私はとにかく帰りたい。
寝室に飛び込んだ恵理奈はそのままベッドに飛び込み、子供の様に大きな声を張り上げ泣きじゃくった。
「お父さん、お母さん!帰りたい、帰りたいよッ!」
帰りたい。帰りたい。
会いたい。
帰れるならば、医者も諦める。
未練たらしく理系を受けていた罰なの?
お父さんに言われてすぐ、先生に進路変更言わなかったから?
ちゃんと相談出来なかったから?
恵理奈の慟哭は続く。
「帰してよ!従兄弟にちゃんと譲れなかったから?だからって、全部私から取らないで!お父さんもお母さんまでも取らないで!」
ぎゅっと布団を握り締める。
「かえして!かえしてよぉ!」
「会いたいよぉ」
誰もいない。誰も知らない。
「なんで私なの?私、何も出来ないよ?」
なんで私?
もっと偉い人連れて来たら良いじゃん!
声にならない声で恵理奈は泣き叫んだ。
「聖女なら、凄い力があるのなら、私を帰して!家に帰して‼︎」
ボスボスボス。
握った拳を振り上げ、ちょうど側にある枕を叩く。
「力があるなら帰りたいよー!」
わあぁぁぁぁ。
こんなに泣いた事はなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃで、胸の奥がジクジクとして、何が何だか分からなかった。
「自分さえ救えないのに、どうして他人を救えるのよー」
自分じゃない。
自分では出来ない。
帰りたい。
1人だけどうして。
寂しい。
怖い。
どうなるのか分からない。
────不安。
全てがごちゃ混ぜになり、恵理奈を襲う。
どれぐらい泣いただろうか。
どれぐらい叩いただろうか。
叫び、喚き散らして、火照る頭は痛くなる。
だんだん喉が渇き、枯れて、声も出なくなる。
疲れて来て目蓋が重くなる。
もうイヤ。
もう一度、目が覚めたら病院か家なら良いのに。
凄くイヤな悪夢なら良いのに。
だいたい、受験生に足を滑らせ穴に落ちる。なんて不吉過ぎるっちゅーの!
そうよ。次起きたら……コレは、夢なんだ。
きっと……夢…。
疲れ果てた恵理奈はそのまま深い眠りに陥った。
一方、恵理奈が脱兎の如く寝室に駆け込み、一時は半ば呆然と見送ったアレクだが、やはり気になって1人にするのはと思い直して寝室のドアまで行き、ノブに手を掛けた所でまた硬直した。
なんと言えばいいのか。
何と言って慰めれば良いのか。
正直、言葉が浮かばなかった。
アレクが躊躇していると、寝室から盛大な叫び声が聞こえた。
同じく隣室にいたレンやシャス、侍女や警備の者達さえ顔を上げ、寝室を凝視している。
悲痛なまでの叫び声と共に、何かを叫んでいるぐらいしか距離があるレン達には分からない。
しかし、寝室側にいるアレクと2人の護衛騎士にはその悲鳴は、小さいながらもしっかりと聞こえた。
「帰りたいよ」
「帰して」
「お父さん、お母さん」
「会いたい」
アレク達はきゅっと顔をしかめた。
見た目はこの辺りでは珍しい色彩をしていた。
手入れの行き届いた艶やかな綺麗な黒髪。
クリッとした大きな琥珀色の目。
どこか品のある清廉とした雰囲気はしっかりとした感じを与え、けれどもまだ幼さの残る顔立ちをした美少年だった。
声も女性にしては少し低めで、少年と言われても納得する澄んだ声は、彼女を益々中性的に感じさせた。
そして、こんなどことも分からない中、凛とした佇まいで物怖じせずに話す姿はむしろ好感が持てた。
本人は落ち着かないと言うが、急にこんな状況に放り出されて、目が覚めたら知らない人ばかりで、聖女様と言われ傅かれて、動揺しない筈がない。
