第八章 第三節「音楽の力」
コンサートホールではモーツアルトの交響曲、第四十一番が演奏されていた。如月創は、今まで音楽をノイズとして感じていた。音から情景を思い浮かべ、感情移入することの意味を理解していなかった。
前島麗華と共に曲に耳を傾ける。自然に涙がこぼれた。交響曲第四十一番はローマ神話の最高神ジュピターの異名を持ち、モーツァルト最後の交響曲である。図書館で知識は得ていたが、実際に人間の体で体験するのは初めてだった。
目を閉じると輝かしく荘厳な曲想が、ホール全体に響きわたっていく。ちっぽけで、身勝手で、欲望の塊のような人間たちの中から生まれたとはとても信じられなかった。曲の変化が心をゆさぶる。耳だけでなく、体、全体で曲が創り出すエネルギーを受け止めた。
ひじ掛けに乗せた手の上に、前島麗華の手の平が重ねられた。温かいぬくもりが伝わってくる。彼女の心臓が激しく鼓動しているのがわかる。如月創は彼女の横顔を見る。照明を受けて輝く濡れた瞳に魅了される。
「人間か」
如月創は小さくつぶやく。知的生命体にしては、はかなく短い命。すぐに壊れてしまうような貧弱な肉体。男女二人がそろわないと子孫を残せない不完全な生物。そんなものが愛おしく感じられる自分に驚いた。
「気に入ってくれたみたいね」
前島麗華が彼に顔を向けた。
「キミのことだから、ただのノイズだって言ってすぐに席を立つかと思ったけど」
「ぼくの心が読めるのか?」
「キミじゃあるまいし、人間に人の心を読む力なんてないわよ。ただ、感じただけ。女の子の直観ね」
映画にしても、小説にしても、音楽にしても。優れた作品を共にしたとき、人間同士が共感しあうと言う事象は学んでいた。そして、その能力は人間が未熟な生命体であることの証だと思っていた。今、その生物を目の前にして、如月創は言った。
「キミが美しく見える」
前島麗華の白い顔がみるみる赤くなっていく。
「やっと気づいてくれたのね。そう言うのをなんていうか知っている。鈍感って言うのよ」
「鈍感?このぼくが?」
「そう、鈍感。キミ、恋をしたことないでしょ」
「そんな曖昧な感情は下等動物の持つものだ」
「そうかな。私は、素敵なことだと思うわ」
そう言う彼女自身、恋などしたことがなかった。如月創と出会うまでは、一時の感情の高まりに流されることは無駄だと思っていた。
二人は椅子の背もたれに体を預けて、手をつなぎ、曲の流れに身を任せた。




