Act-5 『現世への旅と最後のチャンス』
まる一日寝込んだ。
この町には夜がないし、時計もないから、時間感覚があいまいなんだけど、だいたい一日ぐらいだと思う。
ゆるキャラは、呑気そうな外見とは裏腹に、強敵だった。なんせ、いくら倒しても倒しても起き上がってくる。切り株だけあって、すこぶる頑丈だった。
それだけじゃない。攻撃力もロボットより高かった。名付けて切り株アタック。弾丸のような速さで体当たりしてくるのだ。この攻撃に相当苦労した。
最初、着ぐるみの中にどんな人が入っているのだろうかといぶかしんでいたけれど、戦闘中の非常識な動きはとても人間技とは思えず、天使の創作物だと割り切って、ためらわずに反撃した。
ひっくり返って動かなくなった着ぐるみを引き裂いてみると、案の定、中は空っぽだった。
連続二回の戦闘で打撲傷だらけになったあたしは、家に入ると、テレビで天使と会話する気にもならずベッドに入った。疲労困憊。
肉体的感覚が弱くなっていたのに、この疲労感と傷の痛みと筋肉痛はどうしたことだろう。
これまで感じてこなかった眠気に身をまかせ、ぐっすり寝入ってしまった。
目が覚めると、体はすっかり治っていた。痛みもないし、痣も消え、腫れもひいていた。傷の治りは予想していたよりもずっと早く、天使の言った回復力を実感した。
でも。
一階のリビングに降りると、テレビ画面の向こうの天使に文句を言った。
「いきなり、あんなやつらとの戦いなんて、ちょっとハードよ。どうしたらいいか困ったじゃないの」
『勝てたのだから、問題ない』
「でもきわどかったわ」
『最初から簡単に勝てるようにはなっていない。それでは訓練にならない』
「それにしたって、これじゃ、なかなか上達しないじゃない。なんか……ほら、ボクシングとか柔道とか、そんな参考書があってもいいんじゃない?」
『そなたはルールのあるスポーツをしているわけではない。また、戦う相手も人間ではない。そこを忘れるな』
あたしは下唇を噛んだ。天使の提案に乗ってしまった後悔の念がまた少し肚の下で膨らんだ。
外出する度に仮想死神に出会った(仮想というより仮装か……)。勝つには勝ってもダメージを受け、負傷してボロボロになるまで次々と新たな相手が現れた。
まさに戦いに明け暮れる日々(夜が来ないから日の感覚はないが)が続いた。しかも毎回、ふざけた容姿の対戦相手で。恐竜だったり、おきあがりこぶしだったり、カカシだったり、オートバイだったり、犬小屋だったり。
怪我の度合いもひどくなった。骨折、脱臼、内出血。通常より痛覚は軽くなっているとはいえ、痛いことは痛い。何ヵ月も入院しなくちゃいけないような大怪我でも、病院に行かずにベッドで寝ていれば治ってしまうという驚異の回復力には目を見張るものがあるけれど、毎回こんなでは精神的に参ってしまう。
だから怪我が完治しても、家から出ずに、室内でゴロゴロして暇をむさぼっていた。ところが、窓を突き破って巨大カブトムシが乱入してきて、あたしは心底天使を恨んだ。ま、巨大ゴキブリではなくカブトムシだったことに、多少の愛嬌があるけれど。(ゴキブリだったら気絶していたかもしれない)
ともかく、そんなわけで、ろくすっぽ休む間もなく連戦を強いられた。
もちろん、おかげでケンカに強くなったと思う。あんまり実感がないのは、あたしのレベルに応じて仮想死神の強さを変えてくるから。でも戦闘が派手になっていくところをみると、強くなっていってるのだろう。
「カボチャの馬車」には、あししげく通っていた。模擬戦の間隙をぬうように、店内に駆け込む。
マスターとおじいさんに会って、ひとしきりしゃべるのが、あたしにとってのストレス解消法だった。
どういうわけか、いつ行ってもおじいさんはいて、カウンター席の同じ位置でコーヒーを飲んでいた。おじいさんにとって、この喫茶店で美味しいコーヒーを飲んでいることが、どんなことより楽しいのかもしれない。
