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Act-1 『霧の中の道と新人さん』

 どうやらあたしは死んだらしい。らしい、というのは、まだ確信がないからだ。

 周囲の様子がちがっていた。狭い病室の、目が痛くなるほど白く愛想のない壁はなく、いつも眺めていた、住宅街が見渡せる八階からの景色を見せてくれていた窓もない。いつの間にこんなところへ来てしまったのか、十二歳で発病して徐々に悪化、とうとう入院し、だけでなく、退院できる見込みのないあたしが、病院内以外の景色を拝める機会はないはず――。

 なのに、あたしは今、道の真ん中に立っている。自分の足で立ち上がることもできないのに。

 道は細く、軽自動車がやっと一台通れるかどうか――。でも道の両側は、そそりたつ壁ではなく、草花が咲き乱れる平地だったから、大型車でも通れないことはないか――。

 それはともかく、咲いている花を見ると、パンジー、タンポポ、コスモス、アサガオ、ヒマワリ、スイセン、と季節がめちゃくちゃ。しかもそれが遠くまで続き、白い霞の向こうへと消えている。

 そういえば、この道もどこへ通じているのか、道の先は霧の中に隠れてしまっている。

 太陽はどこから照らしているのか、見上げても位置がわからない。青空はなく、曇っているかのようにぼんやりとしていて。

 この非現実的な光景、あたしは最初、夢を見ているんじゃないかと思った。体が不自由になってから、こういう夢をよく見るようになった。しかもこれが夢であると、夢の中で思うことが多かったから。着ている服もパジャマではなくカジュアルな普段着。一時帰宅できたときに着ていた服だ。動きやすい、というか、自分ではほとんど動けないから、介護しやすい服というべきか。

 あたしは、なんとなく、これは夢なんかじゃないような気がしていた。あたしにははっきりとした記憶があった。

 医師や看護師がベッドに横たわるあたしをとり囲み、大げさな装置を使って必死に処置を施していて、その甲斐あって、一瞬だけ意識を取り戻した――。それが、最後の記憶だった。

 つまり、ここは死後の世界なんじゃないか……。あのあとあたしは死んでしまったのではないか。

 でも――。

 肉体が滅んでなお理性的な自己分析が行えるというのは不可能のようにも思え、となればやはり夢かな。

 死後の世界か夢か、確かめる術はない。どちらがいいか、といえば、やはり夢であったほうが、生きているのだからいいに決まっている――かといえば、実はそうでもない。

 死ぬ覚悟はとうにできていた。一生、動かない体は介護が必要で治る見込みがないとなれば、将来なんの希望ももてやしない。年老いてゆく両親に面倒をかけたくはなかった。幸いうちには元気な兄が二人もいる。

 なんでこんな病気になってしまったのかと、自分の運命を呪うのも飽きた。

 だから、ここが死後の世界であっても、狼狽えたりしなかった。むしろほっとしている。

 そこへ一陣の風が吹き抜けて、あたしの髪を揺らした。あたしは一本道のどちらへ行こうか深く考えず、その風の流れていった方向へと歩き出した。考えても意味はないだろうと思った。

 歩く、というのは、こんな感覚だったかな、と足にかかる重力を感じつつ、これは絶対夢じゃないな、と思い、かといって死後の世界かというと、そう確信する材料もなく。

 道の先の霧は、そこへ至ると晴れ、またその先が霧に霞むといった具合で、歩けども歩けども見通しがよくならない。道の両側は相変わらず咲き乱れる草花で、きれいなことはきれいだけれども、開き直ったような咲き具合はかえって落ち着かない。

 歩きながら、あたしは思い返していた。発病してから今日に至るまでのことを――。



 運動神経はいいほうだった。体育の時間になれば生き生きとし、遊びといえばもっぱら屋外で、真っ黒に日焼けしてあまり女の子らしい遊び――ままごとやらお人形遊びとかには見向きもしなかった。兄が二人いたせいかもしれなかった。その兄の影響をうけて、小二のときに地元のサッカークラブに入り、男の子に混じってボールを追いかけまわしだした。

