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第二章です。ハイドラ攻略の鍵は……
フィレンツァの街の潜入偵察から衝太郎たちが戻って、一か月の時間が過ぎていた。
「衝太郎……衝太郎!」
「んぁ、あ、アイオリアか。ふぁぁ」
眠そうな顔を上げ、ようやくにも上体を起こすと大きなあくびを漏らす衝太郎。
「こんなところで寝たら風邪ひくわよ。だいじょうぶなの?」
「ああ、まあな」
「まあな、じゃないわよ。毎日毎晩、料理の研究で、ほとんど寝てないじゃない」
こんなところ、とは館の地下の厨房のことだ。
いまでは広間の一角に作ったオープンキッチンで、一部始終を見せながら料理できるし、料理しながらアイオリアたちと会話もできる。
しかしもともとはこの、あまり陽も射さず、冷たい厨房で、館中のすべての調理がまかなわれて来たのだ。
そしていまアイオリアに言われたとおり、このところの衝太郎は、この地下厨房に籠っていることが多かった。
「いま何時だ? 九時? やばい! マジで寝過ごした!」
飛び起きる衝太郎。
木のベンチに毛布を敷き、さらに毛布をかぶって寝ていたので、着ているのはいつもの学生服。その上に、胸まであるエプロンだ。
「寝過ごしたって、どこかへ行く用事でもあるの?」
「どこにも行かないさ。けど、こいつの……ぅん、問題ない!」
衝太郎は竈の前へ歩くと、近くに吊り下げてあった袋の中身を確かめる。ひもを開いて中身を見、匂いを嗅ぎ、指を入れて味を見る。
同じような袋や、甕も次々開けて、やはり最後に味を見て、うなずく。
「なぁに、それ? ハイドラのところから戻ってからずっと、料理もしないで、そんなことばかりやってるのね。この間は甲冑鍛冶になにか作らせたとか」
アイオリアが近寄る。不思議そうに袋や甕をながめる。
「こんなことばかりじゃないさ。昼間は外へ出てるし、街をあちこち歩いたり兵の訓練を見たり、さ」
「そうそう、工廠にもよくいるわよね。姿が見えないと思ったら、ここか館の外の工廠にばかり」
「ああいうところっておもしろいんだよな。ただの弓や鑓も、ちゃんと工夫があってさ。大勢が働いてるし、どれだけ見てても飽きないよ」
「見てるだけじゃなくて、あれこれ言ってるんでしょ。工廠長のダリウスが言ってたわよ」
「やべ! クレーム入ってたか」
「クレームじゃないわよ。ときどき衝太郎の言ってることがよくわからないって。でも新しいものをいろいろ作れておもしろいらしいわよ。なんの役に立つのか不安だ、とも言っていたけど」
アイオリアの話に、
「はははは! そうか、ダリウスさんが。そうかもな。でも楽しんでてくれるならよかったぜ。みんな理解力も高くて、工作の腕もすごいから、ついついオレもいろいろ頼んじゃうんだよな」
笑う衝太郎。だが声を上げて笑った反動か、
「ぅ痛ててて」
急にわき腹を押さえて顔をしかめる。
「どうしたの、衝太郎!」
あわててアイオリアが身を寄せる。衝太郎を支えて、顔を覗き込む。
「ぁあ。だいじょうぶだ。硬い床で寝てたんで、筋肉がこわばってたんだな。それだけだ。やっぱりラジオ体操くらいやったほうがいいかな、毎日」
「ラジオ、体操?」
「ああ。音楽に合わせてやるんだ。夏休みには、空き地でやってて、出席するとスタンプがもらえて、さ」
「よくわからないけれど、身体だけは大事にしてよね」
「おう。もうだいじょうぶだ。これからは軽い運動やストレッチもするようにする、よ、……って」
と、腕を上げて伸びをしていた衝太郎の言葉が途切れたのは、その背中にアイオリアが、ぴったりと身体を押し付けていたからだ。
「アイオリ、ア……?」
「だから、身体に気をつけてって、言ってるのよ。衝太郎にもしものことがあったら、どうしたらいいか……わたし」
アイオリアは衝太郎の学生服を握りしめながら、背中に顔までも埋めている。かすかに、震えていた。
「そうか、ごめん。心配かけたな。でもほんと、オレはだいじょうぶだ。マジでピンピンしてるって」
衝太郎が向き直ろうとすると、アイオリアが身を揺すって硬く背中にしがみつく。イヤイヤをするようだ。
「そんなの、わからないもの。元気そうでも、とつぜん倒れるかもしれないじゃない! そんなの、イヤだから。イヤなんだから、ね!」
拗ねるように言うアイオリアに、
「わかったわかった。マジ気を付けるからさ。な! だから機嫌直せって」
「機嫌悪いわけじゃないもの! 怒ってるわけじゃ……」
「じゃあ、まあ、とにかく、さ」
衝太郎が背後へ手を伸ばす。
アイオリアが後ろを向かせてくれないので、手だけでアイオリアを探る。その腕に触れて、