事前に、レンからの報告で今代の聖女様は大学府の学者並みの教養を有している可能性があると聞いていた。
対応には十分気をつけた方が良いと。
シャスは直情的なので、余り喋らない様に打ち合わせをしていた。
案の定、彼女は感情的にばかりならず、理性的に対応してくれた。
よくもった方だ。
喚き散らしているのを聞いて、悩んだ。
不安になるなと言っても、ムリだろう。
親に会いたいと言われても無理だ。
帰れない。
彼女はその現実を突きつけられ、受け入れるしかない。
今、中に入って泣き叫ぶ彼女を抱きしめて大丈夫だと言いたかった。
だが、何が大丈夫なのか……。
一人で泣く事も、一人で気持ちを整理させる事も大切だ。
側に人が居ては無心に泣けない。
アレクはドアノブから手を離した。
部屋の中からは相変わらず泣き声が聞こえる。
護衛の騎士がアレクを見る。
「……いや、今はそっとしておこう」
力無く被りを振った。
彼女の望みは、家に帰る事。
親への連絡。
それだけだった。
だが、そのどれもが叶えられず、彼女を安心させる事も、納得させる事も出来なかった。
アレクはキュッと唇を噛む。
それが、悔しかった。
「アレク」
レンに呼ばれ、アレクは顔を上げソファーに戻る。
「警備については変更をかけた。これからどうするんだ?」
恵理奈が手をつけなかった食事にシャスが手を伸ばす。
「あぁ。何ら変わらないさ。全て彼女が納得してから動かないと出来ないだろう」
「やっぱり女なのか……」
「シャス……」
「どう見てもあの骨組みは女性のものだろう。手や足なんかまんま女じゃないか」
呆れた様にレンが言うとシャスは肩をすくめた。
「でも本人も言っていたじゃないか。間違いだと」
「だからお前は脳筋なんだよ。一応貴族なんだから少しは頭使わないとやっていけないぞ?」
シラーとした目でレンはシャスを見る。
「ぁー。俺ムリ。ってか、今それ関係ないだろう」
「彼女は帰りたいんだ。だから、もし間違いで召喚されたなら帰してくれるんじゃないかと思ったんだろうな」
恵理奈が座っていた場所に腰掛けるとアレクは差し出されたお茶に口づけた。
「まぁ聖女様と言われて育てられたならすぐに納得出来るかもしれないが、そうじゃないなら戸惑うのも当然だろう」
「じゃあアレクも聖王になる事に戸惑っているのか?」
聖女の召喚は叶った。
それは対になる王の願いを神が聞き届けたからとも言われる。
実際は多分、部屋の魔力と術者達の魔力が召喚魔法に足りたからだろうとアレクは考えていた。
聖王の器に足りない者が召喚の儀を行えば、圧倒的な魔力不足ならば召喚失敗だけで済む。
しかし、資格を持たない者が儀式を行えばその命を代償とする危険な物だった。
聖王の資格…それが正直、分からない。
アレクは神殿へ行き、大神官にと請われる程、歴代でもかなりの神聖魔法と光属性を得意とする王族だった。
おかげで魔獣討伐も他と比べ容易に出来る。
しかし、討伐ならば剣技に優れたシャースリーンでも可能だ。
だから何故、王太子の兄ではなく自分なのかと、正直頭が痛いくらいなのだ。
魔物が増え、瘴気による大地の被害が深刻化し、各国の要請がここ数年、一気に増えた。
アレクは別に玉座を望んではいなかった。ただ、普通に過ごし、王族として普通に学んだだけ。
ただ、相手が勝手に転がり落ちて臣下の者達が勝手にアレクを望んでしまったのだ。
「少なくとも、俺は望んでないな。むしろ失敗すれば良かったとさえ思っていたからな」
「なっ」
「アレク。キミが知らないはずはないと思うが、失敗は死さえ意味するんだ。だからあの王妃はバカ息子には儀式について知らせなかっただろう?
