仲間の為に命を懸けて走った足軽 鳥居強右衛門のお話
その足は軽かった。
道の周りに咲いている花の表情さえも分かるほどの余裕もあった。
空のはるか彼方、上空にとんびが鳴きながら、道案内をするかのように飛んで行く。
この道はついさっき走って来た道であった。
その時は、疲れ切り、この足が自分の足なのかどうかも分からない程痛かったが、今は違う。
自分の背中に翼でも生えてきて、今にも飛べそうなほど、この男の足は軽く、遠く長篠の地に向かっていた。
太陽は燦々と輝いている。その道は、この男を導くように光り輝いているようだった。
「待っててくれ!もう少しじゃ!」
と、細身のこの男は大声で叫んだ。
五月の澄み切った空に、その声は響き渡って行った。
男は、使命感に溢れていた。
「使命」とは「命を使う」と書く。立ちはだかる困難に対し、運命と嘆くのか、それとも使命と捉え、自らの命をかけて戦うのか。
いわば、受け身の姿勢から、反転攻勢を取ることである。
使命感を持ったものは強い。
多大なる困難に対し、それ自体を自身の原動力にするからである。
困難が多ければ、大きければ、それ以上に力を発揮するものである。
また、そういう者の姿に触れた周囲の人間は、自然とその者に救いの手を差し伸べるのであった。
この物語は、仲間の命の為に「命を使う」ことを選び、その「使命」を果たした男の物語である。
時を今から約四百数十年、一五七三年の春に遡り、その男の生きざまを見ていきたいと思う。
二文の薬
元来この男は嘘を付いたことが無かった。
いや、嘘という言葉の意味すらも知らない程、純真無垢な男であった。
この戦国の世にあって、一足軽として、戦場を駆け抜けて来たこの男の体は、筋肉
質ではあるが、全体的にやせ細っている。
その目はおよそ勇猛と称えられた「三河武士」のその目とは、程遠く、目尻は垂れ下がり、どこかいつも笑っているようである。
近所の子供たちには『福笑いのおっちゃん』と、呼ばれていた。
男の名は、鳥居強衛門勝商と言い、ここ遠州(今の静岡県と愛知県の境)長篠の地に生まれた武士である。
その勝商の姿が、長篠城の外の町にあった。
活気溢れる、この長篠の街を、一人歩いている。
勝商は、いつものようにニコニコしながら、一軒の長屋に入って行った。
「福笑いのおっちゃん」が久しぶりに現れたので、町の子供たち二・三人が、その長屋の前に集まって、「きゃきゃっ」言いながら、中を覗いている。
その長屋には「薬問屋」の看板が掲げられていた。
「邪魔するぞ。」
と、勝商はのれんをかき上げ中に入って来た。
「いらっしゃいませ、おお。これは鳥居様。」
と、番台に座っていた、小太りの主は勝商の姿を見ると、愛想よく言った。
「主よ、今日もいつものを頼む。」
と、勝商も意識せず作られているその愛想のいい顔で主に伝える。
主は腰を上げ
「へいへい。」
と言いながら、後ろの薬棚を何段か開き、何やら探していた。
そのうちの一つの布袋を取り出し、袴の裾を直しながら再び座ると、その袋を勝商に差し出した。
勝商は、胸元から銭を取り出し、主に渡すと、布袋を受け取った。
主は薬代として受け取った二文を確認すると、その銭をしまう為、引き出しを開けながら、
「今、城内では何かと忙しないようでございますな。」
と聞く。
勝商は手にした薬をニコニコと、満足気に眺めながら、
「わしには分からん。それより今年は、川が大人しくしていてくれれば、わしはそれで良いわ。ははは。」
と、子供の様に笑った。
外で中の様子を覗き見している子供たちも中でどんな会話がされているか分からないが一緒に「きゃきゃっ」と笑っている。
薬屋の主は呆気にとられながら
(このお方にする話題じゃなかったか)
と思い、適当に世間話を続ける。
「ほんに、そうでございますなあ。川が静かであれば、それに越したことはございませんからな。」
どうやら、この街の近くを流れる川が、気まぐれに氾濫を起こしているようであった。
主は受け取った銭を引き出しにしまいながら答えた。
「では、また来るでな。」
と、勝商は身を返し、のれんをかき分けながら出て行った。
「へいへい。」
と、主は勝商を見送る事もなく、番台の引き出しから台帳を取り出した。
すると、奥の間から大根を片手に抱えながら、一人の女が出てきた。綺麗な着物を羽織っている。どうやら主の妻の様だ。
「あら勝商様はもう行かれたのですか?」
と、主に聞いたが、主は見向きもせずに、
「うむ。」
とだけ言い、台帳に墨を落としていた。
