答えに一理あると思ったのか、エディはしばらくの間、軽く前方を睨むと、思い直したように美波に視線を戻した。
「引退後は君の子どもの世話をするっていうのはどうかな」
「私の子どもの世話?」
意外な返答につい鸚鵡返しで聞き返すと、エディはいつもの完璧な笑顔を浮かべた。
「だって、君が結婚して子どもが生まれたら、いつも忙しいお医者さんの君には、子どもの面倒を見る人間が必要だろう。僕は小さな子どもの面倒を見るのがわりと好きだし、第一、美波が小さいときにあまり一緒にいてあげられなかったからね。美波の子どもの面倒を見ることでその埋め合わせができれば、僕としては嬉しい限りだよ」
今度は、美波がエディの真意を図るために、エディのことを見つめる番だった。エディは相変わらず穏やかに微笑むばかりだった。追い詰められたかのように、美波は息を吐いた。
「お父さんには健全なパートナーが必要なのよ」
「そう言ったのはキーランなのかな?」
エディが喉の奥で笑い声を立てた。図星を指され、美波は硬く口を閉じた。
「だって、君はどちらかと言えば、善悪の判断に曖昧な性格をしているけれど、キーランは妙に倫理的な考えをすることがあるからね。健全なんてことばは、君からは予想できない」
「ちゃかさないで、お父さん」
美波はエディのことを上目遣いに睨んだ。それで、エディが美波の額に唇を当てる。
「悪かった。君の気持ちは嬉しいよ。でもね、僕は今のところは自分の状況に満足していてね、大きな変化を起こしたいとはあまり思えないんだ。それに、前にも話したとは思うけれど、僕のお祖父さんという人は、お祖母さんが死んだ後、長いことやもめ暮らしをしていただろう。僕はそんなお祖父さんが大好きだったけれど、多分、知らない間に随分と彼の影響を受けてしまったんだろうね。自然と、彼と同じような生き方をしているのかもしれない」
ことばの底に温かさを湛えながらそう言うエディの顔を見上げ、美波は諦めてエディの肩に自分の頭を預けた。
「お父さん、船遊びは曾お祖父様から教わったのよね」
「そうだよ。僕は、とても小さな頃から、お祖父さんに船の操縦の仕方を教わったんだ。僕が君やキーランに教えたようにね。でも、海好きだったのは、僕や君の曾お祖父さんだけではないよ。僕の父という人は船よりはダイビングの方を好んでいたけれど、やっぱり海が大好きだったな。それに、ジェームスもあの通り海に出ることが何よりも好きだっただろう。言ってみれば、僕らの家族は海とは切っても切れない関係にあるんだ」
そんな風に言われてしまうと、反論するのは難しい。美波はやや大げさにため息を吐いてみせた。
「わかりました。ちょっとだけならばお父さんの言う『家族の伝統』にお供します」
エディは嬉しそうに笑い、それからもう一度、美波の額にキスをした。
多分、美波にとって思い出すことができる最初の記憶は、祖父の船で、祖父ジェームス、父エディ、それからパトリックと海を漂っている時のものだ。あの時、どうしてアリシアやキーランがいなかったのかは今となってはわからない。しかも20年以上も前のことなので、記憶自体がとてもあやふやで、もしかしたらあれは美波が後で勝手に作り上げたイメージだったのではないのかとさえ思えてくる。それでも、妙によく晴れた空と心地よい潮風の感覚のリアルさが心の底に染み込んでいて、それ故、あの光景が実際に起こったことであることを、美波は固く信じている。
あの日、船の上では誰も一言も喋らなかった。祖父は操縦桿を握り、水平線を見詰め、エディとパトリックは船の側面に並んで腰を降ろしたまま、やっぱりじっと海を見ていた。幼かった美波はエディに抱かれたまま、エディから目が離せなかった。久しぶりに会った父の様子は尋常ではなく、美波を落ち着かなくさせていた。このまま母が消えてしまったように、父が自分の世界からいなくなってしまったらどうしようと、不安な思いに押し潰されそうだった。
そのうち、ふいに大粒の水滴が美波の頬を濡らした。驚いて顔を上げると、エディが泣いていた。幾粒もの涙がエディの目から零れ落ちていったが、エディはまったく動かなかった。隣のパトリックが前方を睨んだまま、エディの上腕部を大きな手で握った。それでもエディは身じろぎもせず、美波を抱えたまま声を出さずに泣き続け、潮風がエディの涙を散らした。
エディが美波の前で泣いたのは、あの時が最初で最後のことだった。
その朝のエディは、あの時の祖父のように、操縦桿を握り、水平線を見詰めていた。白い大型のショールにすっぽりと包まり、甲板にもたれていた美波は、そんなエディから目が離せなかった。この時期には思い出すことが多いんだと言っていたエディ。エディが思い出していた記憶は、まだ母が生きていた時の甘くて、優しい時間なのか、それとも、母が死んだ後のやりきれなさだったのか。たったひとつだけ言えることは、どちらにしてもエディの心はいまだに母を失ったという喪失感に引きずられていて、エディ自身、そうした感情を整理するつもりはないということなのだろう。母の死によって突然のように行き場を失ってしまった父の母への思いは、結局、関谷や絵梨子との問題が解決しても重い澱のように父の心の底に沈んでおり、いまだに感情の行方を支配している。
美波がじっと見ていることに気がついたのか、エディは突然、美波に視線を合わせて、ゆったりと笑った。美波の存在をありのままに包み込むエディの微笑みは、同時に微かな、それでいて厳しい寂しさをたたえてもいた。美波は思わずショールで包むようにエディを抱擁していた。
