有海村
にわかに、岡崎城は慌ただしくなっていた。
ついさっき信長の下知が飛んだばかりだというのに、城下には活気が溢れていた。
至る所に「永楽通宝」との旗印が所狭しと立てられ、早馬がしきりと行きかっている。
その中に、大量の火縄銃が、台車に積まれたいた。
そして、何に使うのか分からないが、これまた大量の丸太が、大男に担がれて、運ばれる。丸太の先は鋭利に、削がれたていた、
その兵の中に、一人一際目立つ男がいた。
なにやら、扇子を振りかざして、音頭を取っているようであった。
「そりゃ!早くせい。戦じゃ!」
甲高い声が鳴り響く。
「前代未聞の大戦になるぎゃあ!」
と、扇子を振り、士気を高めている。
小さな男ではあったが、声がよく通る。
織田信長、松平元康、そしてこの猿に似た男。後の豊臣秀吉。更には、信長に「金柑」と呼ばれた武将・明智光秀。
ここに、一度は天下を握る男たちが、一つの城に集まっていたのである。
「そいや。早よ運べやい。」
と、秀吉の声は続く。
秀吉の姿を、信長は岡崎城の天守閣で眺めていた。
「猿め、調子が良いの。」
と、つぶやきながら、ふと城門側に目をやる。
そこには、一人の男が、東へ東へと、物凄い勢いで走って行く。
「誠、かのものは…。」
と、半ば呆れながら言った。
男の姿はもうなかった。
足が軽い。痛みも感じない。
右手に持った、かじりかけの握り飯を、一思いに口に入れながら、勝商は走って行った。
一刻も早く、援軍の報せを、長篠の皆に伝えたい。
ただそれだけで、元康の
「ゆっくり休んでいけ。」
との言葉を、断り、
「これだけ頂きまして、即刻長篠へ向かわせてくださいませ。」
と、膳にある握り飯を掴み、屈託のない笑顔で言うと、元康は、
(これは止められんな)
と思い、長篠行きを許可した。
(腹もたまったし、一気に駆けるかいの)
と、力強く足を踏み込む。
昨日の夜に通った道である。
あの時はもう、下半身の感覚が無く、ただ気力だけで走っていた。
何度も転げた道である。
だが今は違う。跳ねるように、風を切りながら、走っている。
程なくすると、昨夜気を失った、長沢村に入った。田んぼのあぜ道を走り抜ける。
「喜、権!もう大丈夫じゃ!心配せんと、お天道様から見守っていてくれ!」
と、大声で、空に向かって叫んだ。昨夜、自分を救ってくれた、二人に、元気な自分を見せたったのでった。
村の百姓や、子供たちが、田んぼの真ん中で、手を止め、何やら嬉しそうに叫んでいる勝商を見ていた。
すると、
「どぼん!」
と、急に大きな水しぶきの音がして、さっきまでそこを走っていた男の姿が無くなっていた。慌てて百姓達は駆け寄ると、田んぼのぬかるみから、左手だけがぴんと出ていた。
その手にはなにやら布袋が握られていた。
「こりゃ大変じゃ。」
と、百姓たちは、勝商をのその左手を引き上げる。その脇で子供たちが、きゃっきゃっと笑って見ている。
やっとの想いで引き上げると、泥だらけの勝商がひょこっと出てきた。
「参った参った!足が絡んでもたわ。」
と、言いながら立ち上がると、泥を払うこともなく、あぜ道に登ると、
「助かったでな。」
と、百姓たちに声をかけると、また走り出していってしまった。
百姓たちは呆然と立ち尽くしていた。
その後ろで子供たちは変わらず笑っていた。
勝商は走る。
昨夜自分に微笑みをくれた一輪の花が見えた。
「今日も元気に咲いておるの。すまぬが、今日は話し相手はできぬ。」
と、走り抜けていった。花はまた、優しく勝商を笑顔で見送っていた。
勝商は、川で小休止を取った。
田んぼの泥を落とし、冷たい水で顔を乱暴に洗う。
川は、夕焼け色に染まって綺麗であった。
(もう夕暮れか。この川は、雁鋒山からの流れの水かな。もう少しじゃ)
と、自らを奮い立たせる。
事実、勝商は物凄い速さで、もう、雁鋒山の麓にまで達していたのである。
(皆の衆待っておれ)
と、一思いに山を登って行く。
城を脱出した際とは違う山頂にたどり着いた。
やっと、長篠城を眼下に捉えた。
灯され始めた、無数のかがり火が、不意にも綺麗に見えてしまった。膝に手をつき、両肩で息をする。
(やっとじゃ)
と、故郷の地に立ち、今や風前の灯火となった、長篠城を、懐かしく眺める。
しばらく感傷に浸っていたが、ふと我に返り、枯れ草を集め始めた。
夕闇が濃くなって来た。
狼煙を上げるに足る、枯れ草が集まると、火打石で火を起こした。
(皆の者!戻って参ったぞ!)
