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天突く声    作者: 岩 大志
8/16

米食えるとあらば

長篠城は、多くの犠牲を払いながら良く耐えた。

 五月八日の開戦以来、十三日まで武田軍は攻め続けだが、攻略しかねていた。それ以上に、毎日戦が終わると上がる勝ち鬨の声が、武田軍を焦らせていた。

 その夜、勝頼の本陣に重臣たちが呼び出された。沈痛な面持ちで、皆陣幕をくぐって行く。

 連日の不甲斐ない戦に何を言われるか、分からない。びくびくしながら入る者もいた。    

 勝頼は既に机の前に座っていた。

「座れ」

 と一言言うと、諸将は用意された椅子に腰をかけた。

 意外に機嫌が悪くない。ふとそう察する。

 すると、勝頼は全員が椅子に座るのを確認すると、後ろの近習にあごで合図を送った。

 程なくすると、奥の陣幕が上がり、手を後ろに縛られた男が、二人の兵に連れられて入って来た。口には布を巻かれ、勝頼の横に召し出された。

 また、勝頼が合図を出すと、その男の口元の布を解いた。

 男の身体には至る所に生々しい傷がついていた。特に左肩の傷は大きかった。その男を横目に勝頼は、

「ようやっと、降ると申したわい。」

 と、言いながら、男の近くに顔を寄せ、男の頬をポンポンと軽く叩きながら、

「ほれ名を名乗れ。」

 と言った。

 男はうつむきながらボソッと

「服部佐平次…。」

 と言った。

 なんと、佐平次は生きていた。あの日の激戦の最中、沼に落ち、やがて川に流れ込み生死の境を彷徨っていたが、水中から光の指す方へと片手で泳いだのであった。這い上がった場所は、武田軍の包囲網のど真ん中であった。あえなく捕まってしまった佐平次は、拷問にかけられた。

「どこじゃ。どこにあるのじゃ。」

 と、勝頼の命により、ある情報の聞きだしの為に執拗な拷問をされたのであった。最後には、その情報を言えば、長篠城は根絶やしにはしないとの言葉に折れ、武田軍の傘下に降ることを決したのであった。

「佐平次よ。ほんでどこにあるのじゃ。いうてみい。」

 と勝頼は佐平次の前でかがみながら聞く。

「北の…。北の砦にございます。」

 と、小さな声で言った。

 勝頼はそれを聞くと立ち上がり、重臣達の方へ振り向くと、

「聞いたか!北の砦じゃ。板敷川の、険しい斜面にあるあの砦じゃ。あの砦に兵糧庫があるぞ。明朝合図と共に一斉に火を放て!」

 と、叫んだ。重臣達一同は

「はっ。」

 と答えた。勝頼は、佐平次に向かい、

「よう申した。佐平次よ。ここにいる老いぼれどもには何日かかっても落とせぬ城じゃ。おぬしのお蔭で、突破口が見えたわい。」

 と、嫌味を放ち、

「佐平次よ。お主は山県の軍にでも加われい。見事兵糧庫を落としたあかつきには、名前を改めて、武田の一員として、戦え。そうじゃな…。」

 と、勝頼は少し考え、

「落合佐平次とでも名乗るがよい。沼に落ち武田と合うたも何かの縁じゃ。」

 と、言い放つとはははと笑いながら、陣幕を出て行った。 佐平次は泣きながら、

「ありがたき…。」

 と、言ったがその後の言葉は出なかった。

 武田の一員になれたのが嬉しかったのではなく、長篠の皆を売ってしまった自分を恥じていたのである。

 北の砦の兵糧庫。信昌が頼みの綱としていた、半年分の米が貯蔵されている要所であった。


 翌五月十三日 朝

 勝頼の命令通り、山県軍と内藤軍は一斉に北の砦に火矢を放った。

 北の砦の兵糧庫では最初は、水をかけたり、水を含ませた布をかぶせたりと、鎮火に回っていたが、応戦空しく、一瞬にして、火に屈し、兵糧庫は焼け崩れ去ってしまった。

 兵糧庫を失った長篠軍は一気に意気消沈してしまった。

 兵糧庫の鎮火作業が終わるころにはもう夜になっていた。兵糧庫番を任されていた、津見裕丸つみゆうまるは、黒く焼け焦げた兵糧庫のまで呆然と立ち尽くしていた。自身も、火矢が降り注ぐ中、必死に鎮火活動を行った際に、火矢がかすり、腕にやけどを負ってしまったが、そんな痛みも感じない程、落胆している。