「それで、久しぶりのアメリカでの休暇はどうだった。少しはリラックスできたのか」
後部座席に落ち着いたエディと美波をバックミラーでチラリと確認して、パトリックが聞いた。窓に肘をついて街並みに見とれていたエディは、パトリックの声に弾かれたように身を起こした。
「そうだね。たまには仕事しないっていうのもいいよね。美波とも久しぶりにのんびりと話をすることができたし、船にも乗れたし、僕はけっこう楽しんだかな。このお嬢さんは、海の上で寒い思いをさせられて、ちょっと不満そうだったけれど」
美波は何も言わずエディの顔をじっと見返した。助手席のアリシアが柔らかく振り返える。
「船に乗ったのはメイン?」
「そうだけど」
「だったら私は美波の味方。毎年、この時期には、あなたもジェームスおじさんも物好きだって、フィーと話したものよ」
「そうは言うけれど、君だって、フィーだって、大晦日の日は一晩中、船の中で結構、楽しんだだろう?」
「私たちが楽しんだのは、私たちの愛しい家族と大好きな友だちと一緒に過ごす特別な時間。だから、あなたとジェームスおじさんにもう少し分別があって、大晦日の夜は暖かな暖炉の横でチェスでもしていてくれた方が正直言ってありがたかったわ」
「オレもその点に関してはアリーに賛成だね。夏のカリフォルニアならともかく、冬のメインの海じゃ特にやることもないものな。実はさ、いくらお前でもニューヨークで船遊びってわけにはいかないだろうから、オレは、今年、かなり安心しているんだ」
「迷惑な趣味で悪かったね。この件に関しては、僕には擁護者がいないようだ」
エディは軽く肩を竦めた。それでも、声の裏では笑っていた。色々言ったとしても、結局、最後には皆がエディの船遊びにつき合うことがすっかりわかっているのだ。
「それで、船に乗る代わりに今日の夜はそれなりの予定があるのかな」
「フリグリーを予約してある」
パトリックはバックミラー越しにウィンクをしてみせた。
「へぇ、懐かしいな」
「そうだろう。前にクリスマスイブにあの店に行ったのは、お前とフィーが東京に行く前のことだからな」
「それで美波の方は、キーランが6時ごろに事務所の車を迎えに寄越すって言っていたわ。さっき電話してきたんだけれど、それだけ言って切っちゃったの。何だか、イブの日まで忙しいようね」
アリシアがさりげなく付け加えた。それで、美波の口からつい重いため息が漏れた。
「どうしたの、ハニー?」
「だって、キーランの弁護士事務所のクリスマス・パーティに行くなんて気が重いじゃない。私はどちらかって言うと、お父さんやアリーおばさん、パットおじさんと一緒の方がいいな」
美波がすがるような視線をエディに向ける。エディは辛抱強い苦笑を浮かべた。
「まったく困ったことを言う娘だね。フリグリーには子どもを連れて行けないんだ。今からベビーシッターを頼むわけにいかないだろう。だから、キーランが君の相手をしてくれないと僕らが困るんだ」
それからエディは自分の言ったことがさもおかしいかったのか、口元に手を当てて笑い声を立てた。エディに誘われたように、他のふたりも笑い始める。美波は鼻の上に深い皺を寄せた。
「弁護士がたくさんいるパーティなんかに行っても面白くないじゃない」
「でもね、美波、私たちと一緒に来ても、弁護士がふたりも一緒なのよ」
アリシアが宥めるように言い、パトリックがまったくその通りだと笑う。
「だいたい、10代の頃は、君はキーランとイブの日のパーティに行くために、家を抜け出す口実ばかり考えていたじゃないか。それが今更、今夜は僕らと一緒がいいなんていうのは、どういう風の吹き回しなのかな」
美波は返答に詰まって、窓の外に視線を向けた。正直なところ、何となく、キーランとの1ヶ月ぶりの再会に尻込みしていた。アメリカに来てからもキーランとはほぼ毎日、電話で短い会話を交わしてはいたが、いつもの日常的な会話の範囲内でしかなかった。とはいえ、表面上の静けさは嵐の前の予兆であるような予感があって、美波を落ち着かなくさせていた。自分をニューヨークに呼んで、キーランはきっと、将来の話をするつもりなのだろう。その場合、私にはどんな返事ができるのだろうか。
「若い君たちは君たちなりに楽しめばいいよ。僕らと一緒に昔を懐かしがっても仕方ないだろう。今夜はそういう夜になりそうだからね」
エディが膝の上に投げ出されていた美波の手を軽く握った。エディの方へ視線を戻すと、再び窓の外の街並みに魅入られているようだった。
「実際、クリスマスのニューヨークっていうのは、懐かしいよね」
それからアッパーウェストサイドのアパートメントまで、誰も一言も口を利かなかった。
パトリックとアリシアが現在のマンションに越してきたのは、美波の母フィオナが死んだ直後のことだった。以来、東京で暮らした4年を除いて、ふたりはこのマンションに住み続け、その間、エディと美波の部屋をずっと維持してきた。自分が育った部屋を訪れたのはほぼ3年ぶりだったが、部屋の中は以前とまったく変わらず、親密さと暖かさで一杯で、子ども時代に遊んだ幾種類もの象のぬいぐるみが美波を出迎えてくれた。久しぶりに見る象たちを点検した後、荷物を解き、シャワーを浴びて出かける仕度をしているうちに、美波の緊張した心は多少なりとも和らいでいった。