「オレはこの街が大好きなんだ。この館も、リュギアスの国も、みんなも、な。異世界から来たオレなんて、いつ路頭に迷っても、くたばってもおかしくなかった。それを受け入れてくれて、役目も与えてくれた。生きがいって、オレ、ここへ来て初めて分かった気がするよ」
「衝太郎」
「嫌いだった料理も、いまはこんなに楽しい。料理を作るのも、どんな料理を作ろうか、工夫しようかって、考えてるだけで楽しくてたまらないんだ。こんな気持ちになったのは、ほんと、小学生のころ以来でさ」
話すうち、しがみついているアイオリアの手から力が少しずつ抜けていく。
(よし……)
間髪いれず衝太郎は、くるっ、と背後へ向き直ると、アイオリアの手をくるむように両手で握って、
「アイオリア!」
その瞳を覗き込むほど顔を近づける。
衝太郎のほうが背が高いから、若干見下ろすように、もうあと一センチで鼻の頭どうしが触れ合いそうな、そんな近さ。
「えっ! え、ええっ、ぁ、あ……!」
こんどは逆のベクトルで固まるアイオリア。
みるみる頬が染まる。まっすぐ見つめる衝太郎の目を、受け止めようとして、できなくて視線を逸らし、汗までが滲んで来る。
アイオリアの肩を両手でつかんで、衝太郎が、
「頼みがあるんだ、アイオリア」
「は、はい! え、と、きっと、だいじょうぶ、だから」
「ぅん? だいじょうぶって」
「だ、だから! たぶん、ぜったい、その、衝太郎の言うことは、断らないって、いうか、お、オーケー、だから、遠慮しないで、言ってほしい、の。も、もし、言葉じゃないなら、そっちも、その……!」
そこまで言うとアイオリアは、意を決したようにまぶたを閉じる。
震えながら顔をわずかに上向け、なにかを待つように、沈黙し続ける。
「アイオリア?」
衝太郎が聞いても返事はない。ただ睫毛が震えて、さっきまでキュッ、と結んでいた唇がやわらかくほぐれるように、かすかに開いて……、
「衝太郎、アイオリア! ここだったか!」
そこへ、バーン! と勢いよく開かれる地下室の扉。
大きく直された扉でも、きゅうくつに身体を曲げながら入って来たのは、
「ケルスティン!」
衝太郎が声を上げる。
ケルスティンも応えようとして、しかし、厨房の中、つまり衝太郎とアイオリアの姿を見て、固まった。
「そ、そなた、たち」
「ぇ……あっ、ケルスティン!? きゃ、きゃああああっ!」
ようやく気付いたアイオリアも、目蓋を開き、なぜか悲鳴を上げる。
それが引き金になったように、
「な! なにを、している……いや、吾が、おじゃまのようだな。し、失礼した!」
こっちも顔を赤くすると、きびすを返す。
急いで出ようとして、
「ぎゃっ!」
ドアの縁にぶつかる始末。
「お、おい! ケルスティン! なんか誤解してないか、おーい!」
あわてて追いかけようとする衝太郎を、
「ちょ、ちょっと! 衝太郎! 誤解ってなによ! ちゃんとわたしに話を……話、でなくてもいいけれど、まだ終わってないでしょお!」
ぐいっ! 腕を取って強引に引き戻すアイオリア。
それはもう、そこだけ異常に強い力だった。
「あ、ああ。そうだったな。じゃあ……こっちへ来てくれ」
アイオリアをうながすと、衝太郎が歩み寄ったのは先ほどのかまどの側。吊るしてあった袋のヒモを緩め、中にスプーンを突き込むと、
「飲んでみてくれ」
取り出してアイオリアへ。
「えっ、うん」
飲む、というよりなめる程度だが、アイオリアは口に含むと、
「ぁ……これっ」
目を見張る。
「な。じゃあ、こっちはどう」
次に衝太郎、こんどは甕の中へ別のスプーンを入れ、やはりアイオリアに渡す。
「ぜんぜん、違う。こっちは香りが……」
「そうだよな。うん。じゃあ、こっち」
なおも別の甕を試そうとする衝太郎に、
「ね、ねえ! さっきの頼みって、まさかこの、味見のことなの?」
「ああ、うん。まだまだあるからさ。ちょっと手間だけど、全部味見して意見を聞きたい……ぁ? どうしたんだ、アイオリア」
衝太郎の前で、アイオリアが急にうつむき、顔が見えない。だがどうやら、震えているようでもある。
「なんだ? 震えて、寒いのか」
気遣って衝太郎がその肩に手を置こうとした、その刹那、
「衝太郎のぉぉ、バカぁぁあああ!」
地の底からわき上がるような声とともに、腰のしっかり入ったパンチが、衝太郎のボディーを襲う。
「げふ!」
思わず崩れ落ちる衝太郎。幸い急所は外れていたが、とてもテンカウントでは起き上がれそうにないダメージだ。
その衝太郎をしり目に、
「ふんっ!」
思い切り派手に踵を返すと、アイオリアは地下厨房の扉をくぐり出る。カッ、カッ、踏みならすような踵の音が響いて、しだいに遠くなっていった。
「な、んだよ。身体大事にしろって、言ったばかりで、おー、痛てて」
ようやく身を起こす衝太郎。
殴られた腹をさすりながらも、
「よかった。甕は割れたりしてないな。どれ……」
早くもまた、作業に戻っていく。
ヘビといったらやっぱりアレ?