オイディプス・アドレーション(空塚天と黒崎琥珀の場合)
「天はゼウスの息子よ」
小さいころ、母と二人きりの時よくそう言われた。
母を疑わなかったのは小さすぎて親を疑うほど発達していなかったというのもあるが、僕以外の人間は「ビリビリ」を作ったり飛ばしたりできないと知っていたからだった。
「ビリビリは見つかったらだめよ」と言われていたので僕はビリビリを使わなかったが、それでも僕は神の子だと自分を信じていた。
簡単な問題で訳の分からない間違いをする他の子供。青春全部を「走る」に捧げているのに流して走っている僕に負ける他の人間。
優越感を感じている暇などなかった。
「ゼウスの子供なら当たり前」
「神の血を引いてるんだからこんなものではないはず」
僕は最高級の才能に努力をつぎ込みはじめた。まるで神に追いつこうとするように。
家に散らばるオール最高評価の通信簿と無数の賞状。それを雑に扱いながらも捨てないのは彼女なりの屈折した優越感からくるものだろう。私は神に魅入られた。社長令嬢で美しい私をあの夜見染めてくれた。
周りに「気違い」と呼ばれても神に選ばれた証として母が産んだ僕は僕のステータスを上げなければならない。自分の父は偉大であると証明しなければならない。神に追いつかなければならない。
十六歳の僕はアメリカで博士号を取り、株と為替でタワマン暮らしをしていた。母は一通りの家事はやってくれているので僕は僕のレベリングに集中できていた。空手と柔道を一年やって、MMAで獲得した賞金をどこに投資しようか?
深夜三時、母親はとうにベッドに入っている。眠気をカフェインで散らして量子力学と古典力学の繋がりについて考えていたが、もう限界だ。
ちらりと部屋の窓の外を見ると、カーテンの後ろに人影が見えた。
(ここは40階だぞ)
僕は一瞬冷静さを失い、駆け寄って窓を開ける。
「あは、本当に半神だあ」
ベランダの柵の上にいたのは東京ではありふれた、白いフリルなど少しゴスロリめいた服装の青い髪の少女だった。
「君、ゼウスの息子だね。その才能、アテネかと思ってたよ」
僕の判断は迅速でそして間違っていた。右手に電撃をまとわせスタンガンの要領で掌底を突き出す。
「おっと、あぶないあぶない」
少女は躱して肘を掴み、その勢いでベランダの柵から自分ごと僕を落とした。
「おい!なに考えて」
「ここじゃ話しづらいからね。屋上行こう」
落下の最中に器用に壁を蹴り、彼女の足元に水色に光る幾何学模様が現れる。それを蹴ると落下の感覚が一気に浮遊感に変わり、物凄いスピードで屋上が迫ってくる。
トン、と静かに欄干に降り立つと、僕を荷物のように屋上に放り投げる。
「ゲホッ、ゲホゲホ」
「半神だとは思ってたけど、まさかゼウスの子だとはね~。神の子は基本的に『良く出来てる』から万能の『秀才』は珍しくないんだけど、その才能はもうアテネの権能、知恵と勝利だと思ってたよ」
「なんで、それを知って」
「まあお話の続きは――やりあいながら話しましょうや」
彼女が指を鳴らすと屋上が見えない膜で包まれたのを感じた。
次の瞬間、彼女の拳が見えたので反射で躱す。
僕の頭のあった位置の柵が、ぐにゃりとへこむ。
死の恐怖が全身を満たした。
僕は高圧電流をスパークさせ、一瞬で高温に熱された空気の膨張爆発を利用して距離を取る。
「権能、使い慣れてる?だとしたらボクの耳に入らないわけないんだけどなあ」
自分の能力について考えていた時思いついた、火傷と打ち身覚悟の逃げ技、攻撃技だ。
しかし彼女の顔についた火傷は音を立てて皮膚が再生されていく。
「バケモノ」
「お互い様でしょ。ふつー人間は電気――正確には雷か、を操れないよ」
僕は電撃の槍を無数に彼女に向かって放った。
「今のはいいね。権能はコストがかからないから細かいこと考えず物量で押すのが正解」
彼女は無数の赤い逆十字で電撃を防いでいた。
「しっかしアテネじゃないのは嬉しい誤算だったよ。母親って聞いて『あれ?』とは思ったけど、あいつら性別関係ないから……お母さんに色々聞いたよ。ボクをヘッドハンティングのエージェントだと魔術で思い込ませてね。君は素晴らしい」
「お前、本当に――」
ハーフツインの長い青髪を手で振り払い、少女は嗤う。その牙は、少女の獣性。
「ボクは吸血鬼。単刀直入に言うけどさあ、君、ボクの殺人鬼になってよ」
「殺人鬼?」
「吸血鬼の眷属。半分吸血鬼で半分人間の、半吸血鬼」
「僕がゼウスの子供だから?」
「いいや?半神は強力だから、私の部下にしようと思ってたんだけど、お母さんの話を聞いて、君のこと大好きになっちゃった」
「部下?」
「そー。魔術教えたりして、でも気が変わった」
彼女は踊るようにターンした。
夜に彼女しか聞こえない旋律があるようだ。
「君、天才じゃないから」
「……ああ?」
「夜にはあの程度の知恵と暴力を持ってるやつは大勢いるよ。夜が目をつけるほど知恵の実の花を咲かせたのは学者ならアインシュタイン、オイラー。音楽家ならヴェートーベンとモーツァルトくらいだよ。君は天才じゃないけど、やりたいことに全精力を注ぎこむ狂気は持ってる」
青い、蒼い瞳が僕の奥底を覗く。
「お父さんに会いたいんでしょう?」
「……」
「小学生時代はギリシャ神話の文献を片っ端から漁り、ルネサンス期のインチキ魔術理論まで手を出した。中学に入って宇宙物理学の特に次元と観測問題の多世界解釈について一通り勉強。アメリカでもそのまま量子力学の研究を続けてる。異次元や平行世界に神様はいるって思った。違う?」
違わなかった。僕はお父さんに会いたい。お父さんに名前を呼んで貰いたい。僕がお父さんと会えない理由を教えてほしかった。
「神はヤリ捨てした女の事なんて大抵忘れてるよ」
「それでもいい。お母さんは正直どうでもいいんだ。ぼくは、なんというか――」
「上に行きたい?」
上、そう、その言葉を探していた。僕は神の領域までたどり着いて、さらにその先、誰も辿り着いたことのない景色を見たかった。
「君の殺人鬼になれば、上に行けるの」
「夜の住人になれば、格闘技の世界チャンピオンになったり、ノーベル賞獲るよりは深淵に行けるよ」
「なんで僕なんだ」
「その狂気に引っ張ってもらいたいから。君なら私を地獄の底から世界の果てまで導いてくれそう。ゼウスの息子だからじゃない。あなた自身の、先天性の狂気。私はそれが欲しい」
彼女の瞳は見慣れない青。しかし僕はその瞳を知っている。なんども、なんども鏡で見た、ここの先に、上に焦がれる瞳。
「僕は手を引こう。でも飛ぶのは君だ。僕は導こう。でも道を示すのは君だ。それでどう?」
「ボク的にはサイコウ。じゃあ、契約する?」
彼女の牙が白い指に突き刺さる。
「舐めて」
自分が血流に作り替えられていくのがわかった。明らかな夜の浸食は歓喜を伴う。歓喜せよ、歓喜せよ。血が歌う。
「言い忘れてたね。私は黒崎琥珀。よろしくね!下僕くん」
「空塚天だ。名前で呼んでよ。これからお前を世界の果てまで連れていく男の名だ」