その日は、エディが伊豆から持ち帰った新しいドレスを着てみることにした。柔らかい素材で作られた、カットが流麗な黒のドレス。やっぱりエディのガールフレンドは趣味が良い。軽く化粧をしてから、姿見で自分の様子を点検していると、軽やかなノックの音。どうぞと答えるとアリシアがそっと部屋に入ってきた。
「素敵なドレスね。エディの最近のお買い物なの?でも、今年はヨーロッパには行っていないでしょう」
美波の背後に回り、両手を肩において姿見を覗き込む。慣れ親しんだアリシアの柔らかい微笑みに誘われたように、美波も笑顔を浮かべる。
「お父さん、アメリカに来る前に伊豆に2泊の出張にでかけて、出張先からこのドレスを抱えて帰ってきたの。でも、こんな高級ブランドのお店が伊豆にあるわけないから、どこで買ったのって聞いたんだけど、聞こえないふりをしてごまかされちゃった」
「パリの彼女に関しては、エディは相変わらず秘密主義なのね。でも、そのドレス、あなたにとても似合っているわよ。あなたが黒のドレスを着ているのを見るのは初めてのような気がするけれど、こういうエレガントなドレスが似合うような年齢になっていたのね」
美波がドレッサーの上に並べておいた数組のアクセサリーの中から、母が昔使っていたというエディの母方の家に伝わるダイヤモンドを惜しげもなくあしらったネックレスを手に取り、美波の首にかけながら、アリシアは感慨深げに言った。それから、デリケートな仕草で、丁度よい具合にドレスに隠れた怪我をした右肩をそっとなぜる。
「それにしてもさすがにファッションのプロよね。あなたの肩の怪我の傷跡がちゃんと隠れて、それでもとても魅惑的なデザインのドレスを見つけてくるんだから。エディは私にも彼女のことを紹介してくれないかしら」
「きっと無理よ、アリーおばさん。私だって噂のイザベルさんには一度会っただけだし、その時には長年の親しい友人って言われただけだもの。おまけにお父さんは今の状況に満足していて、大きな変化を起こしたいとは思っていないですって。引退後は私の子どもの面倒をみるとか言っていたわ」
アリシアは複雑な苦笑を浮かべた。
「エディもそういうところは本当に困った人ね。もっとも、これだけ時間が経っても、それだけエディに思って貰えているフィーは、とても幸せな女性なのだろうけれど」
「どうなのかな。お父さんと結婚したばかりにお母さんは殺されてしまったわけでしょう?」
「それはそうね」
アリシアは考え込むようにネックレスと対になった大ぶりのピアスを暫くの間指の間でもてあそんでいたが、やがて美波に差し出した。
「それで、怪我の方はもういいの?」
思い直したように再び美波の肩を撫ぜ、アリシアが聞いた。美波はちらっとドレスの肩の部分をめくって見せた。
「ちゃんと直っているでしょう。あれからまだ6週間だからまだ傷跡は生々しいのかもしれないけれど、機能的には何の問題もなく回復しているの」
美波の言葉とは裏腹に、傷跡を見たアリシアの顔から表情が消え、ため息が漏れた。
「外科医のあなたが言うんだからそうなんでしょうけれど。あれからまだ6週間しか経っていないなんて正直言って信じられないわ」
「もう6週間も経ったのよ、アリーおばさん。そして、私は大丈夫なの」
ピアスをつけ終え、身支度を完了した美波はアリシアの方へ向き直った。アリシアは美波を頭の先からつま先まで眺めて、再びゆっくりと顔を綻ばせると、頬に暖かいキスを送る。
「とても綺麗よ、美波。今夜は十分に楽しむといいわ。安心しなさい。弁護士連中なんて、あなたの美しさにすぐに降参するはずよ」
アリシアの言い方に、美波は自然と微笑を浮かべ、アリシアにキスを返していた。
迎えの車は予定時間ピッタリに到着した。マンションのドアマンからの連絡に、美波がソファから立ち上がると、ニューヨークに来た時の常のようにピアノをかき鳴らして遊んでいたエディは玄関ホールまでついて来て、美波に外套を着せてくれた。楽しんでおいでと額にキスをしてから、ドアを開け、エレベーターを呼ぶ。隙のない動作はいつもの通りで、エディはエレベーターのドアが閉まるまでその場に留まり、優しく美波のことを送り出してくれた。
弁護士事務所の大きな黒塗りの車は、クリスマスに華やぐ街並みを縫うように、ゆっくりとロウワー・マンハッタンに向かった。弁護士事務所が入る巨大なビルの正面に車をつけると、運転手は美波のためにドアを開けてくれる。美波は壮麗な建物を見上げ、それからゆっくりと中に入っていった。
総合受付でキーランと約束がある旨を伝えると、豪華な造りのデスクの向こうの女性が一瞬、瞳を輝かせた。
「カワシマ医師でいらっしゃいますか?」
「そうです」
「お待ちください」
女性は素早く電話を取り上げると、小声で何か言い、それから美波に対し完璧な営業用の笑顔を見せた。
「ただいまケネディは顧客とのミーティング中ですので、今、彼のアシスタントが参ります。少しお待ちいただけますか」
キーランのアシスタントという女性が現れるまで、それから1分もかからなかった。やや赤毛気味のその女性はホリーと名乗り、美波に対して真っ直ぐに手を差し出した。
「お会いすることができて光栄です、カワシマ医師。お出でになるという指示はもらっていたのですが、先のミーティングが長引いているので、申し訳ありませんが多少お待ち頂くことになってしまいます。今からオフィスにご案内いたしますので、こちらにどうぞ」
そういう言い方自体はとても事務的だったが、ホリーの眼差しは好奇心に満ちていた。彼女は自分とキーランの関係についてどの程度知っているのだろうと訝しく思いながら、美波は手を握り返していた。
