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第10章

 病院に運び込まれてからちょうど1週間後、肩の傷と足首の捻挫以外の外傷を覆っていた包帯が取れ、美波はアリシアに手伝って貰って久しぶりに髪の毛を洗った。それで事件後初めて、自分の顔を鏡で見たのだが、まだ顔のあちこちに痣が残っていて、この間ずっと、顔色ひとつ変えずに自分の相手をしていたエディ、パトリックとキーランの態度に改めて感心してしまった。やっぱり弁護士というのは、人のことをごまかすのが上手いのだろうか。

 母校に入院していることの問題は、病院中に知り合いがいることだけではなく、美波が入院しているというニュースが広まるのも早かったことである。佐々木が一般の面会を解禁すると、母校の病院に残っていたり、他の病院に移っていたりした元同級生が入れ替わり立ち代り現れるようになった。しかも、堂本教授が医学生と研修医を連れて回診にやって来て、私の教室の先輩自らが患者役を買って出てくれるのは珍しいと言われ、美波は弱りきってしまった。多分、このことは後々まで言われるに違いない。

 その日は、実際、見舞い客の多い日だった。浜松救急部長は佐々木医師とともに白衣姿で現れ、美波の傷を一通りチェックした後、大きなため息を吐いた。

「通常業務が問題なくできるぐらいに回復するには、どんなにリハビリ頑張っても6週間はかかりそうだね。この分じゃ年内の復帰は無理かな」

カルテをじっと見つめ、再びため息を吐く。美波はすっかり恐縮してしまった。

「ご迷惑かけて申し訳ありません」

「でも、川嶋先生の責任ではないしなぁ」

浜松は途方にくれた様子で、佐々木と美波の顔を交互に見る。

「堂本教授に交渉してアルバイトの医師の当てをつけるんですね。でも、浜松先生、吉岡だって浜松先生のところにいるわけじゃないですか。アイツもそろそろ使えるようにはなっているでしょう?」

佐々木が浜松を元気づけるように言うと、浜松は思いっきり顔を顰めて佐々木を見返した。

「吉岡じゃ頼りにならないんだ。一昨年、川嶋先生を引っ張った仕返しに、去年、吉岡が送られて来たとしか思えない」

浜松がそう言った途端に、佐々木は笑いをこらえるような妙な顔をした。浜松の額にますます深いしわが刻まれる。美波はそこまで言わなくてもいいのにと、少しだけ吉岡に同情した。もっとも、吉岡が時々ボーッとしていることは否定ができない。

「まぁ、川嶋先生に愚痴を言っても仕方がないよな。先生は1日でも早く復帰できるように、できるだけ早期の回復を心掛けてよ。それから、佐々木はうちの病院に顔を出す時間をもっと作ってくれよ」

「これ以上、浜松先生のところでアルバイトする時間を増やせって言うんですか?」

「悪いけれど、それじゃ頼んだよ、ふたりとも」

浜松救急部長は片手で軽く拝むような仕草をすると、後ろ姿に苦労を漂わせて、病室を出ていった。美波は恐る恐る佐々木を見上げた。

「佐々木先生にまでご迷惑をおかけするみたいで、すみません」

佐々木は複雑な笑顔を浮かべた。

「川嶋先生のせいって言うより、吉岡がいけないんだよ。これは丁度いい機会なのかもな。アイツ、少し絞めてやらなきゃだめだ」

美波は吉岡の将来を真剣に心配していた。


 頭がずっとはっきりしてきたこともあって、美波は病棟の看護師に頼んで、過去1週間分の新聞を病院の図書館から借り出してもらった。このところのニュースの中心は、やはり、川島都市計画社長芳賀俊介の逮捕で、新聞では既に関谷久夫と前橋亘の関与が追及され始めていた。美波が理解した限りでは、川嶋都市計画が関与した土地売買に絡んで、組織的に架空取引や帳簿の粉飾が行われ、それによってプールした資金が政治資金として関谷を通じて保守党前橋派の政治家たちに渡っていたらしい。しかもこうした取引の末端には須藤組がからんでいることが多く、川嶋都市計画は須藤組が違法行為によって得た資金の浄化にも利用されていたらしい。報道されている問題の深刻さに美波がびっくりして新聞のページをめくっていると、難しい顔をして川嶋グループの本社に入るエディの写真が目に飛び込んできた。美波の印象では、病室でかなりウロウロしていたような感じではあるが、一応は、仕事もしていたらしい。

 美波の事件を詳しく報道した記事は見当たらなかった。都内在住の27歳女性が須藤組関係者に拉致され、重症を負った模様と伝える囲み記事が事件のことをどうにか記録しているだけであった。エディが美波の身元を押さえ込んだのか、それとも関谷が握り潰したのかはわからないが、美波は大きく胸をなでおろした。

 同日夕刊の社会面には、綾乃が11時のニュースを降板してしばらく休養するという小さな記事が載っていた。そして、そのすぐ上の記事では、関谷久夫の逮捕が間近であることの憶測や、川嶋グループ内で関谷とエディが長い間対立してきたことが伝えられている。自分が痛み止めでぼうっとしていた間に、物事はとてつもないスピードで進展していたようだった。


 午後には菜穂が半泣き状態で現れた。冗談じゃないわよ、何で撃たれて海に落ちるのよと、興奮した菜穂をなだめるために、美波は随分とエネルギーを遣わなければならなかった。もっとも、芳賀暁のことで探りを入れ始めると、菜穂は一転して黙り込んだ。

「芳賀君はしのぶちゃんのお兄さんで、寺崎君と尚之君は学校時代からの友だちなんだから、寺崎君が困るでしょう。ちょっとは考えてあげたら?」

美波がまじめな顔を心がけて言うと、菜穂は憮然として言い返した。

「アンタが悪いのよ」

「私?」

「そう。最初は、暁君のアンタへのかなわぬ思いを聞いていてあげていたわけ。まったく、あの子は中学生みたいにアンタに憧れていたのよ。それで、可愛いし、面白いから、からかって遊んでいるうちに、色々と話すようになって、そのうちに何となくお互いに意識するようになっていて、しかも、今度の件で、暁君だって随分と辛い思いをしていたわけじゃない。そういう状況で何もないって考える方がどうかしているわよ。でも、このところ、そろそろアンタにも教えてあげようかってふたりで相談していて、だから、あの時、電話したの」

「そんなことを言って。それじゃ、尚之君のことどうするのよ。6月には帰国するんでしょう」

「知らないわよ。尚之だって、あっちの大学に留学している女の子と楽しくやっているみたいだし」

美波は、驚いて息を呑んだ。

「嘘でしょう?だって、菜穂と尚之君は付き合うようになってもう10年以上になる仲じゃない」

菜穂は軽く肩を竦めて見せた。あまり気にしてもいないようであった。

「尚之の馬鹿上司が言っていたんだから嘘かもね。でも、アンタとキーランさんみたいに、遠距離恋愛を10年続けている方が異常なのよ。普通は、上手くいかなくなるものなの」

美波は大きく瞬きをして、菜穂を見返した。

「そうなのかなぁ」

「そうなの」

菜穂がいやにきっぱりと言い切った。その時いやにタイミングよく、キーランがテイクアウトのコーヒーを持って現れた。思わずじっくりとキーランの顔に見入ってしまうと、屈託のない調子で何、と聞く。どう説明してよいものだか思いあぐねて、美波がことばを探していると、菜穂が立ち上がった。

「それじゃ、仕事に戻らなきゃいけないから、私はもう行くね。キーランさん、明々後日はよろしくお願いします」

「こちらこそ」

愁傷に頭を下げる菜穂に、キーランも丁寧に返礼する。それから、菜穂は一転して、いつもの調子で美波の方に振り返った。

「じゃあね、美波。しばらくはそうやっておとなしくしていなさい。また来るから」

手をひらひらさせて、菜穂は病室を駆け出していった。ゆっくりと菜穂を見送ってから、美波はキーランに視線を移した。

「明々後日って何のこと?」

「記者会見ってやつをやるんだ。エディとパットで。それで、菜穂のところの夕方のニュースなんかで流してもらう。お前もちゃんと見ろよ」

言いながら、キーランは美波に小さなカップのコーヒーを渡す。

「佐々木先生が少しならいいだろうって言っていたから、買ってきたんだ。どうせ、死ぬほどコーヒーが飲みたかったんだろう」

美波は満面の笑顔でコーヒーを受け取り、一口啜る。久しぶりのコーヒーの香りに頭がくらっとする。キーランはそんな美波を苦笑して見下ろす。

「頭の包帯とか、顎の絆創膏とかがとれて、少しは普段の顔に戻ってきたじゃないか」

「ひどい顔しているって言えばよかったじゃない」

少し膨れて見せると、キーランは笑顔で美波の額にキスをする。

「オレには美波はいつでもきれいだよ。子どもの時、水溜りにはまって泣いていた時も、きっと、しわくちゃのおばぁちゃんになってもきれいだよ」

美波はキーランの顔を真剣に見返した。

「もう少しましなほめ方はできないのかな」

すぐにキーランは気楽に笑い始めた。そんなキーランを見ているうちに、キーランもやっと普段の調子に戻って来たことを理解し、美波は顔を綻ばせていた。


 キーランは忙しい仕事の合間をぬって、美波の病室に一日最低3回は現れた。朝、会社に出る前に現れ、ランチタイムに顔を出し、病院の早い夕食が出される頃までには戻ってきた。そんな風に頻繁に病院に現れるためにはきっと寝る時間を削って仕事をしているのだろうけれど、何を言ってもキーランが聞くことがないことは長い付き合いからわかっていたので、美波はあえて何も言わなかった。そして、単純にキーランと共有する時間を楽しむことにした。エディが1週間後と言っていたのは、きっと、その記者会見というものが終わったら帰国するということなのだろう。だとしたら、キーランとこうしていられるのもあと数日ということになる。これまで何度も繰り返してきたとはいえ、キーランがニューヨークに戻ってしまうことを寂しく感じないわけがなかった。


 浜松部長が来た翌日、吉岡が看護師数人と一緒に見舞いに訪れた。美波が抜けた後、激務が続いているようで、散々に愚痴を零していった。看護婦たちは、川嶋先生、吉岡先生が過労死する前に戻ってくださいねと笑っていた。帰り間際、中西と同期の水口という看護師がそっとサイドテーブルに手紙を置いていった。中西から頼まれたんです、先生に謝りたかったみたいと小声で言う水口に、美波は笑顔で礼を言った。