と、もくもくと燃え上がる、煙に思いを乗せる。
上がる煙を見上げながら、長篠城に目を落とし、
(早く気付いてくれ!)
と、願うように思った。
今にも、一万五千の大軍に、飲まれそうな長篠城へ、今できる事は、これしかないのが何か歯がゆかった。見つめながら、握った拳に力が入る。
だが、城からは何の反応もない。何かあったのか。それとも気付いていないのか。
(それとも…。)
と、最悪な事態が頭をよぎる。その思いを振り払うように、頭を振る。気が気でならない。
勝商は、周りに落ちている、枯れ木をそこら中から集め、燃える炎の中に投げ込む。
炎は一段と燃え上がる。
(これでよし)
と、思うや否や、あろうことか勝商は、山を長篠城へと下り始めた。
(直接伝えよう)
と。
しかし、実際城はざわついていた。
雁鋒山の山頂より、狼煙が上がっている。
「まさか、勝商が戻って来たのか?」
「いや、敵の罠かもしれぬ。」
と、早くも歓喜の声を上げる者もいれば、怪しむ者もいた。
その城の異変に気付いたのは、雁鋒山の麓へ陣を移していた、山県昌景であった。
一昨日の急な城のざわめきと歓声に、何かを感じていたのである。
「妙にざわついておるな。」
と、山県軍の兵が、城を見ながら言う。中には、山を指さしている者もいる。
「何じゃ?」
と、後方の雁鋒山を見てみると、そこには綺麗な夜空を突き破るかのように、一本の煙が立っている。
その報せはすぐに、昌景の元に伝わり、昌景自身、陣幕の外に出て、雁鋒山を見た。
確かに、煙が立っている。
昌景はそれを見ると、近くの者を呼びつけ、
「今宵の警備は最大限に気を払えと、伝えろ。」
と伝えると、陣幕に戻り、椅子に座ると、腕を組み、静かに目を閉じた。
政景の後ろに置いてある真っ赤な甲冑が、松明の火で不気味に揺れている。
長篠城内や、山県軍の動向も知らず、勝商は、雁鋒山の麓の有海村に入った。
村を、ちょこちょこと歩くと、すぐに村の異変に気付いた。
(やけに見張りの兵が多いの…)
山県の号令により、雁鋒山の麓の村々は厳重な警戒網が敷かれていた。特に、山の入り口のあるここ、有海村は特に多くの兵が警戒に当たっていた。
「かっかっかっ。」
と、馬の蹄の音が聞こえる。咄嗟に勝商は近くの納屋の陰に隠れた。
身をかがめながら、少し顔を出して様子を見た。真っ赤な甲冑に身を纏った騎馬武者、その馬の轡を持つもの、松明を持つもの。三人でゆっくりと行き来していた。奥から手前に、右から左に、と、縦横にその騎馬武者たちが、何組も行き来していた。
勝商は身を戻すと、
(こりゃえらいこっちゃ。山に戻るか)
と思い、身を返す。
しかし、そこには松明の火に揺れる、真紅の騎馬武者がこちらをじっと見ていた。
すぐさま、勝商は取り押さえられると、両手を後ろ手に縛られ、その身を、山県昌景の陣に連れられていた。
有海村 完




