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Act-7 『最後の戦いと最後の一日』

 死神の襲撃は、その後も続いた。そのたびに撃退した。いつ襲撃してくるかわからないから気がぬけない。

 一方、貝原さんも行動をおこしていた。自分の命がかかっているわけだから、真剣に。でも打つ手に困っている様子で、必死で努力する姿が痛々しく見えた。どうにかしてあげたいけれども、どうしたもんか……。

 時間は無慈悲にすぎていく。十日なんてあっという間だ。死神と戦いつつ、貝原さんを殺すことになりそうだと、それが現実味をおびてきたことに、あたしは胃が痛くなりそうだった。

 でも今日は貝原さんがデートの約束をした日だった。八日目にしてついにここにたどりついた。人間やればできるものだと、あたしは少し安心していた。

 これで死神もあきらめてくれるだろうと期待しつつ、その結果を待つことにした。その間も警戒は怠らない。前回の戦いから三日、そろそろ襲ってきてもおかしくないから。

 あたしは貝原さんを追って、ターミナル駅前のデパートに来ていた。屋上では、ガーデニングの見本市が開かれていた。日曜日の午後――。そこそこの賑わいだ。

 今頃、貝原さんはこの近くで誰かと会ってるんだろうなと思いつつ、きれいに飾られた草花を、買うわけでもないのに見て回る。鉢植えやプランターが鮮やかに秋の花を咲かせて。ガーデンシクラメン、キンギョソウ、コスモス、パンジービオラ。

 狭いながらも手入れされた庭園を歩いていると、気持ちが安らかになり、死神との戦いを忘れたくなる。生まれ変わったら、こんな庭のある家に住みたいな……なんて。

 けれども、あたしはいきなり現実に引き戻された。

 強烈な気配が突然襲いかかってきた。これまでにないメガトン級の殺気に、あたしは体が震えた。

 振り向くと、三十メートルほど離れた場所――屋上の端、高さ二メートルほどのフェンスの上にいた。体を包むゆったりとした黒衣が風に揺れる。

 あたしは不審に思った。なぜ、死神はあたしの前に現れたのか――貝原さんではなく。

「あたしになんの用よ?」

 あたしは死神を見据える。

 死神は、裂けた口を動かすことなく冷たい声で言った。

「知れたこと。これまで邪魔ばかりされてきたからな、ここで決着をつけようというわけだ。おまえを叩きのめし、二度と邪魔されんようにな」

 死神は黒衣から首切り鎌を出す。

 まずいな、とあたしは思った。死神は本気を出すつもりだ。これまでは貝原さんを死神にするのを優先してきたから、状況が整わなくなったら引き上げていたけれど、今日はそうもいかない。あたしを抹殺することに全力をだしてくるだろう。容赦なく。