 中西からの手紙は便箋に10枚ほどにわたって書かれていて、読むのに随分と時間がかかった。美波は午後一杯費やして、休み休みその手紙を読んだ。読んですぐに決心がついた。それで、キーランが顔を出した途端、単刀直入に中西の刑事責任を軽くするために自分に何ができるのかと聞いた。キーランは、軽く片方の眉を上げたが、一緒にいたアリシアの肩を叩かれて、翌日、河合弁護士に相談すると約束してくれた。河合弁護士は、次の日の午後、裁判所に出す減刑嘆願の書類を揃えて、美波の病室に現れ、美波は直ちに署名・捺印をした。自分の行為にどういう意味があるのか定かではなかったが、多少でも何かの役に立てばと願っていた。


 河合弁護士が帰った後、キーランは窓の外を見つめたまま、綾乃さんはあの時、お前がどういう状況にあったのか知らなかったって証言したみたいだよと、ポツリと言った。

「きっと、そうなんでしょう。それでいいじゃない」

興味なさそうに美波が答えると、キーランは笑顔で振り向いた。

「今日は随分と天気が良いし、暖かいから、テラスに出てみないか。さっき、佐々木先生にチェックしたら何の問題もないって言っていたし、エディには今日は会社に戻る必要はないって言われているから、オレにもたっぷりと時間がある。それに、お前だって、いい加減退屈しているだろう」

「そうね。仕事が忙しかった時は、自分も入院できればいいなぁなんて思ったこともあったけれど、やってみると寝てばかりいるのは本当につまらないものだってことがよくわかった。そうは言っても、肩の怪我と足首の捻挫が両方とも右側だったせいで、捻挫が治るまで自分で動き回ることは難しいしね」

「相変わらず贅沢なヤツだな」

笑いながら美波に近づき、キーランは、美波の体をそおっと抱き上げた。体を動かした瞬間、鋭い痛みが走ったが、何とか笑って見せることができた。数日前から、トイレに行くのに使い始めた車椅子に用心深く美波を座らせ、キーランは美波を厚手のカーディガンで包む。

「お前、随分と軽くなったよ。怪我が一段落ついたら、ニューヨークにアメリカ式のカロリーの高い料理を食べに来るんだな」

「東京でだって太ることぐらいできるわよ。このところ食欲も戻ってきたし、あまり動けないから、仕事に戻る前には自然と前よりも太っているんじゃないかな」

「どうだか。お前もエディもそういうところだけは東洋系で得をしていて、ちっとも体重が増えないようだからな」

そう言うキーランだって、このところのストレスと激務のせいで、東京に来た当初より多少痩せたような感じだった。

「ニューヨークでカロリーの高い食事が必要なのは、キーランの方なんじゃない?このまま東京にいたら、こき使われて骨と皮になっちゃうよ」

「オレの場合は来週になったら、色々なことが片付いて心配が激減するから、それで体重も元に戻るよ」

「そうだといいけれどね」

美波がキーランの顔を見上げると、キーランはフッと顔を綻ばせた。

「まぁ、いいよ。ニューヨークのことは明日の夜、話そう」

美波の頭にキスをし、キーランはゆっくり車椅子を押し出す。エディとパトリックの記者会見というのは、明日に迫っていた。


 記者会見の時間になったのでテレビをつけると、午後の間中、美波の横で本を読みながらノートをつけていたアリシアは、ゆっくりと顔を上げた。

「おかしなものよね。エディはともかく、日本のテレビで自分の夫の顔をみることになるとは思わなかったわ」

画面で挨拶をする男女1人ずつのニュースキャスターたちを眺めながら、アリシアは眼鏡の位置を直す。

「それで、これは何の記者会見なの?」

まだ事情があまりわかっていない美波は気楽に聞いた。そんな美波の左手を、アリシアは窘める様に数度、軽く叩く。

「川嶋都市計画の事後処理についてのようよ。エディは何も言わないのかもしれないけれど、あなたも多少、会社のことに気を配り始めてもいいんじゃないかしら」

「一応、新聞には目を通したんだけれど、記者会見の目的について聞くのを忘れちゃったの。これだけ大騒ぎになっているのだから、そういうものかなって思って」

悪びれずに答える美波に、アリシアはただ苦笑しただけだった。画面の中では、女性のニュースキャスターが、川嶋都市計画にかかわる一連の事件に関して、川嶋グループ社長の川嶋真隆氏がこれから記者会見を開く模様であると簡単に紹介し、記者会見場に画面が切り替わった。次に移ったのは、イヤホンを耳に入れながら、誰かと小声で話す菜穂の横顔だった。

「あらあら、今日はオールキャストみたいね」

美波は黙ってアリシアに笑い返した。

「こちらは東京、丸の内の川嶋グループ本社ビル、23階の大会議室です。本日、これから今回の一連の不祥事と川嶋都市計画の今後につきまして、川嶋グループ社長の川嶋真隆氏が記者会見を開く予定となっております。会見は5時開始の予定でしたが、若干の遅れが出ている模様です」

合図に軽く頷いてから、メモを片手に滑らかに喋る菜穂を美波は感心して見ていた。考えてみれば、菜穂が働いているところを見るのは随分と久しぶりだった。画面の中の菜穂は、数年前と比べ、とても落ち着いていて、多少の貫禄さえ感じられる。

「あっ、どうやら川嶋社長が会見場に現れたようです。このままカメラを切り替えます」

菜穂が告げると同時に画面が替わり、会議室のドアが開いてエディとパトリックが会議室に入ってきたのが映し出された。四角い画面の中で、いつになく真剣な顔をして数歩進んだエディが、突然、立ち止まり振り返る。すると、画面のフレームの中にキーランが現れ、エディに何事か耳打ちをすると茶色の書類綴じを手渡した。エディは小さく笑うと、キーランの背中を軽く叩いた。キーランも笑顔を見せ、踵を返し、入り口の方へ引き返す。カメラはなぜかそのままキーランの動きを追い、会議室のドアの脇で、ズボンのポケットに両手を突っ込んで立っているキーランを随分と長いこと映していた。本来は裏方のはずのキーランがなぜかこんなにも長い間、画面に映されているのか。美波は絶対に菜穂の差し金であると確信していた。キーランの横には、いつも通り几帳面な様子の岸田や、相変わらず丸顔の阿武の顔もあった。

「こうして見ると、あの子は本当にパットとエディのふたりの子どもよね」

美波が画面のキーランの顔を見つめていると、横で、アリシアがいつもよりもずっと声のトーンを落として言った。

「エディと付き合うようになる前のパットは、粗雑さと飾り気のなさのバランスが取れなくてね。おまけに、時々ストレート過ぎてしまって、攻撃的と受け取る人もいたのよ。それが、エディから随分と社交術を学んで、今ではエスタブリッシュメントが随分と板についてきたから、昔、パットがパーティの紹介状を見て寝込んだことなんか想像もできないわ」

「パットおじさん、パーティの招待状で寝込んだの?」

「そうよ。パーティなんかに行ってもどうしたらいいのかよくわからないって言って、パニックを起こしたの。それを救ったのが、エディとフィーだったのよ。あの頃のエディは、パットとは正反対でね、今のあなたみたいに素直で、礼儀正しくて、誰にでも優しくって。何ていうか、育ちの良さがただ漏れしていた。でも、フィーが死んでから、エディも随分と変わったわよね。パットが若い時に持っていた厳しさや容赦のなさが少しエディに移ったみたい」

それからアリシアは柔らかく微笑んだ。

「そういうことを考えると、キーランはあのふたりを足して2で割ったみたいね。あの子も時々、随分と容赦のないことをするみたいだけれど、基本的には気の優しい子だし、何といっても隙のない振舞い方はエディにそっくりだわ」

美波はアリシアの視線を探していた。憑かれたような表情がとても美しかった。

「アリーおばさんは、もし、パットおじさんではなく、お父さんに先に会っていたら、お父さんに恋していたと思う?」

それは口から漏れてしまったような質問だった。アリシアは一瞬びっくりしたのか、呆けたような表情を見せ、それから弾かれたように笑った。

「そういう想像をして見るのも楽しいわね」

それから微かに下を向き、首を振る。

「エディに初めて会った時にはもうキーランのことを妊娠していたから、私はエディのことを恋愛の対象として見ることができるって長い間、考えたことがなかったの。あの頃は、パットとふたりの生活を成り立たせていくので精一杯だったわ。だから、他の男の人のことを考えている余裕なんてなかった。でも、キーランが生まれた翌日に、フィーがパットと面会に来てね。あの時はエディがいなかったから、フィーはキーランなんかそっちのけで、エディのことばかり聞くのよ。その挙句に、目を輝かせて、あんな素敵な人には会ったことがないって言ったの。だから、私もパットも、フィーがエディに魅かれていたことを随分と早くから知っていたんだけどね、正直言うと、私はあの時初めて、エディのことをそういう風に見ることができるんだって気がついたの」

愛しそうに美波の手を撫ぜながら、アリシアは遠い目をして続ける。

「フィーは私にとって、いつも自分の数歩前を颯爽と進むお姉さんのようなものだった。子どもの頃から、フィーにとても憧れて、少女の頃は彼女のようになれたらいいなって思ったものよ。そんな私にね、アリーにはアリーらしさがあって、それがとても素敵なんだからって、フィーは言ったの。確かに、私たちは性格が随分と違っていて、フィーには女神のように周りの人間を惹きつける力があったけれど、それは私のやり方ではなかった。でも、そんな大事で素晴らしいフィーだったから、フィーがエディに夢中だってわかった時は、とても納得がいったし、ふたりがこのままずっと幸せであってくれればいいと願ったわ。ふたりは本当に素敵なカップルだった」

眼鏡の奥で、美波が慣れ親しんだアリシアの優しい目が揺れた。美波はアリシアの方へそっと身を寄せた。

「キーランが何を言ったか知らないし、確かに人の感情はとても微妙なものだけど、私にはふたつだけ確かなことがあるの。ひとつ目は、私はこれでもパットにとても感謝をしているの。あの人と無理矢理に結婚してから、あの人は私とキーランが幸せに生活できるように、それは頑張ってくれたのよ。そして、フィーが死んだ後は、あの人のがむしゃらで不屈なところが、私とエディを前に進ませて、あなたとキーランをしっかり育て上げる力をくれた。あまり実践面では役には立たなかったけれどね、パットがいなかったら、私たちはあの事件の後で挫折してしまっていたかもしれないと時々、考えるわ。それからね、ふたつ目は、困ったことに、エディには誰でも魅かれてしまうの。もう随分と長い付き合いになるけれど、私はエディを見て、ポゥッとならなかった女性を見たことがないわ。そして、私は、彼の大事な友だちとして、ちょっとした役得を楽しんでいるの。結局、フィーが言っていたように、あんな素敵な人はそうはいないってことね。あなたのお父さんはそういう人で、私の息子はそのことで随分と苦労しているみたいよ」