 将来はオリンピック選手になるんじゃないかと、周囲もそんな期待もしてたろう。あたしもまんざらでもなかったし。

 そう、あの病気になるまでは……。



 最初は小さな兆候だった。

 なんにもないのに、足がもつれて転ぶ、といった程度。でもその頻度が多くなってきた。転んだときに手をついていたのに、それができなくて顔を擦りむいたりした。

 階段から転落して足を骨折した。普通は直れば走れるようになるはずなのに、ギブスが取れても走れなくなっていた。足が思うように動かない。

 原因がわからないまま、やがて指先も思い通りに動かなくなってきた。少しずつ、年単位で動かなくなる部位が広まっていった。いったん回復の兆しをみせたかと思えば、また悪化し、悪化したときには前回よりも症状が重くなった。日常生活にも支障をきたしだした。通学も思うにまかせず、入退院を繰り返すようになった。

 動かなくなっていくのは能動的に動く筋肉だけにとどまらなかった。内臓にまで及びだした。

 やがて、呼吸器がなければ生きていけなくなった。



 霧が晴れなかった。が、両側の花畑の向こうに、ほんの三十メートルほど離れて平行に道があるのが見えた。いや、平行ではなく、ほんの少し角度がついていて、前方で合流しそうである。それだけじゃない、左右の道ともあたしと同じ方向に歩いている人がいるのだ。

 右側はおじいさんだった。といっても六十歳ぐらい。ひょこひょことした足取りで。

 左側は四十歳ぐらいのオジサンだった。ひどく太っていて、キングサイズのビジネススーツがまるで着ぐるみのよう。

 三本の道は思った通り、進むうちに前方で合流した。

 あたしたちはそこで立ち止まった。

 まず、オジサンが口を開いた。

「あの、ここはどこだい……?」

 あたしとおじいさんが顔を見合わせた。

「さて、こっちが聞きたいぐらいだ」

 頑固そうな顔をしたおじいさんがそう言った。

 二人があたしの発言を期待して視線を向けた。

「確信はないですけれども、あたしはここは死後の世界だと思います」

「死後の……ばかな!」

 メタボなオジサンが吐き棄てるように言った。

「そうじゃ。こんなところがあの世のわけがない」

 おじいさんも頭から否定した。自分の死を告げられて、ああそうか、と認められるわけもない。気を悪くするのも当然だろう。

 あたしは黙った。死後の世界だという証拠を提示できるわけでもなし。

「ともかく、三人とも、ここがどこかわからない、ということで、さて、これからどうするかだ……」

 オジサンが腕組みする。死後の世界でないとして、でもだからといって明確なこたえもなく、なすところ知らずといった状況。

 あの……、とあたしは少し気になっていた質問をした。

「なんでこちらに歩いてきたんですか?」

 もしも同じ方向に歩かなかったら、三人は出会うことはなかった。このことに、なにか意味はあるのだろうか。偶然にしては出来すぎている。

「立ち止まっていても仕方ないようだったから歩き出しただけだ。特に意味はない」

「わしは事故で足を悪くして以来、杖が手離せないのだが、どういうわけか、ほれ、このとおり。歩きたくもなるわい」

 おじいさんは得意そうにその場でステップを踏む。やり慣れないのか、ややぎこちないけれど、元気だという主張は理解できた。ま、それを言うならあたしもそうだ。杖をつくどころか、指すら動かせなかったのだから。

「ここでこうしていても……」

 あたしが言いかけると、

「よし、歩くか」

 とオジサンは言って、体をゆすりつつ先に歩き出した。あたしとおじいさんのことはどうでもいいらしい。

 ここにいても事態が変化しそうな気配はなかった。霧は少しも晴れない。オジサンの後を追って歩いていくしかなさそう。

 とはいえ、どこまで歩いていけばいいのだろう。

 ここまで来るのにどれくらい歩いたのか実感がない。距離的にも時間的にも。何キロ歩いたのか、何時間歩いたのか。そんなにも歩いていないのかもしれないし、かなり歩いてきたのかもしれない。疲れもせず、暑くも寒くも感じないのが、それを曖昧にさせていた……。そもそも今、何時なの? 夜になれば暗くなる?

