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戦いは戦わずして勝つのがいちばんいい、たしかに
「……あちきがおぼえているいちばん昔の景色は、水の中から見た、皇帝陛下のお姿でありんした」
コポコポ……。
ときおり立ち上る泡が裸身をくすぐる。
ハイドラはまだ幼さの残る身体を丸めるように、両膝をかかえながら水の中にたゆとうていた。
水はあたたかく、波も渦もない。動きがない代わりに、つねに循環し、清潔に保たれていた。
ただの水ではなく、さまざまな薬物が含まれているのは知らなかったが、呼吸するようにこの水を取り込み、また無意識に排出するだけで、ほぼ生きて行くだけの栄養素やエネルギーが摂れることは、ずっと水槽にいて、そこから出たことがない幼いハイドラも本能的に気付いていた。
他にも水槽はいくつもあって、ハイドラからも見えた。その中に何かがいて、ハイドラのように動いているのも。
不思議と怖くはなかった。
きっと自分と同じような、友だちのようなものだと思った。
友だちと話したり、遊んだりできないのが残念だった。
ときおり、ゆらりと近づいて来る影が、特別なものだというのもわかった。
それはハイドラを覗き込み、話しかけて来た。
一日に何度も。何回も。
『ハイドラ、元気に育つ我が子、我が娘よ。大きくなって、強くおなり。強くなって、わたしのために戦っておくれ。わたしの分身、ハイドラ、わたしの手脚となって、わたしのために、はたらいておくれ。わたしのために、生きて、わたしのために死んでおくれ。ねえ、ハイドラ……』
繰り返し、投げかけられる言葉。
それはハイドラの胸に、脳裏に、地層のように積り、刻まれていった。
動かすことのできない確固たる核となった。
それからしばらく、ハイドラの記憶は途切れる。
「気がついたら、あちきはフィレンツァの国に、ラヴェニスの街におりんした。ラヴェニスの城の奥深くに、多くの侍女や衛兵や将軍たちにかしずかれて、市民たちに歓呼で迎えられて、それが当然のように、そこにいたのでありんす」
衝太郎やアイオリアは、顔を見合わせ、うなずく。
ケルスティンのときと、ほぼ同じだからだ。
いまでは仲間のケルスティンだが、それ以前、ドルギア国を率いる王だったころは、何度もリュギアスに挑んできた。
そのケルスティンが敗れたのち、同じようなことを衝太郎たちに話していた。
(やっぱり、あれは洗脳みたいなものだったんだ)
ハイドラの話で、確信に変わる。
そしてその洗脳を解いたのは……。
「なんでなのか、いまではわかりんせん。こんなふうに昔のこと、皇帝陛下のことを口にするのも、以前には考えられないことでありんした。それが、どうして。あの酒……いんや、あの料理、卵の……ううんまかさ、オムレツを食べてあちきが夢のような心地から醒めただなんて」
「そうよ! いいえ、そうなの! 衝太郎の料理には、すっごい力があるんだから! 変な呪縛とか拘束とか、衝太郎の料理を食べて、美味しいって感激して! そうしたら、解けちゃってた、ってこと、ほんとにあると思うから!」
息せき切ってアイオリア。
ちょっと驚いたように、しかしハイドラも、
「そうかもしれんでありんすなぁ。あれだけこのリュギアスを、リュギアを落とさなくては、そんな猛りがウソのよう。いまはそれでも、たとえ戦が負けであっても、こんな得体のしれないあちきでも慕ってくれた、つき従ってくれた兵たちの民たちのために、せめて無傷で帰してやりたい、家族のもとへ届けたいでありんす。ただ……」
「ただ?」