最後はからかうような調子で言うと、アリシアは美波の手を握る力を強めた。

「さぁ、私たちの大事な男たちにどれだけのことをできるのか、しっかり見てあげましょう」

美波はアリシアの肩に甘えるように頭を預け、小さな声で言った。

「私はお父さんのためと言うよりは、自分のために、アリーおばさんが結婚していて残念に思うな」

「何を言っているの。そのことならば、前に言ったでしょう?あなたたちふたりは、私たち4人の大事な子どもよ。この先、たとえエディと喧嘩別れをしたって、あなたが私の育てた娘であることには変わりはないわ」

アリシアの確信がこもった言い方に、美波の目が微かに曇り始めて、美波は慌ててテレビの画面に集中する振りをした。


 画面の中では、司会進行役の中年男性がその日の予定を紹介し終え、それからエディの顔がアップで映し出された。斜め左からカメラに捉えられたエディの顔は、取りつく島も無いほどに冷厳であるように見えた。司会がエディの名前を口にすると、エディは手に持っていた愛用の細身の万年筆を机の上に静かに置き、背中を伸ばして、静かに話し始めた。

「本日はお忙しいところ、弊社までお越し頂きましてまことに恐縮です。まず、最初に川嶋グループを統括する社長といたしまして、今回の川嶋都市計画をめぐる一連の不祥事、特に社長であった芳賀俊介の逮捕という事態に至ったことに関して、関係企業、監督官庁、警察、従業員とそのご家族、そして一般の方々に、私ども経営陣の監督不行き届きを心からお詫び申し上げたいと思います」

それだけ言うと、エディは俊敏に立ち上がり、深々と頭を下げた。美波は思わず大きな息を吐いていた。数年前に大手証券会社が自主廃業を決めてから、日本の大企業のトップが記者会見を開いて、謝罪するというのはあまり珍しいことではなくなったが、それでも自分の父親がそういう行為をするのを見るとは予想していなかったし、第一、スマートなエディの外見と、言ってみれば泥臭い所作の間には落差がありすぎて、見ているこっちの方が気恥ずかしくなってしまう。

「日本ではあれをしないといけないみたいね。でも、見てご覧なさい。パットは横で俯いているけれど、あれは絶対に笑いを堪えているのよ」

横で、アリシアがため息混じりに言った。確かに、エディの横に座っているパトリックは、手元の書類を覗き込むように頭を深く垂れているが、肩が微かに揺れていた。

「社長であった芳賀俊介他、経営幹部数名の逮捕者が出たこの度の事件では、川嶋都市計画の粉飾決済と脱税行為、所得隠しが明らかとなりました。これらの行為とマスメディアで報道されている保守党の前橋派との関係、さらに川嶋グループ内での責任問題の詳細は現在警察の捜査が進んでいる状況にありますので、これ以上この場で申し上げることはできません。ただ、川嶋グループといたしましては、警察と検察の捜査にできる限りの協力をし、問題の司法的な解決に向けて努力をしていることは強調させていただきたいと思います」

再び椅子に腰を下ろした後、エディは何事もなかったかのように明瞭な日本語で話し続けた。

「さて、問題の川嶋都市計画の財務状況ですが、現時点で判明している限りで修正した過去10年にわたる川嶋都市計画のバランスシートをお手元に資料としてお配りいたしました。それをご覧いただきますとお分かりになると思うのですが、実際のところ、かなり多額の使途不明金が出ておりまして、これが会社全体の収支バランスを現在に至るまで圧迫しております。したがって、川嶋都市計画の経営の悪化の真の原因は、不正経理にあったと結論せざるをえず、この件に関しては、既に川嶋コンサルティングに特別チームを編成し、実態調査を進めており、その結果次第では過去の経営及び経理責任者の司法責任の追及という事態も出てくると予想しております」

「司法責任」ということばがエディから発せられた途端、会場の中がどよめき、カメラのフラッシュが繰り返し炊かれた。エディ自身はそんな会場の雰囲気を気にする様子を見せず、淡々とことばを継いでいった。アリシアのためにかいつまんで通訳をしていた美波の方が、慣れない経済、経営用語が次から次へと飛び出してくる上に、エディの話すテンポに圧倒されて、薄っすら汗をかき始めていた。

「次に、経営危機にあります川嶋都市計画の今後でありますが、過日の川嶋グループの臨時経営会議で諸案を検討した結果、一部をアメリカ資本の投資会社に譲渡し、別会社として再建することにいたしました。この時、現在、川嶋都市計画で雇用している従業員には、1人1人面接を致しまして、本人の適性・希望を見定めた結果、退職を希望しない限り、新会社もしくは川嶋都市計画での雇用を保証する方針でおります。その他、今回の川嶋都市計画一部売却の詳細については、これから売却先であるランダス・ウォルトン・アンド・ハックフォードの代理人でありますパトリック・ケネディ氏からご説明をいただきます」

エディが話を振ると、パトリックは軽く頷いて、エディと変わらない流暢さで話し始めた。新会社の23パーセントをランダス・ウォルトン・アンド・ハックフォードが所有し、川嶋コンサルティングも18パーセントの所有権をもって経営に参加すること。新会社の業務は、主に都内のオフィス・ビルや商業ビルの開発・経営であり、リゾート開発は川嶋都市計画に残されること。新会社の社長にはアメリカから派遣された役員が就任すること。パトリックはそうした新会社の定款に関する技術的なことがらを弾丸のように次から次へと発表していった。英語で話すパトリックのために、パトリックの隣には日本人女性の通訳がついていて、一項目ごとに日本語で概要を伝えていたが、見るからにパトリックが発言するスピードにプレッシャーを感じているようで、美波には痛々しく思われた。ふと見ると、テレビ画面に中のエディはじっと通訳のことを観察していた。完璧に日英両言語を操るエディに、あんな風に見られていては通訳の人も仕事がしにくいであろうと、つい同情してしまう。実際、エディに見られていることに気がついた通訳は、肩で大きく息をしながら言葉を継いでいた。そのうちに、新会社へ異動した社員の社会保障給付の計算方法についての説明を訳している途中で、通訳は一瞬言い淀んだ。彼女が次のことばを発した瞬間、エディは無表情に通訳の女性の顔を見やり、すぐパトリックに何事か耳打ちをした。思わず、美波の口からあーあ、という声が漏れた。

「どうしたの?」

アリシアがおだやかに聞く。

「多分、通訳の間違い。私には社会保障制度のことはよくわからないけれど、厚生年金の『基金(ファンド)』と団体としての『財団(ファンデーション)』がごっちゃになってしまったみたい」

「彼女も可哀想にね。雇い主がエディじゃ、見逃してもらえないわね」

美波は曖昧な笑顔でアリシアに応えた。多分、ほぼ間違いなくあの通訳の女性は再度使ってもらえないだろうし、後で辛らつなレポートを貰うに違いない。

「ただいまの説明に多少不正確な表現が混ざっておりましたので、改めて私の方から説明させていただきます」

画面の中のエディは淡々とそう言うと、社会保障システムについて改めて自分で説明を始めた。パトリックの隣の通訳の女性の首筋が真っ赤に染まった。それ以後、エディは通訳の女性のことを見切ってしまったのだろう。エディの介入は止まることなく、質疑応答が始まる頃までには、エディとパトリックが直接顔を寄せ合い、通訳の女性は全く無視されたような形になっていた。

「お父さんはああいうところは本当に意地悪よね。それなら、最初から通訳の人なんか使わず、自分でパトリックおじさんの通訳をしてあげればよかったのよ。きっとその方が早いんだろうし、あの通訳の人だってあんな風に見世物になることはなかったと思うな」

美波がつい漏らしてしまった感想を、アリシアは苦笑して受け止める。

「まぁ、相手が悪かったというのはあるかもしれないけれど、エディはアンフェアな人ではないわ。きっと、自分が介入せざるを得ないと思うところまでは我慢していたはずよ。そして、彼女が役不足であったのは確かなことでしょう」

「お父さんにかかったら、誰でも役不足よ。私だってお父さんの前で日本語を話さなければならない時は今でも緊張するもの」

「あなたの場合は、プレッシャーの源が違うんじゃないのかしら。東京に来たばかりの頃、エディに日本語の宿題でしぼられたことがきっと忘れられないんでしょう」

軽く笑いながらアリシアは答える。美波は嫌なことを思い出して、少し気分が悪くなった。医者になると決心をし、あの父と一緒に働くことがなくて大正解だったとつくづく思う。実際、会場の記者から矢継ぎ早に発せられる質問に、パトリックと英語で相談をしながら間髪いれず入れず冷静に日本語で答えていくエディは、映画『ブレードランナー』に出てくる完璧なアンドロイドのようで、見ているものに恐怖の感情さえ引き起こす。パトリックがいつか言っていたように、もう少し庶民性をアピールした方がいいのかもしれない。


 それでも、そんなエディが一度だけ感情を垣間見せた時があった。記者に芳賀俊介逮捕の個人的な感想を聞かれ、エディの顔がはっきりと苦痛で歪んだ。

「個人的には痛恨の極みですよ。彼は大学の先輩でありますし、私が川嶋で働き始めた直後から、随分と長いこと私の秘書の役割を果たしてくれました関係で、個人的な交流がありましたからね。また、彼のしたことは違法であったとはいえ、構造的な要因からあのような行為をすることに追い込まれたと、私は見ています。ですから、私個人としては、できるだけ芳賀氏とご家族の力になりたいと思っています」

「構造的な原因とは何ですか?」

「それはこれから事件の全体像が明らかになっていくに従って、おいおいわかっていくことです」

それだけ言うと、エディは居心地が悪そうに、スッと視線を外した。エディの様子を見ながら、美波は芳賀の父親とエディの関係に、少しだけ思いを馳せた。


 質疑応答は一向に終わる気配を見せなかったが、記者会見に割る振られた時間が一杯になったのだろう。スタジオの女性アナウンサーが会場の菜穂を呼び出し、簡単な総括の質問をした後、カメラはスタジオに戻された。美波はテレビを消すと、アリシアの方を真っ直ぐに見て、もやもやと頭にこびりついていた質問を投げかけてみた。