ホリーに案内されてキーランのオフィスに行く間、美波はすれ違う人びとが自分のことを見ていることに気がついた。大きな木製のドアに面するホリーに示された椅子に腰掛け、脇のテーブルに置かれた雑誌を何気なく手に取ると、美波の視線の隅を数人の女性が掠った。雑誌を見るふりをして女性たちの行く先を探ると、彼女たちはホリーの周りに集まり、何事かを話し合っていた。それからしばらくして、別の女性がコーヒーを運んできた。その女性も礼を言う美波の顔を穴の開くほど見つめた後、他の女性たちに合流したようだった。美波の登場が法律事務所の従業員たちの間で、それなりの噂になっていることには間違いなかった。
カップの中のコーヒーが温くなった頃、木製のドアが開き、キーランがやっと顔を出した。美波の姿を認めると、声を出さずに口だけ動かしてゴメンと言い、すぐに体を脇にどける。1ヶ月以上会っていなかったというのに、キーランの様子はまったく普段通りで、美波は多少拍子抜けしてしまった。どう頑張っても、自分とキーランではドラマチックというわけにはいかないらしい。
「クリスマスイブの日に時間を取って悪かったね。でも、今日のうちに君に会っておいてよかったよ。この分なら、この件は早急に片付きそうだ」
キーランのオフィスから出てきた恰幅の良い男性がそんなことを言い、キーランに手を差し出した。キーランはドアを背にして立ち、男性の手を握り返す。
「お役に立てそうでよかったですよ。そろそろ上の階でパーティが始まりますから、どうぞ寄って行ってください」
「ありがとう。君のところのクリスマスパーティは華やかで、毎年、楽しみにしているんだ。せっかくだから、好意に甘えることにしようか」
それから男性は椅子に座ったままの美波をチラッと見ると、キーランに親しげに笑いかけた。
「今年は素敵な連れがいるようだね。ニューヨークきっての婿がねと評判の君もそろそろ年貢の納め時なのかな」
キーランは一瞬、答えに詰まり、体を真っ直ぐに伸ばして、ズボンのポケットに両手を突っ込む。相手の男性は明るい笑い声を立て、それじゃよい休暇をと言って立ち去った。キーランは男が完全に姿を消すまでドアのところで見送ってから、足早に美波に近づいた。
「悪い。もう少しだけやらなきゃいけないことがあるんだ。あと15分ぐらい、待っていてくれるかな」
ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、腰を屈めてぞんざいに美波の頬にキスをする。美波は肩を竦めてみせた。
「いいわよ。いつも待って貰っているんだから、お好きなだけ仕事をしたら」
「冗談だろう。いくらなんでも、もうそろそろ切り上げたいよ。クリスマス・イブなんだからさ」
言いながら、キーランは右手を差し出して、美波を立たせた。
「オフィスにはけっこう座り心地がいいソファがあるんだ。そこじゃ色々と煩いだろう」
実際、キーランの言う通りだったので、美波は黙ってキーランに促されるまま、オフィスの中に入っていった。自分の背中に多くの視線が集中していることは十分に意識していた。
キーランがコンピューターに向かって猛烈な勢いで何事かを打ち込んでいる間、美波は建物の高層に位置するオフィスの窓からマンハッタンの街を見下ろしていた。ニューヨークでは眺めの良いオフィスを持つことは、地位の高さに直結しているはず。パートナーへの昇進が打診されたというキーランは、実際、この法律事務所の重要なメンバーであるのだろう。
「もう少しだからな。こいつを印刷して、ホリーに渡したら、それで今年の仕事はお終いだ」
通りすがりに美波の肩に軽く触れ、キーランは軽やかな動作でオフィスを出て行く。すぐにドア越しにキーランとホリーの早口の会話が聞こえてきた。ホリーが明るい笑い声を立て、良い休暇を、新年に会いましょうと言った。それで美波は、キーランがクリスマス明けに休暇を取ったことを知ることになった。弁護士として働き始めてから、キーランがクリスマスと大晦日の間に仕事を休むのは初めてのことだった。大抵の場合、美波がニューヨークにいることもあって、キーランは年末に働くことで、その分、長めの夏休みを取っていたのだった。今年は年末に旅行にでも行くのだろうか。ただその場合でも、美波とエディはボクシングデーには日本に戻ることになっているし、年が明けて2日からはようやく仕事に復帰することになっているので、残念ながらキーランと休暇を一緒に過ごすことはできそうにもない。
「どうした、ボンヤリして」
突然、真横から声がしたので驚いて見ると、キーランは美波の外套を抱えて、すぐ横に立っていた。ついさっきまでそでを捲り上げたワイシャツ姿だったのに、すっかり身支度を整え、黒のコートを羽織り、皮の手袋までしている。
「散歩に行かないか?」
「散歩?」
「ああ。今日は一日中、ゴタゴタしていたから、上の階に行く前に、新鮮な空気を吸いたいんだ」
美波が不思議そうな顔でキーランの顔を見上げると、キーランはリラックスした笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ。お前が凍りつく前には戻るから。お前、本当に寒がりだもんな」
私が寒がりと言うよりも、キーランもお父さんも寒いところに行きたがるおかしな性向があるだけじゃない。美波はついそう思ったのだが、口に出しては言わなかった。