 ひょっとしたら、負けるかもしれない。つまり任務失敗ってこと。貝原さんは死神に変じ、あたしの生まれ変わりは当分お預けとなる。

 でも、あの無茶な訓練を重ねてきたのに、それがムダになってたまるもんか。黄泉の町で休む間もなく戦った訓練を思い浮かべ、あたしは身構えた。

 死神が爆発するような速さで突進してきた。

 あたしはジャンプし、死神を飛び越えてその背後へ移動しようとした。

 が、死神はそれをよんでいた。首切り鎌の柄が上方へと伸びて、鎌の刃が目の前に迫った。よけきれない。

 体勢をかえるのがやっと。ジャケットの背中を切り裂かれた。

 勢いを殺されて、あたしは落下する。それでもなんとか体をひねって伸びていた柄をつかんだ。死神の脳天めがけて、落ちる。

 ところが死神はそれもよんでいた。さっと移動した。一瞬の差で、あたしは死神が立っていた場所に着地する。

 あたしの着地を待っていた死神は、長く伸びた首切り鎌の柄を振り回した。

「うぐっ」

 直撃を受けて、あたしの体は跳ね飛ばされた。屋上の、ペットショップが入った建屋に激突した。息が一瞬止まる。

 普通の人間なら背骨を骨折するほどの衝撃から、あたしはよろよろと立ち上がる。

 このままではいけない。あの首切り鎌をなんとか封じて接近戦にもちこまないと……。

 あたしは周囲を素早く見回す。

 デパートのとなりには駅が建っていた。ターミナル駅で、何本もの線路が入り、何面ものプラットホームの屋根が並ぶのが屋上から見下ろせた。

 ジャンプし、フェンスを越えて、駅へと飛び降りた。風が耳朶をうつ。

「逃がさぬ」

 死神が追ってくる。あたしはホームの端のほうの、線路と線路の間に飛び降りる。それから信号機の下の犬小屋ほどの装置の陰にとびこんだ。

「逃げても無駄ぞ」

 死神は低空で飛行しつつ、あたしの姿を探している。が、すぐには見つけられない様子。

 死神が上空を通りすぎた。

 あたしは物陰から飛び出した。ハイ・ジャンプ。距離は近く、死神の懐に飛び込み、気づかれる前に拳を叩きこんだ。たしかな手応えがあった。

 死神は体をくの字に折って落下する。

 あたしは空中で死神の背後に回り込み、首切り鎌を持つ右腕をつかんで後ろにひねった。

 死神は態勢を崩して、頭から地面に激突した。

 あたしは背中に回した死神の右腕に体重をかけて着地。

 あたしの下で苦悶する死神。

 さらにあたしは首切り鎌の柄をつかみ、力をこめて折り曲げた。通常の五十倍の筋力をもってして、やっと九十度に折れ曲がった。これで厄介な武器を無力化できた。

 が、甘かった。死神の体力は尋常ではない。

 あたしが首切り鎌にかまっている間に死神は立ち上がり反撃に出ようとしていた。

 さらに呆れたことに、死神は黒衣の下から新たな首切り鎌を出したのだ。

「いっ?」

 突き出した首切り鎌があたしの体を弾きとばした。

 十五メートルほど跳ばされた。コンクリートブロックの塀に頭から突っ込んだ。一瞬、目から火花がでた。

 額から血のしずくを垂らしながら、あたしはゆらゆらと立ち上がる。

「てててて……」

 打った頭を手でおさえた。一時的に暗くなった視界に、首切り鎌を振りかぶった死神の迫るのが入った。逃げるか戦うか――。

 瞬間的によけようと判断。左に飛び退いたのは、死神の首切り鎌がブロック塀を砕く寸前だった。

 死神が首切り鎌を切り返す前に、あたしは地面を蹴って突進した。右拳を突き出して。

 が、目の前から死神が消えた。

「なにっ」

 一瞬後、背後に回り込まれていた。

 あたしの拳が空を切ったと同時に横っ腹を蹴っとばされた。

 今度は二十メートルほど吹っ飛ばされて、架線用の構造体に激突した。金属製の構造体が衝撃で曲がった。

 意識が遠退いた。さすがの強化人間も、こんな強烈な連続攻撃を受けてはたまらない。このままなぶり殺される――?

 あたしは構造体に背中をあずけ、体を支えた。

 十メートルほどの間合いをとって立つ死神には余裕が感じられた。

 やはり強い……強すぎる……。

 死神が本気をだしたら、こんなにも強力なんだ……。

 自分の非力さが悔しかったと同時に、死神の非常識な強さはなんのためだろうと冷静に思っていた。スーパーサイヤ人やターミネーターと戦うわけでもなし……。

 一度死んでいるあたしには、死はもはや怖いものじゃない。またあの町に戻るだけのことだから。

 それより、ここで死んで、貝原さんを救けてあげれなくなることが心残りだった。願わくば、今日の初デートが成功して、死神から狙われなくなりますように――。

 死神が首切り鎌を構えた。

 あたしは膝を曲げて、ジャンプの構え。

 首切り鎌の柄が伸びた。

 速い!

 かわそうとしたけど間に合わなかった。ダメージを受けて、反応が遅くなっていたのかもしれない。

 右腕に衝撃。首切り鎌の刃の背と、構造体に右腕を挟まれて、逃げられない。

 さらに力がかかった。首切り鎌の刃の背が右肘を押さえつけて、骨が砕けるイヤな音がした。普通なら気を失うほどの激痛だけど、今のあたしは痛みに耐えられないほどじゃない。