「ランダス・ウォルトン・アンド・ハックフォードって、ニューヨークにあるセディおじ様とウィルが関係している投資会社でしょう。確か、お父さんも役員をしているはずよね」

「そうね」

アリシアは困ったように微笑んで答えた。

「それだけのつながりがあっても、『アメリカ資本の投資会社』で、川嶋グループの会社ってことにはならないの?」

「だって、確かにアメリカの会社だし、エディの投資分なんて全体からすれば一部に過ぎないわ。会社同士には親戚関係なんて当てはまらないのよ」

「それで、川嶋都市計画の一部はその『アメリカ資本の投資会社』に売却されて、そこに川嶋コンサルティングが更に出資して『新しい会社』を創設するわけね」

美波が重ねて聞くと、アリシアは子どもの時に難しい宿題を手伝ってくれた時と同じような調子で、美波の顔を覗き込む。

「もう少しはっきりと種明かしして欲しいのかしら」

「お願い」

美波が熱心に頷くと、アリシアは美波の手に自分の手を重ねた。

「昨日の夜、パットから聞いたところによるとね、新しい会社には川嶋都市計画が現在所有する不動産の中でも銀座のモード・ビルのように利益性が高かったり、もしくは見込まれていたりするものが移転されるらしいの。そして、不良債権化している不動産はこのまま川嶋都市計画に残されるらしいのね。従業員の方も同じ戦略を使って、選別するようね。生産性が高かったり、将来性がありそうな人材は新しい会社に異動して、川嶋都市計画に残るのは選別から洩れた人たち。そういうカラクリがあるから、もちろん、新会社はどんどん利益を増やしていける基盤があるし、川嶋都市計画はどんなに頑張ろうが奇跡でもないかぎり、不良債権が雪ダルマ式に増えていって、そのうち経営が行き詰る。それで、適当な時期に川嶋都市計画を倒産させるのね。その頃までには、関谷さんと前橋派の癒着の捜査に一段落がついているだろうから、川嶋都市計画の倒産をその政治スキャンダルの被害者に仕立て上げて、そうやって川嶋グループは正当性を確保した上で、問題のある部分を切り捨てることができるわけ。川嶋都市計画の倒産処理については、もう保守党や有力野党の政治家たちの支持を取り付けているらしいし、新しい会社は、ほとぼりが冷めた頃に川嶋コンサルティングの所有分を増やす取り決めになっているみたい。つまり、これは体裁の良い合理化ね。日本語ではリストラって言うんでしょう」

アリシアが一気に説明し終えるのを待って、美波は大きく息を吐いた。1分ほど時間をかけて、アリシアが言ったことを頭の中で整理する。美波の結論としては、呆れたとしか言いようがなかった。

「何て言うか、アコギよね。記者会見の建前とホンネじゃ随分と違うじゃない」

アリシアは美波の手を撫ぜながら、辛抱強く、優しい声で言った。

「彼らは資本主義のゲームに関しては、プロ中のプロよ」

アリシアの返答に、美波が眉を寄せて首を傾げると、アリシアは声を出して笑った。

「ねぇ、美波。あなたの場合は母親が弁護士だったし、父親が会社経営者兼弁護士でしょう。私の場合は、夫と子どもがふたりとも弁護士。しかも、困ったことに、皆そろってとても腕利きのコーポレート・ロイヤーで、それで私たちはとても裕福な生活を享受させて貰っている。ただね、アメリカ社会で弁護士のことが悪く言われるのには一定の真実もあって、彼らは目的の達成と利益の最大化のためには手段を選ばないの。そして、エディも、パットも、キーランもそういうゲームをすることがとても上手い。だから、アコギというあなたの表現はとても正しいのよ。資本主義は利益を最大化するゲームで、そのためには時には徹底的にアコギであらねばならないでしょう」

「そうかもしれないけれど」

確信なく美波が言うと、アリシアは美波の手の甲を軽く数度撫ぜてから、立ち上がり、湯沸しのスイッチを入れた。慣れた手つきで、美波と自分用のカップにティーバックを入れ、湯を注ぐと、軽やかなオレンジの香りがあたりにたちこめる。コーヒー中毒気味の美波を心配して、アリシアはこのところ色々な種類のお茶を買ってきたが、その中でも美波は気分がすっきりするオレンジ風味の紅茶が気に入っていた。アリシアは丁寧にティーバッグをカップの中で蒸らし、その間にゆっくりとことばを紡いでいく。

「それでもね、あの人たち自身、自分たちがモラルの観点からするとあまり褒められたことをしていないことを知っているのよ。パットはもともと上昇志向があってのし上がってきた人だし、何だかんだ言って、自分の両親やきょうだいの家族を随分と個人的に助けてきているから、あまり社会的な後ろめたさのようなものは感じていないようだけれど、エディとキーランにはジレンマがたくさんあるみたい。エディはかなり前に、川嶋USのチャリティ顧問を私に押しつけてね、それで私は毎年、けっこうな金額をニューヨークやその他のところの女性や子どものための支援団体に割り振ることができるわけ。その上、彼は、時々、そこそこの金額のチェックを好きに遣ったらいいって送ってきてくれるわ。ちょっとした余り金だなんて言ってね。あなたは知っていた?」

美波はただ首を振った。考えてみれば、父とそんな話をしたことは、これまで一度もなかった。

「キーランもそういうところではとても役に立つのよ。あの子は忙しい仕事の合間によく無料で、私や私の知っている人たちが持ち込む面倒な法律問題を処理してくれるし、それにあなたのお金を惜しみなく遣って、色々な支援団体の活動を助けてくれているの」

「私のお金ってどういうこと?」

美波はびっくりして聞き返していた。アリシアは苦笑を浮かべて、簡易テーブルにオレンジ風味の紅茶を載せる。

「あなたのアメリカ人の曾お祖父様やお祖父様のジェームスおじさんが残してくれた信託財産のこと。やっぱり、キーランが送る書類を読んでいなかったのね」

美波はごまかすように薄く笑って、紅茶に口をつけた。確かに、キーランの法律事務所から定期的に数字が羅列する書類が送られてきたが、アリシアの言うとおり美波はまったく読んでいなかった。いつも丁寧に付箋をつけられ、「ここに署名」という鉛筆書きがあるところにサインをして送り返すだけだった。

「今度送られてきた書類には、一度、ちゃんと目を通すことね。そうすれば、あなたには大変な金額の信託財産があって、それを適切に維持していくことにはそれなりの苦労が伴うことがよくわかると思うわ。とにかくね、ああいう大きな財産は放っておくと税金が大変でしょう。それで、キーランがことある毎に、適当な寄付の先はないかって問い合わせてくるの。だから、私は、私の知っている団体や組織を紹介して、あなたのお金を存分に役立たせて貰うわけ。この数年、そういったことを続けてきたから、ミナミ・カワシマさんはニューヨークのダウンタウンじゃちょっとした有名人よ。今度、見に来るといいわ」

「そんなこと、まったく知らなかった」

呆然として言う美波の髪を撫ぜ、アリシアは特有の柔和な調子で続ける。

「あなたは昔から本当にお金の管理が苦手で、特に自分でお金を遣うことができなかったものね。子どもの時、せっかくあげたお小遣いをまったく遣わないで、机の引き出しにけっこうな貯金をしていたのをよく覚えているわ。キーランの話じゃ、そういうところは、お給料を貰うようになった今もほとんど変わっていないみたいね」

「だって、病院から離れている時間があまりなかったんですもの」

美波の苦し紛れの弁解をアリシアは余裕をもって受け止める。

「そうね。前に、あなたの上司がトイレに行く時間もないって言っていたぐらいだから、お金を遣う時間なんてもっとなかったんでしょうね。それでもね、そろそろもう少し色々なことに気を配るようになっても良い頃じゃないかしら。あなたが望んでお金持ちの家に生まれたわけではないでしょうけれども、これはあなたのチャンスであり、責任なんだし、エディやパット、キーランが最高の技能を使って稼いできたお金を大事な目的にために再分配に回すことは私たちにだってできるでしょう。彼らのアコギな行為の多少の罪滅ぼしにはなるだろうし、日本にだってそういうお金を必要としている支援団体がたくさんあるはずよ」

どうかしらと美波の顔を覗き込むアリシアに対し、美波は小さな声で努力してみると答えていた。正直なところでは、美波自身は毎月のクレジットカードの支払いさえほとんど把握をしていない。それでも、預金通帳に自然とお金が貯まっていったので、自分のファイナンスは大丈夫であろうと簡単に考えていただけだった。そういう自分にチャリティへの寄付金の管轄などできるはずもなく、結局、どう考えてもキーランの仕事が増えていくだけのように思われた。


 アリシアが言う「資本主義のゲームのプロ中のプロ」である2人組は、テレビの画面に収まっていた時とは打って変わったリラックスした様子で美波の病室に揃って現れた。一段落着いたから本当は祝杯を挙げたいところなんだけれどね、病院の食事でガマンしている君に不公平だから、君が退院してからに延期しようってパトリックと話していたんだ。そんなことを気楽に言うエディは、通訳の女性を辛らつな目で眺めていた時とは別人のようだった。実際、好みではない病院の食事を持て余していた美波は、エディの言い方から強いホームシックを感じてしまった。もっとも、原宿の部屋に戻ったところで、今の状態ではひとりで生活できそうもない。結局、捻挫が治るまでは病院にいなければいけないのだろうかと思うと、一挙にうんざりした気分になった。そんな美波に、明日はサンドイッチを作って来るわと、アリシアが告げ、3人は相変わらず仲良く病室を後にした。


 キーランが訪れたのは、それから小一時間ほどしてのことだった。家に戻ってシャワーを浴びてきたのか、すっかりカジュアルなシャツとジーンズに着替え、頭にやっぱりニックスのキャップを被っていた。挨拶もそこそこ、書類鞄とスエードのハーフコートを両手に抱えたまま、ベッドの端に腰を掛ける。

「今晩は泊めてくれるよな」

「泊まるって、この病室に?ここの病棟には面会時間だってあるんだよ」

びっくりして美波が答えると、キーランは涼しげに笑い飛ばした。

「大丈夫だよ。どうせエディがけっこうな金額を払っているんだから、多少のことは大目に見てくれるさ。実際、今ここに来る時に例の婦長に会ったから、立ち話のついでに、明日、オレはニューヨークに戻らなければならなくて、しばらくはお前に会えそうもないって言ったんだ。そしたら、ニッコリと笑って、今晩はごゆっくりしていってくださいって言っていた」

