第11章
「今日は本当に大変だったね。僕も慣れないことをしなければならなくて、正直言って参ったよ」
病室に入ってくるなり、上着を脱いでネクタイを緩めながら、エディが言った。いつになく機嫌が良いのは、一目瞭然だった。
「マスコミっていうのもしつこいものだね。会社からここまで車が何台かつけてきたかと思ったら、病院の玄関のところにもまだたくさんのカメラマンたちがいたよ。どうしても君の写真を撮りたいらしい」
午後になってもイライラが治まらなかった美波は、そんなエディについ文句をぶつけてしまう。
「冗談じゃないわよ。恥ずかしくて、出かけられないじゃない」
「その体じゃ、どのみち当分は無理だろう」
なだめるようにそう言いながらエディは、ベッド脇の椅子に落ち着くと、テイクアウトのコーヒーを差し出す。
「ほら、これをあげるから、機嫌を直して。キーランから君がそろそろカフェイン欠乏症になっているだろうってメールが入っていたんだ」
「お父さん、Eメールなんか使えたの?」
「そりゃあね。もっとも、社員の中には、僕がITを使うのをあまり歓迎してない者もいるようだけれどね。僕が社内メールを入れたら、びっくりして、わざわざ部屋まで飛んできたのはひとりやふたりじゃないんだ。ITを活用して手間を省くどころか、増やしてしまうんだから、困ったもんだよ」
美波は慎重にコーヒーに口をつけた。今日のエディは饒舌で、カリフォルニアの空のように陽気であった。
「とにかく、川島都市計画も、絵梨子さんとの結婚問題も片づいた。そして、関谷さんのことも、もうすぐ一段落着く。加えて、君の顔がマスメディアに出てしまったけれど、もう誰も君を僕の愛人だと間違えることはない。これは大変な進歩じゃないか」
「お疲れ様」
美波は足元に投げ捨てられた夕刊紙をちらっと見ながら、素っ気無く言った。さっき看護師が買ってきてくれたのだが、見出しには「子煩悩」「娘溺愛」「無敵国際派経営者の意外な一面」などの文字が躍り、どこで撮られたのか定かではない自分の写真があちらこちらに貼り付けられていた。エディは美波の戸惑いなどまったく気にしていない様子で、美波のことをニコニコと見上げていた。
「それでね、君に提案があるんだ」
「なぁに」
「先週、堂本教授と話したんだけれど、君は今のところ順調に回復していて、そろそろ退院しても大丈夫だって言うんだ。ただ、捻挫が完治するまでは自由に動けないだろうから、家で君の看病をする人間がいる。それは外科の医者である君にもよくわかっていることだろう」
美波は黙って頷いた。
「だからね、君と僕で、松濤の家に移ってはどうかと思うんだ」
「松濤の家に引っ越すの?お父さんと?」
びっくりして美波が聞き返すと、エディは苦笑する。
「そんなに驚くことはないじゃないか。あの家はもともと僕のものなんだし、君の原宿の部屋は荒らされた後、まだベッドもない状態だろう。君が青山のマンションに移ってくるってことも考えられるけれど、僕はあそこを売るつもりなんだ」
「青山のマンションを売ってしまうの。だって、あそこはお父さんとお母さんが生活した場所なんでしょう」
話の展開について行けず、美波は目をぱちくりさせてしまう。美波にとっては、エディは青山のマンションと深く結びついていて、対して、松濤の家には何となく不気味なイメージがあった。
「そうなんだけどね。ただ、青山のマンションを用意してくれた時に、宗田さんが、いずれはあそこを売って、フィーと君を連れて松濤の家に戻るまでの仮の住居と思ってくださいって言ったんだ。結局、それで25年もあそこに住むことになってしまったんだけれどね。だから、君とフィーと一緒に松濤の家に戻って、マンションを売って、それで、僕にとってはやっと今度の件の決着が着くことになるんだ」
エディは左の手で頬杖を突き、美波のことを見る。美波の視線はつい薬指の指輪に行ってしまう。
「お父さん、その指輪、どこで見つけたの?」
エディはにこやかに笑った。
「君が連れ去られた夜、キーランが持ってきてくれたんだ。君はその指輪のところにきっと帰って来るって言ってね。君がずっと持っていてくれていたんだろう。嬉しかったよ」
無邪気に言うエディに、美波はつい眉を寄せる。
「でも、お父さん。離婚が成立したばかりで、今までまったくしていなかった結婚指輪をし始めるなんて、可笑しいわよ」
「いいじゃないか。暫くの間は、フィーと結婚していた時のような気分に戻っていたいんだ。そうやって、君とフィーを松濤の家に連れて行く。あそこは僕が育った家だからね。君たちに見せたい物がたくさんある」
エディの物怖じをしない真っ直ぐな感情に圧倒されて、美波は父のことをじっと見つめてしまう。色々なことが片づいたというのは、本当のことなのだ。これまでエディの感情の表出を妨げていたものが取り除かれ、エディは今、解放感を享受している。だから、今のエディには恐れるものなど何もない。エディがゆっくりと美波の手を握った。
「本当のことを言うとね、これは提案じゃないんだ。実は、原宿の部屋から君の荷物を松濤の家に移してしまったし、僕の方の引越しもほぼ完了している。だから、君には松濤の家しか帰ってくる場所がないんだ」
微かに俯いて打ち明けるエディを軽く睨もうとして、美波は結局、笑ってしまった。本当に、困った人だ。
「どうせ君が結婚するまでのことじゃないか。それまで僕に付き合ってくれたっていいだろう」
「でも、知らない家で、しかもあんなに大きな家で、私はこの状態でやっていけるのかしら。お父さんだって仕事があるから、いつも家にいるわけではないでしょう」
美波が試みた最後の抵抗に、エディは完璧な笑顔を浮かべることで応えてみせた。美波の手の甲に軽く唇に当てながら、エディは言う。
「明日から、当分の間、家で仕事ができるように手配したんだ。もちろん、時々はどうしても出て行かなければいけないこともあるだろう。でも、松濤の家には手伝ってくれる人がたくさんいるから心配しなくていいよ。君も僕がそれなりの資産を持っていることは知っているだろう」
美波はとうとう声を出して笑い始めた。
「それで、お父さんの大好きな松濤の家に行けるのはいつなのかな」
「君さえよければ明日にでも。もうすべての準備は整っている。あとあの家に必要なのは、このお姫様だけなんだ」
美波はエディの手を引っ張って、抱擁をねだった。柔らかく笑って、エディは美波の体を大きな腕ですっぽりと包む。
「それじゃ、お父さん。私を早く家に連れて帰って」
エディは美波の耳元で、愛しているよと呟いた。
翌日の午後早く、美波の着替え一式を持って、エディは現れた。久しぶりにまともな洋服に袖を通して、何となく浮かれた気分になる。佐々木や元同級生たちは美波がいないと休憩時間がつまらなくなると残念がったが、3週間の入院生活に飽き飽きしていた美波は病院を一刻でも早く後にしたかった。やっぱり、病院では入院しているより、働いていた方がいい。
表玄関にはいまだにたくさんのマスコミ関係者が張り込んでいたので、スタッフと打ち合わせて、エディは病院裏の搬入口に迎えの車を回していた。堂本や佐々木、そして看護スタッフにできるだけ丁寧に礼を言って、エディの運転手つき国産高級車に乗り込む。車のバックシートにもたれて、美波が大きく息をすると、エディはクスリと笑った。
車が渋谷区内に入ると、エディの携帯電話が鳴った。しばらく相手の話を聞いていた後、そう、仕方ないねと言って、エディは電話を切った。首を回してエディの様子を確認すると、少し当惑しているようだった。
「関谷さんに関係したことでは、どうしてもタイミングが狂うようになっているみたいだね。今朝の予定では、僕らが戻るまでには関谷さんの逮捕は済んでいるはずだったんだけれど、どうもかち合いそうなんだ」
「関谷さん、逮捕されるの?」
「そうだね。でも、汚職と粉飾決済の問題だよ。後のことは立件されていない。君が大怪我をしたことも含めてね。80歳近い老人にはそれで充分だろう」
それだけ言うと、エディは美波の手を握ったまま、横を向いた。
松濤の家には、13年前に1度だけ来たことがあった。あの時はすっかり日が暮れた時間帯で、周囲の様子がよく見えなかったのだが、門扉を通り抜けた後、玄関にたどり着くまで随分と長い時間がかかったように覚えていた。日中に見る松濤の家は、大きな木々に覆われていて、土地の値段が異常に高い日本では、別の国にある家のようにも見える。細い車道を通り抜けると、壮麗な西洋館が現れて、美波は息をのんだ。戦前の建物だから、今の建築と違ってスケールが大きいんだと、エディは簡単に説明した。
美波たちを乗せた車は、前庭の車停めに入ると、大型の黒塗りの車の背後にピタリとつくように駐車した。エディは小さく息を吐くと、車を降り、美波の側のドアを開ける。そのまま軽々と美波を抱き上げ、玄関への階段を昇り始めた。美波はとても緊張して、大きな玄関のドアを見つめた。
玄関のドアが中から開いたのは、美波とエディが正面階段を半分ほど昇ったタイミングであった。複数の黒服の男たちが出てきて、その後に、ノーネクタイの関谷が続く。関谷のすぐ後ろには、寺崎の顔もあった。関谷は一瞬立ち止まって、階段を昇ってくる美波とエディに困ったような笑顔を向けた。
「よくやったじゃなか、真隆。これですべて、お前とお前の娘のものだ」
「彼女の名前は美波と言うんです。あなた風に言えば、川嶋の家の跡取りですよ」
エディは立ち止まって、しっかりと関谷を見返した。関谷は大きな笑い声を上げた。
「そんな西洋人形が川嶋家の跡取りとはな。大した世の中だ」
「時代は変わったんです、関谷さん。昨日から、彼女が日本人であることに誰も異議を唱えなかった。そもそも彼女がどういう人間であるのかを決める資格があなたにあるわけではない」
