どうやら私は拉致されたようです。
ソファーの前のテーブルには色々な食事が並べられ、デザートも並ぶ。
しかし、今は食欲どころではなかった。
目の前に並ぶ豪勢な食事を前に、恵理奈は紅茶だけを飲んだ。
食事を勧めても軽く首を振る恵理奈にアレクサンドルは改めて自己紹介をした。
名前が長いので第二王子アレクサンドルはアレクと、レンドールはレン、シャースリーンはシャスと呼ぶ様に言われた。
恵理奈の名前も改めて訂正した。
ラストネーム、家名が佐藤。
ファーストネーム、名前が恵理奈だと。
しかし、発音の関係でサトウはサトゥー。
エリナは呼び難いらしくエリーナとなった。
この国の名前はディアス国。
残念ながら恵理奈の記憶に無い国だ。
彼らも日本を知らないらしい。
日本だけでなく、アメリカもフランスもイギリスも知らないときた。欧州でそれはまず有り得ないだろう。
曰く、彼らは伝説に則り、聖女召喚を行なったらしく、そこに現れたのが恵理奈なのだと説明した。
しかし、恵理奈は模試に行く道中、穴に落ちて気がつけばここで寝ていた。
穴の行き着く先がこことして、いつの間にあの国の下に地下帝国が出来たのだろうかと実に現実離れした発想もしたが、あり得なさすぎて自分で考えて鼻で笑った。
どうやら意識を失っている間に人間違いでこの国に連れて来られた。
一番有力な候補も、どうやら違うらしい。
彼等は聖女召喚を行い、成功した。
魔法陣のあった部屋の中央に恵理奈が意識を失って倒れていたのだと言う。
彼等に沿って考えれば、儀式を行い、何も無かった所に突然現れたらそりゃ成功したと思うだろうなぁ。
頭が鈍く、ずっとモヤモヤとした物が胸を占め、まるで何か霧がかかっている様な、どこかぼんやりした頭の中で、それでも思考を巡らせる。
アレクサンドル…アレク達が呼んだと言うのならば、この際それで良い。そう、どうでもいい。ただ、帰してくれれば良いのだ。
だから恵理奈は帰してほしいと訴えた。切実に懇願した。
が、それは難しいらしい。
逃げられると思ってだろうか?
ならばせめて親に連絡をと懇願したが、それも難しいらしい。
勝手にそちらの都合で呼びつけてこちらの願いは無理無理無理。全てムリ。
ふざけるな。
頭がおかしくなりそうだった。
「もういい。ならば交渉しましょう」
恵理奈は切り口を変えた。
レンは面白そうにアレクと恵理奈の会話を見守っている。
「認めたくないけど、ここが異世界として、異世界からの異邦人が聖女とします」
頭を整理しながら、話を切り出す。
認めたくない。でも、過程でならば、まだ話せる。
帰りたい。
その為の交渉だ。
「貴方達には聖女が必要なのよね?」
恵理奈が聞くとアレクは頷く。
「でも私は帰りたい。このままじゃ平行線なわけ。どこかで折り合いを付けなきゃいけないわけだから妥協案を提出します」
「貴方の望みは叶えたい」
真摯に言う。
が、恵理奈もバカじゃ無い。
じゃあ帰せって言ってるのに!
それ以外で叶える気なのだと、これまでのやり取りでだいたい理解した。
けれども、恵理奈はとにかく、帰りたい。
それ以外は何も望んでいないのだ。
「だーかーら、私は帰りたいの。そこは忘れないで?
私には学校もあるし、受験も控えてるの。成績も今更落とせない。だから、学校終わってからとか、週末とか休日だけこっちに来て聖女として働くの。どう?悪くないでしょう?」
受験生にバイトなどなんと恐ろしい事を……。
それでも、来るのだ。
帰れるのだ。
まだマシだろう。
恵理奈なりの精一杯の譲歩だった。
成績は落とさない様に頑張る。
コレがかなりの譲歩だった。
「何を言って……」
「シャス!」
だが、恵理奈は失念している。
相手の事情など御構い無しで召喚する人達なのだ。話が通じるワケがない。
否、アレクとレンが恵理奈の話を聞きながらも優しく説明してくれるので話が通じる。話せば理解してもらえると、薄いかもしれないが一縷の望みを抱いてしまったのだ。
そう、シャースリーンが不快そうに口を開くまでは……。
レンがシャスを一喝し、アレクが口を塞いだが、遅かった。
恵理奈は気付いた。
どんなに言葉を連ねても、思いを重ねても。
怒りや戸惑い、不安や恐怖を必死に押し殺し、努めて冷静に話しても。
相手にはちっとも伝わらないのだと…。
今更ながらに、一気に孤独感が押し寄せる。
そうよね。親でさえ分かってもらえないのに、どうして他人に分かってもらえるの?
恵理奈の瞳が一気に陰る。
口元には緩やかな笑みが刻まれ、いつものアルカイックスマイルが浮かぶ。
「すまない。そこまで言ってくれたのに、本当に申し訳ないのだが……貴方は帰れないんだ」
アレクのセリフが耳に残る。
「───じゃあ、聖女としての用事が、全て済んでも?」
用無しになっても?
聖女がもう国に必要がなくなっても?