マスターも同様で、この二人は今、充実した刻をすごしていると言える。だから早々に生まれ変わって、突然この町から消えてしまうのでは、という話題が出たこともあった。
あたしはというと、模擬戦の様子をことこまかくレポートして悪態をさんざんつく、ということに終始して、それを聞いてもらっている。
今回も、マスター手作りのシフォンケーキとホットミルクティーを味わいつつ、マシンガンのようにしゃべってスッキリした。おじいさんとマスターは、ときおり口をはさみつつも最後まで聞いてくれて、あたしの気分も晴れた。この二人と出会えて本当によかった。感謝。
さて、と――。
いつまでも居心地のいい喫茶店に居続けるわけにもいかない。
「ごちそうさまでした。また来ますね」
あたしは店を出て自転車にまたがる。ロボットに壊されたはずの自転車は、家に帰るとちゃんとガレージに、壊される前の状態で置かれており、改めてこの町の非常識さを思い知った。まるでコンビューター内に作られた仮想空間の町、バーチャルタウンだ。
また模擬戦の死神と出会うのだろうな、と覚悟しつつ家に向かっていると、交差点で大型トレーラーに出くわした。トレーラーの荷台にはビルの柱や梁に使うH型鋼材がロープで固定されていた。
この町では、すべての建物が天使によって作られてしまうから、いったい何事だろうかと首をかしげた。
つい、後を追いかけた。トレーラーは自転車でも追えるほどのゆっくりとした速度で運転していたから、引き離されることはなかった。
やがて到着したのは、建設現場だった。
住宅街の間に奇蹟のように広い土地が開けていて、そこにはビルが建設中だった。ビルのてっぺんにはクレーンが稼動しており、今まさに建材を吊り上げているところだった。ビルは五階ほどの高さまで鉄骨が組みあがっていて、完成は何階建てになるんだろう。
建設現場で男たちが立ち働くのを圧倒されて見ていると、声をかけられた。
「やあ、いつかの彼女じゃないか」
振り返ると、最初にこの世界へ来たとき、あのおじいさんと同時に出会った肥りすぎのオジサンが、相変わらずのスーツを着込み、工事用ヘルメットをかぶって立っていた。
「あら……こんにちは。久しぶりですね」
この町に入ってからは、全然姿を見ていなかった。どこでなにをしていたのか、まったく知らなかった。(もっとも、知りたいとも思わなかったんだけども)
「なにをやってるんですか?」
とりあえず訊いた。この出で立ちから察するに、このビル建設に携わっているんだろうな、とは思えたけど、一応。
「見ての通り、みんなでビルを建てているんだ」
「どうしてビルなんか建てるんですか?」
それが、この人たちの「やりがいのあること」なのだろうか。おそらくそうなのだろうと、そういう答えを待っていると、
「この世界への挑戦さ」
オジサンは、どこか誇らしげな表情をたたえていた。いっしょにあてもなく道を歩いていたときのような、暗く沈んだ面持ちとは、まったく違う。
それよりも、
「えっ? 挑戦って……」
オジサンの言った意味がわからなかった。
「この世界で、我々にどこまでのことができるのかを確かめているんだよ」
もって回った言い方をする態度のでかさは、変わってなかった。
「あの……天使の言ってた……?」
生まれ変わるために行う達成感を得られる行為――。ビル建設は、それではない、っていうの?
「天使かなにか知らないが、おれは信じちゃいない。あんな得体の知れないやつのいうことなんか、まともに聞いてたまるかってね。おれはだれかの指図を受けるなんてご免だからな、みんなでビルを建てる。天まで届くビルだ」
オジサンはビルを見上げた。
「どこまで高く建てられるか。この町が、出口のない箱庭みたいになっていることからして気にいらん。だから上へ上へと昇ってみようってわけさ。どうなるか、ちょっとわくわくするだろ?」
「はあ……」
なんと言っていいか……。あたしはその発想に、舌を巻いた。ここで働いている人たちはみんな、本気でそんなこと考えているのかと、目眩に似た感覚を覚えた。
――これが男の発想というものなのかしら?
