第一章 第三節「ホテル」
如月創は市内の最上級ホテルを見上げた。地上、52階建ての巨大なビルが天に向かってそびえ立っていた。彼は静かにたたずみ、中で過ごす人々の心を観察した。カジノに興じるもの。酒におぼれるもの。人を出し抜こうと画策するもの。自分の権益だけを守ろうとするもの。欲望と野望が渦巻いていた。
如月創の足元に、どころからか現れた黒猫が一匹まとわりつく。黒猫の体についた泥汚れが彼の白いパンツの裾を汚す。
「また、お前か」
彼は、黒猫の襟首をつかんで引き上げる。抱きかかえると白いスーツがとたんに泥で薄汚れる。彼は気にすることなく、そのままホテルの入り口へと足を運んだ。
ホテルのドアマンが如月創の姿をみとめて顔をしかめた。
「お客様。当ホテルではペットはケースに入れていただくのがしきたりでして」
如月創はスーツの内ポケットに手を入れると100ドル紙幣の束をつまみだしてドアマンの手に乗せた。
「気にしないで。チップだから」
ドアマンは、慌てて自分の上着を脱いで差し出した。
「大事なお洋服がこれ以上、汚れないように、これで子猫を包んで下さい」
「ありがとう」
如月創はドアマンの上着を受け取り、黒猫を包む。黒猫は気に入らなそうな顔をドアマンに向けると、爪を立ててガリガリと上着を引っかいた。ドアマンは頬を引きつらせながらも、ドアを開いて彼を招き入れた。自分の誇りである制服を楽しそうに切り裂く子猫を見てから彼に向かって告げた。
「ようこそ、当ホテルへ。ご用の際は何なりとお申しつけください」
如月創はドアを抜けてロビーを通る。3フロアー、吹き抜けのロビーには巨大なシャンデリアがぶら下がり、ふかふかの絨毯に靴底が沈んだ。置いてある家具や調度品は一目で高級なものとわかった。ロビーで出発の準備や待ち合わせをする着飾った人々が、彼のホテルには似つかわしくない東洋人の若すぎる顔と薄汚れた姿を見て顔をしかめた。
彼は気にとめることなくロビーの奥まで進みチェックインカウンターの前に立った。下を向いて作業をしていたフロントマンが顔をあげる。フロントマンは彼の姿を見ても動じずに笑顔を作った。
「ようこそお越しくださいました。お客様のご要望をうけたまわります」
如月創は黒猫を包んだドアマンの上着を抱きかかえたまま、スーツの内ポケットに手を入れた。100ドル紙幣の束を3回取り出してカウンターに積んだ。
「最上階のペントハウスをお願いします」
フロントマンは、瞬時に100ドル紙幣の束に目を走らせて偽物でないことを確認した。
「失礼ですが、ご予約は。ペントハウスは既に埋まっております。」
「不足ですか」
如月創は再び内ポケットに手を入れると同じ札束を三つ追加した。フロントマンはスーツの胸ポケットから湯水のように湧き出てくる札束をいぶかしみながら告げる。
「お客様。失礼ですが、このような大金を現金で積まれるのは不用心かと。当ホテルのお支払いはカードが基本です。それにお見受けしたところ、お客様は東洋系の国籍かと。パスポートか身分を証明するもののご提示をお願いしたいのですが」
フロントマンが笑顔を絶やさず説明をしはじめると、如月創の抱きかかえていた黒猫が胸の中で暴れ出した。