6
戦争は始めるより終わらせるほうが難しい、という
「寝てるな。こりゃあ、寝落ちだ」
顔を見合わせる衝太郎とアイオリア。
どうやら次の戦略は、ハイドラが寝落ちから目覚めるのを待つよりなさそうだった。
それから、約二時間ののち……。
「……うぅ、う」
「よぉ、起きたか」
ハイドラが顔を上げる。身をもたげると、肩から毛布がすべり落ちた。
「ここは……さっきの、広間でありんすか」
その言葉のとおり、場所は変わっていない。オープン厨房のある広間。そのソファーに、ハイドラは寝かされていたのだ。
周りには四人の侍女たちが、いちおうは侍っているものの、こちらも緊張はしていない。少し離れたところの椅子では、やはりアイオリアが目を覚ましていた。
「二時間近く、寝てたんだぞ。アイオリアもつられて寝ちゃったよ」
「わたしは……まぁ、そうみたいだけど、んんー!」
ちょっとはにかみながらアイオリア、まぎらわすように、大きく伸びをする。
ようは、ハイドラが酔って寝落ちしてしまったため、その間全員も休憩、休戦となったのだった。
「いったい……ぅう」
ソファーから起き上がろうとして、ハイドラが顔をしかめる。
「二日酔いか。まだ二時間しか経ってないから、二時間酔いかもな」
笑う衝太郎に、
「そんなヤワなものではないでありんして……」
「ほら、飲めよ」
といって、厨房の中から衝太郎が差し出したのは、大き目のコップになみなみと注がれた冷たい水。
「い、いただくでありん、す……んっ、んく、こくっ、こくんっ!」
たちまち、喉を鳴らしてハイドラが飲み干して行く。
すっかりコップを空にして、
「はぁー」
「もっと飲むか。ほら」
お代わりまで。けっきょく三杯も飲んで、
「もうじゅうぶん。すっきり、しゃっきりしたでありんすよ。頭も、腹の中も」
すがすがしい表情に。
もともと、アルコールを分解するという意味で、体質的に酒には強いのだろう。
「けど初めてのウォッカをあれだけ呑んで、大したもんだ」
「なにほどのものでもないでありんす。それより、さっきからなにをやっているでありんすか」
ハイドラが目を向ける。衝太郎が、厨房の中でせっせとやっていること。
「ぅん? ああ。酒とつまみ程度で、小腹が空いたんじゃないかと思ってさ。その用意だよ」
さっきからずっとフライパンを磨いていた。
「小腹が? ……そう、かも」
無意識に、お腹を押さえるアイオリアに、
「アイオリアの分も、もちろん作るよ」
「ちょ、そういうことじゃない、けど……うん、願い」
考えてみれば、アイオリアは酒はもちろん、肴も食べていない。ナッツなどを少々つまんだだけだ。
「ちょっと待っててくれ」
そう言いながらも衝太郎、いっこうに料理を作り始める気配がない。
いつもならば、食材を切る、調味料などでソースを作る、など進めていく過程がまったく始まらない。
「何を作るの、衝太郎」
尋ねるアイオリアの疑問がわかったのだろう、衝太郎、
「だいじょうぶ、食材ならほら、もう準備できてる」
と見せるのは、ボウルに入った、
「卵……?」
鶏卵だ。十個はある。
「鳥の、卵でありんすか」
ハイドラも少々困惑気味だ。
「まあ、見てろ。さて、もういいか」
ようやくフライパンを布巾で拭くのを止めた衝太郎。
卵をいったん取り出すと、そのボウルに次々割り入れていく。全部ではなく、六個ほど入れると、
「こんなもんかな」
泡立て器でいっきにかき混ぜていく。シャカシャカ、トポトポトポ、コポッ、白身と黄身が混ざり、空気が入ってクリーミーな黄色の液体となる。
「あまり切り過ぎ、混ぜすぎると腰がなくなるからな」
泡だて器を持ち上げて、垂れ落ちる卵液の粘度を確かめると、軽く塩コショウ。
続いてフライパンをコンロの火にかける。油を小さじですくい、フライパンの中に伸ばしていく。
「よし」