「津見殿、これで火傷を労わられよ。」

 と、勝商が立ち尽くす、津見に水にぬらした手ぬぐいを手渡してきた。勝商を城内総動員での鎮火活動であった。

「おう。勝商殿。すまぬ。」

 と、申し訳なさそうに手ぬぐいを受け取り、火傷した腕に押し当てた。 

 津見裕丸は、勝商と同い年位であったが、人一倍老け顔であった。その顔がこの火事によって一段と老け込んでいた。

 そこに、信昌が歩いてやって来た。

 二人とも気付くと、さっとひれ伏す。

「津見よ。」

 と、声をかける。津見は

「はっ。」

 と恐れ恐れ返事をし顔を上げる。

 信昌は津見の顔を見ながら、

「米はあと何日分ある?」

 と尋ねる。

「はっ。焼け残りから運び出した兵糧。もって後二・三日かと…。」

 と、顔を曇らせながら伝えた。

「ニ・三日か…。」

 と、言いながら、信昌は振り返り戻って行った。

 津見は、泣きながら天を仰いだ、皮肉にも空から雨がポツポツと降り始めていた。

 雨に当たる火傷が酷く傷んだ。


 信昌は兵糧庫の視察を終えると、すぐに重臣達を集め、軍議を開いた。

 重臣達の中にはいよいよ、武田軍に降る意見も出始めていた。

 信昌の頭にもそれはよぎったが、信康の援軍を信じたかった。

 しかし、五月七日に武田軍襲来より数えて六日。援軍の旗は愚か、犬一匹通さない包囲網は、完全に長篠城を孤立化させていた。

 いたずらに時を過ごせば、長篠城下全ての兵が飢え死にするのが目に見えていた。信昌は大きな決断を迫られていた。

 信昌は、深く息を吸い、口からゆっくり吐くと、閉じていた眼をゆっくりと開き

「明日の昼、全兵を大広間に集めよ。そこでわが軍の行く末を決める。」

 と言うと、奥の間にひっこんでしまった。

 残された重臣達は、不安げに顔を見合わせながら、軍議は解散された。


 五月一四日

 長篠城の大広間に続々と兵士が集まって来た。身分の差もなく、僅かな見張り番だけを残し、他は全員であった。

 その異様な空気に、何が始まるんだと、訝しめな顔をする者が多かった。

 しかし、それ以上に、兵糧庫を焼かれた今、皆、意気消沈していた。広間にぎゅうぎゅう詰めで全員が座った。ちょうど真ん中辺りに勝商はちょこんと座っている。その隣には、津見の姿があった。


 まもなくして、奥の襖が開くと、重臣達を連なって、信昌が入って来た。

 一同皆、ひれ伏す。

「一同、面を上げよ。只今より、殿よりお言葉がある。」

 一同は、顔を上げた。約五〇〇人の視線は、信昌に注がれた。何を言われるのか。固唾をのんでその言葉を待っている。


 もし、ここで「武田に降る」と言えば、そもそもの裏切りの腹いせに何をされるか分からない。もし、「徹底抗戦」と言われれば、二・三日の米だけで武田軍一万五千と戦う事になる。なれば、いっそのこと、玉砕覚悟で、全軍突撃の命を出してもらった方が、武士の本懐を遂げるというものだ。