 もっとも、ここが死後の世界なら、そんな浮き世の感覚が失せて感じられなくなっていたとしても道理か……。たぶん、いつまでたっても夜は来ないだろうし、霧だって晴れないだろう。

 そんなことを思いつつ、あたしはオジサンの、異様に横幅の広い背中を見つつ歩く。そして、この人の死因はきっとこの体型にありそうだ、と余計なことを思った。なにをやったらこんなに太るのだろう、見るからに生活習慣病がいっぱい潜んでいそうな体だ。本人は死んだ自覚がないようだから、動脈硬化による心不全で急死したのかもしれない。

 あたしの後ろには、おじいさんがいた。こちらの死因はわからない。まだお迎えが来るような年齢であるようには見えない。が、なにか持病をかかえていたのかもしれない。

 三人とも縦一列に並んで無言だった。ただ黙々と、戦場に向かって行軍しているかのよう。

 道は、合流して広くなってはいたけれども、三人肩を並べて談笑しながら、ダラダラ歩くということはなかった。そんな雰囲気はなかったし、そんなことになりそうなメンツでもなかったから、あたしもなにかを話しかけようとはしなかった。

 歩いていくうちに、なんらかの変化があるだろうと思った。さきほど道が合流して、オジサンとおじいさんに出会ったように。いつまでも三人で行進なんてことはないだろう。

 そしてその予想は意外と早く当たった。



「見て! あっちに道が見えるわ」

 あたしは指差した。さっきと同じだった。両側に道が現れ、そこを歩く人。今度は七十歳ぐらいのおばあさんと中年のオバサンだった。

 たぶんこの先、道は合流していているだろう。

「あの二人に聞けば、なにかわかるかもしれない」

 オジサンは希望的観測をこめてそう言ったが、たぶんその二人もなにも知らないだろうと、あたしは思った。

 道は合流した。そして先ほどの受け答えの繰り返し。予想通り、結局、だれもなにも知らなかった。ただ、ここがあの世ではないかという意見をオバサンが支持した。

 オバサンの最後の記憶は、クルマに撥ねられたところだった。

 体がくるくる回りながら宙をとび、視界は地面と空が目まぐるしく変わっていった、という。あの状況ではとても助からないだろうと。

 そんな生々しい話をきいて、さすがに気丈に振る舞っていたオジサンも、はた目にはっきりわかるほど動揺していた。

「だがまだ三途の川を渡っちゃいないんだ。引き返せば生き返れるかもしれんぞ」

 おじいさんがシミの目立つ顔に笑みを浮かべた。

「そうか! その手があったか!」

 オジサンは振り返り、

「よし、オレは戻るぞ」

「おう、わしもじゃ」

 おじいさんも、走って戻っていったオジサンの後を追いかけていった。

 二人が道をかくす霧の中に消えて、あたしたち女三人が取り残された。

「どうします?」

 あたしは、その場にたたずむ二人に声をかけた。

「あたしゃ戻らないよ。生き返ったところで寝たきりさね。嫁も冷たいし、生きてたって楽しいことなんてありゃしない」

 おばあさんはひがみっぽかった。

「わたしはどうしようかしら……」

 オバサンはあごに手をあてて、迷う。生き返りたければ戻ればいいし、自分のしたいことをすればいいだけなのに、何事も一人では決められないたちとみた。

 ところが、一分もたたないうちにオジサンとおじいさんは帰ってきた。霧の中から再登場した二人はがっくりと肩を落とし、とぼとぼと歩く。駆けていったときと、まるで人がかわってしまったかのよう。何があったというのだろう。