関谷は微かに頷いた。
「お前とは、もう会うことはないだろうな」
「そう願いたいですね」
エディはスイっと視線を外すと、再び階段を昇り始めた。美波はつい警察とともに階段を降りていく関谷を目で追ってしまった。家に入る直前、寺崎が振り返って、微かに手を振った。
玄関ホールに入ってすぐ、美波はその豪華さに圧倒されてしまった。エディの母方の親戚であるペンシルバニアのウォルトン家もけっこうな邸宅であるが、松濤の家は洗練された造りという点で優っているようにも感じた。エディはぐるっと周りを見渡すと、リラックスした表情で美波の顔を見る。
「さて、君のために家の中のツアーをしないとね。といっても、今のところは左翼の部屋しか見せることができないけれど、当座、必要な住居スペースとしては十分だからね」
言われた美波は呆気に取られて、周りを見ていた。ざっと見回しただけでも、高価そうな石が埋め込まれた床。流麗な線を描く正面の階段。細かな細工が施された木製の手すりやドア。フラスコ画が描かれた天井からは大きなシャンデリアが吊り下がっている。
「お父さん、本当にこんな家で育ったの」
「そうだよ。雨の日でも運動するスペースはたくさんあるだろう。だから、子どもにはぴったりなんだ」
エディは笑いながら、ドアが開け放たれ、陽光に満ちている開放的な居間のとば口に美波を連れて行く。
「ここは言ってみれば、日中を過ごすスペースかな。君は前に1度来た時に、迷い込んで、知っているだろう」
美波は確信なさげに頷いた。実際のところ、目の前に明るく広がる空間にのみ込まれてしまいそうだった。手前には大きなソファ・セットが置かれ、その奥には、ダイニング・テーブルをしつらえたサンルーム。左手方向の奥には、一面にフレンチ窓が設えられていて、そこから直接、庭に出ることができる。フレンチ窓の手前には、よく手入れされたグランド・ピアノがさりげなく置かれており、そして、一面のガラス戸の向こうの庭には、エディがお気に入りの西洋式東屋。この家に初めて来た14歳の時には、あの東屋でエディとダンスをした。
「子どもの頃から、朝食を摂るのはあのサンルームって決まっていたんだ。フィーが死んだことをパトリックからの電話で知ったのも、あそこだった」
エディに抱かれたままであった美波は、エディの顔を覗き込んだ。エディは穏やかに笑っていた。
「さて、2階に行こうか?」
エディはそのまま結構な段数のある階段を昇った。踊り場のところには車椅子が置かれていて、慎重に美波を座らせる。その時に、視線の端に、踊り場の反対側に佇む絵梨子の姿がひっかかった。
「僕は子どもの頃から左翼側で生活していてね。実は、右翼側のことはよく知らないんだ。右翼には、その昔、曾お祖父さんが住んでいて、その後は、関谷さんたちが住んでいた」
美波の座る車椅子をゆっくりと押しながら、エディは左翼の廊下を終点まで突き進む。
「君はこの部屋を使うといいと思うんだ」
エディは廊下の先端に位置する裏庭側の大きなドアを開けた。咄嗟に、美波は吊っていない方の左側の手を口に当てていた。
目の前に広がる部屋は、原宿の部屋のベッドルームとリビングルームを一緒にしたぐらいの広さがあり、部屋の壁2面に設えられたフレンチ窓のおかげで陽光に満ちていた。ドアから少し間隔をあけておおきな天蓋付きのベッドが置いてあり、その奥には3人がけのソファセット。フレンチドアは広々としたバルコニーに通じていて、窓際に置かれたドレッサーなどの家具はヨーロッパ風のアンティーク。部屋の側面の壁には大きなワードローブとバスルームへのドア。ちょっとしたホテルのスイートルームのようだった。
「君のお祖父さんとお祖母さんが使っていた部屋なんだ」
「とても素敵ね。お父さんが使えばいいのに」
美波がやっとの思いで答えると、エディははにかんだように笑った。
「駄目だよ。ここはカップルの部屋なんだ。独り者の部屋じゃない」
美波はドキッとしてエディを見上げた。エディは少し慌てたようだった。
「何も結婚してまでここに住めって言っているんじゃないよ。それは君と君の夫となる人が決めればいい。ただ、僕は、君のような若い人がこの部屋を使うべきだと思ったんだ」
そしてエディは部屋の奥の3人がけのソファを指差した。
「子どもの時、僕はよく、あのソファで眠り込んだんだ。夏になると、毎日のようにバルコニーで食事をして、君のお祖父さんが家にいる週末には、バーベキューなんかもした。それで、散々楽しい思いをして、あのソファで眠り込んだ。でも、時には、朝になると自分の部屋に戻されている時があって、今になるとなぜそういうことになったのかわかるけれど、当時はとても混乱したんだ。自分は眠っている間に移動できるんじゃないかってね。しかも、君のお祖父さんも冗談が好きだから、悪乗りして、僕のことをそうやって信じ込ませようとしたりして、君のお祖母さんに嗜められていた」
エディの話に、自然と美波の顔が緩む。
「良いお話ね。私もお祖父様とお祖母様に会ってみたかったな」
「そうだね。君のことをとても可愛がったと思うよ。ジェームスと同じようにね」
言われて、美波はメイン州の小さな漁村で街医者をしていた祖父のことを思い出した。白いあごひげを生やして、エディに負けず劣らず船遊びをするのが趣味であった。スコットランド出身だったので、微かに聞きなれない訛りのあることばで話したが、美波もキーランもそんな祖父に本を読んでもらうのが大好きだった。そして、エディも、美波の祖父のこと深く愛していたのだと思う。
それからエディは左翼にあるその他の部屋をひとつずつ丁寧に案内してくれた。書斎、家族用のダイニングルームと居間、それそれに意匠が凝らされた客用寝室3部屋、そして最後にエディの寝室。いまだに学生のような雰囲気の部屋に、美波は思わず笑ってしまった。
「お父さん、これはいくらなんでもあんまりよ。もう少しゴージャスにしなきゃ、かっこつかないんじゃないかな」
「そうかな。この部屋を頻繁に使っていたのは、30代前半までだったから確かにあまり手を加えていないけれど、それでも僕はシンプルで良いと思うけれどね」
「でも、シングルベッドじゃつまらないでしょう」
言ってしまってからつい噴き出すと、エディは軽くウィンクをしてみせた。
「実は、右翼がもうすぐ空くから、あっちを僕用に改造しようかなって考えているんだ」
「どんな風に?」
「もう少し、今風にね。それから、子ども部屋、脱却かな」
「子ども部屋?」
「そう。ここはもちろん、僕がそれなりの年になるまで子ども部屋だったからね。たくさんのおもちゃが転がっていて、壁にはウサギや象が飛び跳ねていた。実は、あの本棚の裏には、十代の少年には恥ずかしい動物のプリントが隠れているんだ」
美波はたまらずにお腹を抱えて笑い始めていた。つられたように、エディも笑い声をたてる。
「そう笑うけれど、僕にだって子どもだった時もあるんだからね。子ども時代のおもちゃや本は皆、屋根裏部屋に収納してある。怪我がよくなったら、見てみるといいよ。客用の寝室の間にドアがあったろう。あのドアの向こうの階段を昇れば屋根裏部屋に行ける」
「楽しみだわ。今すぐにでも見てみたい。お父さんのウサギさんと象さん」
「それから、ライオンやドラゴンや、その他、ありとあらゆる動物を僕は飼っていたよ。想像上のものを含めてね」
エディは快活に続ける。美波はそんなエディの声を聞くことが単純に嬉しくて、肩越しにエディの手を硬く握った。
「ありがとう、お父さん。やっとこの家を実際に目にすることができて、とても嬉しいわ」
「これからもっと、色々なことを発見していくさ」
エディは背後から美波を抱くと、デリケートな仕方で頭の先にキスをした。
「おかえり、美波。長い間、待っていたよ」
翌日の朝、美波がまだベッドの中でぐずぐずしていると、携帯電話が鳴った。
「それで、あの松濤の家で、昨日はぐっすりと寝られたのか」
からかうようなキーランの声が、まだ判然としない美波の頭に飛び込んでくる。
「どうして昨日、松濤の家に移ったこと知っているの」
覚えている限り、自分からはキーランに話してはいないと思いながら、美波は身を起こす。
「エディからのメール。暫くの間、美波の看病するために松濤の家で仕事をするからって、エディの仕事の代理を幾つか押しつけてきた。オレは川嶋の社員じゃないんだけどな」
「それはゴメンね」
キーランの声音はエディの所業を余り気にしているとも思えなかったが、それでも一応謝っておこうと美波は愁傷に言う。
「いいよ。最近エディは絶好調で、そのエディについて行くのが大変みたいでさ、他の経営陣は皆、疲れきっているから、エディがお前に構っていると骨休みができるだろう」
何だか、キーランの話を聞いているとエディはとことん迷惑な人間みたいだ。
「それで、どうなんだよ。松濤の家の居心地は?まさか、幽霊屋敷ではないだろうな」
キーランは喉の奥で笑いながら聞く。そういう映画を、昔、キーランとたくさん観たなと思いながら、美波も笑う。
「すごく大きくて、豪華よ。今、天蓋付きのベッドで寝ているの。この部屋の外にはおおきなバルコニーがついているし、家具はすべてヨーロッパ製みたいなアンティーク。それにね、住み込みの家政婦さんがひとり、通いの人がふたりいて、その他にコックさんと掃除に来る人がいるみたい。びっくりした」
「へぇ。王様がとうとう本性を表したってわけか」
「お父さんの小さな時の話をたくさん聞いたの。確かに、この家で、王子様みたいに育ったみたい」
キーランの笑い声が更に高くなる。
「それは是非、見てみたいもんだな」
「見に来ればいいのに」