あたしは、高くなりすぎて、建設中にほこりを巻き上げながら崩れ落ちてしまうビルの壮絶な最期を思い浮かべた。
そのとき、
「おーい、設計グループ、ちょっと集まってくれー」
と拡声器の声が響いた。
「おっ、なにかあったらしい。行かなきゃ。それじゃな」
話すだけ話すと、オジサンはきびすを返し肥えた体をゆすりながら行ってしまった。
あたしはしばらく働く男たちをぼんやりと眺めたあと、自転車をUターンさせて家へ向かった。
なんだかんだ言っても、結局みんな、なにかをしていた。こうして一人また一人とこの町を去り、生まれ変わっていくのだろう。
あたしもそうだった。達成感のある、自分のやりたかったことではないけれど、その先にある目的のために頑張るという点では、無益にすごしているわけでないので、同じといえた。
来る日も来る日も意外な格好の死神と戦うという訓練はその後も続いた。なかなか現世に転生し、本番を迎えないのは、まだ実力が足りないのだろうと、死神と戦うのはそれだけ厳しいのだと思っていた。死神と戦って負けるようでは意味がない。
いつ終わるとも知れない訓練は、見通しがつかない分、モチベーションを保つのが難しかったから、いったいいつ終わるのかと、テレビの向こうの天使に何度かつめよったが、
『まだその時期ではない』
とこたえるのみで愛想がない。
「それでも、いつぐらいかっていう見通しぐらい、教えてくれたって」
という問答が繰り返され、あたしはだんだん精神的に疲れてきた。
だから突然、
『これから現世に行ってもらう』
と、なんの予告もなくテロップが現れたときには、きょとんとして、すぐにその意味がわからなかった。
やった!
ガッツポーズももどかしくテレビのフレームを両手でつかみ、かみつかんばかりの形相で訊いた。
「いつ行けるの!」
『いまからだ。テレビに入るがよい』
いつもいつも、天使は唐突だ。
こちらの都合なんかお構いなし。少しため息をついて、あたしはテレビに入った。
そこは八畳ほどのフローリング部屋だった。すっきりと片付いており、新築のように壁もきれいだった。白いカーテンを通して窓から差し込む光がやわらかく部屋に満ちて。
振り返ると、同じぐらいの大きさのテレビ(三十七インチ)があり、あたしは、テレビに入ったはずが、テレビから出てきた格好ということになる。それはともかく。
ここが現世……。そして、この体が、仮のものとはいえ、ちゃんとした生きている肉体……。
あたしは体のあちこちを触り、続いてその場で軽く跳び跳ね、ラジオ体操第一を途中までやって感触をたしかめた。テレビの向こうの黄泉の自宅にいたさっきまでと感覚はそう変わらなかったが、それでもあたしには生前どんなに望んでも取り戻せなかった自由に動く肉体だ。感激に胸がむせたが、それもまたうれしかった。
ユニットバスの中に駆け込んで洗面台の前に立ち、顔を確認する。二、三分鏡の前で百面相をした。
わずかな間だけとはいえ、本当に生き返ったんだ……。
それからフローリングの床を蹴って窓に駆け寄ると、カーテンを勢いよく開いた。
鉄道の線路がすぐそこを通っていた。いきなり現実的な光景が衝撃的だった。
と、電車が大音響を伴って通りすぎていった。髪の毛が逆立った。
しばらく呆然となって、おもむろに窓を閉めた。
さて。
これからなにをすべきなのかわからず、はじめて籠から逃げたインコのように、ぽつねんとたたずむ。
ここが、この部屋が、現世でのあたしの家か……。
考えてみれば、初めての一人暮らし。たとえ数日間といえども、ここでシングルライフをおくるのだと思うと、なんだか胸がときめいた。生前、いくら望んでもできなかった一人暮らし……。なんて素敵な響きだろう。
けれども、あたしに与えられた使命は、生活をエンジョイさせてはくれないだろう。なにしろ死神と戦わなきゃいけないんだ。インテリアのことなんか考えている暇もなく、この絵に描いたような殺風景な生活感のない部屋で暮らしているうちに、十日なんて日にちはあっという間に流れてしまうだろう。この窓の外を走る電車のように――。
あたしはまぶしいほど白い布団のかけられたベッドに腰を下ろし、頬杖をつく。
これからあたしが死神から護ることになる人とは、いったいどんな人なんだろう、とテレビを見やった。おそらくその情報が早晩表示されるだろう。
と、テレビ台の足元に紙幣が無造作に置かれているのが目に入った。
駆け寄ってたしかめてみると、千円札が百枚以上もあった。働いたことないあたしにとって、今まで手にしたことのない大金だった。
――生活費か……。
たった十日とはいえ、生きていくにはお金がいる。けれどもこんなにもいるか?