「だめだ、道がなくなっていた」

 オジサンは大きなため息をつき、その場にすわりこんだ。

「道が途切れていて、それ以上どうやっても進めんのじゃ」

 おじいさんが補足した。

「どうやら我々は道の外には出られんようじゃ。そこのチューリップに触ってみな」

 おじいさんに促されて、あたしとオバサンは道端に咲く色とりどりのチューリップを見る。道から一メートルほど離れており、手を伸ばすだけでは届かず、やむなく道から一歩踏み出そうとした。

 と、道の外へと出しかけた爪先が空気に押し返された。

「あら、本当だわ」

 オバサン、何度も出ようとして果たせず。

 あたしも肩からタックルしてみたが、やはり行けない。

 うっうっうっ、と嗚咽が聞こえ、見ると座り込んでいたオジサンが泣いていた。

 人目もはばからず、いい歳をした大きな男がオイオイ泣いているのである。あたしは声を失った。だって、目の前でそういうの、見たことがなったから、ちょっとショックだった。

 そのとき、またも一陣の風が吹き抜けた。

「どうやら、我々は行くしかないらしい」

 おじいさんが落ち着いた声で言った。自分の死を冷静にとらえられているのは、年齢から来るものなのだろうか。

 揺れていた草花が、風が去ると同時に電源が切れたみたいに静止した。

 あたしも、おじいさんの言ったとおりだろうな、と思った。立ち止まっていても、仕方ないんだ。




☆ ☆ ☆




 故郷に住んでいた母の葬儀が終わり、遺品の整理やいろいろな手続きに追われ、ほっと息をついたときには、おれ――貝原俊武の四十四歳の誕生日はすぎていた。



 十日ぶりに工場へ出た。社長以下、従業員七人の小さな町工場だ。

 出社し、長く欠勤してしまったことを詫びると、気にするな、と今年で七十になる白髪頭の社長は言ってくれた。

「仕事のほうは、なんとかやりくりしたから。それより、もういいのか?」

「はい。ひと段落つきましたら。それに、いつまでも会社を休むわけにはいきません」

「わかった。人手不足のおり、ベテランがいてくれるのはありがたいし。とうとう両親とも亡くなってしまったけど、奥さんと支え合って、頑張ってくれたまえ」

「お気遣い、ありがとうございます」

 事務所を出ると、おれは倉庫のような、真ん中に一本の柱もない建物に入った。機械油の独特の臭いが鼻孔を刺激した。高い天井を支える鉄骨の梁や柱がむき出しで、だれがなんといっても作業場だ、と強く主張しているような殺風景さだ。

 そこに大きな工作機械が数台、設置されている。夜勤組の工員がまだ作業していた。うなりをあげて回転するモーター音。

「おはよう」

 工作機械を操作して、金属部品の加工をしていた一人に声をかけた。

「貝原さん、もういいんですか」

 髪を茶色に染めた若い男は、軍手をはめた手を止めて振り向き、驚く。

「交代しよう。時間超過だろ? 迷惑かけたな」

 連日残業してくれていたのだろう。この時間だと、十二時間はここにいることになる。

「いえ……。貝原さんこそ。じゃあ、今日はこれで上がらせてもらいます」

 やっていた作業の説明をして、お願いしますと一礼し、去っていく。

 入れ替わって、おれは機械の前に立ち、レバーを握った。

 高価な工作機械を有効に使うため、昼夜二交代制をとっていた。従業員の三分の一は夜勤である。

 おれは昼勤だが、それは客先との仕様の打ち合わせや、工作機械の調整など、業務の根幹に関わっているからだ。

 おれはまだ入社四年で、ベテランと呼ぶにはまだまだ早いが、こういう町工場は人の出入りが激しく、今ではおれが一番の古株となってしまっていて、自然とそういう大事な業務を任されるようになってきたのだ。四十四歳という年齢や、既婚者だということも、信頼される理由のひとつかもしれないが。