 けれどもこのままではやられてしまう。

 あたしは歯を食いしばり、言葉にならない声で吼えながら左手で右腕を押さえる首切り鎌の柄をつかむと、渾身の力をこめてぐっと左へ倒した。

 死神が柄をつかんだままその動きに流され、線路に転がった。

 すると――。

 そこへ電車が入ってきた。

 死神が電車の下に巻き込まれた。

 轟音を響かせながら、電車はホームへと入っていく。運転士はむろん死神に気づかない。

 死神が電車の下でぐちゃぐちゃになった。

 あたしは大きく息をついた。



 時間がすぎていた。

 あたしはふらふらになりながら、駅の改札口へと向かっていた。あの様子では当分、死神が現れることはないだろうけれども、貝原さんがどうなっているのか気になった。いくら死神を追い払っても、貝原さん自身の問題が解決しないことには、どうにもならない。

 だから今日のデートはぜひとも成功してほしかった。

 しかし改札口に来たとき、のそのそと歩く貝原さんの後ろ姿が見えた。重そうなギターケースが、今日はよりいっそう重そうだった。あたしは肩を落とした。この様子では……。

「貝原さん」

 振り返った貝原さんの顔には暗い影がさしていた。

「どうでした?」

 と訊いた。聞くまでもないかな、と思いながら。

「大丈夫なのか?」

 貝原さんの目が見開き、視線があたしの体のあちこちに向けられた。さっきの死神との戦闘で、手ひどい怪我を負ってしまった。それも、普通なら集中治療室に入らなければならないほどの重傷だというのは自分でもわかっていた。右手が動かない。

「あたしは平気……じゃ、ないかな……。ちょっと苦しいかな」

 唾を吐くと、血が混じっていた。いくら痛覚が軽減されていたといっても、さすがにここまでだと、つらい。表面に見えない場所も内出血や骨折などしていそうだ。

「そんなことより、今日はデートだったんでしょ?」

 上手くいかなかったんだろうな、とこの時間一人でいる貝原さんを思った。

 貝原さんは大きくかぶりを振った。

「生命保険を勧誘されたよ」

「そうですか……。せっかく新曲まで作ってきたのに」

 あたしはがっかりした。おととい、あれほど意気揚々とパーティ会場をあとにしたというのに、この結果はひどすぎる。世の中というのはここまで冷たいものだろうかと、不条理を感じずにはいられない。

「とんだ道化師さ。みじめなおれを笑ってくれ。今日は、路上ライブは中止しようと思う」

「でも、貝原さんの歌を聴きに来た人に悪いですよ」

 あたしは言った。なんとか元気づけたくて。

「そんな人、いないさ。いつもいつも、路上で、だれもいない空間に向かって歌っていたんだから。本当はわかってたんだ、おれに才能がないってことぐらい。けど、認めたくなかった。意地になっていたのさ。夢を追いつづける自分に酔っていたんだ」

 それはそうかもしれないな、と内心思わないでもなかった。この年になるまで芽が出ないとなると、そこは実力が足りないのだと、あきらめてもよさそうなものだ。でもそれを言っちゃあ……。

「あたしが聴くわ。貝原さんの歌って、聴いたことないし。希望を棄ててはだめ」

 勢いでそう言ってしまった。

「まだチャンスはあるわ。元気がないときは、歌うんです。歌えばきっと元気になれる」

 貝原さんはしばし考えこむ。

「わかった、今日は野和田さんがお客だ。歌おう」

 あたしの言葉が通じた。

 ギターケースを抱え、歩き出した。

 デパートの横の定位置につくと、手慣れた様子で準備を始める。譜面台を立て、ギターを肩にかけた。

 あたしはパンジーが咲いた植え込みの端っこのコンクリートにすわり、演奏を待った。

 ギターピックで弦をはじき、チューニングをする。それが終わって声を張り上げた。

「こんにちは。貝原です。これからここでライブをやります。よかったら聴いてってください。――まずは新曲。きのう、できたばかりの歌です」

 新曲だという歌は、陳腐な歌詞とメロディで、これでは……と少し痛かった。歌声も脂ぎっていて、さわやかさとは縁遠い。でも貝原さん本人はいたって大まじめで、顔をくしゃくしゃにしながら必死で唄っていた。休むことなく、次から次へと、カラオケでストレスを発散するが如く――気持ちはわからないでもないけれども……。

 観客がいるときには拍手に礼をいうが、立ち止まって聴いてくれる人なんてほとんどいない。それは先週初めてストリートライブを遠くから眺めていたときと同じで、たぶんいつものことなんだろうけれど、今日ばかりはそれが悲劇的にうつった。