美波はキーランに笑って応えようと努力したが、つい顔が強張ってしまった。あらぬ方を向き、呟くように言ってみる。

「明日、ニューヨークに戻るんだ」

「明日の朝の便。だから、ここを5時には出なければいけない」

「ちょっと、残念だね」

「オレがこっちでやらなければならない仕事はほとんど片がついたからな。ニューヨークの事務所からもそろそろ帰って来いって言われているし。でも、最初から2、3ヶ月って言っただろう。東京に来たのは9月の初めだったから、実際、もう3ヶ月近くこっちにいたことになる」

「そうだね」

本当はそれでもやっぱり寂しいなと言いたかったのだが、そういったことを口にすることが憚られて、美波は結局、視線を外したまま俯いていた。キーランの顔を見たら、泣いてしまいそうだった。キーランはクスッと笑ったようだった。

「ほら、プレゼントをやるよ。開けてみろよ」

書類鞄からライラック色の薄い紙で包装された四角い箱を取り出し、美波の方へ差し出す。突然なんだろうとか訝しく思いながら、美波はキーランが押さえている箱の包装紙を左手で不器用に解いていった。中から出てきたのは新品の携帯電話が入った箱だった。事態が把握できず、美波が箱をじっと見ていたら、キーランがふたを開け、小さな携帯電話を取り出し、美波に手渡す。

「エディが個人的にボーナスをはずんでくれたんだ。それで、電話の本体はその臨時ボーナスで買ったんだけれど、ただ、毎月の通話料はお前の銀行口座から振り落とされるからな。使いすぎると、大変な額の請求書が届くことになることは覚えておけよ。それから、ついでにお前の銀行口座を少し整理して、余計な金は確実そうな投資信託口座やら貯蓄口座やらに回しておいてやったぞ。ああいう金融商品の利率は良くないけれど、銀行口座とほとんど変わらないから、お前でも扱えるだろう。まったく、あんな大金を普通口座に放っておくから、麻薬の売買なんてどう考えてもあり得ないような疑いを掛けられることになるんだよ」

携帯電話を手に取って眺めながら、美波はキーランの話を黙って聞いていた。それで、自分には一体、いくら貯金があるのかと聞いたら、きっと怒られるだろうなと思う。

「それじゃ、毎月幾らぐらい携帯電話に使えるの」

「へぇ、質問の仕方を多少は学習したんだな。本当は自分の銀行口座にいくらあるかさえわからないんだろう」

あからさまにからかうキーランを美波は少し睨んだ。そんな美波の調子を気にすることなく、キーランは体が微かに触れ合うように美波の隣に移動する。

「お前、もうちょっとそっちに寄れよ。それで、オレもお前の隣で横になれる」

「あのねぇ、まだ足も肩も痛むんだよ」

「相変わらず文句の多いヤツだな」

美波のからだをフワリと抱き上げると、キーランは数十センチずらして、ベッドに自分の居場所を作った。美波の病室である特別室のベッドはセミダブルで、普通の病室のベッドよりは大きめだったが、それでも、ふたりで横になると一杯であった。この状態でキーランが寝れるとは到底思えなかったが、キーランはまったく気にしてないようだった。身軽に美波の隣に横たわり、片方の手で腕枕をすると、もう一方の手に握った携帯電話を美波の目の前にかざし、携帯電話の機能をひとつひとつ説明していく。通話記録やコールバック機能などを一通り実地でやって見せ、その後、キーランは電話番号の登録機能に記録されている3件の電話番号を呼び出した。

「オレのアパートと、事務所、それから携帯の番号。ミーティングに入っているときは携帯を切っているかもしれないけれど、メッセージを入れておいてくれれば折り返し掛け直すから、いつでも掛けてくればいいよ。そうすれば話したいときに話せるだろう。それに、オレの方でも病院に詰めていることが多いお前を捉まえることがこれで少しは楽になる。今までみたいに10分程度、電話で話すくらいなら電話代もそれほど高額にはならないはずなんだ」

美波はキーランの顔を見上げた。

「今回もキーランがやっぱり、色々と考えてくれていたわけだね」

「どうせ、オレがいくら言ったって、お前1人では携帯電話の契約をしには行かないだろう。もっとも、その状態じゃ、当分どこにもいけそうにもないけれどな」

美波の頭を抱え、髪の毛を手で弄びながら、キーランは楽しそうに言う。突然、涙ぐみそうになり、美波は、キーランの方へ頭を傾けた。

「色々とどうもありがとう」

「何だよ。おかしな薬でも飲まされたんじゃないの。この頃、やけに素直だ」

キーランはクスクス笑いながら、美波の方へ体を乗り出す。片手を美波の腰に回し、自分の額を美波の額に合わせる。

「まぁ、それだけ素直だったら、こっちも色々とやりやすい」

「何のこと?」

「お前さぁ、オレにスーツ1着、借りていることをわかっている?」

ぎょっとして、美波はキーランの顔を見つめる。スーツを借りているって、何のことだろうか。

「今度、東京に来て、オレはスーツの大損害を受けたんだ。お前の部屋においてあったスーツ5着が盗まれたり、駄目になったりしたのはお前のせいじゃないし、あの部屋にはエディが保険をかけておいたようだから、あとで何とか取り返すことができるだろうけれど、溺れかけた誰かさんを助けた時に着ていたスーツは、残念ながらゴミ箱行きだったんだ」

キーランは相変わらずからかうような調子で言う。溺れかけたのも自分のせいではないと思うのだが、美波は呆気に取られて、言い返すことばを思いつけない。

「だから、オレに多少でも感謝しているならば、今度はお前がニューヨークに来て、スーツを弁償しないとな。お前、オレがどこでスーツを買っているか、よく知っているだろう」

確かに美波はよく知っていた。そして、ニューヨークの中心街にあるそのブランドのスーツが、研修医の給料よりも高いことも知っていた。

「帰ったらすぐ航空券を手配して送るよ。仕事の再開は新年が明けてからでいいんだろう。だから、クリスマスにはニューヨークに絶対に来いよ。来なかったら、オレが独断で代わりのスーツを買って、お前宛に請求書を送るからな。最初に言っておくけれど、この件でエディに助けを借りようたって無駄だぞ。エディには既に話を通してあって、お前のことを一切助けないように釘を刺してあるんだ」

「それじゃ、脅迫と同じじゃない」

美波がやっと抗議をすると、キーランはわりと真剣な表情で、美波の目を捉える。

「でも、そうでもしないと、お前はまた何だかんだ理由をつけてニューヨークには来ないだろう。もう3年近くもニューヨークには来ていないんだ。そろそろ戻って来てもいい頃だし、それに、お前だってあの街で育ったんだから、ニューヨークはオレたちにとって、大事な場所だろう?」

だからあまり行きたくないんじゃないと、美波は心の中で思う。ニューヨークに行けば、子どもの時の楽しかったり、悲しかったりした時間を思い出し、それで里心がついて、そのままキーランの側にいることができるよう、ニューヨークに移住したくなるに決まっている。そんな思いを振り切って、仕事のために東京に戻ってきたら、次にキーランに会えるのは、キーランが東京に出張してこない限り、夏休みまで待たなければならない。定期的に長い休みがあった学生の頃とは違う。やっぱり、長距離恋愛は難しいのだろうか。

「どうした?」

美波が色々な思いに沈んでいると、キーランが美波の顔を覗き込む。

「また、余計なことを考えていたんだろう」

「そりゃあ、感傷的な気分にもなるじゃない。あんなことがあってからまだ10日ほどだし、今でもごたごたがたくさんあるようなのに、キーランは明日の朝にはもう行かなくてはいけないんだから」

キーランは美波の頬に手を添えた。

「それなら、こう考えればいいだろう。オレはニューヨークに戻って、そのごたごたをすっかり片付けてしまうことに努力をする。お前は、一日でも早く元気になるように、体の回復に励む。そうすれば、1ヶ月もしないうちにクリスマスになって、オレたちは晴れてニューヨークで気楽にセックスを楽しめる」

「そればっかり」

「お前は怪我人かもしれないけれど、オレは健康体なんだ。そして、美波が恋しくてたまらない」

美波の体に自分の体をぴたりと密着させて、キーランが耳元で囁く。反射的に目を閉じると、病院の毛布の中で、キーランの温もりが美波の体全体に伝わってきて、美波は自然に微笑を浮かべることができた。手を伸ばし、キーランの髪に指を絡めると、美波はしっかりと両目を開けて、キーランにキスをした。

「ねぇ、多分、これまで一度も言ったことがないし、実際、とても照れくさいけれど、でも言ってみたいような気がするから、笑わないで聞いてくれるかな」

「何だよ」

美波がそんな風に言い終わる前に、キーランはすでに笑っていた。それで、美波もつい笑いながら、胸の一番深い部分からその大事なことばを引きずり出す。

「キーランのことを心の底から愛している」

言った途端、キーランは花が綻びたような笑顔を見せた。


 夜中に一度起きた時、キーランは相変わらず腰の辺りを軽く撫ぜながら、美波のことをじっと見ていた。寝ないのと聞くと、飛行機の中で寝るからいいと言う。

「ひとりで起きているのは退屈でしょう。付き合おうか」

「いいよ。お前はちゃんと寝ろよ。そうして、もとの元気な美波を取り戻すんだ」

「そうね。早く退院できるようになって、家に帰りたいな」

多少ホームシック気味であった美波はつい愚痴ってしまった。キーランは優しい笑顔を見せる。

「ニューヨークの家で待っているよ。オレたちが育った家で。だから、元気になって帰って来いよ」

それからキーランはゆっくりとキスを始め、美波は、再び、夢と現実の曖昧な境界に引き戻されていった。

 ベッドを抜け出す前にもやっぱり長いキスを残し、キーランは突然、病室を後にした。美波は、苦労して体を移動し、キーランが横たわっていた枕の窪みに顔を埋める。微かに温もりと体臭が残っていて、美波はキーランの痕跡をむさぼるように、大きく息をした。


 その夜、美波の携帯電話が初めて鳴った。多少緊張して応えると、キーランだった。

「JFKに着いたんだ」

相変わらず、挨拶もせず、単刀直入に用件だけ言う。

「長旅お疲れ様」

「これから事務所に顔を出さなければいけないんだ。だから、お前、母さん(マム)に無事にニューヨークに着いたって知らせておいてくれる?多分、オレから電話する時間はないだろうから」

「自分で言えば。まだ皆、ここにいるよ」

美波はベッドの脇に並んだエディ、パトリック、そしてアリシアの顔を順繰りに見ながら答えた。キーランが帰ってしまった寂しさで、美波が参っているのではと心配してのことだろう。その夜、3人は遅くまで病室に居座っていた。