偽札ではあるまいな、と透かしを見たりした。
他にはなにかないかな、と思って見回すと、テレビ台のなかに履歴書やら運転免許証やら携帯電話やら印鑑やら、「他人に用意してもらってはいけない」ようなものが揃っていた。運転免許証にはどこで撮影したのか、あたしの写真。名前は「野和田」となっていて、ははあ、あたしはここでは野和田という名前で通すのか、などと偽造免許証を見つつ、なんだか日本に潜入した他国のスパイになったような気がして、おいおい、大丈夫か、と言い知れぬ不安を覚えた。
いったいあたしはなにをさせられるんだ?
そのとき、ピロロン、とテレヒから音がして、あたしは飛び上がった。ニュース速報のような音でも、今のあたしを驚かすには十分だ。
テレビを見ると、テロップが流れ出した。あたしは思わず居ずまいをただした。
『これより任務を開始する。そなたが死神から護るのは、この男である』
三十七インチのテレビ画面いっぱいに男の顔が映って、あたしはひっくり返った。
あばたが目立つ出っ歯の丸顔は、ハリウッド映画に出てくる特殊メイクの異星人のように、人間離れしていた。
「…………」
あたしは絶句した。
「これが、死神ですか?」
と訊いていた。護る対象だとテロップは読めた気がしたけれども、なにかの間違いだった?
男の顔が消え、再びテロップが流れる。
『貝原俊武、四十四歳。小さな町工場で働いている。アパートに住み、つい先週、故郷に残した母親を亡くした』
間違いなんかではなかった。まぎれもなく、この人間を死神から護らなければならないのだ。
もっとかわいらしい美少年なら護ってあげなきゃとヤル気にはやるのに、こんな禿げかけた不細工な中年オヤジ……と、あたしは内心テンションが下がった。どんな容姿だろうと任務を達成せねばならないと、理性ではそんな差別はよくないと思っても、感情は残酷だった。
『そなたは、彼の働く町工場に潜り接近せよ。求人広告を見よ』
「求人広告?」
あたしはテレビ台のなかにあった書類をひっかきまわし、新聞の折り込み広告を見つけた。一色刷りの地味な求人広告だ。いくつもある求人欄のひとつがピンクのマーカーで囲まれている。アルバイト募集、とあった。仕事の内容は、軽作業、とあり、時給や勤務時間とか、電話番号や住所、地図なんかもかいてあった。
『彼は三日後に工場に戻ってくるだろう。以下に貝原俊武の個人情報を列挙する。参考にせよ。なお、情報はそなたが望むとき、いつでも提供される。では健闘を祈る』
テレビ画面に、貝原俊武のプロフィールが流れ出した。ながながと学歴やら趣味やら過去のエピソードなど、果たしてこんな情報が必要なのかと思い、途中で飽きてきてしまったので、リモコンのチャンネルを切り替えた。
ドラマを放送していた。あたしはつぎつぎにチャンネルを替えてみた。食い入るように画面を見つめる。なんでもないような放送でも、今のあたしには新鮮だった。画面のなかで、人がしゃべり、音楽が流れる……。
あたしは、生き返ったんだ!