 もっとも、おれはここへ勤める四年前、面接のときに既婚者だと嘘をついていた。この歳で独身なんていうと、就職に不利だと思ったからだ。共働きなので扶養家族はないとしていたから、税務上、問題ない。

 嘘がばれないように、妻の名は幸子、年齢は同い年で、学生時代からのつき合いだという設定にしてある。子供はいない。いると年齢を聞かれ、とっさに答えられないからだ。

 つまり、九年前に父を亡くし、先日母を亡くしたおれは、兄弟もいなかったから、家族と呼べる人間は、今やだれ一人いないということになるのだ。

 従兄弟や親戚はいるにはいたが、つき合いがほとんどなかったために、どこに住んでいるのか連絡先すら知らない人が多かった。母の葬儀に集まってくれたので、ずいぶん判明したが、かといっていきなりつき合い出すのも億劫だった。親戚側にしても、独身であるおれとつき合ったところで、多額の遺産があるわけでなかったから、なんのメリットもない。

 そんなわけで、おれは天涯孤独になった。だが一人暮らしが永かったせいか、不自由は感じない。自立した生活ができているのだ。

 八時半になった。始業時間である。

 昼勤の社員やアルバイトが出勤してきた。

「おはようございます」

 おれの姿を見て、あいさつしてくる。おれは機械を操作しつつ、「おはよう」と返した。

 なかには「大変でしたでしょう」と気遣ってくれる人もいた。

 そんななか、初めて見る顔があった。驚いたことに、若い女だった。二十歳ぐらいだろうか。小柄でショートヘアの彼女はちゃんと作業服を着ていて、組立ラインの持ち場についた。おれがいない間に入ったアルバイトだろう、と思った。

 若い女は珍しかったが、ほんのときたま、なにを勘違いしたのか入ってくるときがあった。しかし、すぐ辞めた。こんな汚い職場、長続きしようというのが無理だ。

 ひと段落して、おれは近くの同僚に聞いた。

「あの子、見かけない顔だが、だれだい?」

「ああ、野和田ちゃんね。三日前に入ったんだ。貝原さんがいないときに」

「野和田……。ふうん、そうか」

 おれはさして興味を引かれることなく作業に戻った。

 辞めるまで長くて半月、短くて一週間だろう。過去の例から、おれはそう思った。



 昼勤の勤務時間は朝八時半から五時までで、昼休みは正午から一時間。他に十時と三時に十五分間の休憩があった。

 昼休み――。

 事務所の会議机で昼食をとる。工場の建物の外には、プレハブの小屋が建てられており、そこが事務所だった。社長とその奥さんである専務が事務を行なっていた。

 四人で会議机を囲んだ。来客のときに使うぐらいで会議なんかしたことはなく、いつも工員たちがお弁当を食べるのに使っていた。椅子はパイプ椅子だ。

 持ってきた弁当を広げつつ、おれは改めて野和田の顔を見た。

 化粧っけはないが、美人である。汗まみれで働く現場には似合わない。ちょっと驚くほど大きな弁当をついばむところが、なるほど、工場勤めらしいと言えるが、どちらかといえばブティックの店員か、さもなくばどこかの大企業の受付嬢だ。場違いにもほどがある。なぜこんな職場を選んだのだろう。他に職がなくもないだろうに。なにか理由が……工員のだれかの恋人? いや、そんな理由ではなかろう……。

 いろいろと想像を巡らしていると、

「はじめまして」

 と野和田は言って、微笑む。

 おれは内心ドギマギした。女性に笑顔を向けられる経験は、買い物時の店員の、商売用のものしかなかったから、野和田の自然な態度に、おれは少し戸惑った。

「週末、歓迎会をやろうかって相談してたんですよ」

 おれの次に入った工員――といってもまだ入社一年ほどだが――の杉岡が言った。二十代前半で、こいつも大飯食らいだ。コンビニ弁当ひとつでは足らず、いつもおにぎり二個がプラスされている。ちなみに中身はいつもツナマヨと明太子で、飽きないのかと感心する。