「いいよ。急ぐんだ。じゃあな。また電話するよ」

美波がアリシアに電話を渡すまでには、キーランはそそくさと電話を切ってしまっていた。乾いた話中音を立て続ける携帯電話を受け取って、アリシアが深いため息を吐く。

「あの子らしいと言えばそれまでだけど」

「オレたちには用がないってことさ。いつものことじゃないか」

パトリックは気楽に笑った。エディが鼻に皺を寄せて、そんなパトリックの脇腹を肘で突付く。

「日本では親の心、子知らずって言うんだ。君からもう少しアリーに気を配るように、キーランに話したほうがいいんじゃないかな」

「お前だってキーランの生意気な性格はよく知っているだろう。アイツが誰か他の人間の言うことを聞くこと自体が奇跡だし、そんなことがあったとしもアイツはオレの言うことだけは聞きやしないよ。美波みたいに御し易い子どもを持ったことを感謝した方がいいよ」

美波は慎重にパトリックの方を見る。

「パットおじさん、それ誉めてくれているんだよね」

「もちろん、そうだよ。キーランと違って、美波は優しいからな。今年のクリスマスはアリーのためにちゃんとニューヨークに来るだろう?そうすれば、不肖の息子だって家に戻ってくるはずさ。去年なんか、クリスマスディナーが終わるか終わらないかのうちに消えてしまったけれど、昔から美波がいると、わりと家でウロウロしていたからな。それで、今年のクリスマスは、アリーもキーランの顔を見ることができる」

パトリックは美波に対して、軽くウィンクをしてみせた。そんなパトリックに、アリシアはそれが一番よねと答える。ふたりのいつになく息のあった様子に、美波はケネディ家がぐるになって、自分のことをハメようとしているのではないかとつい疑っていた。美波が黙っていると、パトリックは横を向き、エディに言い渡した。

「お前も今年はちゃんと休みを取って、クリスマスにニューヨークまで来るんだぞ」

言われたエディはかなり動揺したように、パトリックを見返した。

「僕もなのかい?日本の会社はクリスマス休暇なんてものはないし、年末はけっこう忙しいんだけどな。特に今年はごたごたしているしね」

「自分の顧問弁護士相手にそんなことを説明する必要はないだろう。知っていて言っているんだ。でも、これまで散々、不義理をしてきたんだから、今年ぐらい付き合ったっていいはずだぜ。考えてみろよ。この前、お前とニューヨークでクリスマスを一緒に祝ったのは、まだフィーが生きている時だったはずだから、もう25年も前のことになる」

「あら、そんな前のことになるの」

「そうさ。それだけの時間がかかって、やっと面倒な問題が片付いて、また皆で、ニューヨークに集まってクリスマスを祝うことに何の障害も無くなったんだ。それで、知らん振りって言うのはないと思うけどな」

「だけど、年内は仕事に復帰しなくていい美波はともかく、僕はそんな時期に、休みなんか到底、取れないよ」

それでも食い下がるエディを、パトリックは軽く笑い飛ばした。

「残念だな。もう『根回し』をして、お前のスケジュールを調整してあるんだ。今年は、川嶋社長は15日から27日まで休みってことになっている。28日の仕事納めのパーティにはお前の顔がいるらしいから、大晦日と新年の方は勘弁してやるよ」

エディは目を細めて、気楽に笑うパトリックを、じっと見る。

「『根回し』なんて余計な日本語を覚えて、君は僕の会社で一体何をしているのかな」

「だから、お前の顧問弁護士だよ。従業員がこのところ『過重労働気味』の社長のことを心配して相談に来たからさ、顧問弁護士として休暇を取らせるように助言したんだ。もっとも、従業員の方では、お前がいない間に少々、息抜きがしたいみたいだな。だからお前が休暇を取ることは良好な労使関係のためでもあるんだ」

楽しそうに説明するパトリックの顔をしばらくの間見つめて、エディはため息を吐き、美波に言った。

「どうやら、君も僕も上手くハメられてしまったらしいね。12月にはどうしてもニューヨークに行かなくてはいけないらしい」

「キーランが航空券を手配して送るって言っていたよ。要するに、懐かしいケネディ家式クリスマスへの招待状ってところだな」

依然として不満そうなエディの肩を数度叩き、パトリックが宣言する。それを聞いて、状況をのみ込めた美波は少しだけ膨れて見せた。

「何だ。やっぱりパットおじさんとキーランはふたりでグルだったんだ。こういうときだけチームを組むなんてずるいな。ねぇ、お父さん」

「ふたりの間の麗しき親子愛を珍しく垣間見ることができて、僕らは喜ぶべきなんだろうね」

ため息混じりにエディが続ける。そんなエディの手を、アリシアが穏やかにそっと握った。

「いいじゃないの。ふたりのおかげで、また皆で楽しい時間が過ごせるんだから。私の夫と息子にしては気が利いているでしょう。エディと美波がニューヨークに来るなんて、私には最高のクリスマス・プレゼントだわ」

「そうだと思ったんだ。ケネディ教授が一番喜ぶんじゃないかってね」

パトリックが上機嫌でアリシアの頬にキスをし、それで美波とエディも何となく顔を見合わせて、笑い合う。ニューヨークのクリスマス。確かに久しぶりではあるし、懐かしいものでもある。しかも、今年は、エディも一緒にクリスマスを祝うことができる。それだけでも今までとは違ったクリスマスになることが決定的であったけれど、それよりも、美波は、美波とエディをニューヨークに呼び寄せるキーランの思惑の方に気を取られていた。ニューヨークでキーランの顔を見た時、自分は一体、どんな表情をするのだろう。


 翌朝、デーヴィッド・クレイトンから特大の花束が届き、すぐに電話があった。そういうところは、さすがに人気ポップスターだけあって、抜かりない。

「キーランから話を聞いて、オレもジェンもびっくりしたんだ。すぐにお見舞いに行こうかと思ったんだけれど、キーランが行くなって止めるんだ。今、東京まで飛んで行くと、美波ちゃんがまた不精癖を出して、クリスマスに来ないからって言ってさ。だから、東京のエイジェントに連絡して、美波ちゃんのところに花束が届くように頼んどいたよ。美波ちゃん、花がとても好きだろう?それに、ジェンが手配したお見舞いも、もうすぐ届くはずだよ」

初めて会った時、デーヴィッドは大学の東アジア学部で日本語を学ぶガールフレンドと付き合っていて、以来、美波のことを「美波ちゃん」と呼ぶ。相変わらずのお人好し丸出しの話し方に、美波は自然と顔が緩んでしまうのを感じる。

「花束はもう届いているの。とても綺麗。どうもありがとう」

「美波ちゃんが入院している間、毎日新しい花が届くように手配しておいたからね。それで、クリスマスには会えるんだろう」

「キーランにそうやって脅された」

デーヴィッドは明るい笑い声を立てた。

「絶対に、来た方がいいと思うよ。さもないと、キーランが本気になって怒るから、そんなことになったら、オレにもジェンにも手に負えないからさ。それに、その頃までには新しいアルバムが出るはずなんだ。美波ちゃんがニューヨークに来たら、最初のコピーを謹んで進呈するよ。今度のアルバムには、美波ちゃんとキーランの関係からインスピレーションを貰った曲が入っているんだ」

「なぁに、それ。すごく恥ずかしいな」

「大丈夫だよ。古い友達にしかわからないからさ。オレの他には、昔のバンド仲間とか、後はジェンぐらいかな。とにかくさ、皆、待っているんだから、早く怪我を治して、必ずおいでね」

待っているからねと念を押し、デーヴィッドは電話を切った。


 パトリックとアリシアは土曜日の朝に慌しくニューヨークに戻っていった。金曜日の夕方までパトリックは東京での最後の仕事に追われ、アリシアは病院に残る美波のことをいつまでも心配していた。順調に回復をしているのだから大丈夫と、美波が笑って見せると、またすぐに会えるんですものねと、アリシアは涙ぐみながら美波の髪を撫ぜた。それでも、別れ際にはしっかり美波とキーランの携帯電話の番号を控えていき、それで毎日の定期コールがかかってくる相手が増えたことは言うまでもない。


 しばらくやっかいな案件に取り組まなければいけないと言っていたエディは、数日、顔を見せなかった。とはいえ、医学部時代の元同級生が病院の休憩時間に遊びに来たし、週末の間は、菜穂や寺崎、芳賀しのぶが顔を見せ、美波の病室は相変わらず千客万来の状態だった。おまけに、ニューヨークに戻ったキーランが、あちらこちらに美波の入院のことを触れ回っているのだろう。アメリカから国際宅急便で、カードやらチョコレートが毎日のように届くようになり、美波にはパトリックたちがニューヨークへ帰ってしまったことを特に寂しく感じることなく、ごく自然にひとりでいることが多かった昔のような生活に戻っていった。

 キーランとは一日に一度、電話で短い会話を交わすことを続けていた。もっとも、話の内容は、久しぶりに良く寝たと思ったら、デーヴィッドとジェンが押しかけて来て、叩き起こされたとか、雪がちらついたとか、ニックスのチャリティマッチに行ったというような他愛も無いことで、そうやってキーランと話しているうちに、物事はまた元のように、静かな秩序を取り戻していくようにも見えた。たったひとつの問題は、自分がいまだに入院していることであったが、それとて日増しに回復していくことが確信が持てるようになっており、首から吊った手の先を動かすリハビリに努めながら、美波は次のステップへ向かう準備を自分が完了しつつあることを感じていた。12月はもうすぐだった。


 その朝、リハビリ目的で体が動く範囲でストレッチ体操をしていると、若い看護師が病室に飛び込んできた。

「大変、川嶋先生。先生がテレビに出ているよ」

言われた美波は呆然として、じっと看護師の顔を見てしまった。テレビに出ていると言われても、自分は今、この病室に居る。状況がよく理解できず、瞬きばかりしている美波をじれったく思ったのか、看護婦は無言でテレビのリモコンを取り上げると、スイッチを入れた。すると、確かに白衣を着た美波がテレビに映っていた。どこで取った写真であるのかよく覚えていないが、大方、入院患者や看護師と取った記念写真の1枚であろう。

「コマーシャルの後も引き続き、川嶋グループ社長川嶋真隆氏と料理評論家川嶋絵梨子さんの離婚についてお伝えします。おふたりは人気タレントの川嶋綾乃さんのご両親であるわけですし、川嶋真隆氏の最初の結婚の事実が明らかになったわけですから、これはショッキングな話題ですよねぇ」