美波は多少、本気になって言ってみた。キーランは鼻で笑った。
「そんな手には引っかからないよ。今度はお前がこっちに来る番だって言っただろう。実は、電話したのは今日、航空券を送ったからなんだ。届いたらちゃんと知らせろよ」
「もう手配したの?気が早いね」
「なに言っているんだよ。クリスマスまで1ヶ月を切っているんだ。遅かったぐらいだよ」
もうそんな時期かと、美波は改めてびっくりしていた。美波がボーっとしていると、キーランが一瞬、間をおいてからいつもより少し低い声で聞いた。
「それで、エディはウキウキしてお前の看病をしているんだろう?」
「子どもの時みたいに面倒見てくれているよ。昨日は、コックさんがいるのに自分でご飯作ってくれたし、午後早くにこの家に戻ってからベッドに行くまでの間、私の側からまったく離れなかった」
「やっぱりね。そんな調子だろうと思ったから、この時間に電話したんだ」
それから、キーランは軽くため息を吐いた。
「ところでさ、まだ関谷の家の人たちもその家にはいるんだろう?」
「昨日、絵梨子さんを見かけた。でも関谷さんは昨日、警察に逮捕されたよ」
「それは知っているよ」
キーランはしばらく考えごとをするような感じで沈黙した。
「どうしたの?」
「大したことじゃないよ。まぁ、エディがお前に引っ付いているから心配はないよな。お前はさ、せいぜい、しっかりと看病して貰うんだな。エディにとってはさ、やっと念願がかなって、お前とおままごとができるようになったわけだからさ」
美波の質問に、キーランは早口で答えた。それで、美波は何となく不安になる。キーランがいつもにも増して口が悪くなるのは、絶対に何かを隠している時だ。
「それよりさ、オレにはこの週末、けっこうなエンターテイメントの予定があってさ、とても楽しみにしているんだ」
「何のこと?また、ニックスのゲームにでも行くの」
突然、話題を代えるキーランに戸惑いつつも、美波は何気なく聞き返す。キーランは笑いが噛み殺せないような感じの声を出した。
「それがさ、ビデオなんだ。岸田さんが、一昨日の騒ぎをビデオに取って送ってくれたはずだから、週末までには届くだろう。聞いたところによると、エディはテレビカメラの前でお前にデレデレだったらしいじゃないか。もちろん、オレが観終わったら、母さんたちにも回すから、覚悟しておけよ」
「ええ、あんな恥ずかしいことを録画したのぉ」
美波はその場にそぐわない大きな声を出していた。キーランが大爆笑を始めた。
「永久保存版さ。悪いな」
それだけ言うと、キーランは常のようにさっさと電話を切ってしまう。携帯電話を握りながら、美波は今頃、キーランが思う存分笑っているのを確信していた。
君とフィーを松濤の家に連れて行くと言った通り、エディはフィオナの写真をあちらこちらに飾っていた。美波の部屋には、キーランが芳賀暁と寺崎から貰いうけてくれた写真が修理された写真立てに入れられて置いてあったし、階下のエディが言うところの「日中を過ごすスペース」の暖炉の上には、エディとフィオナの結婚写真が赤ん坊の頃の美波の写真と一緒に飾ってあった。シンプルな白いドレスを着て、頭にバラの花を飾ったフィオナに、壊れ物でも扱うかのようにそっと手を回し、ぴったりと寄り添う若いエディはとても幸福そうで、良いカップルだったというアリシアとパトリックのことばが一層、重く感じられた。大きな木の塊が勢いよく燃える暖炉の側で、医学書をめくっていたはずなのに、つい写真に見惚れてしまっている自分に気づき、美波は赤くなって医学書のページに再び目を落とす。母の存在をこれほどまでに身近に感じたことは、これまでなかった。ふと振り返ると、背後の大きなソファに陣取って、書類とノートパソコンを広げていたエディが、穏やかに笑って美波のことを見ていた。
その電話を取ってすぐに、エディの顔から表情が消えた。軽く相槌を打ち、まったくしょうがないなぁと言う。
「とにかく、ロンドンから真柄君に至急、現地に行って貰うんだ。ああ、わかっているよ。できるだけ早く出るから、準備をしておいてくれないか。もし多少の余裕があるのならば、神田君の帰国命令を準備しておいてくれないかな。彼だって、次がないことはわかっていたはずだ」
エディは大きなため息を吐くと、携帯電話を置いた。美波は笑顔でエディの顔を覗き込んだ。
「トラブルなの?」
「スペインのプラントでちょっとね。先週から3度目だから嫌になるよ」
大股で美波の方に近づき、左手を握って、エディは答える。
「早く行ってらっしゃいよ。お父さんがいないと困るんでしょう」
できるだけ軽やかに言ってみせると、エディは困ったような顔をした。
「だけど、タイミングが悪いことに、今はこの家には誰もいないだろう?家政婦の澄江さんと和歌子さんはふたりとも、絵梨子さんの引越しの手伝いで当分帰ってこないし、コックの黒田さんには休みを取ってもらったしね。だから、僕がいなくなると、この家に君独りってことになる」
「私のことなら大丈夫よ。それとも、お父さんは明日の朝まで帰ってこられないのかな」
「まさか。数時間のことだよ」
気軽に言った冗談を真顔で否定して、エディは美波を探るように見る。
「それなら病院にいるのと一緒でしょう?私はここで大人しく本を読んで、寛いでいるから、お父さんは面倒ごとを早く片づけていらっしゃいよ。それで、帰ってきたら、夜ご飯を一緒に食べましょう」
美波がエディの顔を見上げると、エディはしばらく検分するかのように、じっと美波の顔を見つめていたが、やがて腰を曲げて頬にキスをする。
「僕はどんなに遅くても7時までには戻れると思うし、澄江さんと和歌子さんたちは夕方には帰ってくるはずだ。だから、独りでいるのはほんの2、3時間のはずなんだけれど、君は本当に大丈夫なのかい」
「医者の私が大丈夫と言っているのよ。だから、お父さんにできることは、できるだけ早く帰ってくることだけ。入院中、一人で食事をしなければいけないのに飽き飽きしていたんだから、晩御飯にはちゃんと帰って来てね」
できるだけねだるように言うと、エディは苦笑した。
「わかったよ。それで君がちゃんと食事を取ってくれれば、万々歳だ」
降参したように肩を竦め、もう一度、美波の頬にキスをすると、エディは着替えをするため、階上に駆け上がっていった。
エディが出かけてしまうと、美波はより集中して医学書のページに没頭できるようになった。心臓外科の専門書には、アクロバットのような手術技法がいくつも紹介されていて、美波には適当なエンターテイメントになった。エディやキーランが本に載せられている写真を見たら、きっと気分を悪くするだろうけれど。
そんな風に時間を忘れて本に集中していたせいで、美波は、綾乃が自分の目の前に立ち、読んでいた本を取り上げるまで、他の人間が部屋の中に入って来たことにはまったく気がつかなかった。
「何の本、読んでいるの、お姉さま」
頭上からの声に弾かれたように顔を上げると、綾乃は、車椅子に座ったままの美波を斜めに見下していた。綾乃の突然の出現にとても驚いた美波は、つい、彼女の顔を無遠慮にじっと見返していた。
「何の本を読んでいるのかって聞いたのよ。それとも、私なんかとは口を利きたくないの?」
揶揄するような笑顔を浮かべ、綾乃は、再度、聞いた。
「心臓外科」
「心臓外科?退屈そうね」
本のページをぱらぱらめくると、綾乃は、気持ち悪いっと笑って、本を小脇に抱えた。
「とにかく、究極のお嬢様ってメディアで評判のお姉さまに、この家を追い出される前に会うことができて嬉しいわ」
美波の車椅子をぐいっと自分の方に向け、綾乃は体を屈めた。強いアルコールの臭いがして、美波は思わず顔を背けた。
「なぁに、どうしたの?」
「あなた、一体、どれだけの量のお酒を飲んだの?急性アルコール中毒の患者のような臭いがする」
「大げさね。大したことないわよ。私、これでもお酒強いの。ねぇ、拓ちゃん」
綾乃は甲高い笑い声を立て、ソファの方を向いた。さっきまでエディが書類を広げていたソファでは、若い男がウィスキーのビンを片手に、マグロのように横になっている。赤に近い色に染めた髪をどこかで見たことがあると思ったら、いつか綾乃が出演したブラッドなんとかとかいうバラエティ番組の司会者3人組のひとりだった。確かあの後、この家からそう離れてはいないバーでも会ったはずだ。
「拓ちゃんがお姉さまに会いたいって言ったから、家まで連れてきてあげたんだからね。そんなところで寝ていないでよ」
綾乃が駄々をこねるように言うと、若い男は低くおおっと唸り、よろよろっと立ち上がる。
「こちらが噂の美波さん。私の腹違いのお姉さま。この腹違いがポイントなんだな」
何がおかしいのか綾乃はまた大きな笑い声を立てた。拓ちゃんと呼ばれた男は、お姉さん、よろしくと美波に酒臭い体を傾ける。美波は精一杯、身を捩った。
「水を飲んだ方がいいわ。このままじゃ、ふたりとも病院行きよ」
「だから、大丈夫だって。お姉さまは、本当に、真面目なんだから。でも、だからお父さまはお姉さまだけが可愛いのよね」
後半の部分を美波の耳元で囁くように言い、綾乃はふふんと鼻を鳴らす。思いもがけず、綾乃の虚ろでどんよりとした目を間近で見て、美波は嫌な予感で一杯になる。この子、多分、お酒以外にも何か摂取している。新宿の病院の救急部で、この一年半、ありとあらゆる中毒症を目撃してきた美波には、自分の判断に自信があった。
「ねぇ、拓ちゃん、ひどいでしょう。お父さまはね、このお姉さま以外に子どもがいるとは思えないんですって。それで、私とお母さまは用のなくなったお祖父さまと一緒に捨てられて、お父さまはこの家でお姉さまだけと幸せに暮らすんですって。それが夢だったんですって」