 二時間後、声もかれて、ようやくライブが終わった。あたしはちょっぴりげんなりしていたので、終わってよかったと、拍手をした。

「お疲れさまでした。気分は少しはよくなったでしょ?」

 五百ミリのペットボトルを一気に飲み干して、貝原さんは汗を拭く。

「まぁな。おかけで元気が出たような気がするよ」

 譜面台を片づけてギターといっしょにケースにしまった。

 残り時間はたったの二日……。

 あたしは内心頭を抱えた。




☆ ☆ ☆




 最終日。

 おれは、今日も仕事を休んだ。社長に「まだ体調がよくならないんで……」と電話で嘘を言ったが、悪いことをしたという気持ちはわかなかった。

 部屋を片づけることにした。さして広くもないアパート、家財道具もあまりないし、一時間ほどで終わった。

 次にギターケースを持つと、家を出た。今日は、いつもとは違う場所でライブをやろうと思った。

 人生最後の日、自分の一番やりたいことをやる。それがいいのではないか。なまじっか、ナンパしたりとか、できもしないことを必死になってやってじたばたと往生際の悪い姿をさらすより、ここは澄んだ気持ちでそのときを迎えるのがいいのではないか。野和田が死神を妨害したり、おれを殺そうとするだろうが、そうはいくものか。

 おれは力ずくでも死神の味方をしてやるつもりだった。

 死神になる、というのもおもしろいではないか。三千年も生きられるのだから。その生き方がどんなものかは想像できないが、普通の人間に味わえるものではないのだからと、それなりに特別な思いを抱いた。

 電車を乗り継ぎ、一時間半ほどかけて県内最大のターミナル駅にやってきた。

 デパートや、専門店が入るショッピングモール、大型家電量販店、と商業施設が充実していた。人通りも多く、ライブをするにはもってこいといえた。だから以前、ここでライブをしたこともあった。

 だがここ十年、ここではライブをしていない。二度もやくざにからまれ、ギターを壊され上に、財布まで取り上げられたことがあったからだ。おまけに財布の中身がわずかだったのにやくざは腹を立て、顔を殴られた。

 しかし今日は、あえてここを選んだ。この世の名残に、またやくざにからまれるのもいいだろう。なにしろ、こっちには死神がついているのだから。死神にとっては、おれが死んでしまっては困るのだから、おれがだれかに殺されることはあるまい。やくざ相手にケンカするのもおもしろい。

 おれは、広い歩道の一角に陣取ると、ギターを取り出し、譜面台を立てた。今日は作った歌の中で気に入ったものばかりを集めてきた。いわばベストアルバムだ。

「こんにちは。いつもはべつの場所でストリートライブをやってます貝原と申します。今日はこの場所で、最初で最後のライブを行います。よかったら聴いてってください!」

 一礼し、一曲目の演奏を始める。聴衆は皆無だったが、それはいつものことだったし、気にはならなかった。

 平日の午後とはいえ、やはり県内一の繁華街だけあって、人通りは多い。二曲目、三曲目、四曲目――と時間がたつにつれ、通り過ぎていく人のなかに、少し足を止めてくれたのが、ちらりほらり。

 五曲目を歌い終わったとき、買い物に来ていたとおぼしき五十代ぐらいのマダムが、

「おにいちゃん、いい曲じゃないの。おひねりをあげたいわ」

 と声をかけてくれた。

 いつもなら、足元におひねり用の箱をおいていたりするのだが、今日のおれは、それをするつもりはない。

「いえ、今日はお金はいいんです。聴いてくださるだけで」

「おや、そう?」

「お時間のあるだけ、聴いてってください」

 おれは歌いつづけた。

 心の底から熱唱した。

 受けるとか受けないとか、聴き手がいるかどうか、そんなこと気にせず歌った。作った歌を弔うかのように思って。

 こうして歌っている間にも、死神がやってくるかもしれないのだ。だから余計に無心で歌えた。

 三十曲を二時間半で歌いきった。

 最後の曲を歌い終わったとき、おれの周囲には人垣ができていた。

 拍手が鳴り響いた。

 あまりのことにしばし呆然とし、これまでになかった反響に戸惑いつつも、ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も深く礼をした。