テレビ番組を見ることで、すべてが急にリアルに感じられ、叫びだしたい衝動にかられた。
やらなければならないことはわかっていたけど、今は、久しぶりのテレビにひたって、現世のうつつを感じていたかった。
☆ ☆ ☆
日曜日――。
約束の時間は二時だというのに、おれは一時には現場に着いていた。
なにせ人生初のデートだ。喫茶店で逢って話をし、そのあとライブを聴いてもらうという、デートっぽくないコースだったが、まぎれもないデートなのである。少なくとも、おれはそのつもりだった。
ギターケースを抱えながら、いつものターミナル駅を歩く。肌寒い季節になってきたが天気も良く、行き交う人混みも多かった。
服装は、お見合いパーティのときと同じスーツにした。いつものライブとは違って気合いが入りすぎだったが、同じ服装のほうが相手もわかりやすいだろうと思ったのだ。
先に牛丼屋で昼食をすませておくことにした。
カウンターで丼飯をかき込みながら、おれはどんな話をしようかと考えた。これまで二十年以上も路上ライブをやってきて、その間にはさまざまなことがあった。それらの話をすれば、間はもつだろうと思い、思い返した。
五千円ももらったことがあった。
風邪をひいて、声がでにくかったことがあった。
雪が降るなか、寒さで指が動かなくなったことがあった。
台風警報が出て、だれもいなかったこともあった。
ちんぴらに殴られたことがあった。
酔っぱらい絡まれたことがあった。
うるさい、と近くで人待ちしていた男に怒鳴られたことがあった。
そんないろんな思い出にひたりつつ、おれは待ち合わせの場所へと赴いた。
改札口には、時間の二十分前についた。周辺を目で探すが、やはり来ていない。
全面広告の貼られた四角い柱に背をあずけ、ギターケースを足元に立てて、おれは自動改札機の並ぶ改札口に視線を送りつつ待つことにした。電車が到着するたびに大勢の乗客が改札機を通る。そのなかにいないかと一人一人の顔を目に止めるが見つからなかった。
二時をすぎた。
おれは約束を反故にされたのではないかと不安になった。急に気が変わって、あのときの約束はなかったことにしてくれと言い出すのではないかと心配になった。だがその可能性は十分あるだろう。そうやって数え切れないほど裏切られてきたから、今さら嘆くには及ばないが、今のおれの状況は、またかと簡単にあきらめるわけにはいかなかった。これがおそらく最後のチャンスなのだ。これを逃せば後がない。おれに残された日数は、今日を含めてあと三日。三日しかないのだ。
「貝原さん」
改札口のほうばかり気にかけていたおれの耳に、意外な方向から声が届いた。
驚いて振り向くと、仙田さんが立っているではないか。てっきり電車に乗ってくるものだと思っていたから。
「あ、ど、どうも」
「ごめんなさい。遅れちゃって」
「いえいえ、いいですよ……」
「喫茶店にでも入りませんか?」
「あ、はい……」
ほっとしたやら、嬉しいやらで、おれはすっかり舞い上がってしまっていた。積極的に話す仙田さんのペースに引っ張られ、駅前の喫茶店に入った。
四人がけのテーブルに、向かい合ってすわった。
ギターケースを通路の邪魔にならないように立てかけると、お冷を持ってきたウェイトレスに、アメリカンを頼む。
「私はホットコーヒーを」
と仙田さん。
おれはさっそく前もって考えていたことを語りだした。路上ライブで経験したさまざまなこと――。
仙田さんは「へえ」「そうなんですか」と相づちを打つが、それ以上はしゃべらずもっぱら聞いているだけだった。