「鳥居様 薬草 二文」
と、商人らしい達筆で書き上げた。
「鳥居様の声がしたから、この大根でも差し上げようと思って、持って来たのに…。」
と薬屋の女房と思われる、その女は言いながら目を、主の持っている台帳にやると、
「あら、また二文貰ったのですか?もうかれこれ一年間…。肺患いの奥様も大変でございますね。」
と、言いながらまた奥に戻って行ってしまった。
「飯でもするか。その大根で何か作ってくれまいか。」
と主は、どこか分の悪そうな顔で、台帳を番台に置き、女の後を追うように、奥に消えていった。
置いてある台帳には
「鈴木様 薬草 一文
津見様 薬草 一文
鳥居様 薬草 二文」
と、綺麗に書かれていた。
「福笑いのおっちゃんじゃ。」
と、出てきた勝商に、店の前に集まっていた子供たちは、勝商の近くに寄って来た。
勝商はただただ、にこにこするだけで、
「たくさん食うんだぞ。」
と、説得力のの無いその貧相な体で言うと、子供たちの頭をポンポンと叩いてやると、もうその足は家路に付いていた。
心なしか、薬が手に入った喜びか、早く帰って女房に飲ませてやりたいのか、その足は早かった。
町を抜け、夕陽が眩しくなってきた頃、田んぼに差し掛かった。この田んぼを抜け、奥に見える林を抜けると、勝商の家がある。
田んぼのあぜ道を早歩きで歩いていると、奥から手を振って、自分の名前を呼びながら、近づいてくるものがいた。
勝商は足を速めることも、遅くすることもなくあぜ道を進んでいく。
田んぼの真ん中には百姓たちが一仕事終えて田んぼの中で、世間話をしている。
夕陽に映える田んぼはキラキラと光っている。平和な夕刻であった。
勝商の名を呼ぶ男と、ちょうど田んぼのあぜ道の真ん中程で合流した。
「何じゃ。今帰りか。そうか、今日は薬屋に行く日じゃったか。なら、一緒に帰るか。」
と、勝商が大事そうに握りしめている布袋を見ながら言い、勝商と一緒に歩き始めた。
男の名は、服部佐平次と言い、勝商の家の隣に住む、同じく足軽武士であった。
幼少期より遊ぶとなればいつも、もう一軒隣にいる権平太という、幼馴染と三人で遊んでいた。
共に大人になると、三人とも、長篠城に仕える身となった。
夕陽は、この二人の影を生む。
「の~勝商。奥平様は、武田様方から松平様(後の徳川家康)方につくそうじゃぞ。」
佐平次は、勝商と違い学がった。城内の動向も、時勢の流れも一通り把握しているつもりであった。
いくつもの戦場で、勝商と権平太と共に戦に駆け巡って来たが、この二人には、武勇では到底及ばない。
権平太に限っては城内随一の武とも言われている。
なので、勝商・権平太に勝るものとして、勉学に励んで来た。
そして今の問いに対しても勝商が何と答えるかも、この旧知の友は察しがついていた。
(わしにゃ分からん、か。)
と横目で勝商を見ると。
「わしにゃ分からん。」
と勝商が答えると、
(ほれ当たったわい。お前の言いそうな事は何でも分かるわい)と、
笑いながら、佐平次は、地面に転がっている石を蹴っ飛ばした。
石はあぜ道の真ん中をコロコロと転がって行く。すると、勝商は咄嗟に、その石を追いかけると、その勢いで更にその石を
「えい!」
と、蹴り上げようと足を振り上げた。が、その瞬間、勝商の足は絡まり、あっという間に、
「ずど~ん。」
と音ともに、田んぼに転げ落ちていってしまった。
口をポカンと開けながら呆気に取られていた佐平次は、慌てながらも、笑いながら、
「おい。勝商。大丈夫か。」
と、駆け寄り、田んぼを覗く。
泥が張った田んぼの中から、一本の手だけが、ピンと上に飛び出していた。
その手には布袋が握られている。
泥の中からぷくぷくと勝商の息らしき泡が浮かんでいる。
笑いながら、佐平次はその手を力一杯引き上げると、泥だらけの勝商が、
「ぷはっ。」
と、勢いよく起き上がった。
「大物が釣れたわい。」
と、佐平次は笑いながら言い、勝商をあぜ道に引き上げた。
「危ねえとこだった。この薬も泥だらけになるとこだったわい。」
と言うと、佐平次に負けないくらい、勝商も笑った。
「ははは。良いから泥を拭え。」
と、佐平次は自分にも飛びついた泥を払いながら言うと、勝商はもう歩き出していた。
「いや、早く薬を飲ませてやりたいでの。」
と、そそくさと泥の足跡を残しながら、早歩きで歩いて行く。
顔にも飛んできた泥を落とすのに苦戦している佐平次を、気にすることもなく勝商は歩いて行く。
夕陽にキラキラ光る、田んぼの真ん中で百姓たちは、笑いながら二人を見ていた。
二文の薬 完