通りに出ると、キーランはごく自然に美波の手を握り、自分のコートのポケットに入れた。こうやって、ふたりで何度も冬のニューヨークを歩いた。だから、その日も当然のように美波はキーランの方へ身を寄せていた。その夜は、一際に明るいニューヨークのネオンの間でも星がよく見えたが、その分、厳しく冷え込んでいた。この調子では、明日はホワイト・クリスマスになるかもしれない。
「すっかり元気そうじゃないか」
大きく空を仰ぎ、深呼吸してから、キーランが聞いた。
「元気よ。十分に休んだもの」
「怪我の方はもうすっかり直ったのか?」
美波は答える代わりに空いている手を真っ直ぐに伸ばし、モダンダンスの振り付けのように柔らかく動かして見せた。キーランは美波の様子を優しく見下ろしていて、そんなキーランの視線に気がついた美波は胸の奥が掴まれたように息苦しくも感じ、つい視線を外してしまう。
特に打ち合わせたというわけではなかったが、ふたりの足は自然に小さな公園に向かっていた。キーランが屋台で熱いコーヒーを買い、海に面したベンチに並んで落ち着く。すぐ近くにある電飾が施され、クリスマス・キャロルが流れる定期船の発着場を見て、美波は改めて自分がニューヨークにいることを実感した。
「東京のクリスマスも年々洗練されていくけれど、やっぱりニューヨークには適わないよね。何たって年季が入っているもの」
「ニューヨークに来るのは3年ぶりだもんな。お前の目にはやっぱりそれなりに新鮮に映るんだろう。オレには東京の猥雑さとごちゃ混ぜ加減が却って面白いような気もするけれどな」
キーランはコーヒーを一口、口に含むと、体の向きを変え、真っ直ぐに美波の顔を覗き込んだ。
「カリフォルニアとメインでは、どうだった?久しぶりの親子ふたりきりの休暇だったんだろう。少しは楽しめたのか」
「お父さんはそれなりに楽しかったって言っていたよ」
キーランの思いもかけない真剣な様子に圧倒され、美波は苦労しながら答える。キーランはベンチの背もたれに頬杖を突き、辛抱強く美波の次のことばを待っていた。
「キーランだってよく知っているでしょう。アメリカに来ると、お父さん、時々、黙り込んで、自分の世界にこもっちゃったようになるの。そういう時は、多分、お母さんのことを考えているんだよね。今回は、そんな調子がいつもよりも少し激しかったかな。今朝も起きたら、家にいなかったから探しに行ったんだけれど、お父さんは船着場でお祖父ちゃまの船をじっと見ていたの。この時期は色々と思い出すことが多いって言っていた」
「エディとフィーは本当に、とことん深く愛し合っていたんだな。他の人間にははた迷惑なほどにさ」
暫くの間、黙って何事か考えていたキーランは、やがてポツリと言った。美波がキーランの顔を覗くと、キーランは軽く口を曲げ、コーヒーを啜っていた。
「2週間ほど前にワシントンDCの国務省に出張に行ったんだけど、マイク・ボルドィンにばったり会ってさ。お前もアイツのことはよく覚えているだろう?オレたちが東京に住んでいた間、よくウチでウロウロしていたから」
「よく覚えている」
この頃よく話題になるエディとパトリックの友人であるアメリカ大使館員のことは実際よく覚えていたので、美波は素直に頷いた。
「会ったのは十数年ぶりだったし、最後にアイツに会った時、オレはまだ高校生だったから、マイクはオレの顔を見てかなり興奮してさ。その夜、酒をおごらせろって言うんだ。オレもその日はもともと1泊の予定だったから、マイクの誘いを断る理由はなかった。それで、マイクと一緒に酒を飲んで、色々と話をした」
「色々って?」
どうして突然、マイク・ボルドィンと再会したことなど話し始めたのだろうかとキーランの表情を探りながら、美波は聞いた。キーランは相変わらず穏やかに微笑んでいるような、戸惑っているような顔で、全身から複雑な感情を放っていた。
「最初はお互いの近況とか、母さんとパットのこととか、無難な話をしていたんだ。でも、そのうち、マイクも多少酔ってきたんだろうな。昔のことを話し始めた。つまり、アイツらがまだ若くて、フィーが生きていた頃の話やフィーが死んだ後のこと。マイクはさ、ハーバードでフィーやパットと同級生だったから、フィーのことをよく知っていたし、関谷が最初にお前を拉致した時、東京の大使館で勤務していたから、一連のごたごたにそれなりに巻き込まれていているんだ。だから、あの時、フィーとエディがお互いを懸命に庇い合って、自分たちの結婚やお前のことを守ろうとどれほど頑張ったのか、マイクは自分の目で見てきて、よく知っているんだ。そして、だからこそ、マイクは、フィーが最後にはあんな風に死んでしまって、エディがいまだにフィーの死を引きずっていることに割り切れない思いを持ち続けてきた」
話している間、キーランはまったく美波の顔を見なかった。自分の心の底に押し込まれた感情を引きずり出すように、丁寧にことばを継いでいく。
「オレがマイクから聞いた話の中には、エディがお前には絶対に知られたくないこともあるみたいで、マイクに厳しく口止めされたから、オレはこの場でお前にすべてを話すことはできないけれど、たださ、マイクから聞いたフィーっていうのは実際すごい女性で、しかもエディのことをとても深く愛していたみたいなんだ。正直言って、オレはマイクの話に圧倒された」
「キーランが圧倒されたっていうんだから、よっぽどなんでしょうね」
