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天突く声    作者: 岩 大志
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異世界

刻々と武田軍が軍備を整え、時勢が動いていることは、勝商を始め長篠城の者達は知る由もなかった。信昌の命によって、城の修繕に当たる日々を送っていたのである。

 

 運命の歯車は回りだしていた。

 

 その日、勝商は折からの長篠城主・信昌の命令で城の修繕に当たっていた。

 ここ数日の雨で、長篠の両脇を流れる川は小さな氾濫を繰り返していた。城の中に川の水が入ってきてしまった所を、見つけては、泥を埋め込む作業に当たっていた。

 しかし、今日は昨日と打って変わってカンカン照りである。みぞおち辺りを汗がぽたぽたと、流れていくのが分かる。

 集められた土に水を含ませ、柔らかく泥にして、台車に載せて、城壁の内側から埋めていく。佐平次もいた。

 二人は、泥の積まれた台車の取っ手を握り、城壁側向かって歩いている。

「福は元気にしておるか?」

「おう。最近はわしの白髪を抜いて遊んでおるわ。」

 と笑いながら自分の頭の方を見て言う。

 貧乏ではあるが、この子だけには苦労させたくないと、この城の修繕作業も一生懸命にとりかかっていた。相変わらずの貧乏で福と老婆に食わせるのがやっとで、自分は残った、飯を少し食らう位の日々を過ごしていた。

 薬屋には二カ月前からピタッと姿を現さなくなっていた。

 女房の喜は二カ月前、惜しまれながらこの世を去った。

 最後に食べた御馳走はあの猪鍋であった。それから、みるみるうちに体調は悪化し、とうとう死んでしまった。

 三歳の福はまだ何が何だかわからず、それから毎日のように、老婆に

「かか様はいつ帰ってくるの」

 と聞いて来ていた。老婆は可愛そうな我孫をその都度力一杯抱いてやった。

 喪が明け、城に戻って来た勝商は、いつものように、ニコニコと笑顔を振りまいていたがその垂れた目の下は膨れ上がり、眼は真っ赤であった。そんな勝商を見て佐平次と権平太も泣いた。


 「また福に猪の鍋でも食べさせてやりたいもんだなあ。」と、ニコニコ笑いながら、勝商は台車を押していた。

 すると、城の奥の方からドーンドーンと太鼓の音がした。飯の時間である。

 勝商と佐平次は、台車を城壁まで運び、布を日よけ代わりにしている、飯の配給所に向かった。歩きながら、佐平次は

 「信昌様の此度の決断は、どう出るじゃろかのう。いくら信玄公が亡くなったとは言え、あの武田家から松平様に付くとはのう。」

 勝商からの返事は期待していない。

 思った通り、勝商は

「うん。うん。」

 とだけ頷いて

「飯じゃ飯じゃ。」

 と先を行く。

 「相変わらずじゃのう」

 と、佐平次は勝商を追う。

 ゴロゴロと、雲が太陽を覆い、雲行きが悪くなってきた。

 さっきまでのカンカン照りが嘘の様であるが、炎天下の元、作業をしていた身にとってはありがたい。

 二人は貰った握り飯二つを持って、日陰に腰掛けた。

 すると、勝商は懐から汚い布切れを取り出し、握り飯を一つくるんで懐に戻した。

 「何じゃ。また福にか?それも良いが、お前も喰わんとどんどん痩せて行ってるじゃねえか。」

 と佐平次は、勝商の身体を見て言った。

 「わしゃええんじゃ。福にたらふく食わせれればそれでな。」

 と、勝商はもう一つの握り飯にかじりついた。

 すると「そうじゃ、そうじゃ」と勝商は懐からもう一枚の布切れを取り出した。

 猪鍋の日に、愛娘が描いてくれた丸と線の勝商の似顔絵である。

 それを見て、佐平次は、

 「おう。そりゃあの日のやつか。何じゃ。いつも持ち歩いているのかえ。」

 と、佐平次も笑顔になりながら言うと、

「うんうん」

 と、笑いながら勝商はその宝物を見つめていた。

 