温まった油が小さく跳ねる。火からフライパンを遠ざけて、ボウルから卵液を半分ほど流し入れる
ザァァァ、ジャァァ……。控えめな焼き音とともに、香ばしい香りが立ち上がる。
フライパンを満たした黄金色が、たちまち端から固まって行く。
「わぁ~」
見ていたアイオリアが声を上げる。顔を寄せる。
衝太郎はなんどかフライパンを回して熱を均等にいきわたらせると、フライパンの柄を握っている右手の手首に、左手の手首をポンポンと乗せるように叩く。
フライパンの中の半熟卵が震えるように踊る。巧みに片側が持ち上がり、それが折りたたむように巻き込まれて、
「ほぉぉ、上手なものでありんすなぁ」
ハイドラも見つめる中、きれいな紡錘形のオムレツに整った。
「できた! あったかいぞ。さあ、どうぞだ!」
フライパンに皿を伏せてひっくり返し、皿にオムレツを移す。
ふっくらと薄い黄金色のオムレツが、フカッ、パフッ、ところどころ卵の匂いの湯気を噴き出していた。
「これを、あちきが」
皿を受け取りながら、まだ戸惑うハイドラ。
「でもハイドラって、生魚しか食べないのよね?」
アイオリアもいぶかる。
「そうかな。食べられなかったり、まずかったら、止めていい。だから気楽にひと口、どうぞ、だよ」
衝太郎に言われ、スプーンをオムレツに差し入れるハイドラ。ムニュ、プルッ、適度な弾力とともに、オムレツが割れる。
またも立ち上る湯気。トロッ、と溶け出る卵。
「まだ焼けていないところもありんすか。これが……んっ、んくっ」
とうとうスプーンを口に運び、ひと口。含んで、それまでの警戒が安堵に変わる。飲み込んで、
「ほっ……なんというか、やわらかくて甘くて、あたたかい……」
ハイドラの顔が、和む。
目を閉じて、口の中の卵を味わう。
飲み下し、また次へ、とスプーンを伸ばす。
「美味しそう、すごく……」
「ほら、アイオリアの分も、できたぞ」
続けてふた皿目を作っていた衝太郎。できたてのオムレツをアイオリアが受け取り、待ちきれないようにスプーンでひと口。
「ぅう~ん、ぁあ……なんだかすごく、ホッとするの。やさしくて、繊細で、羽みたいに軽くて」
夢見るような心地、そんな表情でオムレツを次々口へと運ぶアイオリア。
「よかった。よろこんでくれて。ハイドラも、さ。こいつはほんとのプレーンオムレツで、調味料も最小限だ。あとは卵のうまさだけ。ほとんどなにも加えない分、えらく繊細だから、フライパンは念入りに拭わなくちゃならないんだ。油もいいものを少し、だな。火加減は強すぎず、焦がさないように」
「でも、でありんす。あちきがこの卵を食べられるとなんで思ったでありんすか」
ハイドラの問いには、
「ヘビだから、だよ」
「そんなの見れば……それにハイドラは、ウミヘビよ」
「そこさ。ウミヘビは海生に特化したヘビだけど、魚類とは違う。ウミヘビって言われるものの中にはウナギの仲間もいて、そっちは魚類だけど、ハイドラはそうじゃない」
「あきちはウナギではありんせん」
「ああ。しかも水の中だけじゃない、というより泳ぎが達者な、もともとは陸ヘビのほうなんだよな?」
衝太郎の言葉に、あっ、という表情になるハイドラ。
「なぜ、それを」
「平気でふつうのレストランで食事してたじゃないか。オレたちを追いかけて、壁まで登って来た。腹板が丈夫で、腹鱗でも移動できる、陸のヘビじゃないと無理だ」
ふつうのヘビのうち、ニシキヘビなどは腹筋の力が強く、腹のウロコを立てたり寝かせたりして真っすぐにも進める。
身を大きくくねらぜ、蛇行する動きにしても、地面と絶えず擦れる腹板の強さは必要だ。つねに水中にあるウミヘビでは、それがない。
衝太郎は観察し、答えを出していた。
真のウミヘビならばヘビ体が完全に乾燥するほど陸上に留まることはしないはず。
「陸の、というかふつうのヘビなら、好物は……」
「あ、卵ね!」