「あちきはあの湖を長く泳いで、思ったでありんす。船が多く、無秩序で、ときに積み荷を大量に投げ捨てたり、ゴミまで」
「商人たちの船ね。たしかに、問題にもなっているわね。船どうしでケンカしたり、ときに何隻かで戦争まがいなことも」
アイオリアが同意する。
「底引き網で根こそぎ魚を採って、湖の底をめちゃくちゃにしたり、網を捨てたり……そういうこともあちきは糺したかったのかもしれないで……」
「そうね。いずれ対応しなくてはと思っていたのよ。でも戦い続きで、つい先延ばしに……」
「やればいいじゃないか」
衝太郎の言葉に、驚くふたり。続けて、
「商人たちの乱暴も、乱獲やゴミの不正投棄も、ほおっておいたらこの街や、リュギアスの発展の障害になる。真面目な商人たちが迷惑して、ほかへ行ってしまうだろ。資源の乱獲も問題だ」
「そうは言っても、まだ戦いの決着も」
「戦いは、終わったでありんす……」
「だからさ。戦いは終わった。リュギアスとフィレンツァの戦争は終わったんだ。条約を結ぶんだよ、お互い正式に」
「条約?」
「ああ。湖のこっちと向こうで、条約を結んで決まりを守らせれば、不正を行う商船を締めだせるだろ。そうだ。これを講和の条件とする!」
衝太郎が言った。
「講和の」
「条件に、でありんすか」
こんどはアイオリアとハイドラが顔を見合わせる。しかしどこにも拒否する理由がない。そう思えると、自然とうなずいていた。
「決まりだな! 講和条件、成立だ!」
これこそ、リュギアスとフィレンツァ、どちらにも不利のない、どころか、どちらにも益のある講和だった。
懲罰や、相手を辱める、貶めるのではない。
リュギアスはもう戦争が起こらなければそれでいい。フィレンツァから賠償を求めることもない。
今後フィレンツァが協力して、湖の平穏や秩序が守られるなら、リュギアスにとっても大きな利益となる。
同時に実感する。
(戦いが、終わったんだ)
フィレンツァ戦役は、もっとも納得のいく形で終わりを告げたのだと。
「衝太郎! やっぱり衝太郎はすごい! こんなふうに戦いを治めてくれるなんて、想像もしなかった。言われたとおりに準備をして、きっとだいじょうぶだって思ってたけど、でもやっぱり不安で」
「ま、まあ、な」
「わたしが人質に、って言われたときには、無事で戻ったらぜったい仕返ししてやる! いじめてやる、って、思ったのに」
「おいおい」
「でもあんなにお酒を作って、料理を作って、ハイドラの」
「ええ、あちきの気持ちの芯までも、変えてしまった……変えてくれたでありんす。笹錦衝太郎、不思議な男でありんす」
ハイドラが手を伸ばす。
衝太郎の頬に手で触れ、軽く撫でる。
「ちょ! っと、なにさわってるのよ! 講和条件にそんなの、入ってないんだから、ね!」
激するアイオリアに、涼しい顔でハイドラ、
「あちきは忘れない、忘れられない男になったでありんすよ、衝太郎」
「お、おう」
いっしゅん退く衝太郎だが、持ち直して(気を取り直して?)、
「ハイドラもな。いい女だぜ」
「! 衝太郎!!??」
こんどこそ、驚きのあまり言葉を失うアイオリア。輝く金髪が逆立ち、目は見開いたまま震え、涙までがこぼれて来そうだ、
「あちきを、いい女と」
「そうさ。いい女ってのは、酒の呑みっぷりがいい女だ。それと頭がよくて決断力がある。大きなことのまえには、小さなことは気にしない。結果、いちばん大きな利益を得る。どうだ。ハイドラがいい女だから、オレたちも交渉をまとめられた」
「衝太郎……」
「な、なぁんだ。そういうこと、いい女って……もう、驚かせないでよね、ふぅぅ」
と、こっちは胸の動悸を抑えきれないアイオリア。
「アイオリアもいい女だぞ」
