第一章 第一節「ワシントンDC」
ワシントンDCの上空、約6,000m。次第に弱まっていく光の中心に、白いスーツに身をつつんだ如月創が浮かんでいた。午後6時を回り、雲の上は夕焼け色に染まり始めていた。彼の足元の雲は、丸く切り取られたかのようにぽっかりと穴が開いていた。
雲間から首都ワシントンDCの街がのぞいている。厚い雲が光をさえぎり、初夏にしては早めの夜を迎えていた。街は無秩序に立ち並ぶ高層ビルの明かりと、まるで光る細菌が増殖したかのように複雑に絡まりあう道路とそこにつらなる車のライトで彩られていた。
如月創は雲の穴を抜け、街の空気を浄化する雨とともに街へと降りていった。雨と同じスビートで落下していく彼には、取り囲む無数の雨粒が静止しているように見えた。雨粒一つ一つに街の明かりが映り込んでいる。もし、彼の姿を見るものがいたとするなら幻想的な光景に心を奪われたことだろう。
如月創は古い高層アパートが立ち並ぶ路地裏に降りたった。彼が静止したため、一緒に落下していた雨粒が魔法がとかれたかのように落下した。頭上の雨粒は彼に降り注ぎ、まわりの雨粒は道路やマンホールのふたにはじき返されて彼の足元を濡らした。
アパートのゴミ捨て場の横で、薄汚れた黒猫が雨に打たれていた。黒猫は彼の方へ鳴きながら近づいてくる。
「ぼくを呼んだのはキミかい?」
如月創は白いスーツが汚れるのを気にとめずに、黒猫を両手で抱えあげた。
「キミの望みはなんだい。お腹いっぱい、食事をすることかい?」
黒猫は彼の目を見すえて鳴いた。
「なるほど。ぼくの考えと一緒だな」
黒猫はそれを聞くと彼の手から離れて、くるりと宙返りをして地面に降り立ち、アパートのゴミ捨て場へと帰っていった。
如月創は路地裏から大通りへと向かった。彼が大通りへ出ようとしたとき、背後から彼を呼び止める男の声が聞こえてきた。
「よう。にいちゃん。立派なスーツを着ているじゃないか。すこし、財布の中身をわけてくれないか」
如月創は声のする方へとゆっくりと振り返った。擦り切れたカーゴパンツをはき、汗と垢で汚れたシャツをきた男が彼に拳銃を向けていた。如月創は拳銃に気をとめることなく、白いスーツについた雨粒を手で振り払った。
「おっと。余計なことはするんじゃない。さっさと財布をよこせ」
男は彼の顔に拳銃を向け直して引き金に指をかけた。街路灯に照らし出された黒い髪に黒い瞳。女の子のような起伏の少ない顔立ちは如月創が東洋人であることを告げていた。男は困惑しながらも、
「ちっ。言葉がわからねえのか」
と吐き捨てた。
「わかりますよ。でもあいにく、財布は持ち合わせていないもので」
拳銃を向けられても落ち着きはらって答える如月創に、男はいらだちをおぼえた。
「つべこべいわずに金をだせ」
如月創はスーツの上着の内ポケットから、手品でも見せるかのように100ドル紙幣の束を取りだした。
「偽物じゃないのか?」
男が彼の黒い瞳を覗き込んだ瞬間、男の頭の中で異変が起きた。男の手が急に震えだし、額に脂汗が浮かぶ。拳銃が彼の手からすべり、道路へと落ちた。マンホールのふたに当たり鈍い金属音が路地へと響き渡った。男はうめきながら、両手で頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「頭がいてぇ。どうなっているんだ」
「脳の中に目玉くらいのダイヤをプレゼントしました。できるだけはやく病院にいって取り出した方がいい。手術の前金はこれで十分でしょう」
如月創は100ドル紙幣の束を、震える男の手に無造作に握らせる。そのまま、背中を向けてゆっくりと歩きだした。
「てめえ。ふざけやがって」
男は震える手で拳銃を拾い、如月創の背中に向けると、ためらうことなく引き金を引いた。拳銃は弾を発射することなく、彼の手の中で暴発した。
バン。
「いてえー」
男は右手を押さえてうめき出した。
「あ、ごめん。いい忘れた。その、物騒なおもちゃの口を塞いでおいたんだった」
如月創は何事もなかったかのように大通りへと歩きだした。いつの間にか雨はあがり、雲間から星空がのぞいていた。空気が雨にあらわれて星の瞬きがクッキリと見える。彼は顔をあげて、しばらくそれを見つめてから歩き出した。