アイオリアの言うとおり、鳥の巣を襲って卵やひな鳥を食べるのはヘビなら知られた行動、習性だ。
「なるほど。そうでありんしたか。水の中が得意で、魚ばかりをいつも食していたのに、この卵の匂い、どこかなつかしくて、夢中で食べてしまったのはそういうことでありんしたか」
ハイドラ自身も気付かない、初めて知った自身の特性、とも。
納得したのか、ハイドラ、続けて、
「それに……強い酒のあとで、このやさしい味。口の中も胃袋も、やさしくいたわられているようで、実際、こころもちもよくなって……衝太郎、おまえさまの料理に、あちきは負けたのかもしれんせん」
閉じていた瞳を向ける。
そこに敵意はなかった。口元は、ほころんでいる。
「料理に勝ち負けはないさ。楽しんで、美味しく食べてもらえたら、オレはうれしい。食材もむくわれる。それだけで」
「食べたほうも、しあわせになる。そうよね! ……このオムレツ、ええ、平和の味がする……」
アイオリアが言うと、
「ほぉん。くやしいけど、そこの王女に同意でありんすえ。ほんにこの卵料理、なぜだか昔のことを思い出す、よう、な……くっ、ぅぅぅ」
最後のひと口を頬ばり、ハイドラがそう言うと、とたん、硬直したように顔を強張らせる。
スプーンが、床に落ちる音が響いた。
「ハイドラさま!」
「御前さま!」
侍女たちが集まる。よろけるハイドラを支える。同時に短剣を抜き、衝太郎とアイオリアに、いつでも飛びかかれるかまえをとる。
「止めろ! おい、だいじょうぶか、ハイドラ!」
厨房から出て、ハイドラのもとへ歩み寄ろうとする衝太郎だが、侍女のひとりに阻まれた。
「ハイドラは……これって、ケルスティンのときも」
アイオリアがつぶやいた。
そのとき、
「ぅぅう……は、ぁあ、あ! もう、よいでありんす。あちきは大事無い」
身を丸め、まだ震えの残る身を立ち上がらせると、不思議とハイドラはすっきりと曇りのない笑みを見せる。
すぐに顔色も回復し、いままで以上に張りと艶の増した表情で、
「なにやら、いままでのもやもや曇っていたところが晴々したようでありんす。つっかえが取れたと言うか、ぅうん、なんでそんなことにこだわっていたのか、どうでもよくなったというか」
「ハイドラさま、ご無事で!」
侍女のひとりが涙目で見上げると、その髪をくしゃくしゃと撫でながら、ハイドラは抱き寄せた。
「そうか。よかった。うん。よかったな」
衝太郎。アイオリアは、
「やっぱりなのね、衝太郎の料理を食べて、なにかが変わるの。ううん。食べるまえも、食べている間も、その片鱗はあるのだけれど、最後の一歩、ひと押しが……」
「なに言ってる? アイオリア、そうだ。ところで戦はどうなったかな」
不意に衝太郎が言い、
「そんなの、ここでわかるわけ……そうね、いまごろケルスティンが、きっといいようにしてくれているわ」
アイオリアの言葉には、戸惑いながらも確信がある。
「なんとな。戦はまだ始まっておらぬでありんすよ。あちきが合図をしなければ、船は動かないでありんす」
「そうそう。始まるまえに終わらせないとな。やらなくてもいい戦なら、犠牲は出ない方がいい。そこんところは……ぅん?」
衝太郎が言い終わるまえに、入って来た者がある。
「フィーネ! どうなの? 戦況は!」
「はい、姫さま。船長たちは、もう」
そこまで言って、ハイドラの姿に言葉を途切らせるフィーネ。
「どうなったというでありんすか。まさか……」
「みんな無事だよ。そうだろ?」
「は、はい。いまはケルスティンさまが港を封鎖して、フィレンツァの軍船はハイドラ、さまの指示をまっています。ハイドラさまとアイオリアさまが、その、交渉中、だと、言うことで」
「なんと。交渉中とな。これが、交渉でありんすか」
「そういうことだ。そのうえ、仲直りの晩さん会だぜ!」
どうやら交渉は成功、したようで