「ええっ! わ、わたし」
「アイオリアじゃなかったら、リュギアスは守れなかった。国を治める者として最高だよ。最高の王女だ。オレが最高に好きな……」
「ふぇえ!? も、もうやめて! 急にそんな、好き、だなんて、こんなところ、で……無理無理! け、結婚なんて……」
「は? オレの最高に好きな国を守ってくれてって、そういうことで」
だが衝太郎の言葉は、真っ赤に発熱したアイオリアにはどうやら聞こえていないらしく、膝からくずれてしゃがみ込んだまま、頬に手を当てて首を振っている。
そしてハイドラ。
「衝太郎、いずれまた会うでありんす」
そう言うと、きびすを返す。侍女たちが前後を守るように取り囲む。
広間を出ようというところで振り返り、
「それから、ひとつだけ言っておきたいことがありんす」
「なんだ」
「なによ、まだいるの? 早く行きなさいよー」
「あちきは年増じゃありんせん。まだ十九でありんす」
それだけ言うと、かぶりを振る。濃緑色の、長いウエービーヘアが揺れ乱れ、大きくたなびく。
いったん離れる、と見せて、
「衝太郎!」
いっきに衝太郎に近づくハイドラ。ヘビの腹鱗を使った、素早い移動の技だ。衝太郎の手を取って、
「あっ! こらぁ! 離れて!」
例によってアイオリアが憤るが、
「な、なんだ、ハイドラ。まさかまた」
「そんなんじゃありんせん。もう戦は終わったと言ったはず。それより……あちきの水軍、衝太郎、あんたに預けるでありんす」
それを制してハイドラ。しかしその口から出た言葉は意外を通り越していた。
「あずけるって……」
「ガンティオキアの水軍を担う我がフィレンツァ水軍、どこの水軍にも引けを取るものではありんせん。この水軍、あんたに采配してもらいたいでありんす」
「だが、オレは水軍なんて」
「見事に打ち破ったではありんせんか。それも、ひとりも殺さずケガもさせず、一網打尽に。そんな衝太郎、あんたなら、どんなふうに我が水軍を動かすか、傍で見て見たいでありんす」
「ハイドラ……」
「楽しみにしているでありんすよ。ふふふ……ホホホホ!」
それだけ言うと手を話す。
ハイドラは笑いながら、こんどこそきびすを返し、腹鱗を使ってまっすぐに、ゆっくりと遠ざかって行った。
残された衝太郎とアイオリア。
「……驚いた、な」
「あれで十九。あたしよりふたつ年上なだけだなんて」
「そっちかよ!」
たしかに今日、いちばんの驚きだったかもしれない。
「……戦は終わりか。ふむ。吾の剣も、今回は出番がなかったようだ。もっとも、そのほうがよいのだが、な」
「はい」
埠頭のケルスティンとジーベ。
封鎖の解かれた港の出入り口から、次々出て行くフィレンツァの船を見送っている。いちおう、おかしな動きをするものがあれば、すぐに対処する手はずだ。
しかしそれもなく、最後の船が出て行くころ。
「姫さまが! 衝太郎さまも!」
フィーネが声を上げて、指さす。
すでに朝日が昇っていた。
まぶしい光の中、アイオリアと衝太郎が手を振っている。
笑顔が見えた。
ハイドラ「攻略」のために衝太郎が作った何種類もの蒸留酒は、そのレシピが民間に下げ渡されて、多くの新しい酒が店に並ぶもととなった。
しかしもっとも大きかったのは、純度の極めて高いアルコールが消毒の役に立つことが知らされたことだ。
衝太郎はアルコールを消毒用として医療に現場に積極的に広めた。それは軍の医療部隊の充実ともなって、リュギアス軍を側面から強化した。
「そんなの、使わないに越したことはないけどな。大きな戦いが起こらない、起こさないように……オレたちががんばる役目はそこなんだ」
純度の高いアルコールは消毒にも役立ちますよね