拓という男の首っ玉にかじり付き、綾乃は言う。目の前に広がる光景に、美波は呆然としていたが、何も言わないように心がけた。中毒患者を諭そうとしても、抵抗されるだけで、無駄である。特に、体の自由が利かず、体力に自信がない今は、できるだけ刺激しない方がいい。
「そうか。綾乃ちゃん、芸能界だけじゃなくて、この家からも追い出されるのか」
「そうだよ。仕事をホサレただけでもヒドイのに、引越しもしなければいけないんだよ。それもさ、最初、ママはお祖父様の黒磯の山荘に行くって言ったんだよ。あんな何もないところに。でも、昨日、お祖父様が警察に連れていかれたから、当分は東京でお祖父様を助けなきゃいけなくて、お父様が『ご親切に』下さったマンションに引っ越すんだって。『ご親切』になんて呆れちゃうよね。だって、お父様はあんなにお金を持っているのに、今度、引っ越すマンションは世田谷にある3LDKだって言うじゃない。ママも離婚するなら、アメリカの人みたいにお金をぶん取ってやればいいのに。そうじゃないと、皆、あの人のものになるんだよ。この家も、お金も、そしてお父様も」
綾乃は真っ直ぐに美波のことを指差した。美波は顔を背けた。
「それじゃ、綾乃ちゃんが捨てられる前に、お姉さんのこと捨てちゃえば。そうすれば、綾乃ちゃんの居場所が残るじゃん」
呂律が回らない舌で、拓が言う。拓の理屈が理解できず、美波はびっくりして、抱き合うふたりを見ていた。拓の指が綾乃のウェストの辺りを這っていた。
「捨てるの?外に捨てちゃうんだ」
「そう、俺、綾乃ちゃんのためなら、手伝ってやるよ」
「拓ちゃん、天才。とってもいい考え。やろう。やっちゃおう」
綾乃は飛び上がって拓に抱きつくと、キスを始めた。危険を感じた美波は、左手でゆっくりと車椅子の車輪を後退させ始める。何としても逃げなければと、必死だった。
「駄目だよ。そんな格好じゃ逃げられないよ」
美波の動きに気がついた綾乃が、持っていた医学書を暖炉に投げ込み、美波の車椅子を掴んだ。燃え盛る火の中で跳ね返った医学書に美波が手を伸ばそうとした瞬間、拓が美波にタックルし、軽々と肩の上に持ち上げる。
「離して」
左手で拓の肩を叩くと、拓と綾乃は大きな笑い声を上げた。拓の肩に乗せられて、美波はまったく身動きが取れなかった。すぐに、綾乃が庭に通じるフレンチドアを開け、派手な音をさせて車椅子を投げ捨てた。
家の裏手にある雑木林をかなり進んでから、拓は美波を地面に下ろし、コンクリートの土台の上に黒い鋼が複雑な模様を描く壁に対してよりかかるように座らせた。その日は朝から雲が重くたちこめて気温が低かったこともあり、地面に直に座らされた美波は体に凍み込むような冷気に震えた。辺りはすでに薄暗くなっており、日没までそう時間もないようだった。ここに来るまでに散々と抗議したのだけれど、綾乃も拓も聞く耳を持たなかった。交互にウィスキーのビンに口をつけると、ふたりは辺りを見回す。
「ここが綾乃ちゃんの家の敷地の境界?」
「多分ね。でも、こんな奥まで来たことがない」
「なら、ちょうどいいじゃん。お姉さん、ここにおいておけばいい」
綾乃はにっこりと笑って、美波の方へ屈んだ。
「お姉様、冬のキャンプも楽しいでしょう」
美波は顔を背けた。多分、今は何を言っても無駄なのだろう。どうにかして、エディに連絡を取る。それ以外に、この状況を脱する手はないように思われた。
「ねぇ、拓ちゃん、あれ持っていたでしょう?」
「あれ?」
「そう、これ。綾乃のお姉様に貸してくれるよね」
そう言って、綾乃は、拓のミリタリー式ズボンのベルト穴からぶら下がっていた手錠を引っ張る。美波は顔が極度に強張るのを感じた。須藤たちに拉致された時のような経験をするのは、もうごめんだった。
「おお。いいよ。使えよ」
拓は付属の鍵を使って、金属製の手錠を外し、綾乃に渡す。綾乃はとても可愛らしい笑顔を浮かべ、美波の自由な左手を掴もうと近づいた。美波は必死で地面を張って、綾乃の手から逃れようとしたが、まったく効果がなかった。結局、拓が美波の体を押さえ込み、綾乃が美波の左手に手錠をはめると、手を頭上に高く上げるような体勢になるように鋼につないだ。手錠が手首に食い込む感覚に、パニックを感じ、涙が零れた。
「いい格好。そうやって、手錠されているの、好きでしょう」
綾乃はゆっくりと美波の耳元で囁いた。美波は綾乃を見上げた。
「あなた、何を知っているの?」
「アンタなんか、海で溺れて死んじゃえばよかったのよ」
冷たく言い放つと、綾乃は持っていたウィスキーを美波の対して盛大に振りかけた。むせ返るようなアルコールの臭いに激しく咳き込む。
「ねぇ、火をつけてやろうか」
綾乃は美波の目を真っ直ぐに捉えて、言った。彼女が冗談を言ったのではないことがよくわかった。体がねじれるような恐怖を感じ、美波は、大きく息をする。拓が綾乃の肩を掴んだ。
「ねぇ、もう行こう。他にもっと面白いことをしようよ。お姉さんは放っておいてもどこにも行けやしないよ。あとで戻ってくればいい」
「なぁに、拓ちゃん、クスリ切れそうなの?」
「うん。だから、行こう。俺、ミジメなのは嫌なんだ」
拓は綾乃の肩に手を回す。しょうがないなと、綾乃は拓に膨れた顔を見せた。
「それじゃ、お姉様、またあとでね。ごきげんよう」
中学・高校時代、多くの生徒がしていたように軽く挨拶の礼をしてみせると、綾乃は拓とともに歩き出した。とりあえず命拾いしたようだった。美波は深く俯いていた。
携帯電話は身に着けているカーディガンのポケットに入っていたが、左手を手錠で拘束され、右上半身がギブスで固定されている状態では手に取ることは不可能であった。クスリが切れたと言っていた綾乃と拓が帰ってくるまでに、どのぐらいの時間の余裕があるのだろうか。あの調子ならば、今度戻ってきた時には、実際に美波に火を点ける可能性だって否定できない。ふたりが戻って来るまでに、誰かが自分のいないことに気づいて、エディと連絡を取ってくれるのだろうか。エディは遅くとも7時までには戻ると言っていたが、それまでどのぐらいの時間があるのだろう。第一、今、一体、何時なのだろう。
美波が辺りの様子を伺いながら、あれこれ考えていると、ふいに冷たい水滴が美波の頬をつたった。見上げると、暗い空から大粒の雨が滴り落ちてくる。何てタイミングが良いんだろう。美波は何となく笑ってしまい、ゆっくりと目を閉じた。冬の夜にずぶ濡れになるのも悪いことではないのかもしれない。少なくとも、雨が降っていたら、綾乃と拓が戻ってくることはないだろう。振りかけられたウィスキーのせいで、猛烈に気分が悪かった。
突然、携帯電話が鳴り、美波は目を開けた。まだ雨が強く降っていたが、辺りは真っ暗であった。電話の呼び出し音は暫く鳴り続け、一瞬だけ止まると、再開した。直感的にエディが自分を探しているのだと美波は思い、携帯電話を取ろうともがいた。そのうちに、お父さんと、暗闇に向かって呼びかけていた。
数分後、ゆっくりと弱い光が交錯するのが見えた。携帯電話の呼び出し音は依然として続いていた。美波はエディを呼ぶ声を高めた。すると、暗闇に突然、人影がふたつ浮かび上がり、美波の方へ駆けて来るのが見えた。美波は大きく息を吐いた。
境界の壁に手錠でつながれた美波の姿を見て、エディは一瞬だけ絶句し、すぐに美波に駆け寄った。着ていたコートを脱ぐと、体に掛け、雨に濡れ、顔に張り付いた髪の毛をかき上げる。
「どうしてこんなひどいことを」
美波はただ安心して、エディの肩に自分の頭を載せた。口をきく気力はほとんど残っていなかった。エディはそんな美波の頭を強く抱いた。
「社長、これは金ノコかピンチが要りますね。お宅にありますか」
エディと一緒になって美波のことを探していたのだろう。声の先をぼんやり見上げると、秘書の岸田が手錠の先がとめられた鋼を調べていた。
「何だって?」
「金属を切断する工具のことですよ。お宅にそういうものがありますか?」
「さぁ、そんなものがあったかな」
珍しく、エディが不安げな声で答えていた。明らかに当惑しているようだった。
「家に戻って聞いてみなければわからないよ」
「それなら、僕が聞いてきましょう。ついでに救急車も手配してきます」
岸田は努めて事務的に言い、数歩、歩き出した。そんな岸田の後ろ姿に、エディがはっとしたように声を掛ける。
「君、ここから家まで戻れるかい?」
それで、岸田は改めて辺りを見回し、すぐに照れたように下を俯いた。
「すいません。おっしゃる通りです。自分がいる場所さえ判断できません」
「無理もないよ」
エディは美波の額に丁寧にキスをし、立ち上がった。
「僕は一旦、家に戻って、その何とか言う工具と救急隊員をここまで連れてくるよ。岸田君、君、雨の中で悪いけれど、僕が戻るまで美波と一緒にいてくれないかな」
「そんなことはお安い御用です。役得ってものです」
美波に対して傘を差しかけて、岸田が快活に答えた。エディは美波に対して屈みこむと、頬に手を当て、すぐ戻るからねっと確証するように言い、早足でその場を離れた。
「美波さん、このごろ災難が続きますね」
エディが行ってしまうと、スーツが汚れるのも構わず、美波の横に腰を下ろし、岸田が誠実な声で言う。岸田の調子に誘われ、美波は薄く微笑む。差しかけてくれている傘のおかげで、少しだけ息がつけるようになっていた。
「うーん。もう、災難は終わりにしたい」
「もうすぐ、終わりますよ。もう90パーセントぐらいは片がついているんです。それで、社長と美波さんが、来月、ニューヨークに休暇に行ってくれれば、僕らの災難も終わります」
岸田の言い方に、美波は思わず声を出して笑っていた。
「でも、岸田さんのおかげで私はもうひとつ災難を抱え込むことになったんですよ」
「僕がですかぁ?」