 そこへ、警官が人垣を分けてやってきた。

 通行の妨げになるからと注意された。

「すぐにやめます」

 おれはそう言って、あわただしく片づけだす。

 だが気分はよかった。拍手と「よかったよ」のエールを背に受け、おれは清々しい気分でその場を離れた。



 上機嫌で、いつもの癖で電車に乗ったものの、帰る必要がないことに気づいた。

 ドアの近くで立っていたおれは、流れゆく窓外の景色を眺めつつ、これからどうしようかと思案した。

 快速電車はいくつもの駅を通過していく。

 ――途中下車してみよう。

 そう思った。次に止まった駅で降りて、意味もなく散策することにした。

 改札口を抜けると、のどかな郊外が広がっていた。掲示されている駅近郊の地図を見ると、近くに大きな神社があった。正月だと大勢の初詣客でごったがえすんだろうな、と思い、そういえば今年は初詣になにを願ったろうと思い出そうとして、そういや初詣には行ってなかったのだったと苦笑した。初詣に行っていれば死神に狙われることもなかったのだろうかと、詮無いことを思った。

 神社に行ってみることにした。そこで死神にあいまみえるのもいいだろう。

 日が傾きだしていた。一日が終わろうとしている。

 もし今日、ライブなんかせずに、生きる望みをつなごうと必死になって、恋人探しにかけずり回っていたなら……今ごろ、徒労に疲れ果てて絶望に心を砕かれていたろう。結局、なにをやったって無駄なのだ。最初――死神が現れたときから、心の準備をしておけばよかったのだ。野和田の指図なんか受けず。四十四年かかって、一人のガールフレンド――いや、知り合いさえできなかったのに、たった十日で、どうにかなるわけがない。そんなこと、考えるまでもなく当然ではないか。なにを血迷って右往左往していたのだろう。あほか。

 神社に向かって歩いていると、大きな川に出た。鉄橋がかかっていて、ちゃんと歩道と車道とに分かれて作られていた。立派な橋だ。

 視界が急に開け、沈みゆく太陽が赤く地上のすべてを照らしていた。

 ――美しい景色だな。

 人生を終えようとしているおれのために、見せてくれた景色のように感じた。

 それにしても、死神はいつ現れるのだ?

 橋をわたりつつ、欄干から川面をのぞいてみた。十メートルほどの高さだった。そこから死神が出現しそうな気がしたが、川の流れは穏やかで、なんの変化も起こらない。

 川は陽を反射して赤く輝いて深いのか浅いのか、よくわからない。川の両岸の河川敷きにはのびた草が風に揺れていた。

 この橋を渡れば、神社はもうすぐそこだ。

 橋の真ん中で、川をのぞき込んでいる女がいた。おれはさほど気に止めなかったのだが、その女がやおら欄干を乗り越えようとしたのを見て、ギターを放り出し、あわてて駆け寄った。

 おれが女のもとへたどりついたときと、女が高い欄干を乗り越えたのが、ほぼ同時だった。

 女の腕をつかみ、

「危ない! 落ちてしまう」

 女はおれを見て、暴れた。

「放して! 邪魔しないでよう!」

「なにが理由か知らんけど、死んじゃだめだ」

「ほっといて! あんたには関係ない! 死なせて!」

 確かに関係ないのだが、そうかといって身投げを見逃すわけにはいかない。

 見ればまだ若いではないか。二十代後半といったところ。死に急ぐなんて、もったいない。

 女は必死におれを振り解こうとしたが、おれは放さなかった。しかし激しく抵抗する女をいつまでも阻止しつづけることなどできない。

 自殺しようなんて決意するぐらいなのだから、余程の理由があるのだろう。おれなんか、死にたいわけでもないのに、人としての命がつきるのだ。

「そんなに死にたいなら、おれが代わりに死ぬから、よく見ろ!」

 おれは欄干を乗り越えると、空中へジャンプした。

 あっ、と叫ぶ女の声を背中に聞いて、おれは川へと落下していった。

 スローモーションのように、自分の体が落ちていくのを感じた。水面が近づいてくる。そして――派手な水しぶきをあげて、おれは川に激突した……。



 体が揺すられる感覚に、おれは目を開いた。

「大丈夫ですか!」

 視界に女の顔があった。

「?……」

 ぼんやりとしていて、状況がよくわからない。おれはいったい……。この人はだれだ?