 しばらく宝物を見つめていた勝商は、満足気に、懐に戻し、残りの握り飯を一思いにかじりつこうと大きく口を開けた瞬間、勝商の動きが止まった。

 勝商の異変に気付いた佐平次は

 「どうした。勝商。」

 と聞くが、勝商は止まったままである。

 その瞬間、勝商は握っていた残りの握り飯をほっぽり投げ、あの日のように、地面に耳を当てた。

 佐平次は、慌てて宙に舞った握り飯を捕まえようとしたが、間に合わなかった。

 ぼとっと握り飯が落ちるのと同時に勝商は、小声で、

 「来る…。」

とぼそっと言った。

 佐平次は、落ちた握り飯を拾い上げ、

 「なんて?来る?勝商。なんじゃ?」

 と、握り飯を拾い上げた。勝商は、

 「来る…。来た…。これは…。」

 いつもの垂れ目でなく、細長の目に勝商はなっていた。

 何が起きているのか分からない佐平次は、呆れながら、

 「だから。何がじゃ。」

 と、聞こうとすると、勝商はもう飛ぶように立ち上がり、城門近くの、櫓の方へ走り出していた。

 猪と遭遇した時のように佐平次はポカーンと口を開けて、走っていく勝商を見ていた。

 「来る。来る。来るぞ!」

 と、勝商は大声で叫びながら櫓のはしごを物凄い勢いで駆け上がって行く。

 何事かと、昼休憩をしている他の兵士達は全員登って行く勝商を目で追っていた。

 櫓の上には二人の見張り番がいた。

 物凄い勢いで「来る!」と叫んで櫓を登ってくる勝商を覗くように、櫓の下を見ていたら、勝商はもう、最後のはしごに手をかけていた。 

 「どいてくれ。」

 と、櫓に飛び立つと

 「どうしたのじゃ。勝商」

と、見張り番が聞いたが、勝商はただ

「来る。」

とだけ言って、城のかなた遠方の山の方を見つめていた。

 「だから何がくるのじゃ。」

と、見張り番の二人も城の外を見た。

 そこには、綺麗な山々と二本の川が見えるだけであった。

 「何も見えんぞ?」

と言いかけると、勝商は目を閉じながら手で二人を制した。



 しーんとしている。

 いつしか、櫓の下には人で溢れている。

 勝商の異様な行動に皆、櫓の上の勝商を静かに見ていた。勝商越しに見る空は、曇りがかっていて、今にも雨が降りそうになっていた。薄気味悪い灰色の雲が空を覆い始めていた。皆、

 (雨か雷が来るとでも言うとんのか)と思っていた。

 勝商はまだ目を閉じている。動かない。

それに合すように、皆静かにしている。

 櫓の上で目を閉じていた勝商は、かっと目を見開いて、

 「な、な、なんちゅう数じゃ!」

 と、腰を抜かして座り込んでしまった。

 そんな、勝商を見て、見張り番はもう一度城の外を目を細くしてよく見てみた。

 外は霞がかっていて、何も見えない。



 しかし、しばらくすると、かすかに太鼓の音が聞こえた。

 


「トーン。トン。トーン。トン。」

と太鼓が鳴ると次は鈴の音が続く。

「チリンチリン」

 微かに聞こえた。その音色がどんどん近づいてくるのが分かる。


太鼓の叩き手たちは、信州・諏訪地方で使われる、神楽太鼓の諏訪太鼓であった。

 段々と、太鼓を叩く二十人くらいの人影が薄っすらと見え始めた。

 見張りの兵は、

「何じゃあれは。」

と、物珍しそうに見ている。

 「あいや。」

と、甲高い声で、音頭を取り白い服を着た集団がそこに現れたのである。

 突如霧の中から、現れたこの者たちは、ずっと音頭を元に、太鼓を叩きこちらに進んで来ている。

見張り兵は後ろの霧と太鼓の調和に不覚にも、神秘的な物を感じ、感心してしまっていた。勝商の言う、その数がこの太鼓の叩き手であったのかと思うと、どこか、笑いそうにもなっていた。

 すると太鼓の列が急に止まった。太鼓もや鈴の音は、終わりを迎えるようにけたたましく鳴らされる。そして最後に、

 「やあ!」

と掛け声のもと、

「ドドーン。」

 と、打たれて、太鼓の音はやんだ。

 太鼓の音と甲高い声だけが不気味に曇天に広がって行った。





 すると、厚い霧の中から、馬の顔が一頭、顔を出した。

ひひーんといななきを上げると、手綱を握る手が現れ、やがて、甲冑を来た騎馬武者が現れた。一人、二人、三人…。

と、霞の中から無尽蔵に騎馬武者が現れてくる。

様々な旗がひしめきあっている。やがて、騎馬武者は続々と諏訪太鼓衆を通り越し、一直線に城に向かってきている。

声は発さない。

ただ一点、長篠城のみを見つめて行進してくるのであった。


 見張り番もやっと、それを自分の目で見ると、慌てて、立て掛けていた太鼓を手に取り、

 「て、て、敵襲!」

 と叫び、力一杯叩いた。


 櫓の下の男たちは急な報告に、慌てふためき、右往左往してい。

 そこへ足軽大将の一人が、櫓に上り、城外を見る。

すると、その全貌が徐々に明らかになって行った。

 武田菱の家紋を筆頭に、様々な武田家家臣の家紋の旗がなびいている。

 ちょうど真ん中には

「疾如風 除如林 侵掠如火 不動如山」と、書かれた御旗が、雄々しく掲げられていた。

 武田軍である。


 瞬く間に、城の周りは、大軍でひしめき合っていた。城の周りのみならず、城の脇を流れる川の対岸にも、人で溢れかえっていた。

 どこを見ても、ヒト、ヒト、ヒトであった。

 その数一万、いや、一万五千はいるだろうか。

 足軽大将はその光景を、唾をのみながら見ていると、

「はは。まるで、異世界じゃ。」

 と、小声で言うと急ぎ、城主信昌へ報告に向かった。雨が降り出してきた。

 雨は、不気味にも優しく腰を砕かれた勝商の身体を濡らしていく。



 統制の取れた武田軍は夕方頃には完全に長篠城を取り囲み、至る所に、陣幕が敷かれ不気味なほど静かに夜を迎えた。

 

動き出した運命の歯車は、ゆっくりとだが確実に音を出して回っている。


              異世界 完

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