心の底から驚いたというような表情を、岸田は見せた。エディが可愛がるだけあって、誠実な好青年だ。それで、きっと仕事もできるのだろう。
「そうですよ。だって、岸田さんがキーランにこの間の騒ぎのビデオを送ったわけですよね。私は、後で、キーランに散々とからかわれることになります」
美波の説明に、岸田は照れたように笑った。
「あれはですね、やっぱり仲間内で社長の弱みを握っている人間が誰かいないと困るじゃないですか。今のところ、社長は無敵で、その社長をコントロールできるのは美波さんだけでしょう。でも、美波さんは川嶋のビジネスから距離を取っているし、そうなると、誰も社長に対して何も言えなくなってしまいます。けれども、あのビデオをキーランさんが見たら、多少は社長をからかったりできるのではないかと思ったんです。社長はキーランさんをとても信頼しているし、美波さん、キーランさんと結婚するんでしょう?」
えっと小さな声を出して、美波は岸田を見た。
「会社ではそういう話になっているんですか?」
「そうですよ。だから、このところ、誰も彼もが来年の6月上旬の社長のスケジュールをできるだけ空けるようにしているのかなって思っていたんですけれど」
岸田の言うことを聞きながら、美波は心臓の鼓動が急激に高まり出すのを感じて、大きく息をした。その途端、体ががたがた震え始めた。
「美波さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫。でも、岸田さん、少し肩を貸してください。ものすごくだるいの」
「もちろん、好きなだけ寄りかかってください。この状態じゃ、キーランさんだって怒らないでしょう」
美波は岸田の言うことを聞きながら、目を閉じた。しばらく前から、体の節々が痛み始めていた。多分、熱が高くなっているのだろう。本当に災難だとしか言いようがない。
救急車が美波を運び込んだのは、堂本が紹介状を書いてくれた近隣の外科病院だった。翌日の朝、診察を受けることになっていたので、ある意味では手間が省けたということにもなるのだろう。念のため肩と足の傷をチェックしてもらったが、外傷は今回の件で特に悪くなってはいなかった。ただ、熱だけは盛大に上がっていった。冬の夕方、長い間雨に打たれていたせいで、肺炎を引き起こすことがないと良いのですがと、初老の医師は言った。意識が朦朧としていた美波は周囲の状況をしっかりと把握していたわけではないのだけれど、警察には知らせないでというフレーズが頭の中で渦巻いていた。
結局、正気づくまでに丸1日以上かかってしまった。熱にうなされていた間、美波はエディがずっと側に付き添っていてくれたことを感じていた。エディと何かことばを交わしたような気もしたが、すべては夢であるようでもあった。
突然、頭がすっきりとし、大きく目を開けると、エディは顔を綻ばせた。
「やっと気がついたんだね。ひどい熱だったんだ。少しは下がったみたいだけれど、体の調子が元に戻るまでには時間がかかるだろうって医者は言っていたよ」
美波の額に手を当てて、エディは言う。
「お父さん、ずっとそこにいてくれたの?」
「正確に言うと、ずっと、この場所にいたわけではないよ。子どもの時以来、初めて、あのソファで寝る特権を行使した」
「それで、自分が随分と大きくなったことに気がついた?3人がけのソファでは窮屈だったでしょう」
「だからって、もう、君の横で寝るわけにもいかないだろう」
美波の額を撫ぜながら、エディは柔らかく笑う。言われた美波は、幼い時、自分が病気になると、父が一晩中、腕に抱いてくれていたことを思い出した。
「さぁ、君は少しでも何か食べた方がいいな。この2日間、まったく食事をしていなかったんだ。君はまた食べたくないって言うのだろうけれど」
「アイスクリームだったら食べてもいいな」
妙に甘えたいような気分だったので、美波が笑いながらそう言うと、エディは顔を顰めてみせた。
「その前に、スープか卵料理を食べるんだね。そうしたら、君の好きなアイスクリームを持ってきてあげるよ」
エディはスッと立ち上がる。
「そう言えば、キーランが電話してきたよ。君は体調を崩して寝ているって言ったら、びっくりしていたから、落ち着いたら電話をかけてやるといい」
「今電話しても、時間は大丈夫かな」
「夜中だろうが、彼には関係ないさ。キーランがとても心配性であるのは、君が一番良くわかっていることだろう。君が電話すれば、彼の気分も落ち着くはずだ。それから、キーランから君宛の国際宅配便も届いていたよ」
ベッド脇のサイドテーブルに載せられていた書類封筒を取り上げ、エディは美波に渡す。美波はエディの顔を見つめた。
「お父さん、そう言えば仕事は?」
「大丈夫だよ。スペインの問題は片づいたし、今日は土曜日なんだ。この週末は完全に休むし、来週も、大きな問題がない限り絶対に出て行かないって言ったら、皆、喜んでいたよ。僕としてはちょっと複雑な気がしないこともないけれどね」
「今のところは、お父さんを家に引き留めておくのが私の仕事みたいね」
「君がうまくやれば、それで、グループの重役たちからけっこうな給料をもぎ取れると思うよ」
エディはもう一度、美波の額にそっと触る。
「それで、スープと卵、どっちかな?」
美波は苦笑して、卵と答えた。
軽いノックの音がしたので、どうぞといってドアの方を見ると、入ってきたのは絵梨子だった。ふいをつかれて、美波は思わず身構えてしまう。
「ごめんなさい。怖がるのも無理はないと思うし、驚かすつもりはなかったんだけれど、あなたと話がしたいとお願いしたら、真隆さんがそれじゃあなたのお食事を持っていってくれって言ってくださったの」
それから、絵梨子は盆に載せられたスクランブルエッグとサラダが綺麗に盛られた皿を示す。
「真隆さんがこんなにお料理がお上手だったなんて知らなかったわ。これならひとり暮らしが苦にならないはずよね。きっと、私よりも料理の本を出すことがふさわしいのではないかしら」
絵梨子はごく自然に美波に笑いかけ、そんな絵梨子に釣り込まれたように美波も微笑み返す。
「お父さんに料理を教えたのはアリーおばさんとお母さんなんです。だから、絵梨子さんのような凝ったお料理ができるとは思えないけれど」
絵梨子は相変わらず静かに笑みを湛えたまま、盆をサイドテーブルに置くと、美波に手を差し出した。
「さぁ、体を起こすのを手伝うわ」
美波の体を支え、背中に枕やクッションを当てて、楽な体勢が取れるように細心の注意を払って美波を座らせると、絵梨子はさっきまでエディが座っていたベッド脇の椅子に座り、美波の膝の上に盆を置く。
「あなたがちゃんと食事をするように見張れって、真隆さんから言われているの」
美波は苦笑してフォークを取り上げた。正直なところ、食べ物を見ただけでもうお腹が一杯なような気がしたが、絵梨子の手前、食べないわけにもいかないような気がした。エディもなかなかの策士である。
「実はね、こうやってあなたのところに押しかけたのは、あなたにお礼が言いたかったからなの。あなた、綾乃のことを2度も見逃してくれたでしょう。須藤組の人たちに拉致された時と、それから一昨日のこと」
美波は皿に視線を落として、料理を口に運ぶことに集中するふりをし、小さな声で何のことだかと言った。
「病院で警察に知らせないでって言ってくれたそうね」
「よく覚えていないんです。朦朧としていたから」
絵梨子は美波が初めて見る穏やかな微笑みを浮かべて、美波のことを見返した。
「綾乃のことを入院させたの。そのことでは、真隆さんも手伝ってくださったわ。あなたがいなくなって皆で探していた時、自分の部屋でお酒とドラッグで意識不明の状態になっていたのを見つけたの」
美波は黙ってエディの料理したスクランブルエッグを少しずつ口に運び続けた。絵梨子は大きく息を吐いた。
「私が真隆さんと初めて会ったのはあのバルコニーだったわ。私が3つで、真隆さんが7歳。祖母に連れられて、お食事におよばれしたの。ほら、私の祖母は真隆さんのお祖父さまの妹に当たったでしょう。この家にとても執着があったのね。それで子どもだった私を連れてこの家によく遊びに来たの。私たちがバルコニーに出て行くと、お母様の真理おば様がテキパキとテーブルのセッティングをしていて、真隆さんはとても嬉しそうにそれを手伝っていた。真隆さんは真理おば様と隆おじ様の間で、この上なく幸せそうだったわ。たった3歳だったけれど、真隆さんがとても特別な少年であることが私にはすぐにわかった。そして、とても憧れたの。でも、そんな風にすっかり真隆さんに魅了されてしまっていたから、真隆さんが声を掛けてくれても恥ずかしくてなかなか答えられなくて、真隆さんは変な子だと思ったみたい」
絵梨子はバルコニーを見詰めたまま、喋り続けた。疲労が染み込んだ、絵梨子の美しい横顔。美波はそんな絵梨子にすっかり目を奪われていた。
「祖母も父も、私が生まれた瞬間から、真隆さんと私を結婚させるつもりだったの。私はそんな父たちの思いをよく知っていて、それで、嬉しく思ったものよ。将来、自分があんな素敵な少年と結婚できるんだと思ったら、とてもわくわくした。家の躾もあったんでしょうけれど、少女時代の私には、自分が職業を持つことなど考えられなかったの。隆おじ様と真理おば様のような幸せな結婚をすることだけが私の望みで、真隆さんはそのための最適な相手であるように思えた。でも、考えてみれば、真理おば様はずっと川嶋のお仕事を手伝っていて、その合間に自分の文章を書いていらっしゃったのだから、今風に言えばキャリア・ウーマンだったのよね。あの頃はまったく気がつかなかったけれど」
絵梨子はそこでことばを切り、しばらくの間、当惑げに下を俯いていた。