 体全身が濡れているのがわかった。冷たくて、不快だった。それで思い出した。

 ばっと跳ね起きると、周囲を見回した。

 河川敷きだった。あれからさほど時間はたってないらしく、陽はまだ沈んではいなかった。五十メートルほど離れたところに、おれが飛び降りた橋が夕日を浴びて赤く染まっていた。

 そして、おれのそばにいるのは、橋の上で身投げしようとしていた女だった。

 おれが無事であるのがわかると、不安そうな表情が一変して、眉がつり上がった。

「ばかなことしないでよ。わたしの代わりにおじさんが死んだって、なんにもならないじゃないの!」

「なんでおれはまだ生きてるんだ?」

「わたしが川のなかから引き上げたのよ」

 女は怒っていた。だがなぜ怒っているのかがわからなかった。ついでになぜおれを救けたのか? わざわざ川に入って。

 おれがそう疑問を口にすると、

「ばか!」

 と、怒鳴られた。

 わけがわからなかった。とても自殺しようとしていた本人とは思えない。

 そのとき――。

 女の後方に黒い影が、まるでオーラか背後霊のように、もやもやと出現しだした。

 ――ついに来た!

 数秒で、それはお馴染みの死神の姿へと変わっていった。

 くるべき瞬間がいよいよ来たのだ。おれは死神を見つめつつ、傍らの女に言った。

「せっかく救けてもらったのに、おれはもうあの世へ行かなきゃならない」

 立ち上がった。痛みもなく、どうやらどこも怪我はしていなようだ――もはや、どうでもいいことだが。

 滴が足元に落ちて小さな水たまりをつくった。

「なに言ってるの?」

 おれは女に向かって、真実を語ることにした。もうゴールはすぐ先だ。信じようと信じまいと、もう気にしなかった。

「あなたには見えないだろうけど、おれの目の前には死神がいる。やつはおれを仲間にしたいそうだ。で、おれは了承したってわけさ」

 死神を直視する。三メートルはある巨体が空中にわずかに浮かんでいた。例の首切り鎌で首を落とされたら、それで死神になれるのだろうか。

「そういうわけだから、さっさとしてくれ」

 どういうわけか野和田はまだ現れない。だが、それで好都合だ。野和田は結局のところ、おれの命を奪う――それに対して、死神は三千年の寿命をくれるのだ。おれを護ると言った野和田のほうが、悪魔か鬼のようではないか。

 おれはその瞬間を待った。

「…………」

 おれの不審な言動に、戸惑う女。頭でも打ったのかと言いたげな表情。死神が見えないのだ。なにもない空間に向かってしゃべっているへんな奴。

 死神が動いた。

 しかし――。

 死神は、ロケットかウルトラマンのように垂直上昇していき、すぐに見えなくなったのだった。

「おい、死神、どうした? どこへ行ったんだ。おれを死神にしたいんじゃなかったのか!」

 おれは茜色に染まる空に向かって呼びかけた。が、その声は虚しく響き、空へと吸い込まれていった。

 待っても死神は戻ってこなかった。

 ……いったい、どうなっちまったんだ?

 おれは途方に暮れるしかなかった。死神と出会って十日、最初は抵抗していたが、自分の運命をようやく受け入れ、決意をかためたというのに、なぜだ?

「貝原さんは勝ったんですよ」

 その声に振り向くと、いつからそこにいたのか野和田が立っていた。

「死神は去ったわ。もう二度と貝原さんの前には現れない」

「どうしてだ?」

「そのひとのおかげよ」

「え?」

 状況がわからず、きょとんとしている女を見る。

 野和田は女に向かって言った。

「あなたは、貝原さんに生きていてほしい、とほんの少しでも本気で思ったでしょ」

 指摘されて、女はうなずく。

「その思いが、死神をおっぱらったの。ぎりぎりだったわ。起死回生の逆転満塁ホームランね」

「見てたのか?」

 野和田は、ずっとおれを尾行していて、いつでも出ていけるように準備していたのか――。そして、死神が現れたとき、すでにどうなるかわかっていて姿を見せなかった――。

「でも、恋人を作らなくちゃいけないんじゃなかったっけ?」

 おれは訊いた。

「誰かから、この世に生きていてほしいと、心から思ってくれたらいいのよ。最初、そう言ったでしょ」

 ああ、そういえばそうだったか……。記憶があやふや。

 ともかく、と野和田は微笑む。

「あたしもこれで自分の役目が果たせました。おめでとうございます、貝原さん。そして、さようなら」

 野和田はぺこりと一礼すると、背中を向けて歩き出そうとして、振り返った。

「そうそう。今日のライブ、良かったですよ。前回聴いたときのように、脂ぎってなくて」

 言い残し、再び歩き出した。

 おれはその場に立ち尽くした。運命がとつぜん急カーブを描いてべつの方向へと向かいだしたことに呆然と我を失っていた。せっかくの覚悟が宙に浮いてしまい、おれはどうしていいかわからない。

