プロローグ
成田国際空港発、ダレス国際空港行きのユナイテッド航空、UA804便は266人の乗客を乗せて、ワシントンDCの近郊を飛んでいた。ボーイング社製の大型ジェット旅客機、777型機は巨大な機体を着陸に向けて徐々に高度を下げつつあった。
アクリル製の窓にしがみついて夕焼けを眺めていた少年が、振り向いて隣に座っている母親の肩をたたいた。母親は前方の座席に取りつけられたモニターで、気だるそうに映画を見ている最中だった。母親はヘッドフォンをはずして少年の方に顔を向けた。少年は大きな声で彼女に告げた。
「ママ。雲の上に人がいるよ」
母親は慌てて少年の口を押さえてから、もう一方の手の人指し指を立てて自分の唇にあてた。
「シー。バカなことは言わないの」
少年は母親の手を振りほどき、窓の外を指さした。
「でも、ほら。あれ、人間だよね」
母親は雲かなにかを人間と見間違えているのだろうと思いつつも、窓に顔を向けた。100m以上離れているのではっきりとはしなかったが、青白い色の光に包まれて、人の形をしたものが雲のうえに立っていた。母親は長い間、飛行機に乗っていた疲れがそれをみさせていると眉間を指でつまんだ。
彼を包む光が、突然、強くなった。なにごとかと乗客たちが一斉に窓に目を向けた瞬間、光は二つに分裂した。そのうちの一つが機体を横切るように空をはしり、沈みかかった太陽に向かって音もなく飛び去った。機内が一瞬、まばゆい光に照らし出される。乗客たちのどよめきと悲鳴が客室にわき起こり、様々な言語が狭い空間をいき交った。
「なに?」
「雷?」
「爆発?」
「テロ?」
「軍用機?」
「UFO?」
乗客たちが一様に不安の表情を浮かべて見守る中、残ったもう一つの光は急速に輝きを弱めながら雲の下へと落ちていった。
「機長よりお知らせします。ただいま当機の近くでプラズマ現象が発生したとの報告がありました。自然現象ですので、当機の運航にはまったく問題はありません。当機はまもなくダレス国際空港への着陸態勢に入ります。シートベルトの着用をお願いします」
落ち着き払った機長の声は乗客を安心させた。
乗客の間から安堵のため息がこぼれる。客室乗務員も気お取り直して、なにごともなかったかのように乗客へのシートベルトの着用案内を始めたのだった。
777型機の大型の機体はゆっくりと機種を下げながら分厚い雨雲の中に入った。雨粒が窓を流れていく。少年はガッカリした顔を母親に向ける。母親は彼に向かって「もう騒ぐのはやめて」とばかりに二度ほど首を横に振った。彼女はヘッドフォンを耳に戻して、前席の後ろに取り付けられたモニターを見つめた。