「へえ、そうなんだ……」

 心から歓迎しているというより、単に宴会がしたいというのが見え見えだ。

 むさくるしい男の職場に、奇蹟のように咲いた一輪の花のようで、それが周囲の気分を浮かれさせているのだろう、と思った。

 おれは弁当のカニカマボコを口に放り込む。弁当は手作りだ。愛妻弁当だと思われているが、実は自分で作っていた。それぐらいのことならできるのだ。安月給ゆえ、倹約しなければならない。給食弁当がいくら安くても、出費は出費だ。手作りにはかなわない。

「夜勤組は、勤務の前に参加できるし」

 と杉岡。幹事を引き受けそうな勢いだ。

 夜勤の始業時間は八時だから、昼勤の定時五時から三時間余裕がある。その時間に宴会をするのが、うちの職場の慣わしだった。

「社長は?」

 おれは首を曲げて、離れた事務机で大量の伝票をわきによけて作ったわずかなスペースに広げた弁当を食っている社長を見る。

「いいよ。好きにやっとくれ」

 手をひらひらと振った。

「貝原さん、参加できますか」

 杉岡がおれに訊いた。葬儀が終わったばかりというのを気遣っているのだ。

 おれはかきこんだ飯をお茶で喉へ流し込んで、言った。

「社長もああ言ってるわけだし、参加するよ」

「じゃ、決まりだ。手配しておきます」

 新人が辞める前にやらないといけないから急げよ、とおれは思った。歓迎会の当日、主賓がいないでは歓迎会そのものの意味がなく、中止になってしまうだろう。

 杉岡は壁にかけられた「南北信用金庫」と広告の入ったカレンダーを見つつ、

「じゃ、あさっての土曜日ってことで」

 月に二日、第一と第三土曜日は出勤日なのだ。完全週休二日なんて、学生か大企業の特権だ。それもこの職場の定着率の悪さに一役かっている。

 土曜日か、とおれは思った。辞めているかどうか微妙なところだな。



 翌日――。

 その日も無事に仕事を終えて、おれはアパートで一息つく。復帰二日目にして日常がようやく戻ってきた感覚だ。

 築四十年の二階建てのおんぼろアパートの二階に、おれはもう二十六年も住んでいる。高校卒業後に田舎から出てきてずっと同じ住処である2DKの間取りは、一人暮らしのおれには十分な広さだった。風呂はないから、家賃もかなり安い。

 家具はほとんどない。衣装箪笥がひと竿と、脚の折り畳める小さな食卓。本なんかを整理するためのカラーボックスがふたつ。

 家電も、ワンドアの冷蔵庫、一口のガスコンロ、炊飯器と電子レンジ、ほかに二十一インチのテレビとHDレコーダーがあるぐらい。パソコンは持っていない。

 食器類は乾燥機に入れっぱなしだ。だれかが来ることを想定していないので、自分が使う分しかない。自炊をしているが、調理器具は調理ナイフが一本、大小フライパンと手鍋がひとつある程度。それでもそこそこいろんな料理はできるし、その道具でできる以上の料理を作ろうとは思わない。

 今日の夕飯のメニューは何にしようかと冷蔵庫をあける。キャベツとピーマンが残っていたので、それで野菜炒めを作ることにした。賞味期限が迫って安く売られていたボンレスハムを切って、刻んだ野菜とともに炒めて塩コショウで味付けすると出来上がり。今朝炊いて、炊飯器に残っていたご飯をいちぜんさらえて、夕飯とした。