 そうしているうちに、野和田は堤防をこえ、どこへともなく消えてしまっていた。

 野和田が何者なのか、とうとう最後までわからなかった。



 こうして、おれは十日間にわたる試練を乗り切った。奇蹟は起きたのである。死神にもならず、死ぬこともなく。

 次の日、おれは職場に復帰した。予想どおり、野和田は来なかった。

 なんの連絡もないんだよ、と社長は困った顔をしていた。なにか知らないか、と訊かれたが、本当のことは言えず、なにも知りません、と返事するしかなかった。

 工場の他の人たちは、辞めたんだろ、と口をそろえ、それで決着していた。よくあることだったから。

 おれの暮らしは元へと戻った。昼間は町工場で働き、夜は曲をつくり、休日は街で歌う。なぜか最後のライブだと思って歌ったときのような反応はなく、通行人は以前と同じようにおれの前を通り過ぎていった。なにが違うのだろう。歌声が脂ぎっていたのだろうか。脂ぎった歌声って、どんなだよ。

 二ヶ月ほどして、おれは自殺未遂の女と再会した。仕事を終えてから電車に乗り、ターミナル駅近くの喫茶店で待ち合わせ、その後の話を聞くためだった。

 野和田が消えた直後、彼女の事情を聞いていたのだ。

 女は、里奈といった。二十九歳で、二年前に結婚したはいいが、夫によるDVに苦しめられていたのだという。逃げても、居所が分かると連れ戻された。精神的に追いつめられ、鬱病の末、とうとう自殺を決意した。どこにでもありそうな、ありふれた話だったが、当人にとっては切実だ。

 弱味を握られているから、だれにも相談できないのだという。

 その里奈から、連絡があった。いったい何事だろうか。携帯電話の番号を教えてくれといわれたが、かかってくることはないだろうと思っていた。実際、このふた月というもの、まったく音沙汰がなかった。

 ターミナル駅に着くと、師走の町はクリスマスの真っ最中で、イルミネーションがきらびやかだった。

 指定された喫茶店に行くと、里奈は先に来て待っていた。一ヶ月前とちがって穏やかな表情だったため、最初、本人かどうかわからなかった。

「お呼び出しして、ごめんなさい」

 と里奈はいった。

 いや、とおれは向かい側の席につく。とんでもない。どんな形でも女性と二人で会うなんて、おれにとっては大事件である。

「い、いったい、どうしたんですか?」

 おれは慎重に口を開いた。緊張した。

 もしもこの現場に、里奈の暴力夫が踏み込んできたら、確実に血を見るだろうと気が気ではなかった。なるべく早く用事を切り上げようと思った。

 夫の性格が改善したというのはありそうにない。いくら妻が自殺未遂をしたといっても、それで態度が変わるとは思えなかった。

 ウェイトレスがやってきて、お冷と使い捨てのおしぼりをおく。

「ホット」

 と注文した。

 ウェイトレスが下がると、里奈は、実は……と切り出した。

「わたし、やっと自由になれたんです」

「と、言うと?」

 いろんな想像が頭のなかをかけ巡ったが、口をはさまず先を促した。

「彼……逮捕されたんです。傷害事件で。ごたごたあって、連絡できなかったんですが、離婚も成立しました」

「それは……」

 おめでとう、と言いかけて、おれは言葉をさがしたが、なにも出てこず、

「なにより――」

 とだけしか言えなかった。ここまでくるのに苦労したんだろうな、と思いつつも、あまり首をつっこんでいいことではないと自重した。

 里奈は大きく嘆息した。

「いま思うと、なんであんな男にひっかかっちゃったのかな、て。最初はそんな悪い男でもなかったんですよ。でも……いえ、もう終わったことです。これから、人生をやり直すところなんですから」

「はあ……」

「貝原さんには感謝しています。あのとき死んでいたら、今はないんですから」

 生き生きと語る里奈は、にっこり微笑む。おれはどきっとした。笑顔を向けられるなんて、経験がないものだから、どう反応していいか困ってしまう。

「いや、こちらこそ、川で溺れるところを救けてもらった。お互い様です」

 トンチンカンなことを言ってしまったか?