画面が切り替わって登場した男性司会者が至極真面目にそう言うと、周りに座る数人の出演者が大仰に頷いた。美波の頭は一挙に混乱してくる。

「この話題、今日発売の週刊誌とかスポーツ新聞にも出ていますよ」

横で看護師が遠慮がちに言った。

「こんな話題が活字になっているの?」

「もぉ、すごいですよぉ。大騒ぎです」

美波は痛み出す頭を振りながら、サイドテーブルの引き出しを開け、小銭入れを出した。

「ねぇ、とても悪いんだけど、その雑誌とか新聞とか買って来ることを頼めないかしら」

「もちろん、いいですよ。そうだ、先生、あとでサインしてくださいね。私、さっきの放送を聞いていて、ちょっと感動してしまいました。先生って子どもの時、本当に苦労したんですね」

あっけらかんとそんなことを言う看護師に対して、美波はなんと返答をしてよいかわからず、ただ口を開けて、硬直していた。

「ああ、そうだ。川嶋先生は今日のところは病室でおとなしくしていた方がいいですよ。もうとっくにマスコミの人がたくさん集まって来ていて、先生に会わせろって言って聞かないんですよ。それで、さっきから堂本教授と佐々木先生が応対しています」

部屋を出る間際、看護婦はそんなことを言い、美波にとどめを刺した。枕に頭を深く沈め、美波は大きなため息を吐く。こんなに騒ぎばかり起こして、堂本教授に破門にされたらどうしよう。おまけに、外にマスコミが来ていて、自分に会いたがっているという。何てことだろう。


 週刊誌とスポーツ新聞の記事はどれも大同小異で、テレビの報道はその記事に依拠しているらしいように見受けられた。今のところ伝えられている主な事実は、エディと絵梨子の離婚が先週の金曜日に合意されたこと、そして、離婚後、絵梨子と綾乃は川嶋の籍を出て、関谷の姓に戻ることであった。ただ、その他に「付随的な情報」として、エディがハーバード・ロー・スクール時代に3歳年上の弁護士と学生結婚していて、ふたりの間には娘が一人いること(おそらく自分のことだろう)や、絵梨子との結婚は、関谷久夫の強い希望で、最初の妻が事件死した後成立したことが報じられていて、どうもそうした「付随的な」情報の方が一般の関心を集めているように思われた。


「それでそのお嬢さんが川嶋美波さんっておっしゃるんですね。美しい波でミナミさん。ご両親の愛情が溢れた名前ですね」

女性司会者が結婚式の司会のような調子で言った。美波は人知れず赤面した。

「そうです。現在のところでわかっている限りでは、川嶋社長が絵梨子さんと再婚された関係で、12歳まで川嶋社長の友人夫妻に引き取られてニューヨークで育ったらしいんですが、その後、川嶋社長が友人ご夫妻ともども東京まで呼び寄せになって、中学、高校と東京の名門誠光女子学院に通い、卒業後、ストレートで東大医学部、現在は都内の病院で外科医として勤務しているとのことです」

「まぁ、お父様に似て、とても優秀な方なんですね」

「未確認の情報ですが、川嶋社長の最初の奥様であり、美波さんのお母様であった方はニューヨークのコロンビア大学のロー・スクールを出た弁護士さんだったということですからね。ご両親揃ってご立派だということです」

相手役の若い男のレポーターはまるで自分の恋人のことを紹介するように、胸を張って続けた。対して、女性司会者は、テレビショッピングのモデルのような笑顔を見せる。

「実は、その美波さんが勤務する都内の病院に、植田レポーターが行っているんですね。呼んでみましょう。植田さぁん」

美波が思わず口にしていた紅茶を吹き出すと、画面が切り替わって、新宿の病院が映った。冬が始まりかけているというのに白っぽい洋服を着た若い男が、よく知った顔の看護師数人と並んでいる。

「こちら、新宿の病院です。話題の川嶋美波さんはこちらの病院で外科医として勤務しておられます。そこで、今日は、普段の美波さんをよく知っておられる看護婦さんの方々に集まっていただきました」

「川嶋先生、テレビを見ていますかぁ?」

看護師の青木が画面に向かって明るく手を振った。確かに、観ている。観ているけれどと、体が震えてくる。

「皆さんは川嶋美波さんと普段ご一緒に働いているわけですよね」

「そうですよ。川嶋先生は最初、研修医としていらっしゃったんですけれど、今では外科のレジデントで、救急部の浜松部長の信頼も厚い優秀な先生ですよ」

「どういったお医者さんなんですか」

「それは、もう、とっても仕事熱心で、優秀で」

「それで、また、とても優しいんだよね」

ねっと看護師たちは頷きあう。

「ほら、先生は見た目がとてもガイジン系でしょう。だから患者さんたち、最初はいつも引いちゃうんですよ。日本語を話せないんじゃないかって。それでも、先生の患者さんへの接し方がとても丁寧で、優しいから、最後には患者さんが全面的に先生のことを信頼するんです」

「まさに、理想的なお医者さんですね。しかも、美女ときている」

「そう。川嶋先生はほぼ完璧。問題はちょっとお嬢様すぎることぐらいかな」

「お嬢様すぎるんですか」

男性レポーターはそう言って大きな声で笑った。つられたように看護師連中も笑う。

「そう。とっても素直で、仕事以外のところでは少しポーっとしているし、あまり怒らないの。それから、物の値段とかまったく知らなくて、川嶋先生は金銭感覚がないよね」

「素敵なバッグとかたくさん持っていて、よく見たらグッチとかプラダじゃない。それですごいですねぇって言ったら、そうなの、親に貰ったからよく知らないのって言われてびっくりしたことが何度もありますよ。でも、その親が川嶋真隆じゃ、そういうこともあるかなって感じですね」

「僕のような庶民には、まったくうらやましい限りの話ですね。看護師の皆さんからはもっとお話を聞くつもりですが、一旦、スタジオにお返しします」

男性レポーターはすっかり看護師たちと打ち解けて、とても楽しそうに中継を打ち切った。画面から溢れる和気藹々とした雰囲気に対して、何だか、自分ひとりがむしゃくしゃしているようで、美波は尚のことイライラし、エディの携帯の番号を再度押したが、相変わらず応答が無かった。


 通信を切った途端、携帯電話が鳴った。すっかりエディだと思って応答すると、菜穂だった。

「アンタ、テレビ観ているの?」

「観ているわよ。何なの、これ」

美波はすっかり不機嫌な声で答えた。菜穂は鼻を鳴らした。

「1ヶ月もすれば、こんな騒ぎ収まるわよ。それで、アンタが観ているのはうちの局のワイドショーよね?」

「そうよ」

「それじゃ、覚悟しなさい。今から私が出てアンタのこと喋るから」

「嘘でしょう?」

美波は思わず大きな声を出した。それで、久しぶりに肩の傷がひどく疼いた。

「業務命令なのよ。誰かが学校の卒業アルバムを手に入れて、アンタと私が仲良く写っている写真を見つけてきたわけ。アンタだって、私が首になったら嫌でしょう?だから、ガマンしなさい。それじゃ、出るからね」

菜穂はあっさりそれだけ言うと、電話を切った。美波の抗議は、当然、菜穂には届かなかった。実際、画面の中では女性司会者が菜穂のことを紹介し始めた。

「何と、わが局、政治部の露木菜穂記者は川嶋美波さんと誠光女子学院でクラスメートだったんですね。そこで、これから露木記者に登場してもらって、素顔の川嶋美波さんについて私たちに教えてもらえることになりました。それでは、露木記者、お願いします」

女性司会者の紹介を受けて、画面の隅からスーツ姿の菜穂が登場し、軽く会釈をすると椅子に座った。

「露木記者は川嶋美波さんと誠光女子学院で同じクラスだったそうですけれど、それじゃどのくらいのお付き合いになるんですか」

男性司会者が中学教師のように聞いた。菜穂はすっかりよそ行きの態度で、ニッコリと笑う。

「中学1年の時からですから、かれこれ15年になりますね。大学は違ったんですけれど、どういうわけかずっと仲良くしてきて、この週末も会ったばかりですよ」

「あら、この週末に会われたんですか?お怪我をして入院中だって聞きましたけれど、いかがなんですか?」

「そうですね。今回は大変な怪我をしたわけですから、とても元気にしているとは言えませんが、順調に回復しているようですよ」

あら、よかったと女性司会者は言った。皮肉なことに、テレビを観ている美波の心臓は大きく鼓動し、体中の血液が逆流しているような感じだった。これで、また、体調が悪くなりそうだとも思う。

「それで、中学・高校時代の美波さんというのはどういった方だったんですか?」

「最初に会った時の美波は、まだニューヨークから日本に来たばかりで、日本語も板についていないような感じだったんです。私たちが特に仲良くなったのは、私もあの時、長い海外生活から戻ったばかりだったので、お互いに日本の学校に適応することに苦労していたって共通点があったからなんですね。それでも、美波は少しずつ日本の学校や生活に慣れていって、その影で彼女は大変な努力をしたんだと思いますよ。少し学校時代の写真を持ってきたんです。見ますか?」

「ぜひ、拝見したいわ」

「こっちが中学時代の美波と私。京都へ修学旅行に行ったときの写真です。それから、次の写真は高校の時の文化祭ですね」

菜穂は2枚の写真を取り出し、カメラがそれらの写真をアップで捉える。美波はテレビに映った制服姿の自分を不思議な思いで見詰める。あの頃もそう思っていたけれど、背が高く、あからさまにガイジン顔の自分には制服はあまり似合っていない。

「あら、お人形さんみたいで可愛いわ」

女性司会者は無邪気に言った。菜穂は軽く笑って、写真をもう1枚指し示した。

「そしてこれはつい最近、撮ったものです。先月の中ごろだったと思いますよ」

美波はその写真のことをよく覚えていた。寺崎たちを含め、皆で、青山のエスニック居酒屋で落ち合った時に撮った写真だ。菜穂と美波が両脇からキーランの腕を取り、3人ともカメラに向かって屈託なく笑っていた。

「あら、この男性、少し前に川嶋綾乃さんと噂になった男性じゃないですか?」

菜穂は苦笑して頷いた。

「キーラン・ケネディさん。あの時は娘違いだったんじゃないですか?だって、ふたりはもう10年も付き合っているんですよ」

「そう言えば、あの時、川嶋社長も、ケネディさんには長く付き合っているガールフレンドがいるはずだって言っていましたね。それじゃ、お父様公認の仲なわけですね」

その時点で、美波は力尽きて、ベッドの上で果ててしまった。これだけ言いたい放題、テレビの中で自分の私生活について色々と言われなければいけないようなことを、自分はしていないと思う。