「フィオナさんに初めてお目にかかった時、とてもびっくりしたわ。お美しかったのも確かなんだけれど、何よりも物怖じせずに真っ直ぐに前を見る、凛としたところが真理おば様を思い出させて。そして、あなたも、そういうところはきっとふたりにそっくりなのよね」
「私にお祖母様に似たところがあるんですか?」
「そうよ。血のつながりって不思議ね。真隆さんは真理おば様の息子で、あなたは真隆さんの娘」
絵梨子はゆっくりと、再び美波へ視線を向けた。
「だからね、私には真隆さんがフィオナさんに夢中になる理由がよくわかったの。でも、私は、どうしてもそれを受け入れることができなかった。だから、父が、真隆さんがせっかく築き始めた幸せな家族を壊して、私と結婚させようとしていることを知った時、特に反対もせず、父の言うことに従順に従う振りをして、ちゃっかり自分の願いを叶えようとした。つまり、私はとても悪いことをしてしまったの」
絵梨子は美波の顔を見つめたまま、静かに話し続けた。
「あなたがまだ小さな頃、フィオナさんが亡くなって、綾乃が生まれてすぐのことだったわ。真隆さんの精神状態がとても悪くなってね。周りの人があのまま死んでしまうんじゃないかと心配したの。あの時、私は真隆さんを助けるために、父にあなたを引き取るように頼んだんだけれど、父はどうしても聞き入れなくて、結局、1年に数度、アメリカにあなたに会いに行くことで落ち着いたのね。その時に、父がね、真隆さんは絶対にフィオナさんのことで私たちを許さないだろうから、真隆さんを懐柔するのは諦めてコントロールしなければいけないって言ったの。さすがに、政治やビジネスの世界で長い間やってきただけあって、父の人を見る眼には確かなところがあって、実際、父は正しかった。この長い間、真隆さんは私たちから距離を取り続けて、絶対にそれを縮めることを許してはくれなかったわ。結局、私と真隆さんの間に関係のようなものがあったとしたら、それはフィオナさんが亡くなった時点で終わってしまっていて、私にはどうすることもできなかったのよね。でも、それが、また悔しくて、綾乃はそんな私の悔しさを見ながら育ってしまったの。そして、あの子もやっぱり、真隆さんへのかなわぬ思いと悔しさに一杯になっていた。だから、あの子があんな風になってしまったのは私のせいなんでしょうね」
言い終わった後、絵梨子は静かに目を伏せた。美波は声をかけることばが見当たらず、ただ、フォークでスクランブルエッグをいたずらしていた。
「私ね、綾乃が芳賀さんの逮捕のことでNBCの人たちと電話で話しているのを偶然、聞いてしまったの。その時までには、父があなたを拉致して真隆さんと最後の取引をするつもりだって聞いていたから、あの子がしようとしていることの意味がすぐにわかったわ。それで、私は、何てところに綾乃とあなたを追い詰めてしまったんだろうと、遅かれながら気がついたの。父がなんと言おうと、真隆さんと離婚する決心がついたのは、あの時だった。真隆さんとのことからきちんと正さなければ、綾乃の心を治すことができないと思ったの」
絵梨子の言葉遣いは淡々としていた。それでも、美波には絵梨子の心の葛藤がよくわかった。美波はフォークを置いて、そっと絵梨子の手に自分の手を重ねた。絵梨子は弾かれたように顔を上げた。
「美波さん?」
美波は絵梨子の顔を戸惑いがちに見返した。こんな風に絵梨子と話をする日が来るとは思ってもみもしなかった
「私の母は小さい時に死んでしまったけれど、私の場合、アリーおばさんがお母さんの代わりをしてくれました。確かにお父さんにも大事にして貰ったけれど、でも、やっぱり毎日の生活のこととか、将来の生活設計、それから仕事と私生活のバランスとか、そういうことはアリーおばさんと話している方がリアリティがあって、今でも色々と話をするんです。もっとも、恋愛の細かな話をすると、私の場合、色々と差しさわりがあるから、具体的には言わないんですけれどね。それでも、時々、お母さんと話すのはこんな風なのかと思って、アリーおばさんと話していると、とても安心します。だから、綾乃さんにもきっと絵梨子さんの思いが通じますよ。絵梨子さんがこんなにも綾乃さんのことを大事に思っていることが、いつか伝わると思います」
絵梨子は困ったように微笑んで、美波の手を握り返した。
「私たちは明日、引っ越すの。真隆さんが都内にマンションを用意してくださってね。だから、あなたとはもう会うことがないと思うけれど、あなたとキーランさんが幸せになることを祈っているわ。この家の人間は、真理おば様と隆おじ様以来、ことごとく幸せになることに失敗しているけれど、あなたにならできるはずよ」
美波は思わず笑ってしまった。
「私は困ったことに、オメデタイ人間なんです。だから、大抵の場合、特に理由も無く幸せな気分になっていて、よくキーランに呆れられるんです」
「何となくわかるわ。だから、あなたの周りの人は、皆、笑顔を取り戻すことができるのよね」
絵梨子はもう一度、美波の手を強く握ると、立ち上がった。
「あなたとお話ができてよかったわ。お幸せにね」
印象的な透明な微笑を残して、絵梨子は部屋を出て行った。
エディが料理したスクランブルエッグを半分ほど食べただけであったが、美波はすでに料理を見るだけでも十分な気がしていた。やっぱり、この数日の発熱で、体が随分と弱ってしまい、通常の状態に戻るまでにはしばらく時間が必要なのだろう。
膝の上の盆を申し訳なく脇にどけ、美波はキーランからだという封筒を手にとって、開けてみた。中から出てきたのは、この間の電話で言っていた通り、アメリカ周遊ができる2人分のファーストクラスの航空券と引っ越し祝いのカードだった。よく見ると、「新しい家に引っ越してオメデトウ!」という表書きの部分がキーランの字で「古い家」に訂正されており、しかも裏面に「新しい家の王様の女王様」と印刷された文章は「王様と王女様」に変更されていた。そして、その下には「お前が恋しい」という短いメッセージとKのイニシャル。素っ気無いのは、相変わらずだ。美波は暫くカードを眺めた後、携帯電話を手に取り、キーランのアパートの番号を押した。
呼び出し音が3回しただけで、キーランは応答した。
「美波か?」
「そう、私。今、夜中でしょう?まだ起きていたの」
「テレビを見ていたんだ」
「テレビ?」
「こっちはまだ土曜になったばかりだからな。たまには夜更かしもいいんだよ」
かなり不機嫌な声でキーランが答える。美波は次に言うべき言葉が見つからず、つい黙り込んでしまった。
「具合、悪かったんだって?」
気の滅入るような短い沈黙の後、キーランが聞いた。
「うん、風邪かな」
余計な心配をかけることをなるべく避けようと、美波は反射的にそう答えていた。キーランは、再び押し黙った。
「お前さぁ、オレにまで嘘つくことはないだろう」
たっぷりと沈黙の時間を取った後、ため息混じりに言う。
「綾乃さんがトラブルを起こしたんだろう?」
「お父さんに聞いたの?それとも、岸田さんかな?」
考えて見れば、キーランに先日のできごとを隠そうとするのは無駄な抵抗だった。川嶋コンサルティングのオフィスで仕事をしていた間にキーランの情報網は確実に広がったようで、ニューヨークにいるキーランの方が自分よりも会社の事情に通じている。美波は少しだけ反省して、キーランを懐柔するように聞いた。
「ふたりからも連絡は入っていたけれど、もともとの情報源はケンイチなんだ」
美波の調子にキーランは再び大きなため息を吐いてみせたが、結局、諦めたように答えた。
「寺崎君?」
「お前とこの間電話で話した前の日、ケンイチがメールで綾乃さんがドラッグ関係の厄介ごとに巻き込まれている可能性があるって知らせてきたんだ。オレはさ、お前がまた変な心配を始めるだろうと思ったから、あの時は言わなかったんだけれど、ケンイチによると、綾乃さんがこのところ付き合っているポップ・アイドルの男がドラッグにはまり込んでいて、その線から須藤組とライバル関係にある極真会とかいう別の暴力団との厄介な関係に巻き込まれているって言うんだ。お前、そんな名前の組織、聞いたことあるか?」
「そう言えば、病院に担ぎ込まれてきたヤーさんから、そんな感じの組の名前を聞いたことがあるような気がする。もっとも、私には皆、同じに聞こえるけれども」
「オレもさ、暴力団に関する知識についてはお前とほとんど変わらないんだけれど、エディやケンイチに言わせると、極真会は須藤組よりも悪質なんだそうだ。右翼の性質の悪いヤツ等とつながっているらしいし、アメリカや東南アジアの犯罪組織とつるんで、麻薬関係で派手なことをしているらしい」
「寺崎君はともかくどうしてお父さんがそんなことを知っているの?」
美波は心の底からびっくりしてキーランに聞いていた。まったく、あの父親は、普段、一体何をしていることやら。
「エディは徹底的にリサーチをするんだ。だから、今回の計画を実行に移す前に、須藤組と敵対関係にある犯罪組織のことは調べ上げたらしい」
ああ、そうなのと、美波はただ息を吐くばかりだった。会社の経営というのは、突拍子もない関連性についての想像力が試されるものらしい。自分にはやっぱり傷口を縫った後の合併症の心配をする方が性に合っている。
「とにかくさ、須藤が死んだ後、須藤組の縄張りの獲得を狙って、ヤクザ同士の小競り合いが増えたようなんだけど、特に極真会の拡大が著しいんだそうだ。須藤はさ、どうも麻薬関係のビジネスを嫌っていたらしくて、それでこのところ、須藤が生きていた頃は麻薬の売買が自由にできなかった場所にも極真会が入り込んで来ていて、新宿辺りでは大変な騒ぎになっているらしい。お前も病院に戻ったら、大変かもな」