美波は記憶としてはすっかり失われてしまい、写真の中でしか見たことがない母の顔を漠然と思い出して答えた。父から聞く母の話は、ふたりのロマンチックな関係を強調したものが多かったが、他方で、あのパトリックが手におえなかったと言った母のことだ。キーランの率直な感想もわかるような気がする。キーランはコーヒーを口に含み、ちらっと美波を見やると、すぐに視線を前方に戻した。
「関谷が政治スキャンダルを使ってエディを追い込んだ後、エディがお前とフィーを日本から脱出させただろう。その時な、あのふたり、別れ際に車の中でセックスしたらしいんだ」
唐突なキーランの暴露に、美波は目を大きく見開いた。
「マイクが大使館の車でフィーとエディを新宿で拾って、ふたりを羽田まで送る途中だったんだってさ。大使館の車に乗り込む直前まで、ふたりは数日間離れ離れで、車の中でやっとお互いの無事な姿を確認できた。その途端、フィーがエディにキスを始めて、それからマイクに見たらただじゃ済まないわよって言い捨てた。それで、マイクは後部座席との間を隔てるシールドを閉めざるをえなかった。そのすぐ後に、後部座席からかなり派手な振動が伝わってきた。運転手が隣に乗っていたわけだろう。マイクはどういう顔をしていいのかわからなかったって言っていた」
キーランの話を聞きながら、美波は全身が火照ってくるのを感じた。まったく、なんて親なんだろう。
「この話はこれで終わりじゃないんだ。数週間後、エディは関谷の息がかかった人間に長いこと監禁された上、ひどい暴力を受けて病院に担ぎ込まれた。それで、とうとう見ていられなくなった親戚のセディ・ウォルトンがパットとフィーを連れて、関谷と話をつけるために日本に乗り込んだんだ」
「それで、お母さんは、セディおじ様やパットおじさんと一緒のお見舞いがてらに、病院でお父さんとセックスをしたの?」
まさかとは思いつつ、美波は聞いた。冗談のつもりだったのだが、キーランはコクリと頷いた。
「この時はさすがのエディもかなり大きな精神的ダメージを受けたらしいんだけど、日本に着いて、エディの病室に駆けつけたフィーは、その場にいたマイクたちに10分だけふたりっきりにしてくれるように頼んで、きっかり10分後に紅潮した顔で病室から出てきたんだそうだ。フィーが出てきた時、それまで後ろできっちりまとめられていた髪が髪留めでゆるく留められていただけだったから、ふたりが何をしていたのか聞くまでもなくて、そんなフィーにセディが君はとても現代的な女性なんだねって言った。そしたら、フィーは、最愛の夫を守るのは妻の務めですわって澄ました調子で答えたってマイクは笑っていた。それでも、そうやってフィーがエディの元に駆けつけたことで、エディはやっと持ち直すきっかけを掴むことができた。一時は相当にひどい状態だったらしいよ」
美波は改めて、関谷とエディの長くて、厳しい確執を実感し、身を震わせていた。キーランが今、話してくれたことは、話の流れからすると、エディが自分に隠しておきたいことではない。つまり、あのふたりの間には、これまで聞いたこと以上にひどいことがあったというわけだ。そう言えば、この間、絵梨子は母が死んだ後、エディの精神状態がとても悪くなり、周囲の人間はあのまま死んでしまうのではないかと恐れたと言っていた。
「エディの病室を訪ねた後、マイクを病院に残して、あとの3人は関谷に会いに行った。フィーとパットはセディのアシスタントって肩書きで川嶋電機に乗り込んで、セディが主導した交渉の末、何とかエディの身の安全は確保できた。その後、帰りがけにフィーが関谷相手に啖呵を切った。自分はエディのことを誰よりも愛していて、その大事なエディを関谷が苦しめるならば、関谷のことを絶対に許しはしない。エディのために自分が関谷のことを追い詰めるから、見ているがいいって。それを聞いて、関谷は激怒した。マイクはさ、多分、その訪問が決定打となって、関谷はフィーのことをとことん憎んで、殺してしまわなければ気が済まなかったんじゃないかって言うんだ。フィーは敢然と関谷に歯向かったわけだし、やっと大人しく関谷に従うようになるんじゃないかってところまで追い込んだのに、フィーのセックス療法でエディは立ち直ってしまった。だから、関谷は、何がなんでもエディからフィーの存在をむしり取ってしまわなければならなかった。でも、フィーが死んでしまったことで、エディはより激しく関谷に対抗するようになった。フィーが死んでから綾乃さんが生まれて、再びアメリカに来るまでの間に何があったのか、エディは絶対にお前には話さないと思うけれど、どうも関谷と真正面からぶつかり合っていたみたいで、マイクはエディが関谷に殺されなかったことが不思議なくらいだって言っていた」
キーランはそこまで言うと、手に持っていたコーヒーの紙コップを近くのゴミ箱の方へ投げた。紙コップはきれいな放物線を描き、ゴミ箱に吸い込まれていった。それを見届けて、キーランがゆっくりと美波の方へ向き直る。美波は緊張して、背筋を伸ばした。
「マイクと話をした頃、実は、オレもフィーのことをよく考えていたんだ。エディと結婚して、東京に行って生活することを、フィーはどういう風に考えていたのかなって。子どもの時から日本語を習ってきたオレだって、最初に東京で暮らし始めた時はけっこう戸惑うことが多かったんだ。だから、エディと出会うまで日本という国とはまったく関係がなかったフィーにとって、日本に行くことはとてつもない大きな変化であったわけだろう。しかもエディとフィーを待ち受けていた状況は、穏当なものではなく、フィーはそのことをよく知っていた。そういう変化をフィーはどうやって乗り越えていったのかなって。だから、オレはマイクに思い切って聞いてみたんだ」