 番組の終了直前に、堂本教授が登場し、美波の怪我の状態について説明した。堂本教授は、普段の回診の時と同じように記者相手に話すので、聞いている記者のほうが正確に情報を入手しているのかよくわからなかったが、もちろん、医者である美波が理解するには何の問題もなかった。聞いている限りでは、家庭での看護状況に問題が無い場合は、退院しても問題ない状態にまで回復していた。

 朝のワイドショーを見ていただけで精神的に疲れきってしまった美波は、昼食の間中、枕に頭を預けてボーっとしていた。様子を見に来た看護師が気を利かせて、オレンジ風味の紅茶を淹れてくれたが、美波自身は何を食べ、飲んだのかまったく定かではなかった。昼食のトレイを下げる時、看護師はマスコミの人、まだウロウロしているんですよ、気をつけてくださいねと言った。美波がふたたびテレビをつけると、川嶋グループ本社らしきビルが映っていた。


 エディから電話があったのは、そのすぐ後のことだった。

「ああ、美波。連絡が遅くなって悪かったね。今朝はこっちもかなりごたごたしていたんだ。それで、君は大丈夫かい」

美波が極度に不機嫌であろうことを予想して、エディはことさらに優しい調子で言う。それで、美波は尚のこと、不機嫌になってしまう。

「あれだけ、テレビや雑誌で好き勝手なことを言われて、大丈夫だと思う?おまけに、堂本教授にまた迷惑をかけてしまったし」

「病院の方は先週のうちに手を打っておいたから、心配しなくてもいいよ。それに、僕も全部見ていたわけではないけれど、テレビの放送で、特に悪いことを言っていたとも思わないけれど」

やんわりとした調子で、それでもしっかりと美波を懐柔しようという目論見を定めて、エディは言う。そんなエディに対して、美波はよせば良いのに、つい本気になって言い返してしまう。いくら頑張ったところで、いつもことばでは敵わず、結局言いくるめられてしまうのだが。

「私は見も知らない人が、私の私生活について話しているのが嫌なの。私がどんな人間だって、どうでもいいじゃない?私はお父さんのように大きな会社を経営しているわけでもないし、政治とも関係ないし、綾乃さんのようにテレビに出る仕事をしているわけではないんだから」

「まぁ、君のような場合は、公人と私人のグレイゾーンに当たるからね。実際、法律的には難しいところなんだよ。君は僕の一人娘で、川嶋の家の相続人なんだから、まったく一介の医者だと言うわけにもいかないだろう」

涼しげに法律論に置き換えようとするエディに対し、美波はつい大きなため息を吐いてしまう。

「でも、私の情報を流したのはお父さんなんでしょう?」

エディはクスリと笑ったようだった。

「知恵がついてきたね。君の言う通り、確かに君の簡単な経歴を情報として流したよ」

「それだけ?」

「それから、写真を2、3枚かな。でも、それだけだよ。後はテレビや雑誌が勝手に調べたんだ。僕も、実際、こんな些細なことに、あそこまで労力を使って、よくやるなとは思ったんだけどね」

エディは気楽に笑っていたが、言われた美波の方は冗談じゃないと思う。

「でも、何が面白くて私のことなんか取り上げるのかな?自分で思うけれど、私は仕事ばかりしていて、無趣味で、とても退屈な人間だよ」

「それでも珍しいんだよ。自分では気がつかないのかもしれないけれど、美波は見た目だけではなく、中身も独特だからね」

エディは言い含めるように、包容力のある声で言う。よく考えてみると、かなりヒドイことを言われたような気がしないでもない。

「あのね、お父さん。私は動物園のパンダではないんだから」

「それはいい喩えだね。僕が象であるならば、君はパンダか」

喉の奥を鳴らしながら、エディは心の底から可笑しそうに笑った。離婚が公になって、こんなに陽気になる人間も珍しいのではないかと思う。

「とにかく、美波、君には悪い知らせなんだ。今朝から会社にもマスコミの人間がたくさん押し掛けて来てね。僕としては、今日はずっと息を潜めて、隠れているつもりだったんだけど、彼らもしつこくて、あちこちの業務に支障が出てきている。それで、彼らを追い払うために、結局、僕が出て行って、君とフィーのことを喋ることにしたんだ。悪いね。多分、2時の枠で放送になると思うよ」

「お父さんが私のことをテレビで話すのぉ」

それで、完全に止めを刺されてしまったようにも感じた。美波が大きな声を出すと、エディは更に笑い声を高める。

「大丈夫だよ。僕が可愛い君のことを悪く言うはずないだろう?それじゃ、夕方にはそっちに行くから、またあとで」

エディは早口にそれだけ言うと、さっさと電話を切ってしまった。美波は通話が切れた音を聞きながら、首が火照ってくるのを感じた。


 部屋の中にエディが入ってくると一斉にカメラのフラッシュが焚かれた。その光の洪水に、エディは少し驚いたように眉を上げる。間髪入れず、エディの周りをたくさんのレポーターたちが取り囲んだ。

「川嶋社長、絵梨子さんと離婚なされたというのは、本当ですか?」

「本当です。先週の金曜日に手続きを終えました」

取あえず、真面目な顔をしてエディは頷く。その様子を見ていて、美波はキーランが見ていたら大笑いするだろうなと思う。

「それで、絵梨子さんと綾乃さんは川嶋の籍を出られて、関谷の姓に戻られるというお話ですが、事実でしょうか?」

「その通りです」

「離婚の原因は?」

「それは離婚時の条件として、公言しない約束となっておりますので、ご勘弁ください」

「一説には、絵梨子さんとの結婚は、関谷久夫氏の強い希望で、川嶋さんの本意ではなかったと言われていますが」

「それは、まぁ、皆さんのご想像にお任せします」

エディは居心地が悪そうに体を揺らして、答えてみせた。大した役者ぶりだ。

「その点と関連してなんですが、今回の離婚で、川嶋社長にお嬢さんがもう1人いらっしゃることが明らかとなりましたね」

ことさらに大きな声で質問するレポーターに対し、エディは苦笑してみせる。

「私としては、特に、彼女のことを隠してきたわけではないのですが。もっとも、皆さんの中には、彼女のことを私の愛人だと勘違いなさっていた方もいたことは事実ですね」

レポーターの間で、決まりの悪い失笑が広がった。

「それで、そのお嬢さんが、今朝から話題になっている川嶋美波さんという女医さんであることは間違いありませんね」

「そうです。美波と言います」

「その美波さんのお母様が、川嶋社長の最初の奥様だったわけですね」

「それも事実です。彼女はフィオナという名前で、アメリカ人でした」

「コロンビア大学のロー・スクールを出た弁護士さんだったんですか?」

「ええ。彼女はとても優秀でね。アメリカで暮らしていた間は、彼女の方が高給を取っていましたよ」

エディが相好を崩して肯定すると、どよめきが広がった。もっともなことだと思う。今のエディはきっと、日本一の高給取りの経営者なのだろうから。

「あの、一部週刊誌にお写真が載っていたんですけれど、フィオナさんというのはこの方で間違いありませんか?」

エディに週刊誌が手渡される。ページに目を落としたエディの顔に、ゆっくりと穏やかな笑みが浮かんでいった。

「ああ、懐かしいな。その通りですよ。彼女がフィーです。この写真は、きっと私たちが東京に戻って間もない頃、アメリカ大使館のパーティで撮られたものですね。よく見つけ出したものだな」

画面の中のエディは本当に嬉しそうだった。ということは、エディはその写真が現存していたことを知らず、マスコミが発掘してきたのだろう。本当によくやるものである。

「お写真で見る限り、お嬢さんの美波さんは、お母様にとても似ておいでですね」

「そう、あのふたりは確かに似ていますね。ただ、娘の方の性格は随分と地味目で、今朝から自分の顔がテレビに映ったりしているものですから、パニックを起こしていますよ。あの娘は、普段はテレビもよく観ないような、浮世離れしたところがありましてね」

「究極お嬢様だという職場の看護師さんたちのコメントもありましたけれど」

これにはさすがのエディもことばに詰まり、笑いをかみ殺すように左手のこぶしを口元に当てる。その時に、美波はエディが結婚指輪をしているのを見た。正直言って、かなり驚いてしまった。

「いや、そうやって言ってくださるのは、ありがたいことですね。私としては、もう少ししっかりしてもらいたいと思っているのですが。」

レポーターたちが好意的な笑いを漏らした。皆で言いたいことを言ってくれてと、美波はテレビの前で少し膨れていたが、すぐに、若い男のレポーターが手を上げた。

「ただ、そのフィオナさんが1976年8月にカリフォルニアで何者かに刺殺されていますね。それで、川嶋社長と絵梨子さんの結婚が戸籍上成立したのが、通常言われてきた4月ではなくて同じ月の8月。こうした事実をつなぎ合わせると、色々な疑惑が出てくると思うのですが」

質問をじっと聞いていたエディは、自分の考えをまとめるように、数秒間、下を向いた。唇をかみ締め、それから決然と顔を上げる。

「おっしゃることはわかるのですが、事件自体が迷宮入りをしておりますし、その辺りの詳細を明らかに致しますと、多分、本来は責任の無い人間までが傷つくことになってしまいます。ですから、私からは、その件に関しては、これ以上、この場で発言することはさし控えさせて頂きたいと思います」

それから、エディは静かな笑顔をレポーターたちに向けた。

「この前、娘がとても良いことを言いましてね。もし、その人が自分に責任があると思ったら、その思いに苦しむことになる。だから、私たちが責めるのはもう止めた方がいいって、あの娘は言うんですよ。恥ずかしながら、私はその時、妙に心が動かされましてね。そういうことばをあの娘の口から聞けただけでも、私は彼女のことを誇りに思いました」

エディが口を閉じると、タイミングを見計ったように、岸田がレポーターたちの人垣の向こうから社長と声を掛ける。

「そろそろ次の予定がありまして、他にご質問がないならば、これで失礼させて頂きたいのですが」

エディが笑顔を振りまいて言うと、甲高い女性の声が飛んだ。

「今後、再婚のご予定は?」

「当分は娘と暮らしますよ。それが長い間の私の夢だったものでね」

エディは少年のようなはにかんだ笑顔を浮かべて、それだけ言うと、会見の場を後にした。テレビから消えていくエディの姿を見ていて、美波はなぜか赤くなっていた。


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