「わたし、もう新しい生活を始めているんです。いままでできなかったいろんなことができそうです」

 そう言って里奈は、これからの夢を語りだした。抑圧されていたぶん、反動で欲求が高まるのはわかるのだが、なぜおれにそんな話をするのだろうと疑問に感じ、たぶん夢を語る相手ならだれでもいいのだろうと思った。それがたまたまおれだった、と。

 だが、そんな話をされてもな……おれには関係ないわけだしと、少しばかりうんざりしつつ、ウェイトレスがもってきたコーヒーをすすりながら、晩飯はなにを食べようかと空腹を感じていた。

「ところで、貝原さん」

 適当に相づちを打っていると、里奈が言った。

「はい? な、なんでしょう」

 おれはぼんやりしていたのを見透かされないよう、しっかりと言った。

 あの……、と里奈は言いにくそうに言った。

「こないだの、女の人……あれはだれなんですか?」

「うっ――」

 思ってもいなかった質問に、口に運びかけていたカップをソーサーに戻した。

 まさかここでこんな質問を受けるとは予想していなかった。

 さて、どうこたえる?

 本当のことを言うべきか? いや、狂人だと思われるだろう。野和田がいなくなって、もはやなんの証拠もないのだ。

 そうだな……とおれは考え、慎重にこたえた。

「実は、おれにも、よくわからないんです」

 これは本当だ。神様から遣わされた天使なのかもしれないが……いや、違うだろう。そんな雰囲気ではない。

「わからない……?」

「ええっと……もう職場を辞めちゃって、それっきりなんです」

「そうなんですか……」

 おれはうなずいた。

「野和田さんっていうんだけど、名前しか知らない。あのとき以来、姿を見てない」

「あのとき……貝原さんは、その、野和田さんのせいで、橋から飛び降りたんでなくって?」

「その話は……」

 おれは後頭部をぼりぼりと掻いた。あのとき、おれが里奈に言ってしまった死神云々、そして野和田の台詞は、できれば聞き流してそのまま忘れていてほしかった。

 だが、迷った挙げ句、真実を話すことにした。それで呆れて途中で帰ってくれれば、この場は解放されるだろうし、そうなれば牛丼屋にでも入れるだろう。嘘でごまかそうにも、ちょっと話を合わせにくい。

「少し長くなるけど、今からふた月ちょっと前に――」

「あ、待って」

 おれがさっさとしゃべろうとすると、里奈は制した。

「場所を替えませんか? この近くのどこかで食事でもしながら」

 ――えっ?

 想像すらしていなかった言葉に驚き、おれはすぐに返事ができなかった。

「だめ……ですか」

 即答しなかったことを不安に感じてか、里奈は上目遣いで言った。

「いえ、と、とんでもない。……行きましょう」

 女性と二人きりで食事するなんて、生涯初めてである。当然うれしいと感じるところだろうが、おれの心には戸惑いの感情が渦巻いた。おれなんかと……なぜ? だれを誘っても逃げられたのに、向こうからなんて……ありえない。まったくもって信じられなかった。

 なんとかカノジョを作ろうと躍起になっていたあの期間は、自分の命を守らなければという動機に支えられて女性に対して積極的になっていたが、日常に戻った今は、そんな気持ちはすっかり後退してしまっていた。エネルギーを使い果たしたといった感じで。

 そこへ巡ってきたこの展開。ああ、なのに、せっかくの機会だというのに、これからおれが話す内容は、この貴重な時間を跡形もなくぶち壊してしまうだろう。怒って帰ってしまう後姿を想像すると気が重くなり、今からでもごまかす方法はないかと思案した。だが、急にいい考えが浮かぶはずもなく。

 うつむき加減で席を立つと、里奈は言った。

「それから、わたし……信じますよ、死神がいることを」

 おれがハッとして顔をあげると、里奈は微笑んでいた。

 おれがこれから話すことを、だいたい想像しているようだった。現実離れした話を。それと知ってなお、マジで聞いてくれるというのか――。

 もしかしたら、里奈は、おれが今まで出会ったどの女性とも違うのかもしれないと、ほんの少し、そのときやっと思えた。

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