やがておれのネタが尽きた。ええと……と口ごもったとき、仙田さんは言った。
「素晴らしいですね。貝原さんの大きな夢に、私も協力しますわ」
仙田さんは大きなバッグから、カラー印刷された書類の束を取り出して、テーブルに広げた。それは、生命保険のパンフレットだった。
「貝原さんにぴったりの商品があるんですよ」
おれは固まった。絶句して、声も出ない。
「貝原さんは、独身でらっしゃるし、年齢的にも万一のときの保証があると心強いですわ」
パンフレットを開き、立て板に水のごとく説明を始めた。あいづちすら打てない見事なセールストークでまくしたてた。
「あの……」
と、おれは声を絞り出すように口を開いた。
「今日、お、おれと会ったのは……その……」
認めたくはなかったが、お見合いパーティでおれに声をかけたのは、おれに気があったからではなかったのだ。
容姿の悪いおれが、どうすれば勝てるのかと懸命に考え、必死でアピールしたのに、その努力はすべて無駄だったのだ。だれの心にも響かなかったのである。
おれはがっくりと肩を落とした。ほんの一時間前までは期待に胸をふくらませ、久しくなかった幸福感を味わい怖いものなぞなかったのに、いきなり地獄の底へ叩き落とされたかのようだった。この落差はどうにも例え難かった。
おれの落ち込みように、仙田さんの表情がほんの少し曇った。
「ごめんなさい。実はそうなの。でもこの話は、決して貝原さんに悪いものではないんですのよ。貝原さんのためになる、メリットの多い商品だと自信をもってお勧めするんです。ですから、前向きに考えていただけますか?」
「おれ……」
「貝原さんは素敵な方です。きっといつか良縁に恵まれますわ」
「仙田さん……、おれとは……、つ、つ、つき合えないですか……?」
「そうねぇ……。契約してくれたら、考えてもいいですわよ」
「あ…………」
もはや、言うべき言葉も出ない。
仙田さんはテーブルに置かれた伝票をさっと取り上げる。
「ごめんなさい。次の約束があるので、わたしはここで失礼します。保険への加入、どうか、考えておいてくださいね」
立ち上がると、レジに向かって颯爽と歩いていく。その背中を呆然と見送るおれ。忙しいようである。おそらく、仙田さんが改札口から現れなかったのは、おれと会う前にもこうやって他のお客とどこかこの近くで話していたのだろう。そしてこの次も……。
支払いをすませ、自動ドアを通って彼女の姿が見えなくなると、おれはテーブルに置かれたパンフレットに目を戻し、クリップで止められた保険会社の名刺を見つめた。彼女にとって、おれのようなお見合いパーティに集まるモテない男は絶好のカモなのだろう。おれ以外にも何人かに声をかけたのだ。パーティの目的であるパートナー探しのついでに営業活動をするなんて、なんてしたたかなのだろう。
おれはのろのろと立ち上がり、パンフレットをテーブルに残して喫茶店を出た。
ギターケースをひきずりながら、とぼとぼと街を歩く。
ライブを聴いてもらおうとか、そんなプランはあっさり崩れ、打ち拉がれたおれは、なにもしたくなかった。
いつもの日曜日なら、デパートの横手で路上ライブを始める時間だったが、そんな気になれなかった。
――今日はこのまま帰ってしまおうか……。
そう思った。日がかげってきたら、気温も下がる。テンションの下がった状態では、寒さもより心にしみて、歌も死んでしまう。
「貝原さん」
のそのそと歩いていたおれが改札口に向かおうとしたとき、背後から声がかかった。
――仙田さん?