美波はキーランの発することばを聴きながら、キーランがなぜそんなことを知りたがったのか聞いてみたくなった。けれども話をするキーランの顔はとても突き詰めていて、美波にはどうしても口を挟めなかった。
「オレが尋ねたら、マイクもフィーに同じことを聞いたって答えたんだ。外国人と結婚して、まったく知らない生活に飛び込むのはいかにもフィーらしいけれど、それにしたって極端な変化だったし、第一、エディについて東京に行くことで、せっかくニューヨークで積み上げかけていた弁護士としてのキャリアを惜しげもなく捨ててしまったわけだろう。東京で母親業に専念するなんて、学生時代のフィーを知っているマイクには、意外であるとしか思えなかった。でも、フィーにとってはそんなことどうでもよかったみたいで、フィーはさ、大事なことは、自分のことを全身全霊かけて真剣に愛しているエディの気持ちに応えて、エディとの約束を守ることであって、そのためにはどこに住んでいようが、どんな仕事をしていようが関係ないって答えたんだそうだ」
「お父さんとの約束って?」
「それがさ、まずは子ども時代に両親を亡くして、長い間、孤独な生活を送ってきたエディのために、子どものがたくさんいる家族を作ることで、二つ目の約束は、その当時、開店休業状態だった川嶋コンサルティングを立て直すこと。実際、東京での生活が落ち着いた頃、フィーは川嶋コンサルティングで弁護士のアルバイトを再開したし、エディは将来、フィーにコンサルティングの経営を任せようと、懇意の幹部数人と調整していたらしいよ」
キーランの説明を聞いて、美波は、夢の中で約束を守れなくてごめんなさいとエディに伝えてくれと母が言ったことを思い出していた。最後まで母は父の愛情に応えようとして、父との約束の証であるふたりの間の子どもと一緒に死んででしまった。あの時、母の美しい笑顔の下に、どれだけ無念な思いがあったことか。結局、美波の両目から涙が零れ落ちた。キーランがコーヒーの紙コップを握りしめる美波の手に自分の手を重ねた。
「お前さぁ、オレがお前のこと、わざわざこっちに呼んだのは、オレたちの将来の話をするためだってわかっているんだろう」
話がとうとう本題に入ってきたことを意識して、美波は頷いた。
「エディから仕事のオファーがあったんだ。お前、オレがニューヨークに戻る前に、エディとふたりで食事をしたことを覚えているだろう。あの時に言われた。とりあえずは、川嶋コンサルティングで北米関係の事業の統括することから始めて、そのうちに川嶋グループや川嶋電機でエディの仕事の補佐役を務めて、オレがその気ならば将来は川嶋のビジネスを任せてもいいとも言っていた。もちろん、そんなことはエディの一存で決められることではないけれど、とはいえ、今の川嶋グループでエディの力は絶大だから、オレがエディの補佐役として働き始めたら、周りは将来の経営者候補として扱うだろうね。それに、給料も悪くない」
「ひょっとして、事務所からパートナーへの昇進をオファーされたのって、そのせいなの。キーランを川嶋に引き抜かれることを防ぐため?」
美波の質問にキーランは少しだけ表情を和らげて、ずいぶん前に空になりすっかり冷え切ってしまったコーヒーの紙コップを美波の手からもぎ取ると、ゴミ箱の方へ投げた。今度もキーランのシュートは正確で、コップは滑らかにゴミ箱に吸い込まれていった。
「川嶋の仕事の話はオレとエディの間で内密ってことになっているから、多くの人が知ることではないはずなんだけどな。だけど、オレの事務所と川嶋とは多少の取引があるし、この手の噂や憶測っていうのは広まるのが早いんだ。だから事務所の方ではそれなりの危機感をもって、パートナーへの昇進の話を切り出したって考えてもいいと思う。実際、これまでの事例を考えると、多少、早めなんだ」
「すごいね、それだけ多くの人がキーランの実力を認めているわけでしょう」
美波には他にあまり言いようが思いつかず、とりあえずのようにそう言っていた。そういう美波の顔をしばらくの間、観察してから、キーランはゆっくりと尋ねた。
「それで、お前はどう思う?」
キーランの表情に美波は追い詰められたようにも感じ、目を伏せる。
「どうって、だからすごいねって」
躊躇いがちに何とか返答すると、キーランが再び、大きくため息を吐いた。
「わかったよ。オレの質問の仕方が悪かった。オレが聞きたかったのは、お前はオレにどうして貰いたいかってことなんだ。お前はオレに川嶋での仕事を受けてもらいたいのか、それともオレたちがこのままニューヨークと東京で離れたままでのいいのか、どっちなんだ」
そう言ったキーランは真剣そのものだったので、美波は必死で頭の中を探り、そして、自分の中の相反した感情が存在することを思い知る。キーランに川嶋での仕事の話を承諾して貰いたいというのはとても自然な思いであった。ただ、その一方で、そんなことを頼んで、これ以上、キーランの生活を自分の都合で左右することは許されないとも感じていた。
「私にはキーランにとって一番良い選択をしてくれたらと言うことしかできない。川嶋の仕事も、ニューヨークの仕事も、どちらもキーランにとってはとても良いチャンスであるみたいだけれど、私にはどちらが良いかなんてことはわからないもの」