まぁあいつを廃嫡させる為に誰かが唆し、やる気になったあのバカを必死に止めるのに大変だったみたいだがな」
「俺は玉座なんか望んでない。あんなものにしがみ付く兄の気が知れない。真っ平御免だ。なりたい奴がなればいい」
唾棄するようにアレクは言い捨て、お茶を飲む。
向かいに腰掛けているシャスは目を見開きじっとアレクを見つめ、レンは肩を竦めた。
「俺はアレクに我が剣を捧げた。それはアレクこそが王に相応しいと思ったからだ。実際、アレクが聖王だった。もう玉座から逃げられないんじゃないのか」
一口喉を潤し、ゆっくりと瞬き一つ。
アレクは小さく鼻で笑った。
「俺も彼女も似た者同士だな」
揶揄う様に自嘲の笑みが浮かぶ。
「彼女は聖女になりたくない。俺も聖王になりたくない」
それはまるでブーメランだった。
彼女に押し付けて、同じ様に、自分にもまた押し付けられる。
だが、まだ自分はマシなのだろうな。
まだ、周りには自分の知り合いがいる。
恵理奈の様に孤立無縁ではない。
そう思うと、彼女には申し訳なく思う。
だからこそ、何か望んで欲しかった。
何でも叶えたかったのだ。
確かに、この世界の荒廃は進んできた。もう見過ごす事が出来ない程に。
瘴気に呑まれ、小さな国はいくつも滅んだ。
それでも、全く関係ない異世界の人を呼び出し、助けてと強要しているのだ。
相手の望みは全く叶えられない。つまり、報酬さえないわけだ。ある意味、無対価だ。
普通に考えたら有り得ない。
自分達がどれだけ自分勝手なのか。どんな事を押し付けているのか、少し考えれば分かるはずだ。
「レン、キミが彼女はかなりの学を修めた人だろうと教えてくれた事は助かったよ。相手の立場を考えるのは交渉の基本だからね。シャス、聖女だからと全てを彼女に縋るのは良くない」
「しかし、聖女とはそういうものだろう?この世界の救い手として存在するモノじゃないか」
大多数の人の意見を代表した様なシャスのセリフにアレクは肩を竦め、レンの目に鋭さが増す。
「だから、シャス。あんた今迄の話聴いてた?」
苛立ちを含んだ声でレンは諭す様に話始めた。
「彼女は彼女の事情があるの。聖女様だって、ここではないだけで聖女様の世界で生きていたワケ。そして聖女様は学校に通っていたんだ。急にこっちに連れて来られてどうよ?しかも帰れないんだぞ?誰も知らない人だらけ。見知らぬ国、服も何もかも違う。戸惑うだろう?
しかも、いきなり聖女様ときたもんだ。
お前、そんなんされたらどうよ?
俺ならお前らの世界なんて知った事かってなるね。だって、関係ないじゃん。だから、相手の身になって考えろっての。交渉の基本だろ?こちらからお願いする前に、こっちが嫌われてみろよ。嫌いなヤツら助ける気になるか?ならんだろう。だからお前は黙ってろって言ったの」
かなりレンに噛み砕いて言われ、シャスは自分を恥じ入る様に俯き、項垂れた。
その様子を見てアレクは苦笑を浮かべ、チラリとレンを見る。
「ここまで言われなきゃ分からなかったんだろ。しょうがないっしょ」
少しやり過ぎた気はした。
レンは言い訳する様にアレクに言う。
「まぁ。彼女の言う言葉の全ては、知らない物もあり正確には分からなかったが、彼女は自分の用事を済ませた後、こちらの、聖女として仕事をやると言っていた。
つまり、優しい人なんだろうと思うよ?でも、今はまず彼女に落ち着いてもらうのが先だろうけど」
シャスの言いたい事もアレクには十分わかる。
諸外国もきっとそう言ってくるのは目に見えているからだ。
だから少しでも早く、彼女には持ち直してもらわなければならなかった。
そして、シャスの様に話せば分かる部類ではなく、それ以上に厄介な王太子と王妃が動き出す前に。
「で、アレクは彼女が妻でいけるわけ?聖王の嫁でもあるんだろう?」
聖王の対として呼び出された聖女は、聖王と結ばれその子孫がアレク達となっている。
今回、呼び出したのはアレクなので彼女は必然的にアレクの妃になるのだ。
そう。慣習的には……。
「でもサトゥー様は女ではないのだろう?ならば意味がないじゃないか」
ガバッと顔を上げシャスはそうだったと言う。
「ほんっと、キミはバカだなぁー」
脳筋!と罵倒するレンを諌めながらアレクは苦笑気味に話す。
「彼女は一度も自分が男とも言っていない。自分は聖女ではない。間違いだ。だからチェンジしろとは言っていたな。男と匂わせていたがな。
それに、彼女自身言っていたじゃないか。彼女のいたところでは女性であってもシャスみたいな短い髪やスキンヘッドもいる。と……。それにさっきレンも言っていただろう?見る限り、骨格が女性だ。つまり、シャスの猜疑心を利用して帰ろうとしたんだろ」
「は?じゃあこっちを騙そうとしたのか?」
「だから違うって。シャスの猜疑心を利用しただけだろう?オマエが彼女を疑っていたから。だからシャスに持ち掛けて煽ったんだ。アレクやオレじゃ無理かもしれないからそうしただけだろ。あの土壇場で大したもんだよ」
そう言ってレンは感心した風に頷く。
「落ち着いたら是非彼女とは色々話してみたいなぁ。彼女の世界の話や学問の世界について聞けたらかなり勉強になりそうだ」
しみじみボヤくレンにアレクは肩を竦める。
「なる様になるさ。さて、かなり時間がたったけど。少し彼女の様子を見てみようかな」
そう言って立ち上がるとアレクは再び寝室へと向かった。