 いや、どちらにしろ、全員の頭の中には「死」という言葉が浮かんでいた。 


 信昌はひと時の静寂を破り大きな声喋り始めた。

「皆の衆、今日までよくよく耐えて来てくれた。武田の襲来より丸六日。惜しい武将も亡くした…。」

 と言うと、広間にすすり泣く声が聞こえた。

 信昌は続ける、

「昨日の兵糧庫襲撃によって、皆も知っているとは思うが、わが城の米はもってあと二・三日である。」

 皆無言で真剣に聞いている。

「岡崎にいる松平様に最後に伝令を出してもう六日以上経つが、外に武田軍以外の人影は一向に無い。私は、ここ長篠城主として、そなた達五〇〇の命を預かっている身じゃ。一人の命とて惜しい。長年共に長篠で戦ってきた仲間であるからな。」

 泣く声が増えた。



「そこでじゃ。」

 と、信昌が言うと、皆静まり返った。



 次の一言が我々の命運を分ける一言だと皆分かっていたからである。しかし、信昌の言葉は意外な内容であった。

 信昌は深呼吸を一つすると一思いに言った。

「そこでじゃ。誰ぞこの中から、武田の包囲網を抜け出し、岡崎まで走り、事の子細を松平様にお伝えし、援軍の要請に走ってくれるものはおらんか!」

 広間の兵士たちは思いもよらない信昌の言葉にポカーンと口を開けていた。そして、ざわめき始めた。

「この包囲網を?」

「馬鹿な。無理に決まっておる」

「いっそのこと討ち死にすべし」

 などあちこちで聞こえる。信昌はさらに言った。

「もし、包囲を抜け、援軍を呼ぶことができた者がおれば、元康様にその者へ一生困らぬ米を進ぜてくれ給えと、お願いするつもりである。そして、その名は今後、百年。いや二百年は語り継がれる、長篠の英雄と称賛されるであろう。武士の誉れぞ。誰ぞおらぬか」

 と、語尾を強めて言った。

 皆下を向いたまま黙っている。

 確かに武士の誉れではある。この上ない名誉なことでもある。

 しかし、そんなことは綺麗事であって、死地に飛び込めと言われているような事であった。

 手を上げる者はいない。

「おらぬか…。」

 と、信昌はため息をつきながら、天井を仰いだ。自分が今、無謀な事を家臣にお願いしている事も重々承知している。

 しかし、万策尽きた。

 広間の真ん中に座っていた、津見も頭を下げ、下を向いたまま動かなかった。無茶である。一万五千の大軍をかいくぐって、遥か岡崎城へ走るなど…。




 すると、この静寂の中、何か隣で動いたのを感じた。

 ぱっと見ると勝商が手を上げていた。

 顔はいつもの様にニコニコしている。

 津見は慌てて、勝商の上げている左手を抑えて、下げさせ、信昌の方を見た。

 信昌はまだ天井を仰いだまま気付いていない。津見はほっと息をし、勝商に向かって小さな声で「何を考えておる。」と忠告しようと、下げさせた手を抑えながら口を開けると、勝商は今度は空いている右手を高く突き上げ、


「行きまする。」


 と、はっきりと言った。その目は真っすぐに信昌を見つめている。

 広間の視線が勝商に集まる。

 思いもしない声に、信昌は、驚き、立ち上がり、手を上げている、勝商を見た。信昌は、立ち上がると、ひれ伏す兵の中を進んでいく。

 勝商の前に一本の道ができた。そこを信昌は進んで来た。

 そして、勝商の前に来ると

「おお。勝商か!行ってくれるか?」

「はい。」

 と、勝商が答えると、信昌は両手で、勝商が挙げている手を握り、この勇気ある足軽に全てを託し、最大の敬意を払った。

 周りの者たちは口々に

「おお。勝商。」

 と褒めたたえた。すると、勝商は

「信昌様。一つよろしいですか。」

 と、言った。

「何じゃ。申してみよ。」

「米はほんに貰えるのでございますか?」

 と真顔で聞いた。

 一瞬時が止まると、一同大声で笑った。

「もちろんじゃ。一生たらふくお主も、お主の家族も困らぬ米をくれてやるわい。」

 と、信昌は満面の笑みで答えた。

 勝商も満面の笑みを返した。

 長篠城に久しぶりに明るい声が響き渡った。


      米、食えるとあらば  完

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