美波がそう言い終わってからも、キーランは長い間、美波の顔を見つめたままであった。心の奥底まで見通すようなキーランの視線に息が詰まりそうになり、視線を外す。
「お前も、もう逃げるのはやめろよ」
静かな、それでいて明瞭なキーランの声が周囲の空気に染み渡った。
「オレはお前さえその気ならば、東京へ行ってもいいと思っている。でも、その場合、お前にはその責任をしっかりとってもらって、オレのことを幸せにするために努力するって約束して欲しい。エディがフィーを愛したように、お前がオレのことを愛して、オレたちの家族を作るために努力をするつもりがないならば、オレが東京に行っても意味がないだろう」
美波はキーランの言ったことについて少しだけ考えてみて、それから恐る恐る聞いてみる。
「つまり、キーランは、私にその気があるならば、キーランに対して愛の告白をして、結婚を申し込めって言っているの?それがお父さんのオファーを受ける条件だって」
「そういうことかな」
美波の視線をしっかり捉えたまま、キーランは頷いた。まったく、キーランらしいと言えば、これ以上キーランらしいことはない。美波は再び、少しだけ考え込んでから、顔を上げた。
「それで、キーランの幸せって、具体的にはどういうこと?」
そんな風に聞いた途端、キーランの顔が柔らかく綻んだ。溢れ出す笑いに声が震える。
「それがさ、まったく情けないことに、それを考えた時に最初に浮んだイメージは、子どもの時のお前によく似た女の子を寝かしつけながら、その子と夜勤でいないお前のことを心配している光景だったんだ。美波は無事にやっているかな、なんてさ」
これには美波もつい釣られて笑い出してしまった。キーランは、確かに苦労性ではある。
「でも、やっぱり最後にいつも頭に浮かぶのは、お前の寝顔かな。夜中にふいに目が覚めた時に、すぐ隣でぐっすり眠るお前の顔を眺めていると、オレはいつも、とても安心したような気持ちになる。お前が危ない目にあったり、悲しい思いをしたりすることなく、満ち足りたように眠っていると、オレはとりあえず、こんな世界でもやっていけるような気がするんだ。まだまだ、捨てたもんじゃないなって」
言い終わった時、キーランは暗い虚空を見つめていた。何かの存在を確かめようとでもするように、眉根を寄せる。美波は「こんな世界」というキーランの存在を脅かすものに思いを馳せ、キーランの手袋をした手の甲をそっと撫ぜた。それを合図に、いつものように、キーランが美波の手を握り返した。
「お父さんがね、引退後は、私の子どもの面倒をみようかな、なんて言っているの」
キーランは俯いて笑った。
「わかっているよ。お前と結婚するってことは、エディと川嶋の会社を引き受けることになるんだって承知している」
美波は左手の手袋を取ると、キーランの頬に当て、それからゆっくりとキスをした。キーランの口から大きな息が漏れた。
「キーランが大学に入った時から、本当は、いつもキーランと一緒にいられればいいのにってずっと思っていた。でも、キーランにはキーランの生活があって、だから、そんなことを言ってはいけないって自分に言い聞かせてきた。もちろん、何もかも放り出してニューヨークに行きたくなったことも何度もあったし」
美波のキスに応えるように、キーランは美波を自分の腕の中に包み込んだ。
「もう思い出すこともできないほど小さな子どもの頃から、私にはキーランしかいなかった。だから、もし、私がキーランといることで、キーランを少しでも幸せにしてあげられるのならば、それほど素敵なことはないと思う」
キーランがクスリと笑った。
「なぁに?」
「だって、考えてみたらお前は気楽だよな。寝てればいいんだもんな。お前、寝るのは得意だろう」
「でも、そう言ったのはキーランじゃない」
鼻に皴を寄せてキーランを見上げると、キーランは美波がよく知っている優しい眼差しを美波に対して向けていた。軽く息を吐き、一瞬だけ俯くと、コートの内ポケットに手をやりと、手品のように細い指輪を取り出す。
「左手を出せよ」
言われた通り、よく考えもせず美波は左手を出した。左の薬指に指輪を滑り込ませると、キーランは慎重に指輪をした手に唇をつけた。美波はこぶりのダイヤモンドがのせられた繊細な金の指輪を嵌めた自分の手をじっと見てしまった。とても非現実的で、まるで誰かの夢を映像として見ているような感じであった。この先、この指輪を嵌めた手に慣れることがあるのだろうか。
「母さんの父親が母親に贈った指輪なんだってさ。いけすかないじいさんだったけれど、それでもエディの財力に負けない婚約指輪をお前に贈るには家族に伝わるものを使うしかないだろう。もっとも、パットの家には形見の指輪なんてものすらないんだから、そんなものでも、とりあえずあっただけで上出来なんだ。だから、お前も今のところはそれで我慢しろよ」
美波はもう一度じっくりと左手の指輪を眺めてから、右手の手袋も取って、キーランの前にかざして見せた。この公園までの道すがらやって見せたように、モダンダンスのように手を動かすと、右手の小指のアクワマリンの指輪が弱い電飾の光に反射して、煌いた。キーランが眩しげに目を細める。
「これ、覚えているでしょう?まだ私が中学生だった頃にキーランが初めてくれた指輪。私の一番大切な指輪で、私が私の子どもに遺したい指輪」
キーランはゆったりと笑って、美波の右手をそっと掴むと、唇を押し当てた。それから暫くの間、ふたりとも黙ったまま、微かな波の音に耳を済ませていた。