「何となく、想像がつく」
今の病院に着任したばかりの頃、新宿でのヤクザ同士の抗争が数年前に激化し、救急部の仕事が激増したことを先輩医師が話してくれた。今、もしそういった状態ならば、確かに吉岡が過労死してもおかしくない状況ではあるのだろう。
「それでさ、この話にはもう少し先があるんだ。これから言うけれど、お前、あまりショックを受けるなよ」
美波が新宿でのヤクザ事情に心を奪われていた間、ずっと黙っていたキーランは、やがて意を決しように早口で告げた。
「なぁに?何のこと?」
「だからさ、ケンイチが言うには、原宿の部屋に麻薬の包みを置いていったのは綾乃さんと彼女のボーイフレンドらしんだ」
「嘘でしょう?」
美波は短くそう聞くと、息を吸った。
「確証は無いんだ。今のところはふたりとも否定しているしね。でも、近藤も中西も、お前の部屋に押し入って、部屋の中を色々と物色して、お前のベッドでセックスしたことまでは自白しているんだけれど、箪笥の中に置かれていた麻薬の袋のことや、若い頃のエディやフィーが写っている写真が入れてあった写真立てにナイフが突き立ててあったことには心当たりがないらしい。それに、何よりもさ、近藤は麻薬をまったくやらないそうなんだ。ケンイチが言うには、近藤は麻薬関係には手を出さないから、須藤に気に入られていた」
「それじゃ、中西さんたちが部屋を出て行った後で綾乃さんが来て、麻薬の袋を置いて、お母さんが写っている写真にナイフを突き立てたって言うの?」
「多分ね。そして、そんな綾乃さんの行動の裏には、綾乃さんを使って、須藤組を追い落とし、川嶋グループの利権に食い込もうとしていた極真会の思惑があったらしいんだ。極真会は、綾乃さんから、川嶋グループやお前に関する情報を引き出して、須藤組とは別にお前のことをマークしていたみたいなんだ。ただ、そんな極真会の動きには須藤組や関谷久夫も気がついていて、特に、綾乃さんがドラッグ関係のトラブルに巻き込まれていることの対処に苦慮していたらしい。それで、結局、関谷は綾乃さんが極真会にそそのかされて大胆な行動に出る前に、お前とエディのことに決着をつけようと行動に出たんじゃないかって、ケンイチは言っていた」
「ちょっと待ってよ。そうしたら、あの時、私のことを狙っていたのは須藤組だけじゃなかったの?」
「そういうことになる」
美波は途方に暮れて、黙り込んだ。それではいくら何でも酷すぎるような気がする。
「それで、ケンイチは、オレたちが綾乃さんをあれ以上追及しなかったことが勇み足だったんじゃないかって心配して、メールを寄越したんだ。彼の言うこともわかるよな。だって、あの時点で、綾乃さんがそれだけの悪意をお前に示していたのならば、芳賀さんのことをNBCへ連絡したことだって十分に計算してのことだって推測できるじゃないか。だから、ケンイチは、綾乃さんが依然として住む松濤の家に、エディがお前を連れて行ったことを心配したんだ。でも、それをエディには直接言いにくくって、オレのところに連絡してきたんだろう。それで、何も知らなかったエディはお前をひとり残して、会社に出て行った。実際、嫌になるよ」
それだけ早口に言った後、キーランは最後に結構な悪態をついた。多分、それなりの量のアルコールを摂取して、それでも眠ることができなかったのだろう。美波は再びため息を吐いて、キーランと電話での会話を始めてから、自分がどれだけのため息を吐いたのか少しだけ考えた。
「結局、キーランがまた自分のことを責めているわけだ」
「他にどうしろって言うんだよ。お前はまた危ない目に会って、嫌な思いをして、それで熱を出して、皆が心配しなければいけなかったわけだろう」
キーランの声はとことん不機嫌で、救いがなかった。美波はそんなキーランに対して自分に何が言えるのであろうかと考えあぐねて、指で携帯電話の裏を軽くつついた。
「さっきねぇ、絵梨子さんと話をしたの」
「絵梨子さんと話をしたって、またひっぱたかれたわけじゃないだろうな」
美波がやっとのように発したことばに、声の調子からすると、キーランはかなり慌てたようだった。そういうキーランに、美波はとても感謝をして、ゆっくりと次のことばを押し出す。
「違うの。もっと平和的な、でもとても悲しい話。たとえば、絵梨子さんが子どもの頃からお父さんのことを好きだったこととか、綾乃さんのことを深く愛していて、大事にしているっていうこと。それから、絵梨子さんは、謝ってくれたの。私が幸せになることを祈っているって言ってくれた」
「何だか、絵梨子さんはけっこうな変わりようだな」
確信無いような感じで、キーランが答える。美波は辛抱強く、話を続ける。
「絵梨子さんはね、綾乃さんがNBCに電話するのを聞いていたんだって。それで、綾乃さんと私のことを取り返しのつかないところまで追い詰めてしまったことに気がついて、関谷さんが何と言っても、お父さんと離婚する決心をしたんだって言っていた。つまりね、綾乃さんには綾乃さんのことをとても大事に思っている、優しいお母さんがついていて、綾乃さんのことを守ろうと頑張っているの。だから、大丈夫よ」
美波が口を閉じた後でも、キーランはしばらくの間、黙っていた。美波は苦笑しながら、キーランの次の反応をただ待っていた。
「それで、お前はどうするんだよ」
霧の向こうから聞こえてくるようなキーランの声に、美波は目を閉じた。
「別に、特に何もする必要ないでしょう?もうすぐ歩けるようになるから、そうしたら、クリスマスの飾りつけでもして、お父さんの誕生日のお祝いの計画を立てて、それから、来月にはせっかくのファーストクラスのチケットを無駄にしたら悪いから、アメリカまで行ってあげる。キーラン、今回はけっこう奮発したものね」
からかい半分に美波が言うと、キーランが不満そうな声を立てた。
「だって、昔、オレがエコノミーのチケットを送った時は、お前はエディの愛人と間違えられて、散々と文句を言っていたじゃないか」
「あれだけの騒ぎがあった後なんだから、そんなことはもうないでしょう」
「それもそうだな」
初めて気がついたような声を出し、キーランは相槌を打つ。それから、すぐ笑い始めた。
「ビデオを見たよ。ダビングして母さんにもすぐ送ったんだけれど、あんなに幸せそうなエディを見たのは、お前が生まれた時以来だって言っていた」
「離婚してあれだけ陽気になるっていうのは、やっぱり少し不気味ではあるよね」
「それはさ、人間心理のダイナミクスがわかっていないって告白しているようなもんだよ。離婚の成立は多くの人にとって、解放の確証なんだ。デーヴィッドなんか、明け方まで歌い踊っていたんだから。これまでの経緯を考えれば、エディの反応なんてかわいいもんだよ。エディの場合、せいぜい、お前にデレデレになっているだけだろう」
キーランの気楽なコメントに、人間心理のダイナミクスがわかっていないのは一体、どこの誰なんだろうと思った美波は、少しだけ声を落として切り返してみる。
「それでも、お父さんは君が結婚するまではって、しきりに言い訳していたよ。私はどこでそういう話になっているのかとても興味があるんだけれど。どういうわけか、岸田さんにまで結婚するのかって聞かれたしね」
美波が鼻を鳴らすと、キーランは電話の向こうでまた黙り込んだ。どうも、この件については何も答える気がないらしい。
「まぁ、いいや。最後に、ちょっとしたニュース」
キーランに付き合って美波もだんまりを決め込んでいたら、キーランが軽く咳払いをして、再び話し始めた。
「なぁに」
「パートナーへの昇進のオファーがあったんだ」
「すごいじゃない。ますます高給取りだね」
「まぁね。東京の勤務医よりは確実に稼げるよな」
そんなこと、わざわざ言われなくてもわかっていると、美波は言いそうになった。ニューヨークの大手弁護士事務所に属する弁護士と収入を比べられては適わない。
「それで、引っ越し祝いのカードも届いたんだろう」
美波の反応を察したかのように、キーランは突然、話題を変える。
「ちゃんと読んだよ。ありがとう」
「それじゃ、メッセージも読んだんだろう」
「読んだよ。もう少し、長い手紙を書けるといいのにね。文章を書くのが仕事でしょう?」
「仕事で個人的な文章なんて書かないよ。それでも、ポイントはわかっただろう。チケットを無駄にするなよ」
あくまでも妥協する気がないらしいキーランの口調に美波は苦笑する。
「仰せに従います」
「12月16日に成田出発で、最初はカリフォルニア、それからメインで、その後ニューヨークだからな。それまでに体の方、しっかり治しておけよ」
「努力します」
「ブッキングのことはエディと岸田さんにも知らせておいたからな」
しつこく念を押すキーランに美波は一体、何なんだろうと思いながらも、とりあえずわかっているともう1度答えた。キーランがとうとう根負けしたように笑いだした。
「お前と話せてよかったよ。これで、少しは寝られそうだ。お前もちゃんと休めよ。それで、早く元気になれよ。そうすれば、オレも少しは落ち着いた気分になる」
「だから、言ったでしょう。私はもう大丈夫だから、キーランはとりあえず寝たら」
「そうだな。そうするよ」
キーランはお休みと言って、電話を切った。時計を見ると、きっともうすぐ朝日が昇る時間ではないかと思うが、土曜日の朝だとすれば、どうでも良いことなのかもしれない。とにかく、電話を切る前に機嫌を直してくれてよかった。
美波がキーランとの電話を終えるタイミングを見計らったように、エディはアイスクリームの大きな容器を持って戻って来た。ストロベリー風味のアイスクリームはとても口当たりが良く、美波は大き目のスプーンで掬ったアイスクリームを口の中でしっかりと楽しんだ。そのうち、冷たさが頭の芯を刺激して、急に心の張りが緩み、美波はふいに泣き出してしまった。美波のいつまでも止まらない涙に、エディは困ったような笑顔を浮かべて、そんな美波の頭を撫ぜ続けた。