が、振り返ったそこに立っていたのは、野和田だった。だがその姿は、ひどいものだった。
唇が切れて、顎にかけて血がついていた。頬が蒼く腫れ、着ているジャケットの右袖が付け根から破れて失くなっており、カットソーが見えている右腕は、肘がちょっとありえない方向に曲がっていた。
「どうでした?」
と訊いてきたが、
「大丈夫なのか?」
おれは逆に訊かずにはいられない。この様子だと、ついさっきまで死神との死闘を演じていたのだろう。そして、負傷しつつも撃退したのだろう。それにしても、痛々しい。
「あたしは平気……じゃ、ないかな……。ちょっと苦しいかな」
苦笑ぎみにペロッと舌を出し、それから血の混じった唾を吐いた。さしもの野和田でも、こう激しい戦いが続いては、体がもたない。十日というタイムリミットを設けたのは、命にかかわるからなのだと痛感した。そしておそらく、野和田の命は、おれのそれより重い。おれの命なんか――。
「そんなことより、今日はデートだったんでしょ?」
あれだけ大見得を切ったのだから、期待をかけられるのも無理はなかったが、心にぐさりと刺さる質問だった。
おれは大きくかぶりを振り、
「生命保険を勧誘されたよ」
正直に白状した。おれの命なんか、保険をかけなきゃならないほどの値打ちなんか、ない。
「そうですか……。残念でしたね、せっかく新曲まで作ってきたのに」
おれは力なく笑った。
「とんだ道化師さ。みじめなおれを笑ってくれ。今日は、路上ライブは中止しようと思う」
「でも、貝原さんの歌を聴きに来た人に悪いですよ」
「そんな人、いないさ。いつもいつも、路上で、だれもいない空間に向かって歌っていたんだから。本当はわかってたんだ、おれに才能がないってことぐらい。けど、認めたくなかった。意地になっていたのさ。夢を追いつづける自分に酔っていたんだ」
「あたしが聴くわ」
野和田がきっぱりと言った。
「貝原さんの歌って、聴いたことないし」
おれは瞠目した。
「希望を棄ててはだめ。まだチャンスはあるわ。元気がないときは、歌うんです。歌えばきっと元気になれる」
「…………」
おれはしばし逡巡した。
――歌のパワーか……。
「わかった、今日は野和田さんがお客だ。歌おう」
おれはギターケースを持ち上げた。改札口に背を向けると歩きだした。
デパートの横の定位置に着くまでに、路上ライブを行っている何人かの前を通り過ぎた。彼らもおれと同じ希望をもっているのだ。
いつもの場所に落ちつくと、ギターケースを開き、譜面台を立て、ギターを肩から下げ、準備完了。
野和田は、車道との間の植え込みの、高さ四十センチほどの縁石に腰を下ろしている。
おれはいつものように、声を張り上げた。
「こんにちは。貝原です。これからここでライブをやります。よかったら聴いてってください」
ギターのコードを一回鳴らし、一礼。
「ますは新曲。きのう、できたばかりの歌です」
おれは譜面台を見つめ、息を吸って止めると、イントロを奏でる。
新曲を捧げる本来の相手はいなかったが、おれは歌い始めた。今日は野和田がたった一人の観客だ。
すべてを忘れて歌うことに集中する。それは二十数年間に身についた習慣だった。
無理に力を入れて歌った。歌に集中した。これでもか、これでもか、と。
十五曲を連続で歌った。
観客が何人か集まっていた。まばらな拍手に礼を言い、そしてまた歌う。
立ち止まって聴き入る観客が入れ替わっていくが、野和田だけは最後まで聴いてくれていた。
二時間がたった。夕方になり、陽も陰ってきた。
「みなさん、ありがとうございました。今日のライブはここまでです」
また来週――と、いつものように言いかけて口ごもった。来週――おれはここに立っているだろうか?
「お疲れさまでした。気分は少しはよくなったでしょ?」
野和田が笑顔で声をかけた。
ペットボトルで緑茶を飲み、喉を潤してから、おれは言った。
「まぁな」
譜面台を片づけてギターといっしょにケースにしまった。
しかし状況がなにひとつよくなったわけではない。酒で嫌なことを紛らわせているのと同じだ。
残り二日。貝原俊武――おれは、これからどうする?