恵理奈の暗い、何も映さない瞳を真っ直ぐに見据え、アレクはゆっくり頷いた。
「すまない」
ゆっくりと瞬きを繰り返し、恵理奈は目を閉じて深く背凭れにもたれた。
大きく息を吐く音がしんとした部屋に異様に大きく響く。
「正直言っていいですか?」
顔を天井に向け、目を閉じたまま恵理奈は左腕で目元を覆うと呟く様に言った。
「何なりと」
「まだ全然頭が整理できていません。だから頭が働かない。気持ちもグチャグチャだし、何が何だか分からないんです」
深呼吸を繰り返しながら恵理奈は言う。
「1人で考える時間が欲しいです」
「もちろんだ。この部屋は貴方の部屋だ。好きに使ってくれ。必要な物があれば侍女に言ってくれれば何なりと用意しよう」
「はい。ではさっそく、1人にさせて下さい」
出て行け。
暗に恵理奈はそう言う。
「私たちは一旦退出しよう。ただ、警護の者は置かせてくれ」
「……は?」
アレクの言葉に恵理奈は腕をどけると訝しげに顔をしかめた。
「貴方を……聖女様を守る為の護衛だ」
チラリと部屋を見回すと確かに窓辺や寝室へのドア、出入り口付近には鎧をつけた人が立っていた。
「……聖女なのに?この国に必要なのに狙われるの?」
要人警護はどこでもある。
仕方ないのも分かるが、1人にさえなれないのかと恵理奈は苛立つ。
「さすがに命は狙われないと思います…。ですが、攫われたりとかはあり得ますから」
「ならばせめて寝室は1人にして下さい」
「女官を…」
「ずっとじゃなくていい。もう少し落ち着くまででいいから」
「彼女たちからは話しかけません」
「それでも、今は1人になりたいの」
溜め息と共につぶやく。
何もかもダメ。望みを叶えるとは口だけ。
たかが1人になりたい。しかも少しの間さえも叶わない。
ふざけるな。
瞳に暗い光が灯る。
ふつふつとした黒い靄が心を覆う。
目の奥が熱くなるのを感じた。
レン達の目にも、恵理奈が怒り出したのが分かった。
「アレク、彼女もずっととは言ってませんし、寝室だけと言ってます。確かに今は警護を軽くは出来ませんが、少しぐらいは……」
このままではいけないと察したレンが会話に割って入る。
「ならばバルコニーに付けるか。分かった、寝室は外そう。シャス、頼む」
「………分かりました」
ゆっくり、一つ瞬きをする。
大きな溜め息が出た。
少し、1人で考えられる。
そうして、恵理奈はふと思いつく。
ちょっとした、本当に小さな悪あがきだ。
「聖女様と言うからには、女性なのでしょう?私が男ならどうするんです?」
「やはり少年だったのか!道理で髪が短い!」
食い気味に突っかかってくるシャスをアレクが諌める。
「シャス」
「相変わらずシャスは失礼だなぁ。どこからどう見ても女性だろうが」
もう、ホント頼むから黙っていてくれ。
レンはきつくシャスを睨みつける。
「シャスがすまない。こちらでは女性は皆髪を長く伸ばす習慣があるのだが、貴方の国は違うのですか?」
「昔は、国によってそんな慣習がある所もありましたね。近代化が進んだ今、女だから、男だからとたかが髪型一つで性差にうるさい国はかなり少ないと思いますよ?少なくとも、先進国は。
女性でもそちらの方の様にショートカットやそれより短いベリーショートや、スキンヘッドの方もいますしね」
十分な嫌味をふんだんに含ませて、アルカイックスマイルを浮かべて言う。
時代遅れ。
言外に含まれた揶揄に、レンの口元が僅かに動く。
アレクは全く微動だにせず、シャスはあからさまに訝しむ様な顔になった。
「残念でしたね。私は聖女様ではなかったようですよ?私を返してちゃんと聖女様をお呼びになられたらどうです?」
帰せ。
間違えて召喚したのかもしれないよ?だから帰せ。
恵理奈は揺さぶりをかけてみる。
少なくとも、シャスは恵理奈に対してに猜疑心があるようだ。
レンとアレクはシャス程簡単では無いようだが、シャスから切り崩していけば良い。
まさか髪型でここまで食い付くとは思わなかったが、帰れるかもしれないならば、何だって良い。
シャスを真っ直ぐに見据える。
「私……いや、もういいか。ボクも貴方にとっても、偽物より本物が良いんじゃないですか?」
食らい付け。
私を帰して。
「サトゥー様」
シャスが何か言うより早く、アレクが口を開く。
「例え貴方が間違いだと、聖女様ではないと主張しても、神は貴方を選びこの国に召喚しました。
貴方が男だろうが、女だろうが、それは関係ない。神が貴方を選んで私どもの所にお連れ下さいました。
それに、何度も言うように、貴方を帰す事は出来ません。
あの召喚の間に次に力が満ちるのは千年程先になります。だから、帰せないのです」
衝撃の事実だ。
恵理奈は頭を殴られた様な鈍痛がして目眩がした。
帰れない。
改めて突きつけられて目の前が暗くなる。
思考が追いつかない。
何も考えられない。
ムリ。もう、ムリ。
ジワリと目に膜が張るのを堪えられなかった。
「もうムリ!ごめんなさい」
被りを振りながら勢いよく恵理奈は立ち上がる。
「サトゥー様……」
アレクも弾かれた様に立ち上がる。
「お願い、一人にしてッ!」
もう、いっぱいなの!
一筋、溢れ落ちる前に恵理奈は逃げるようにして寝室へ飛び込んだ。
激しく叩きつけられるように閉められたドアは恵理奈の頑なな拒絶をまるで表す様で、テーブルを回り込み、後を追おうとしてアレクはその伸ばした手をぎゅっと握り締めた。