翌週の金曜日、右足を固定していたギブスが取れ、美波は本格的に歩行の練習を始めた。暫くぶりに2本の足を使うことに惑う美波に、その週の間、ほとんど会社に行かず、ずっと美波の側に付き添っていたエディは落ち着かない様子を隠せなかった。そんなふたりの様子に、初老の医者は、転んだりしてせっかく直りかけている肩の怪我を悪化させないでくださいねと笑った。
それでも、週末の間、慎重にリハビリと歩行練習を続けていたら、やっぱり歩くことを忘れるわけがなく、勘はすぐに戻ってきた。行動の自由を取り戻した美波を見て、多少安心したのか、週が明けた月曜日、エディは久しぶりに終日、仕事に出かけた。エディが送り出してしまうと、美波は早速、屋根裏部屋の物色を始めた。広い屋根裏部屋には、祖父母のものであろうと思われる洋服類や、使っていない食器類など雑多な物で溢れていたが、一角に、エディが昔使っていたらしい教科書や子ども時代のおもちゃがきちんと整理をされて収納されていた。そうした品々をひとつひとつ点検していたら、大きなクリスマスツリーが納められた箱に行き当たった。美波は家政婦の澄江に手伝って貰って、ツリーを階下に下ろすと、菜穂に連絡を取り、渋谷に出かけた。業務命令とはいえ、美波のことをワイドショーで話したことについて借りがあると思っていたのか、菜穂は適当な理由をつけ、仕事を早引けして美波の買い物に付き合ってくれた。ふたりで大騒ぎをしながらクリスマス用の装飾品を買い込み、ついでにエディへの誕生日プレゼントを選んで家に戻るとすっかり夕方になっていた。それから大急ぎで階下の「日中を過ごすスペース」と階上の食堂と居間をクリスマスらしくヒイラギやリボン、電球などで飾りつけた。圧巻は美波の背丈ほどはあるクリスマスツリーだった。箱から出した当初は埃にまみれていたが、表面を丁寧に拭き、美波の菜穂が慎重に選んだオーナメントやビーズ、そして白と青の電球で飾ると、ツリーは一挙に輝き始めた。
部屋の飾りつけが一段落つき、左翼1階の居間で菜穂とコーヒーを飲みながら窓に反射するツリーの淡い光を眺めていたら、玄関の方からエディの声が流れてきた。菜穂とともに迎えに出ると、エディは多少慌てたようだった。
「おかえりなさい。菜穂と待っていたのよ」
「ああ。菜穂さん、いらっしゃい」
「お邪魔しています。おじ様」
何事が起こったのか、目をぱちくりさせるエディの様子に、美波はつい笑ってしまった。
「ねぇ、お父さんに見せたいものがあるの。こっちに来て」
笑いながらエディの腕を引っ張り、クリスマスツリーのところまで連れて行くと、エディは一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、それからすっかりクリスマス仕様の部屋の様子をゆっくりと見回した。
「なかなか素敵になったでしょう」
美波が聞くと、エディは思わずのように小さく息を吐いた。
「こういうのは久しぶりだな」
それから、少し悲しげに目を伏せる。美波はそういう表情の底にある感情を見定めようと、エディの手を軽く握った。弾かれたように笑顔を浮かべると、エディはいつものスマートな調子で菜穂を夕食に誘い、それから適当なワインを探して来るよと台所方面に歩き始めた。
翌朝、早くから仕事に出なければいけない菜穂が帰宅するために呼んだタクシーが到着したというので車寄せまで送っていくと、菜緒は美波の耳元で囁いた。
「おじ様、あれ以来、前よりもずっとリラックスした感じで、ますます素敵になったじゃない?」
美波は眉の間に深い皺を寄せた。
「万一、お父さんが菜穂のことを誘ったりしても、それに乗ったりなんかしたら絶交だからね」
菜穂はニヤニヤしながら美波の脇腹を突付く。
「アンタって、本当に傲慢なひとり娘よね。素敵なお父さんは私だけのものってわけでしょう?もっとも、おじ様はあんたのそういうところをよく知っているし、満更でもないんだろうから、私を誘うことなんてあり得ないわよ。そんなことをしたら、あとでアンタの機嫌をとる方が大変じゃない」
美波が不満一杯の声を上げると、菜穂は高らかに笑った。
「まぁ、明後日はせいぜいおじ様の誕生日を盛大に祝ってあげなさいよ。あんたとおじ様は父娘って言っても、昔から、ほとんど擬似恋人なんだから」
言われなくたってそのくらいのことはするわよと美波は心の中で言い返したが、これ以上酒が入った菜穂にからかわれるのを避けるために、黙って菜穂のことをタクシーに押し込んだ。
両親を同時に交通事故で亡くしてからアメリカでパトリックたちと共同生活を始めるまで、エディは自分の誕生日を祝うことすら忘れていたのだそうだ。だから、オレたちがちゃんと覚えていて祝ってやらないとな。パトリックはそんな風に美波に対して繰り返し言った。今年もかなり大きな荷物がすでに美波宛にニューヨークから届いていた。去年までは、その荷物を持って、夕方からエディのマンションを訪ねたものだが、一緒の家に住んでいる今年は心置きなくエディの誕生祝いをすることができる。
ニューヨークと東京で離れ離れに暮らしていた間でも、エディは美波の誕生日には欠かさずプレゼントを持って現れた。生まれてこの方、美波の誕生日にエディが不在であったのは、母フィオナとカリフォニアの家で暮らしていた時の一回きりのことである。自分ではまったく覚えてないのだが、母が死んだ後、数ヶ月ぶりに会いに来たエディに対して幼い美波は真剣に次の誕生日には一緒にいられるのかと聞いたらしく、以来、エディは律儀に美波の誕生日には何とか都合をつけて、一緒に祝ってくれた。
対して、12月の上旬のエディの誕生日を一緒に祝うことができるようになったのは、美波が東京へ移住してからのことだった。僕は無駄に年を取っていくばかりだから、誕生日は特に祝うことではないんだよと、その前年まで言っていたのだが、パトリックとともにマンションへ戻って来たエディに、美波がろうそくを立てたケーキを差し出すと、エディはことばを失った。それ以来、美波はエディの誕生日には特に気を遣っている。昨年は夜勤勤務が終わった後、エディのマンションに行き、フィレステーキのディナーとデザートのパイを作ってエディを出迎えた。肩の傷が直りきっていない今年は手料理で祝ってあげることはできないが、心強いことにこの家にはコックまでいる。数日前、美波がおずおずとエディの誕生日祝いのための献立を提案すると、黒田は快く承諾してくれた。お気に入りの銘柄のワインの注文も済ませてあるし、後は本人が仕事で足止めされなければ、エディは自分の誕生日を堪能できるはずである。
当日の朝、美波はいつもよりも早く起き出して、エディが朝食をとる定席の周りにプレゼントやカードを並べて、エディを待った。シャワーを浴び、身支度をすっかり済まして現れたエディは、幾つものプレゼントに囲まれたコーヒーカップに、左手で不器用にコーヒーを注ぐ美波を見て、初めて状況を理解したように小さくああそうかと呟いた。
「やっぱり今日が自分の誕生日だって忘れていたんでしょう」
「いや、完全にというわけではなかったんだけれど。ただ、考えていなかっただけなんだ」
「要するに忘れていたんでしょう?」
エディは照れたように笑って、自分の席に着く。
「君やパトリックがちゃんと覚えていてくれるから、僕の方は怠け癖がついているのかもしれないね。それに年を取ることが嬉しいような年齢でもないし」
美波は体が微かに触れ合うようにエディの側に立つと、パトリックとアリシアから送られてきた包みを手にとって、エディに差し出した。
「はい、これはパットおじさんとアリーおばさんから送られてきたプレゼントとカード。それで、そっちの書類封筒は昨日、キーランから届いたもので、私からのプレンゼントはこっちのワイン色の包み。ちゃんと会社に行く前に開けてね」
それから美波は身を屈めて、柔らかくエディの頬にキスをした。
「お父さん、誕生日おめでとう。今年は一日中、一緒にお祝いできるわね」
エディは夢見るような目をして美波を見上げ、それからゆっくりと顔を綻ばせて、美波の腰に腕を回した。
「この家でこんな風に誕生日を祝ってもらうのはほぼ40年ぶりのことになる。前回は、僕はまだ高校の1年生で、君のお祖母さんが丁度、今の君みたいに僕の横に立って、学校に行く前にプレゼントとカードを渡してくれた。フィーと結婚して最初の誕生日には、フィーがベッドの上をたくさんの贈り物やカードで埋め尽くして、僕は起きるなりびっくりした。そして、君は毎年、必ず僕の誕生日を祝うために何かしらの計画を立ててくれる」
美波がエディの顔を覗き込むと、エディはスッと視線を外した。
「僕はとてもラッキーな男だよね。僕の最愛の女性たちは、僕なんかのために気を遣ってくれる」
「お父さんの場合、こうやってお父さんの誕生日を一緒に祝いたい人は他にもたくさんいるんじゃないかな」
美波がかなり本気で言うと、エディはたまらず陽気に笑い始めた。その時、電話が鳴った。
「きっとパットおじさんよ」
美波は呼び出し音に弾かれたようにエディから離れて、数メートル離れた電話のところまで小走りに駆け寄り、受話器を取った。まったく、この部屋は大きすぎる。
「やぁ、美波。よくやく歩けるようになったんだって」
電話の向こうからは、パトリックの相変わらずストレートな声が聞こえた。美波は笑って、エディの方を振り返り、やっぱりパットおじさんよと声を掛ける。エディは顔を上げ、微笑んだが、その短い間に素早く目元を拭ったのを、美波は見逃さなかった。