 野菜炒めの三分の一は翌日の弁当のおかずに残しておく。

 こんな質素な生活がもう二十六年もつづいていた。もちろん、このままでいいとは、決して思っちゃいない。

 夕食をすますと、後かたづけをし、おれは座布団の上でギターを抱えた。合板木目も鮮やかな安物のアコースティックギターだ。

 譜面を開け、途中だった作曲の続きをしようとした。

 シンガーソングライターになるのがおれの夢だった。

 こうして歌を作っては、ときどきストリートライブを開いていた。いつかはだれかの目に止まってメジャーデビューを果たせるのではないかと思いつづけていたのである。

 そうなれば、もっとリッチな生活ができるはずだ。お金持ちになるには、ほかに方法はいくらでもあるが、そうじゃなく、おれはシンガーソングライターで大成したいのだ。結果として金持ちになれたら、というわけだ。

 始めてから気がつけばもう二十数年になる。もはやだめかな、と半分はあきらめているが、しかしここまで来たらやめられない。一生つづけてやる。やめなければきっと――そう思っている。

 ギターピックをつまみ、弦を弾く。寂しげな音が、シミの目立つ壁のクロスに反響した。

 そのとき、呼び鈴のチープな音が鳴った。

 はいはいー、とこたえ、おれはギターをおいて立ち上がった。今ごろの時間……回覧板だろうか。新聞の営業かもしれない。

 どの新聞も購読していなかった。とにかく毎月の固定費を削らないと、生活がたちゆかないのだ。新聞など読んでも役に立った試しがない。新聞屋なら断ってやろうと、おれは玄関のサンダルをつっかけ、ドアの小さな魚眼レンズをのぞいた。

 まったく予想していなかった人物が、ドアの向こうに立っていた。

 おれはあわててドアをあける。

「こんばんは」

 野和田だった。作業服ではなく、私服だ。紺のカーディガンを白いセーターに羽織り、下はジーンズ。

「こんばんは」

 と返したものの、驚きのあまり、次の言葉が出てこない。

「びっくりしました?」

 と野和田はえへっと舌を出した。

「な、な、なんでおれの家を知ってるんだ?」

 どもった。女性と話すのはすごく緊張した。慣れていないせいで、激しく意識する。

「あたし、この近くに住んでるんです。社長さんが、貝原さんの近くだと言ったんで、それじゃ改めて挨拶に行こうと、住所を教えてもらったんです」

「へえ、そうだったの」

 理由を聞いて納得した。しかしわざわざそこまでしなくていいのに。

 だいたい、おれのところに来る、ということ自体が信じがたい。冴えない中年男のおれなのに。

「入ってもいいですか?」

「え?」

 挨拶ならすぐに引き上げるだろうと安心していたら、なにを言い出す?

「いや、ちょっと散らかってるし」

 おれはあせった。部屋に上げたりしたら、おれが一人暮らしだとばれてしまうではないか。

「あれ? 奥さん、お留守なんですか?」

「ああっと、実はそうなんだ。今、実家に帰ってて」

 とっさに出た嘘。

「へえ。実家って、どちらなんですか?」

 ええい、そんなこと、どうでもいいだろ。

「北海道。札幌なんだ」

 口からでまかせ。まずい。また覚えていなきゃいけない設定が増えてしまった。どおするよ。札幌なんて行ったこともない。

「そうですか。それじゃ、今日はここで。おじゃましました」

 野和田はぺこりと一礼し、回れ右して背中を向ける。

 そのままアパートの鉄階段を下りていくのかと思ったら、不意に振り返った。

「あの……」

「え? なに?」

 ドアを閉じようとしていたおれの手が止まった。なにか感づかれたか。

「いえ、いいんです。それじゃ、おやすみなさい」

 野和田が階段を下りる靴音を聞いて、おれは静かにドアを閉じた。

 ドアに背をつけ、深呼吸した。心臓が高鳴っていた。手のひらに汗をかいていた。

 びっくりさせやがって。

 時間がたつと、少し落ち着いてきた。

 なぁに、ばれちゃいないだろう。それに、どうせすぐ辞めるに違いない。気にするな。

 そう心に言い聞かせた。

 しかし、おれはこのときなにも知らなかった。野和田が何者かということを――。そして、これからおれの身にふりかかる騒動を想像することすらできなかったのだ……。


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